90年代から日本のメロディックパンク/エモを牽引してきたHUSKING BEEと、日本のパンクシーンに強く影響を受けて2000年に始動し、今では台湾ロックシーンの先駆者として知られるFire EX.。過去には共作の経験があり、互いのリスペクトを重ね合わせた共演も多かったのだが、このたびHUSKING BEE30周年記念ツアーの中に組み込まれた『東北ライブハウス大作戦 2024 with Fire EX.』は、長い時間を乗り越えた特別なものになるという。どんなところが特別で、お互いどんな思いを持ち続けてきたのか。バンドのフロントマンでありメインソングライター、磯部正文とサム(楊大正)の特別対談をここに掲載する。
一一二人の出会いから聞いていきます。まずはサムさんがHUSKING BEEのファンだったと伺っていますが、知ったキッカケは?
サム:最初は2000年ぐらい。友達のひとりが、日本から『AIR JAM2000』のVHSテープを手に入れて、何人かの友達と一緒に見たんです。その中にHUSKING BEEがいて。それがキッカケになって音楽を聴き始めました。
一一『AIR JAM2000』、巨大スタジアムに3万5千人が集まった日ですよね。
サム:すごく衝撃的な光景でした。2000年くらいだと、パンクロックが好きな台湾の音楽ファンは、最大でも300人、400人キャパのライブハウスで楽しむのが当然だったから。日本だと、同じ音楽スタイルでも野球のスタジアムが満席になる。それはすごく不思議なことに見えました。希望に満ち溢れていたし、『AIR JAM2000』は日本の音楽シーンやパンクシーンに強い影響を与えたんだと思います。中でもHUSKING BEEは、歌の生命力がすごかった。歌の生命力と私の魂の共鳴みたいなものが一番大きかったんだと思う。
一一どうですか磯部さん。生命力と言われて。
磯部正文(以下、磯部):そのとおりだと思います(笑)。
サム:(HUSKING BEEのサイン入りCDをいくつも取り出す)2013年の、『FORMOZ FESTIVAL』に来た時にもらったものです。磯部さんからのサイン。
磯部:はははっ! 花博公園ってところでやったフェスティバルですよね。ORANGE RANGEとかPUFFYも出てて。台湾に行くと、やっぱり親日の空気が強いし、みんながすごく興味を持って見てくれるのがわかる。海外だと、ほんとにハスキンのこと知ってくれてるのかどうか、確認できないこともありますけど。でも台湾では袖で見てくれるFire EX.のスタッフが号泣していたり、ほんとに伝わるものがありましたね。来てよかったなって。
サム:うれしいです。最近僕は役者として高橋一生さんと一緒にドラマの撮影をしてるんですけど、高橋さんもHUSKING BEEの大ファンで。僕は2枚あるサイン入りCDのひとつを、このあと高橋さんにプレゼントしたいと思ってます。
磯部:えええっ。すご!
一一バンドとしてFire EX.と関わるのはいつからですか?
磯部:あれ何年だろう? Fire EX.がレコーディングで日本に来てたんですよね。
サム:2016年、『REBORN』の日本盤が出た時。日本盤をリリースすることになって。『REBORN』は台湾盤もあるから、区別をつけるためにも、代表的な曲を日本語に訳して歌ってみたらどうかってアドバイスされたんですね。それで、直接日本人に伝えたい曲を磯部さんに訳してもらって。
磯部:そう。その時初めて話したんだよね。自分の歌詞をそのまま日本語にして歌いたい、みたいな感じだったけど、けっこう無理があって。
一一訳すのが大変ということ?
磯部:いや、訳は合ってるんですけど、メロディーと合わせた時に、ちょっと拙い日本語になりすぎてるなぁと思って。だから初めて会ったレコーディングスタジオで、事前に用意されてた歌詞を変えて。「こういうふうに歌ったほうがいいよ」って仮歌を僕が入れて、ほとんどそのままをサムが歌ってる。
サム:それが「この島の夜明け」と「おやすみ台湾」。ただ、その時に生まれた「残像モーション」っていう一曲はまた特別で。僕からのリクエストで、磯部さんとその場でコラボしたんですよね。
磯部:よく覚えてる。「残像モーション」はもともとの歌詞になぞらえることなく、「このメロディーに合う磯部さんなりの日本語を乗せてほしい」って言われて。サムがもともと歌ってる母国の言葉を、ほとんどカタカナに書き起こしたんですよ。乗せるのは僕が乗せた日本語だけど、実は母国語に近い感じの響きにしてあげたくて。それを考えるのが自分ではすげぇ楽しかった。あんまり歌詞にしてこなかった日本語も思いつくし。「残像モーション」っていうタイトルも、散りばめた歌詞、曲の響きのイメージが重なって出てきたものだから。
サム:「残像モーション」の日本語は、新しい生命をもらった気分でしたね。なんか新しい曲みたいに感じられたし。歌う時の気持ちも全然違います。
Fire EX. 滅火器 “残像モーション feat.磯部正文” (Official Music Video)
一一共通するところもあるし、違いも当然ある。お互いの音楽性や曲作りに対して、気になること、それぞれ教えてもらえますか?
