『TOUR 2022 "BEWARE"』 2022.12.8&9 Zepp DiverCity
12月8日と9日に、SiMが「TOUR 2022 "BEWARE"」の最終公演を東京のZepp DiverCityで開催した。本ツアーは全公演でゲストバンドを迎えて実施されたが、コロナ禍以降は収益的な面でも感染症対策の面でも対バンイベントが減る傾向にあったライヴシーンを徐々に拓き、ロックバンドが交わる場所としてのステージを取り戻していく意識が、このツアーの多彩なゲストの面々に繋がっていた。そして最終公演2デイズは両日ともに10-FEETをゲストに迎えたわけだが、「京都大作戦」をはじめとしてロックバンドの居場所自体を守り続けたバンドとの対峙自体がSiMからのメッセージだったように思う。SiMもまた、自分達以上にロックシーン・ライヴシーンを背負ってこのツアーを開催したからだ。
本ツアーは、「声出し解禁」を掲げて開催された。7月20日、ツアー開催発表と同時に公開された声明文でMAHは「一歩だけ踏み出してみる。調子にのって三歩、四歩は踏まない」という言葉を用いていたが、これはSiMとしての一歩を表したもの以上に、コロナ禍におけるライヴシーンを推し進める意味合いがあった。そもそも丁寧に声明文を公開し、ガイドラインに則った上での声出し解禁についての意図を説明すること自体にSiMの誠実なスタンスが映っている。今年のDEAD POP FESTiVALのステージでも「俺らは2年間、ライヴや音楽を守るためにしっかりやってきた。そろそろ一歩進む時だ。ただ、俺らだけ先走っても意味がない。仲間のバンドが現状のガイドラインに対してどう考えているのかを聞いたり、各所と丁寧に話したりした上で、堂々と次の一歩を踏みたい」という旨の話をしていたわけだが、感染症対策のガイドラインを遵守し、各地のライヴハウスや周囲のバンドとコンセンサスを逐一とりながら進んできたのは、コロナ禍に入った当初から「クラスター」という言葉で社会的な標的にされたライヴシーンを守るためであり、自由を自分達の手に取り戻すためなのだ。
MAH
つまりSiMは、ロックシーンやロックリスナーに対して働きかけてきたのではなく、社会や世界に対してロックバンドの存在証明を果たし続けようとしてきたのである。SiMがルールやガイドラインを飲み続けてきたのは、パンデミック下の世界から矢を向けられてしまうからではない。文句を言わせず自由を表現するためなのだ。今現在、ライヴハウスや各バンドの考え方によって、声出しやモッシュ、クラウドサーフに対するスタンスはバラバラになっている。中にはガイドラインなど知ったことかという考え方のもとに行われるライヴもあるわけだが、その中でSiMは、シーン全体の足並みが揃わないことを否定するわけでもなく、足並みを揃えようと訴えるのでもなく、真っ向から自由を勝ち取りにいくために、「50%の動員ならば大きな声を出していい」というルールを遵守してきたのである。
「もうそろそろ声出しくらいさせてくれよっていう気持ちで始まったツアーです。今もガイドラインがあるわけだけど、実は発声そのものを禁止しているわけではないんです。継続的な発声は避けて、断続的な発声はOKっていう、発生における基準が設定されていて。でも、(フルキャパシティのライヴにおいて)1曲のうち25%なら声出してもいい、会話より小さい声ならOKっていうルールを設定されても、意味がわからないじゃないですか。曖昧過ぎるし、その場にいる人で考えて声出してくださいって言われても難しい。なんなら、そういう曖昧なルールの上では『私は歌うのを1コーラスで我慢したのに、隣の人は2コーラス歌ってた』っていう気持ちになる人が出てきてしまう。そうやって喧嘩とか言い合いが起こるほうが不毛だし、内輪で喧嘩してる場合じゃない。だからSiMは、ありかナシかでルールを明確化するほうがむしろ個々が自由に楽しめてハッピーになれると考えてライヴをやってきました。ここZeppは、声出しを控えてくださいっていうルールを守っているから、今回は声出しをナシにしてフルキャパシティのライヴにしました。……ライヴシーンの空気的には、声を出すくらいは大丈夫だっていう雰囲気になってきてるし、声出しを解禁しているバンドも増えてきてる。でも俺は、コソコソやるのが嫌いなんだよね。堂々とやれるようにしたくて、今回みたいなツアーを回ってきました。ちょっと待たせちゃったけど、堂々と、思い切り遊べるように。一緒に闘い抜いて、勝ち取りましょう」
