石田泰尚と﨑谷直人によるヴァイオリン・デュオ「DOS DEL FIDDLES(ドス・デル・フィドル)」の本格始動となるコンサートが、2020年9月24日(木)に東京・紀尾井ホールにて開催された。ともに神奈川フィルハーモニー管弦楽団のソロ・コンサートマスターを務め、それぞれ室内楽やソロでも活躍するふたり。コワモテなルックスとは裏腹に、繊細で美しい音色で聴き手を魅了する彼らだけに、この夜も多くのファンが集まった。エッジのきいたファッションに身を包んだカッコイイ女性の姿が多かったのも印象的だ。
拍手とともに、モノトーンのコーディネートでふたりが登場。お辞儀もそこそこに、さっそく本題に入る。今回のプログラムでは唯一、ヴァイオリン・デュオという編成のために書かれたオリジナル曲となるバルトークの《2つのヴァイオリンのための44の二重奏曲》。東欧の民俗音楽などから題材をとった1分ほどの短い曲からなるこの曲集から、10曲が選ばれ、次々と異なる情景を見せながら進んでいく。
幕開けは、期待に熱を帯びた空気をなだめるように〈縁結びの歌〉の清澄な音色と優しいメロディが会場を包み込む。続く〈遊び〉では、2つの旋律が緻密に絡み合う。石田と﨑谷のヴァイオリンをはじめて聴くという人も、この時点で早くもルックスと演奏の大きなギャップに気づくことだろう。愉悦感のある〈枕踊り〉でもノリに任せて突っ走ったりはせず、〈兵士の歌〉ではじっくりと互いの響きを重ねていく。抑制がきいているからこそ、〈ハンガリーの行進の歌(2)〉では低音の旋律を奏でる石田の叙情が引き立つ。〈セルビアの踊り〉ではぴったり合った息で軽やかなダンスを聴かせ、最後は〈スケルツォ〉。そして、そっけないお辞儀をして、さっさと舞台袖へと引っ込んで行く。愛想もなにもない。けれど、それは「音楽だけがあればいいのだ」というメッセージのようにも思える。
次の2曲は、ピアニストの山中惇史が登場し、石田と﨑谷それぞれのソロが披露される。まずは石田によるクライスラーの《テンポ・ディ・メヌエット》。ウィーンの砂糖菓子ように甘美なイメージのクライスラーも、石田の手にかかると甘ったるさは一切なし。歌心にあふれながらも、ピンと一本スジの通った演奏は、まさに「男のロマン」と言いたくなる。曲が終わるやいなや、照れ隠しのように小走りで引っ込む姿もファンにはたまらない。
そんな石田をやや呆れ顔で見送りながら、﨑谷が登場。同じくクライスラーの《美しきロスマリン》を弾くが、華やかな歌に溺れない知的なアプローチがじつに彼らしい。大きく膨らむワルツのリズムでは、山中との「タメ」の掛け合いに思わず笑みがこぼれる。
そしてクライスラーの3曲目は、ふたたびデュオで《愛の喜び》(山中による編曲版)。石田が﨑谷を見ながら、ピッツィカートで合いの手を入れる顔は嬉しそうだ。オーケストラではふたりのコンサートマスターが並んで演奏する機会は滅多にないだけに、デュオでの演奏を心から楽しんでいるのが伝わってくる。
前半最後の曲は、ヴュータン作曲の《アメリカの思い出「ヤンキー・ドゥードゥルによる、おどけた変奏曲」》(山中による編曲版)。「ヤンキー・ドゥードゥル」というのはアメリカの民謡だが、日本では「アルプス一万尺」で知られるおなじみのメロディである。﨑谷、石田の順にソロを受け渡しながら展開していくが、超絶技巧がふんだんに織り込まれ、ふたりの腕比べがだんだんとヒートアップしていく。さらに「アルプス一万尺」の手遊び同様、容赦なくスピードもアップ。フィナーレへ向けて駆け抜けるドライブ感はさながらカーレース! 爽やかにゴールを決めたあとは、もちろんさっさと退場。盛り上がる拍手に応えて、山中ひとりがステージ中央まで戻ってお辞儀をするものの、あとのふたりは出てこない。それでも鳴りやまない拍手に、仕方なく舞台袖まで出てきて、はにかみながらお辞儀をして前半が終了した。
休憩を挟んで後半は、アメリカ大陸からヨーロッパをめぐる音楽による世界旅行。いずれも山中がヴァイオリン・デュオのために編曲した版が演奏される。出発はアメリカの作曲家フォスターによる《金髪のジェニー》。よく知られたメロディを、石田、﨑谷、山中が順に歌っていくシンプルなアレンジがしみじみと心に沁みる。
ベンジャミンの《ジャマイカン・ルンバ》とドビュッシーの《ゴリウォーグのケークウォーク》は、軽快なリズムの中におどけた表情が浮かぶスリリングな曲。ここでもいたずらにヒートアップせず、あくまでクールにしなやかに、スポーツカーのごとく駆け抜けていく。ときには、テクニカルな掛け合いによる三者の会話もはずませながら。一体どんな話題で盛り上がっているのだろう?
