[ kei ] 撮影=大橋祐希
渋谷C.C.Lemonホールはkannivalismで、渋谷公会堂はBAROQUE(baroque)で2Daysと、バンドキャリアが変わるたびに次々とこの会場を制覇してきた[ kei ]が、今年(2024年)の自身の誕生日でもある8月12日、今回はソロアーティストとしてLINE CUBE SHIBUYAでワンマンライブ『0』公演を開催する。ここでは、こうしてネーミングライツで名前が変わるたびに同場所でワンマンを開催してきた彼の音楽人生の変遷を、kannivalism、BAROQUEを起点に振り返ってもらいながら、それらが8月に開催する[ kei ]としてのLINE CUBE SHIBUYAのステージにどのように繋がっていくのか。前編、後編で送るロングインタビューの前編をお届けする。
――渋谷公会堂から名前が変わるたびに、同場所に違うアーティスト名で立ち、ワンマンライブをやってきたことは、相当すごいことだと思うんですが。ご自身としてはいかがですか?
そっか、あまり意識していなかったんですけど、そうだったんですね。初めて気がつきました。ワンマン以外でも、『Over The Edge』という大晦日のヴィジュアル系のイベントでも何回か立ってますしね。
――この会場に先に立ったのはkannivalismのほうなんですよ。
あぁー、そうなんですね。そう考えると不思議な感じがしますね。BAROQUEがインディーズで活動を始めたのが2001年。2003年にメジャーデビューして、日本武道館もやらせてもらったんだけど。そのときは(この会場を)飛ばしてるってことですよね?
――ええ。kannivalismは2010年8月23日、『the other side of the love』で渋谷C.C.Lemonホールでワンマンをやっているんです。
活動を休止するちょっと前だから、かなり後期ですね。
――なにか憶えていることはありますか?
kannivalismが復活したあと、2006年にメジャーデビューして。そのあとボーカルの怜の病気があって。Zepp Tokyoで復活ライブ(『syncretism』)をやった後に『helios』という2ndアルバムをコンセプトに中野サンプラでワンマン(『she said, under the helios.』)をやって。その流れでやったライブだったから、結果的に自分たちの集大成みたいなものになったライブだったのかな。
――そもそもkannivalismというのはどんな経緯で始まったバンドだったんですか?
kannivalismは、僕が中学生のときに怜と出会って。自分が中学3年のときにClarityというバンドに加入したんですね。メンバーは10歳ぐらい年上で。当初はシンガーもいんたんですけど、途中で怜をこのバンドのボーカルに招いて。でも、すぐにそのバンドは解散してしまい。その後に同世代のメンバーでバンドを組みたいなと思って、僕と怜でメンバー探しをしてて、そのなかで出会ったのが、いまsukekiyoでベースを弾いてる裕地(=YUCHI)と、heidi.でドラムを叩いてる桐君。その4人で2001年初頭にスタートしたのがkannivalismというバンドだったんです。だけど、それは3~4ヵ月で解散して。僕と怜はBAROQUEに加入するんですが、それが2004年12月25日に解散してしまうんですね。そのときは、志半ばみたいな感じで解散してしまったので、怜と新しいバンドをやろうとしていたんですけど、状況的になかなかうまくいかなくて。そのなかで、自分は誰とバンドをやりたいのか?って考えたとき、裕地とまたやってみたいなと思って裕地に声をかけたんですよ。それで、事務所といろいろ協議していくなかで、BAROQUEの前にやっていたkannivalismとしてやるのなら怜と一緒にやってもいいと。まあ、いま考えるとよく分からないことを提案されて(笑)。桐君はすでにheidi.をやってたから、3人でkannivalismを再結成する形になったというのが大まかな流れなんです。だから、僕のなかでkannivalismは同世代のメンバーとバンドがやりたかったというので始めたバンドかな。
――なるほど。では、そのkannivalismの活動をいま振り返って思うことは?
