盛岡・Club Change 店長 黒沼亮介氏
岩手県盛岡のライブハウス・Club Changeが20周年を迎えた。これを記念して、12月29日(木)・30日(金)に盛岡タカヤアリーナで『FIGHT BACK 2022 ClubChange 20th Anniversar』が開催される。29日(木)には、Ken Yokoyama、G-FREAK FACTORY、竹原ピストル、dustbox、10-FEET、MONGOL800、ROTTENGRAFFTY、(OA)FUNNY THINK。30日(金)がThe Birthday、THE BACK HORN、The BONEZ、SION with Kazuhiko Fujii、フラワーカンパニーズ、BRAHMAN、MAN WITH A MISSION、(OA)SATOMANSIONが出演……と、錚々たる顔ぶれ。
会場の盛岡タカヤアリーナは、盛岡市駅からシャトルバスで15分。東京から新幹線で2時間半、関西からも飛行機で1時間半とバス移動を含めれば2時間程度で到着できる。全国からでも遠いようで近い、盛岡での開催であるが、県外からは「どうして盛岡で?」という驚きの声が寄せられているそう。しかし同イベントは、ライブハウスがなかった盛岡で、20年続いてきた「Club Changeの周年」だからこそ実現したラインナップといえる。そして震災やコロナ渦といった幾度の苦難を乗り越えながら、音楽を鳴らし続けてきたストーリーがそこにはある。
今回、Club Changeを立ち上げた黒沼亮介氏に、この20年を振り返りながら、『FIGHT BACK 2022』に懸ける想いを訊いた。手探りで始めたライブハウスが、いかにして岩手に音楽の文化を根付かせてきたのか。地方都市としてできることはなにか。模索と挑戦を重ねながら、守り続けてきたライブハウスの想いとは。
ClubChange
ーーClub Changeが生まれたのが2002年。改めて、この盛岡にライブハウスをつくったキッカケというのは……?
当時、僕が26歳で、ジャパニーズ・ハードコアというジャンルのバンドをやっていて。全国を回ったりしてたんですけど、地元の盛岡にはライブハウスがないからツアーファイナルができなくて……それがずっと腑に落ちなかったんです。そういう話を、札幌にKLUB COUNTER ACTIONをつくったSLANGのKOさんとしていたら「ないなら作りゃいいんだよ」と言われて。「そうか、自分で作りゃいいんだよな」と思いたって、つくったのがClub Changeでした。店名は、青春18切符で東京までライブを観に行ったりしていた、FORWARDの「Change」という曲名からとりました。日本のハードコア界のレジェンドで、ISHIYAさんはいまだに怖いけど大好きな先輩です。
ーーばりばりツアーも回るバンド活動をしていた20代にとっては、すごく大きな決断ですよね。それも最初は知り合いの大工さんと数人でつくり始めたとか。
そうなんです。当時、僕も建設現場で働いていて、バンドを兼業でやろうと思っていたから自分たちでできたというのもあると思います。土木関係の仕事も好きだったから、どっちも続けていけばいいかなと。だけど始めてみたらやることが多くて、ライブハウスに専念することに。そこからこんなに大変だとは知らず、血みどろになりながら20年……ほんと、よくやってますよね(笑)。
ーー近くにライブハウスがないので、ロールモデルがあるわけでもなく。当時、東北では岩手県だけがライブハウスがなかったのですか?
