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宮本浩次、椎名林檎、Chara、YUKI、長渕剛……数々のミュージシャンに称賛されるギタリスト・名越由貴夫。知られざる道程に迫る【インタビュー連載・匠の人】

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名越由貴夫

名越由貴夫

「ギター、名越さあああん!!」と、2021年10月から2022年6月まで、ツアー『日本全国縦横無尽』で、全都道府県で宮本浩次に紹介され続けて来た、日本を代表するロック・ギタリスト。ずいぶん前からこの『匠の人』のインタビューをオファーして来て、ついに実現しました!
 90年代後半から現在までの間、ある程度の年数、日本のロックを好きで聴いているなら、「この人のギター、耳にしたことがありません」という人、まずいないと思う。
名越由貴夫。1990年代に、インディ・パンク・ブームの先駆け的存在で、海外でも評価されたベースレス・トリプル・ギター・バンド、Co/SS/gZ(コーパス・グラインダーズ)でキャリアをスタート。ただしそのコーパスが1996年にメジャーへ移籍する3年前から、Charaのバック・ギタリストでセッション・ミュージシャンとしての活動も本格的に始めている。以降、UA、Chara、椎名林檎、Salyu、Superfly、長渕剛、hitomi、堂本剛、アイナ・ジ・エンドなどなど、その仕事は数え切れない。宮本浩次の全都道府県ツアーが6月12日に終わった6日後からは、YUKIのツアーがスタート、2022年いっぱいかけて全国を回っている最中の名越さんに、これまでのキャリアをじっくり訊きました!

──僕が名越さんを知ったのはコーパス・グラインダーズで、それ以前に関しては、1965年1月10日岡山生まれということぐらいしか知らないので。まず、いくつぐらいで音楽を聴き始めて、いくつぐらいからギターを持ったのか教えていただけますか。

小学校の高学年ぐらいから、多少音楽を聴き始めて。と言っても、田舎だったので、ビートルズぐらいしかなかったんですけど。近所のお兄さんが聴いてるのを聴いて……まあ、よくある話ですね。で、楽器を持つようになったのは、14歳ぐらいですかね。友達とバンドをやろうっていう話になって、ドラムがやりたかったんですけど、先に友達がドラムを買って、ベースも友達が買って、じゃあギターかな、っていう。当時はハードロックが流行ってたんで、ディープ・パープルとか、(レッド・)ツェッペリンとか。で、歌をやりたい奴は邦楽も好きで、甲斐バンドとかアリスとか、そういう時代ですね。だからバンドもごちゃまぜでやっていて、とりあえず曲を耳コピしたり、ヤング・ギター(ギター雑誌)のタブ譜を見たりしてました。

──高校まで岡山ですか?

いや、高校から東京に出て来ました。中学校3年で、進学どうしようかなっていう時に、東京の親戚のおじさんがたまたま来ていて、「東京に来るのもいいんじゃない?」って言われて軽く決めちゃったんですけど。親戚の世話になれたし。高校の軽音部で、友達に誘われていろいろやってました。歌謡ロック的なバンドとか、当時フュージョンが流行ってたので、そういうバンドもやりましたね。あと、一方では時代的にパンク・バンドですよね。スターリンとか。

──バラバラですね。

そうですね。どれも誘われてやってたんですけど、自分が家でやるのは……当時まだマルチトラックのレコーダーを持ってなかったので、カセットデッキ二台でピンポン録音をしながら、ドゥルッティ・コラムみたいなのを録ったりとか。イギリスのインディペンデントのニュー・ウェイヴ系の。そういう音楽を一緒にやろうっていう人はまわりにいなかったですね。

──当時、他にはどんなものを?

キャバレー・ヴォルテールとか、スロッビング・グリッスルとか、アバンギャルド系な。ラフ・トレードのオムニバスを買ったりとか。あとフライング・リザーズとか、ポップ・グループ。ジャーマン・プログレ系も聴いていて、カンがいちばん好きでした。

──そういう自分の趣味と、友達とやっているバンドは、完全に分けていたんですね。

はい。あ、でも、パンク・バンドのボーカルが、いちばん情報を持っていて。それがすごく詳細で緻密なデータで、彼にいろいろ教えてもらったところはありましたね。のちに『DOLL』(老舗パンク雑誌)で記事を書いたりしてました。

──なんて方ですか?

