19th Sep. 2022 Yokohama
角野隼斗はアデスのピアノ協奏曲日本初演を終え、シンガポール〜台湾のリサイタルを開催している。ほんのひと月ほど前にポーランド国立放送交響楽団とのツアーを終えたばかりとは俄かに信じ難い。まるで遠い昔のことのようににすら思われる。(文:N.S/2022年10月17日 付記)
2022年9月、ポーランド国立放送交響楽団 来日ツアー最終日の神奈川県民ホール。オーケストラ共演によるアンコール「キャンディード序曲」も話題をさらい、満員のスタンディングオベーションで幕を閉じた。
会場はアンビエンスよりも直接音の印象が強く、上階や後方ではやや平坦に聞こえがちではあった。しかし10会場、様々な環境を共に経験してきたマリン(・オルソップ)とNOSPR、角野。きっかけやアクセント、ダイナミクスを非常に上手くコントロールしたようだ。ホール特性を理解して対処し味方につけるには、それ以前に完成された一体感が必要だがチームはその領域の演奏に達していた。
ピアノは初日の極めてパーソナルな叙情が影を潜め、それを“HAYATOSM“とでも言うべきか、自身の解釈に抑制感のあるフィルターをかけ、ショパンを極めてノーブルに伝える姿勢が感じられた。角野を評する際に華美な言葉を使いがちだが、それよりもはるかに感じられたのはテンポやリズム、ダイナミックレンジの使い方を含めこの楽曲の2022年現在におけるスタンダード感だ。それはマリンの手腕によるオーケストラとの受け渡しも含めた演奏全体から感じた印象だった。
時に演奏者の自由な表現は、あえて言葉にすると“揺らす“や“ためる““大事にする“またあるときは“大胆に”や“ドラマティックに“などの言葉で伝えられる感覚が存在する。一方でリスナーによって差分はあるものの、クラシックの楽曲には非常に気持ちの良い動きとおさまりがあるように思える(それはアデスですら!ではなくアデスこそか 笑)。それは作曲者の意図として楽譜に記されているものだが、コンサートではその時々の演奏家の作用が占める割合もまた大きい。
スタンダードと感じたのは、何かを狙うような奇をてらったアプローチと真逆からであった。また“ショパンがこう演奏をしたのではないか“というような懐古的なものでもない。この曲が“いまを生きる音楽“として存在し、この時代を生きる“いまの聴衆“が非常に素直に真剣に耳を傾けていた姿による。楽譜からもたらされるものと時代とのフィットとはこういう演奏なのかという印象だ。
本ツアーでライブ録音された「ショパン: ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 作品11」が、12月21日(水)にCDリリースされる。リリースに先駆けて、10月17日(月)からは主要音楽配信サービスにてデジタル配信もスタート。角野のYouTubeチャンネルでは、本編ライブ映像がプレミア公開されている。
録音はツアー3日目。録音日としてBestではなかったか。初日(※この日のレポートは3ページ目以降を参照のこと)、独特の緊張感を強いられるサントリーホール公演を経て大阪に移動してのザ・シンフォニーホール。音楽的対話の修正、コミュニケーションの深化、演奏の喜びも感じられ、そこにはまだ緊張感の持続も伴われていた。この日を境に演奏はよりノーブルな感覚に向かっていったように思われる。
「1楽章と2楽章の間の沈黙……コンサート中にこんなに会場が静かになることがあるのか……」
角野がその日の終わりに漏らした言葉が、演奏者だけでなく聴衆も含めて極めて高い集中度で行われたライブを物語っていた。
演奏は多くの会場でスタンディングオベーションをいただき、オーケストラから見てもこの反応は驚きと感動に満ちたものだった。演奏はもちろんだが、聴衆の多くを占めていたであろう角野ファンのシンパシーも自然にそれを後押ししたことだろう。
演奏者にとって同じ楽曲を短期間で演奏するツアーは楽曲を深化させていくメリットがある一方、漫然からおきるちょっとしたミスを抱えやすい側面もある。
そして聴衆の反応ほど正直なものはない。
