織田哲郎
80年代から現在に至るまで数多くのヒット曲を手がけてきた織田哲郎が、2021年1月9日(土)ヒューリックホール東京、2月13日(土)ビルボードライブ大阪、2月21日(日)ビルボードライブ横浜にて『幻奏夜Ⅴ』を開催する。これまで手がけてきた数々の楽曲を“弦アレンジ”で聴かせる好評のシリーズ第5弾。今年2月に新型コロナウイルスの影響により中止になったライブを生配信でも披露したスペシャルなライブ。今回ライブを控えた織田哲郎に2020年を振り返ってもらうとともに、『幻奏夜Ⅴ』についてのこだわりなどを聞いてみた。(聞き手・新井宏)
――2020年もまもなく終わろうとしています。エンタメ業界にとっても大変な年になりましたが、織田さんにとってはどんな一年でしたか?
コロナ禍で普通にライブができなくなったことで、春に予定していたライブを夏に延ばしたりだとか、色々と影響がありました。たとえば2月29日に下関でやるはずだったライブが中止になったんですけど、その日に配信ライブをやってみよう!ということになって急きょやったのが、ある意味で配信の先駆け的なものになっちゃったんですよね(笑)。
――そうですか。配信ライブをやってみてどうでしたか?
とても面白かったです。ライブが中止になったこと自体が本番のほんの何日か前で、(配信の)前の日くらいに言い出したんじゃないかな。
――織田さん自身が直前に提案したんですか?
そうですね。ホントにいきなりの話だけど、メンバーみんなスケジュールが空いていることは確かだから、じゃあ配信でやってみようかと。配信自体は去年からYouTube(オダテツ3分トーキング)でやってますけど、なにしろバンドメンバーをスタジオに揃えてライブをやるということがいままでなかったから。撮影するカメラマンも、ちょうど仕事が飛んで空いていた友達がいたので、彼らに頼んで実現したんですね。ホントに急きょだったので、すべてがバタバタだったけど、まあ思いのほか凄くいい形で皆さんに届けることが出来たんじゃないかな。その後、8月14日にMotion Blue YOKOHAMAでライブをやったのですが、それも有客でライブをやる先駆けみたいな形になりましたね。
――両方ともほとんど前例のないものですから、手探り状態だったのではないですか?
そうですね。ライブは他の人がやったという話もまだあまり聞かない段階で、結構みんなドキドキしながら慎重にやったんですよね。ライブハウス側もホントにピリピリしてたし、こっちもどうなるんだろうと思ったけど、結果的にやってみて凄く良かったなと思って。それでその後の10月のツアーも開催したわけです。ただし客席の間隔を開けて、お客さんはみんなマスクして、基本無言な感じの客席になるという、一種まあ異様と言ったら異様ですけど、それでもなんとか出来て良かったですね。Motion Blueのライブはアコースティックなので、元々みんながそんなに騒ぐようなものではないんですけど、10月のツアーはロック形式ありでの通常のライブになった。それをどうやるかというのは、凄く考えましたね。最初は、最後の方でちょっとスタンディングありくらいの地味めな構成にしようかと考えていたんだけど、なんか違うなと思って、逆に普段よりロック色を強めました。みんながなんとなくどんよりしている時期だから、基本的に凄く前向きでハッピーな気分を残せるものにすることが一番大事なんじゃないかなと思って。
――では、今年は中止に伴う配信ライブやライブの復活など、試行錯誤の一年になったという感じですか?
そうですね。それはそれで、それぞれが印象深いライブになりました。
織田哲郎
――今回開催される『幻奏夜Ⅴ』と通常のライブとの違いを教えてください。
『幻奏夜』は、弦カルテットと一緒にやるスタイルなんです。昔実験的に一回やってみたことがあったんですよ。何がきっかけだったのかな?とにかく私、元々、弦が好きなんです。前から普通のライブでも一本だけチェロを入れたりしてたんだけど、これを弦カルテットと一緒にやってみたいと。なかなかオーケストラでツアーというわけにもいかないですからね(笑)。
――それが今では恒例のイベントになりましたね。
最初は何年かおきだったんですよね。アレンジ的な部分だったり、いろいろと試行錯誤しながら、一昨年くらいから「これだ!」っていう感じになってきたんです。自分の中でこれが最高だっていう編成が決まって、弦カルだとこういうアレンジをしたらいいとか色々とわかってきて、来年(2021年)もやりたいなっていう気になりました。今回で3年連続ですね。
――選曲は毎回変わるのでしょうか?