磯部:えっとね、Fire EX.は曲作る時、詞が先ですか? メロディーが先ですか?
サム:8割くらいは曲が先。メロディーが先。
磯部:主にサムがメロディーラインを考えてる? まぁすぐできあがる場合もあるでしょうし、サビだけできてて、あとはみんなで作る、みたいな場合もあると思うけど。
サム:パターンは二つで。一つ目は、僕が曲からイメージを想像して歌詞を書く場合。僕ひとりで曲も歌詞も書いちゃうことがあります。二つ目は、メロディーからイメージがそんなに浮かばない時。そうなるとメンバーと相談して、みんなで一緒に作っていく。そのアレンジが完成したあと、僕が歌詞を書きますね。
磯部:なるほど。つまり、僕が思うのは、Fire EX.の楽曲を聴くと、まずメロディーにすごく愛情を感じるっていうことで。これは「LOVE」って意味の愛情でもあるし、あとはサムやFire EX.が台湾に対して、身近な人に対して感じる愛情でもある。あと、ハスキンと共通するのは……これ翻訳が難しいかもしれないけど、哀しいって漢字で書く「哀情」。わかりやすく言うとエモーショナルなメロディー。そこがすごく似てるから、おそらく僕らと同じような作り方なんじゃないかな、と思って聞いてみました。ハスキンも、サムが言うのと同じように、まずは僕がメロディーを考える。ひとりで楽曲がほとんどできあがる場合もあるし、部分部分だけ考えて、あとはバンドでセッションしてアレンジしていく場合もあるんですけど。でも曲の母体、芯となるメロディーって、その人に流れる「あいじょう」だったりするんじゃないかな。
サム:曲を分解していくなら、歌詞とメロディーとアレンジ、三つの成分になると思うんです。そのアレンジとか、メロディーと歌詞の相性、僕にとってはHUSKING BEEの曲ってパーフェクトな感じがする。だから、ここで聞いてみたいこと、気になることはたくさんあるんだけど……自分の想像の中で、HUSKING BEEはいろんな挑戦をしながら、曲を一番パーフェクトな状態に仕上げていくんだろうな、と思ってます。それ以外のプライベートな話は、今度の打ち上げで聞かせてもらおうかな。
磯部:ははははっ。オッケー!
サム:あと、どうしてHUSKING BEEが僕の中で巨大な存在になっていったのか、この話もシェアしたいです。2008年かな、高雄から台北まで高速道路を運転していて事故に遭ったんですね。かなり大きな事故で、車も横転してひっくり返っちゃって。僕は幸運にも生きていたけど、クルマもベコベコになって。そんなヤバい状態の中、車のCDプレイヤーだけは壊れずに生きていて、そこでHUSKING BEEの曲が流れてきたんですね。メンバー全員が塞ぎ込んでしまいたい気分だったけど、その時に、HUSKING BEEの曲が生命力そのもののように感じられて。あれ以来、僕たちメンバーは力が必要な時にはHUSKING BEEの曲を聴きたくなる。HUSKING BEEの曲を聴くことが生きてることにリンクする。そういう感じなんです。
磯部:いい話。これ、最初に聞いた時は泣けた。
一一あと、歌詞についても聞かせてください。Fire EX.は主に母国語がメインで、そこに少しずつ英語、時には日本語が入ってくる。HUSKING BEEは最初メインが英語で、次第に母国語である日本語の曲が増えてきた。自分の国の言葉、普段の言葉で歌うことに、どんな思いがありますか?
