スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(7)〜ジョブズの決断/10周年を迎えるYouTube誕生の舞台裏「未来は音楽が連れてくる」連載第51回
iPhone計画の決断。次なる革命へ
>> 『未来は音楽が連れてくる』完全版 第二巻が、本日10/31発売開始!
▲ジョニー・キャッシュによるビートルズ「In My Life」のカヴァー。U2スペシャル・エディションの発表イベントで、開演前に流れていた。ジョブズにとって「音楽の力を確信させてくれる曲」のひとつだった
「そこのロッキングチェアにずっと座ってたよ。歩く気力もなかった」
リビングにいたジョブズは、作家のアイザックソンにそう言った(※1)。押しのけても絡みつく倦怠感に、やがて来る死を意識せざるをえなかったろう。膵臓の半分を摘出する手術は、ジョブズの体からエネルギーをほとんど奪い取ってしまった。肝臓に三箇所、転移がみつかっていた。
「結局、エネルギーが回復するまで6ヶ月くらいかかったよ」
U2スペシャル・エディションの発表イベントで、ボノとジ・エッジが演奏し終えた後、ジョブズはさっそうと壇上へ駆け上がった(第二巻第六章)。だがそれは術後3ヶ月であり、歩くのもきつい時期だったことになる。
終演後、記者のスティーブン・レヴィは楽屋裏のジョブズに会いに行った。親しい友人だったからだ。イベントの空気に、iTunes革命の成功を感じ取ったジョブズの目は、心なしか潤んでいた。
「私が見たのは、感傷に浸る彼の姿だった。その時の彼は、確かにこみ上げる感慨を噛み締めていた」
レヴィは自著にそう書き記している(※2)。レヴィはジョブズに近づき、ねぎらいの言葉をかけた。それから開演前にかかっていたBGMについて尋ねた。前年没したジョニー・キャッシュが、ビートルズの「In My Life」を歌ったカヴァー曲で、強烈に揺さぶる響きがあった。
あのBGMは君の選曲なのかという問いに、ジョブズは「そうだ」と答え、選曲に込めた想いを話し始めた。
「あれはキャッシュが録った最後のレコーディングに入ってる曲なんだ」
キャッシュは妻の死から四ヶ月後、糖尿病の悪化で妻の後を追った。死の狭間の四ヶ月間に録った曲だった。
あの曲には、やるべきことをやり通し、貫くべき信念を貫き、あるべき自分であり続けた男の姿があるんだ。その彼が、死に別れて間もない妻に向かって歌いかけている。こんなに豊かな音楽はめったにない…
「音楽はこんなにも人生に力を与えてくれる。僕にとって、そんな曲のひとつなんだ」
レヴィはじっと聞いていた。ジャーナリストのレヴィに、ジョブズは不治の病と戦っていることを打ち明けることはできなかった。Appleの幹部ですら、知っている者はわずかな時期だったのだ。伝記を書いたアイザックソンには、後にこう語している(※3)。
「癌と診断されたとき、神だかなにかと交渉したんだ。リードの高校卒業をこの眼で絶対見るってね」
息子の高校卒業は2009年。あと5年だった。ボノたちとのイベントは、ジョブズの短い晩年で節目となった。次の革命へ、自らを駆り立てていったからだ。
歴史から俯瞰すれば、iTunesは流通革命に過ぎなかったかもしれない(第二巻第七章)。だが、iTunesミュージックストアに続く「ネクスト・ビッグ・シング」は音楽産業にとって、エジソンのレコード発明に匹敵することになる。
ファデルがiPodケータイを諦めた後も、ジョブズにずっとそれを説得している幹部がいた。その一人がマイケル・ベルだ。ベルはAirportなど、Macのワイヤレス化を進めてきたワイヤレス業界の専門家だった。
「スティーブ、聞いて下さい。携帯電話は、史上最も重要な家電になりつつあります。だけど操作は複雑で、我々の基準から見たら、どの会社もまともなユーザー・インターフェースを作れないでいる。これはMacやiPodが出る前の状況とそっくりじゃありませんか?」
ベルはそう説得を続けていた(※4)。
