石坂敬一さん「お別れの会」に2,300人参列、湯川れい子、富澤一誠、長渕剛が弔辞【弔辞全文】
2016年12月31日に虚血性心不全のため永眠した、元ユニバーサルミュージック / ワーナーミュージック会長、現オリコン社外取締役の石坂敬一さん(71歳)の「お別れの会」が、2月8日東京・青山葬儀所で行われ、親交のあった音楽関係者など約2,300人が参列し、別れを惜しんだ。
石坂敬一さんは、慶應義塾大学を卒業後、東芝音楽工業(現:ユニバーサルミュージック)へ入社。洋楽ディレクターとして、ビートルズ、ピンク・フロイド、レノン&ヨーコなど名だたるロックスターを担当。81年からは邦楽本部長としてBOφWY、松任谷由実、長渕剛、矢沢永吉ほか、そうそうたるアーティストを担当。その後、ユニバーサルミュージックの社長、会長を歴任。ワーナーミュージック・ジャパンの会長を経て、2015年6月からはオリコン社外取締役を務めていた。
弔辞で音楽評論家・湯川れい子さん、富澤一誠さんは、
「いつもお会いすれば訥々と熱く音楽の話でした。特に音楽の作り手や売り手であるミュージックマンには、音楽を聴いて愛して自分の美学、哲学を持ってほしいと。音楽を愛する人たちに誠心誠意尽くすだけ尽くした石坂さんは、きっと悔いのない人生だったと私は思います。本当にありがとう」(湯川れい子さん)
「あなたと私は君主と軍師のごとく、酒を浴びるように飲みながら、音楽業界をどうしたらもっと良くできるのか、そこで勝つには何を成すべきかと、熱く語り合いました。私たちのDNAには石坂イズムがしみ込んでいます。石坂イズムがDNAに組み込まれている限り、会長、あなたは永遠に不滅です。これからも私たちを叱咤激励してくれる面倒くさい人でいてください」(富澤一誠さん)
と、石坂さんとの想い出を振り返りながら別れの挨拶を述べた。
また、シンガーソングライターの長渕剛さんは、新人時代から続く石坂さんとのエピソードを交えつつ、「8年前にユニバーサルミュージックに移籍したその日に、スタッフ総勢で出迎えてくれて、石坂さんはみんなの前でこうおっしゃられたんです。『おかえり』と。もうそんな人はどこにもいません。やっぱり石坂さんがいないと困ります。けどどんなことがあろうとも、僕は詞を、曲を書き続けますね。だって約束したんだから。さらに頭を掻きむしり悩み続けていきます。歌を正し、歌に呪われ、歌に傷つき、さらに歌に喜ぶ。もしも歌で幸せを感じたならば、その譜面を抱きしめて、空を見ます。『石坂さんできたよ!』って」と語り、「12色のクレパス」を歌唱。
最後に「長年、私たち音楽人のために、命ある限り大切なことを教えていただいてありがとうございました。たくさんの愛情をありがとうございました。どうか僕たちを見守っていてください」と祭壇に向かって感謝の気持ちを語りかけ、弔辞を締めくくった。
湯川れい子さん、富澤一誠さん、長渕剛さん、弔辞全文
湯川れい子さん
石坂さん、今日は本当に厳寒の2月だというのにいいお天気になりましたね。昨夜は今日のお別れに際して何のお話をしようかなと思いながらウィキペディアを眺めてました。敬一さん知ってた? あなたのウィキの画像って1万4000点以上もあるのよ。ロックスターでも歌手でもないのに。そう正にあなたはレコード業界のレジェンド、スーパースターだったんですね。
さっき、富澤一誠さんともお話してたんだけど、いなくなっても、存在感あるのね。
大学を卒業して、東芝音楽工業に入っていらしたのが1968年。それからすぐにビートルズの担当として、お会いしましたね。でも、今も強烈な印象として残ってるのは70年代に入ってからの頃。さっきTレックスがかかりましたが、今の業界の語りぐさになっている、あのピンク・フロイドのアルバム「アトム・ハート・マザー」に日本語で「原子心母」というタイトルをつけたこと。その後ローリング・ストーンズのアルバム「サム ガールズ」を「女たち」というタイトルにしたり。
当時はサイケデリック・ロックから後のプログレッシブ・ロックなんていうのが出てきた頃で、ビートルズが解散して、ベトナム戦争が終わって、ロックは反体制の音楽だなんて思っていたら、化粧した男たちが出てきたり。なにやら有り難そうだけど、よく分からない。そんなときにあなたはロックに、手触り感と見える感、イメージを自分の身体と目で見せてくれた最初の、そしておそらくは最後のミュージックマンでした。