そうですね、たぶんうちが最後だったと思います。青森はQUARTER、八戸ROXX、弘前Mag-Netがあって。秋田にClub SWINDLE、仙台はMACANA、BIRDLAND、HooK、福島がKORIYAMA CLUB #9、HIPSHOT JAPAN、山形はミュージック昭和sessionとかがあって。たしか全国47都道府県でも最後だったはず。
ーーとなると、県内でライブハウスシーンを切り拓いていく立場でもあったわけですね。
そうそう。だから仙台のライブハウスで働いている友達に機材のこととか教えてもらったり。最初は、それはもう大変なんてもんじゃなかったですよ。PAができる人を探して、見つかったけど急に倒れて来れなくなったから自分でやったこともありました。PAが何かもよくわかってない状況だったから、電話で教えてもらいながら触って覚えてみたり。もう毎日がジェットコースター。大変というか、1年ぐらいはずっとヤバイ状況でした。ライブハウスをつくることができても、運営の知識は何もないから(笑)。そんな中で、ザ・スターリンが大好きだったから最初は遠藤ミチロウさんに来てもらったり、FORWARDや鉄アレイといった先輩に来てもらってライブをやっていたハードコア箱みたいな感じで始まって。突然、「PIZZA OF DEATHというもので……」とPHSに転送電話がかかってきて、Ken Yokoyamaさんと俺が対バンしたこともあったり。次第に後輩からも連絡がくるようになって徐々に埋まってきて、大学生とか、いろいろな人が出入りするようになりましたね。
ClubChange
ーーライブを披露する場所もなかなかなかった盛岡に、音楽を通して交流できるハブとなる場所が。それまではみなさんライブをするとなるとどうされていたのですか?
地元の公民館とかクラブを借りたり、昼間にバーを借りてライブをするしかなかったですね。だから、ずっと盛岡に箱がなかったことで、ジャンルも当時は分裂していて。俺みたいなパンクはパンク、メタルはメタル、ポップスはポップスで分かれていたんです。それが、Club Changeというジャンルや世代を超えて、みんな仲良くできる場所ができたことで地元にバンドも増えて、交流できる場所ができて。いい感じにシャッフルされて、シーンの活性化にも貢献できたかなと思います。
ーーそこから、2011年にはCLUBCHANGE WAVE、2014年にはthe five moriokaも続けて開業に。
このWAVEもまた大変で……。実は2005年に一度、別の場所でオープンしていたんですけど、近隣との問題で移転しないといけなくなったんですね。開業するために15年ぐらいかけて返すつもりだった借金をかかえたのに、1〜2年で出ていけと。それから資金面や音の問題をクリアにして、今の場所がようやくみつかって、2011年に無事オープンできた。それが2月のことで、オープンの翌月の3月11月に震災が起きた。
ーーClub Changeが2012年で10周年、WAVEも苦難を乗り越えてようやく再スタートできるというところで。
そうそう。これからやってくぞってところでね。決まってたライブも全体で120本ぐらいなくなったり、そう思うと本当に山ばっかりの20年でした。だから、コロナ渦も大変なのは大変だけど、そもそも大変じゃなかったことがねえなと(笑)。
ーー時系列が少し戻りますが、WAVEで大変なところ2007年には盛岡市内の各所で開催されるフェス「いしがき MUSIC FESTIVAL」をスタートすることに。こちらはどういったキッカケで?
盛岡城の跡地が近くにあって、僕たちはこのあたりでずっと育ってきたんですね。だけど地方都市の例に漏れず、盛岡にも郊外店ができて中心地から人が流れて街中が夜の街化していく状況があって。僕たちが小さい頃の賑わいがなくなってきたことに寂しく思っていたので、どうにか街を元気にしたいという想いで始めました。
ーー初めてのライブハウスから、今度は初めてのフェスを。
そう。「フェスとかよくわかんね」みたいな状況から、音楽が好きな人だけじゃなくて街の人たちみんなが遊びに来れるお祭りにしたくて入場無料のイベントとして始めました。なにより中高生とか若い人たちにライブを観てほしいというのもあって。若い人から街に住んでるおじいちゃんおばあちゃんまでが、一緒になれる景色を共有できる場所をつくりたかったんです。
ーーClub Changeも含め、『いしがき MUSIC FESTIVAL』で初めてライブに触れる人もたくさんいらっしゃるのでは。盛岡の音楽シーンを変えたといっても過言ではないですよね。
