ブルーノ・ジネール ⒸJean-Pierre Bouchard
ある日「茶色のペット以外飼ってはいけない」という法律ができたら――?
2021年10月30・31日に神奈川県立音楽堂で上演されるポケット・オペラ『シャルリー ~茶色の朝』(以下『シャルリー』)は、こんな荒唐無稽な法律を、しかし「茶色の日々も悪くない」と受け入れ過ごすうち、気が付いたら思いもよらぬ顛末を迎えてしまうという物語。短いながらもそのテーマは深く、濃い。コロナ禍等々で様々な社会的問題が露呈し、ともすれば足元がスポンジでできているような不安定感を覚えるような世の中にあって最もタイムリーな、「今こそ見るべきオペラ」といえる。
『シャルリー』はフランスの心理学者、フランク・パヴロフが1998年に発表した原作『茶色の朝』をもとに、現代フランスを代表する作曲家の一人、ブルーノ・ジネールが2007年に作曲し、初演。オペラは今なおフランスをはじめ世界各地で上演され、ジネール曰く、「人々が考え、語り合うきっかけを提供してきた」という。来るべき日本初演を前に、今回はジネールにインタビュー。『シャルリー 』という作品の底にある意図や思い、さらに本公演の第Ⅰ部で演奏されるワイマール共和国時代の音楽、第Ⅲ部のトークショーについて話を聞いた。(文章中敬称略)
■「曖昧」に身を任せた、その行きつく先
ある日、「茶色のペット以外飼ってはいけない」という法律が発令され、主人公と友人シャルリーは茶色ではなかったそれぞれの猫と犬を処分し、茶色の猫と犬に飼い代える。
「茶色の猫だっていい猫だし」
「ことを荒立てるのもなんだし」
「規則に従っていれば安心だし」
「茶色に守られた安心、それも悪くない」
そう自分たちに言い聞かせ、サッカーを見たりカフェで会話を楽しんだりという日常を送っていた2人だが、ある日「茶色」に異議を唱える新聞が発禁となり、報道は次第に「茶色」に染まっていく。
常に誰かが誰かを監視しているような空気が蔓延し、とうとうある日、シャルリーが逮捕されてしまう。
理由は「前に黒い犬を飼っていたから」。
そして主人公は……。
原作『茶色の朝』は、わずか11ページの物語。大人も子どもも誰もが手に取れるようにと、1冊1ユーロという、収益を度外視した価格で発売された。
『茶色の朝』(大月書店)
なぜパヴロフはこうした活動に出たのか。それは当時、フランスでは極右政党がにわかに力を増し、極右政権の大統領が誕生しかねないという状況にあったからだ。パヴロフは極右政党の唱える全体主義、ファシズムの到来に危機感を覚え、極右政権が誕生したらどのようなことが起こり得るかという警鐘を鳴らすべく、『茶色の朝』を出版した。「この本は1人が5冊、10冊と買って知人に配るなど、いわば口コミで広まった」とジネール。本書は瞬く間にベストセラーとなり、結果フランスは極右政権の台頭を阻止したのである。現在『茶色の朝』は世界26カ国語に翻訳され、発行部数はフランスだけで200万部超。日本では2003年に刊行されて以来、静かな反響を呼び続けている。
原作『茶色の朝』の著者フランク・パヴロフ ⒸRaphael_GAILLARDE
――ジネールさんがこの作品を題材にオペラをつくることになった理由を教えてください。
ある音楽祭のために小作品をつくる必要がありました。ソプラノ1人にチェロやヴァイオリンなど演奏家5人というアンサンブルは決まっていたのですが、どういう作品にするか、題材を探していた時、たまたま入った書店で目にしたのが『茶色の朝』だったのです。書店で本を手に取りページをめくった瞬間、パッと頭の中に音楽が次々と溢れ出し、すぐにパヴロフに手紙を書いて、オペラ化の許可をもらいました。
――このオペラは2007年に発表されました。いわゆる「極右の台頭」から時を経ての上演ですが、世の中にどのように受け入れられてきたのでしょうか。