関口弘っていうんですけど。

──えっ、そうなんですね。面識はないけど、読者としては知っています。

同級生ですね。高校を卒業してからは会ってないんですけど。

──高校の時はライブハウスとかは?

歌謡ロックみたいなバンドで、新宿ACBとかに出ましたね。ボーカルがのちにソニーのディレクターになったんですけど。

──その頃はプロ志向だったんですか?

いや、音楽で食えると思ってなかったです。ちょこまか録音したりするのは好きだったんで、そういうのを仕事しながらでもやれたらいいな、と思ってたんですけど。

■本格的な仕事はCharaからです

──高校を卒業するとどうなるんでしょうか。

ブラブラしてましたね。普通の大学に行く学力もないし、美大に行けたらいいな、ぐらいの軽い気持ちで受けたら、べつに絵を描けるわけじゃないから落ちて。で、バイトしながら、美大の予備校みたいなところに何ヵ月か行ってたんだけど、面倒くさくなって、友達んちに転がり込みました。その友達はドラムをやっていたので、一緒にバンドをやったり。そのボーカルがさっき言ったのちにソニーのディレクターになったんですけど。その頃、彼は本気だったので、じゃあ一緒にがんばってみるかな、みたいな感じだったんですが、そう簡単にうまくいくわけもなく。そのうち、そのバンドもやんなくなって。そうこうしているうちに、小長谷くんっていう人と知り合って、一緒に音源を作る話になって。自主制作でレコードを出したりしてました。

──ああ、そのへんからノイズ系に。

その小長谷くんと桑原くんっていう人が、White Hospitalっていうノイズ・ユニットをやっていて、俺があとから入った形になるんですけど。のちに小長谷くんはGRIM、桑原くんはVASILISKっていう、西新宿とか、明大前のモダーンミュージックで自主制作盤を売ってるようなユニットを始めて。俺はその両方に参加して、ライブの時は、別ユニットだけどみんな一緒にやる、みたいな感じでしたね。その流れでコーパスのゼロに会うことになるんです。

──ああ、それは対バンとかで?

イギリスのCurrent 93が来日した時に、VASILISKが対バンするんですけど。その時に、Strawberry Swhitchbladeのローズ・マクドールが、Current 93のメンバーとして来ていて。で、日本を気に入ってしばらくいたんです。で、桑原くんと俺とローズで、「じゃあバンドでもやるか」って、当時よく対バンしてた触媒夜の内田くんも加えてCandy Caneっていうバンドを組んで。それをやってる頃に、ソニック・ユースが初来日して。昔小滝橋にあった頃の新宿ロフトの前座をやって、そこに来ていたゼロと知り合うんです。で、その年の内には、一緒にやろうという話になっていて、コーパスを組んだんですね。

──自分が好きなことをやれるバンドを。

そうですね、好きでしたね。ノイジーなロックンロール……まだグランジという言葉もなくてジャンク・ロックとか言われてたんですけど。ゼロももともとノイズ系の出身だし。で、バイトしながらライブやってたんですけど、また別のつながりもできて。ヒルビリー・バップスの二代目のボーカルの横山(裕高)くんって人がいて。

──はい、初代が亡くなった後に入った。でも、その頃はもう解散してますよね。

そうですね。VASILISKにいた柚楽弥衣ちゃんのつながりで横山くんと一緒にバンドをやることになって。そこにCharaでキーボードを弾いてたキーコさん(山崎 KEYCO 透)がいて。それでキーコさんに誘われて、Charaのレコーディングで弾くことになった。仕事として始まったのはそこからですね。

──それは、コーパスがキングレコードからメジャー・デビューするよりも前?

前ですね。とりあえずレコーディングで弾いて、そのうちCharaのツアーに誘われることになって。その前に、ライブで人のバックで弾いたりすることもちょっとあったんですけど、本格的なのはCharaからです。