お酒が入らないとあまり喋らない人だったけれど、髪をヒッピーのように長く伸ばして、厚底でヒールの高いロンドンブーツを履いていたのは有名な話です。指は常にピンクとか赤のマニキュアをつけて、昼間はその格好でラジオ局を訪ねてくるとレコードを見せながらどこか少年のようなあどけなさの残る目でじーっと見つめて、「ね、これいいんですよ、いいんですよ」って。今の石坂さんを知ってる人たちと話すと「石坂さんの目が怖かった」、「いつも据わった目をしていて、あの目でギロっと睨まれるとすくみ上がった」という人がいますけど、でもウィキの写真を見ても昔も今も一生懸命な、一途な目をしていたのよね。
そして夜は麻布にあった団長のお店、スピークロウであなたはワーナーの折田さんや今野雄二さんや、色んな人と午前1時や2時まで飲んで、それからさっさと遠い国立の家に帰って翌日のラジオの用意や原稿を書いている私に夜中の2時3時、必ず電話をくれて。熱く熱くロックや夢やアーティストの話をしていましたね。いい迷惑だったけど、かわいかった。
それでその石坂さんが突然恋をして、結婚することになって、日本にビートルズを呼んだ、私と石坂さんの両方にとっての憧れのヒーローだったキョードー東京のファウンダー 永島達司さんのご媒酌で結婚式を挙げたあと、「新婚旅行に行っても花嫁さんと2人で何を話していいか分からないから付き添いできてください」って言われて。まだ私も新婚2年目くらいだったから、一緒にハワイに行ったのよね。今日式場の外にアロハシャツを着たあなたの写真がありましたけれど、あの時の敬一さん、美しい奥様と2人で並んで、ずっと1日幸せそうに海を眺めていたね。本当に幸せそうでした。
でも敬一さんが本当にすごかったのは単に洋楽好きのボンボンだったということではなくて、ビジネスマンとしてのお父様、石坂範一郎さんを心から尊敬していらして、常に事業の効率、社員を食べさせるということ、ひいては日本という国を育てていくという夢に神経を使って、寝ても覚めてもどんなときも背中に日の丸を背負って戦ってきた人だったんですよね。それも誠実に、ひたすら誠実に。
そのことは忌野清志郎さんの原子力発電に対する強烈なメッセージソングが入っていたアルバム「COVERS」を、東芝を親会社とするEMIから出せないという騒動のときのエピソードに痛いほど輝いていましたけど、もうそれだけで話が長くなってしまうので。
その後、約束通り40代で見事にユニバーサルミュージックの社長となったあと、外資系の会社にあって、日本には日本の文化と音楽とビジネスのやり方があると言って、邦楽制作の強化に力を注ぎ、レーベルを超えて邦楽アーティストの売り出しに手を貸し、たくさんのアーティストを育てられたことは、古くは内田裕也さんとクリエイションの話、BOφWYや矢沢永吉さん、長渕剛さんなどエピソードには事欠かないことでしょう。
いつもお会いすれば訥々と熱く、音楽の話でした。そしてみんなもっともっと広く深く音楽を聴いてほしいという話でした。特に音楽の作り手や売り手であるミュージックマンには音楽を聴いて愛して、自分の美学、哲学を持って欲しいと。
大会社の社長や会長になって、レコード協会の会長なども歴任していらした頃からでしょうね。多分、藤倉さんのような立派な後輩が育って安心したのかもしれないけど、お酒の量がどんどん増えていきましたね。心配していたけど、でも、頭はいつもしっかりしていました。そして一昨年の11月、旭日中綬章をうけられた後のお祝いのパーティでも、昨年6月の私の傘寿のパーティでも、とっても嬉しそうにスピーチをしてくださって、よかった。とにかく、飲むだけ飲んだよね。音楽を愛して、日本をこよなく愛して、音楽と愛する人達に誠心誠意尽くすだけ尽くして、私はきっと悔いの無い人生だったと思っています。あなたはいつも大きな志と夢と魂を持ったロマンティスト。永遠に少年のようなサムライでした。ほんっとにありがとう!お疲れ様でした。
敬一さん、ずっとずっと愛しているよ。魂の弟のような人でした。また、銀河の向こうで会おうね。
富澤一誠さん
