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米津玄師、Eve、須田景凪、ちゃんみな、iri、XIIX、80KIDZ、Shin Sakiuraなどの楽曲やライブで活躍する堀正輝。ドラマーのみならず、ビートメイカーやアレンジャーとしても才能を発揮する個性に迫る【インタビュー連載・匠の人】

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堀正輝

堀正輝

米津玄師、Eve、須田景凪、ちゃんみな、iri、XIIX、80KIDZ、Shin Sakiuraなどの楽曲制作、ライブのサポートで活躍し続けている堀正輝。ドラマーとしてはもちろん、ビートメイカーやアレンジャーとしても才能を発揮している。さらに、ソロ名義で楽曲を発表している堀に、自身のキャリアと音楽的な志向、ドラマー/ビートメイカーとしてのスタイルについて聞いた。現代を代表するアーティストたちを支えるクリエイター・堀正輝の魅力の一端に触れてもらえたら幸いだ。

――堀さんは1981年、北海道札幌出身ですよね。15歳の頃からバンドをやっていたそうですが、ドラムをはじめたきっかけは何だったんですか?

ありがちなんですけど、中学生の時に友達の家に集まってて、みんながギターやベースをやっていて、「ドラムがいないな」と(笑)。実際にはじめたのは中3の終わり、高校に入る寸前でした。音楽もそんなに詳しくなくて、周りが聴いてたX JAPANとかジュディマリとか。高校に入ってから友達にLUNA SEAを教えてもらって、しばらく聴いてましたね。コピーバンドもやりました。

――ドラムは独学で?

先生について習ってましたね。ペダルを買うために地元の楽器屋さんに行ったときに、「ドラムを習いたいんですけど、誰かがいい人いませんか?」と店員さんに聞いたら、阿部一仁さんというドラマーを紹介してくれて。同門というか、サカナクションの江島啓一君も阿部さんの生徒だったんですよ。

――そうなんですね! 交流もあったんですか?

少しありました。サカナクションの前はそれぞれ違うバンドをやっていて、ベースの草刈愛美さんが参加していたバンドのライブを見に行ったり。対バンしたこともあったかな? 同世代なので。

――90年代後半の札幌のシーン、興味深いですね。当時のバンド活動は?

ドラムを習い始めてから、コピーバンドじゃなくてオリジナルをやりたいと思って。楽器屋さんに貼ってあるメンバー募集を見て、「真剣にやりたい方」「オリジナルをやる」と書いてあるバンドに連絡を取って、年上の人たちのバンドに入れてもらったんですよ。それが16歳のときですね。

――そのときからプロになる夢もあったんですか?

いえ、そこまで明確ではなかったです。凝り性というか、1回ハマるとずっとやっちゃうんですよ。ドラムもそうで、やるからにはちゃんとやりたいと思ってました。高校卒業後も進学しないで、バンドを続けていたので。

――ポーティスヘッドやマッシヴ・アタックとの出会いが最初の転機だったそうですね。

そうですね。20代前半の頃やってたバンドが解散するタイミングで当時のメンバーの一人が「ポーティスヘッドやマッシヴ・アタックみたいな感じのバンドをやりたい」と言ってたんです。全然知らなかったんですけど、聴いてみたら、めちゃくちゃ衝撃を受けて。それまでは普通のロックバンドをやってたんですけど、違和感があったというか、「自分はこっちの人間じゃないんだろうな」という感じがあったんです。周りに(ロックに)向いてるドラマーがいたし、今振り返ってみると、“自分じゃなくてもいい”と思ってたのかもしれないですね。

――そういう時期にブリストル発のトリップポップを聴いて、「これだ」と。

自分の好きな音楽はこれかもしれないと思って、どっぷりハマりました。まったく聴いてなかったジャンルだったし、そこからダンスミュージックに一気にシフトして。一時期、生ドラムが入っている音源をほとんど聴かなくなっちゃったんですよ。ただ、当時の機材や技術でああいう感じの音楽をライブでやるのはめちゃくちゃ難しくて。同期の音を使う発想もなかったし、ラップトップで構成するのも当時持ってた機材のスペック的にもリスクが高かったというのもあって、「どうしたらいいだろう?」ってメンバーと考え抜いた結果、MPCサンプラーとベース、ドラムのスタイルになって。その時にヒントになったのが、Prefuse 73だったんです。Warp(エレクトロニカ、IDMを中心にしたUKのレーベル)まわりのアーティストもかなり聴いていたし、そのときに持っていた機材で工夫しながら、いろいろ試していました。

――00年代のはじめとしては、かなり先鋭的ですよね。そのときの試行錯誤は、今の活動にもつながっているんですか?

