ラジオの登場で売上25分の1になったレコード産業、イノヴェーションを重ね復活「未来は音楽が連れてくる」連載第36回
▲トーマスエジソンとフォノグラフ。後世、レコードの発明は「科学がエンタテイメントにもたらした最大の貢献」と賞されるようになる。
<エピローグ『未来は音楽が連れてくる』>
レコード産業、壊滅の危機から復活した歴史
レコード産業は、フリーメディアのラジオに勝てず、かつて売上が25分の1に落ちたことがある、と書いた。1930年初頭のアメリカのことである(※)。
1930年代の不況はエンタメの明暗を分けた。ラジオと映画は力強く、30年代に黄金時代を築いていった。一方、レコード産業の売上は30年代のうちに、恐慌前の水準へ戻すことはなかった。
現代のレコード産業を彷彿させる状況だ。
新たなフリーメディアのインターネット。ソーシャルゲーム、スマートフォンアプリ、次々とあらわれるエンタメ産業の競合。彼らに押されたレコード産業の売上はピーク時の半分にまで落ちた(IFPI 2012)。
だが80年前の米レコード産業は諦めなかった。瀕死の中、イノヴェーションを積み重ねて復活し、やがて黄金時代を再来させてみせた。彼らはどのように復活していったのだろうか。
本稿を閉じるにあたり、先人たちの努力を振り返っておこう。それはSpotifyやPandoraが、音楽産業の復活を示唆する重要なイノヴェーションであることを教えてくれる。
時の流れを読み取れば、未来は見えてくるだろう。
※Neil V. Rosenberg, Charles K. Wolfe. (2007) The Music of Bill Monroe (Music in American Life), University of Illinois Press, p.1
Regina Lee Blaszczyk (2008) American Consumer Society, 1865-2005, Wiley-Blackwell, p.144 Richard Crouse (2000) Big Bang, Baby: Rock Trivia, Dundurn Press Ltd., p.131
20年代:エジソンの憂鬱。ハード事業はレッドオーシャンへ
▲アメリカのピアノ生産数推移。1890年からブームが起こるがレコードが普及した1910年代に頭打ち。ラジオの普及した1920年代につるべ落としとなっている。ホームエンタテイメントの王座の推移を物語るグラフだ(※1)。
1920年。エジソン・レコード社は空前の売上を記録した(※2)。
先の大戦はアメリカに特需をもたらし、中流階級を拡大した。発明から43年経ったレコードは、ホームエンタテインメントの王様となり、全米の応接間で音楽を奏でるようになった。
だが、社長室で売上報告を眺めるエジソンの顔色は優れなかった。
「このビジネスは下り坂に入る」
エジソンはそう予感していた。レコード産業は、これまでエジソン社、Victor、コロムビアのビッグ・スリーが寡占していた。しかし、花形産業に参入するプレイヤーは後を絶たなくなった。1914年に18社だったメーカー数は、1918年には166社にもなっていた(※2)。
なかんづく、蓄音機に需要を奪われたピアノメーカーと家具メーカーは存亡を賭けて参入してきた。
1870年代から急成長していたピアノは、レコードが一般家庭に入り出してからつるべ落としに調子を崩していた。Victor社の蓄音機ヴィクトローラは、アンティーク家具とハイテクを融合したデザインでヒット商品となった。この路線をエジソン社などが追従したことで、家具メーカーも市場を荒らされていたのだ。
エジソンの予感は的中した。この年14万台あった蓄音機の売上は翌年、わずか3万台に落ち込んだ。Victorの売上も56万台から32万台に下降した(※2)。コロムビアはほどなく経営危機に陥った。レッドオーシャンと化したハード市場は価格崩壊を起こしていた。
※1 Victor Ginsburgh, C. D. Throsby (2006) Handbook of the Economics of Art and Culture Vol.1, North Holland, p.140
※2 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, pp.72-74
20年代:ソフトの時代へ
ゲームのルールは変わりつつあった。
