ウィーンでの学生生活を終え、本格的に日本を拠点としての演奏活動を開始したピアニストの髙木竜馬。2023年3月に東京、大阪の二都市でリサイタルを開催する。夏の間、約一か月半にわたって開催された『「ピアノの森」ピアノコンサート』のラインナップとは一味違う深淵なる世界観を音に託す。二都市開催リサイタルにかける思いをたっぷり聴いた。
いま惹かれるのは「深い精神世界に沈める曲」
――今回の二都市ツアーでは、今夏、髙木さんが一か月半以上も携わっていた『「ピアノの森」ピアノコンサート』のプログラムとはカラーが違い、驚くほど渋い内容です。
今の僕の心境としては、精神的に深い世界に沈める曲や、演奏していて天国とつながる気持ちになれるなど、ショパンの作品やポピュラーな作品とはまた一味違う意味での深さや輝きを持った作品に触れたいというのがあります。自分自身の中で音楽的なバランス、あるいは心のバランスを求めた時に自然と「渋く内面的な作品を選びたい」という思いに至ったのだと思います。
ただ、多くの巨匠たちもそうしていたように、ポピュラーな作品群を演奏するのは演奏家としての使命であるとも思っていますし、それらのレパートリーからも学ぶことは多くあり、その辺りのバランス感覚が今後のキャリアを築いていく上でとても大切だと感じています。
今回のリサイタルにも少なからず『ピアノの森』のファンのお客様も来て下さると思いますので、尚更こういったお聴き馴染みのない作品であっても「こんなにも素晴らしい作品があるんだ」ということを感じて頂けたらという気持ちがあります。
――現時点で発表されているシューマン、ブラームス、ラフマニノフ、プロコフィエフの作品の他にも、さらに幅広いレパートリーも期待できそうでしょうか?
現時点で発表されている曲目以外にもフランスものからドビュッシー「月の光」と「喜びの島」、後半ではラフマニノフの小曲をいくつか演奏しようと考えています。それらを加えて全体を俯瞰すると、少しだけ “超渋さ” が和らいで感じられるのではと思います(笑)。全体的にもあまり演奏時間を長くしないでコンパクトにまとめたいと考えています。
「アラベスク」に映された人生の流れ
――髙木さんはいつも演奏曲目の1曲目は ≪聴衆を非日常的な世界に誘うための導入の曲≫ と位置付けていますが、今回の1曲目はシューマン「アラベスク」です。
曲想的にはとても簡潔で分かりやすい構成で、6~7分ほどの曲ながらシューマンらしさに満ちています。最初から最後までファンタジーにあふれ、彼の描く空想世界をのぞき込むような感じすらします。加えて、この作品は構成的にまったく同じ主題部分が三回提示され、その間にそれぞれ異なるエピソードが挿入されるという形になっているのですが、この形式自体が僕には人生の流れのようにも感じられるんです。
――人生とは、繰り返しがあって、そのたびにさらに飛躍してゆくものであると?