携帯電話に関して、ジョブズの頑なさがほぐれるきっかけはいくつかあった。ひとつはiTunesケータイを巡るファデルとの議論だ。後にジョブズは取締役会で「徹底的にやられる可能性があるのは携帯電話だ」とiPhone計画の理由を語るが、それはファデルによる日本のリサーチに基づいていたろう。
いまひとつが、MVNOの登場だ。ジョブズは創業家を超えるディズニー社最大の個人株主であり、同社の取締役になっていた。ディズニーが株式交換で、Pixarを買収したからだ。そのディズニーでMVNOを使った通信事業参入が検討されていた。ディズニー・モバイルだ。
ディズニーのようにじぶんたちが通信キャリアになってしまえば、自由に携帯電話を再発明できるのではないか。そう考えだしたのである。
「ジョブズ氏はiPhoneの発売直前まで、Apple自身を通信キャリアにしてしまおうと考えていた」
没後、とある通信キャリアの経営者がそう述べている(※5)。やるなら総力戦だ、とジョブズは思っていた。会社を賭けることになる。それこそじぶんの余命に相応しかった。
ジョブズの背中を最後に押したのは、部下ベルの次の口説き文句だった(※6)。
「(携帯電話を)絶対やるべき理由があります。アイブのデザインです。未来のiPodのために作った、空前絶後にクールなあのデザインからひとつ選びましょう。それにAppleのソフトウェアを載せるのです」
2004年の11月7日だった。
運命のメールを送信した日を、ベルは明瞭に覚えている。U2スペシャル・エディション発表の11日後だ。送信ボタンを押した1時間後、ジョブズから電話がかかってきた。会話は2時間に及んだ。そしてジョブズは言った。
「OK。やるべきだと確信した」
※1 Isaacson “Steve Jobs”, pp.455
※2 Steven Levy “The Perfect Thing” (2006) Simon&Schuster NY ,Chapter Download pp.175
※3 Isaacson “Steve Jobs”, pp.538
※4 記述から会話を再現。Vogelstein, “Dogfight”, pp.29
※5 後藤直義、森川潤著『アップル帝国の正体』(2013年)文藝春秋、pp.128
※6 Vogelstein, “Dogfight”, pp.29
YouTube誕生のきっかけ
▲OK Goの新作「I Won’t Let You Down」。曲、映像ともに感涙モノの出来だ。監督は関和亮、コラボレーター(スポンサー)はホンダ。YouTubeで世界的にブレイクした初のバンドといえるOk Goだが、マネージャーは、YouTubeの楽曲使用料で稼げるのかという問いに「道端で小銭を探すようなもの」と答えている(※1)[訂正 今月を削除 2014.11.25]
同じ頃。生まれて間もないFacebook社でのことだ。
初代社長ショーン・パーカーの時代(第三巻第二章)、初めてヘッドハントしたのはスティーブ・チェンという若いプログラマーだった。課金決済のペイパル社でシステムを組み上げた腕利きで、新たな挑戦を求めて入社してきた。
だが、Facebookのチームが新戦力に喜んだのは束の間となった。わずか数週間後、「起業するから」と言って、チェンが辞表を持ってきたからである。
「一生、後悔するぞ。Facebookはあっという間に大企業になるんだ」
チェンを引き抜いたヘッドハンターのコーラーは、慌てて説得を試みた。
「いったい辞めて何を始めるんだ?」
「ペイパル時代の仲間と、動画関係の会社を始めようと思ってます」
「動画?動画サイトなんてあちこちにあるじゃないか!」
理由を聞いて、コーラーは思わず声を荒らげたという(※2)。そんな凡庸なアイデアで、Facebookのストックオプションを捨てるのか。友だちとの起業ゴッコでないのか。
コーラーの言う通り、Facebookは巨大企業となり、ストックオプションで億万長者となったスタッフが続出した。だが、Facebookをひと月足らずで辞めたチェンが一生後悔することなどありえなかった。彼が友人と創ったのは、ただの動画サイトでなかったからだ。
