Napsterの失敗でショーン・パーカーと音楽業界が学んだたくさんのこと 〜Napsterの物語(上)「未来は音楽が連れてくる」連載第42回
Spotifyで訪れたショーン・パーカーとメタリカの和解
パロアルトからシリコンバレーを抜け、太平洋沿いのハイウェイを南下すると、その森は現れる。2012年の初夏。レッドウッドの生い茂る森林、ビッグサーで開かれた結婚式は、中世のファンタジーが現出したようだった。ショーン・パーカーとアレックスのふたりは、指輪物語のアラゴルンとアルウェンを彷彿させた。
364人の招待客もまた、特別なドレスとスーツを纏っていた。式の総費用は10億円。『ロード・オブ・ザ・リング』のナイラ・ディクソンがひとりひとりに合わせてデザインした衣装だった。IT業界の大物たちがそこにいた。Twitterの創業者、ジャック・ドーシーもパーカーの友人だった。残念ながらザッカーバーグは参加できなかったが、Facebookの創業チームが久々に初代社長パーカーのもとへ集結していた。
音楽バカのパーカーには、ミュージシャンの友人も少なくない。ショーン・レノンがいた。スティングがいた。だがそこにメタリカのラーズ・ウルリッヒがいたことは、Napster時代を経験した世代に特別な感慨を与えた。
「パーカーと俺は、対決の象徴を演じる羽目になった」
式の半年前、ラーズはSpotifyとのパートナーシップを発表した。その記者会見で、ラーズはかつてのNapster裁判について語り始めた。隣にはSpotifyの創業者ダニエル・エクと、Napsterの共同創業者パーカーが座っていた。パーカーはSpotifyのエンジェル投資家であり、Spotifyのアメリカ進出を実現した担当役員であるからだ。
2000年当時。ITとレコード産業は全面戦争を繰り広げていた。レコード産業はパーカーを「犯罪集団の扇動者」と非難し、3千万人のNapsterユーザーがメタリカを「メジャーレーベルの犬」と罵った。
「でも、分かったんだ。あの頃だって、俺たちふたりは共通項が多かったってことが。お互い無知で若すぎたよ。ようやく一緒に座って、心から話し合えるようになったんだ(※)」
ラーズは述懐した。パーカーが共通項について触れた。
「僕らは音楽に自由(Freedom)を与えたかった。無料(Free)が目標ではなかった(※)」
ミュージック・シェアの合法化。親友ショーン・ファニングの開発したNapsterにパーカーが見た未来図は10年後、Spotifyで実現することになった。
高校時代、Napsterに衝撃を受けたダニエル・エクは、P2Pの定番アプリ、μTorrentの開発者になった。そこからP2Pの技術をストリーミングに応用し、ミュージック・シェアの合法化を目指す。ダウンロードが不要のP2Pに喜んだメジャーレーベルは楽曲使用許諾を卸し、Spotifyが誕生した。
Spotifyは、生まれ変わったNapsterなのだ。
パーカー、ラーズ、エクは肩を組んで、カメラに笑顔を向けた。それはインターネットとレコード産業の和解を象徴していたかもしれない。半年後、パーカーの結婚式に現れたラーズの姿を見て、ふたりの和解が表面上のものでないことを人びとは理解した(※写真)。
(※ http://venturebeat.com/2012/12/06/former-adversaries-lars-ulrich-sean-parker-talk-piracy-spotify-the-future-of-music/ )
(※写真 http://www.vanityfair.com/style/2013/09/photos-sean-parker-wedding_slideshow_item9_10 )
Napsterの登場した1999年を境に、世界のレコード産業は約40%の売上を失った。データのシェアはインターネットの本質だったからだ。そして2012年。Spotifyがけん引するサブスクリプション売上と新興国市場の成長で、レコード産業はようやくプラス成長を取り戻した(※IFPI RIN2013)。
悪魔のように忌み嫌われたNapster。救世主のように扱われることもあるSpotify。どちらもショーン・パーカーが深く関わっている。
