髙嶋政宏 (撮影:池上夢貢)
1970年代から40年以上にわたって世界を席巻し続けてきたハードロック界のレガシーバンド、KISSが「END OF THE ROAD WORLD TOUR」と銘打った全世界ツアーの一環として最後の来日公演を12月に各地で行う。
1977年に初来日し、伝説となる圧倒的なライブパフォーマンスで日本の少年たちの度肝を抜いたKISS。その黎明期から彼らに心酔し、マニアとしてファンを続けてきたのが、俳優で、“スターレス髙嶋”或いは“変態紳士”の異名をとる、ご存じ髙嶋政宏だ。そんな彼にSPICEは、KISSの魅力の数々、KISSと歩んだ人生について長時間に渡って話を聞くことができた。
さすがは変態紳士。写真のとおり高嶋は、超レアなKISSグッズを全身に纏って取材場に現れ、気合の入れようをいやというほどに示してくれた。KISSが持つ唯一無二の存在感の秘密、そしてマニアでしか知り得ない逸話の数々を、SPICEにて前後編の二回に分けてお届けする。
■ライブ初体験は異様な雰囲気にのまれ「来なきゃよかった」と思った
──KISSの大ファンとして知られる髙嶋さんですが、そもそものKISSとの出会いから教えてください。
僕が子供の頃って、いまみたいには情報がなかったんですよね。PCもなければスマホもない。TVで洋楽を紹介する番組だってほとんどなかった。NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」(※1971年~1986年1、NHK総合テレビで不定期放送)や東京12チャンネル(現テレビ東京)の番組くらいしかなかったんです。
当時、僕は小学校帰りにランドセル背負って、よく上野毛駅近くのレコード屋に行ってました。すると店のオヤジがディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなどを勧めてくれるんです。パープルは「スモーク・オン・ザ・ウォーター(Smoke on the Water)」(1972年)あたりはいいんだけど、ジョン・ロードやリッチー・ブラックモアの、ヨーロピアンでクラシックなテイストのソロ演奏はちょっと大人っぽい感じがして、子供の僕にはまだイマイチでした。レッド・ツェッペリンも「天国への階段(Stairway to Heaven)」(1971年)は良かったけれど、他の曲は小学生の僕にとって難しかった。エアロスミスも勧められたけど、アルバム『ドロー・ザ・ライン(Draw The Line)』(1977年)以前は、キャッチーな曲はあるもののわりとブルースを前面に押し出した泥臭い曲が多く、それほど魅力を感じなかった。そんな時に店のオヤジから「これも結構いいよ」って勧められたのが「悪魔のドクター・ラヴ(Calling Dr.Love)」(1976年)という曲でした。
店頭で聴くなり「これ何ですか?」って尋ねると、「KISSっていうバンドだよ」って。これが収録されていた5枚目のスタジオアルバム『地獄のロック・ファイヤー(Rock and Roll Over)』(1976年)は日本独自のジャケットだったと思うんですけど、彼らのメイクを見て「うわあ!」ってなった。音は当時の僕にはハードに感じられ、ジーン・シモンズ(B/Vo)の歌い方も怖いくらいでしたが、むしろそれがちょうど良い感じだったんですよね。だから、音とコスチュームとメイクに衝撃を受けて、そこからすぐにハマりまくりました。
KISS『地獄のロック・ファイヤー』(1976年)
──すると最初の出会いはレコード店だったんですね。
あの頃のロック少年って、だいたいそうだったと思います。もしくは兄弟や親戚のお兄さんに勧められるとか。僕の場合はレコード屋のオヤジが原点ですね。
──小学生だから「ミュージックライフ」といった雑誌を読むのはもう少し後になってから?