それもそうなのですが、結局、人生の大部分を占める時間は、日々の生活のルーティンの繰り返しではないか、と最近感じることがあるのです。僕の場合を考えてみても、朝起きて練習して、そのまま練習して夜を迎えてご飯食べて終わり、というのが基本的な毎日の過ごし方で、とても地味なんですよね。もちろん、演奏会があったり遊びに行ったり旅に出たりという特別な日もありますが、基本的にはそのルーティンの繰り返しです。ただ、その中でも日々の気持ちや感情というのは違う。感情面での紆余曲折はもちろん、練習している曲の内容や天候、人間関係などによっても左右されたりもします。
そんな気持ちをこの作品にあてはめてみると、主題の部分は一切バリエーションもなく、まったく同じ形で三回現れる。でもその間に挟まれたエピソードの部分では、まったく異なる感情が花開くというのが、一見同じような日々を歩んでいても、感情の面では日々違う経験を生きている人間の営みをギュっと凝縮しているように思えるんです。加えて、最後の最後に一気に天上の世界に突入する感覚もあって、その後に続く曲目の伏線といったらおおげさですが、プログラム全体の流れを暗示するという意味でも “プロローグ” にもなるのかなと感じています。
「人間の抗えない運命」ブラームスの老境の思い
――前半の演奏をブラームス「4つの小品 Op.119」全曲で締めるのもまた髙木さんらしいですね。
この作品はブラームス最晩年の曲と言っても良いと思うのですが、当時のブラームスの境遇というのは、周囲の友人知人の多くが亡くなってしまって、肉体的にも精神的にも、そして芸術的な意味においても枯渇しているところがあったのだと思います。
作品119の1曲目はクララ・シューマンが “灰色の曲”、“黒い魂が見える” というような言葉で評した程の作品です。2曲目も憂いを含んだ同様な空気感が流れて、3曲目は生きる気力はほとんど失われているけれども、甦ってくる過去の良き思い出とともに、たとえ一瞬であっても生命力を得たような感があります。終曲の4曲目も、3曲目の延長線上にあるかのように生命力にあふれた重厚な和声に裏付けられたマーチのような始まりです。このように3~4曲目は、そんな晩年の境遇の中でも、ブラームス自身、一条の光を見出して創作に意欲を燃やしていたのだと感じさせるものです。ただ、残念ながらそれも束の間で、4曲目の最後の1ページでは一気に短調に変わり、陰鬱な世界に突き落とされていくような悲劇的な終結で全体が閉じられます。
そのくだりが、僕にとっては、人間にとって抗えない運命を暗示しているようにも思え、死を間近にして、たとえ一条の光を見出したとしても ≪人間は絶対に死を迎えるという運命からは逃れられない≫ という非情な現実を突きつけられたブラームスの老境の思いが表現されているのでは、と強く感じています。
音楽を通して伝えるメッセージ
――後半はラフマニノフの前奏曲「鐘」から始まります。ラフマニノフは多くの作品の中で鐘の音のモチーフを多用していますが、髙木さんは“鐘”というのはロシア人にとって何を象徴するものだと思いますか?
ヨーロッパ的な視点ですと、一般的に鐘は街や故郷を象徴するものですし、生活にリンクしているものです。ただ、もう一つ深い意味で、宗教的には現世とあの世を結ぶ象徴的なものなのかもしれないとも感じています。そう考えると、このラフマニノフの作品自体も、とてもシンプルなものですが、弾き重ねていけばいくほど本当に深い曲に感じられます。
後半部分のドラマティックな箇所や技巧的な部分においては、若き日のラフマニノフの「聴衆を熱狂させたい」「世に出たい」という野心や強い意欲のようなものも感じられます。もう一つ、重厚な和音が続くという意味では、前半のプログラムで演奏するブラームスの終曲となる4曲目にテクスチャーが良く似ているので、休憩を隔ててもどこかリンクしているというのを感じながら第二部も続いて聴いて頂けると嬉しいですね。
――そして、この後、ラフマニノフの小曲が数曲入って、最後は プロコフィエフの「戦争ソナタ 第7番」です。昨今の世情を踏まえてこの作品を演奏してみたいという思いが芽生えたのでしょうか?
個人的には、プログラミングに政治的な要素を過度に投影するのはどうなのかなという気持ちはあります。音楽を通して何か政治的なメッセージを届けることが大切な場面も、もちろんあるかもしれませんが、バランスや節度を保つことは大切だと思っています。もちろん、ロシアとウクライナが戦争しているこの現状を全く見据えていないわけではないのですが、今回のプログラムにおいてそこだけにフォーカスするつもりはありません。
――現在髙木さんが師事している先生のお一人はロシア出身のペトルシャンスキー先生ですが、この作品についてはどのようなアドバイスがありましたか?