革命家。あるいは預言者(Oracle)。
Napsterから追放され一文無しとなったパーカーが、10年後に得た称号だ。ミュージック・シェア、フリーミアム、レコメンデーション、インタレストグラフ、ソーシャル・マーケティング、ダウンロード販売、ロッカーサービス、定額制ストリーミング。21世紀の音楽ビジネスを語る上で必須となったコンセプトのすべてが、Napsterを巡る当時の議論で出尽くしている。
そのコンセプトワークの中心にいたのが20歳のパーカーだった。
「あんなに頭が切れる人物には、めったに会ったことがない」
と、ザッカーバーグはパーカーを評したことがある。彼は今でも頻繁にパーカーに会って、Facebookについて相談している(※)。だが、ジョブズやザッカーバーグと違い、パーカーが「天才」と評されることはない。Napster旋風が吹き荒れた頃、その称号を得たのはショーン・ファニングだった。
(※ http://www.vanityfair.com/culture/features/2010/10/sean-parker-201010 )
ショーン・ファニング。wwwへの挑戦
ショーン・ファニングの家は貧しかった。継父はトラック運転手で弟は4人いた。実父はミュージシャンでアメリカ有数の名家の出だったが、ショーンを妊娠した母を捨てた。だが、ショーン・ファニングは「天使ちゃん」と後にパーカーから揶揄されるほど穏やな性格に育った。勉強、スポーツともにできたので、誰からも愛される生徒だったという。野球部では打率650を出し、部屋ではいつもギターを弾いていた。
15歳の頃だった。叔父のジョンがオンラインゲーム会社で一儲けして、当時高価だったMacをプレゼントしてくれた。そしてショーンはネットの世界に入り、生まれて初めてしっくりくる居場所を見つけた。
「ネットでは、同じ知的関心のある奴らに会えた。家族のステータスも、身なりも、近所の評判も関係ない。僕にとってネットは、デトックスみたいなものだった (※)」
(※ Alex Winters “Downloaded” 00:05 – 00:15)
オンラインで出来た顔も知らない友達の中に、ひとつ年上のショーン・パーカーがいた。ハッカーご用達のコミュニケーション・アプリ、IRCに集まった仲間のひとりだった。初めて交わした話題はたしか理論物理学だったという。似た者同士の匂いがした。
叔父の援助でノーザンイースタン大学のコンピュータサイエンス科に入ったファニングには、ルームメイトがいた。自分とは趣味の合わない音楽をPCでかけながら、クリックするたびに舌打ちしている。うっとおしいので話を聴いてやると、mp3.comがリンク切れだらけで、うまくFTPに飛んでもmp3ファイルが削除されていることがしょっちゅうらしい。
ファニングは初めてmp3という言葉を聞いた。
1987年。ドイツでCD-ROMなどマルチメディアのために設計され、1995年に業界標準規格となったmp3は、当時マイナーな技術だった。だが、ファニングが大学に入る一年前、mp3の情報ポータルmp3.comがウェブに登場。GUIベースのmp3プレイヤー、WinAmpも登場し、密かなブームが起きつつあった。
正直、ルームメイトのことはどうでもよかった。だが彼の不満にファニングは、ウェブの本質的な欠陥を感じ取った。
1992年にティム・バーナード=リーが無料で技術公開したwwwは、インターネット時代の始まりとなった。wwwが基礎に置くハイパーテキストのインデックスは、リンクが一方通行だ。必ずリンク切れが起こる。初期のYahoo!やmp3.comのように、リンクのインデックスを手動で作っても次々とリンク切れが発生した。
この問題を乗り越えるべく、Googleのような検索エンジンの開発が当時進行していた。
しかし検索エンジンも、検索結果にページの更新情報が反映されるまでにリンク切れが生じる。クローラーの巡回は、小さいサイトなら1か月に一度のことだってある。Yahoo!の手動更新をクローラーで自動更新にしただけで、検索エンジンはwwwの持つ欠陥を本質的に克服したわけではなかった。