──アンダーグラウンドなシーンにいながら、メジャーの仕事が来るようになったんですね。

でも高校の時も、パンクとかニュー・ウェイヴをやりながら、フュージョンや歌謡曲っぽいのも誘われればやる、みたいな感じだったので。気持ち的には同じなんですよね。

──そういえば当時、「コーパスのギターがヴァネッサ・パラディのツアーで弾いたらしい」ってきいて、びっくりした記憶があります。

それはツアーじゃないんです。フランスのチャンネル4っていうテレビで、スタジオにお客さんを入れてライブをやる企画があって。YEN TOWN BANDでニュージャージーのスタジオでレコーディングしたんですけど、その時のエンジニアがヘンリー・ハーシュっていうレニー・クラヴィッツのレコーディングをしていた人で。当時レニーがヴァネッサ・パラディをプロデュースしてたから、当然ヘンリーがレコーディングしていて。そのフランスのテレビショーの音楽の仕切りを任されたらしくて、「おまえやんないか?」って誘われてやることになっちゃって。だから、ツアーじゃなくて一回きりのテレビ出演ですね。

 

■YEN TOWN BANDを境に、渋めの、せつない系のギターをやってください、みたいな要望が増えました

──YEN TOWN BANDはCharaからの流れですよね。

そうです。そこで小林武史さんと初めて会って。その後のLily Chou-Chouは、スケジュールが合わなくてレコーディングはやってないんですけど、2010年の活動再開の時に呼んでくれて。俺も小林さんの作る音楽が好きで。いわゆる売れる音楽だけじゃなくて、アバンギャルドなこととか、マイナーなことも造詣が深いっていうか。なんでもありな人なので、やりやすかったですね。

──YEN TOWN BANDの時は、レコーディングはどんな感じでした?

ヘンリーのこだわりで機材が全部ビンテージなんです。レコーダーもアナログだし、とにかくシンプルなんですよね。当時日本で仕事でレコーディングする時とか、なんかしっくりきていなかったものが、その時に「あ、そうそう、これこれ!」みたいな。宅録の延長にあるというか、音の捉え方がわかりやすいというか。アナログでビンテージっていう制約がある分、わかりやすいし、いい音だったし。やりやすかったです。

──名越さんの今のギタリストとしてのスタイルが固まったのって、いつ頃でしょう?

いや……今でも、コーパスを始めた頃と大して変わってないと思いますけどね。あんまり進歩してないです。エフェクターが増えて、ちょっとディレイでごまかしたりとか、ある程度は対応できるようになりましたけど。最初の頃は、譜面を渡されて、そのコードに数字とか分数とか書いてあるともうわけわかんなくて、蕁麻疹とか出てましたけどね。

──呼ばれた現場では、どういうギターを求められることが多いですか?

仕事を始めた頃は、汚しだったですね。「この曲、きれいすぎるので、汚しを入れてください」みたいな。で、YEN TOWN BANDを境に、渋めの、せつない系のギターをやってください、みたいな要望が増えました。まあどっちも、ルーツになくはないので。

──YEN TOWN BANDの時のように、この仕事がそれ以降のきっかけになった、みたいなポイントって、他もありました?

順を追って行くと、Chara、YEN TOWN BAND、あと椎名林檎。いちばんでかいのは、その3つですかね。あとUAの朝本(浩文)さんとの仕事も自分的には大きかったです。椎名林檎は、『勝訴ストリップ』(2000年)のレコーディングで何曲か弾いたんですけど。そのあとはしばらく空いて、2008年の『林檎博』で弾いたぐらいから、またアルバムで弾くようになって。その頃から、「林檎さんのところでやっているような感じでお願いします」的な……直接そう言われることはないですけど、そういう曲調の仕事が増えたりして。

──朝本さんの仕事で得たものは?

朝本さんはラクだった(笑)。「悲しみジョニー」とか「ミルクティー」とか、とにかくレコーディングが早くて。モニターチェック代わりに弾いたら、「今のもらったから、もういいよ」ぐらいの。「あ、間違えちゃったかな」みたいなところも「今のおもしろかったから、それでいい」みたいな。とにかく判断が早いんだけど、プレイが新鮮なうちに記録して美味しいところを逃さないということですかね。あとで完成したのを聴いて「ああ、なるほどな」みたいな。あと、「名越くん、ちょっとドゥルッティ・コラムみたいな感じで弾いてよ」とか、共通の好きな音楽もありました。

■長渕さんは乱暴にギターを弾いているようで、ちゃんと音作りしているんですよね

──あと、長渕剛もやっておられましたよね。

おもしろい反面、体力的には大変でしたね。当時長渕さんは、ウエケン(上田健司)がレコーディングでプロデュースしてたし、ライブもバンマスで、彼から声がかかって。最初にレコーディングに1曲呼ばれて……オーディション的な感じだったと思うんですけど、そこで「おまえ、いいな」みたいな感じになって、やることになったんですよね。やってる間は多少筋肉がついてた気がします。

──鍛えたんですか?

