麻田浩
キャリアのスタートは、ミュージシャンとして。1963年、大学生の頃、マイク真木らとカレッジ・フォーク・グループ、MFQ(モダン・フォーク・カルテット)を結成、1965年にはアメリカ・ツアーを行うなど人気を博す。解散後はラジオ・パーソナリティ、映画の助監督、俳優、ソロ・アーティストとしてデビュー、ツアー・マネージャー等々、さまざまなキャリアを経て、アメリカのシンガー・ソング・ライターを招聘して日本でライブを行うための会社、トムス・キャビンを1976年に創業。トム・ウェイツやエルヴィス・コステロ等々、錚々たるアーティストたちを初めて日本へ呼ぶ。
1980年にトムス・キャビンを閉めて、ゴダイゴやルースターズが所属したジェニカ・ミュージックへ。その後、日高正博とルースターズのマネージャーだった石飛智昭と共にスマッシュを設立。SIONを発掘し麻田事務所を立ち上げ、THE COLLECTORS、ピチカート・ファイヴ等をマネージメント。1996年からテキサス州オースティンのイベント、サウス・バイ・サウス・ウェストのアジア代表として、同イベントの「Japan Nite」をプロデュース、数多くのアーティストの、海外での活動の足がかりを作る。1999年にトムス・キャビンも再始動し、海外アーティストの招聘を再開──。
2月8日(土)にリキッドルームで『トムス・キャビン麻田浩80祭』というイベントが開催される、その主人公である麻田浩のプロフィールを、ざっと紹介するとこんな感じになる。THE COLLECTORS、小西康陽、田島貴男、曽我部恵一、JAGATARAのOto&Ebbyなど、絢爛豪華なアーティストが集結して催されるこのイベントを前に、ご本人にそれぞれとの関わり等について話していただいた。
なお、さっきも「ざっと」と書きましたが、以下のインタビューも、麻田氏のキャリアを総括したものとしては、あくまでも「ざっと」です。2019年にリットー・ミュージックから『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋 トムス・キャビンの全仕事』という本が出ていて、めちゃくちゃおもしろいので、詳しく知りたい方は、そちらをぜひ。
■THE COLLECTORSとの出会い
──最初に、2月8日のイベントの出演者について、うかがわせてください。まず、THE COLLECTORSは、麻田事務所の所属バンドでしたよね。どのように出会ったんですか?
当時、自分の事務所が新宿にあって、JAMというライブハウスの近くだったんです。ある時、JAMの前にスクーターがいっぱい停まっていて、なんだろうなと思って訊いたら、モッズのバンドが集まっているイベントだと。観に行ったら……最初はまだ加藤(ひさし)がTHE BIKEの頃で、次に行った時にはTHE COLLECTORSになってたかな。
あのイベントは、田島(貴男)も出てたし、木暮(晋也)も出てたし、真城(めぐみ)もガールズ・グループで出てたし、すごくおもしろい連中ばっかりで。僕は当時、マネージメントしてたのはSIONだけで……SIONもそうだけど、僕にとって、曲がいいっていうのがとても重要なポイントで。加藤の曲がすごくよかったんです。それでマネージメントをやりたいと加藤に話をして。
ちょうどSIONをテイチクでやっていたんで、THE COLLECTORSもテイチクの真田さんらに相談して、BAIDISというレーベルを作って、そこからリリースを。最初は「BUY THIS」にしたかったんだけど、それは却下されちゃって(笑)。なぜテイチクだったかっていうと、細野(晴臣)くんや和田くん(和田博己。はちみつぱいのベーシスト)が紹介してくれたので。
去年ギターの古市コータローの還暦ライブにも行ったけど、今も元気にバンドを続けているのがうれしい。
■ピチカート・ファイヴは「テスト盤の帝王」だった
──次は小西康陽さん。ピチカート・ファイヴも、麻田事務所でしたよね。
ピチカートは、最初は……僕がスマッシュから独立した時、事務所がなかったんです。その頃和田くんが、細野くんの事務所でマネージャーをやっていて、「机、余ってるし、うちでやったらいいんじゃないの?」って言ってくれて。ただ、居候する代わりに、そこに所属していた越美晴(コシミハル)のマネージャーがいなかったので、手伝ってくれるんだったらいいよ、と。
