織田哲郎
3月にYouTubeで配信がスタートした織田哲郎の「オダテツ3分トーキング」が好評だ。これまで織田が提供した楽曲の制作背景の秘話や、ポイントトークなど、本人が生演奏も交えて紹介していくという、3分という短い時間ながら非常に濃い内容の、しかし気軽に楽しめるコンテンツだ。そして12月には「3分では短すぎる」というファンの声に応えて、この番組のスピンオフリアルイベント版、「オダテツ90分トーキング」が渋谷LivinRoomCafeで開催されることが決定した。このイベントについて、そして稀代のメロディメーカーのヒット曲というものへの向き合い方などをロングインタビュー。ヒット曲請負人の頭の中をのぞいてみたい。
――YouTubeの「オダテツ3分トーキング」は、ポップス好きにはたまらない番組で、音楽の仕事に携わっている人にとっては刺激的な内容で、少しマニアックな部分もありつつ、そこがまたいいですよね。
そう言ってもらえると嬉しいですね。あの番組は基本的に制作に関係する話が多いじゃないですか。だからたくさんの人に楽しんでもらえているのか心配でしたが、よかったです。
――これまでインタビューでもあまり話してこなかったようなことも、あそこでは聞けます。
例えば何かの曲について、その曲がリリースされた時、作曲した僕に取材が来ることはなかったですからね。だからそういう意味では、今までしゃべってこなかったことも、あの番組ではしゃべっています。
――ご自分でも振り返るいいきっかけというか、改めてその曲と向き合う時間になっている感じですか?
そうですね。それはいいことだと自分で思うようにしていますが、たまたまやってみたら面白くて、「夕刊フジ」でも同じコンセプトの連載を始めて。本来はあまり昔のことに興味がないタイプで、こういう形でたまたま振り返りシリーズをやっていることで、そういえばこうだったなあということを、思い出しています。今はそれをやるべき時期だからやっていると思いますが、やるとしんどいこともいっぱいありますよ(笑)。
――織田さんの曲は耳にしたことがあるけど、曲の制作秘話が聞けるという滅多にない機会ですし、織田さんの音楽をリアルタイムで聴いてこなかった人にも届いていると思います。そういう意味では、どんな音楽でも、いつの時代の曲でも、気軽に聴ける今のリスナーの環境にはぴったりの番組ですよね。
そうですね。それがいい時代なのか、そうじゃないのかはわからないですけどね。リスナーの音楽の聴き方が変化したことは確かですね。ただ自分としては、あの時代に育ってよかったなって思うことの方が多いです。
――それはどのようなところでしょう。
やっぱり、番組でやっているように、制作過程から何から全部知ることができるというのは、すごく知りたい人間にとってはありがたいことかもしれないけど、危険ですよね。自分の作曲家としての脳が一番鍛えられたのは、たぶん高知に住んでいた、高1の時だと思います。なぜかというと、あの時は本当に音楽を聴くことができなかったからです。というのは当時は寮に入っていて、リスニングルーム以外で音楽を聴くのはご法度という感じだったんです。当時はもちろんネットなんてなかったし、自分のカセットテープをこっそり聴くしかなかった。ラジオも高知って当時はNHKしか聴けなかったなかったんじゃないかな?とにかく音楽を聴く環境がないから、自分のカセットを聴くしかないんです。同じものを聴き続ける方が、学習できることってすごくあるんですよね。
――なるほど。
一番聴いたのはサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970年)というアルバムで、どの部分でどの楽器が出てくるということまで、記憶しています。結局それがアレンジ能力に繋がってくるわけです。こういうところでこういう音がこうやって出てくると、興奮するよねって、何百回何千回聴いてるものが実体験として、脳に叩き込まれている。そうやって同じものを聴き続けるってこと、例えば野球でいう、素振りとか基本のフォームを作るというような部分は、やっぱり重要だと思います。今はたくさん面白いものが次から次へと出てきて、追いかけ切れないですよね。
――ある意味それが反復練習のようになっていたんですね。
それと、あまり音楽が聴けない環境にいると、妄想をするんですよ。例えばエレキギターをどうやって弾くかがよくわからないから、自己流でやっていると、よくわからないコードを弾いていたり、そのクセが残っていたりして。でも、だからこそできる動きというものもあって。もっと言うとハードロックが生まれたのも、アメリカからブルースがイギリスに渡って、イギリスのミュージシャンが「こんなんじゃね?」っていってやっていることが膨らんで、ハードロックになっていったんじゃないかと思うんですよね。もしかしたらローリングストーンズも、今の時代だったらYouTubeを見て、そのまんまブルースをコピーして気に入ってしまっていたら、あの音楽は生まれなかったわけで。だから何かの勘違いが色々なことに繋がっていくということもあるだろうと。ただ、それがよかったという話ではなく、今は今で、コンテンツを選択する能力、取捨選択する能力が必要とされる時代なんだと思います。
そこに関しては、相当打率が高いと思います(笑)
織田哲郎
――織田さんの血となり肉となっている音楽の原点があって、それを駆使しながら、1990年代はヒット曲を量産していたと思いますが、あの時は、創造の源泉が枯れて、出てこなくなるんじゃないかという不安を感じた事はありましたか?
