紀平凱成コンサートツアー2021-2022『FLYING』東京公演
2021年5月のGW中にサントリーホールで開催された『STAND UP! CLASSIC PIANISM』、そして、8月下旬の「24時間テレビ44」出演と大舞台を経験し、ますます成長を見せるピアニストの紀平凱成。今年8月25日(水)にはデビューフルアルバム『FLYING』をリリースした。現在、新アルバム発売を記念して10月16日(土)、東京・浜離宮朝日ホールを皮切りに、来年2月までに長野、神奈川、大阪の各都市をめぐるコンサートツアー『FLYING』を開催中だ。ツアー初日の東京公演の模様をお伝えしよう。
今年の春に二十歳の誕生日を迎えたばかりの紀平凱成。幼い頃から感覚過敏を抱えながらも、耳に入る音を鍵盤でそのまま再現できる類まれな能力に恵まれた。物心ついた頃には、クラシック音楽をはじめ、ジャズ、ロック、ワールドミュージックとジャンルを超えたあらゆる音楽に興味を示し、おのずと鍵盤に触れずに、一気に音符を書き下ろす独特のスタイルで作曲も手がけるようになったという。
紀平のデビューフルアルバム『FLYING』リリースを記念してのコンサートツアー初日公演は、10月16日(土)、東京の浜離宮朝日ホールで開催された。当日のラインナップは、紀平が敬愛してやまないロシア出身の作曲家ニコライ・カプースチンのピアノソロ曲を中心に、紀平が長年温めてきた自身のオリジナルによる作品で構成されていた。
緊急事態宣言明けのコンサート会場は満員のお客さんで活気にあふれていた。日頃は比較的年齢層が高いクラシック演奏会だが、この日は紀平と同年代の20代をはじめ、子供連れのファミリーのファン層も多く集い、会場は土曜日のマチネらしい、明るく、温かな雰囲気に包まれていた。
白のチュニックに黒のゆったりとしたロングパンツと、スタイリッシュに決めた紀平が舞台に登場。客席に一礼するとともに、いつものように笑顔で手を振ってみせる。ピアノにむかうと、天を仰ぐように高く両腕をあげて深呼吸。紀平のいつものスタイルだ。しかし、ひとたびピアノに向かうと、もうここからは別世界。まだ少年らしいあどけなさも感じる紀平の表情は一変してプロのピアニストの顔に変わる。紀平は全神経を集中させ、最も尊敬する音楽家というカプースチンの作品4曲に挑む。
第一曲目は「夜明け(Daybreak)」。冒頭の数小節から、すでに今までよりも、さらに大人の落ち着きを感じさせる堂々とした音楽づくりを聴かせる。深い呼吸を湛えた息の長いフレージングは、この曲の持つ、‟夜明け” への希望を暗示させる力強さをよりいっそう際立たせていた。紀平はこの作品を演奏する時、現在の状況にオーバーラップさせて、「明るい未来がもうすぐそこにある」という思いを込めているのだという。
続いて、同じくカプースチンの「24の前奏曲」より第9・11・24の三曲。第9番は、冒頭の一曲目の流れを汲み、しっとりとした大人の情感を淡々と紡いでゆく。演奏技術においても、昨年、そして前回のリサイタルよりもさらなる成長ぶりが感じられた。感情過多にならずに淡々と音を紡ぐことによって、よりいっそう深い響きと余韻が客席空間に冴え渡る。
第11番は、冒頭からジャズ和声全開のディープなブルース調の作品だ。紀平はその奇想天外な音の並びや響きを一つひとつ噛みしめ、楽しみながら弾いているようだ。同じく24番では一転して、速く、音の多いパッセージを緻密に、そして立体的に紡いでゆく。技巧的にも紀平の持ち味が存分に生かされており、スリリングな感覚とともに、その先に紀平のイマジネーションの中にある世界観がしっかりと感じられた。