kannivalismは怜の病気のことで活動を休止したのは一つの転機だったと思うんですが、裕地と一緒にバンドをできたことは大きかったですね。音楽に関しては純粋だったので、若いからこそいろんなものを吸収して、試してみて。変な話、いま聴いたCDがいいなと思ったら、次の日のスタジオでそういうエッセンスを入れたものをやってみたりとか。それで、スタジオが終わったらまたいろんなCDを一緒に聴いたりして。青春の延長線上で、純粋な意味で、曲作りをやってた気がしますね。
――でもこの当時はavexからメジャーデビューをしていて、アニメのタイアップなどもあったので、純粋に作りたいものだけを作るというスタンスではなかった気もしますが。
そうですね。ちょっと話が前後してしまうんですが、まずその前に、BAROQUEで2003年に「我伐道」という曲で僕はメジャーデビューしてまして。そのあと『sug life』という1stアルバムを作って、バンドは解散してしまうんですけど。その当時のBAROQUEはやりたい放題だったんですよ。メジャーといえど、誰かにコントロールされたということはなかったんです。まあ、コントロールがきかなかった状態ではあったと思うんですけど(笑)。kannivalismでavexからメジャーデビューしたのは、その後なんですね。
――[ kei ]さんにとっては2回目のメジャーデビューということですね。
そうです。だから、kannivalismのときに思ったのは、ある意味コントロールされてみたいというか。大人の意見=プロのレコード会社の人の話も聞いてやってみたらどうなるのか、それに挑戦してみたいという気持ちがあったんですよ。だから、本当の意味でのメジャーですよね。プロモーションプランから、どんな雰囲気の曲を作るのか、アートワークの展開、すべて周りの意見を聞きつつやってみようということにチャレンジしたのが、その時期だったんです。
――ノーコントロールだったBAROQUE時代とは真逆のスタンスに自ら挑んでみた、と。
はい。スタッフの方もいろいろ意見しながらも、こちらに対してすごく理解を示してくれて。いまだに付き合いがあるほど信頼できるいい方が多かったんですよね。
――だから、いろんな意見も受け入れることができたともいえますね。
そうかもしれないですね。だから、そのなかで思ったのは、タイアップってコラボレーションだと思ったんですよ。そのときのチームみんながいいと思うものを作るのが僕の役割だったので、そういう曲を書いてチーム一丸となってやっていく。当時は自分なりにそう解釈してやってましたね。
――それでkannivalsmはデビューからポップな楽曲を次々とリリースしていってた訳ですが。2010年に発売した2ndアルバム『helios』からガラッと作風が変わりましたよね?
理由はいろいろあるんですけど。まず一つは、kannivalismが活動休止していた期間、自分はソロ活動をチャレンジさせてもらったんですよ。
――2008年にソロ名義=圭としてシングル「the primary.」でデビューして。2009年にはシングル「vesperbell.」、アルバム『silk tree.』、ミニアルバム『for a fleeting moment.』とリリースしていきました。
そこで音楽的な意味では、自分の中に眠っていたまだ開いたことがなかった扉を開けて、アーティスティックな要素に気がついたのもあるし。あとは、復帰した怜のキャラクター性も俺なりには考えてました。病気から復帰したシンガーが何を歌ったら説得力があるのか。どこならお互いの心が通じ合えるかのか?って考えると、活休前のkannivalismは「リトリ」とか、キャッチーでポップでみんなを励ますような前向きな曲だったんですけど、そうではないなと。BAROQUEの『sug life.』の「exit」、僕のソロ『silk tree.』にある内面的で深淵な雰囲気や、遠い過去の深い記憶にコンタクトするようなダークサイドな方向へシフトしようと思って、「again and again」のような神秘的なものができて、『helios』につながっていったんです。「again and again」や「mum.」は、その後の2人体制のBAROQUEにも繋がっていくんですけど。
――その作風がガラッと変化した『helios』を掲げて行なった中野サンプラザと渋谷C.C.Lemonホールで行なったワンマンライブの記憶は?