いや、買っていましたよ(笑)。そうこうするうち1978年にはKISSが2度目の来日をするんです。TBS「ぎんざNOW!」といったTV番組などですごく宣伝していたから、どうしても行きたくなった。それで父(故・高島忠夫氏)に頼み込んで連れていってもらいました。それが僕にとって初のKISSライヴ体験ですね。日本武道館に行ったのも初めてで、KISSのメイクやコスチュームを真似した人や女子たちの異様な雰囲気にのまれましてね。「来なきゃよかった」と思うくらい圧倒され、怖かったですね。
──まだ小学生ですものね。
ライブが始まった瞬間の「キャーッ!」っていう歓声でまず耳をやられました。これも初めての爆音体験でした。それから二週間くらい耳の具合が悪かったですもん。よく聴こえない。それがショックで「僕はどうなっていくんだろう」って(笑)。あとは火柱ですよね、ライヴ中に。当時は今より規制が緩かったので炎の高さが全然違う。すごく高かった。
そういうKISSのものすごいロックンロール・サーカスを最初に見れたことは、僕にとってとても運が良かったと思えるけど、その反面、その後に行った、ただ座って聴いているだけのコンサートが全然面白くなくなっちゃって(笑)。
──これがロックショーだって言われたら、ほかのはちょっと地味すぎる。
そうなんですよ。で、そこから、いろいろとKISSの情報を探し始めるんです。とにかく、あの頃は、「他のお客さんて、どうやってコスチュームとか真似してるんだろうか?」って、ずーっと羨ましく思っていました(笑)。洋書を置いてある本屋に行ってみたり。当時うちはけっこう厳しくて、けっして何でも買ってくれる家庭ではなかったんです。ただ、家族でホテル・オークラに行った時に、そこの売店にKISSのアメリカ版の漫画が置いてあった。それを見てたまらず「これ欲しい!」って懇願すると、英語の漫画なので両親も「お前、勉強家だな」って、買ってもらえた(笑)。まあとにかく、それくらい飢えていました。
飢えの反動がいま来てるんですよね。「いつか絶対グッズを買えるようになってやる」っていう子供時代の願望を叶えている。でも、同業者である俳優たちが高級時計だ高級車だって言ってる中で、こっちのロックT(シャツ)はたかだか何千円の世界ですからね。KISSのフィギュアも買い漁りましたよ。ニューヨークの友達がいろいろなグッズを送ってくれるんです。その代価として物々交換で僕が友達に日本のゴジラグッズを送るっていう。そんなことをしながら、とにかくいろいろ買い集めています。
──いままでKISSに幾らくらいお金を使ってますか?
どうですかね。一回の来日公演につきTシャツだけで5~6万円分くらいは買いますけどね。
──ほかのグッズも全部買うんですか?
買います。もう凄まじい争奪戦なんです。何が残ってるか。買いたくても売り切れていることはざら。グッズは当日の数を売ったら在庫があっても売らないので、とにかくひたすら並ぶしかないですね。
──Tシャツも保存用と普段着る用に2着づつ必ず買うとか?
最初はそうしてました。でも近頃はLサイズを1枚だけ。というのも、さすがに数が増え過ぎてしまい、奥さん(シルビア・グラブ)が「なんで黒いTシャツばっかり買うの?」って。彼女には通じないんですよ(笑)。
──コレクター魂に火をつけるという点でKISSは、他のバンドとは違うところがありますよね。
全世界でも珍しいバンドですよ。「音楽は聴いたことないんだけどグッズは持ってる」っていう人も多い。おじいちゃん、おばあちゃんから、その孫までもが欲しがってるっていう、そういう特殊なバンド。
彼らがデビューしたての頃は、演奏が下手だってアメリカのメディアからも総スカンでしたが、いま聴くと実は基本的なロックのフレーズを正確に弾くバンドなんだなって思う。エース・フレーリー(G/Vo)だってハードロックのフレーズを、殊更にテクニックをひけらかすわけでもなくちゃんと弾いている。ジーン・シモンズは酷評されても「100億稼いだ。だから俺は何を言われてもなんとも思わない」って言ってる。
まあそう言えるのも、一方でグッズ制作に命を賭けているからなんです。うちだってトイレットペーパーのホルダーはもちろんKISSグッズだし、それどころかトイレットペーパー自体もKISSがハローキティとコラボしたものですよ。あと卓球のラケットも買いましたしね。あと、ダーツとか。それは家に掛けられなかったので、いま友達のバーに置いてもらっているのですが。
■『ラヴ・ガン』については懺悔しなければいけないことが…
──音楽の話に戻りますと、KISSと出会ってからは、特にどんな曲を聴いていましたか。
NHKの「ヤング・ミュージック・ショー」(1977年5月放送)の映像を見たのは大きかったな。それからはしばらく「狂気の叫び(Shout It Out Loud)」(1976年)とか「コールド・ジン(Cold Gin)」(1974年)といったキャッチーな曲ばかり聴いていましたね。アルバムを通して聴くようになったのはもうすこし後になってからでした。当時はとにかくヒット曲ばっかり。テレビの映像で見た曲はスタジオ盤だとどういう感じなんだろうって。
──あの「ヤング・ミュージック・ショー」の映像は、当時のキッズたちに衝撃を与えました。ひょっとして録画されていたんですか?
親の仕事柄、家にビデオデッキがありました。あの頃、KISSは出演していないけど、1978年の「カリフォルニア・ジャム2」(エアロスミス、ハート、サンタナらが出演)もよく見ていました。それは父が録ってくれていたんですが。
──あの頃は今のようにビデオやレコードは沢山は出ていなかったですもんね。怪しい海賊盤の店に行くしかなかった。
僕も渋谷の海賊盤屋にはよく行ってました。画質や音は最悪でしたけどね。
──髙嶋さんはKISSの中では誰のファンだったんですか?