続いては、紀平が幼稚園生の頃から弾き語りしていたという、あのジョン・レノンの名曲「IMAGINE」。今年4月に20歳の誕生日を迎えるにあたって、突然、この曲が心に浮かんだという。数十年の歳月を経て、幼い頃に興じていた弾き語りではなく、今回は紀平の言葉である ‟ピアノの音” を通してよりいっそう自らの思いを鮮明なかたちで紡ぎだしている。
冒頭、やさしいアルペッジョとともにあのお馴染みのメロディを優雅に聴かせる。音の強弱にメリハリを聴かせ、歌詞の一つひとつを想像させる語調の変化を音だけで描きだしてゆくスタイルが秀逸だ。強弱の振れ幅の大きさとともに、ダイナミックで大胆なアルペッジョが繰りだす絶妙な和声感が、紀平の内面の表情を豊かに描きだし、この作品に対する憧憬や愛情をストレートに伝えてくれた。
続いて、前半パートを締めくくる二作品は、紀平のアイデンティティを物語るといっても過言ではない「Songs Over Words」と「Winds Send Love」。「言葉で表現できない想いも、音を通してなら伝えられるよ!」という紀平の思い込められた「Songs Over Words」。この曲は、自然な息づかいと紀平の身体の自由な動きが渾然と一体化しており、言葉では表せない心の機微も自由自在に表現できる――まさに、そんな境地に達しているかのように感じられた。
「僕の一番大切な一曲」という「Winds Send Love」。紀平いわく、「風の生みだすさまざまな情景が移り変わりする様を描きだした組曲のような一曲」だという。中間部の激しさを伴う情景描写のリアリズムが、よりいっそう力強く描きだされ、前後の穏やかな情景の様がひと際心に沁みわたった。構成や転調の技法も実に秀逸で、今日の紀平のダイナミックな演奏はいつにも増してその美点を感じさせてくれた。お馴染みの作品を聴いていて、紀平が音楽家として一気に成長したことがより明確に感じられたのは興味深かった。
前半最後の一曲は、ふたたびカプースチンの「Variations 作品41」。譜面を初めて見た時の「美しい」という思いが忘れられず、演奏するごとにワクワク感が高まる作品だという。ブルースに少しだけラグタイム調の軽やかさが混じったようなテーマ。紀平は左手の低声部と右手が奏でる高音部をバランスよく、厚みのある音で力強く弾きあげてゆく。
バスパート(左手の低声部)の表情も多彩なのが紀平の持ち味だ。”Variations(変奏)”というタイトルだけに変奏を重ねるごとにテーマは速さと複雑さを帯びてゆくが、紀平はものともせず、いとも楽しげに、鮮やかにパッセージを紡いでいく。カプースチンの魔術的な音の世界と紀平ワールドが完全に一体化し、最高潮へ。少しセンチメンタルな中間部を挟んで、フィナーレへ向かっての超絶技巧。この恐るべきパッセージも、紀平はいとも簡単に ‟歌い” こなしてしまうのは驚きとしか言いようがない。
休憩を挟んでの後半は、秋らしく、シックなこげ茶の格子柄のゆったりとしたパンツスーツで登場。後半パートは、ジャズのスタンダードナンバーをカイル風にアレンジしたメドレーで華やかに始まった。「Fly me to the moon/Misty/Over the rainbow(オズの魔法使いより「虹の彼方に」)」と名曲三作で構成された紀平の独自のアレンジによるメドレーを、大人の雰囲気漂うエレガントなアレンジでじっくりと聴かせた。往年の名曲を自らの世界観に見事に引き込んでしまう紀平の想像力の豊かさには驚くばかりだ。
続いては、紀平のお馴染みのオリジナル作品を続けて三曲。「It's the Final Race」(「最後の闘い」の意)は、17歳の頃、初めてのコンサートが決定した際に感覚過敏を乗り越えようと、この作品を思い描いたという。ブルース調の個性的なメロディで始まる冒頭、音楽的なスタイルも成熟しており、とても17歳の作品とは思えない。すでに紀平の持つ音楽的な語法の巧みさと饒舌さが印象的だ。
