角野隼斗は時代とともに新たな開拓の地へ踏み込む~日本武道館公演にみた音楽の道とその根底

アーティスト

SPICE

集った満員の聴衆、約1万3千人。これは「日本武道館におけるピアニストの単独公演として史上最高の動員数」だったという。

この日の公演を聴きに来ていたショパンコンクール入賞者のあるピアニストが、ショパンが一生の間に人前で弾いたのは、これより少ない人数だっただろうと思うと興味深いね、と話していた。確かに、その夜角野隼斗が音楽を届けた聴衆の数は、ロマン派の時代、特に人前で弾くことを好まなかったショパンならなおさらありえない人数といえる。現代の感覚でも、普段のクラシックコンサートとは桁違いの数だ。しかし一度演奏が始まれば、舞台上にある大型のモニターや光と影の演出、回転する舞台や音響効果、人柄のうかがえる話し方、そしてなにより、開かれていながら孤高の美を保つ音楽のおかげで、自分とステージが直接つながっているような親密な感覚が不思議と芽生えた。

公演の行われた(2024年)7月14日は、角野の29歳の誕生日。

日本武道館に満員の聴衆が集う光景は、やはり圧巻だったのだろう。アリーナに姿を現し、拍手の中をステージに向かって歩く角野の顔に笑みが浮かんでいたのが印象的だった。それを見て、彼の心に満ちているのは、緊張よりもこの特別な舞台が楽しみで仕方ないという気持ちなのだろうと、ステージへの期待がより高まった。

前半は、アコースティックのグランドピアノ1台による演奏。ピアノは角野の自宅のスタインウェイだといい、「音楽家になろうと決めたのは、4年前にこのピアノを買った頃のこと。その時は武道館で弾くことになるとは想像していなかったし、このピアノもここに持って来られるとは思っていなかったと思う」と話していた。彼にとって、20代後半のこの4年間は真の飛躍の時だった。

まず演奏されたのは、ショパンのスケルツォ第1番。これは角野が2021年のショパン国際ピアノコンクールの最初のステージでも披露した曲だ。悲しくも華やかなワルツ第14番と、エチュードOp.12-11「木枯らし」は続けて演奏された。日本武道館の広い空間に、ショパンのエモーションが解き放たれていく。いずれも、角野が小学生の頃から演奏しているレパートリーだという。

「今日という特別な日を特別な会場で迎えられて光栄です。人生の中でも忘られない日になると思います。20代最後の誕生日なので、これまでの人生、歩んできた道を振り返る作品を演奏します」

センターステージに立ち、そう語った角野は、感慨深げな様子で客席を見渡した。

続けて演奏されたのは、モーツァルト/角野隼斗「24の調によるトルコ行進曲変奏曲」。調性の変わり目でライトの色が変わる仕掛けとともに奏でられる音楽は、遊び心と自然発生的なエネルギーに満ち、飛び立っていく音を確かめるように閉じられた。

リストの「ハンガリー狂詩曲」第2番は、詩情に満ちた深い表現で始まったと思いながら聴いていたら、弦をタオルで押さえたりマレットで叩いたりする内部奏法を用いた“オリジナル・ハンガリアン・ラプソディー”に展開。音のバラエティが無限に広がる。エンターテイメント的な印象のあるこの曲から宇宙を感じるのは、初めての経験だった。

その後の角野のトークで、11月にソニークラシカルから発売される世界デビューアルバムは、“古代ギリシャには、音楽は宇宙にあるという考え方があった”ことに着想を得て作られたものだという話があった。最近の角野の頭に宿る考えが、リストのハンガリー狂詩曲を宇宙まで押し広げたのかもしれない。

前半の最後に演奏されたのは、その新譜にも収録される自作の「Human Universe」。一度まっさらな状態に戻されたような暗闇の中から、万華鏡のように変化する音楽が生まれ、光の反射による演出も加わると、調和のもとに成り立つ美しい音楽、宇宙が生み出す音楽のことを思わずにいられない。やがて再び暗闇が戻って、静かに曲が閉じられた。

そしてステージは、角野のYouTube配信などでもおなじみのスタイルといえる、アップライトピアノとシンセサイザー、グランドピアノをコの字型に配置したセッティングへ。ここからは、彼ならではのオリジナルかつより即興的な音楽が届けられた。

後半の冒頭は、彼の音楽家としての人気をワールドワイドなものとしたYouTubeチャンネルの演奏を武道館で再現するようなパートで、実際にライブ配信も行われた。まずトイピアノを抱えて現れた角野は、床に座って「キューピー3分間クッキング」のテーマに始まる即興を披露した。そこから、いつものコの字に並んだ楽器を駆使した即興演奏。ガーシュウィンやラヴェル、カプースチン、バッハ、自作曲などのモチーフが、連想ゲームのように次々と現れては展開し、広がった。

YouTubeのリスナーに別れを告げ、続けて演奏された「追憶」は、角野がワルシャワ郊外を訪れた際に得たインスピレーションに基づく作品。ショパンのバラード第2番のモチーフが蜃気楼のように現れては消えていった。

「3つのノクターン」は、彼が旅する中で見た夜空をイメージした曲だという。「空は全てつながっている」という角野の言葉を思いながら、世界の空を思う。アップライトピアノの音が霞んだ夜の香りを感じさせた瞬間が印象的だった。

プログラムの最後に置かれた自身の編曲によるラヴェル「ボレロ」では、アップライトピアノの素朴な音に始まり、そこに内部奏法も含むグランドピアノ、シンセサイザーの音を重ねていく。自由に音楽を膨らませ、燃えるような赤い照明の中でステージが回転し、狂気と情熱が入り混じるようなクライマックスを迎えた。

鳴り止まない拍手に応え、再登場した角野がまず演奏したアンコールは、J.S.バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」。

「今、想像もしていなかった世界がひらけている気がする。僕が見ている景色をおもしろいと思ってもらえるように全力でやっていくので、これからもついてきてください」

1曲目を弾き終え、角野がファンへの力強いメッセージを伝えていたところに、客席から「お誕生日おめでとう」という声!

これをきっかけに、「自分から言い出すのもなんだと思ったのですが、なかなかない機会なので、みなさん、歌ってもらっていいですか?」と角野。自ら奏でるピアノにあわせて、1万3千人が「Happy Birthday to You」を歌う。そして華々しいグリッサンドから、そのまま、ショパンの「英雄ポロネーズ」へ。最後は彼が「アーティストとして憧れる存在」だというショパンをまっすぐに演奏する形となった。

冒頭に述べた通り、ショパンはもちろん、同時代のスーパースターだったリストですら、一度にこれほどの聴衆を前にピアノを弾くことはなかった。しかし考えてみればもしリストが現代に生きていたら、おそらくこの規模の公演をしていたに違いない。

時代は変わり、テクノロジーは進歩し、人が生む音楽も新たな開拓の地に踏み込んでゆく。そんな変化の中で、古代ギリシャの人々が信じた宇宙の音楽を想い、数学的な音楽芸術の美を愛で、ロマン派の感情を蘇らせて、さらに枠にとらわれない自作曲で今を生き生きと描く。この日の公演は、角野がこれから音楽と進んでいくうえでのそんな根底を提示するような時間だった。

同時に、たった一人で舞台に立ち、鍵盤楽器の音だけでこれだけの数の聴衆を終始集中させ、引き込む角野隼斗という人の力量に感服する一夜でもあった。

取材・文=高坂はる香 撮影=Ryuya Amao

関連タグ

関連タグはありません