あんま憶えてないかな(笑)。ただ、記憶に残っているのは、僕自身、みんなが求めている自分と自分がやりたいこととの乖離。それがすごく大きくて、葛藤があったんですね。常にその間にいたのは憶えてます。
――[ kei ]さんの心境の記憶ですね。お客さんが求める自分と本当の自分、その葛藤というのをもう少し詳しく教えてもらえますか?
僕がBAROQUEに加入した直後から、たくさんのお客さんがライブに来てくれるようになって。その流れで「我伐道」でメジャーデビューしたんですけど。当時はバンドが発していたパンキッシュでオシャレなムードと、お客さんの目線。当時ファンだった人は僕と同世代ぐらいの子が多かったので、バンドとお客さんが求めるものがすごく合致していたんですね。だけど『sug life』を出したら、僕は当時19歳だったんですけど、音楽的な意味で、自分が100%全力で本当にやりたい音楽、作りたいものを作ってみたら、それを“すごくいいな”と思ってくれた子もいたんですけど、それまでのBAROQUEのイメージとは全く違う音楽性で、ヴィジュアルも極端にカジュアルになってしまったのもあって、離れしまったファンがすごく多かったんですよ。
――ああー、そうだったんですね。
その辺りで、自分のアーティストとしての欲求とお客さんたちが自分に求めているイメージが剥離しだした。それがはっきりと分かったから“自分は100%全力で作りたい音楽を作ってはいけないんだ”というのを責任感として持ちながら、僕はkannivalismでメジャーデビューをしたんです。だから、さっき話したように、周りのいろんな人の意見、リクエストに耳を傾けながら、みんなが納得するものをクリエイトしていったんです。
――なるほど! そういう背景があったんですね。
そうやって、作家のように音楽を作ること自体、自分にとっては新しいチャレンジだったので、挑戦したからこそ吸収できたこともいっぱいあったんです。でも、その後も自分の中で葛藤はずっと続いていくんです。だけど、kannivalism休止中にソロをやらせてもらったときは、さっき話した自分のなかの責任感を1回置いといて。自分が作りたいものを自由に作るというのをしたんですよ。それは、とてもいい経験でした。
――つまり、そこで再びBAROQUEの『sug life』を作ったときのような、100%自分が作りたいものを作るというマインドで音楽制作に向かった訳ですね。
そうです。その、作りたい音楽を作るというマインドを持ち込んだのが『helios』だから。あれはあれで“等身大”なんですよ。アートワークも含めて。ソロに続いて、バンドとしては『sug life』以来、自分のやりたいことをやった作品ではあるのかなと思います。
――その起点となったソロでの音楽制作は、もともと自発的に始めたものではなかったんですよね?
はい。ソロは考えたことはなかったので。ましてや自分が歌うなんて。だから、たまたまですね。当時avexにいた人に言われければやってなかったです。周りの意見、アイデアを聞き入れながら一生懸命やってるのを見ててくれたのか、その人に“もっと本当はあるんでしょ? やりたいことが。そういうものがあるのなら若いときに一度表現してみたら。そうしたらこの先のアーティスト人生、それがすごく大事なものになるから”と言われたからやった感じですね。
――このときに作った『silk tree.』が、完全なるギターインストアルバムではなく、自ら歌った曲を入れたものになっていったのはなぜだったんですか?
“歌ったほうがいいよ”って言われたからですね。僕はさっき言ったように、いずれソロをやろうという欲求はまったくなかったので、ソロ用に溜めてた曲もなかったんですよ。それで、その人の提案を受けて、歌うことを前提に曲を作っていったんです。hideさん、SUGIZOさんのソロアルバムは子供の頃から好きだったので、ギタリストが歌うソロアルバムを自分が作ったらどんなのかな?というので作っていったのが『silk tree.』というアルバムですね。作ったのは24歳ぐらいのときだったんですけど。実際、そのときに作ったソロの作品は、いま振り返ってもすごく大事なものになってますね、自分にとって。ソロになった自分を突き動かす原動力にもなって、いまの[ kei ]というアーティスト、その原点になっている気がします。<後編に続く>
取材・文=東條祥恵 撮影=大橋祐希