メディアが音楽を救うとき〜MTVの物語「未来は音楽が連れてくる」連載第39回
音楽不況の共通点
▲アメリカにおける国民一人あたりのレコード産業売上(RIAAのデータを、2009年を基準にインフレ調整済)。70年代末にもマイナス40%近い大幅な下落を経験している。2000年以降を見れば、iTunesがCDの代替を果たせなかった現実が分かる(※)。
※ http://www.businessinsider.com/these-charts-explain-the-real-death-of-the-music-industry-2011-2
これまで世界のレコード産業は、3度の黄金時代を経験している。20年代、60年代、そして90年代だ。
1910年代にレコードプレーヤーが普及。その後、ソフトの時代が到来し、20年代に第一次黄金時代が到来した。だが20年代末、フリーメディアのラジオが普及する過程でレコード産業は壊滅状態となった(連載第36回)。
放送メディアのもたらした音楽不況は長かった。だが50年代に入ると、放送メディアの使い方に革新が起こる。そして、ラジオDJのもたらしたロックンロール・ブームが音楽不況を終焉させた。続く60年代。第一次ブリティッシュ・インヴェイジョンは、音楽産業をロック中心に革新。第二次黄金時代が到来した(連載第37回)。
第三次黄金時代は90年代だ。上図はアメリカ国民一人あたりのレコード産業売上をチャート化したものだ。インフレ調整しても、90年代の音楽シーンは60年代を超える活況であったことが分かる。
そしてインターネットの普及が始まり、98年をピークに第三次黄金時代は終焉した。
2002年にiTunesが登場すると
「CDがレコードに取って代わったように、CDが消え、合法ダウンロードに塗り変われば全て解決」
という楽観論が世論を占めた。が、それから10年経ち、「iTunesは救世主ではない」ことがはっきりした。
YouTubeが登場したときも、「いずれMTVを超え、最強のプロモーションツールとなって音楽売上を助ける」という楽観論もあった。
確かに動画共有は、日米の10代が最も利用する音楽メディアとなった(※1)。だが、黄金時代を取り戻せるほどのメディアパワーはいつまで経っても出てこない。
(※1 http://techcrunch.com/2012/08/14/youtube-is-for-music/ http://www.riaj.or.jp/report/mediauser/pdf/softuser2011.pdf )
第一次黄金時代が壊滅したときの状況は、フリーメディアの席巻がパッケージメディアに危機をもたらした点で、現在の音楽不況とよく似ていた(連載第36回)。
第二次黄金時代後の、2回目の音楽不況はどうだろうか。
世界の音楽離れは、相当酷かった。1978年からたった3年で、アメリカの一人あたりの売上は約40%減った(上図)。
アメリカだけでない。同時期、イギリスは▲26.4%、デンマークは▲29.4%、ブラジルは▲19.5%と軒並み売上を落とした(※2)。
まず世界的な不況が音楽売上を蝕んだ。
1973年のオイルショック以来、物価高と需要不足の組み合わさったスタグフレーションが世界中で蔓延。解決策の見つからない長期不況が主な原因で、アメリカは6年で大統領が3人替わった。
なお当時、日本だけは高度成長の活力でいち早く不況から脱した。国内レコード産業の売上も若干プラス(2% ※1)となった。
(※元データ: Gronow こちらの数字はインフレ調整をしてないことに留意されたい http://musicbusinessresearch.wordpress.com/2010/03/29/the-recession-in-the-music-industry-a-cause-analysis/ )
もうひとつの原因はコンテンツだ。
後にクラブ・カルチャーの源流となるディスコ・ブームが70年代後半を彩ったが、映画『サタデーナイトフィーバー』(77)の世界的ブームをピークに、急速に終焉。