最初のツアーのリハは、まず合宿で1週間ぐらいやるんですけど。午前中はトレーニングして、午後からリハ、みたいな。

──えっ、筋トレ?

筋トレとか、走ったりとか。ジムがあるホテルに泊まって、朝からそこでトレーニング。でも無理な根性トレーニングとかじゃなくて、ちゃんとストレッチして、その人に合った負荷をかけるトレーニングをしました。長渕さん、トレーナーとしても優秀で。

──そこで「僕、ギター弾きに来たんですけど」みたいには──。

いや、「長渕剛のツアーをやるんだしな、ある程度身体は作っておかないと」って思いました。理不尽なことをやらされている感じでは全くなかったです。

──ライブの本番はいかがでした?

自分ができることには限りがあるのでやれることをやるだけなんですけど。ただ、長渕さんの弾き語りのコーナーがあって、それは「すごいなあ」と思いましたね。ひとりでこんなにできるんだったらバンドなくてもいいよなあ、っていう。あと長渕さんは音に関しても、乱暴にギターを弾いているようで、ちゃんと音作りしているんですよね。そういうところも「なるほどなあ」と思いましたね。

──他に強く印象に残っている現場ってありますか?

うーん……あ、楽しかったのは、キョンキョン(小泉今日子)のツアー。それもバンマスがウエケンなんですよ。しかも長渕さんのツアーと並行で。片や肉体派の過酷なライブで、片やすごく楽しくて明るい現場、っていう(笑)。

■宮本さんはまったく手を抜かない。やっててスカッとします

──最近だと、宮本浩次の全都道府県ツアーが終わったばかりですよね。

そうですね。コロナ禍でもあったので、「これ、全部やれるかなあ」っていう不安はありました。でも、途中で延期はあったけど、なんとか全部行けましたからね。ここまで長いツアーを回ったのは自分も初めてでした。さすがにこれだけの本数を回ると、ツアー自体の成熟感もありましたね。10本ぐらいのツアーだと、毎週末行っていても、身体に入る前に終わっちゃう感じがあったりもするんですけど。

──宮本浩次というパフォーマーはいかがでしたか?

いやあ、毎回全力なので、すごいですよね。あたりまえなんだけど、まったく手を抜かないというか。やっててスカッとします。だから、それに演奏で応えようと思うし、けっこう力入りましたね。

──ツアーが終わったあとの宮本さんのインタビューを読んだんですけど、それによると名越さんは、もっとよくするための工夫として、毎回フレーズとかギターの音を変えていたと。

ああ、ライブ音源を聴き直して、「ここ、もっとこうした方がいいかな」みたいなのは、ありましたね。大枠は最初にある程度決めてたんですけど、ちょこちょこマイナーチェンジはしてました。

──それは名越さんにとっては、わりと普通のことですか?

変えた方がいいなと思うところは変えていくし、ガチガチに決まってなくて遊びがある部分は毎回自由にやりますね。ライブって、どれだけリハーサルをやっても、本番が始まると「あ、違う」って思ったり、「これをやった方がいいな」ってその瞬間に思ったり。ライブをやって変えていくっていうのは、僕にとってはあたりまえなのかもしれない。お客さんの前でやってみないとわからない。それは誰しもそうかもしれないですけど。

──代々木2デイズの追加公演の前、ツアー本編のラストの山口(周南市文化会館、6月2日)のアンコールで宮本さんからひとこと求められて、「感無量です」とおっしゃっていましたね。

(笑)あれはあまりにも定型コメントだなと思って、言ってから恥ずかしくなったんですけど。でも、周南の時も、代々木の時も、ほんと名残惜しい感じはありましたね。

──Charaがスタートと考えると、プロキャリアは30年近くになりますよね。

そうですね。でも、仕事に取り組む気持ちとか感覚は、仕事を始めた頃とそんなに変わってない……まあ、量が増えたぐらいで。だから、まさか今こんなことになっているとは、っていう感じでもないんですよね。

──時間が経っている感じもしない?

はい。老化はしていますけど(笑)。

取材・文=兵庫慎司 撮影=平川啓子

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