ハードとソフトの両輪でやってきたレコード産業は、ソフトで稼ぐほか無くなったのだ。ビッグ・スリーはカタログの拡大に血道を上げ、大金を払って人気オペラ歌手と専属契約していった。
アーティスト・パワーでハードとソフトの両方のシェアを獲りに行く手法は、1902年にVictor社が発見したものだ。
19世紀の余韻が色濃く残る20世紀初頭、音楽の中心はミラノ、パリ、ロンドンにあった。ミラノに訪れたVictorのフレッド・ガイズバーグは若きテノール歌手、エンリコ・カルーゾの歌声に惚れ込み、前代未聞の「専属契約」を結んでスタジオ録音に入った。このレコードは史上初のミリオンセラーとなった。
Victorは人気オペラ歌手のレコードを専門としたレーベル、レッド・シールを立ち上げる。当時のレコードは現在価値で1枚5,460円もしたが、レッド・シールはこの4倍もするプレミアム価格が設定されていた(※1)。これが売れに売れたのだ。当時レコードは規格競争が続いていたので、キラーコンテンツを取ったVictor社の蓄音機ヴィクトローラは、エジソン社を超えてナンバー1の座を奪う。そしてニッパー犬は蓄音機の象徴となった。
だが、技術力を誇りに企業運営してきたエジソンは、このアーティスト重視の流れを嫌った。
彼は、レコードのラベルにアーティスト名を印刷することすら嫌がった。「音楽を安価で、だれの手にも届くように」というのがモットーだったエジソンにとって、無名のスタジオミュージシャンを使った安価なクラシック・レコードこそ正しかったのだ(※2)。
※1 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, pp.59-60
※2 Idem p.64
20年代:新コンテンツ。スウィートジャズ、そしてブルーズ
エジソンの美学に合わない話は他にもあった。
1920年はジャズから初のミリオンが出た年でもあった。
第一次世界大戦はシカゴ、デトロイトの工場に労働力不足を引き起こし、100万人以上の黒人が南部から移動してきた。そこで白人並みの所得を得た彼らが、ホットジャズ、ブルーズ・レコードのマーケットを作り始めていた。そしてOkehレコードなど、黒人音楽を専門としたインディーズレーベルが生まれ始めた。
当時のメインストリームであるオペラ歌手やブロードウェイ歌手は、メジャーに囲われていたので、インディーズは小さなセグメントを取りにいくしかなかったのだ。
インディーズのOkehレコードから出た、黒人歌手マミー・スミスの『Crazy Blue』(1920)がヒットすると、コロムビアはさっそくをOkehを買収。黒人市場を取り込み始めた(※1)。
コロムビアは黒人女性歌手ベッシー・スミスと契約。デビュー作『Downhearted Blues』(1923)はその後6年で600万枚のセールスを記録した(※2)。Okehは1920年代後期、ルイ・アームストロングを録音。現代ジャズに通じる道を切り開いた。
一方、Victorは、黒人市場に留まらなかった。ジャズを、メインストリームでもヒットするよう白人受けするサウンドに作りかえた。当時、ポピュラー音楽といえばブロードウェイものを指していたが、このブロードウェイもののバラードに、黒人音楽のリズミックなシンコペーションを取り入れたのだ。
1920年。ポール・ホワイトマンの『Whistering』は、ダブルミリオンを記録した(※1)。
四年後にポール・ホワイトマンの主催したコンサートは歴史的な瞬間となった。クラシックとジャズを融合した歴史的な作品、ガーシュインの”Rhapsody in Blue”が演奏されたのだ。「アメリカ音楽の誕生」であり、第一次大戦以降、アメリカがヨーロッパから精神的に独立したことを象徴していた。
エジソンはどうしたか。
彼は、ジャズやブロードウェイは嫌いだった。エジソンレコードはクラシック路線を維持し、シェアを落としていった(※1)。しかし、皮肉な話だ。エジソンが社長を務めたこともあるGE社の新ビジネスが、ジャズを広く白人層にまで浸透させていくことになる。ラジオの登場だ。
※1 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, pp.77, 102-107
※2 Susan J. Douglas (1999) Listening IN Radio and American Imagination, MN Univ. of Minesota Press, l.1957
20年代:レコード産業、コンテンツと音質でラジオに完敗