コンサートは決してクラシック音楽の知識を豊富に持ち多くの演奏を聴き慣れた人のものだけではなく、ある人にとっては“人生で初めてこの曲を聴く“瞬間かもしれない。
他愛無く思われるちょっとした演奏ミスは想像以上に聴くものの集中度に影響する。
聴き終えた時に立ち上がらざるをえずにはいられない高揚感、その自然発生の純度を落とす。この反応はとても正直で誠実な感覚だ。
演奏者にとってツアー公演での集中度の持続というものは肉体的そして精神的にとても負荷がかかる。しかし酷なようだがそれはとても喜ばしいことではないだろうか。そのようなツアーを行えるアーティストは限られ、プレッシャーを感じながらベストを積み重ねその音楽の喜びを聴衆と刹那共有する。角野は今後その要求に表向き涼やかに、しかし応え続けていくのだろう。
かつて角野は自身の録音を行うことに懐疑的だった。世の中にこんなに素晴らしい録音が満ち溢れているのに自分などが行う必要があるのだろうか、その録音に足りうる演奏をしているのだろうかと。しかしまたその角野隼斗をきっかけにピアノをオーケストラを聴く機会がスタートした聴衆にとって今の時代はとても恵まれている。
彼の演奏で様々な曲の魅力に触れたなら以下を聴いてみるのも一興だ。
「ラプソディ・イン・ブルー」なら、ガーシュウィン自身の演奏ロールピアノ/ ティルソン・トーマスがある。
「ラフマニノフの2番」なら、グリモー/アシュケナージも素晴らしい。
そしてファンには旬の話題かもしれない、ワイゼンベルグ/カラヤンはYoutubeでも全編を見ることができる。
そして今回録音がなされた「ショパンの協奏曲第1番」なら、今や代表的なツィメルマンの新旧2つの録音もあり、若きアルゲリッチ/ デュトワの1959年版で17歳の輝きに触れてみるのも良いだろう。
(※ ピアニスト/ 指揮者)
それらを耳にしたときにあらためて角野隼斗/ オルソップの演奏を聴きたくなるかもしれない。
それこそが2022年に“胎動“した“いまを生きるスタンダード“と確信できる時なのだろう。
文=N.S【2022年10月17日 付記】
>(NEXT)ツアー初日レポート
9th. Sep. 2022 Kawaguchi
※以降は、9月15日に掲載されたものです
Lilia(リリア)とはポーランド語で百合の花のことだ。
その花言葉は「refined beauty(洗練された美)」「purity(純粋)」、「無垢」、「威厳」など。
かねてより角野隼斗は「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」と語っていた。それをショパンの音楽に感じていると。
2022年9月7日(水)よりスタートしたポーランド国立放送交響楽団来日公演。角野がショパンの「ピアノ協奏曲第1番」を共演するこのツアー公演の初日が「川口“リリア“ホール」であったことは、偶然にしては書き手がほくそ笑むぐらい出来過ぎだった。
おそらくこの日の客席に満ちていたセンチメンタリズムを当の角野は微塵も匂わせずピアノの前に座った。
やがて始まるAllegro maestoso。力強く、しかし厚みに比して柔らかさを持つ弦楽は、この切羽詰まったショパン、そして前のめりの聴衆の気持ちを少しだけ落ち着かせようとするようだ。オーケストラはセンター・オブ・ヨーロッパの楽団中でも特に丁寧さを感じさせる。マエストラ、マリン・オルソップの抑制の効いたコントロールはやはり格別であった。やがて訪れるbar139-140の2小節。“食い入る“ような視線の中のピアノソロはその刹那“噛み締める“ような重さだった。
ソリストに自由に預けてしまうわけでもなく、その幅広い受け皿でオーケストラがピアノを待つことも待たせることもなく進行する第1楽章。協奏曲というよりも共奏曲。角野は非常によくマリンを見ているのが伺えたが、それは何かを合わせようとする試みではなく、呼吸の合う者同士が同じテンポで目を見合わせてしまう感じに近い。
第1楽章が終わると会場内は深ーいため息。無理もない。聴衆の皆が昨年10月以来この瞬間を待ちに待ち、まさに息を止めるように見届けていたのだ。
