ミュージシャンの救世主? Pandoraのミュージックゲノムはいかに生まれたか「未来は音楽が連れてくる」連載第27回
▲オークランドのPandora社内にて。ミュージックゲノムのチームと、創業者のティム・ウェスターグレン(中央)。チームのメンバーたちは全てミュージシャン。チャールス・ミンガス、スティーヴ・ ミラー、グレイトフル・デッド、パブリック・エネミー、シェリル・クロウなどと仕事をしてきたプロたちだ(Image)
全国を飛び回るティム・ウェスターグレン
「なんでも聞いて下さいね」
ウェスターグレンはいつもこう切り出して、聴衆とかけあいを始める。話しぶりは穏やかで、決して大仰な声を出さない。というか、内気なボソボソ声だ。だが、ウェスターグレンのキャラクターには、オーディエンスを盛り上げる天分の煌めきがある。
質疑応答が進むにつれ、笑いがさざめき、驚嘆が起こり、エピソードに拍手が何度も降る。いつだってそうだ。数百人が、いつの間にか彼の話に取り込まれ、この謙虚なカリスマへの信頼で会場が満たされてゆく。人気エヴァンジェリストの説教のようだ。
開局以来、ウェスターグレンはアメリカ全土を巡りタウン・ミーティングを開いてきた。
ニューヨーク、ナッシュビル、ミネアポリス、ニューオリンズ、サンフランシスコ、シアトル、ポートランド。… 2005年から始めたウェスターグレンの巡業はすでに41都市に及ぶ。
ヴァンに乗り込み、タウンホールに現れ、次の街へ移動する。ミュージシャン時代と同じだ。あの頃と違うのは、ヴァンが運んでいるのはバンドの楽器ではなく、PAの機材と、CDを一杯に詰め込んだボストンバッグというところだ。それと最近では、飛行機も併用していることだろう。
ウェスターグレンは、会場に来た音楽ファンがくれたオススメCDで、いっぱいになったボストンバッグを、ミュージックゲノムのチームに渡す。
そこから、チームのミュージシャンたちがピンと来る音楽を見つけ出し、楽曲のDNAをその耳で解析してミュージックゲノムに入力してゆく。あとはPandoraのパーソナライズド放送が、その音楽と相性がぴったりのリスナーを探し出して、ピンポイントでオンエアしてくれる。
「タウンミーティングなんて、まわりくどいことをやっているなあ」と苦笑した読者もいるかもしれない。
ウェスターグレンのやり方は、アメリカのバンドの巡業そのものだ。納得の作品ができたら、方々の街を廻ってライブを開き、固定ファンをつくり、地元のラジオにオンエアしてもらう。これを何年もかけてアメリカ全土でやっていき、ようやく花咲く時節がやってくる。
▲開局以来、創業者のウェスターグレンがPandoraのタウン・ミーティングで巡った都市は41に及ぶ(2012年10月時点)。後年、この伝道活動が発火し、アメリカ全土を巻き込む政治的な現象にまで発展することになった
最初に開いたタウンミーティングでは、わずか4人だったウェスターグレンの聴衆も、今ではニューヨーク・シティのタウンホールを満たすほどになった。
当然だが、今ではもう、ウェスターグレンがオススメCDをボストンバッグでかついで来なくても、全国からオークランドのオフィスに集まってくる。
だが、今でも彼がオフィスに持って帰るものがある。リスナーの声だ。
サンノゼではプログラマのファンから、APIの要望を持って帰った。シアトルでFMラジオをやっているDJからは、「局名や番組名でシードソングをやってほしい」というアイデアをもらった。実は、「Pandoraのファン」という既存ラジオのDJも少なくないのだ。不思議に聞こえるかもしれないが、話は単純で、プロほどPandoraの選曲力がわかるからだろう。
ニューヨークでは広告ブティックに勤めるファンからもアイデアをもらった。放送局に勤めるファンは「都市毎にサムアップ曲のランキングをつくってもらえれば、番組に活用できる」という。ふたりのアイデアを組み合わせると、ローカル広告の面白いプランが創れそうだ。どれもすぐの実装はむずかしいが、Pandoraの開発チームはリスナーの提案を大事にして、着々と改良してきた。
ウェスターグレンがPandoraのCEOだったのは、開局直前の2005年春までだ。それ以降は、自動車メーカーのサターンから引き抜いたジョー・ケネディにCEOを一任し、自らはエヴァンジェリストを務めてきた。
ウェスターグレンは精力的に全国をまわってきた。全米に散在するオーディエンスとコンテンツホルダー、パートナー候補とスポンサー候補を巡り、パーソナライズド放送という名の「放送の革命」について伝道する日々を送ってきたのだ。
Pandoraはソーシャルメディアではない。だが、巨大なソーシャルグラフに育っている。
それは、ウェスターグレンが足を使って育て上げたもので、IT系のマーケティング会社が仕掛けるそれとは違う何かだった。魂と、時流と、偶然とが交差して、ひとびとの音楽への愛情が、熱いうねりとなっていった結果、できあがったものだ。