リアルタイムのインデックスなら絶対にリンク切れは起こらない。実現して、インターネットの父を越えてやる…。
ファニングの頭脳に、壮大な野望が憑りついた瞬間だった。コーディングを始めるともう止まらなくなった。部屋に籠る日が2日となり、3日となり、もはや大学の幼稚なコンピュータ・クラスに戻ることは考えられなくなった。
ファニングの辿り着いたアイデアは、後にP2Pと呼ばれる、ファイル・サーバーを不要とする分散システムだった。
それぞれのPCに収まっているファイルの情報をリアルタイムで中央サーバに集約し、PC同士をIPアドレスで結びつける。そうすればリアルタイムのファイル・インデクスが実現できる。リンク切れの起こらない、究極のファイル検索エンジンを作ることができるはずだった。
「大事なアイデアがあるんだ。どうしても今やりとげなきゃならない」
口ごもりながら退学を切り出したファニングは、驚く母に理由を語った。学費を出した叔父は、2学期が始まるまでにモノにできるなら、許してやると言った。叔父のオフィスのクローゼットに住み込み、眠る他はひたすらプログラミングに打ち込む日々が始まった。
Napsterはファニングが、Windowsで初めてまともに書いたプログラムだった。プログラマなら誰もが経験するように、処女作は動作しなかった。
ファニングは、IRCでいつも出入りしていたコミュニティ、w00w00のメンバーたちに助けを求めた。当時、ギークしか使わなかったGoogleで検索ワードTOP20にランクするような、ハッカー(※)のエリート集団がw00w00だった。
(※ ここでは「腕利きのプログラマ」の意味)
大手企業のネットワーク・エンジニアたちもメンバーにいたが、「分散ファイル管理システム」の実現は前代未聞であり、かなり困難だと書き込んだ。それがメンバーたちのハッカー魂に火をつけ、ファニングが次々と持ってくる難題にみなで取りかかるようになった。
「分散ファイル管理システム」の対象をmp3に特化したのは、音楽が好きだからというのもあったが、テキストで成り立っていたウェブのコミュニケーションをひっくり返してやりかったからだ。
ファニングは初めてmp3を再生した時のことを鮮明に覚えている(※)。テキストが情報なら、mp3は感情の塊だ。感情の塊をやりとりするようにすれば、ネットは全く新しいコミュニティーに生まれ変わる。チャットや画像投稿なんか目じゃない。音楽が人を結びつけるんだ…。
(※ Alex Winters “Downloaded” 00:10 – 00:20)
レッド・ツェッペリンを口ずさみ、一日に20時間、キーボードを打ち続けた。半年ほど過ぎた頃だろうか。箱買いしたレッドブルで睡眠時間を毎日2時間にまで削っていたせいか、幻覚すら見えるようになった頃、Napsterは完成した。
1998年の8月だった。
パーカーがNapsterに出会うまで
「歩くアレクサンドリア図書館」と、ショーン・パーカーを評したのは、彼にピアノを教えているショーン・レノンだ。哲学、歴史、経済、物理学。病弱だった子供の頃からあらゆる本を読んできたパーカーは、思春期にインターネット・ブームに遭遇するまで小説家になりたかったという(※ VanityFair)。
典型的なセルフ・エデュケーターに育った彼は、大学へ行くなんてまっぴらだと思うようになった。大学で体制に認証してもらい、卒業後、体制に組み込まれる。生まれついての反逆児には、考えるだけでゾッとする生き方だった。
だから、高校を卒業すると「大学の学費は自分で稼ぐ」と親にウソをついた。大手プロバイダーのUUNetで働き始め、そのままどこかで起業するつもりだった。7歳の頃から海洋学者の父に、プログラミングを教わってきた。が、20歳になった彼は、コーディングよりも起業が目標になっていた。
だから、ファニングからNapsterの話を聞いたとき、起業を強く勧めたのはパーカーだった。
ファニングは、自分の作品でネットに革命が起こせれば十分だった。一方、パーカーは、ファニングの開発したテクノロジーを使えば、音楽産業に革命を起こせると直感した。
1999年5月。Napsterが完成して8か月が経とうとしていた。
