石橋英子
シンガーソングライターとしての活動のほか、舞台、映画、アニメ、展覧会の音楽制作、さらに様々なアーティストとの共演やコラボレーションでも知られる音楽家、石橋英子。カンヌ国際映画祭で4冠に輝いた映画『ドライブ・マイ・カー』の劇伴でも注目を集めている彼女に、これまでのキャリアについて語ってもらった。
――石橋さんの音楽活動は本当に多岐に渡っていて。その全貌に近づくべく、いろいろと聞かせてもらえばと思います。
よろしくお願いします。最近、あまり人に会っていないので上手く話せないかもしれないですけど(笑)。
――いえいえ(笑)。まず、初めて弾いた楽器は何ですか?
子どもの時にピアノを習ったのが最初ですね。なぜか家にアップライトのピアノがあったんですよ。誰も弾いてないのに。小さい頃は指が長かったみたいで、父親が「ピアノを習わせよう」と言ったらしくて。結局、指は長くならなかったんですけどね(笑)。
――音楽が好きなご家族だったんですか?
そうかもしれないですね。父親はクラシックやデューク・エリントンが好きで。あと、おじいさんがビートルズのカセットを持っていて、それもよく聴いてました。そのあと、ラジオッ子になったんですよ。実家は千葉の茂原なんですけど、FENとかFM YOKOHAMA、FM TOKYOなどをエアチェックして、好きな曲だけをダブルデッキで録音し直して、自分だけのテープを作ったりしてました。
――素敵ですね! 当時はどんな音楽が好きだったんですか?
洋楽が多かったですね。小学生の頃は、ジョニ・ミッチェルとか、ブルース・ホーンズビーとか。高校くらいになるとフランク・ザッパ、ポップ・グループ、トーキング・ヘッズなども聴いてました。あと、近所のレンタル・レコード屋の人に教えてもらったりもしてましたね。「ザッパが好きなら、キャプテン・ビーフハートも聴いてみたら?」というように勧めてもらって。
――それもいい話ですねえ。スマホで何でも調べられる時代とは違って、音楽を探すにも人とのコミュニケーションが介在していて。
ピアノの先生にもいろいろな音楽を聴かせてもらいました。家にマリンバとかドラムセット等もあって、そこで遊ばせもらったのはとてもいい経験になりました。
――そうやって自然に音楽の素養を身に付けたんでしょうね。10代の頃からミュージシャン志望だったんですか?
ミュージシャンになるつもりは全くありませんでした。むしろ映画に興味がありました。高校生の時にジョン・カサヴェテスの「オープニング・ナイト」に衝撃を受けました。だからといって映画監督になりたいと思っていたわけではないんですけどね。高校生の頃は無気力というか、何もやる気がしなくて。夢みたいなものもなかったので。大学では気の合う仲間とバンドを組んで、自分たちが作った8ミリ映画の上映会で演奏したこともありました。そのバンドでライブハウスに出始めました。まあ、それも流れというか、「音楽をやっていこう」みたいな気持ちではなかったですね。流れに身を任せる人生なんです、どっちかっていうと(笑)。
――(笑)最初に組んだバンドは、ドラムだったんですか?
そうです。さっき言ったピアノの先生の家でドラムも叩いてたんですけど、ちゃんと習ったことはないし、完全に自己流ですね。結局、20代の頃はドラムばっかり叩くことになるんですけどね。
――2000年に福岡のオルタナバンドPANICSMILEに参加。石橋さんの音楽家としてのキャリアは“PANICSMILEのドラマー”から始まったと言っていいと思いますが、どんな経緯でバンドに加入したんですか?
あまりキャリアとか考えたことはないのですが(笑)。大学時代にやってたバンドでPANICSMILEと対バンさせてもらって、その後、福岡のライブにも呼んでもらったんです。大学を卒業したあとはバンドもやってなかったし、音楽からしばらく遠のいていたんですが、友達に誘われて灰野敬二さんのライブに行った時に、たまたま吉田(肇)さんと再会したんですよ。会場が高円寺の20000Vだったんですが、吉田さんがそこで働いてて、「久しぶり」みたいな感じで。その後しばらくして、PANICSMILEのドラマーが抜けて、私が入ることになったんです。それも流れですよね(笑)。
――PANICSMILEには約10年間在籍されましたが、今振り返ってみると、どんな10年間でした?