それで、代官山の事務所に居候させてもらったんだけど、すでに小西たちがいたんですよ。長門くん(長門芳郎。パイド・パイパー・ハウス)と「あのバンド、すごくいいよね」って話してたんだけど。ただ、細野くんとしては、今後の展開を迷っていたらしくて。「だったら僕らでやろうよ」ということになって、最初は長門くんの事務所で預かってスタートしたんだけど。ただ、長門くんはレコード屋さんがメインだったから、だんだん難しくなってきて、「じゃあ僕がやりますよ」と。
最初はテイチクのノン・スタンダードでデビューして、ソニーに移籍したんだけど……僕がトムス・キャビンをやっている頃に、THE SQUARE(後のT-SQUARE)のマネージメントをソニーから頼まれて。そこの河合マイケルっていうドラマーが、すごくよくて。
──後にユニコーンやPRINCESS PRINCESSのディレクターになる。
そうそう。彼のドラムがすごくよくて、だから引き受けたんだけど、デビューする時にはマイケルがソニーに就職しちゃっていて、「おまえ、話が違うじゃないか!」って(笑)。そのマイケルがピチカートの担当になるというので、それもいいなと思って。
その頃のピチカートって「テスト盤の帝王」って呼ばれていたんですよ。テスト盤を音楽関係者みんなが欲しがるけど、実際の売上は厳しくて。当時、30,000枚ぐらいだったかな。30,000枚、今ならいい数字だけど、当時はそれだとどうにもならないくらいに、ピチカートは、レコーディングにすごくおカネをかけていたんですよ。小西は細かいところまでこだわって、いいミュージシャンも使うから。ディレクターのマイケルがプリ・プリも担当していて、すごく売れてたから、予算とか、裏でなんとか工面してくれてたんだと思うけど。
セカンド・アルバムからボーカルが替わって──新宿JAMで観た田島がすごいなと思ってて、彼に入ってもらったんだけど、残念ながらそんなに売れなくて。3枚出したところで、さすがのマイケルも「もうこれ以上僕の裁量では……」っていうことで、ソニーとは終わりました。
■ピチカート・ファイヴ、アメリカでブレイク
──で、コロムビアに行きましたよね。
コロムビアのプロデューサーの飯塚恒雄さんは、昔ベッツイ&クリスをやっていた方で、その頃に僕の書いた曲を使ってくれた、という縁があったので。自分のところのアーティストのレーベルをやりたい、と相談をしたら、「いいよ」ということで。コロムビアの中でセブンゴッド・レコードっていうのを始めたんです。残念ながら田島はORIGINAL LOVEに専念するために脱退することになったので、ボーカルは野宮真貴に代わって。
僕は外タレの呼び屋をやっていたから、海外にもミュージシャンの友達も多くて。ピチカートを聴かせると、みんなすごくいいと言ってくれるんですよ。それで、日本で続けていても売れないなら、外国に行こうと。
それで、ニューヨークの「ニュー・ミュージック・セミナー」というイベントに出したんです。いわゆる新人のコンベンションで、ピチカート、少年ナイフ、近田春夫のビブラストーン、ボアダムスでやったら、けっこうウケたんですよ。で、翌年も行ったら、マタドールというレーベルが興味を示してくれて、「やりましょう」ということになって。
──ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンやペイヴメントがいて、後にギターウルフやCORNELIUSもリリースした。
そう。それで、「どうやってアメリカで売りましょうか」というブレイン・ストーミングをやって。彼らは、年に二回はアメリカでツアーをやってほしいって言うんだけど、ピチカートはライブもすごくおカネがかかるんですよ。年に二回もツアーに行ったら事務所がつぶれちゃうから、「とにかくビジュアルで勝負してほしい、信藤(三雄)くんという、すごくいいビジュアルを作るアート・ディレクターがいるから」と。
で、「感性の鋭いゲイのコミュニティにプロモーションするのがいちばんいい」と言われて、ゲイ・クラブとかにチラシを撒いたりして。その彼らの読みは当たって、アメリカで20万枚ぐらい売れたんですね。そこから、日本でも状況が変わって……渋谷系がブームにもなって、いい結果が出るようになった。