「会社を作るんだろう? 手伝ってやるよ」
ファニングの叔父ジョンはそういって契約書を持ってきた。そこには叔父がCEOとなり、株の70%を持つ。ファニングの株は30%と書いてあった。ファニングは抗議したが「19歳がトップの会社なんて誰が信用するんだ? 俺をトップにした方が資金が集まるんだよ」と説得され、しぶしぶサインした(※)。
(※ Joseph Menn “All the rave” pp.9)
この契約書が後に、ファニングやパーカーだけでなく、メジャーレーベルを含めたあらゆる人間を苦しめる元凶になる。とまれ、Napsterは立ち上がった。
それから間もない日の事だ。空港そばの喫茶店で、パーカーは初デートの待ち合わせのようにソワソワしていた。ネットで友達になって4年。パーカーはファニングの顔をまだ知らなかった。
ドアが開き、大柄の少年が入ってくるとすぐそれがファニングとわかった。向こうも笑顔で向かってきた。想像してた通りの顔をしている、とお互いに言った。そしてふたりは、パーカーの父の運転するバンに乗って、仕事で知り合った投資家へプレゼンしに向かった(※)。
(※ Alex Winters “Downloaded” 00:00 – 00:10)
叔父のジョンは、ファニングの創ったプロダクトを理解できなかった。だから、投資家に出資依頼に行くのは結局、ファニングとパーカーで、口達者なパーカーが投資家と話し合った。
Napster裁判とSonyのビデオ
パーカーは、仕事で知り合いになったウェブメールのパイオニア、ベン・リリエントールに投資とCEOを依頼するつもりだった。パーカーたちのプレゼンを聞いて、リリエントールはNapsterが、ウェブメールを越える利用者数になると即座に理解した。
同時に、著作権が最大の懸念材料であることも把握した。違法と認定されたらビジネスにならない。出資がパーになる。
もともとファニングはNapsterを着想した際、著作権侵害があったとしてもユーザーに責任がある、と単純に考えていたようだ。Napsterが提供するのはリアルタイムのインデックスであって、mp3ファイル自体にサーバは関与しないからだ。
叔父のジョンも「だから裁判になっても勝てる」と信じた。
パーカーとリリエントールはそこまで楽観的ではなかった。リリエントールは、VCで働く友人に著作権法の攻略をリサーチしてもらった。2か月に渡る念入りな調査の結果、いくつか有利な法例が見つかった。が、どれも勝利を確実にしてくれるものとは言えなかった。
1 Sony VCR判例
まずSonyのビデオデッキ判例(※)が利用できそうだった。
コンパクト・カセット、ウォークマン、そしてビデオ。Sonyはアメリカで私的複製の文化を切り開いてきた。当初ユニバーサルは、テレビ放映した映画・ドラマを録画する行為を許せなかった。最高裁まで拗れた結果、「商業利用でない限り、私的複製は合法」という判例を盛田昭夫はかろうじて勝ち取った(連載第38回)。
(※ Sony Corp. of America v. Universal City Studios, Inc., argued in 1983)
ハリウッドは敗れたがビデオデッキの合法化で、セル・レンタルの新たなビジネスモデルを獲得した。
Sonyの判例に照らし合わせた場合、Napsterは私的複製の範囲を守れば、合法、というロジックが成り立ちうる。ユーザーに課金しない限り、複製の「商業利用」で違法にならない。
だが、コピー元が違法コンテンツでも「合法的な私的複製」と判断される保証はどこにもなかった。何よりもNapsterで商売ができないなら、ビジネスモデルを作りようがない。「音楽産業のビジネスモデルに革命を起こす」というパーカーの野望からは遠ざかることになる。
2 セーフハーバー(D)
もうひとつが、施行されたばかりのデジタルミレニアム著作権法(DMCA1998)にある「セーフハーバー」条項だった。
特にその(D)項目は、インデックス・サービスの合法性を保証するものだった。インデクスとは簡単にいうとリンク集だ。生成したインデックスのリンク先に違法コンテンツがあった場合、責任を取らなければならないなら、Yahoo!もGoogleも成り立たない。
