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替え唄最強の嘉門タツオ、昭和の大阪演芸と亡き妻の墓前で起きた奇跡「やり残したこともあるけど先に逝っとくわと、半泣きになりながら歌いました」

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嘉門タツオ 撮影=田浦ボン

嘉門タツオ 撮影=田浦ボン

1990年代にサザンオールスターズ、松任谷由実、山下達郎、山口百恵などの往年の名曲の「替え唄メドレー」シリーズが大ヒットした、嘉門タツオ。以降も社会風刺曲や人気曲のパロディなどで笑わせ続けているポップミュージックシーンのレジェンド。と同時に、1975年に落語家・笑福亭鶴光へ弟子入り後、大阪の人気ラジオ番組『MBSヤングタウン』にレギュラー出演し、昭和の大阪演芸を間近で目撃してきた「生き字引」でもある。そんな嘉門が1983年リリースのデビュー曲「ヤンキーの兄ちゃんのうた」から39周年を迎えたことを記念して、12月30日(金)から東名阪で『嘉門タツオ 39(サンキュー)ライブツアー 2022〜2023』を開催する。そこで嘉門に、これまでの道のり、ダウンタウンらとの出会い、そして2022年9月に亡くなった妻・鳥飼こづえさんとの楽曲制作について話を訊いた。

嘉門タツオ

嘉門タツオ

「桑田佳祐さん、ユーミンさんができへんことをやってやろう」

――「替え唄メドレー」シリーズが大ヒットした1990年代。子どもたちも無邪気に歌っていましたが、今だったらオンエア不可能な内容が一部ありましたよね。<海パンの中井貴一が 腰を振る物語>(1991年「替え唄メドレー」)とか、<ボカシボカシ裏ビデオ>(1991年「替え唄メドレー2」)とか。

いやいや、海パンの中井貴一さんが腰を振ってるだけやから、そんなイヤらしないで(笑)。でも「きっと思春期の男の子たちがリスナーとしてついてくる」という確信は得ていました。それは未だにそうです。思春期にハートをつかまれたものは、一生もんで取り返しがつかないことになるからね。

――たしかに、ずっと覚えています。

だからこそ僕らには責任があるんですよ。だって自分も、あのねのね、アリス、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」(1967年)、ソリティー・シュガーの「走れコウタロー」(1970年)、なぎら健壱さんの「悲惨な戦い」(1974年)、泉谷しげるさんの「黒いカバン」(1972年)に影響を受けてここまできましたから。お笑い方面であれば、ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズ、笑福亭仁鶴さん、桂三枝さん(六代桂文枝)、月亭可朝さん、笑福亭鶴光師匠、コメディNo.1、アホの坂田(坂田利夫)など、みんなおもしろい歌を出していたんです。それを聴いて中学時代にギターを持ってカセットで録音をしたけど「これじゃあ通用せえへんな」ということで、ラジオの世界へ行こうと考え、鶴光師匠に弟子入りしました。

――その初期衝動が現在までつながっているということですね。

ただ、かつて影響を受けた人たちも年齢を重ねていくと、覇気が薄くなっていくんですよね。もちろん衰えてしまうというのはありますけど。でも、やっぱりガッカリすることもあるんです。僕自身は、どうやって影響を与えた人たちへの責任をとっていくかをずっと考えています。そうするためには覇気を失ってはいけないし、なにより活動を継続させなあかん。一発だけのマグレ当たりでは長続きしないんですよね。

――なにかを続けることも、終わらせることも難しいですよね。

そういう意味では、2022年の吉田拓郎さんの終わり方は本当にカッコ良かった。あと、加山雄三さんもエエですよね。だって若大将の「最近、足腰が弱って」みたいなMCは、誰も聴きたくないじゃないですか。でも逆に僕だったら「足腰は弱くなって」という曲でもおもしろくやれる。だから年をとっても続けていけるのです。それに、桑田(佳祐)さん、ユーミン(松任谷由実)さんら、バケモンみたいな先輩がまだまだ元気でやってますし、あの人たちができへんことをやってやろうと。