▲放送ビジネスのパイオニア、RCAがつくったラジオのパンフレット。「コンサート、レクチャー、ダンスミュージックがほしいみなさまへ」と語りかけている。高音質かつ無料で音楽が聴き放題。ラジオに人びとは夢中となり、レコード産業は窮地に立たされた。
19世紀末マルコーニが開発した無線技術は、アメリカとヨーロッパ戦線との重要な繋ぎ役となったこともあり、アメリカでは軍が電波を一元管理していた。
戦後、海軍将校とGE社の幹部が会合。英国など海外に無線技術を売却しないことを条件に、放送免許を半独占的に卸すことが決まった(※2)。放送産業のパイオニア、RCA社の誕生である。
若き経営幹部サーノフは、新しいビジネスモデルを着想した。電波で音楽を無料で流し、これをキラーコンテンツにして、無線受信機を全米の家庭に購入させるのだ。… そう、ラジオである。
後に、彼はカラーテレビもビジネス化し、「放送の父」と呼ばれるようになる。1926年。RCAは放送ネットワークNBCを立ち上げた。初の全国ネットワークの誕生である。
ラジオは、無料で音楽が聴き放題。その上、レコードより遙かに音質がよかった。
当時レコードの音質は3,500Hzだったのに対し、ラジオは5,000Hzだった(※3)。レコードはいったん物理的要素が入るのに対し、ラジオはマイクから放送まで電気化されていたからだ。当時の番組は、ライブ放送が基本だった。低音質のレコードをかけても魅力的な放送とはならなかったのだ。サーノフは、ホールやホテルからコンサートを無線中継し、これをAT&Tの長距離電話回線で全国ネット局へ配信した。
レコードなら1枚数万円もした一流歌手の音楽が、タダで楽しめるのだ。リビングの書棚に揃えたレコードよりも遙かにたくさんの音楽を聴くことができた。人びとは史上初の本格的フリーメディアに夢中となった。
ラジオの普及速度は、インターネットの普及速度を凌駕するほどのものだった。RCAによる大規模な放送の開始(1926)から14年で全米世帯の80%に到達している(※1)。アメリカでインターネットの普及率が80%を超えたのは2011年だ(※4)。
ほどなくラジオは、現在の地上波テレビのように総合バラエティ化する。しかし、音声メディアの宿命だろう。音楽がキラーコンテンツの王座から離れることはなかった。
1927年。ラジオ放送が本格した翌年だ。この年の1億4,000万枚をピークに、レコード売上の下降が始まった(※6)。大恐慌のどん底となった1932年には、わずか総売上600万枚にまで激減(※7)。実にマイナス96%だ。レコード産業の惨状は現在の比では無かった。文字通り壊滅したのだ。
※1 Douglas B. Craig (2005) Fireside Politics: Radio And Political Culture in the United States, 1920-1940, Johns Hopkins Univ. Press, p.12
※2 Eric P. Wenaas (2007) Radiola: The Golden Age of RCA, 1919-1929 , Sonoran Pub., p.23
※3 David L. Morton JR.(2006) Sound Recording The Life Story of a Technology, MD The Johns hopkins Univ. Press, p.93
※4 http://www.esa.doc.gov/Reports/exploring-digital-nation-computer-and-internet-use- home
※6 Jean Pierre Lion (2005) Bix: The Definitive Biography Of A Jazz Legend (Bayou Jazz Lives), Continuum Intl Pub Group, p.134
William Ruhlmann (2004) Breaking Records: 100 Years of Hits, Routledge, p.52
David Meyers, Arnett Howard, James Loeffler (2008) Columbus: The Musical Crossroads, Arcadia Publishing, p.35
※7 (1989) Grammy magazine Vol.7 to 9, National Academy of Recording Arts and Sciences, p.50