続くガーシュウィンの《サマータイム》では、哀愁たっぷりに歌う石田のメロディに、﨑谷が相槌を打つように応える。ゆったりと暮れなずむ夏の夕暮れが、アメリカというよりフランスの色を帯びているように感じたのは、ドビュッシーのあとに置かれていたからか。
ひと息入れて、パガニーニの《カンタービレ》では豊かな歌があふれ出す。ひとつひとつの響きを愛おしむように重ねるふたりの姿を見ながら、筆者の頭の中には「正統なのか、異端なのか?」という問いが浮かんでいた。彼らの緻密に構築された端正な音楽は、オーソドックスと呼べるものだろう。しかし前半のクライスラーにしても、この《カンタービレ》にしても、これまで聴いてきた数多の演奏とは、何かが根本的に違う。それは、「こう弾くべき」という慣習や先入観をすべて洗い流し、目の前に広げられた楽譜に、ただひたすら真摯に向き合ったところから出てくる音楽だからではないだろうか。飾りでごまかさない、素のままの美しさが、そこにある。
あっという間にラスト2曲となり、フィナーレに向けて盛り上がる曲が続く。まずはブラームスのハンガリー舞曲第5番。ゆっくりとしたテンポでスタートし、スピードアップしたかと思ったら、ふたたびダウンしたりと、緩急を繰り返しながら展開していく。﨑谷が時折ニヤリと笑みを浮かべながら石田を見て、遊び心のある技を繰り出す。そしてピアソラの《リベルタンゴ》。石田が血潮ほとばしるような情熱的なメロディを奏でる。ここまできてはじめて、石田がリミッターを外した瞬間を見た。これ以上なく鮮やかなラストだ。
万雷の拍手には応えず(!)、舞台袖に引っ込んだふたりはなかなか出てこない。またしても山中がステージに登場し、懸命な呼び込みに応えてノロノロと登場。ここまでは一言も話さず進行してきたが、最後にトークのコーナーが設けられた。マイクを手に、にこやかに司会役を務める山中。きっと彼は普段から、寡黙なふたりの潤滑油的な役回りなのだろう。石田が「こんばんは」と言葉を発するだけで、会場が沸く。﨑谷も言葉少ないが、「オーケストラには、コンサートマスターはひとりいれば充分ですよね」という山中の言葉には秒で突っ込む。「あ、1回のコンサートにですよ」と慌てて付け足す山中も憎めない。以降のやり取りは、ぜひアーカイヴ配信でお楽しみいただきたい。
いよいよアンコール。と、その前に「あ、楽譜忘れてきた」と慌てた様子もなく舞台袖に取りに行く﨑谷。気を取り直して、モンティの《チャールダーシュ》。﨑谷、石田の順にソロを回しながらスピードアップし、超速に達したところで、突如、山中がピアノから立ち上がり、おもむろに﨑谷のヴァイオリンを手にする。たどたどしい手つきでメロディを弾く山中に、石田と﨑谷がでたらめなピアノ連弾で応える。壊れたラジオのような余興を挟んで、最後は元に戻ってバッチリ決めた。
そしてもう1曲、最後にとっておきのアンコールが披露された。山中による書き下ろし楽曲《晴れのちケルト》。MBSお天気部の「秋のテーマ曲」に起用されている曲とのことで、誰もが口ずさめるようなメロディを、ケルト音楽のエッセンスを入れて作曲したのだという。トークをすっかり放棄した石田が舞台袖から引っ張り出され、エモーショナルなメロディを奏でて曲がはじまる。ここまでの曲とは異なり、クラシックの文脈から離れたポップス・テイストの曲だが、ふたりのアプローチは変わらない。どんなジャンルの曲を演奏するときも、ただそこにある音楽にまっすぐ向き合い、音楽そのものが持つ美しさを引き出す。それがドス・デル・フィドルの流儀なのかもしれない。
MBSお天気部秋のテーマ曲 晴れのちケルト- DOS DEL FIDDLES with 山中惇史
さらに思い返せば、今回のプログラムは《愛の喜び》《ヤンキー・ドゥードゥル》《金髪のジェニー》《リベルタンゴ》など、誰もが口ずさむことのできる親しまれたメロディ、悪く言えば「手垢のついたメロディ」ばかりだった。そういった曲をあえて選ぶことで、「手垢を洗い流した」演奏を届けるのが、彼らのひそかな狙いだったのかも? というのは深読みのしすぎだろうか。
ともあれ、今後もカラフルなレパートリーを通じて、このデュオは進化し続けていくことだろう。そのスタートラインに、ともに立つことができた幸せをかみしめた一夜だった。
取材・文=原典子