Napster社の所有するサーバの役割は、リアルタイムのインデックスだ。インデクス先のmp3が違法コピーであっても、セーフハーバー項目が適用されればNapster社は合法になる。後年、YouTubeに大量の音楽ビデオが違法にアップロードされたが、このセーフハーバー条項の適用を受けてYouTube自体は合法を維持できた。
だがセーフハーバーの適用外にされる事態もある。サービス側がユーザーの違法的利用を認知しうる状況にあったと立証された場合だ。Napsterには著作権侵害の賠償責任が発生する。十分考えられうるシナリオだった。
3 フリーマーケット判例
不利な判例も見つかった。フリーマーケットで海賊版が売られていて、フリマの主催者も責任を取らされた判例だ(※)。「問題のあるものを売っていた人が悪いのはわかる。それでフリマ自体に責任が出たらフリマなんてできないだろう」と常識的には思える。
(※ Fonovisa Inc. v. Cherry Auction Inc. Case, filed in 1993)
が、開催中、「違法コピーを販売している出品者がいる」と警察から主催者に連絡が入ってたことで、フリマの責任者は有罪となった。「ユーザー間で違法コピーがトレードされている報告」はNapsterへ確実に入るだろう。その上で、「Napsterのファイル交換はフリーマーケットと同じ」と判断された場合、”フリマ”主催者のNapsterも違法になる。
この報告に、Napsterのオーナーとなった叔父のジョンは喜ばなかった。別途、弁護士に調査を依頼し、楽観的な報告書を得ていたからだ(※)。
(※ Joseph Menn “All the rave” pp.67 )
ジョンは、Napsterの売却で大儲けを夢見ていた。合法でなければ売却は不可能だ。したがって裁判は勝つに決まっている。余計な悲観論は目標の邪魔だ。そういう思考をする男だった。
Napsterがサービスインした1999年6月。
ネット上で最大のコミュニティを築いていたAOLが、mp3関連で巨額の投資をした。当時AOLのプレジデントを務めていたのは、MTVを創ったボブ・ピットマンだ(連載第39回)。彼は、mp3の利用者が次世代の音楽コミュニティを作ると予測。当時mp3プレイヤー・アプリでNo.1となったWinAmpと、ネットラジオのSpinnersを4億ドル(約400億円)で買収した。
翌月(1999年7月)にはmp3のポータル、mp3.comがIPO。ネットバブルの上昇気流に乗り、時価総額は69億ドル(約6900億円)に。当時メジャーレーベルの一角を占めていたEMIの時価総額(64億ドル)を越えた。
買収の続けざまに、楽曲ダウンロード販売の先駆け、Liquid Audioも上場。mp3への対応を発表し、6億5870万ドル(約659億円)の初値を付けた。市場はすでに音楽配信ビジネスの将来に、賭け金を山のように積み上げつつあった。その月、Wired誌の表紙には「I Want My MP3」のキャッチが踊っていた。
Napsterの困ったオーナー
ジョンのオンラインゲーム会社は当時、様々な問題を抱えていた。従業員への給料未払い、下請け会社への未払い等々。少なからぬ告訴を受けており、性質が悪いことにジョンは敗訴しても金を支払わず、報復的に裁判をやり返すようなことをやっていた。
著作権の裁判がNapsterの将来を決めることは必定なのに、こんな問題のある男がオーナーでは、裁判官の心証は最悪だ。しかも「俺の口座にいつ100万ドル入れてくれるんだい?」と出資金の値上げをしつこくやってくる(※)。
(※ Joseph Menn “All the rave” pp.67 )
「あの男は、君らのNapsterをいずれ殺すぞ」
リリエントールたちは、ふたりの若者を引き抜いて一緒にやり直そうと提案した。だが、ショーン・ファニングは断った。貧しい家族を支えてくれた叔父を裏切れなかったからだ。リリエントールたちは投資を諦めた。
パーカーは、その後も何人もの投資家へプレゼンしたが、いつもジョンの人格が問題で破談になった。結局、ジョンの知り合いだったヨシ・アムラムにパーカーとファニングは相談に行った。