全部違うわけではないですが、毎回なにか新しい曲を入れるようにしています。
――数ある作品の中からどういう基準で選ばれるのですか?アニメソングやCMソングも含めて弦アレンジされるのでしょうか?
そうですね。たとえばカバーとかもするんですけど、自分の中である基準としては、弦カルと一緒にやれば映えるというイメージが沸くかどうか、それだけですね。
――中には実験的な選曲もあるのでしょうか?
かつて『ムシブギョー』というアニメの劇伴をやって、その劇伴の曲自体はシンセで組み立てた曲だったんだけど、これを弦カルでやりたいなと思って、そのままインストルメンタルでやったことがありましたね。弦カルとギターのインストで。
――では、今回の『幻奏夜Ⅴ』の見所は?
その話をされると辛いなあ(笑)。まだそこまで決まってなくて。(「もうすぐリハーサルですよ!というマネジャーの声に)参っちゃうなあ(苦笑)。
――いまちょうど選曲を考えていらっしゃる最中ですね。
そうですね。まだ考えているところなので、その時のお楽しみで!
――織田さんは、いままでのキャリアの中で何曲くらい手がけたのですか?あらゆるジャンルで作曲を手がけていますが。
そんなに多くないですよ。私が自慢できるのは、皆さんに知られている曲の割合が凄く多いというところです。トータルの曲数でいうと700超えたくらいか。作曲家としてバリバリやっている人で自分と同じくらいの年数をやっていれば、大体みんな1000は超えてますよ。だから自分はそんなに多くない。しかも自分のアルバムの曲を入れて、その数ですからね。
織田哲郎
――といっても、あらゆるジャンルの曲を網羅されていますよね。自身の曲はもちろん、他の方への楽曲提供からアニメやCMまで。ロック、ポップス、さまざまなジャンルに広がっていますよね。
それはやっぱり元々いろんな音楽が好きだったということだと思うんです。たとえば音楽でプロになるような人って、たぶん早くからこういう音楽が好きだと思って、そういう音楽をやりたいということでプロを目指すと思うんです。私の場合、もの凄く真剣に音楽を聴いた時期というのが、イギリスに2年間いた時なんです。当時は昼飯代もこっそり貯めてレコードを買ってました。あの時代の音楽を聴き漁ってた。といっても、その頃の自分は画家になるつもりだったから、けっこう平たく聞いてたわけです。自分がプロになる気とか毛頭なくて、当時は単純にリスナーとして聴いていたんですね。レコードをかけながら絵を描くのが好きだったんですよ。
――入り口は画家志望だったと。
画家になると親にも言ってました。その頃、絵を描きながらフォークからロック、モータウン的なものまで、全部リスナーとしてひたすら聴きまくっていたんです。
――70年代(の音楽)ですよね。
そうです。その後自分が真剣に音楽をやろうと思ったときには、すでに自分の中に音楽の貯蔵がデータとして凄くたくさんあったんですよね。それは結果的に良かったなと思います。
――当時の原体験が作曲されるときの発想に繋がっていると。
そうですね。ジャンル関係なく聴いている中で、なにか引っかかって耳に残る曲がある。それはリスナーとしてどういうことなのかっていうことを、そのときに体感しながら聴いていた記憶がとてもしっかり残ってる気がしますね。
――そういった聴き方は、やはり一般の人とは違う感覚ですよね。そこに普通の人との差があるように感じます。
ああ、そうかもしれないですね。
――80年代から90年代、さらに現在まで息の長い活動をされている織田さんですが、ライブや作曲活動など、精力的にこなす秘訣はなんでしょうか。
自分はそんなに長くやってる感覚はないんですよ。やりたいことだったり、面白そうなことだったり、頼まれたことだったり、その時その時でやってきたことが結果的に長くやってることに繋がってる。まあでも多分、長くやる秘訣として重要なのは二点ですかね。ひとつは、体力ですよ。
――身体が資本ですね。
身体が頑丈なことが大事ですよね、もうここまでくると(笑)。身体は結構元から頑丈だったけど、身体の調子が悪いことにとても弱いんです(笑)。もう、ちょっとでも熱が出ると、オレはもうダメだ!死ぬ!みたいになってね(笑)。
――体調の異変に敏感なのですね。
凄く弱いんですよ、ちょっとでも調子が悪いことに(笑)。だから、悪くならないように…って言いながらすごい酒飲みでしたけどね。なので比較的早く、30代あたりから自分の体型維持みたいなことも含めて体操を毎日したりしてましたよ。
――常に健康には気を遣っていらっしゃるわけですね。
結果的に、まあまあ身体には気を遣っている方ですね。そういう部分と、あとはやっぱり元々が楽しいから音楽をやってるというのもありますね。楽しいことなら人よりもずっとやってられるけども、楽しくないことをやるとホントに身体が不調になるみたいなところがあるんですね。たとえば、学校に行ってた頃とかはホントに嫌だったんですよ。好きでもない勉強をしなくてはならない。そういうことをしてると体調が悪くなる(笑)。
――体調が悪くなることに敏感ですからね(笑)。
そう。結局、楽しいから音楽をやっていられる。とはいえ、仕事となると楽しいだけではできなくなるときも当然あるじゃないですか。仕事としてやって潰れかけたのが40歳くらいの頃なんですよ。ホントにしんどくなってるな、これ休まないとヤバいよね、と思いながらやり続けてた。あのときはホントに身体も心もおかしくなった挙句に、ちょうどスペインで首を締められて……。
――2000年、スペイン滞在中に巻き込まれた事件ですね。
あれがなかったら、もうホントに音楽をやめることになっていた可能性もあったんですよ。身体を壊して普通に活動できなくなる可能性が高かったなあ。あの頃は体調もボロボロでしたからね。
――逆にそれによって蘇った部分があるのですか?