FM革命が育てたハード・ロック、プログレ・ロック、アルバム・オリエンテッド・ロックといった多様なトレンドも、FM放送がこぞってTOP40路線に向かったことで萎んでいった(連載第38回)。
FMは過去のヒットシングル中心になり、保守化した。レコード会社が新人の新譜を送っても「知らないものはレーティングが取れない」という理由でオンエアされなくなった。
この音楽メディアの停滞が、3つめの原因だ。
さらに60〜70年代に10〜20代だったベビーブーマーが30代半ばにさしかかり、仕事と家庭に時間を奪われ、音楽から「卒業」し始めた。新しい音楽に付き合う気力を失った彼らの無気力が、FM局を保守化させたともいえるだろう。
10代も音楽離れを起こしていた。どのラジオからも新しい音楽がかからなくなり、興味を失ったことがひとつ。アタリとタイトーが起こした初のゲーム・ブームが若者市場を席巻し、音楽が若者向けコンテンツの王座から滑り落ちたことが理由のふたつ目だ。
並べてみよう。
原油価格高騰、世界的物価高と先進国の就職難。音楽からメガトレンド消滅。音楽メディアのマンネリ化、音楽ファン層の加齢と卒業。ゲームなど他のエンタメ産業の躍進、若者の音楽離れ。
「今のことを言っているのではないか」
と、混乱した読者もいらっしゃるだろう。そう、約30年前に起きた第二次音楽不況もまた、現在起きている第三次音楽不況と共通点が多い。
iTunesやYouTubeは、今の音楽不況を止めるテクノロジーとはならなかった。音楽産業の方も、後手を踏んできた。
音楽とテクノロジーの関係を20世紀初頭から振り返ってきた。1980年代初頭、音楽産業は自ら先んじて答えを見出し、新たな黄金時代を切り開いた。その答えこそ、Walkman(連載第38回)、CD(連載第41回)、そしてMTVだったのだ。
世界最大の音楽メディアをつくった男
http://www.youtube.com/watch?v=XBf0yJVMSzI
▲MTVの初放送で使用された映像。歴史に名を刻む意気込みを示している。MTVネットワークは現在、165ヶ国に200チャンネルを持ち、視聴可能者数は20億人。音楽の力で名実共に世界No.1の放送ネットワークとなった。
Image: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Mtvmoon.png
かつて世界はふたつに分かれていた。情報革命は衛星から始まりインターネットで本格化したが、世界史を変えたのは衛星の方からだった。
CNNによる天安門のライブ中継は、衛星の力で国境の情報封鎖を軽々超え、ベルリンの壁を崩壊させた。東西に分かれていたユーラシア大陸は、ひとつへ向かい始めた。
ベルリンの壁崩壊後、大陸統合の動きを文化面で支えたメディアがある。
『MTVヨーロッパ』だ。欧州でMTVは、アメリカのチャンネルであることから飛躍した。いわゆるグローバル・ローカリゼーション戦略だ。ヨーロッパ共通の音楽チャンネルが誕生すると、90年代の欧州統合を文化面で支える役割を果たすことになった。
MTVのグローバル・ローカリゼーションは、アジア、南米、アラブ文化圏でも「ご当地MTV」を次々と誕生させていった。その結果、現在、165ヶ国に200チャンネルを持ち、MTVの視聴可能者数は20億人に。音楽と衛星の力で、地球規模のメディアとなった。
「ジョンは『いつかロックンロールでテレビを変えてやる』って考えに取り憑かれてたよ。ムービー・チャンネルとニコロデオン(※1)を僕等は立ち上げたけど、ジョンが本当にやりたかったのは音楽テレビだったんだ(※2)」
(※1 ムービーチャンネルはHBOと双璧を成す映画専門ch。ニコロデオン は、Disney Chと双璧をなす子供向専門ch
※2 Craig Marks , Rob Tannenbaum(2011)I Want My MTV: The Uncensored Story of the Music Video Revolution, (MA) , l519)
元同僚の語った、ジョン・ラックの人物像だ。