本当にそうで、サポートの仕事にもすごく活かされています。当時、札幌で「あーでもない、こーでもない」とやっていたことが元になっているというか。SCAM CIRCLEというバンドだったんですが、今聴いても「いいな」と思います。ただ、ぜんぜんメインストリームの音楽ではなかったから、売れるわけなくて(笑)。

――早すぎたのかもしれないですね。

「誰もやっていないことをやりたい」という気持ちが強かったんですよ。毎日のように集まって、「他のバンドがやってないことって、何だろうね」って喋ってましたから(笑)。SNSもなかったし、目の届く範囲が今とはぜんぜん違うから、自分たちで考えるしかなかったんですよね。その頃は日本の音楽もかなり聴いていて、レイ・ハラカミさん、DJ KRUSH、電気グルーヴ、m-floとかが好きでした。

――誰もやったことがない音楽を目指す試行錯誤の日々は、いつ頃まで続くんですか?

20代半ばまでやってましたね。打ち込みで作った音源を生でやってみたり、その後もいろいろ試していたんですけど、それが良いのかどうかも答えが出ないんですよ。ライブをやって、「イマイチだったね」みたいなことを延々とやっていて……ゆっくり実験していた感じです。

――なるほど。当時の将来像って、どんな感じだったんですか?

どうだったんだろう?(笑) ずっとバイトしながらバンドをやって、就職もしたんですよ。あと、ドラムのスクールで教えたりもしてました。最初にドラムを教わった阿部さんが東京に行ってしまったときに、阿部さんの先生を紹介してもらって。ジャズドラマーの舘山健二さんなんですが、舘山さんが教えきれなくった生徒を僕が見るようになって。そういう生活を30歳くらいまで続けていました。

■しばらく東京に住んで音楽をやって、ある程度やったら札幌に帰ろうと思ってた

――サポートミュージシャンの仕事をはじめたきっかけは?

初めてサポートさせてもらったのは80KIDZなんですが、マネージャーが札幌の人で、知り合いだったんです。ちょうど80KIDZがALI&さん、JUNさんの二人になったタイミングで、80KIDZのマネージャーに「バンドセットでライブをやりたいんだけど、堀くん、ドラム叩いてくれない?」って声をかけもらって。ダフト・パンクやジャスティスのようなジャンルの音楽を生バンドでやろうとしてて、当時としてはかなり早かったし、同じようなことをやってる人たちはあまりいなかったと思います。「ぜひやってみたい」と思って、平日は札幌で働いて、週末に東京でライブをやる生活がはじまりました。サポートしはじめてすぐにBIG BEACH FESTIVALに出たり、夢みたいでしたね。いきなりたくさんのお客さんの前で演奏できて、楽しくてしょうがなかった。まあ、大変は大変でしたけどね。平日は札幌で仕事して、週末に東京でライブをやってたので。朝イチで札幌に戻って、そのまま出勤したり(笑)。それを32歳くらいまで続けたのかな? 本当にいい経験をさせてもらったし、すごく勉強になりましたね。

――その後、東京に拠点を移した?

はい。80KIDZのメンバーとか、知り合いだった須藤優(XIIX)に「東京に来れば?」って軽いノリで言われて(笑)。

――須藤さんと堀さんは米津玄師さんやXIIXなど、いろんな現場で一緒になってますよね。

須藤は80KIDZのサポートベースをやってたこともあったんですよ。最初に知り合ったのは、札幌と東京を行き来してたときで。紹介してくれたのは、NONA REEVESの小松シゲルさん。三軒茶屋の飲み屋で一緒にウイイレ(「ウイニングイレブン」)をやって、そこで仲良くなって(笑)。ノーナが札幌でライブをやったときに呼んでくれたんですけど、そのときのサポートが須藤だったんです。

――面白いつながりですね! 堀さんも「いつかは東京に行こう」と思ってたんですか?