6th. Sep. 2022 Tokyo
音を一つずつ丁寧に置くという印象の2楽章では、まだ記憶に新しいフジロックフェスティバルでの野外ライヴやコンサートツアーで垣間見せたアップライトピアノの表現を感じさせる。“これはPAを通してエフェクトかかっているのか?“と思わせるアンビエンス。しかし芯のある音をホールの奥まで届かせるのは決して力強い打鍵でなく、PPをそっと、しかしぐっと押しだすことだと証明するかのようだった。
間髪入れず始まる第3楽章の印象はまさに角野の真骨頂“踊れる“だ。テクニカルな速さに終始することではない。指先を繋いで近づいたり遠ざかったりする、優雅かつダンサブルな2人が全編を通して目前に浮かぶ。中間部では両手を取り合い静かにステップを踏む。そして最後まで踊り切ったダンサーが深くお辞儀するシーンが終曲に感じられたと言ったら言い過ぎだろうか。間違いなくコンチェルトに内包されている、コンクール、その後のコンサートツアーでも大事にしていたマズルカの延長線をオーケストラと一体に魅せてくれた。リズムとビートが身体を動かせてくれているのだから間違いない。
「“refined beauty(洗練された美)”はそれを意識しないところから発するからこそ美しい」
かねてより角野が語っていたこと。この公演での演奏は間違いなくそのスタンスを貫いていたと思う。しかし人間とは面白いもので、それだけコントロールができる彼の最初の音は、やはり“ひと“の感情の発露だったようにも思える。もちろんそれもまた意識しないところから現れるものだろう。「refined beauty(洗練された美)」を乗り越えて現れる心の「purity(純粋)」。それはまさにヒューマニティで、それこそが人の心を打つ音楽の要因でもあるのだと目の当たりにさせてくれたコンサートだった。高みを目指すストイックな姿勢は大切だし大いに結構だが、一年に一夜ぐらい(いやもっと)そんな日があっても良いだろう。9月7日は彼にとってそのような日だったのではないだろうか。
19th. Aug. Katowice
川口リリアでの初日を終えたのち、サントリーホール(東京)、ザ・シンフォニーホール(大阪)、静岡、名古屋、福岡、岡山と続き、その間指揮者マリンとの呼吸、そしてオーケストラとの一体感は当然のように増していった。大阪でのライヴはレコーディングもされたが、普段クラシック音楽とはあまり縁のない多くのカメラマンやスタッフが皆口を揃えて「今日はとてつもなくすごいものを見てしまった気がする」と語っていたことを付記しておこう。全ての公演について、その違いや進化、時には批評を言及したいところではあるが、多くの人々の批評や感想に耳を傾けたい。9月14日現在、ツアー11公演は折り返しとなった。
初日のアンコールにて奏でられたのはパデレフスキ作曲の「ノクターン」。オーケストラはもちろんポーランドのスタッフが感慨深く聴いているのが一目でわかる。「優美」や「静謐」を感じさせるショパンのノクターンはもちろん有名だがこのノクターンが感じさせるのは「安堵」。
ポーランドのピアニストで作曲家、独立時の首相も務め晩年はアメリカに渡りニューヨークで亡くなったパデレフスキ。その波乱の生涯の果てを彷彿とさせ、角野も自身一つの山を越えた気持ちが重なっているように見えた。
「この曲を初日のアンコールにしたら間違いなく来日した全員味方じゃん!なんてずるいやつなんだろう」
と思うのは心が「purity(純粋)」でない証拠(笑)。
角野自身は「好きな曲なんで」と。
この曲は、2022年のリサイタルツアーのアンコールで演奏されていたのでまんざら嘘ではない。
しかし翌日のアンコールは、趣真逆のガーシュウィン「スワニー」。
今度は楽屋でもコカ・コーラを愛するニューヨーカー、マエストラ マリン・オルソップに対してか(笑)。
その後もアンコールは毎日異なる楽曲が選ばれている。
文=N.S
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