Google、Facebookに次ぐアクセス数を持つ世界最大の動画共有サイト、YouTubeが誕生したきっかけは、2004年、スーパーボールでMTVがプロデュースしたハーフタイムショーだった。
ジャネット・ジャクソンとジャステイン・ティンバーレイクのふたりは「Rock Your Body」をデュエットしていた。今をときめくファレル・ウィリアムスが共作した曲だ。
この歌が終わったら君を裸にするんだ、とジャスティンが歌い終えた瞬間だった。彼はジャネットの右胸からコスチュームをひっぺがえし、生中継のさ中、ジャネットの乳房があらわになった。
アメリカ版の紅白カウントダウンとも言える国民的イベントだ。全米の家族が見守る中で、その放送事故は起こった。慌てたMTVのクルーは、すぐCMに切り替えた。かつて初代マッキントッシュの伝説的CMが流れた、あの時間帯である。
激怒した親たちから、53万件の抗議がCBSへ殺到した(※3)。当のCBSは、MTVに怒り狂った。テレビ中継はCBSだったが、音楽イベントをプロデュースしていたのはMTVだったからである(※4)。ジャネット、ジャスティンそしてMTVが、故意ではないと弁明したことで騒動はさらに炎上した。
本当にアクシデントなのか。問題の映像を見て、事の真相を確かめたい。
そう思った無数の男のひとりに、かつてチェンとペイパルで働いていたジョード・カリムがいた。すぐにGoogleで検索したが、問題の動画はなかなかみつからなかった。ファイル共有や写真共有は世に溢れていたが、動画を気軽に共有できるサイトは、世に存在しなかった。MTVとジャネットが起こしたこの騒動で、カリムはこの盲点に気づいたのだった(※5)。
さっそく、ペイパル時代の友人ふたりに相談した。チェンと、もうひとりの元同僚チャド・ハーレイだ。世界には動画共有サイトが無い。いっしょに動画共有サイトを起業してみないか、と。
ハーレイとチェンは顔を見合わせた。似たような議論をしていたからである。
ふたりが、とあるパーティに出たときのことだ。ビデオを撮って翌日メールで送ろうとしたが、それがむずかしいことに気づいた。メールで送るには動画はファイルサイズが大きすぎたのだ。何とかならないか、と議論を交わしていた。
だからふたりは、カリムの「動画共有」というアイデアにどれほどの価値が秘められているか、すぐわかった。事業資金ならあった。3人の働いていたペイパルは上場し、初期スタッフに配られたストックオプションが数百万ドル(数億円)に化けていたからだ。
こうして3人は起業することになり、チェンはFacebookを辞めた訳である。3人が最初に創ったサイトなのだが、実はYouTubeではなく、動画共有を使った出会い系サイトだった。
当時、Hot or Notという写真共有の出会い系サイトが人気を博していた。2枚の写真が並び、どちらがイケてるか評価して遊ぶサイトだ。Hot or Notは、「シェア」のちからで強力な口コミを起こしていた。カリムはこの現象に着目した。じぶんでサイトを創るなら、やはり熱狂を生み出したかった。
ザッカーバーグも学生時代、Hot or Notに影響を受け、facemashというサイトを創ったのだが、大学当局に怒られて閉鎖した経緯がある。それでfacemashのアイデアをもっと一般化させて、男女の出会いに限定せず、人と人のつながりを扱ったSNSを創った。Facebookの誕生である(第三巻第二章)。
カリムのアイデアで、Hot or Notの動画版(Tune In Hook Up)を創ったが、予想に反して人気はさっぱりだった。
「男女の出会いに限定せず、もっと用途を一般化したらどうか。何にでも使える動画共有にするんだ」
この時、そうアイデアを出したのが、後にYouTubeの初代CEOとなるチャド・ハーレイだった。ペイパル時代、ロゴとユーザーインターフェースを手がけた男だ。