思い出作りじゃないけど、「東京で音楽をやった」という経歴があったほうがいいなという感じだったかな。じつは、しばらく東京に住んで音楽をやって、ある程度やったら札幌に帰ろうと思ってたんですよ。20代前半だったら「東京で勝負するぞ!」と思ったかもしれないけど、もう30代でしたから。結局、そのまま東京にいるんですけどね(笑)。

――東京に来てからの活動は?

須藤もそうですけど、知り合いがいろんな人に紹介してくれたんです。いちばん大きかったのは、サカナクションのエンジニアの浦本雅史さんと知り合ったことです。江島くんが紹介してくれたんですけど、浦本さんはすごく面倒見がいい方で、「東京に出てきたし、堀くんに合いそうなレコーディングあるんだけどやって見ない?」っていきなり誘ってくれたり。それが米津玄師くんの楽曲だったんですけど。

――え?! どの曲ですか?

「海と山椒魚」です。その後、ツアーにも参加するようになって。あとはBOMIさんとかDAOKOさん、須田景凪くん、神山羊くんにもつなげてもらって。浦本さんのおかげで、東京に出てきた序盤で一気に仕事が広がりました。デビュー前後のアーティストに関わらせてもらえたのも大きいですね。iriさんも「今度デビューするアーティストがいるんだけど、サポートしてみない?」とiriさんの事務所の方に声をかけてもらったし、ちゃんみなさん、Eveくんにも初期の頃から関わらせてもらっていて。

――すごい。シーンを代表するアーティストばかりですね。

今思うとすごいですよね(笑)。それぞれタイプが違うんですけど、共通しているのは同期を使っていたり、打ち込みが多いこと。いろんな現場を経験させてもらって、「こっちの現場で使えたことを、違う現場に取り入れるということも出来るようになってきて。やりながら勉強させてもらっているし、一つの現場だけじゃなく、いろんな現場でたくさんの試みができて本当にありがたいです。

 

■周りとは違う形を目指したほうが自分の個性になる

――ここ数年はドラマーだけではなく、ビートメイカー、アレンジャーとしても活動してます。

それも少しずつ広がった感じですね。レコーディングで「この曲は打ち込みで」ってなると、ドラマーは呼ばれないじゃないですか。僕は生ドラムのRECだけではなくて、ビートのプログラミングもやったりするんですけど、そういう形の仕事を受けてる人ってあまりいないんじゃないかなと。最初のきっかけは、Eveくんの制作かもしれないですね。Eveくんの楽曲アレンジをやっている沼能くん(Numa/沼能友樹)に「ビートを作ってみてくれない?」と頼まれて。その後もビートアレンジをやらせてもらうようになって、今年出たアルバム(『廻人』)でも10曲くらい担当してます。生ドラムが必要なときはレコーディングさせてもらうんですけどね。須田景凪くんとも「この曲のビートだけを変えてみたいんだけど」と依頼されたことがあって。打ち込みで作ったトラックを生ドラムにすることで生まれる変化もあるけど、そうじゃなくて打ち込みでビートだけを差し替える形でも曲がすごく変化するし、面白いです。米津くんの楽曲でも打ち込みで参加させてもらった曲があったり、いろいろと楽しくやらせてもらってます。

――打ち込みにも精通していて、ビートのプログラミングにも長けているドラマー。確かに稀ですね。それも10代後半から“他の人がやっていないこと”を探して、試行錯誤してきた成果かも。

そうですね。逃げの発想じゃないけど、みんなと同じようなものに影響を受けて、頭一つ抜ける自信がなかったんですよ。だったら違うものに影響を受けて、周りとは違う形を目指したほうが自分の個性になるし、人と比べられずに済むじゃないですか。人がたくさんいるところにいる恐怖感があるんですよね。昔から人がいない場所のほうが落ち着きますね。

――そういうスタンスが堀さんの個性につながっているんですね。

結果的には(笑)。演奏が上手い人はどんどん出てくるし、ここ数年は生音の良さを活かす美学が強まってると思っていて。それもいいことだと思うんですけど、「そのなかで自分はどうするか」を常に考えてますね。もちろんドラム自体も上手くならないといけないんだけど、自分のスタイルを変えてしまうと全部がダメになるというか。
自分の長所をしっかり使わないと戦えないし、真正面からぶつかっていくやり方ではないかもしれないけど、いろいろ試行錯誤しながら自分の音作りだったり、スタイルを確立させてきたんだと思います。それはいまも続いてますけどね。

――なるほど。音楽的なトレンドに対してはどう捉えていますか?