「Taking off Loneliness」は「悲しみを振り払って」という意味の作品。「この世界は喜びにあふれているんだよ!」という紀平の明るく、前向きなメッセージが伝わってくるかのようだ。「It’s the Final Race」と「Taking off Loneliness」の二曲を弾き終えると、紀平は自らマイクを手にし、「二曲を聴いてもらってありがとうございました」と客席に向かって一言を感謝の気持ちを述べていたのが印象的だった。それだけ、真に大切に心に感じる作品なのだろう。
そして、昨年、コロナ禍での自粛中に書いたという「No Tears Forever」。すべてのコンサートが中止や延期になり、悲しくなったり、怒りが込みあげたりと、さまざまな感情に苛(さいな)まれたという紀平。しかし、そのうち「元気になろう!希望を持とう!」という気持ちが芽生え、その時の思いを音符にしたためたのだという。
悲壮感に満ちた曲調で始まる冒頭。しかし、次第に明るい想いが描きだされ、それは最後に未来を感じさせる希望へと変わってゆく――紀平の心の中にあるストレートな心の叫びが、一本一本の指から繰りだされる多彩な音によって紡がれていた。今日の演奏のクライマックスともいえる力強さは、並々ならぬ迫真に迫るものがあった。
続いて、ショパンの「ノクターン第2番」が演奏された。決して、大げさに緩急をつけること無く、紀平の思いの強さが生みだす自然な強弱の美しさがひときわ鮮やかだった。感傷的になることなく、淡々と冷静にこの美しい音楽を紡ぐことで、内面の想いを伝えるのがカイル流のショパンだ。
そして、プログラム最後の一曲は「Fields」。今回の新アルバムの一番目に収録されている作品だ。「大好きな人たちと一緒にいるときに思い浮かんだ曲」というだけに、喜びにあふれているとともに心地よさに満ちている。
中間部のジャズ風の技巧的な展開などの変化球も、技巧が繰りだす面白さというよりも、むしろ紀平の内面の機微を繊細かつ、ダイナミックに表現していた。聴く側も耳だけではなく、五感全体がその音を感じているようにさえ思えた。このような点でも、紀平の作曲技法の冴えと、よりいっそうの進化が感じられた。音の持つ生命力に自然と吸い込まれてゆく――これこそが紀平の音楽の醍醐味だ。
会場の鳴り止まない拍手に応えて、紀平はアンコールピースを披露した。今日が初日のツアーゆえに、アンコールの詳細はお楽しみとすることにして、リサイタルを締めくくった一曲だけ紹介しよう。アンコール最後に演奏されたのは、アルバム表題曲「Flying」だ。実は、開演冒頭に会場に流れていたのが、この「Flying」のオーケストラ版だった。アルバムに収められているタイトルは「FLYING~序章~」。“序章”と名付けたことについて紀平は、(「FLYING」は)「実はオーケストラ曲として作ったもの」と事前のインタビューで明かしていた。「と~っても長い曲になりそうです」と話すこの壮大な交響曲と、それにつながるピアノ版。紀平はアンコールでも心に感じる歌をストレートに濃密に歌い上げていたのが印象的だった。
弾き終えるとマイクを手にし、「最後まで、いつもありがとう。またこのホールで会いましょう!コロナが終息したら、もっとたくさんの都市へ、北海道にも行きたいです!」とユーモラスに語り、会場から大喝采を浴びていた。当初発表されていた4都市以外に、札幌での追加公演が決定したのだ。
いつも明るく、前向きなピアニスト紀平凱成。このツアーを通して、さらに成長した姿を日本全国のファンの前で披露することだろう。そして、2月下旬まで続くこの意欲的なツアーもまた、紀平にとって、今後のよりいっそうの成長の糧となるに違いない。
取材・文=朝岡久美子 撮影=荒川潤