やがて、彼の情熱は全米に発火して、「イラク戦争のときと同じぐらい電話が掛かってきた」と議員がもらすほど、ワシントンの全議員事務所にアメリカ国⺠の電話が殺到する事態に至る。
「Pandoraは放送の革命を起こした」と言うが、2007年のそれは、本当に政治的な革命の様相を呈していた。
ミュージックゲノム構想が閃いた瞬間
ティム・ウェスターグレンの起こした市⺠革命へ場面を移す前に、
「ミュージックゲノムはどうやって思いついたのですか?」
という、筆者がタウンミーティングの現場にいたら必ずたずねたであろう、質問の答えを書いておこう。彼の生い立ちが、ミュージックゲノムの誕生と密接に結びついていることは想像に難くないが、調べてみると事実、その通りだった。
ウェスターグレンは1965年、ミネアポリスで生まれた。同じ街に住むプリンスが7才になった頃で、映画『パープルレイン』で触れられている両親の離婚が起きた年だ。
ウェスターグレンの方は、暖かな家庭で穏やかに育てられたようだ。
後年、人力検索のQuora.comで「どうやったら娘を起業家に育てられますか?」という若干無茶な質問に対し、それは子供の選択の自由にゆだねるべきだけども、と断った後、自分がどう育てられたかを振り返り、簡潔に回答した。
起業後、彼は凡人から見たら「無謀」としか思えないジャッジを繰り返し、何度も逆境を招く。強い自己信頼が無ければただひとつたりとも乗り越えられなかったことを、本章の読後に気づかれることだろう。
楽器が大好きだったウェスターグレンはピアノ、バスーン、ドラム、クラリネットを演奏できるマルチプレイヤーに育ち、スタンフォード大学の音楽科に進学した。当時、ジョビンと共にボサノヴァを創出したスタン・ゲッツが教授のひとりだったという。
大学時代の専攻は政治学だったが、副専攻にコンピュータ音響学と音楽理論を学んだ[2014.4.13専攻を副専攻に訂正]。後年、ミュージックゲノムが彼の心に生まれる素地と言える。
卒業後、彼はプロ・ミュージシャンの道を選んだ。
ジャズ・ピアノとロック・キーボードのスタジオ・セッションをこなすだけでなく、彼自身もいくつかのバンドに参加した。ヴァンを運転して方々の街を巡ったのはこのときが最初だ。みっつめに参加し たバンド、イエローウッド・ジャンクション(Yellowwood Junction)は⻄海岸でそれなりのファン層を固めるも、全国区になることはなかった。
1995年、バンドは解散。ウェスターグレンは、映画音楽の作曲で食いつなぐことになった。
映画、といってもハリウッドの大作をやらせてもらえるわけではない。インディー映画の劇伴をいくつもこなす毎日だった。だが、この経験が、放送史に革命を起こすアイデアを着想するきっかけとなった。
ウェスターグレンは、映画監督たちと打合せを繰り返すうちに、あることに気づいた。シナリオや映像などに関してはクリエイティヴに説明する監督たちが、こと音楽の注文になると、みな要領を得ないのだ。
「なんていうか、こう、恐怖のナタリー・マーチャント(Natalie Merchant )って感じ? それでお願いできる?」
帰宅したウェスターグレンは、鍵盤に肘をつき、額を押さえた。恐怖のナタリー・マーチャント? 何だそりゃ。
立ち上がって、部屋をうろついた。
「恐ろしい」という曖昧な言葉を、音楽理論に置き換えると何に相当するのか。怖いとか、陽気とか、理論で言ったらリズムやコード進行の変化のことか。アルトサックスを使うとか、アレンジの問題なのか。…
もし楽曲がもたらす感覚やイメージを音楽理論で分解できるなら、究極の音楽データベースというのが成り立つのではないか? もしそんなのがこの世に存在すれば、新しい音楽を探しているリスナーが、的確に音楽を検索できるけど…。
考えは目の前の仕事から逸れはじめた。
軽い知的興奮を覚えたまま、ウェスターグレンはソファにすわり、雑誌をパラパラめくった。そこには前作で23万枚を売りながら、レーベルから契約を打ち切られたシンガーソングライター、エイミー・マン(Aimee Mann)のことが書いてあった。エイミーの苦境は、ウェスターグレン自身も味わった挫折と根が一緒のような気がした。
自分らのバンドは確かに⻄海岸で少しは知られていた。あのとき、あのサウンドが好きそうな人たちが、アメリカ全土から自分らの音をすぐに探すことが出来たならどうだったろう? エイミーもそうだ。新しいアルバムを創ったとき、その音が好きそうな人たちとすぐに出会える仕組みがあったならば、記事に書いてあるように宣伝費を理由に契約を打ち切られることもなかった。
…つまり、音楽理論で創った全楽曲のデータベース。それが誕生すれば、ミュージシャンの救世主になるかもしれない?