「若手時代にダウンタウンと3人でやったコントが全然ウケへんかった」

嘉門タツオ

嘉門タツオ

――先ほどの「今だったらオンエアできない」という話ですが、嘉門さんはコンプライアンスぎりぎりのラインをずっと歩んでいらっしゃいますよね。

コンプライアンスを意識しているわけではなく、時代を超えてウケるものを考えてやっているんです。TikTokを週に3本くらいアップしているんですけど、20年くらい前の「俺だけかぁー」シリーズの「リップクリームが下に残ったら、つまようじでほじくる」とか、妙に反応が良いんですよね。今はそうやって時代を超えて聴いてもらえるコンテンツがたくさんある。それに、映像として記録が残るのもすごく大事なことやなと。昔のダウンタウンのコントとかを観ると、あらためて「完成度が高いな」と実感できますもん。

――嘉門さんは、2022年も『水曜日のダウンタウン』(TBS系)で「第8回替え歌最強トーナメント」に出場(優勝)していましたし、かつては『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系)で「吉本で生まれたダウンタウンやさかい」などを歌うなど、仕事で長年お付き合いを続けていらっしゃいますね。

ダウンタウンがデビューする前、阿倍野のアポロホールで吉本興業ホールディングス​の現会長・大崎洋さんに「今度デビューする、松本と浜田です」と紹介されたことをよく覚えています。『あべの寄席』に出ていたとき、彼らが前座だったんです。まだコンビ名は、ライト兄弟でもなかった(※ダウンタウンと名乗る前のコンビ名)。そのころからおもしろかったんです。梅田のキャンディホールでの僕の公演に出てもらったとき、倉本(美津留)が書いた台本で、3人でコントをやったんです。これがまたあんまりウケへんかった(笑)。松っちゃんはいまだに「ウケた覚えがないです」と言っていましてね。

――へぇー!

YouTubeかなにかで『ヤンタン』(ラジオ番組『MBSヤングタウン』)の野球大会で俺がヒットを打ってる映像があがっていたんです。最初、ボケでギターを持って打席に立ったら浜ちゃんが「違う、違う」とバットを持ってきてくれるんですよね。全然、覚えてなかった。ほんまはそういうのをネットにアップしたらあかんのかもしれんけど、でも懐かしい映像が観られるのはいろいろ思い出せてありがたい部分もありますね。

「やり残したこともあるけど先に逝っとくわ」

嘉門タツオ

嘉門タツオ

――こうやってお話を訊くと、嘉門さんは大阪演芸の生き字引みたいですよね。

道頓堀角座で現役バリバリのかしまし娘さんや、酒井くにお・とおるさん、レッツゴー三匹さん、暁伸・ミスハワイ​さん、宮川左近さん、ちゃっきり娘さん、笑福亭松鶴さん、夢路いとし・喜味こいしさんとかも観ていました。その頃に、松竹芸能でカバンを持っていましたから。でも16歳か17歳くらいのときやったし、そういうすごい人らから楽屋で「にいちゃん、座っときや」とか声をかけられても、なんか「ここにおんのは嫌やな……」と思っていました。

――ハハハ(笑)。そんな嘉門さんも、1983年「ヤンキーの兄ちゃんのうた」リリースからデビュー39周年。先ほどの年齢の話ではないですけど、近年では「墓参るDAY♪」(2018年)など終活三部作もリリースされていらっしゃいました。一方、9月に亡くなられた奥様・鳥飼こづえさんはアンチエイジング専門医で、11月には嘉門さんのYouTubeチャンネルでデュエット曲「アンチエイジング」がアップされました。お互いの「年齢」のとらえ方が非常に興味深かったです。

彼女との14年の結婚生活のなかでアルバムを3枚とベスト盤を出しました。終活三部作​をはじめ、作品づくりのなかで彼女の意見も多く参考にしました。ふたりでつくってきた感じ。僕が「麻婆豆腐の歌をつくらなあかん! どんなんにしよか」と聞くと、「サザンオールスターズの初期みたいな感じはどうかな、「気分しだいで責めないで」(1978年)みたいな」と。「崎陽軒シウマイ弁当の歌」も、彼女が「菅原都々子の「月がとっても青いから」(1955年)みたいな曲が良いわ」と言ってくれて。彼女がアレンジのアイデアを出してくれていました。