Asa Briggs (1991) Serious Pursuits: Communications and Education, Univ. of Illinois Pr., p.53 Rick Kennedy, Randy McNutt (1999) Little Labels – Big Sound: Small Record Companies and the Rise of American Music, Indiana University Press, xv
20年代:ラジオネットワーク、メジャーレーベルを買収
▲ラジオの普及速度(点線が全米世帯数、黒線がラジオ所有世帯数)。本格的な放送の開始(1926)から14年で全米世帯の80%に到達。アメリカでインターネットの普及率が80%を超えたのは2011年だ(※1)。
過当競争、ラジオの登場、そして大恐慌。
一連のカタストロフィーで、メジャー・レーベルの状況は一変した。
まず、1923年。コロムビア・レコードが破産した。同社の英国法人を所有していた英資本家が、コロムビア本社を逆買収。英国資本となったコロムビアは、1927年にラジオネットワークCBSを創立し、放送事業へ参入した。RCAが初の放送ネットワークNBCを立ち上げた翌年の話である。
1929年。株式大暴落の2日後のことだ。エジソンはレコード事業からの撤退を決定した。
その後、ラジオ産業がレコード産業を買収していく流れとなった。同年、Victor社は、RCAに買収。1938年には、CBSが親会社のコロムビアレコードを逆買収するに至った。
かくてレコードは、ラジオに完敗を喫するに至った。
屈辱だったかも知れない。だが、ラジオとレコードのコングロマリットは、その後、レコード産業復活に繋がっていく。
なお80年後の現在、RCA、Victor、米コロムビアは、全てSony Music Entertainmentに統合されている。
30年代:新たな強敵、映画
1930年初頭の大恐慌は、「音楽を買って楽しむ」よりも「音楽を無料で楽しむ」スタイルをさらに加速させた。谷底の1932年。レコードプレーヤーの年間売上はわずか50万台だったのに対し、ラジオは230万台だった。ブラックサーズデイから3年で、レコード産業(ソフト+ハード)の売上は10分の1になったが、ラジオのハード事業は半分で持ちこたえていたし(※1)、ラジオ広告売上は恐慌の最中、成長を止めることは無かった。
さらには、レコードと同じ有料コンテンツの世界で、最強のライバルが現れた。映画(サウンド・フィルム)の大流行である。
映画(サウンド・フィルム)の黄金時代は、音楽が連れてきた。
1927年、ワーナーがジャズをテーマに初のサウンドフィルム、『The Jazz Singer』を公開。翌年、ブロードウェイ・ミュージックを鏤めた『The Singing Fool』を出すと、ブームが始まった。大暴落の1929年に、ワーナーブラザーズは前年比700%の売上を叩き出し、その利益でもって900の映画館を買収した(※2)。
映画(サウンドフィルム)は社会現象を起こした。映画の動員数/週は1928年に7,000万人、1929年に1億1500万人、1930年に1億1500万人へ。全米の国民(6歳以上)が週に一度、映画に行っていた計算になる(※2)。
映画の黄金時代は、10年前に下地が出来ていた。1920年代、フォードのモデルTが大量生産され、中流階級に自動車が行き渡っていたのだ。家族は週末夕方、自動車に乗って映画館やアミューメントパークへ行くようになっていた。
急降下を続けるレコード産業と反比例して、映画産業は不況の最中、黄金時代を迎えようとしていた。だが、1931年。銀行の破綻が連鎖すると、映画からもついに客足が遠のき出し、映画館の3分の1が閉鎖となる。
とは言っても、音楽産業と比べれば遙かにましだった。
不況で最も割を喰うのは経済弱者だ。1920年代にようやく育ちつつあったブラックミュージック市場は恐慌で壊滅。黒人市場をターゲットにしたブルーズやホットジャズのインディーズレーベルは消滅した。パブは閑古鳥が鳴き、演奏の場を失った黒人ミュージシャンたちは廃業に追い込まれた。
メジャーレーベルも悲惨なことになっていた。RCA/Victorはこの年、1枚も新譜を出せなかった。スタジオから閉め出された音楽業界人たちは、それでもまだ仕事のあったハリウッドへ移動していった(※2)。