「その瞬間、今まで考えて来たアイデアの全てが、渦に吸い込まれて一点に集まったんです」
ウェスターグレンは、そう語る。ミュージックゲノム・プロジェクトが着想された瞬間だった。
創業から5年、プロダクトのなかったPandora
▲Pandoraはアメリカを代表するインターネットのプロダクトとなった。記念すべき100億回目のサムアップ(イイネ!)を得たのは、ジェイソン・デルーロ(左 21)の『Ridin’ Solo』。45歳のティム・ウェスターグレン(右)とは年齢が一回り違う
ウェスターグレンがその時、得たのは「音楽理論を駆使して、究極の楽曲データベースをつくれば、ミュージシャンの救世主になる」というヴィジョンだ。
ビジネスモデルとか、サービスイメージとか、具体的なものは何もなかった。ただ、強い確信と希望が彼を満たしていただけだった。
だが、時は1999年。場所はアメリカ⻄海岸だ。
若者の誰もがインターネット時代到来の熱に感染していた。何人かが集まって盛り上がれば、あっさり起業してしまう頃合いだった。ウェスターグレンはふたりの友だちと創業した。ひとりはウィル・グレイザー、プログラマだ。もうひとりはジョン・クラフトといってIT系の営業をやっていた。ふたりとも、Pandoraが開局するまでに会社を去っている。
システムの営業経験があるジョン・クラフトが、ビジネスモデルを言ってくれた。「その音楽のデータベースをEコマースのサイトに売ればいいんじゃないかな」と。Eコマースのサイトで、ミュージックゲノムがおすすめのCDを表示してくれれば、CDの売上が促進されるはずだ。
3人はそれで事業計画書を書き上げ、翌年には150万ドル(約1億6,200万円 108円/ドル)の出資を得ることが出来た。AmazonやEbayが成功しつつあった頃のことである。
時代の風に乗り、起業まではとんとん拍子だったが、ここからが地獄だった。資金獲得の2週間後、ITバブルが崩壊した。
地獄を招いた原因は内部にもあった。
売るべきプロダクトがいつまでたっても完成しなかったのだ。それもそのはずだ。ウェスターグレンのアイデアは、現実の開発に置き換えると、こういうことだった。音楽理論を駆使して楽曲を解析したデータベースを創る、ということは、音楽理論の分かるプロのミュージシャンに楽曲をひとつひとつ、耳を使って解析してもらわなくてはならない。
ひとりが1時間にできる分析は2、3曲。それで、全米の楽曲をひとつひとつだ。プロのミュージシャンが解析し終えるまでどれだけの人件費と、幾年の歳月が必要だろうか。
まともなビジネスマンなら、ここに思い当たった時点で、この事業アイデアは却下しただろう。だが、彼はティム・ウェスターグレン。ミュージシャンを救うという情熱と確信だけに満たされて、起業するような男だ。
ミュージシャン集団を雇い、開発を続けた。
当然ながらプロダクトはいつまでたっても出来上がってこない。最初の資金を得た年、クリエイティヴ・ディレクターに採用されたダン・リズコット-ヘイムズ(Dan Lythcott-Haims)は、ウェスターグレンとの面接をこう振り返っている。
「『それで、御社のプロダクトは何でしょうか?』と僕は聞いたんです。そうしたらティム(ウェスターグレン)は『…いや、うちのプロダクトって何になるのか、むしろ僕らが知りたいんだ』と」
ヘイムズはのけぞったという。
どん底からの脱出。そしてインターネット放送へ
そこから一年後の2001年。
彼らなりに頭をひねって、方針を若干変更した。確かにDBは未完成で売れない。だから、とりあえず今出来上がってるDBを、ライセンス提供することにした。
営業はなんとか成功した。アメリカの書店最大手、バーンズ&ノーブルが目をかけてくれたのだ。
ただ、ミュージックゲノムはライセンス提供しようにもまだ使い物にならない。だからバーンズ&ノーブルは、開発援助の名目でお金をくれた。Pandoraにとって初めてのまともな売上だったかもしれない。だが金額は、わずか2万ドル(約250万円 125円/ドル)だった。