石坂敬一さん、今日は特別な日です。だから、正直に言わせていただきます。石坂さん、あなたは本当に面倒くさい人でした。しかし誰もが認める凄い人でした。そして人間味に溢れた照れ屋さんで、何よりも優しい人でもありました。そんな石坂さんが私は大好きでした。石坂さん、いや、ここからはいつものように会長と呼ばせてください。会長、あなた程勝負にこだわった人はいません。もっともあなたの辞書には敗北とか負けるという言葉はありませんから。あなたは勝つために人生の全てをかけて戦ってきたんです。傍から眺めていて、そのことをひしひしと感じました。勝つことはあなたにとってナンバーワンになること、ただそれだけではありません。ナンバーワンになったら、勝ち続けて、ナンバーワンで居続けること。つまりナンバーワンで居続けるオンリーワンの存在になって初めて、あなたの仕事は完結するんです。
ミュージックビジネスの絶対君主になるために、あなたはヨーロッパの古代中世の歴史を常に勉強していましたよね。古代ローマの法王を描いた塩野七生さんの全15巻の大作「ローマ人の物語」をはじめとして、あなたの知識は大学教授をも凌駕してしまうほどでした。会長、あなたとはよく飲んで議論しましたよね。夕方5時頃から飲み始めて、深夜3時頃まで、2人だけで面白い話しをするわけでもなく、大学の少数ゼミのようなひたすら勉強会で、こちらが予習をしていかなければ話についてはいけませんでした。正直いってはじめのうちは面倒くさいな、と思いましたが、いつしか私も本気にさせられていました。
会長がヨーロッパの古代・中世ならば、私は日本史、とくに戦国時代のことなら多少自信もありましたので、お互いに負けず嫌いだからどちらが先に相手を自分に向けて引っ張り込むのか毎回が真剣勝負でした。十数年前のある日、私は会長に尋ねました。「信長・秀吉・家康、3人の中では誰が好きですか?」。あなたは間髪をを入れずに「信長かな」と仰いました。古い仕組みを破壊して新しい地平を切り拓く。信長はその頃のあなたの理想だったのでしょうね。でも敢えて私は言わせていただきました。「でも、信長だと負けてしまいますよ」「なんで?」あなたの眼光が鋭くなりましたが、「歴史が証明してるじゃないですか」と、私は畳み込みました。信長は本能寺の変で歴史から消え、続く秀吉は天下は獲ったものの、無謀な挑戦・疾病で万年を費やし、結局家康で天下繁栄が実現したのです。たくさんの生き証人で私が得た結論は、生き抜くためにはひとつのタイプではだめだということ。成長するにしたがって、ワカナゴ・ワカシ、イナダ、ワラサ、ブリなどと名を変える出世魚のように人間もはじめは信長型、それから秀吉型、そして家康型というように臨機応変にタイプを変えていかないと最後まで生き残れないんです。そんな出世人間がこれからのスーパー人間です、会長はそういう人間になるべきです。と私が言いますと、「秀吉の天才軍師、竹中半兵衛みたいなことを言うねぇ」とあなたはまんざらでもない笑顔を見せてくれました。それ以降あなたと私は君主と軍師のごとく、酒を浴びるように飲みながら音楽業界をどうしたらもっと良くできるのか、そこで勝つには何を成すべきかと、熱く語り合いました。結果的に会長あなたは出世魚のごとく、信長から秀吉へ、そして家康へと見事に進化して、音楽業界の頂点に立つことが出来たのです。
ユニバーサルミュージック、ワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長兼CEOを歴任し、日本レコード協会の会長にまで上り詰めることができたのです。そのことは民間人としての最高の栄誉とされる旭日中綬章を受賞されたことが物語っています。
勉強会は私だけではなく、たくさんの人達にもされていましたよね。私も相当疲れましたけれども、一番疲れたのは実は会長ではないでしょうか。勉強会はとりあえず夏休みにしませんか? 勉強会であなたに鍛えられた私達には石坂イズムが染み込んでいます。石坂イズムがDNAに組み込まれているかぎり、会長、あなたは永遠に不滅です。これからも私達がさぼらないように叱咤激励してくれる面倒くさい人でいてください。夏休みが終わったらまた朝まで飲みましょう。それまでに私もしっかりと予習をしておきますから。
長渕剛さん
石坂さん、こんなところで、お別れの会で弔辞を読むなんて思ってもなかったです。すごく悲しいんだけど、しっかり読めるかどうか…やりますね。