サム:正直に言うと、日本と台湾の音楽マーケットの違いは大きいです。日本の音楽、バンドシーンの発展はすごく早くて、お客さんの規模も大きい。だから日本語で歌うバンドもいれば、そうじゃないバンドがいて、それを受け入れる文化がある。でも台湾だと音楽シーンがあんまり大きくないから。最初Fire EX.はお客さんが理解できる言葉を選択したんです。最初はそんな感じでしたね。ただ、バンドが成長していくと、台湾語は特別だなって感じるようになりましたね。台湾語の美しさがある。新曲を作る時も歌詞の内容をより深めたくなるし、いろんな台湾語をお客さんに届けたくなる。だから今も台湾語メインで作っています。
磯部:ハスキンの場合は、結成当時は主にアメリカのメロディックシーンが浸透していたし、日本のバンドでも英語で歌うのが当たり前だ、みたいな風潮があって。僕も「英語でやるしかねぇな」と思ってましたね。でも『GRIP』を作った後、セカンドアルバムの『PUT ON FRESH PAINT』をロサンゼルスでレコーディングすることになって。僕はレコーディングの合間に、アコギで好きな日本語の曲を歌ったりしてたんですよ。そしたらプロデューサーのマーク・トロンビーノから「日本語で歌ってるほうがお前に合ってるぞ。なぜ日本語で歌わない?」って何回も言われて。それを引きずりながら全曲英語でレコーディングしたんですよ。そのあとも「日本語で歌ったほうがいい」っていろんな方からアドバイスを受けることがあって。それで「欠けボタンの浜」を作ったり、そのあと「新利の風」ができたり。作っていくうちに日本語で歌うことにも慣れてきた。やっぱり伝わる力は日本語の曲のほうがありますし。ただ、あんまり深く考えずに、音楽そのもの、曲自体を楽しむなら英語で歌うことにも魅力があると感じますね。
一一最後に、9月に行われるツアーについて教えてください。
磯部:まぁ今年ハスキンが結成30周年で、「30本ツアーはどうだろう?」ってみんなで決めたんですよ。あと、コロナ禍でFire EX.と回る予定だった2020年の「東北ライブハウス大作戦」ツアーが一度中止になってるから、ちゃんと一緒に回りたいなってヤキモキしてたところもあって。コロナが明けて、これで一緒にできる流れができた。満を持して、時は来た、みたいな感じですね。
一一東北だけでなく、今回の能登半島地震を受けて、金沢公演も決まりました。
磯部:はい。日本も大きい地震があった時は台湾から援助してもらう、台湾で地震があったらもちろん日本からも支援するし。そんな大きな流れの中に僕たちやFire EX.も含まれていて。今回能登で地震が起きたこと、サムはけっこう心配してくれてたんだよね。それで「金沢でもライブがしたい」って言ってくれて。なんとか実現したいなっていう流れの中で決まった公演です。
一一東北は被災からもう13年が経っているから、別に物資が必要なわけではないんです。それぞれ、バンドとして何を持っていきたいと思っていますか。
磯部:えっとね、13年前、大きな地震が起こったあと、僕の場合は1ヶ月後に現地に行って。目を疑うような光景もたくさん残っていて、まだ音楽をやっていいのかわかんない状況でしたけど。でも、朝は幼稚園で歌ったり、夜は大人の前でライブをやったりすると、音楽を求めてくれて、音楽で力を与えることができるっていう確信がそこで生まれましたから。その時に思ったこと、13年経ってもあんまり変わってなくて。変わり果てた光景はもう復旧してますけど、でも、あの時にお互い傷ついた人たちと、それを助けてあげたい、なんとかしてあげたいと思った人たちの、お互いを思いやる気持ちは今でも強く繋がってると思う。その志があれば、いつ行っても、この先何年経っても、変わらないんじゃないかなと僕は思ってます。
サム:そうですね。Fire EX.が初めて東北に行ったのは2016年、ミュージックビデオを撮るためで、あの時は震災から5年後。いろんな建物の復興は半分くらい進んでいて、でも一部の住民たちは短い時間の中で復興の仕事をまだ続けていて。頑張っている姿、あの生命力は本当に尊敬できるものでした。その前から「東北ライブハウス大作戦」の人たちとは知り合っていたし、彼らの東北地方への支援行動にもすごく感動して。それらはFire EX.の大きな勇気になりましたね。あの時感じたものは10年経っても僕たちの中にあるし、今もFire EX.の音楽に影響を与え続けてる。バンド同士が一緒に頑張ってやりたいことのひとつが、また東北に戻ることだったから。いいライブを地元のみんなに見せたいですね。
取材・文=石井恵梨子