もう曲が出てこなくなるんじゃないかという不安には、やっぱり20代の頃から何度も襲われました。頑張ってアルバムを作った後は、何も出なくなる時ってあるわけで。そういう意味では、30歳を超えてからは、そんな不安に苛まれても、『どうせまた出てくるよね』って思うようになりました。あと、実は皆さんが思っているほど量産していないんですよ(笑)。目立つシングルが多かったという時代で、あれしか書いていないからです。それよりも、20代の頃、アーティストからアルバムを請け負って、曲を全部書いていた時の方が、量産はしていました。その時は、逆にこんなことやっていたら消耗しすぎてダメだなと思って、その後は納得のいくものだけ、当時はシングルですよね、パワーのあるシングルを作るので、納得のいく売り方をしてください、そうじゃなければ曲を返しください、というスタンスでした。
――92年、93年は織田さんの作品がランキングを独占している時代でしたが、実は87年頃の方が色々な方のアルバムに楽曲提供をしたり、異常な数の作品を書いていました。
そうですね、87年は本当にやばい年でしたね。その年は本当に24時間仕事してやろうと自分で思っていました。確か29歳で、もっともっと仕事しなければダメだと思って、頂いた仕事は全部受けよう、24時間あればできることだったら、1日24時間仕事をするということにして(笑)。元々あまり寝なくても大丈夫なタイプではありましたけど、それにしてもあの1年は基本、寝ていなかったです。結局頭がずっとボーっとしていて(笑)。それでどう考えても、1年でできるわけがない仕事量をこなしているんですよ(笑)。ラジオ2本とテレビ3本のレギュラーを持っていて、ライブも35本やりました。その上で、何枚もアルバムをプロデュースして、本当に狂ってましたね(笑)。
――どうやって頭の中を切り替えてやっていたんですか?
作ることに関しては、さほど苦労しない感じでした。例えばアルバムを作る時は、全体をこんなイメージにしたいという、イメージが決まると、それに沿って曲を作って、アレンジしていくだけなので。このアーティストはこういう世界観でいこうというのが明確にあったので、じゃあ今はこっちかなと決めると、スムーズにできていました。ただ単純に時間がないという(笑)。それで、やっていくうちに思ったのが、そういう作り方をしていると、全て100%気に入ったものを出していくわけには、いかなくなるわけですよ。時間との闘いなので。とりあえず合格点だからいいや、という感じで進めていくことが一番の苦痛でした。一旦休む時期があるんですけど、そこから活動を再開する時には、その反省点を踏まえて、自分が納得したものだけを出していこうということで、さっきの話につながるのですが、93年は知られている歌は多いけど、知られている歌だけしか作っていないんです。
――世の中に発表されている織田さんの楽曲は、700曲を超えています。
確かそれくらいだったと思います。その中で200曲くらいは、自分のアルバムの曲です。だから40年くらい作曲を生業にしている人間としては、決して多い数字ではないと思います。
――逆にいうとそれだけヒット曲が多いということです。
そこに関しては、相当打率が高いと思います(笑)。でもポテンシャルが高いものしか出さないと言っても、歌詞、アレンジ、歌、そしてプロモーションが噛み合わなければヒットにはつながらないです。
それが自分というパイプを通って、スルッと出てくるという感じです。
織田哲郎
――CMを始めとして、タイアップという、ある程度縛りがあるものは得意だったんですか?
ある程度制約があった方がいいものができるケースの方が、多かったかもしれないですね。制約というよりも、イメージが明確に決まっている、例えばCMでいうと、映像がもう決まっていて、その映像を観ることができて、商品は当然知っている上で、この商品がこういう映像で、歌うのはこの人で、この声という要素が決まっている方が、方程式としての答えが出やすくなると思います。それが全くわからない要素の中で、いい曲くださいって言われることもたくさんありました。困っちゃいますよね(笑)。
――ソロ、バンド、ユニット、男性、女性、あらいるアーティストに楽曲を提供していますが、曲を作るときはその人の声に影響をされることが多いですか?