そうですね。それは確実にあります。あれのおかげで今があると。
――「おかげ」と言えるくらいまで復活できたということですね。
そうですね。
織田哲郎
――先日、「音楽界のクリント・イーストウッドを目指す」という記事を見たのですが。
たまたまね、夕刊フジの連載で書いたんですよ。クリント・イーストウッドの映画『運び屋』を観てね。イーストウッドがあの映画を作ったのが88歳だったのかな。
――ええ。現在90歳ですね。
88歳って、世の中じゃ運転免許を返納する年齢ですよ(笑)。88歳で運び屋。運転してますからね、とんでもないですよ。運転どころか一本の映画を監督として作るって、もの凄い集中力、体力が必要だと思うんです。88歳で自分が主役で監督やっちゃうんだって、ホントにビックリして。世の中的には60歳を過ぎてってなると“長くやってる”と言われたりするわけですよね。
――どのジャンルでもそうなりますよね。
自分でも60歳を過ぎるとそろそろ老け込む時期なのかっていうことを感覚として持ってくるじゃないですか。だけど、88歳で映画撮ってる人だっているじゃないかと(笑)。
――織田さんが88歳になるまでには、まだ四半世紀くらいあります。
結構(時間が)あるなと思って。これって多分みんなにあると思うんですけど、たとえば30歳になったときは30歳になったなりに、もう若くないなとか思うじゃないですか。40歳になったら40歳になったで、もうオッサンだって。人間ってやっぱりみんなそう思うでしょ。だけど、あとから見れば、あのときってまだ若造だよねって思うんですよ。
――振り返ってみるとそう思いますよね。
ねえ。だからいま、ムダに老け込むことはないなって。80歳になったとき、あのときの若さだったらもっといろんなこと出来たじゃんっていう後悔をしないようにしようと、いま凄く思っていますね。
――そういった意味での“クリント・イーストウッド宣言”ですね。
そうですね。まあ、目指すっていうか、別にそこ(88歳)まで是非やりたい、と思ってるわけじゃないけど、でも少なくともいま無駄に老け込むことの意味はないなと思いましたね。
――そうですね。では、最後になるんですけども、織田さんにとって『幻奏夜』とは、どういう意味のあるライブですか?
歌うっていうこと自体の快感を一番味わえるライブです。歌っていろんな楽しさがある。ロックバンドと一緒に盛り上がるのも楽しいし、アコギ一本だけでやるのも楽しい。でも弦って、自分のその歌の情感に一番寄り添って盛り上がったり、ダークになったりしてくれるものなんですよね。ロックバンドだと、バーン!キャーン!って、「うるせえ!歌の邪魔だよ!」みたいな感じになる時もあるんですよ。アコギ一本だと「ここはもっと盛り上がってる気持ちを伝えたいんだけど」みたいな時もある。弦の場合は、邪魔することなく、情感の上げ下げをより拡大してくれるんですよ。だから歌っていて一番楽しいところがありますね。その楽曲の良さが一番伝わると思うんです。
――楽曲そのものの良さですか。
そうですね。そのものの良さ。だから、みんなに観てほしいな。他のライブはいいってことじゃないけど(笑)。『幻奏夜Ⅴ』、みんなに味わってほしいと思います!