今回は小西は弾き語りで出てくれます。小西は最近、下北沢のmona recordsで、3ヵ月に一回、ゲストを呼んで弾き語りのライブをやっていて。僕も出たんだけど、この間は、元メンバーの高浪(慶太郎)を呼んだって(笑)。
■JAGATARAのメジャー移籍を手伝う
──次は曽我部恵一さん。麻田さんとマネージメント等の関わりはなかった人ですが──。
僕は彼らが出て来た頃から好きで、ライブも観に行っていて。サニーデイ・サービスのレーベルの社長の大蔵(博)と、「こんな歳で観に来てるの、俺たちだけだね」とか言いながら(笑)。それで、2023年に『ハイド・パーク・ミュージック・フェスティバル』でオファーしたら、出てくれたんですよね。そこでも素晴らしいライブをやってくれて。彼らは、僕が招聘していたアーティストをよく聴いていたみたいで、そういうのもよかったみたいで。
──次はOto&EbbyのJAGATARAなんですが、すみません、麻田さんとJAGATARAの接点だけ、僕は知らなくて。
じゃがたらは、最初は……去年の4月に亡くなった八木くんが(八木康夫/イラストレーター、アートディレクター)、「おもしろいバンドがいるから観に行こうよ」と。それで田町にあったインクスティックで観たら、すごくおもしろくて、しょっちゅう観に行くようになって。まだ、おどろおどろしい感じが残ってたけどね(笑)。
ある時、Otoと(江戸)アケミが事務所に来て。「自分たち、ずっとインディーズでやってきたんですけど、もうちょっと制作費とか、自分たちのやりたいことができるレコード会社でレコードを作りたいんですよ」と。できれば事務所で預かってほしいと言われたんだけど、僕はその頃、SION、THE COLLECTORS、ピチカート、THE WILLARD、THE STRIKES、DER ZIBETをやっていたから、もう手一杯で。
そう言ったら、自分たちでマネージャーを見つけて来て、うちに机を置いて、間借りでやるようになりました。で、BMGビクター(現アリオラジャパン)の吉沢さんを紹介して、レコーディングもちょくちょく覗きに行って。コラっていうアフリカの楽器を入れたい、外国でミックスをしたいと言い出したから、ミキサーを紹介したり、コラのプレイヤーを探して、一緒にフランスまで行ってミックスをやりました。今回トロンボーンの村田陽一くん、パーカッションのヤヒロトモヒロくんも来てくれてJAGATARAの曲も聴けるみたいなので、楽しみにしています。
■「めんたいロック」というコピーを考案
──では、田島さんや曽我部さんと共に麻田さんも歌う、麻田浩&Thee Bandについても教えてください。Dr.kyOn・上原ユカリ裕・井上富雄など、錚々たるメンバーで。
kyOnは、京都の磔磔にいたと僕は思ってたんだけど、本人は「拾得ですよ」と(笑)。僕はトムス・キャビンの頃、エリック・アンダーソンとか、拾得で外タレのコンサートをやっていたので。だからみなさん、僕が呼んでいた外タレのライブを観に来ていた、というつながりが多いんですよね。
彼が東京でBO GUMBOSをやり始めてからも、観に行っていました。好きになると、仕事と関係なくても観には行くんですよ(笑)。
彼は、狭山での2023年の『ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル』で、小坂忠さんのトリビュートバンドのバンマスをやってくれて。その縁で、今回もスタッフがオファーしたら、忙しいのに「やりたい」って言ってくれて。
ユカリは、大瀧詠一くんのナイアガラやシュガー・ベイブなどですごいドラマーとして昔から有名だったけど、彼がブレッド&バターなどのバックをやっている頃に、時々楽屋で会うくらいの付き合いしかなかったので。今回一緒にやれてうれしい。
井上は……僕はトムス・キャビンの後に、ゴダイゴの事務所に世話になったんだけど、そこでルースターズをやることになって。同じ頃に入社した日高(正博)とふたりで、「どうやって売っていこうか」っていう話をして……ルースターズは福岡県出身だから「めんたいロック」っていうコピーにしよう、と。ルースターズも、シーナ&ロケッツの鮎川(誠)くんらルースターズ以外の福岡のバンドも、みんなすごく嫌がったけど。わかりやすいからよかったんじゃないか、って、僕は今でも思ってる(笑)。井上もデビューから45年。こうやって、また一緒にやれるとはね。他にもコーラスでPetty Bookaの小木奈歩と、ギターでThe Flying Dumpling Brothersの武谷健が参加してくれます。
