伝説のプロデューサー新田和長氏が「新しい音楽」の立役者を愛情豊かに綴る「アーティスト伝説 レコーディングスタジオで出会った天才たち」9/17発売
忌野清志郎、加藤和彦、小田和正、財津和夫、森山良子らをプロデュースしてきた、新田和長氏が「アーティスト伝説 レコーディングスタジオで出会った天才たち」を9月17日、新潮社より刊行する
新田氏は日本のフォーク、ロックをビジネスとしても成功させた、A&Rのレジェンド。東芝EMIのレコードプロデューサーとして、またファンハウスやドリーミュージックを創業したのちも、数多のヒット曲を世に送り出した。
自身も大学在学中にレコードデビューしたミュージシャンでありながらデビューから間もなくディレクターに転身し、以降は新しい音楽を奏でる才能たちに寄り添う裏方に徹してきた新田氏にとって、本作は初の著作。初めて世に出る事実を数多く含む貴重な記録でありながら、音楽というジャンルを飛び越え、表現の現場における「ものづくり」の醍醐味を描き切ったドキュメントとなっている。
新田和長氏 コメント
東京・溜池にあった東芝音楽工業本社ビルは鉄筋モルタル4階建で、外堀通りに向かってお辞儀するように傾いていました。1967年、初めてこのビルを訪ねた僕は、あれだけ多くのヒットで知られる東芝がこんな建物におさまっていることに驚いたものです。「この謙虚な姿勢がヒットを生むのだ」。誰かがあとでそう教えてくれましたが、どう考えても、傾いているからヒットが出るとは思えなかった。実際、ビル内で丸い鉛筆を床におくと、通りに向かってコロコロと転がったものです。
当時、「アーティスト」という言葉は外国人に対して使われ、日本人は「歌手」とか「タレント」としか呼ばれませんでした。僕は学生バンドだった頃、自分たちの音楽が思うようにつくれない不満をたくさんもっていたので、自分が音楽制作の現場に立つようになったら、アーティストがつくりたい音楽を一緒につくっていこうと思いました。日本のレコード会社がタレントや歌手より上位に立つという時代にあって、アメリカやイギリスのレコード制作現場のように、アーティストが主導権をもつようにしたいと思ったのです。
1969年、バンドマンからレコード・ディレクターに転身してから、僕は多くの先輩、後輩、仲間に助けられ、経験を重ねて、ヒットに恵まれました。あれから55年、外堀通りに向かってお辞儀するように傾いていた東芝音楽工業本社ビルは解体され、新しいビルにおさまった東芝EMIという会社そのものも既になく、僕の設立したファンハウスもありません。時の流れに思いをはせながら、今度は、僕が学んだものづくりの現場を、若い人たちに伝えたくて、この本を書きました。
音楽のプロデューサーは、ミュージシャンが演奏しシンガーが歌ってくれて、はじめて成り立つ職業です。アレンジャーやエンジニアがいなければ何もできませんし、写真家やデザイナーの助けも必要。ひとりでは足らないことを自覚した人たちが、同じことを面白いと思う人たちを求めているうちに、自然に「場」ができてくる。音楽制作はチーム力がものをいう団体戦で、その「場」と時代が重なった時に、ヒットが生まれます。そうしたものづくりの現場の面白さとともに、僕が感じたアーティストの魅力や凄みが伝われば、それに勝るよろこびはありません。