このオペラは上演のたびに人々が論議する機会を提供し、私も様々な価値観を持つ人たちの話を聞いてきました。作品についてはもちろん賛否両論ありますが、否定もひとつの意見ですし、そうした話を聞くのもとても刺激的です。そして物語の主人公やシャルリーのような「まあいいや」と流されることを選ぶ、いわば「サイレントマジョリティ」はフランスだけでなく世界中のどこにでもいるのです。つまりこの物語はフランスに限らず、世界中のどこででも起こり得る普遍的なテーマを含有しており、だからこそ年月を経てもこうして受け入れられてきたのではないでしょうか。
(c)Derrière Rideau
■明確な脚本と非現実的世界を醸す音楽。異なるハーモニーが描き出す「曖昧」な日常
――原作の登場人物はおそらく男性の主人公に、その男友達シャルリーの2人です。対してオペラに登場する歌手はソプラノの女性1人ですが、こうした構成にした理由は。
先にもお話したように、製作の条件に女性歌手を使うことがありました。もちろん男性ソリストを加えることもできましたが、私は敢えて女性歌手だけという制限を逆手に取ろうと思いました。この物語はとても明確でリアルなところがありますが、ソプラノ歌手に主人公、シャルリー、あるいはナレーターといった、多様な役割を持たせることで、リアリティから一歩引いた、曖昧な世界観が出せるのではないかと考えたのです。
ですから、女性歌手の選出については演技力もさることながら、声のヴァリエーションが多彩かどうかを重視しました。音楽はロックもあればジャズのテイストも取り入れている。1人でどれだけ多彩な音調が出せるかが重要でした。
――作曲するにあたり、とくに音楽的に工夫した点は。
テキストが明快な分、音楽には曖昧な、現実との距離感を出すことを心掛けました。例えば犬や猫を処分するシーンでは『小犬のワルツ』がどこかから響いています。物語を知っている人は「ああ、そうか…」と気づくでしょう。また実際に登場人物たちの普段の生活の中で流れていそうなジャズをテレビの音として使うなど、様々な音調の曲を取り入れながら、一歩引いた距離感を描き出しています。
(c)Jean-Marie Dandoy
■セレクトは作曲家ジネール。第Ⅰ部演奏のワイマール時代の音楽は「茶色」に対する必然
今回の公演は三部構成で、第Ⅰ部はアンサンブルKによる室内楽コンサート、第Ⅱ部にポケット・オペラ『シャルリー』の上演、第Ⅲ部はオンラインで作曲家のジネールと繋ぎ、作品についてのトークショーを行う。特に第Ⅰ部は1930年代、ナチス台頭により終焉を迎えたワイマール共和国の時代に活躍しつつ、ドイツを追われた作曲家たちの作品を取り上げる。ジネールが専門とする分野であり、彼自身が選曲を行った非常に興味深いプログラムだ。
――『茶色の朝』の「茶色」はナチスを象徴する色で、フランス人にとってこの色は全体主義やファシズムのイメージに即座に結び付くと聞いています。今回『シャルリー』上演のプログラムを組むにあたり、第Ⅰ部でナチス台頭でドイツを追われた作曲家たちの作品を取り上げた理由は。
私はこの時代の音楽について研究をしており、著作も数冊出しています。全体主義に対する危機感、警鐘がテーマのひとつである今回の物語と組み合わせるうえで、ワイマール共和国時代に活躍した作曲家の音楽を選ぶことは、ある意味必然だったといえるでしょう。音楽という観点としてももちろん興味深いものはありますが、政治的な支配が文化にどのような影響を及ぼすのか、それを伝えるうえでもこれは絶好の機会だと考えました。
アンサンブルK
――代表的な曲をいくつか教えてください。
例えばパウル・デッサウ。1933年にフランスに、その後さらにアメリカに亡命します。アメリカにわたる前にピカソの『ゲルニカ』に衝撃を受けてピアノ曲『ゲルニカ~ピカソに捧げる』を書きました。衝撃的な曲なのですが、これはあまり世に知られていない作品です。また私がこの曲を題材につくった『パウル・デッサウの”ゲルニカ”のためのパラフレーズ』も演目に加えました。