PANICSMILEはすごく不思議なバンドだったと思います。あまり自分の音源を聞き返す作業はしないのですが、久しぶりに聴いてみたら、すごいエネルギーだなと思いました。とにかく全員がバラバラなんです。個性も人間性もやろうとしていることも目指しているところも全部がバラバラで、ギリギリの所でよく成立していたな、と。でも、それがよかったんですよね。みんながバラバラだったからこそ、私みたいなヘッポコのドラマーでも成立していたんだなって。
――全然ヘッポコじゃないです(笑)。
いや、ホントにそうだったんですよ。当時は必死だったというか、本当に個性が強い人ばかりだったから、負けないようにやっていただけで。全員が「聴いたことがないものを作りたい」と思ってたし、他の人の演奏を妨害しているようなところもあって(笑)。ライブの音も大きかったし、無我夢中で泳いでた感じですね。
■いろんな活動のなかのひとつにソロ活動があった
――バンド活動の傍ら、ソロアルバム「Works For Everything」(2006年)、「Drifting Devil」(2008年)を発表されて、ソロアーティストとしての活動も始まっています。
それも成り行きというか、「ソロアーティストとしてもやっていきたい」と強く思っていたわけではなくて。PANICSMILEのほかにMONCHANGというバンドをやったり、知り合いに頼まれて映画音楽を作ったり、いろんな活動のなかのひとつにソロ活動があった、という感じだったので。人前で歌ったりピアノを演奏するも恥ずかしかったし、「これ、ほんとにやりたいのかな?」と思ってました。人に聴いてほしいという気持ちはそんなになかったかもしれません。
――PANICSMILE脱退後は、様々なアーティストとのコラボレーションも活性化していきました。
バンドを抜けて、だんだん自分の活動をやっていく中で、素晴らしい出会いに恵まれてきたと思っています。たとえば前野健太さんとは三軒茶屋のGrapefruit Moonというライブハウスで対バンして、一緒に「ファックミー」を歌ったのがきっかけでサポートをするようになりました。七尾旅人さんは、七尾さんの「911Fantasia」に衝撃を受けて、自分からメールをして自主企画ライブに出て頂いたのがきっかけでサポートをするようになりました。
――なるほど。ジム・オルークさんとも数多くのセッションを行っていますね。
ジムさんとは新宿のしょんべん横丁(思い出横丁)にある焼き鳥屋さんで交流が始まったんです。店主が音楽好きで、いい音楽をいっぱい聴かせてくれて。「これ知らないの?」みたいな感じで教わることも多かったんですよね。ジムさんの音楽人生はそれこそ多岐に渡っていて、あらゆる時代の音楽、文化の橋渡しをしている、音楽の世界にとってすごく大きな存在だと思います。日本ではそれがいまいち伝わっていないのかな、という気もします。常に休むことなく仕事や研究をしている人です。今でも多くのことを教わるし、自分も頑張らなきゃなと思います。
――星野源さんの楽曲やライブに参加したことも話題を集めました。それまではオルタナティブなアーティストとの仕事が中心だったので、星野さんとの共演は石橋さんにとっても新鮮だったのでは?
貴重な経験になってますね。源さんとの様々な活動は、私がまさか見るとは思わなかった新しい世界を見せてくださいました。とても感謝しています。
――今や日本を代表するエンターテイナーですから。
そうですよね。ただ、源さんは、私が最初に参加した2,014年のホールツアーからどれだけライブの規模が大きくなっても、“ひとり”という軸が変わっていないように思います。大事にしていることが変わっていないのが伝わってくるので、一緒に演奏する時やお話する時はとても安心感があります。
――そうやって未知のフィールドに思い切り飛び込めるのも石橋さんの良さなんでしょうね。
いや、ただ出会いに恵まれているだけなのだと思います。飛び込んだというより、迎えていただいた、という気持ちの方が大きいです。あと、カオスな状態が好きなんだと思います(笑)。同じところにいると煮詰まってしまうし、自分にウンザリしてしまって。ときどき部屋を改装するんですけど、それも環境を変えたいからなんでしょうね。でもそれは良さといえるのかどうか……(笑)。
――ノイズやアバンギャルドな音楽との相性の良さも、カオス好きから来てるのかも……。
そうなのかな……。でも、矛盾した事を言うようですが、一方、源さんとのライブの二日後に秋田昌美さんとのライブがあっても、自分の中にはなんの不自然さはありませんでした。なので、そもそも飛び込んでいるつもりがないし、これを言ったら元も子もないのですが、面白いものは面白い、ということのだけのような気がします。
■様々な楽器を演奏するようになったのは自分の音楽に必要だったから
――石橋さんはマルチプレイヤーとしても知られていますが、様々な楽器を演奏するようになったのは、何かきっかけがあったんですか?
