シューマンとブラームスを中心にプログラムが組まれてきた岡本誠司リサイタルシリーズ。vol.4は、“最後の言葉”と題され、シューマンのヴァイオリン・ソナタ第3番やブラームスの2曲のクラリネット(ヴィオラ)・ソナタ(ヴァイオリン版)という、二人の作曲家の最晩年の作品が取り上げられる。
岡本は、4月末にクリストフ・エッシェンバッハ指揮NHK交響楽団と、シューマンの最晩年の作品の一つ、ヴァイオリン協奏曲を共演したばかり(昨年5月にはベルリンでエッシェンバッハ指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団とブラームスのヴァイオリン協奏曲を共演)。シューマンとブラームスを追って来た岡本の取り組みが今回のリサイタルで一つの完結を迎える。
――今回取り上げられるシューマンのヴァイオリン・ソナタ第3番は、先日、NHK交響楽団と共演したヴァイオリン協奏曲とほぼ同時期の作品なのですね。
ヴァイオリン・ソナタ第3番は、ヴァイオリン協奏曲の1か月ほどあとの作品で、最後に書かれたピアノ独奏のための「天使の主題による変奏曲」との間に位置する数少ない作品の一つです。つまり、本当にシューマンの”最後の言葉”の一つととらえてよいと思います(注:シューマンは1854年2月に自殺を図り、1856年7月、精神療養所で亡くなった)。第1番、第2番と比べると、更に極限に達しようとしている、ギリギリの表現や音楽作りがなされている瞬間が多いですね。
第1楽章では、それまでのソナタと構成(注:序奏と主部)は同じでも、テンポ表示の変化が書かれていなかったり、どういうテンポでどのように演奏するのかも不明瞭で、それは、彼自身が新しいスタイルを目指していたのかもしれませんし、白黒つけたくなかったのかもしれません。
――このヴァイオリン・ソナタ第3番は、ディートリヒやブラームスと共作した「F.A.E.ソナタ」(注:第1楽章をディートリヒ、第2、4楽章をシューマン、第3楽章をブラームスが担当。ブラームスの書いた第3楽章スケルツォが単独でもしばしば演奏されている)でシューマンが書いた第2、4楽章に、新たに楽章を書き加えて、一つのソナタとしたものなのですね。
「F.A.E.ソナタ」は、このリサイタルシリーズのvol.1(2021年6月10日)で、反田(恭平)くんと全楽章を演奏して、レコーディングもしました。
1853年9月のシューマンとブラームスとの出会いがきっかけで、10月に「F.A.E.ソナタ」をヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムにサプライズ・プレゼントとして書いたというのは素敵な話ですが、ヴァイオリン・ソナタ第3番では、「F.A.E.ソナタ」でのディートリヒのメロディ豊かな第1楽章や若くイケイケな二十歳のブラームスのスケルツォとはまったく違うものを挟みこんでいます。
序奏と主部がつながって書かれている第1楽章、FAE(ファラミ:「自由だが孤独」というモットーの頭文字)のテーマが美しいインテルメッツォの第2楽章、自由を求めているが自由が得られない短いスケルツォの第3楽章。そして第4楽章は、最後のコーダでヴァイオリニスト泣かせのパッセージが続きます。第4楽章は、イ短調で始まりイ長調で終わりますが、それはハッピーエンドなのでしょうか? 僕には、シューマンが自分の理想郷を求めて当てもなく駆け回っている、現実的に駆け回りたいがそれができないので幻想のなかで駆け回っている、というように感じられます。つまり、ハッピーな大団円にはならないような表現をしたいと思っています。
――「おとぎの絵本」はもともとヴィオラとピアノのための作品ですね。
シューマン自身によるヴァイオリンとピアノへのアレンジがあるので、それを演奏します。
この「おとぎの絵本」に関しては、先日、クロンベルク・アカデミー(注:岡本が在籍している、ドイツの世界的な音楽アカデミー)で世界的なヴィオラ奏者のタベア・ツィンマーマンさんにレッスンを受けました。彼女も、ヴァイオリンとピアノの版を聴くのは初めてだったそうです。彼女のヴィオラ奏者としての、そして音楽家としてのノウハウを知れたのは非常に勉強になりました。シューマンがヴィオラという楽器の特性を高いレベルで理解していたことが、ヴァイオリンで取り組むことによってわかりましたね。同じレッスンに参加していた、親友で、タベアの弟子である、ヴィオリストのサオ・スレーズ・ラリヴィエール(注:5月に東京交響楽団の演奏会のソリストとして来日)からも意見をいただきました。
1851年に書かれているので、シューマンの”最後の言葉”に近い作品だと感じています。シューマンの二面性がまざり始め、少しにごり始めているような瞬間があります。最後の第4曲は、天に召されていくような感じがします。天上の音楽なのでしょうか?