渋谷から霞ヶ関に向かう六本木通り。そこにどーんとそびえる東芝EMI。今から数十年前、石坂さんはそこにいらっしゃいました。当時新人の僕は用がなくても机にいました。ゴージャスなフロントを通り、エレベーターで上がる。「石坂さんまた歌ができたよー!」アポも取らず本部長の石坂さんの部屋を尋ねていきました。「おっ、いらっしゃい」。このまんまのお顔で、真っ直ぐな姿勢でいつも瞳を大きく開いてお話になられていました。ときに微動だにせず、「この前デモテープの3曲目、僕が作ったが、あれはまさしく君の原風景だ。士風の音楽の香りがして実に良い」と言い切り、口をすぐさま無一文に結び、ずっとまた僕を真っ直ぐに見るのです。そして石坂さん独特の間があり、僕はなんて答えていいか分からず。すると、ふいにニコっと笑い、少年のような茶目っ気の顔で「ありがとう、またいつでも来て」。そして決まってキャピトル東急ホテルのコーヒーをいつも飲みに連れて行ってくれました。
次に思い出すのは僕が30代。あのとき、3人でしこたま飲んだのを覚えていらっしゃいますか。あの頃の僕のオフィスの半地下で、石坂さんとノンフィクション作家の高山文彦と3人で焼酎を一升空けましたね。飲んでも決して崩れない方だとお聞きしていたので、僕らも気合いを入れて臨みました。そのうちテーマが三島由紀夫は何故自決したのか、という大変重いテーマに変わり、酒も大分まわり、しかし白熱の議論。作家の高山がさらにふっかけるもんだから、ほとんど答え出ずのまんま、僕はお二人の仲裁に入りました。そしたらいきなり石坂さん「相撲とろうよ!」。相撲、何故相撲。…学生時代、相撲部だったんですね。僕は経緯を全くお聞きしていなかったのであのときはびっくりしました。僕達3人は午前4時をまわり、石坂さんはお聞きしてたとおり、全く崩れることなく椅子に深く座り、足を組み、グラスを持ったまま石のように眠っておられました。「石坂さん!石坂さん帰りましょう!」「行こう。実に楽しかったよ」僕の運転手が運転する車でご自宅までお送りしようと「石坂さんこの通りどっちですか」「右」「はい、次は?」「左、ああ間違った右だ」「はい」「あ、その突き当たりを左に曲がりすぐ右」「わかりました。着きましたよ、石坂さん」すると石坂さんが「風景が違うな」。気が付いたら早朝1時間半のロングドライブでした。その次の日石坂さんはポリグラムに就任なさいました。それから1か月もしないときに電話がかかって「ポリグラムにおいで」。…流石にそういう訳にいかず。でもとっても嬉しかったんです。
そして8年前、僕はユニバーサルレコードに。この僕を支えてくれたのも石坂さん、あなたでした。レコード会社を移籍したその日、ユニバーサルスタッフ総勢で出迎えてくれて、石坂さんはみんなの前でこう仰られたんです。「おかえり」。おかえりって、もうそんな人どこにもいません。レコード会社の重鎮の方々と気さくに話せる場をどこでも作ってくださり、僕はそうやって石坂さんに引っ張っていただいたのだなと、つくづく思います。だからやっぱり、石坂さんがいないと困ります。でもどんなことがあろうとも僕は詞を、曲を書き続けますね。だって約束したんだから。さらに頭を掻きむしり悩み続けていきます。そして歌を正し、歌に呪われ、歌に傷つき、そして歌に喜ぶ。例えば歌が残っていくときに間違っていたか正しかったかを自分でわきまえようと思います。もしも間違ったら、人生の譜面に爪を立てて引きちぎってやります。もしも歌で幸せを感じたならば、その譜面を抱きしめて空を見ます、「石坂さんできたよ!」って。
長年、私たち音楽人のために命ある限り、大切なことを教えて頂いてありがとうございました。たくさんを愛情をありがとうございました。僕たちはさらに歌を書き続けてまいります。どうかどうか見守っていてください。
▲ジュディ・オングさん、加藤登紀子さん
▲吉川晃司さん、SUGIZOさん
▲浅井健一さん
▲小倉智昭さん、軽部真一さん
▲青山テルマさん
■Musicman’s RELAY 第82回 石坂 敬一 氏:https://www.musicman-net.com/relay/82.html
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