アムラムはこの時できたパーカーとの縁で、後にFacebookにも投資している。PayPal、Googleへの投資家でもあった。爆発的な利用者数を生み出すスタートアップを嗅ぎ付けるセンス。彼にはそれが備わっていた。アムラムは、Napsterにもその匂いを感じ取った。ジョンの人となりを知っているアムラムは、次の条件を飲めば25万ドル出すと言ってきた。
1. ジョンがCEOから降りること
2. Bostonから、アムラムの目が届く西海岸に会社を引っ越すこと
3. アムラムがCEOを決めること
要するにジョンが後ろに下がるなら金を出す、とアムラムは言ったのだ。ジョンは飲んだ。筆頭株主の拒否権があればどうにでもなると思ったのだろう。
アムラムは、ベンチャー投資の世界では定評のあったエイリーン・リチャードソンにCEOを依頼した。リチャードソンはちょうど音楽レコメンデーション・サービスのFireflyを手掛けているところだった。世話になっているアムラムの電話を受けて、リチャードソンは自宅でNapsterを試してみた。
「Oh my God!」
Napsterを初めて触ったとき、何百万人もの人間が言ったであろうフレーズを、リチャードソンも叫んだという(※)。人が新しい音楽を発見する速度において、Fireflyのレコメンデーション・エンジンが普通道路の速さなら、Napsterの仕組みはアウトバーンだ。そう思った。
年収6万ドルと約1万ドルの株式購入権、という薄給の依頼だった。だが、レコード産業も納得するような最高のサービスに育てたい、と音楽好きのリチャードソンは思ってしまった。彼女に少しでもレコード産業とのコネクションがあれば、夢は安易に持たなかったかもしれない。
その後、茨の道となるNapsterのCEOをリチャードソンは「半年限定なら」と言って引き受けた。音楽業界との対話を突っぱねるオーナーのジョンに翻弄される毎日が始まった。
少し話は逸れるがFireflyは『ビッグデータ』の概念に、その言葉がまだなかった当時にたどり着いた企業のひとつだ。レコメンデーションの追及から、ユーザーの嗜好を把握する必要があったからだ。
集めたユーザデータを保護するために、個人情報管理システムを開発。これに価値を見出したMicrosoftがFireflyを買収。Windows 8でお馴染になったMicrosoftアカウントは、リチャードソンがインキュベートしたFireflyから始まっている。
サンフランシスコ湾はパロアルトの隣、レッドウッド・シティにNapsterは引っ越した。Napsterのサービスインにあたり、ファニングを助けるエンジニアを急遽、集める必要があった。パーカーたちはIRCのハッカー仲間たちに声を賭け、アパートでの共同生活が始まった。
まだキッズと呼んでいいような20歳前後のエンジニアたち。彼らをお守りする暫定CEO。大音響のロックが鳴り響くオフィス。Napster社は会社というより、大学寮に近かった。
Napsterをレコード産業に渡すのがパーカーの目標だった
戦略を早急に打ち立てる必要があったが、この種の会社にはセオリーが通じない。リチャードソンは優秀なインキュベータだったし、副社長のビル・ベイルズもハーヴァード大学でMBAを取っていた。だが二人とも、無から有を生み出すコンセプトワークができるタイプではなかった。それで、ブレーンストーミングの中心は常に20歳のパーカーとなった。
パーカーがアイデアをホワイトボードに埋めていく。CEOのリチャードソンが『なんてこと!やることが多すぎるわ!』と言いながら部屋を歩き始める。副社長のベイルズが『こりゃすごい!100億ドルの会社になるぞ!』と叫びだす。パーカーが『ちょっと待って。話の途中だから』と釘を指す。戦略会議はいつもそんな感じだったという(※)。
(※ Joseph Menn “All the rave” pp.100 )
まず、ビジネスモデルが検討された。