自分の音楽に必要だったからですね。人と演奏するのも楽しいし、やりがいがあるんですけど、一人で作り上げることができるのも音楽の凄みだと思ってて。自分の世界を音楽で紡ぐのはかけがえのない時間だし、そのなかで必要な音があれば、できるだけ自分で演奏したいんですよね。
――舞台、映画などの音楽制作でも高い評価を得ていますよね。個人的には、劇団「マームとジプシー」との関わりがとても印象に残っていて。
舞台作品に関わる場合は、演出家がやりたいことに対して、音楽がどう響き合えるか?というところが強いのかなと思ってます。「マームとジプシー」で言えば、(劇作家・演出家の)藤田貴大さんとコミュニケーションを取って、藤田さんがやりたいこと、音楽に担ってほしいことをとにかくよく聞いて、その上で音楽がどう響く事ができるのかを考えることが大事でした。
――なるほど。カンヌ映画祭でも高い評価を得た映画『ドライブ・マイ・カー』の劇伴の場合はどうだったんですか?
最初は「ドライな感じの音楽」「風景に馴染むような音楽」というリクエストをいただいていました。でも、ある程度撮影が進んだ時に「観客と映像をつなげるような音楽がほしい」というリクエストを受けて、すごく難しかったし、探り探りだったんですけど、コロナの影響で韓国での撮影が中断したことでじっくり考える時間ができたのはよかったですね。脚本や原作を読み直して、映像も何回も観て、そこで感じたことを音楽にしていくことができました。
――『ドライブ・マイ・カー』は不思議な静けさと緊張感が漂っている作品だと思いますが、石橋さんの音楽は、そのなかに自然に存在していて、それが本当に素晴らしかったです。
よかったです。強い脚本ですが、繊細な映画でもあったので、たった一音で空気がかわってしまう可能性もある。でも思い切ってやってみようと思える、監督への信頼感はありました。
――劇伴に参加したミュージシャンは、ジム・オルークさん、山本達久さん、須藤俊明さん、マーティ・ホロベックさん、波多野敦子さんと、石橋さんの音楽活動に欠かせない方々ですね。
映画と音楽の間に起こることはそれ自体が抽象的なので、私自身がバンドの皆さんに言語化することは非常に難しいのです。でもいつものメンバーの皆さんは私が作る音から動物的に感じ取ってくれるので、とても助けられています。でも甘えてばかりいたらいつか罰が当たるかもしれないので、ちゃんと言語化できるように頑張りたいです。
――「ドライブ・マイ・カー」はこれから、世界的な評価を得ることになると思うし、石橋さんの劇伴も多くの人が耳にすると思います。
とにかく多くの方に『ドライブ・マイ・カー』を様々な形で楽しんでいただきたいですね。観る人それぞれに違う形の強い何かを残す作品だと思うのです。本人が認めるか認めないかは別としても。そしていろいろ噛み締めた後、さらにしばらく経ってから、「あ、なんかそういえば、音楽もそんなダメじゃなかったよね」と思っていただけたら幸いです。
■自分に正直にやりたいことをやる
――こうやって振り返ってみると、本当に多彩な音楽家だなと感じます。特に日本のオルタナ・シーンを語る上で欠かせない存在だなと。
自分としてはシーンに属している感じはなくて、むしろ、そういうものには反対で“いつも独りぼっち”みたいな気持ちです。いろんなことをやっているので、見る人からみれば、節操がないとか、実態がみえない、とか、もっと言えば不誠実に見えるかもしれませんが、自分の中にはそれらがつながる芯があるのです。でもそれは人に伝わらなくてもいいと思っています。
――石橋さんにとって、音楽活動における芯とは?
自分に正直にいること。やりたいことはやりたい時にやる。これに尽きると思います。分野やジャンル、シーンとかレーベルとか国とか関係なく、やりたいと思った音をやりたい場所で演奏する、一緒に演奏したいと思う人と演奏する。それしかないとこういう時代になってますます思うようになりました。「こうなったら、こうなる」と筋道立ててがんじがらめになるより、思いついたり閃いた時のために自分を空けておくほうが自分には合っているのかなと思います。
――コロナ禍になって、本当にやりたいこと、やるべきことが明確になった。
そうですね。ただ徹夜もできなくなっているので、期日ギリギリ人間のままではいられないなとは思います。時間の使い方はちゃんと考えたいです。
――本当にやりたいことに集中することで、作品がさらに研ぎ澄まされるのでは?
そうなるといいですね。今はいろいろなことが噴き出している時でもありますし、作品をつくること、それをリリースすることの意味合いも自分の中で変わってきている気もします。だからこそじっくりやっていきたいと思っています。
取材・文=森朋之