そんな言葉で本ツアーの意志を説明していたMAH。『BEWARE』という作品を掲げるツアーであったと同時に、ロックバンドと、ロックバンドを好きな人々が何と闘い続けてきたのかを改めて喚起する「牙を剥くための正義」がこのツアーの心臓になっていたことは、あの空間をともにした人々に真っ向から伝わったことだろう。
そして何より、その意志がそのまま2者のライヴに映っていたことが素晴らしかった。10-FEETのTAKUMAは2日目のステージで「いろいろ言い合って、傷つけ合って。指摘したり議論したり、それが誹謗中傷になって。俺らはいつまで傷つけ合うんやろうか。優しさは想像力やで。励ましたり、好きやと伝えたりするのも、想像力と勇気と心意気。そして、伝えようと思ったらたくさんの言葉が必要や。表情とトーンでも伝わり方は違う。ライヴっていうのは、音楽を通すだけで気持ちが誤解なく伝わる奇跡の場所。ここが、コロナ前よりもっといい場所になっていくように」という言葉を発し、取り戻すのではなく今から作り上げていくのだという意志を“goes on”に託してステージを降りていったが、これもまた、SiMと共鳴する精神やロックバンドが自分達の場所を自治してきた理由を端的に表したひと場面だったと思う。
SIN
1日目はTAKUMAとKOUICHIが、2日目はTAKUMAとNAOKIがSiMのTシャツのペアルックで登場して笑いを誘っていたが、笑って泣けて飛べる10-FEET節を全開にして、新旧問わないセットリスト全体が上述の言葉をそのまま体現しているようだった。どの時代の楽曲も、優しさの在処を問い、優しくあるための葛藤を生々しく表していて、そしてそれは人とともに生きることの喜びや難しさに実直であり続けた証のように響いてきたのだ。コロナ禍だろうと、どんな時代だろうと、優しくあれ。人の痛みを想像し、自分と人が笑っていられる場所を自分達で守り続けろ。そんなメッセージは、痛みと閉塞感にまみれ、愛する場所すら奪われそうになった時代に改めて真理として響くのである。
そしてSiMも、2日間通して新旧の楽曲を織り交ぜたSiM絵巻のようなライヴを展開した。初日は“PUNK ROCK iZ COMING”(2011年『SEEDS OF HOPE』収録)や“IKAROS”(2014年『i AGAiNST i』収録)、2日目は“SUCCUBUS”や“A”といった、いわゆる「レア曲」も織り交ぜていたわけだが、ニューメタルとダブとポップパンクが交錯する複雑な展開を歌謡的なメロディで貫いていくSiM節が、特にコントラスト高く表現されている楽曲達である。2020年から2021年にかけて行われた無観客配信ライヴで全5作のフルアルバムを曲順通りに再現するパフォーマンスを行ったことが大きいのだろうが、過去楽曲を再発掘したり、過去楽曲に新たなグルーヴを宿したり、SiMを研ぎ直す鍛錬が各楽曲に表れていた。特に“IKAROS”のように「メロディックパンクmeets歌謡曲」な楽曲、“PUNK ROCK iZ COMING”のようにスカとポストハードコアが目まぐるしく交差する楽曲では、改めてSiMの音楽的な要素を整理整頓できたからこその硬軟自在なアンサンブルが展開されていった。
ニューメタル、パンク、ダブ、オルタナティヴロック、ポップパンクといった音楽的素養を合体させるSiMの背骨は、その音楽が生まれた年代やシーンにかかわらずに音楽を食う雑食性と、たとえば2000年代に仲の悪かったニューメタルシーンとポップパンクシーンの歴史を知った上でドッキングさせてしまう「理解があるからこその節操のなさ」から生まれたミクスチャーである。しかし、その一見カオティックな音楽に通底しているのは、各時代で生き抜くための武器として鳴らされたレベルミュージックの精神性である。そこ一点であらゆる年代のロックを繋ぎ、そして日本的なメロディで筋を通す。上記した楽曲達は、今改めてSiMの音楽的カオスをシンプルに伝えるもので、声出し解禁のメッセージやロックバンドとしてのスタンスと同時に、コロナ禍での試行錯誤を経て音楽的にも研磨されたSiMの姿が克明に浮かび上がるライヴだった。その上でさらに言えば、“The Rumbling”が『進撃の巨人』とともに世界中に波及したことも、SiMの音楽的な振り切れ方に直結したはずだ。シンプルなポストハードコアを荘厳な響きでぶっ放した“The Rumbling”は、SiM史上でも類を見ないほどシンプルで、美しいメロディで一点突破する楽曲だった。