この作品はソナタといえども、標題に “戦争” というタイトルがついていますので、文字通り戦場のシーンを模写している部分があります。なので、先生からは、これはもちろんごく一部の例ですが「この箇所はミサイルや爆弾が落ちたように弾かなくてはいけない」というような指示を多数頂きました。ただ、それも「どのようなタッチ、どのような強弱を持って表現するのか」ということから始まって「それは決してただのフォルテであってはならない。それは亡くなった人々の悲痛な叫びであり、そこにあえて不協和音をぶつけることの意義を考えなさい」と言うように具体的なアドバイスを頂きながら考えを深めていくことができました。このように新たな解釈の可能性というものをたくさん示唆して頂いて、レッスンに行くたびに新たな世界が広がっていくようでした。
複雑な要素が絡み合う、人間の心情のその先へ
――髙木さん自身としてはこの作品全体を通して何を最も伝えたいですか?
このような戦争をテーマ的に扱った作品はどのような視点から描くかによって、時にはプロパガンダ的に用いられてしまう要素や危険性も孕(はら)んでいるのですが、この作品に関しては、私自身、プロコフィエフが感じた戦争の惨状がリアルに描かれているように感じています。
ただ、その中でも、例えば第3楽章の機械的にも近い打楽器的なメカニズムは、人間と機械の争いというのでしょうか、戦車なのか戦闘機なのか銃なのかわかりませんが、無機質なものと人間という有機物の“争い”や“闘い”、それは、もしかしたら “共存” なのかもしれませんし、少なくとも対立する二つものが象徴的に描き出されているようにも感じられます。
この二元的な対立はこの作品を通してどの楽章においても描かれていて、特に第2楽章では、人間の最も深い部分にある悲しみを抉り出しています。戦場で、もし自分が引き金を引かなかったら自らが殺されるわけですし、家族もその悲しみを背負うことになる。しかし、引き金を引いてしまえば、即座に相手に同様の悲しみを与えることを意味します。このように、この作品には戦争という惨状の中に生きている人間が抱く相反する(アンビバレントな)感情がリアルに描かれているように思えるのです。
この曲を聴いて何を感じるのか、どのようなメッセージを受け取るのかというのは人それぞれだと思いますし、戦争というものをどのように受け止めるのかということも含め、この曲は、その余地がとても広いように思えます。そのような意味では、複雑な要素が絡みあった人間の心情を超えたその先にあるものに迫っていけるような演奏ができたらと思っています。
――その文脈の中で、第三楽章は、ある種、壮大な盛り上がりの中で終結します。
私自身としては、プロコフィエフは、ある種、運命に抗って勝利したのではないのかという風に受け止めています。戦争そのものに勝利したというよりも、彼自身が闘っていた ≪個人的な運命に打ち勝った!≫ というような前向きな大きなエネルギーを秘めたものを感じます。
――その思いの中でプログラムを締めくくるというのは大きな意義がありそうですね。
リサイタルを行う際、1曲目には少し静かな内向的な作品を選ぶのが私自身のポリシーとしたら、プログラムの最後は華やかにポジティブなメッセージやエネルギーを伝え、少しでも前向きになってもらえるようなメッセージを残して演奏会を締めくくりたいという思いがあります。この作品を通して少しでもポジティブなエネルギーを客席にお送りできたらいいですね。
――それにしても精神的には重量級の内容ですね。
一つのプログラムの流れの中で様々な国の作曲家の作品を行き来するのは意外と難しいですね。精神が分離するというと大げさかもしれませんが、私自身、一曲ずつ分断されるような感覚を抱いてしまう傾向があるので、今回はその点にどう対峙してゆくのか、という点は興味深くもあり、挑戦でもあると思っています。
――では、最後にファンの皆さんにメッセージをお願いします。
今、この瞬間だからこそ実現できる演奏をしたいと思っています。ベストなものをお届けできるよう、日々解釈を深め準備しています。一口に “深淵” といっても万華鏡のようにいろいろな世界が広がっていくように感じていますので、少しでも多くの皆様にお越し頂けたら嬉しく思っています。
リサイタルというのは作曲家たちの世界観を私自身のフィルターを通してお届けする場という側面もありますので、今、自分自身が弾きたい曲を選んでプログラミングしました。それらの作品をお客様に聴いて頂けること、しかも、こんなに素晴らしい二つのホールで演奏させて頂けることを、とても嬉しく楽しみにしています。
取材・文=朝岡久美子 撮影=中田智章
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