メンバー制の定額制配信にするか。ダウンロードごとに課金するか。ケーブルテレビのように、サブスクリプションとアラカルトを組み合わせるモデルも検討したし、広告モデルを併用して無料会員を維持する道も検討した。後年、iTunesやSpotifyで脚光を浴びるビジネスモデルはほぼ全て、Napsterを起業した段階でショーン・パーカーの頭脳に浮かんでいた。
だがSonyビデオデッキ判例のことを考えると、こうした真っ当なビジネスモデルを起動した瞬間、違法が確定してしまう。お金が発生すれば、私的複製でなくなるからだ。流出したメモを整理すると、パーカーの建てた戦略はこうだった。
1 ビジネスモデルをあえて持たない。「私的複製」を維持して、合法の可能性を保つ
2 訴えられるのは間違いない。だが、裁判の間に、ユーザー数1000万人を達成する
3 国民的人気を背景にして和解し、メジャーレーベルにNapsterを譲渡・売却する
4 メジャーレーベル自ら、Napsterでサブスクリプション等のビジネスモデルを起動する
この手順を踏めばNapsterは、レコード産業に革命的なビジネスモデルをもたらす、と20歳のパーカーは考えたようだ。ビデオも、盛田昭夫がアメリカ国民を味方に引き込むことで合法化され、ハリウッドのビジネスモデルに組み込まれた。このSonyの判例を研究した経緯で、影響を受けたのだろう。
あやうさに満ちた戦略だ。Napsterに集まった誰一人たりともメジャーレーベルとコネクションを持っていなかった。
堅実なプランもあった。いったんサービスを停止して、分散ファイル・システムや、Googleよりも速い検索エンジンをポータル等にASPする道。ダウンロード機能を切って、コミュニティをベースとした音楽レコメンデーション・サービスを目指す道。
どれも確実に金持ちになれる道だった。若きパーカーが堅実な戦略を押さなかったのは、「それでは革命は起きない」と考えたからだろう。20歳当時のパーカーは、音楽業界に革命を起こす情熱に憑りつかれていたように思う。
「Sonyとまず交渉する」と、流出したメモには書いてある。
Sony本体のエレクトロニクス事業にとって、mp3ブームはプラスになる。だから傘下のSMEを説得するだろう、と考えたとパーカーは後に語っている。実際には、Walkmanはmp3を拒んだ。そしてmp3を1000曲持ち運べるiPodが、Napsterの閉鎖直後に大ヒットする。iTunesでダウンロード販売が始まるのはそこから随分後である。
1999年当時、Sonyは『デジタル・ドリーム・キッズ』戦略でIT業界に対してオーラを放っていた。CDの父、大賀典雄(連載第41回)からSonyを引き継いだ出井伸之は、インターネットとエレクトロニクスの融合にSonyを導くと、この年のCOMDEXで宣言。アメリカで喝采を浴びていた。若いパーカーがSonyに頼ろうとしたのも無理はなかった気がする。
実際1年後に、出井とストリンガーはNapsterと会い、買収を検討することになる。
レコード産業側の思想的リーダー
変革の時期には、思想的リーダーが登場する。
IT革命のさ中、5大メジャーレーベルのデジタル戦略を、業界内で先導して た人物がふたりいる。1人目がジム・グリフィン。Beck、Nirvernaを擁するゲフィンレコードのCTOで、定額制ストリーミングの時代を予言。メジャーレーベルの経営陣にファンが多かった。
もう一人のテッド・コーエンは、楽曲ダウンロード販売を説いた。後に、iTunesミュージックストアにメジャーレーベルを結集する働きをした人物だ。
【本章の続き】
■レコード産業側の思想的リーダー
■米レコ協はNapsterの可能性を評価していた
■デジタルが儲からない本当の理由
■ふたりのショーン。若き預言者たち
■メタリカとゴルゴタの丘
>>次の記事 【連載第43回 夏の終わり。Spotifyへ託された夢〜Napsterの物語(中)】
著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
Facebook:http://www.facebook.com/mikyenomoto
Twitter:http://twitter.com/miky_e
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