※1 David L. Morton JR.(2006) Sound Recording The Life Story of a Technology, MD The Johns hopkins Univ. Press, pp.91-93
※2 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, p.159-168
30年代の変革1:技術革新。音質向上と普及機
レコード産業は存亡の危機に立たされた。80年前の彼らは無策のまま、世を呪うばかりだったのだろうか。そうではなかった。レコード産業は、技術革新を起こしていた。
まず、音質向上が喫緊の課題だった。ラジオは無料で音楽が聴き放題。その上、音質面でも完敗していては、勝ち目が無かったからだ。
1931年。英EMIがムービング・コイルを使って微細な音を録音・再生する技術を開発した。EMIは欧州で随一のメジャーレーベルになっていた。
さらにウェスタン・エレクトロニクス社(Western Electronics)が塩化ビニールをレコード素材に使う技術革新を起こす。再生を繰り返すと音が劣化したワックス・レコードに比べ、耐性が向上しただけでなく、ビニール・レコードは遙かに精妙な音を記録可能だった。
このふたつの技術革新のおかげで、レコードの音質は、3,500Hzから10,000Hzへと飛躍的に向上した。AMラジオの5,000Hzと比べ、数値的には2倍のクォリティだ(※1)。
なお、Western Electronics社は後年、トランジスタ技術をSONY社に提供。これが音楽ビジネスの黄金時代再来に大きな影響を与えていく(次回)。
音質向上の翌年、レコードプレーヤーに普及機が登場した。
ラジオとレコードの結婚で生まれたRCA/Victor社は、出自にふさわしい普及機を開発した。当時のラジオは、スピーカーとアンプのついたオールインワンモデルだった。これにアタッチできる廉価版のレコードプレーヤー、Duo Jr.を$16.50で発売。1930年代を通じてトップセラーモデルとなった(※1)。
Duo Jr.の定価$16.50を、現在価値に直すと75,200円だ。我々の感覚からすると、廉価版にしてはかなりお高いが、当時レコードプレーヤーのトップラインは350〜400ドル、現在価値で160万〜182万円だった(労働価値で計算し、95円/ドルで換算)。フォードのモデルT車とさほど変わらない値段だったレコードプレーヤーが、そこまで安くなったのである。
※1 David L. Morton JR.(2006) Sound Recording The Life Story of a Technology, MD The Johns Hopkins Univ. Press, pp.96-98
30年代の変革2:価格破壊
ハードの価格破壊に続いて、ソフトの価格破壊が起こった。これはレコードメーカーの自己変革というよりも、新参の起業家が引き起こした変革だった。
1931年。銀行の連鎖破綻が起こったこの年は、レーベルのバーゲンセールだった。
少年時代に新聞売りで頭角を現し、次にタバコのトップセールスマンとなったハーバート・イェーツ(Herbert Yates)は、この好機を逃さなかった。イェーツはため込んでいた起業資金でレコードプレス工場と、アメリカン・レコード・カンパニー(ARC)を買収。
イェーツのARCは、瀕死の独立系レーベルを片っ端から買っていった。メジャーが有名歌手を中心にカタログを揃えていた一方、資本力のない独立系レーベルはホットジャズ、ブルーズ、カントリーなどニッチな音楽に向かい、地方受けするレコードを制作していた。
さらにイェーツは、映画主題歌に強いブランズウィック・レーベル(Brunswik)をワーナーから買収した。映画の黄金時代だ。ブランズウィックにはビング・クロスビー(Bing Crosby)ほかスターたちのヒットソングが揃っていた。かくてARCは、キラーコンテンツを持つに至った。
そしてイェーツは価格破壊を起こした。
当時のレコードの値段は75セント。現在の価値に直すと2990円だ(労働価値を基準に計算し、95円/ドルで換算)。イェーツはこれを、半額の25~35セントで売った。さらに通信販売を活用。メジャーの販売網が及ばなかった地方を中心にシェアを急拡大させた。
1934年。イェーツは、英EMI(元コロムビア本社)から見放され漂流していた米コロムビア・レコード事業部門を買収。わずか3年でメジャーの一角にのし上がった。だがすぐに彼は、あっさりレコード事業を売却してしまう。別に手がけていた映画事業に専念するためだった。