そういう人もたくさんいますね。シンガーソングライターの日食なつこは、中学生の時に『いしがき』でライブを観て、それからClub Changeでライブデビューしていたり。佐藤千亜妃も盛岡出身で、Cody・Lee(李)の高橋響(Vo.Gt)とか、今うちでやってるFUNNY THINKとか活躍しているアーティストが岩手から世に出てきているのは嬉しいですね。
ーーまさに、新しい文化やシーンを盛岡からつくっていますね。
その底上げみたいなところは、チェンジとしてもすごく考えています。高校生に向けて力を入れていたり。どうしても地方都市に住んでいる人の8割から9割は、高校して大学受験とか就職で他県に出て行っちゃうんですね。もうこればっかりはしょうがないと思うんだけど、やっぱ高校生とか10代で地元に思い出が少しでも作れていたら愛着が湧くと思うんです。楽しい体験が、記憶に残ってるから。音楽を始めた人たちなら、地元のチェンジとか『いしがき』でやったライブとかもきっと覚えてくれているはず。当時の体験だったり風景がどっかに残ってれば、またいつか帰ってきてくれると思っていて。だからそういう環境や場所をつくり続けたいなと。最近は、お盆に地元に帰ってこないで、「『いしがき』で会おう」とみんなで開催に合わせて帰ってきたりしてくれてるみたいで。そういうキッカケにもなるし、僕も昔は「田舎だとなんもできねえ」とか思ったりしてたけど、「そうでもないぞ」という勇気にもなればと思ってやり続けてますね。
ーーその体験や風景に、救われてきたひともきっと多いのではないかなと思います。
やっぱり田舎だからね。そういう寄り合いがないとキツいわけですよ。人口も少ないし。街中でも21時には店が閉まって、普段は遊びに行くところもないから。「救われている」かどうか音楽とかライブハウスをやってる方はわかんないけど、少なからず僕は音楽に救われて生きてきたからね。それも恩返しみたいなもんだと思っているから、そういう場面をどれだけ作れるかが僕らの仕事だとは思っています。
ーー『いしがき』は、震災の年もなんとか開催されて、コロナ渦は中止を余儀なくされるも今年は3年ぶりに開催。歩みを止めずに来られた背景にはそういった想いが。
危機的状況の時こそライフラインがすごく大事だと思うんです。今回のコロナ渦でいえば自粛するのは大切だけど、そうするとどんどん内側にこもって心がダメになっちゃうから。だけど音楽とか絵とかもそうだけど、芸術文化にはパワーがあって、そういう時にこそ絶対に必要なんです。『いしがき』の時ぐらいはみんなで泣こう、みたいな。
ーー1年のいろんな感情を背負って、しっかりと感情をさらけだせる場所のような。
そういうことができればいいかな。もちろん賛否両論あるけど、やるやついねえから、俺らがやるしかない。
ーー「ライブハウスがないなら、つくるしかない」と始めた当初と同じ精神で、続けてこられたのですね。ようやくフェスやライブも開催できるようになってきた、最近の状況はいかがですか?
集客は、正直いままでで一番キツイですよ。具体的にどう大変だったかとか、どう乗り越えてきたのかとかもう記憶がないぐらい毎日で精一杯。3年ぐらい経って、少しずつ状況もよくなっていますけど、正直このライブハウスやイベントという場所を死守するので精一杯ではあります。だけど、20年ライブハウスをやってきて、1回も「元に戻りたい」とは思ったことがないんですね。だから、今のこの大変な状況というのもどこか進化していかなきゃいけないタイミングなのかなと。それはライブハウスもそうだし、ライブのあり方だったり音楽との向き合い方なのかもしれないし。僕自身が変わる時なのかもしんない。この状況でどうやってアウトプットしていくのか、「進化しろよ」と言われてんのかなと、前向きに捉えてます。新しい何かに、変わっていかないといけない時なのかもしれないなと。
『FIGHT BACK 2022 ClubChange 20th Anniversary』
ーーこんな時だからこそ、20周年記念イベントがアリーナで開催されるのですね。
そうですね。そもそも地方に行くほど、まだコロナを重く捉えていて閉鎖的になってるところがあるんです。正直いえば20周年を意識して、記念イベントを開催しようとは考えてなかったんですけど、やっぱりどうにかしてこの閉鎖感を打破したいなと。ただライブハウスはキャパにも限界があるので、もっと多くの人を感動させるために、お祭りにしてみんなが観に来れる環境をつくろうと大きく開催することにしました。抽選で来れない人が出てくるのも悲しいし、ホールだと普段ライブハウスに慣れてない人でも来やすい環境でもあると思うので。それで祝ってくれそうな仲間に声をかけて、これからもずっと繋がっていくシーンの火を灯すために、今回は思い切って開催することにしました。