誰でもメールで簡単に送金できる、ペイパルのシンプルさをデザインで表現し、同社をインフラにした腕利きのデザイナーだった。ペイパルを辞めた後、コンサルタントをやって暮らしていた。ハーレイの眼から見ると、世に溢れる動画サイトのデザインは、インフラになりうる水準に達してなかった。
それに当時、友だちに動画を気軽に見てもらうことは至難の業だった。動画を再生するには、専用アプリをダウンロードして、PCにインストールしなければならなかったからだ。動画をアップする前には、エンコード・ソフトで複雑な処理をする必要もあった。
ハーレイは、誰もが使えるシンプルな設計をYouTubeでも目指した。URLをクリックすれば、ブラウザ上ですぐ動画を再生できるようにした。ジョブズがiTunes1.0でやったように(第二巻第四章)、余計な機能を省いて簡単に動画をアップロードできるようにもした。
考え抜き、余計な機能を削ぎ落とす。ひとつでも画面要素を省き、クリック数を減らす。そうして初めて、みんなが使うインフラが出来る。
Appleの哲学にも通じるこの大原則を、ハーレイはペイパルの立ち上げで学んでいた。
そうやって動画をかんたんに共有ができるようにした後、ハーレイは共有の拡散が起こる仕掛けを、YouTubeのウェブデザインに組み込んだ。コピー&ペーストで、ブログやSNSの投稿欄にも、気軽に動画を貼り付けられるようにした。当時、カンファレンスで発表されたばかりだったWeb2.0の戦略を、ハーレイはいちはやく取り入れたのだ。折しもMyspaceがブレイクしようとしていた。
2005年のバレンタインデーに、YouTubeは始まった。ジョブズがスマートフォン事業への参入を取締役会に主張してひと月後にあたる。
「いま象の前に立っているんだけど、こいつらがかっこいいのは、鼻がすっごい長いいことだね」
かなりどうでもいい感想ではあるが、動物園に来たカリムが自撮りしたこのビデオは、YouTubeでシェアされた記念すべき第一号の動画となった(http://youtu.be/jNQXAC9IVRw)。早いもので、そろそろ10周年だ。ビデオで日記を綴る動画版ブログのプラットフォームになることを、当初はイメージしていたのだろう。
2ヶ月後、カリムはまた動画を投稿した。
「YouTubeには、5〜60本しか投稿されてないんだよ。自分が見たくなるビデオは全然ないんだ…」
そう言って落胆するチェンを映した動画だ。ハーレイにカメラを振ると「ちょうど、こんなビデオばかりだね」と、このCEOは自嘲した。始まったばかりのYouTubeは、まったく人気が出なかったのだ(※6)。
翌月の5月、3人はほとんど投げやりなPRを打った。
地域広告サイトのクレイグリストに、「YouTubeに投稿してくれた美女のみなさんに、動画10本毎に100ドル(約1万円)をプレゼント!」と出したのだ。人気商売を手がけていると世の中、よくわかならなくなる瞬間があると思うが、この施策ともいえぬ施策が、YouTubeにブレイクをもたらした。
女の子たちの日常が覗けるということでYouTubeは、ブログやSNSの口コミを通じて、一気に広まり始めた(※6)。今思えば、「ブログの動画版」というコンセプトをよく捉えたPR策だったのだ。
ロンチから半年後の夏。
世界中を旅して、記念に変な踊りを踊るマッド・ハーディングがYouTubeで大人気となった。これを世界のテレビ局が紹介したことで、YouTubeは世界的な認知を得て、またたく間に社会的インフラの領域に入ろうとしていった。
そして、何もかもが投稿されるようになった。
※1 http://www.nme.com/news/ok-go/62159
※2 以下の記述から会話を再現。David Kirkpatrick (2011) “The Facebook Effect: The Inside Story of the Company That Is Connecting the World”, Simon and Schuster, pp.129
※3 より正確には、CBSへの抗議がFCCに来た件数。 http://youtu.be/dhNcXUm7Wq4