ヴァイオリン・ソナタ第3番は、シューマンの事実上最後の室内楽作品であり、演奏会の前半を通して、シューマンが「子どもの情景」、ピアノ五重奏曲、ピアノ協奏曲などを越えて、最後にたどり着くまでの道筋、たどり着いた景色がどのようなものであったかを、感じていただきたいですね。
――ブラームスにとって最後の”ソナタ”となった2曲のクラリネット・ソナタは、作曲家自身の編曲によるヴィオラ版もよく演奏されますが、今回はヴァイオリンで演奏されるのですか?
ブラームス自身によるヴァイオリン編曲版があるのです。僕はその事実を世に更に広めていきたいと思っています。
最初にクラリネット版があり、ヨアヒムの依頼でヴィオラ版が作られました。もちろんヨアヒムはヴィオラでこの曲を弾きましたし、その演奏をブラームスも聴いたはずです。そして、僕は、ヴァイオリン版もヨアヒムの提案があったと思っています。ヴァイオリン版では、ピアノ・パートももう一度書き直され、魅力的な変更がいくつもなされています。ヴァイオリンが弾く尺が増えていて「えっ、そこでヴァイオリンも弾いているの?」というところや、逆にクラリネットやヴィオラ版にある音でヴァイオリンも弾ける音のはずなのに休符になりピアノのみになっていたりもします。
ソナタ第2番は変更点が多いですね。たとえば、第1楽章の第2主題に入る前の小節の4拍目は、クラリネットやヴィオラ版ではまったくの休符で間が空くのですが、ヴァイオリン版ではピアノの音が入っていて次につながります。第1楽章の一番最後もピアノのバスに変更があります。
そのほか、第1番第1楽章のコーダに入る前では、ヴァイオリンのドーラ、ファーラのメロディで(他の編曲にはない)転調のネタバレがあったり、第1番第4楽章の鐘を模倣した音が、クラリネットやヴィオラではずっとファー、ファー、ファーですが、ヴァイオリンでは途中でドー、ドー、ドーになっていたりもします。それらは、ブラームスの中にあったこの曲の可能性であると思うと非常に興味深いですね。意外と、作曲家の中では、「これもいいじゃん?」と考えていたのかと思うと、ブラームスに対する(厳格な)考え方が少し変わるような、カルチャー・ショックでした。この作品120の2つのソナタに対して、ブラームスも頭の中でいろいろなオプションを考えていたのですね。
今、集中的に取り組んでいるからという理由もあるかもしれませんが、僕はこの2つのソナタが3曲のヴァイオリン・ソナタよりも好きなのかもしれません。
筆を折りかけていたブラームスが、クラリネットの名手(注:リヒャルト・ミュールフェルト)と出会い、また創作の意欲がわいた時期の作品です。この2つのソナタを書いた時点でブラームスはほとんど60歳になっていましたが、その60年間は、ドラマティックな、変化のある人生だったと思います。そして、彼はある一つの境地に達していたような気がします。それは、シューマンの崖の際の危うさではなく、ある意味、すべてを赦し、受け入れているかのような境地。クララとの手紙を読むと、ブラームスは、頑固で不器用な、しかし深い愛情があった人物だったと思います。
ヴァイオリン・ソナタ第2,3番は、肯定的でありながら、自分はどこか孤独であるというようなところがあります。リサイタルシリーズのvol.3のとき、共演の北村(朋幹)くんと「ブラームスって切ないよね」という話をしたのを思い出します。音楽は肯定的で、懐の広さも感じる。しかし、それは、全人類を抱きしめるかのような無限の愛情ではなく、自分の親しい人を包み込む、パーソナルなものだと思います。抱きしめたからといって、100パーセントの充足感は得られていない。それが彼の長調の作品の切なさの原因かもしれません。