ーータイトルがまさに。
そう、「FIGHT BACK」。逆襲ですよ。
ーーこの3年間、ライブに行けてない人にとっては久しぶりの景色だったり。思春期で文化祭すらなくて楽しい体験がなかなかできなかった人やライブに行ったことがない人たちの初めての機会になるかもしれないですね。
まだまだライブハウスに行けない人もたくさんいますからね。だからといって20年ライブハウスやってきた僕たちが諦めるんじゃなくて、もっと寄り添って観にきてもらえるような環境を作れば乗り越えられることかもしれないと思うんです。今回のイベントもそういうキッカケや環境づくりになったらいいなと。やっぱりライブを観たら、感じるものはあると思うから。そこから普段の生活にフィードバックして、みんな何か少しずつ変わっていくことがあったらいいなと。そういう連鎖が、少しずつ前向きな気持ちに繋がっていけば。僕は、みんなが楽しんでくれたらそれが一番なので。この日は嫌なことも忘れて楽しめる、 お祭りになればいいなと。
ーータイトルもしかり、ラインナップもかなり前向き、前のめりですよね。
ネット上では、「なんで盛岡でやるんだ」と質問が寄せられています(笑)。
ーーものすごく豪華、といいますかなかなかそろうことってないですよね。これだけのメンツ、ラインナップを見てるだけでも元気がでる。
すごくなにかの意志を感じるメンツですよね。僕もそうだけど、みんな友達が少なそう(笑)。それはつまり、自分のフィールドで、自分達のやりたいこと、やるべきことをやってきた人ばっかりということでもあって。一匹狼みたいな人たちが、年末に盛岡まで本当にみんなよく来てくれるなと。みんな直接、電話でオファーしてさ、そしたら何も聞かずに二つ返事で「出るよ」といってくれて。本当に嬉しいよ。特に付き合いの古いKen Yokoyamaさんなんて、「そっち何度なの? 雪大丈夫? そんな寒いところにずっといたくない」と言いながらも出てくれるから(笑)。TOSHI-LOWなんてこないだ、「そういえば他は誰が出るの?」と聞いてきて。知らずに受けてくれたのかよ、とか。本当にありがたいよね。それにメンバーだけじゃなくて、スタッフもたくさん抱えてるバンドが多いからさ。PAの人もそう、テックの人だったり、みんなと思い出があるから、チームで来てくれて会えるのも個人的にはすごく嬉しいよね。
ーー共に歩んできた、20年の歴史が凝縮された二日間に。ほかにはない、クラブチェンジの周年で、盛岡だからこそのドラマが音にのっかってくるステージに。
ほんとにそう。フラカンとか、メジャーじゃなくなった1番キツイ時期にチェンジに来てくれて、その時にたくさん話をして、やってる音楽がすごくカッコよくて俺らみたいなライブハウスの人間もすげえ応援したいと思わせてくれてさ。ツーマンだった公演をワンマンにして、それが武道館まで上り詰めて……。そういうすげえストーリーがあんのよ、ここには。今回出てくれるやつらはみんな紆余曲折あって、もがきながら一緒にやり続けてきた、戦友なんです。だから、みんなと戦ってきた姿を、今こそ見せられたらなと。あとは出てくれるみんなが言うこと言ってくれるだろうし、集まったひとたちと心がユニゾンすれば。
ーー最後に、今後の展望についてお聞かせください。
この3年で考えてきたことは、音楽シーンもいろんな人のためにあるものだと思うからこそ、しっかりと繋げていきたいなと。正直、チェンジも含めて東北とか地方のライブハウスは、まだまだみんなに知られていないと思うんです。ツアーの告知とかポスターで名前を見かけるぐらいで、県外の人はあんまり名前も聞くことが少ないはずで。だけど10年、20年とチェンジが続けてこれたのは、バンドもそうだし来てくれるお客さんがいたからこそ。その人たちがいなければ、俺たちは存在していないからね。だからこそ、風評被害があったり、自粛しないといけないからといって、諦めるわけにはいかない。お客さんがまた来てくれるように、これからもやり続けるしかないんです。この3年の話じゃなくて、20年死守してきたわけだから。これからも灯を絶やさず、守っていきたいです。
取材・文・撮影=大西健斗
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