1938年。イェーツからARC/コロムビアを買収したのは、かつて米コロムビアの子会社だった放送ネットワーク、CBSだった。CBSレコードの誕生である。
30年代の変革3:ソーシャルミュージック
レーベルの買収と価格破壊でメジャーにのし上がったレコード会社はもうひとつある。Deccaレコードだ。アル・ジョルソン(Al Jolson)が映画で世界的なスターとなり、主題歌が欧州でミリオンセラーとなったのを観察して、「レコードは世界的なビジネスになる」と踏んだ投資家がイギリスにいた。テッド・ルイス(Ted Lewis)である。
ルイスは欧州の独立系レーベルを次々と買収。クラシック中心のカタログを構築した後、1ドルが相場だったクラシックレコードを一律35セントにして販売攻勢をかけた。1902年のエンリコ・カルーソ以来、クラシックレコードはメジャーレーベルのメインストリームだった。
RCA/Victorが支配していたこのクラシック市場を、新興のDeccaは価格破壊で奪い取っていった。
ARCのイェーツは通信販売で流通革命を起こしたが、Decca率いるルイスが着目したのはジュークボックスだった。
1933年、セオドア・ルーズベルトが禁酒法を廃止すると、全国でバー、レストランが復活。飲食業界は営業再開の際、かつてのようにミュージシャンを雇わなかった。彼らはより安価で済むジュークボックスをこぞって導入。ジュークボックスは稼働数は50万台に到達し、その半数は南部にあった。
Deccaは、南部受けするダンスミュージック(スウィング、カントリー、ブルーズ)を制作し、ジュークボックスに人気レコードを供給する戦略を立てた。そしてライバルARCのブランズウィックレーベルから元オーナーのジャック・キャップを引き抜き、同時にクロスビーなど主力陣も移籍させることに成功。これを武器にジュークボックス市場に販売を集中させた。
Deccaは時代をよく読んでいた。
ジュークボックスの流行は、レコード音楽の楽しみ方が変化したことを意味していた。レコードは、それまでリビングで家族と楽しむものだった。だが、1930年代になり、ダンサンブルなジャズ(スウィング)が若者の間でブームを起こすと、家庭ではなく公衆で仲間と楽しむ文化が発生した。ディスコ、クラブカルチャーの原型と言える現象だ。
バーで仲間のかけた音楽を聴いて、レコードショップで購入する。若者の間で、そんな商流も開通した。ソーシャルミュージック、パイロットメディアの誕生といえるかもしれない。
ジュークボックスは1936年には、レコード生産の半数以上を消費。不況下にあるレコード産業の救世主となったが、このおいしいところを全てDeccaは持っていったのである(※1)。
※1 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, p.162-170
30年代の変革4:映像を使ったプロモーション
『The Jazz Singer』(1927)そして『Singing Fool』(1929)。
1920年代の最後に登場し、映画の黄金時代を到来させたサウンドフィルムだ。共に「Sing」という言葉がタイトルに入っている、歌が中心の映画だ。ふたつを主演したアル・ジョルソンのレコードは、空前の音楽不況の最中、立て続けにミリオンセラーとなった。
全国ネットの映画館は、ブロードウェイの歌手だったジョルソンを全国区にしただけでなく、世界的なスターにのし上げた。映像が音楽を売る時代が到来したのだ。
映画の登場で、ブロードウェイとティンパンアレイ(音楽出版)の縮小は加速した。それは新興のワーナーにとって更なる好機の到来でもあった。
それまで映画プロデューサーは、ブロードウェイの音楽出版に来て音楽を発注していた。進取の精神に富むワーナーは『Singing Fool』の成功を機に、音楽出版の買収に乗り出す。
映画が当たる。主題歌が売れる。
ふたつのヒットを自分たちのものにする寸法だった。タイアップ・ソングのフォーマットが出来上がった瞬間である。1936年にはヒットソング56曲のうち、23曲がハリウッド映画から誕生した(※1)。
音楽ビジネスに参入したワーナーはやがてメジャーの一角を占めるようになってゆく。
※Peter Tschmuck (2012) Creativity and Innovation in the Music Industry,NY Springer Heidelberg, p.93