第1番のヘ短調にはブラームスの中に葛藤が残っているし、第2番第2楽章でもまだ燃え尽きていないと感じます。それでも、諦観はしていないけれども達観しきっている。何かしらの距離感を感じます。激しい時間は、若い頃の作品と比べると長続きはしません。いろいろなドラマを感じ取っていただける作品ですが、シューマンとは正反対です。妄想にあがくのではなく、すべてを肯定したあとのドラマなのかなと思います。
僕にとって、30歳になる前の最後のリサイタルです。ブラームスの60歳の達観した境地はまだ見えませんが、30歳前後の自分たちの感性だけで真っすぐに解釈するとただの穏やかで平和な音楽で終わってしまいます。一度達観した人間がまだ表現したいドラマがあるという方向性で解釈しないと、この作品の真の魅力を引き出すことはできません。今の僕たちの演奏ですが、今の自分たちだからできる演奏ではなく、それとは真反対の視点で取り組んでいきたいと思います。
――共演は、前回のvol.3に引き続き、北村朋幹さんですね。北村さんについてお話ししていただけますか。
昔からとても尊敬しています。彼の取り組みやその内容も尊敬しています。二重奏をしていると、彼ほど、いろいろな引き出しがあり、その瞬間でのフレキシビリティに富んでいる人はなかなかいないと思います。そしてその引き出しに入っているものがどれも魅力的なことに、一緒に弾くたびに驚きます。彼は、作品に対して深く勉強し関わり、作品を常に頭で掘り下げながら、しっかり心で感じて取り組み、更にそれを本番の瞬間に全て解放して表現しようとしていらっしゃるのだろうなと思います。
彼とはリハーサルからシビアにたくさん議論をしますね。最初の意見を知った上で、違う意見をぶつけて、二人で合意したり、合意しなかったり。合意しなくても、音楽上、それはそれで存在していいと思います。安易に妥協して摺り寄せるようなことは行われない。もしかしたら「室内楽かくあるべき」と思いました。つまり、作品の様々な可能性やオプションを持ってリハーサルに臨み、本番のその瞬間に感じたものを生の状態で表現しようという演奏が前回のリサイタルでできました。それは、自分と作曲家とのぶつかり合いでもありましたし、ヴァイオリニストとピアニストとの技の掛け合いといいますか、二人だからこそできる丁々発止の会話や葛藤であり、それこそが、生演奏の、二重奏の面白さだと思いました。今回もそういう方向性の演奏になると思うし、そういった演奏が合う作品たちだと思います。
――最後にメッセージをお願いします。
今回演奏するのはシューマンとブラームスの亡くなる2,3年前の作品たちですが、彼らが、どれだけ死を予感していたかはわかりません。でも、両者とも人生の終わりに近いことを心のどこかで悟っていたという気がします。“最後の言葉”だからこその、究極の美しさ、それは「永続的な美しさなのか?ここには存在しない美しさなのか?」。ブラームスとシューマンとでは大きく違いますが、いずれにしても、日常生活では普段感じることのできない究極の美がそこにある気がします。そして、ドイツを代表する二人の作曲家の作品ですから、骨のあるドイツらしい表現もしっかり残っています。シューマンとブラームスが最後にどこにたどり着いたのか、是非、目撃していただきたいと思います。
取材・文=山田治生 撮影=池上夢貢