そこは意識してますね。そもそも自分が好きな音楽(ダンスミュージック)はトレンドとともに変化してきたし、流行に疎かったらダメだと思うので。そこを把握したうえで(制作のときは)シャットアウトするか、あえて逆の方向にいくか。やり方はいろいろあると思いますけど、トレンドを知らないでやるのは違うのかなと。リバイバルにしても、まだ1周してないのか、もうすぐしそうなのかというタイミングもあるし、何がイケている音なのかをわかってないのは良くないと思うので。ただ、イケてるかどうかっていうのは人それぞれ違うので、大事なのはあくまで自分がイケてると感じる音は何かということ。それを理解するために流行りの音楽をチェックしたりしています。自分が何に感動するとか、どんな音が好きというのは流行は関係なく持っていようと心がけています。最近は有機的な音、かたくない音が好きですね。アーティストでいうとレミ・ウルフの音像とか。

――堀さん自身が好きな音だったり、最先端のビートをJ-POPのアーティストの楽曲に反映させるときは、大衆向けにチューニングするというか、聴きやすく調整することもあるんですか?

いや、今は考えてないですね。僕が上京した10年前くらいは変換が必要だったと思いますけど、今はカッコいいトラックを作っているクリエイターがいっぱい活躍しているし、メジャーのアーティストの楽曲もすごく進化しているので。ライブもそうだと思います。東京に来た頃は同期の音を使っている現場は少なかったんだけど、ライブの音作りに対する考え方もすごく変化したし、受け入れてもらえるようになってきたと思います。ローランド(電子楽器メーカー)には本当にお世話になってます。ドラムパッドやトリガーもそうですけど、ローランドの機材がないと、今のようなライブの音作りができない場面もあるので。

――楽曲の変化とリンクして、ライブの音響も変わっていると。

はい。2019年にm-floのライブに初めて参加させてもらったんですよ。20周年のライブだったんですけど、打ち上げでTaku(Takahashi)さんが「20年、ライブに対してずっと抱えて悩みが最初のリハでなくなったよ。ありがとう」と言ってくれて。

――Takuさんが仰った「ライブに対する悩み」とは、どんなことだったのでしょうか?

たぶんですけど、トラックメイカーが作った曲を生ドラムで演奏するときって、割り切らないといけない部分があると思うんです。たとえば“909”(ローランドのリズムマシン「TR-909」)のキックの音を使った曲をライブでやると、どうしてもその音にはならない。それが違和感になってたんじゃないかなと。m-floのライブに参加して、Takuさんに「ありがとう」と言ってもらえたときは「今までやってきたことが報われた」と思いました。

――素晴らしいですね。さらに2021年からは“堀名義”のソロ活動もスタートさせましたよね。

自分はホームページを作ってないし、名刺も持っていなので、何をやってる人なのかわかりづらいだろうなと思っていて。自分で好きな曲を作って発表すれば、「こういう音楽をやってる人なんだ」と少しはわかってもらえるのかなと。あとはサポートの仕事で知り合ったカッコいいミュージシャンとコラボしたいという思いもありましたね。なかなか出来ずにいたんですけど、コロナでライブが出来ない時期に制作をはじめました。

――サポート活動の広がりとともに、ソロワークもさらに活性化しそうですね。ドラマー、アーティストとしてのこの先のビジョンは?

音楽シーンはどんどん変わっていくし、ずっとアップデートし続けたいですね。“生ドラム+α”の音作りをさらに追及して、妥協せずやっていかないと。

――ストイックですね! 自分にしか出せない音、作れないビートがあるという実感も既にあるのでは?

それを実感しているヒマがないんですよ。関わらせてもらっているアーティストの進化が速いし、どんどん先に行っていて。音楽的に置いていかれないようにいつも必死です。

取材・文=森朋之

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