それは確実にありますね。やっぱりその声が生きるかどうか、声に限らずその人のキャラクターが生きるかを考えます。曲を誰かに作る時は、その人がこう歌っていることが、すごくいいぞっていうイメージが湧くかどうかが重要だと思います。
――時間をかけてできあがった曲と、すぐにできた曲とでは、違いはありますか?渚のオールスターズのヒット曲「Be My Venus 」は、渋谷を歩いている時にできて、急いで当時公衆電話から留守番電話にメロディを録音したという話は有名ですよね。
そういう曲の方が、確実に破壊力があると思います。曲ってそこらへんにいるもの、あるものだと思っていて。それが自分というパイプを通って、スルッと出てくるという感じです。うまく自分をスルーして出てきた時に、本来のパワーが出る気がしています。それをゴチャゴチャ余計なことをしていじくりまわすと、パワーが弱まるだけです。ただ、これが残念なところなんですが、自分の中でゴチャゴチャやったものの方が、自分としての満足感があったりするんです。だから本当に「Be My Venus」は、自分で作った気が全くしないんですよね。なんなんだろう、あの感覚…(笑)。
ビートルズ以降のメロディって、もうそんなに違わないと思う
織田哲郎
――先日TUBEの横浜スタジアムライヴで、織田さんが書かれた「シーズン・イン・ザ・サン」を聴いて改めて思ったのが、織田さんの楽曲は、普遍性を湛えた色褪せない作品が本当に多いですよね。
それは嬉しいことですよね。そうやって愛を持って歌い続けてくれる人がいることが、曲を作った人間としてはこの上ない喜びなんです。自分が本質的に飽きっぽいところがあるからだと思いますが、自分が音楽を聴く時に、普遍性のあるものが結果的に好きなんですよ。その時代性と普遍性の兼ね合いというのは、ヒットを狙うという意味では重要なんです。でも時代性の方が強いものって、自分はあまり聴かないんですよね。若い頃からメロディに普遍性を感じるものが、特に好きなんでしょうね。
――まさにサイモン&ガーファンクルの曲達ですね。
自分の中で、例えば子供の頃に、自分が面白いと思っても飽きてしまうのと、いつまで経ってもいいと思うものの違いって何なんだろうなって、無意識のうちに感じていたものがあると思うんですよ。なので、結果的にやっぱりずっと好きなものって、ずっと好きなわけで。それを自分が音楽を作るにあたって、自分がずっと好きで聴いているもののように、人に聴いてもらえるものを作りたいということを、ある程度は意識してきて、どちらかというと無意識の部分で、ものすごく自分の中でそうじゃなきゃいけないという縛りがあるのかもしれない。そうあるべきだって思っているのだと思う。
――お話を聞いていると、やっぱりあの美しいメロディと、織田さんがロンドンで吸収してきた音楽とが、抜群のバランス、いい塩梅で溶け合って、曲になっていると思いました。
そうですね、そこは塩梅ですよね。例えばグラムロックとかプログレって、ある意味時代の徒花みたいなものだったけど、そういうものも好きなんですよ。ただジャンルが好きというよりは、徒花の中にある普遍性、輝きみたいなのが好きなんだと思います。例えばバブルガムポップスみたいなものでも、好きな曲が多かったですね。一番最初に買ったシングルレコードがモンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」なんですが、あの頃はやっぱりビートルズがカッコいいわけで。モンキーズなんか幼稚だって、小学生の僕より上の世代の人達は言っていて。でもビートルズはビートルズで当然素晴らしいけれど、「デイ~」は曲としてはいまだに残っているわけですよ。そういう徒花的な部分の切ない輝きみたいなものがすごく好きで、それとメロディは普遍性があるべきであるということとの兼ね合いが、ずっと自分の中でテーマとしてあると思います。
――メロディの普遍性、心地いいと思うメロディって、時代が変わっても変わらない気がします。
作詞やアレンジに関しては、時代の変化で変わった部分は相当大きいと思いますが、メロディ自体に関しては、人が心地いいと感じる変化が、70年代から今日に至るまでにそれ程大きな変化はないんですよ。当然今の流行りとかはあると思いますけど、昔のあれもいいよねっていう部分に関しては、あまり変わっていないところがあって。ポップスに関しては60年代に大きな変化があって、やっぱりビートルズ以前のポップスは今聴いても、その時代の古い音楽だねって感じる人が多いかもしれないけど、ビートルズ以降のメロディって、もうそんなに違わないと思う。提示するポイントは変わらないと思う。だから今でもやっぱり70年代以降の曲を焼き直してカバーすると、カッコいいものになるということはみんなわかっていて。メロディに関しては、そういう要素が強いのでありがたいですよね。