1980年。『MTVの生みの親』と後に呼ばれることになる彼は33歳だった。ロックと新テクノロジーが大好物で、Sonyの初代Walkmanをブームが起こる前から愛用し、見せびらかしていた。新しいことが大好きな彼は、一流企業だったCBSから転職してベンチャーのエグゼクティブとなった。
ワーナーとアメックスの創ったジョイントベンチャーWASECで、首尾よく映画チャンネルと子供向けチャンネルを立ち上げたラックだが、彼は自分の夢を事業化する機をなかなか見出せないでいた。
「24時間、テレビでロックンロールを流すんです」とアイデアを語っただけでは、ビジネスの世界では何も起こらない。
実現するにはビジネス上の障害をいかに攻略するか、事業戦略をまとめ上げ、会社を説得し、資金を引き出す必要がある。だが、その障害というのが難物ばかりだった。
まず、ロックンロールを流すとなると、視聴者は10代がメインだ。
彼ら自身にはケーブルテレビを契約する金も立場もない。スポンサーの広告を見て何かを買う金も無い。かといって、ニコロデオンのように親をほんとうの顧客に据えることも無理だった。親は、世代的にロックンロールの洗礼を受けずに来た層で、ロックに嫌悪感しかなかった。
さらに、「10代〜20代はテレビを見ない」というのが、当時のアメリカでは常識だった(※3)。専門チャンネルはまだまだニッチで、地上波がたった3チャンネルあるのみ。ABC、NBC、CBSは貯金のある中高年へ向けた番組に終始していた。
しかも1977年にアタリがTVゲームのブームを引き起こし、若者にとってテレビはゲームをするための道具に成り下がっていた。「若者のテレビ離れ」が進行していた。
(※3 Jack Banks (1996) Monopoly Television MTV’s Quest to Control the Music, (CO)Westview Press, pp.32)
極めつけの障害は、音楽テレビのコンセプトに、ピタリと嵌る番組フォーマットが思いあたらないことだった。弱小チャンネルが24時間を音楽ショーとライブで埋めるなど不可能だ…。
一本の電話が、ラックの煩悶を吹き飛ばすことになった。
ミュージックビデオに起きた破壊的イノヴェーション
▲MTVを生むきっかけとなった元モンキーズ・ヴォーカル、ネスメスが監督した映像作品『Rio』。ほんわかした内容だが、演奏シーンを一切素材に使わないその姿勢は、「生ライブの代替品」に過ぎなかった当時の音楽ビデオの常識を覆していた。
「見せたいもんがあるんだよ」
そう電話してきたのは、エレクトラ・レコードの創業者ジャック・ホルズマンだった。
ホルズマンは10年以上前、マネジメントしていたドアーズの『Break On Through』でミニ・フィルムを創ったことがあった (http://youtu.be/CbiPDSxFgd8)。ワンカメで撮った簡単なもので、制作費は1000ドルもかからなかった。欧州のテレビ局に送りつければ海外遠征をしなくても、向こうでレコードが売れるかも知れない、というアイデアだったが意外と上手くいった。
月日は経ち、ある日、ホルズマンはあるビデオを見て衝撃を受ける。
そのビデオは「生ライブの替わり」に過ぎなかったミュージックビデオの既成概念を破壊していた。演奏シーンを素材に使わず、音から連想される幻想を映像化したものだった。
ホルズマンはミュージックビデオ『Rio』を監督したマイケル・ネスメスにすぐ連絡を取った。ネスメスは米国製ブリティッシュ・インヴェイジョンともいえるバンド、モンキーズの元ボーカルだがその頃、映像制作にも才能を発揮し始めていた。
ホルズマンの感銘の受け方は独特だった。このやり方なら、リスナーを音楽に釘付けにできるかもしれないぞ…。そう思ったのだ。
ラジオは基本、BGMだ。そこでせっかく新曲を流してもらっても、リスナーの耳を右から左へ抜けていく。それがホルズマンたちレーベル側の不満だった。だがミュージックビデオの映像を際立たせれば、視聴者の目を釘付けにして、そのまま音楽を真剣に聴いてもらえる…。
ホルズマンは親交のあったワーナー・コミュニケーションズのスティーヴ・ロスに相談した。すると「うちの子会社に面白いやつがいるよ」と言う。