■マーケットがあるところに行けばいい
──今日のお話からもうかがえますけど、いつの時代も常に新しいアーティストを追っておられますよね。トムス・キャビンの頃から。
そうですね。同じことを続けていると、飽きちゃうんですよ。最初はシンガー・ソング・ライターの招聘をやっていましたけど、だんだん飽きちゃって、サザン・ソウルが好きになって、そういうアーティストの招聘をしたり。そのあと、ビルボード誌を見ていたら、イギリスで、ジェイク・リビエラという男が、スティッフというレコード会社をやっていて、イアン・デューリーらアーティストをみんなバスに乗せて、ツアーを回っているのを知って。
そこのエルヴィス・コステロとかグラハム・パーカーのレコードを聴いたら、どれもすごくよくて。日本でコステロを出していたレコード会社の人に、ジェイク・リビエラの番号を訊いて、電話して、「日本でツアーをやりたいんだ」って言ったら、「いいよ」と。まだそんなに売れてなかったんですけど、コステロもグラハム・パーカーも。僕にとってはすごく新鮮でしたね。
ピーター・バラカンに言わせると、当時のイギリスは、インディーズのディストリビューション(流通)が、なかったらしいんですよ。それをスティッフが作って、地方のレコード屋さんでもインディーズのレコードを買えるようにした、と。
電話で話した時、「どうしてその方法で採算が取れるの?」って訊いたんですね。「俺たちはイギリスだけじゃなくて、アメリカでも、南米でも、ちょっとずつレコードが売れるから、それでちゃんと利益になるんだよ」と言っていて。後のピチカートの時、日本で売れなかったらアメリカで売ろうっていう発想になったのは、スティッフの影響が大きいですね。
──なるほどなるほど。
それで、最初にグラハム・パーカー、次にコステロの来日公演をやって、ストラングラーズをやって、XTCをやって。アメリカにも同じような連中がいるのを知って、トーキング・ヘッズ、B-52’s、ラモーンズを──この3組は、同じマネージメントで。彼らのレコード会社、サイアーも、すごくいい会社で。社長のセイモア・スタインという男が、時々日本に電話して来て「チケット売れてるか?」って訊くんだよね。それまでのメジャーのレコード会社のスタッフは電話なんかしてこなかったから。だから、世の中の音楽ビジネスのシステムが、だんだん変わって来ているな、と思いましたね。
──麻田さんのキャリアを振り返ると、前半は海外のアーティストを日本へ招聘する仕事が多かったのが、途中から逆に日本のアーティストを海外に出していく仕事が増えていきますよね。
やっぱり、僕の好きな音楽は、なかなか日本で売れないんですよ(笑)。だから、ピチカートなんか完全にそうだけど、海外に活路を見出さざるを得なかった。最初の頃の海外でのライブを手伝ったMONOも──今は自分たちでやっているけど、完全に海外に特化して活動しているし。どこへ行っても、すごい動員ですからね。だから、ジェイク・リビエラが言っていたように、南米でもどこでも、マーケットがあるところに行けばいいんですよ。日本で売れるのが難しい場合は。解散したけどCHAIとか、日本にも個性的でおもしろいバンドがたくさんいるのに、もったいないと思うんですよ。
──では締めに、2月8日のライブに向けて、ひとこといただければ。
僕はほんとに、80歳になってこんなことをやってもらえるっていうのが、それだけでうれしくて。これまで沢山の方に迷惑もかけたし、大変なことも多かったけど、長いことやってればいいことありますよ、っていう。 (ポスターを指して)僕の写真がない方が、チケットが売れるんじゃないかと思うんだけど(笑)。こんなにすごい人たちが、忙しい中で出てくれるので、是非いらしてください。
取材・文=兵庫慎司
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