ボーッとすることって、すごく難しくなってるんですよ
織田哲郎
――織田さん、ダイアモンド☆ユカイさん達とやっているバンド、ROLL-B DINOSAUR、楽しそうですよね。
楽しいんですけど、やっぱりバンドって楽しいだけじゃ済まないなってやってみたら思い出しました(笑)。
――ダイアモンド☆ユカイさんと「オダテツ3分トーキング」で共演した時、織田さんが「今、ロックンロールのロールが足りないんだよ」っておっしゃっていたのが印象的でした。
最近のバンドって、上手になりすぎてんじゃないの?って思うんですよ。下手より上手にこしたことはないかもしれないけど、なんか真面目かよって(笑)。昔って、人が生きている中で、自分で自分を締め付けているものがあれば、それをロックンロールという存在が楽にしてくれる、「え?それでいいんだ?」という感じだったはず。自分の生き方を楽にさせてくれるものとして、ロックンロールが存在していたんです。少なくとも僕にとってはそうだったし、世の中にとっても、そういう役割ってあったと思う。最近のロックって、みんなロックも真面目じゃなきゃダメなんだよっていうロックばっかりだから、そんなに真面目だったら普通に学校行けば?って思っちゃうんだけど(笑)。でもそれはそれでいい。例えば僕とユカイ君たちとみんなでROLL-B DINOSAURをやっていることが、ある程度の歳の人間でも、こんなバカな大人で大丈夫なんだなって思ってもらるといいなって。大丈夫じゃないけどさ(笑)。でもそうやって、ちょっとでも楽になってもらえるものを提供できればいいんじゃないかなと思ってるんですよ。それがロールでしょっていう。
――いつの頃からか全てに効率ばかり求めていって、でも今思うと、寄り道にこそ宝物が眠っている気がします。
確実にそうですね。特に今は寄り道自体が難しくなっていて。寄り道がっていうよりも、例えば僕はもともと旅をするの好きで、昔は電車に乗っている時って、窓から風景をボーっと、いつまでも眺めていたんですよね。その風景を眺めている時の自分の脳っていうのは、色々なシナプスの成長とか、確実にいい影響を受けていたと思っていて。でも最近は僕だってついスマホを見てしまう(笑)。だからボーッとすることって、すごく難しくなってるんですよ。そんなことしてちゃダメでしょ感が世の中にあって。でもボーっとしている時の脳の働きが、本当の意味での脳の成長に役立っていた気がします。元々は活字中毒だったので、スマホを敢えて持たないようにしていたのに、今年の4月についにスマホにしてしまって(笑)。ガラケーをずっと使ってたんですけど、いかんですね、こんな便利なものは本当に脳の成長を止めると思う(笑)。例えば何でも検索できるというのはいいことだけど、検索する前に妄想する時間がないじゃないですか。これってどういうことなんだろう、みたいな妄想がないわけで。
織田哲郎
――織田さんのヒット曲の裏側にあるものを妄想していた人たちが、「オダテツ3分トーキング」ではそれが見えてしまうという感じです。さらに3分では短すぎるというファンからの声に応えて、12月には渋谷Living RoomCafeで、スピンオフリアルイベント版の「オダテツ90分トーキング」を開催することになりました。
まだ詳細は決まっていないのですが、ある意味オフ会みたいな感じでしょうか。とにかく喜んでもらえるものにしたいということしか、まだ考えていなくて(笑)。
――ライヴの生配信もやるんですね。
そうなんです。少しでも多くの人に視聴してもらいたいですね。興味を持って来てくれた人との生のやりとりというのが、重要になるわけじゃないですか。普段僕がやってるライブとは違うものにしないと意味がないわけで。どちらかというと質疑応答中心のトークショーという感じになるのかなとは思っていて。それとライヴ。後は、例えば生配信しない部分を作って(笑)、流さないからこそ言えることを言っちゃうとか(笑)。でも僕の曲を好きと言ってくれる人にとっては、一人ひとりのその時代のそのシーンのBGMになっていると思うので、あまりそれをぶち壊すようなことは言わない方がいいですね(笑)。
――知らなくていいこともあります。
確実にそれはそうです(笑)。
取材・文=田中久勝 Photo by菊池貴裕
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