ウェスターグレンはめげずに様々なサイトへ売り込んだ。おかげでプロバイダ最大手AOLと家電最大手BestBuyがミュージックゲノムを採用してくれた。ただし、2社ともトライアル採用で、結局、売上は発生しなかった。
2002年にはもはや会社は火の車で、借金まみれになった。オフィスの家賃も支払えなくなり、ウェスターグレンの個人保証でなんとか支払う有様だった。この頃には共同創業者ジョン・クラフトは去っていた。
ウェスターグレンはひたすらヴェンチャー・キャピタルを廻っていたが、出資するものは誰もいなかった。それはそうだ。どう考えてもデュー・デリをクリア出来る状態ではない。だが、ウェスターグレンの人柄に可能性を見いだした投資家もいた。エンジェル投資家のピーター・ゴッチャー(Peter Gotcher)だ。
「起業家というのは『最高のビジネスモデルを見つけました』とまくしたてるものです。だが彼は違いました。『現時点では、このアイデアが僕らのベストです』というのです。率直で、好印象を持ちました」
ゴッチャーは後年、出資依頼に応じたが、このタイミングでは断った。
翌2003年。完全に行き詰まった。
ここからはもう無茶苦茶である。スタッフに給料が払えなくなったウェスターグレンはクレジットカードを現金化し、ラスヴェガスに乗り込んで一発当ててようやく給料を払ったり、借金取りと揉み合ったりした。
ついにどうしようもなくなり、ウェスターグレンは残っていた15人のスタッフと30人のパートタイムを全員解雇した。
だが、彼らはミュージシャンで、「ミュージックゲノムでミュージシャンを救う」というウェスターグレンの掲げた理想の信者になっていたのかもしれない。解雇の際に述べた「ボランティアで働いてくれ」というウェスターグレンの無茶な申し出に、ほとんど全てのミュージシャンが応じた。
彼らにとってすれば、ミュージシャン業が本業で、Pandoraの仕事は副業だったというのもあったかもしれない。ウェスターグレンを告訴したのは数人だけだった。
2004年。ウェスターグレンはVC巡りを止めなかった。断わられた出資依頼は347回に達した。ほとんど毎日廻ったのではないだろうか。
そして348回目に奇跡がおきた。
たった2万ドルの売上にしかならなかったバーンズ&ノーブルの実績を評価する奇特なファンドがあらわれた。出資依頼が通ったのだ。ワルデン・ヴェンチャー・キャピタル(Walden Venture Capital)は800万ドル(約8億6400万円 108円/ドル)をPandoraに出資した。
ウェスターグレンは入ったお金でまず未払いの給与を支払った。そしてVCの薦めに従い、CEOとCTOをヘッドハンティングすることにした。的確な薦めだが、こんな状態で経営を実際に引き受けてくれるエグゼクティヴがいるのだろうか。それが、いたのだ。
自動車のサターン社で取締役だったジョー・ケネディが、なぜかPandoraのCEOを受けてくれた。CTOを引き受けてくれたのは、元Appleのトム・コンラッドだ。
ふたりがどうして引き抜きに応じたのか、筆者には正直謎だ。やはり、ウェスターグレンの理想に当てられたのだろうか。直接、会う機会があればたずねてみたい。
BtoB路線だったPandoraに、自動車業界でコンシューマ商売をやっていたジョー・ケネディがやってきたことは、パーソナライズド放送という名の放送の革命が誕生する、決定的なきっかけとなった。(2012年10月30日変更)
ミュージックゲノムをEコマースにライセンスするのでは、見込顧客があまりにも限られている、とケネディは説明した。ウェスターグレンは、ケネディが経験を持っているBtoCへ、ビジネスモデルを転換することに賛成した。
そして、そのBtoC向けプロダクト候補のひとつに、インターネット放送があった。
著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
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