――『水曜日のダウンタウン』の「替え歌最強トーナメント」では、年をとること、死についてのブラックジョークをこめた替え歌を披露していらっしゃったじゃないですか。でも実は、こづえさんが亡くなられたタイミングでそれらの歌を披露していたことが分かり、ネットでも「笑えるけど、泣ける」という反応が多数ありましたね。

「ほんま。みなさんすんません。勝手に深読みさせちゃって、申し訳ない」と思いましたよ。ただ、3年前に彼女のお母さんが亡くなり、1年前にうちの母も逝ったんですけど、出棺時に彼女から「「旅立ちの歌」(2018年)と「HEY!浄土」(2018年)を歌ってほしい」とお願いされたのです。「旅立ちの歌」は「早いけど先に逝っとくわ」という歌。そして「HEY!浄土」で最後に盛り上がって終わる。彼女には、「自分のときもそうしてほしい」という願いがあった。だから半泣きになりながら歌いました。四十九日の納骨のとき、お墓の前で歌うのはアレなので「旅立ちの歌」をラジカセに吹き込んで流したんです。カチッと再生ボタンを押して曲を流したら、お供えした線香がぶわーっと広がりました。あれはシミましたね。「やり残したこともあるけど先に逝っとくわ」、自分の歌でこんなに感動するとは思っていなかったです。

――お話を聞いているだけで、ちょっともう……。

ただね、彼女が入退院を繰り返したり、苦しんでいるところを見たりして「どうなるんやろう」ということばかりで、亡くなってからも見舞客がいっぱい来る日常でワーワーと言っていたから、ここにきてようやく落ち着いてきました。取材でも彼女のことを話す機会がいくつかあり、やっと客観的に状況を見ることができるようになってきたんです。

「僕は、死んでも笑わせられる」

嘉門タツオ

嘉門タツオ

――それこそ「替え歌最強トーナメント」では、遺された妻の目線で「夫が病気のときはすごく大変やったけど、亡くなったら肩の荷が下りた」という曲を歌ってらっしゃいましたよね。

そうそう。僕自身も肩の荷が下りたんです。やらなあかんかったことがいっぱいあったし。彼女は晩年、車椅子生活だったからその移動も本当に大変。ご飯を食べに行っても段差の多い店が多いし、タクシーの乗り降りする場所と駅のエレベーターまではどこも遠かったりするんです。きっとベビーカーで赤ちゃんを連れた親御さんたちは、すごく大変なはず。「世の中、もっとちゃんとせなあかんのちゃうか」と気づきましたね。彼女を看護してくれるヘルパーさんたちも献身的で、こういう人たちが経済的に恵まれてほしいです。そういうことも歌で伝えられるんじゃないかな。

――しかも嘉門さんはそこに必ず笑いを欠かさない。

ザ・ぼんちさんの漫才さんとか見ると「ええなあ」と思うんです。自分がボケてきたことを漫才のネタで言えたりして。「どこまでホンマか分からんけど、すごいなあ」と。僕もそういうことを歌でなんとかやってみたいですね。

――12月30日からデビュー39周年を記念した『嘉門タツオ 39(サンキュー)ライブツアー 2022〜2023』がスタートしますが、活動もますます精力的になりそうですね。

僕は、舞台から引くつもりはありません。死ぬまでそういう曲を歌いたいですね。死んだら「火を通せば大丈夫」(2016年)とか流してもらって焼かれたい。自分が逝ってからも、音源は残る。昔作った曲は、いつの時代の子らが聴いてもきっと笑ってくれる。その確信はあるんです。だから僕は、死んでも笑わせられるわ。

嘉門タツオ

嘉門タツオ

取材・文=田辺ユウキ 撮影=田浦ボン

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