SHOW-HATE
SiMの音楽細胞を組み合わせるというよりも、削ぎ落として磨き上げた楽曲。そのシンプルさとメロディの強さが世界的な歓迎を受けたことによって、各要素をより一層シンプルに鳴らせば刺さるという確信を得たのだろう。『BEWARE』に収録された各楽曲が表す通り、ミクスチャーな楽曲を構成する各要素の解像度が増し、それがそのまま、彼らの音楽に半端じゃない推進力を与えている。実際、“Blah Blah Blah”や“KiLLiNG ME”、“CROWS”といった楽曲の瞬発力も、合唱ができるか・できないかという部分ではなく、あくまで音楽の跳躍力と硬軟自在なアンサンブルに宿っていた。客席に目をやっても、思い思いの動きどころか、名前のないダンスで己の衝動を発している人々の姿が眩しい。SiMの音楽の中にある痛快なカオスは、「生きたい」も「死にたい」も「飛びたい」も「沈みたい」も同時に抱えてしまう人間の倒錯した感情を一気に表すものなのである。ダイヴやモッシュがなくとも、その音楽の通りの光景が目の前に広がっている。
GODRi
さらに、楽曲への解釈の深まりは、アンサンブルに限った話ではなかった。本ツアーのテーマ曲だと紹介されてから雪崩れ込んだ“ANTHEM”がまさにそう。この楽曲が制作された2010年当時は、日本のラウドミュージックをメロディックパンクが席巻していた。そこに海外のニューメタルとレゲエを組み合わせたSiMの音楽が入り込むために、ブラストビートを取り入れてモッシュとダイブを引き起こさんとしたのが“ANTHEM”という楽曲である。さらに、観客の手と拳が挙がるかどうかが対バンライヴのバロメーターだった当時、なんとか手を挙げさせるようにして歌われていたのが<I’ll take your hands>という一節だ。それが今、「いつかお前らの手を引いて行く」という意味合いを超えて、聴く人を新時代へ誘うためのヒロイズムを真っ向から響かせる楽曲に変化している。「真っ向から闘って勝ち取りましょう」というMAHの言葉や、ロックシーン自体を背負う誠実な活動や、その上でSiM自身が夢を叶えんとしている今この瞬間がすべて自信と確信に繋がり、そして彼らのヒロイズムになって、音楽とライヴを輝かせているのだ。
「コロナにびくびくしながら過ごすのは今年が最後だと考えていて。みんなも、一緒に闘う気持ちでライヴに来てくれたらいいなと思ってます。……自分を貫き通すのは、誰かとぶつかり合ったり誰かを傷つけたりするためじゃない。自分を貫くのは、自分の大切なものを守るためだ。それがSiMの闘い方。強く生きよう」
そんな言葉から放たれたラストナンバーは、“Get Up, Get Up”。<We will fight out>--「俺達は闘い抜く」という意志が繰り返し歌われるこの曲は、時代ごとにSiMの闘争がどんな変遷を辿ってきたのかを示すような、生き証人のような楽曲である。MAHが「“Get Up, Get Up”は、これこそレゲエパンクだと言える楽曲だと思う」とかつて話してくれたことがあるが、ハードコアとレゲエが融合した楽曲の表情以上に、SiMにとってのレベルミュージックの在り方を提示しているという意味でMAHは“Get Up, Get Up”を自らの看板だと語ったのだろう。日本のラウドミュージックシーンにオルタナティヴの居場所を作るために闘った。日本武道館や横浜アリーナまで攻め込み、自分達の音楽をメインストリームに持ち込むために闘った。そして今、ロックバンドの居場所に自由を取り戻し、かつての光景に還るのではなく進むために闘っている。そのすべてが<We will fight>という一節に映り、このツアーを結晶させるかのように鳴り響いていた。
文:矢島大地 撮影:スズキコウヘイ
広告・取材掲載