ホルズマンはネスメスを連れて、ラックの元へやってきた。ビデオを見て興奮したラックは開口一番、ネスメスに言った。
「あんた、この作品のほんとうの意味が分かってるか?」
作者に尋ねる質問ではない。
「これなら音楽の専門テレビが創れる。24時間のだ!すぐにたくさん創ってくれないか?」
ネスメスは請け合った。彼はミュージックビデオを並べたパイロット番組を10本、作って納品した。ニコロデオンで試験的にこの番組を流したところ、見事にティーンズの人気を博した。次に会ったとき、ラックは喜んで礼を言ったが、ネスメスは新プロジェクトの参加を断った。
「今から走り出すんだぞ? バスから降りるのか?」
驚くラックにネスメスは理由を切り出した。やってみて分かったことがあるという。
「レコードのCMを並べただけの番組だ。興味が持てない」
ネスメスはこう言って去ってしまった(※)。だが、彼の言う通りかも知れなかった。放送業界にイノヴェーションを起こすには、決定的なコンセプトが何か欠けていた。そして、その黄金の鍵を着想したのは、他でもない、ラックの部下だった。
(※ THE EIGHTIES Birth of an MTV Nation, Vanity Fair Magazine, Nov. 2000
http://www.vanityfair.com/culture/features/2000/11/mtv200011)
数々のイノヴェーションがMTVを生んだ
ボブ・ピットマンは、何を考えているのか見当のつかない所のある部下で、実際、天才的なところがあった。
彼は15歳の頃、飛行機免許を取るレッスン料がほしくて地元ラジオでバイトを始め、そのまま人気DJとなった。大学では科学的リサーチを専攻。就職したNYのTOP40ステーションに本格的なリサーチを導入し、精度の高いパワープッシュで一躍、人気局に変えた(それ以前は学食やレコードショップで何がおすすめか学生から聞き出す程度だった)。
ピットマンは若いながら抜群に出来る編成マンだった。
当時、ムービーチャンネルを仕切っていたラックが「ピットマンを雇う」と言ったとき、「映画番組にラジオDJは要らないでしょう」と会社は反対し、ケンカになったが押し切って雇用した。
「待たせたな。音楽の時間だ。リサーチをやるぞ。三ヶ月で取締役会を制覇してやる」
ピットマンの部屋に来たラックは言い放った。ピットマン得意のリサーチで、まずウォンツ(潜在需要)の証拠を掴む。そうすればラックは事業立案できる、と踏んだのだ。
ラックからすれば、需要はあるに決まっていた。FMは新曲をかけなくなった。地上波テレビは依然、大人向けだ。若者の放送離れでは無い。テレビに若者が見たいもの、聴きたいものがないだけだ。新市場はそこにあるに決まってた。後はどの若者が小遣いを持っているかだ。
そしてピットマンとラックは、突破口となるターゲットを見つけた。
23〜24歳。高学歴。都市近郊在住。中流。
このセグメントはロックが大好きで、可処分所得もあった(※)。流行を反映した商材に対し消費性向が高いので、音楽にプラスして、最先端のライフスタイルを提案するチャンネルにすればいい。この編成方針なら広告が取れるし、ハイティーンから20代後半まで訴求できる。
※ R. S. Denisoff (1988) Inside MTV, Transaction Publishers, pp.44
「23〜24歳の高学歴・都市近郊在住」はずいぶん限定されたセグメントだが、全国規模でこの層を独占できればボリュームはそれなりだ。この「究極のナローキャスティング」を、大陸をカヴァーする衛星と、音楽の力で実現する。究極のナローキャスティングが、MTVが起こしたイノヴェーションのふたつ目だ。後世、Pandoraは究極のパーソナライズド放送で、放送のロングテールを実現。放送業界に革命を起こす。
現在、日本をはじめ先進国は少子高齢化にある。
その結果、「若者=少ない=儲からない=番組の対象にしない=若者のテレビ・ラジオ離れ」というロジックが蔓延してしまったが、30年以上前にMTVは同じ課題に挑戦し、業界人の諦めを覆してみせた。今の業界の諦めは、チャンスでもある。