同じく1933年にベルリンからパリへ亡命したユダヤ人作曲家クルト・ヴァイルの作品も取り上げます。なかでも彼がロジェ・フェルネイの詞に作曲した『ユーカリ』は、非常に興味深く、幸福や幸せを讃えながら高揚感をかきたてつつ、しかし最後に「でもユーカリなんて存在しない」と落とし込んでいきます。彼の亡命人生を思うと、深いものが感じられます。
アルヴィン・シュルホフの作品では『ヴァイオリンとチェロのための二重奏』をお聴きいただきます。彼はユダヤ人、共産主義者、現代音楽作曲家であり、さらにゲイであったという四重の理由もあってナチスに連行され、1942年に強制収容所で亡くなりました。この時代、国を追われた音楽家たちは世界中に散らばっていきました。日本で活躍した指揮者、マンフレート・グルリットはその一人です。
ちなみにワイマール共和国の時代、1927年にバーデンバーデンでポケット・オペラ――いわゆる室内で気軽に楽しめる、小型オペラのフェスティバルがありました。この時代、小規模なオペラがたくさん作られており、今回『シャルリー』をポケット・オペラとしたのには、そうした理由も一つにありました。
オンラインでのインタビューに答えるブルーノ・ジネール
■『シャルリー』の物語は世界中のどこにでも潜む普遍的なテーマ
――第Ⅲ部のトークショーではジネールさんもオンラインで参加してくださいます。こうしたトークショーは『シャルリー』を上演する際にいつも行われているのでしょうか。
いつもではありませんが、主催者側からトークショーの提示をされることは多く、私も非常に意義のあることだと思い、受けています。オペラは小学校で上演することもありますが、その時に全体主義はなんなのか、どう取り組むべきか、いざ自分の身に降りかかったらやりすごすのか、受け入れて曖昧にするのかなど、考える機会を与えています。
アンサンブルK Youtubeより演奏風景
――『シャルリー ~茶色の朝』は何かがおかしくなりはじめた世の中に対する「まあ、いいや」という無関心、ことなかれ主義が重なった挙句、気が付いたら取り返しのつかないところへ行ってしまう物語です。今の日本ではとても生々しく感じられるのですが、この物語が書かれたフランスの人々は日本人に比べ「イエス・ノー」が明確で、デモなど社会的な主張もアグレッシブに行うといった印象を受けます。先に「サイレントマジョリティは世界中のどこにでもいる」と仰られましたが、そのことについてもう少しお話いただけますか。
フランス人に対するイメージですが、フランス人はまずは何にでも文句を言わなければ気が済まない気質で、それは自己主張やアグレッシブとは違います(笑)。やはり大多数の人々は肝心なところで黙り、流されてしまうし、選挙にも行かない。しかし一人ひとりが考えるのをあきらめ、なあなあで過ごし、いつか社会が「茶色」になってしまうかもしれないという問題は、おそらく世界的に起きていることではないかと思います。
私は『茶色の朝』には2つの要素があると思います。一つは歴史的な側面。物語は舞台を「フランス」とは明記していません。ですから全体主義やファシズムは、フランスでのことなのかナチス時代のことなのか、またはどこか別の国でのことなのかなど、いわばどこにでもあり得る社会的な問題として捉えることができるのです。しかもさらに恐ろしいことには、未来の問題かもしれないということも提言しているのです。
もうひとつは人間の物語。「まあ、いいや」という人間のあきらめが何を招いてしまうかという、世界中どこにでも通じる非常に普遍的なテーマもあるのです。
私は今回この『シャルリー』の日本上演の話を聞いたとき、非常に心地よく驚き、光栄だと思いました。この物語が、日本でも受け入れられているとは思わなかったのです。音楽はテキストでは気付かない感情を分からせたり、テキストとは真逆の感情を芽生えさせるなど、コトバの持つイメージを増幅させ、別の視点も与えてくれます。音楽を自由に楽しみながら、この『シャルリー』を通して何かを感じ、自分はどうなのかと考えてください。そして日本に「茶色の朝」が来ることがないよう、願っています。
――ありがとうございました。
(c)Jean-Marie Dandoy
取材・文=西原朋未