30年代の変革5:音楽番組、ダンスミュージック、そして魂の解放
映画の席巻は当初、ラジオにとっても脅威だった。いちばんの稼ぎ時だった週末夕方の番組リスナーを、ごっそり映画館に取られてしまったからだ。毎週末、家族で映画館に行く習慣ができあがったのだ。
広告出稿していたナビスコは、映画に対抗しうる、全く新しい番組をNBCに求めた。「若者を映画館に行かせず、家でリッツクラッカーを食べさせたい」と言ってきたのだ。NBCの出した答えは「ダンスパーティを番組化して、若者をリビングから離れさせない」ことだった。
ジュークボックスの大流行で、ポピュラー音楽に変化が起きていた。
この頃はスタジオライブが音楽番組の基本だった。だが、1920年代ののスタジオ機材には欠点があった。ダイナミックレンジの高い歌唱法やドラムは、生放送中に真空管をパリンとやってしまうため、NGだったのだ。
そこで生まれた音楽が、楽器にドラムを使わず、歌手は囁くように歌うスウィートジャズだった。ニューオリンズにあったオリジナルのジャズよりも、むしろブロードウェイのバラードに近い音楽だった。
だがNBCがダンスミュージックの番組を企画した1935年の頃には、電気アンプが大幅に進歩し、みんながジュークボックスで大音量の音楽を聴くようになっていた。これが若年層の音楽趣味に変化を起こしつつあった。パワフルで、ダンサンブルな音楽が受けるようになったのだ。オリジナルのジャズにあったリズム重視の語法が復活しようとしていた。スウィング・ジャズの誕生である。
放送でのレコード使用が規制されていた当時。NBCの新番組「Let’s Dance」は、スタジオミュージシャンが次々と演奏することで、仮想のダンスパーティをリビングに創り上げようとしていた。このレギュラーに起用されたのが、後に「スウィングの王様」と賞されるベニー・グッドマンだった。彼のダンスサウンドに若いリスナーは夢中となった。
ラジオがダンスミュージックばかりになると、そこに批難も集まるようになった。メジャーレーベルのカタログが依然、クラシック中心だった時代だ。そこでNBCは、『Let’s Dance』を放送する一方、イタリアのマエストロ、トスカニーニの指揮する交響曲を毎週ライブ放送した。これがレーティング39.9%という驚異的な数値を叩き出すほどの番組となった(※1)。
次々と生まれる強力な音楽番組に押されて、大恐慌の最中、ラジオの広告売上は急成長を続けた。
1929年、株式大暴落の最中、CBSの広告売上は前年の6倍に急騰。全ラジオの広告売上は4千万ドルだった。恐慌の谷底の1932年には、その倍の8千万ドルに。そして『Let’s Dance』から2年後の1937年には、ラジオ広告売上は1億4500万ドルにまで成長した(※2)。
20世紀初頭に始まった大量生産企業は、1930年代、ラジオが全国的な「視聴者」を創出するに至って、「マス広告」という強力なマーケティングツールを手に入れた。
大量生産。大衆。マス広告。そして大量消費。ここに連鎖が完成した。そして、アメリカ経済は復活へ向かう。
グッドマンのスウィングが引き起こしたダンスミュージックのブームは、この新しい大量消費社会の構築に大きく関わることとなった。それは、音楽業界全体を回復させる原動力にもなってゆく。
アメリカのレコード産業売上(ハード+ソフト)は、1929年の7500万ドルから1932年に600万ドルへ転落。『Let’s Dance』の始まった1935年もたった900万ドルだった。
だが、ラジオ番組「Let’s Dance」から始まったスウィングの爆発的な流行で、翌年の1936年にはレコード産業売上は3,100万ドルに。わずか1年で3倍以上となった(※3)。
RCA/Victor、CBSレコードといった形でラジオネットワークとレコードメーカーが融合したことで、レコード産業は、フリーメディアのラジオとの付き合い方をようやく体得しつつあった。
1939年には米レコードの総売上は5,000万枚に戻してきた(※1)。12年前のピーク(1億4000万枚)の3分の1にまで戻すこととなった(※4)。実に、全セールスの85%がスウィングのレコードだったという(※5)。
それから3年後。
1942年に、アメリカのレコード売上枚数はようやく往年のピーク、1億4000万枚(1927年)へ追いつくことができた。ラジオの席巻で壊滅したレコード産業は、イノヴェーションを重ねてきた。そして15年の苦闘の末、遂に復活したのである。