最初は子供だったからジーン・シモンズとポール・スタンレー(G/Vo)。でもピーター・クリス(Ds/Vo)が「ベス(Beth)」や「ハードラック・ウーマン(Hard Luck Woman)」を歌えばが彼のことも好きになるし、「ショック・ミー(Shock Me)」だったらエース・フレーリーに行くし。結局、僕は全員のファンでしたね。メイクしてるカッコいい人たちっていうことで。あと、元々僕は怪獣が好きだったので、あのコスチュームですよね。そこが僕をハマらせていった大きなポイントでしょうね。
──コスチュームはとても魅力的ですよね。自分で作ったりとかなさいましたか?
いや、作り方がわかりませんでした。そういう頭はなかったんですね。
──楽器演奏のほうはどうでしたか?
小学校の時期にダウン・タウン・ブギウギ・バンドの宇崎竜童さんに憧れて、「エレキやりたいっ」て思ったんです。ただ、芸能一家ではありましたけど古い家だったので、長髪、エレキ、バイクは「不良になるからダメだ」って言われていました。学校も同様。昔は、どこもかしこもそんな感じでしたよ。あの当時はまさか茶髪の人が普通に街中に歩いているような時代が来るとは誰も思っていなかった。
ただ、何故か「ベースだったら音が低いからやってもいい」と。YAMAHAのSGっていう5,000円のベースを買い、中学生になってからバンドを結成しました。でも、KISSの曲は難しかった。何がって、ボーカルとギターが難しいんです。ボーカルのキーが高いから、なかなか歌えない。でも「ストラッター(Strutter)」(1974年)と「コールド・ジン(Cold Gin)」は演ったかな。中3の頃には、KISSのTAB譜を買い集めるのに夢中になっていました。
──それは1980年くらいですか?
そうですね。「悪魔のドクター・ラヴ(Calling Dr. Love)」もやりました。でもね、実は僕、「デトロイト・ロック・シティ(Detroit Rock City)」(1976年)があまり好きじゃなくて。
──えっ。すると、アルバム『地獄の軍団 Destroyer』(1976年)自体も?
なんで好きじゃないかっていうと聴きすぎて飽きちゃったんですよ。いまも「デトロイト・ロック・シティ」だけはあまり聴かないですね。
KISS『地獄の軍団』(1976年)
──それは珍しいかもしれないですね。僕らのような髙嶋さんと同じ世代だと中高生で『地獄の軍団 Destroyer』にハマって、という人が多い印象があります。
アルバムとして僕が特にハマったのは『ラヴ・ガン(Love Gun)』(1977年)ですね。特に「クリスティーン・シックスティーン(Christine Sixteen)」「ショック・ミー(Shock Me)」の2曲にむちゃくちゃハマっていました。「クリスティーン・シックスティーン」はピアノが入っていてポップで、ベイ・シティ・ローラーズも好きだったこともあって、僕の中でシンクロしていたんです。
KISS『ラヴ・ガン』(1977年)
──ほう。ベイ・シティ・ローラーズとKISSに同時進行でハマった方も珍しいですね。多くの男子はベイ・シティは嫌ったんですよね。
やっぱりサウンドが好きだったんでしょうね。ベイ・シティの「ロックンロール・ラブレター(Rock 'n Roll Love Letter)」とか「サタデーナイト(Saturday Night)」のサウンドと「クリスティーン・シックスティーン」のピアノが入った感じとか。その内にだんだんツェッペリンやAC/DCが好きになっていったんですけど、『ラヴ・ガン』はジャケットが最高だった。そうそう、『ラヴ・ガン』については懺悔しなければいけないことがあるんです。あれって中に紙鉄砲が入ってたじゃないですか。でも一回、それを壊しちゃったんですよね。それでレコード屋さんに行って、「これ壊れてました」って嘘をついたんです。店のオヤジさんがいい人で代わりのものをくれたんですけど、僕が死んで煉獄に行ったら、そのことをきっと問い詰められるでしょうね。「あのときの嘘はどう思ってますか?」って。いまだに「なんであんなこと言っちゃったんだろう」って、ひどく悔いています(笑)。
以下、後編に続く──。
取材・文=森本智 写真撮影:池上夢貢
【髙嶋 政宏(たかしま まさひろ)プロフィール】
1965年10月29日・東京都生まれ。俳優。1987年 映画「トットチャンネル」でデビュー。同作及び映画「BU・SU」で、第11回日本アカデミー賞新人俳優賞、第30回ブルーリボン賞新人賞、第61回キネマ旬報新人男優賞などを受賞。以降、映画・テレビ・舞台と幅広く活躍。 主な出演作に【映画】「花筐/HANAGATAMI 」「未成年だけどコドモじゃない」(17)、「マスカレード・ホテル」「キングダム」「空母いぶき」「かぐや様は告らせたい」「3人の信長」(19)、【ドラマ】大河ドラマ「おんな城主 直虎」(17/NHK)、「ハラスメントゲーム」(18/TX)、「牡丹燈籠」(19/NHKBS)、【舞台】「クラウドナイン」(17)、「俺の骨をあげる」(18)、「プルガトリオ」(19)などがある。近年では活動の幅を広げ、バラエティー番組にも多数出演している。
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