「23〜24歳をまとめあげて上下の年齢層にもリーチする」という戦略は、彼ら若者がMTVを『じぶんたちのチャンネル』と思ってくれるための「何か」を要求していた。ミュージックビデオを並べただけでは、ネスメスの言う通り『レコード会社のチャンネル』になってしまう。『じぶんたちのチャンネル』とは思ってくれないだろう。
ピットマンが出した新コンセプトは『VJ』だ。
VJはラジオのDJと違い、全身が写る。そこに「自分と同じ」と思えるような、友だちのような人間を置く。じぶんと同一視できる若者がアーティストと親しげに話し、流行の話題を視聴者に振ってくる。こうすれば、視聴者とチャンネルの自己同一性を生み出すことが出来る…。
既存のテレビ番組を破壊することも出来るはずだ。偉そうな司会者が番組を仕切り、番組の始まりと終わりを区切っていく。あのフォーマットを壊し、ラジオのように「流れるようなフォーマット」をテレビで実現できると踏んだ。
「ミュージックビデオを単に並べるのではなくて、ブロックのように番組を組み立てる素材に使う。VJがまとめあげ、流れるように番組を展開していく。そうすればミュージックビデオでなくMTVが主人公になる」
ピットマンはインタビューで、そう種明かしした。パラドックスの解決だ。ミュージックビデオが主役になると、ミュージックビデオの魅力が引き出せない。だからまず、VJに親近感をもってもらい、視聴者に「MTVは自分たちのもの」と感じて貰う。そしてMTVが主役になれば、視聴者が主役だ。
結果、「MTVのあつかうミュージックビデオ」は最大限に親近感を出せる。こうした緻密なコンセプトワークを、ピットマンは『VJ』というアイデアに託したのだ。
その後MTVの成功で、MTVクローンが内外問わず林立するが、たいていのクローンはピットマンが音楽放送にもたらした破壊的イノヴェーションを理解していなかった。
素人っぽさだけを真似て、友達としての魅力が薄いVJで、本来避けるべきミュージックビデオの只の羅列をやってしまったのだ。
「流行だから」と先駆者の形だけ真似て、背後にあったコンセプトワークを理解しないで事業を立ち上げると、会社を大損させる。
YouTubeやVEVOは便利だが、MTVが克服したミュージックビデオの初歩的課題を繰り返しているところがある。
インディーズの動画投稿は増えたが、生ライブの代わり、自己紹介の域を超えないミュージックビデオが目立つ。メジャーのYouTube公式チャンネルは、ミュージックビデオの羅列で宣伝臭がしている。
動画共有は映像メディアの最終解ではなく、この先さらなるイノヴェーションが待っている。Pandora(連載第34回)とMTVの誕生物語はそう語りかけている気がする。
技術的ブレークスルーと新ビジネスモデル
1980年12月。ラックは勝負の舞台にいた。目の前には親会社ワーナーコミュニケーションとアメックスの重鎮たちが座っていた。
まずWASEC社長のシュナイダーが事業企画を紹介し、副社長のラックが戦略を説明。そしてピットマンがパイロット番組を見せ、解説した。重鎮たちの年齢を考慮し、オリヴィア・ニュートン・ジョンなど柔らかめの選曲にしたという。それでもやかましくてかなわんとクレームが出た。
「それでシュナイダーくん。この事業に、君はじぶんの給料をつっこめるかね?」
ワーナーコミュニケーションの創業者スティーヴ・ロスが単刀直入に尋ねた。シュナイダーの顔はこわばった。ガンっと音がして、「もちろん!もちろんです」と彼は明答した。ラックが机の下でシュナイダーのすねを蹴ったのだ。
【本章の続き】
■無料供給の是非で二つに分かれたメジャーレーベル陣
■MTV開局
■I Want My MTV
■メガ・トレンドを起こし、音楽不況を覆す
■マイケル・ジャクソンとMTV
■MTVヨーロッパ
>>次の記事 【連載第40回 MTVのグローバル経営から学ぶ。クールジャパンの進め方】
著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
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