※1 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, p.183
※2 Michael Stamm (2011) Sound Business: Newspapers, Radio, and the Politics of New Media, PA University of Pennsylvania Press, pp.62-63
※3 David L. Morton JR.(2006) Sound Recording The Life Story of a Technology, MD The Johns hopkins Univ. Press, p.91
Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, p.174
※4 Jean Pierre Lion (2005) Bix: The Definitive Biography Of A Jazz Legend (Bayou Jazz Lives), Continuum Intl Pub Group, p.134
William Ruhlmann (2004) Breaking Records: 100 Years of Hits, Routledge, p.52
David Meyers, Arnett Howard, James Loeffler (2008) Columbus: The Musical Crossroads, Arcadia Publishing, p.35
※5 Andre Millard (1995) America on Record A History of Recorded Sound, NY Cambridge Univ. Press, p.183
30年代のまとめ:音楽。魂の自由がもたらすブーム
1930年代後半に起きたダンスミュージックの席巻は、ポピュラー音楽全盛の時代が始まる合図でもあった。ジャズを機にポピュラー音楽は変わった。
これまでは「ノスタルジー」「故郷」「家庭」をテーマに、歌詞で大衆から共感を得るのがPopソングだった。しかし、ジャズのコードはシニカルで反逆的であり、歌詞には大人が顔をしかめるセクシーな表現があった。そしてスウィング以降、Popソングは、どちらかというとリズムの躍動で大衆の共感を得ていくようになった。
20年代、『キング・オブ・ジャズ』と呼ばれたポール・ホワイトも、30年代、『キング・オブ・スウィング』と呼ばれたベニー・グッドマンも白人だ。本来のジャズを生んだ黒人ミュージシャンたちは、いまだ日の目を見ることは無かった。
だが中流階級の白人の若者たちは、黒人音楽をルーツとするジャズの虜となった。
スウィング・ジャズのブームは、音楽、ダンス、ファッション、ヘアスタイル、若者用語、生活スタイルの全てがパッケージとなった社会現象だった。
それは、前世紀のヴィクトリア朝的なモラルから魂を解放しようとする、若者達の革命でもあった。
「音楽は女のもの」だったタブーは破壊され、男性はおおっぴらに音楽を愛せるようになった。女性たちもまた、ダンスミュージックの創るカルチャーの一員となることで、「家庭的で従属的」という旧来の女性像の押しつけから解放されようとした。彼女たちフラッパーは、現代的な女性像の原型を創り上げていった。
その後、この文化的鋳型は、ロック&ロール、ディスコ、ヒップホップ、レイヴで何度もリバイバルされてゆくことになる。
魂の解放。
既存の価値観を壊すもの。
白人の隷属下に置かれた黒人たちが音楽に込めた想いは、「中流的な価値観」に喘ぐ白人の若者たちの魂を解放したのだ。
魂の自由こそがブームの本道であり、音楽不況を打ち破るスーパーパワーだ。それは80年後の今も、これから80年後の未来も、変わらないように思える。
1935年のスウィング・エラ開始から20年後。黒人ミュージシャン、チャック・ベリー、ビル・ヘイリーたちのロック&ロールが堂々とチャートを席巻。そこに至って、レコード産業は黄金時代を迎えることになる。そして彼らを表舞台に上げたのは、40年代後半に現れた新たな職業、Disc Jockeyをこなす白人たちだった。
著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
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