※4 http://www.mtv.com/news/1484738/janet-justin-mtv-apologize-for-super-bowl-flash/
※5 http://usatoday30.usatoday.com/tech/news/2006-10-11-youtube-karim_x.htm
※6 http://www.nytimes.com/2006/10/12/technology/12tube.html
なぜファイル共有は違法で、動画共有は合法となったか
▲YouTubeの創業者たち。ジャード・カリム(左)が着想し、チャド・ハーレイCEO(当時。中央)がデザインし、スティーブ・チェンCTO(当時。右)がプログラムした。27〜9歳だった3人は買収で6.5億ドル(650億円)を得た。
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Modified by Mikiro Enomoto 2014
その頃、筆者はぴあでモバイル事業に関わっていた。
iモードのブームは一段落していたが、ファイル共有で浮いた音楽消費は、CDからライブへ移ろうとしていた。このトレンドを、ぴあのモバイル事業部は上手く捉えることができた。モバイル有料会員のために用意した先行チケット枠がフックとなって、無料会員から有料会員へのコンバージョンが進み、有料会員数は桁がひとつ上がった。
だが、いい気分には到底なれなかった。とびきり使いやすいフル・ブラウザが動く、大画面の携帯電話。そんなものをどこかが出して来れば、iモードの囲いはいずれ崩れる。大型化する液晶画面で、jigブラウザをぎこちなく動かした体験があれば、それは難しい予測ではなかった。
「CDが売れなければ、配信とライブで食べていけばいい」
そんな議論が始まった時期でもある。だが、チケッティング会社というライブ産業の傍らにいたことから、ライブが伸びたぐらいでは、さしてアーティストの収入が回復しないことはすでに知っていた(※1)。幸い日本では、アーティストにとって、iTunesよりも実入りの良い音楽配信が人気を博しつつあった。着うたフルのことだ(第二巻七章)。
できたばかりのYouTubeを触ったのはその頃だった。クリックを重ねるうちに、毛が逆立つような興奮を覚えた。そこには抗うことのできない未来があったからだ。
面白い番組。お気に入りの映画。人々は、みんなと共有したい映像なら何でも投稿していた。なかでも最も人気の集めたキラーコンテンツ。それは、MTVなどから録った音楽ビデオだった。
しかも、これはセーフハーバーの範囲内だ…。
ぴあに来る前、スペースシャワーTVの子会社で矢井田瞳やゆず、くるりなどのライブ番組を毎週、ストリーミングでネットに同時中継していた筆者は、デジタルミレニアム著作権法の仕組みについておぼろげながら学んでいた。
ネットの音楽番組で、音楽ビデオの配信許諾を取る難易度は、今からすれば想像がつかないレベルだった。だがYouTubeのやり方なら、後述するセーフハーバー条項を使って、無断投稿の音楽ビデオが免責をあっさり取れるのだ。
それだけでない。YouTubeは、Napsterと同じ「シェア」の爆発力を持っていた。
すでに携帯電話で動画をストリーミング配信する実験は、日本でも始まっていた。それは技術的に、YouTubeもいずれ携帯電話で見られる、ということを意味していた。YouTubeがモバイルの世界で普及すれば、iTunesや着うたも、衰退の運命に入るということだ。やがて終わりが来るのは、iモードだけでなかったのだ。
日本はCDだけでなく、有料デジタル配信も危機的な状況に入ろうとしていた。あれから9年経ったが、残念ながら業界は予感通りに推移していった。
止まらない流れなのなら、YouTubeと同じ流れのさらに先に、答えを見出さなければならない…。
筆者はその夏、ぴあを辞めた。チケット会社という立ち位置で、答えを見つけることに困難を感じたからだ。そしてすぐにPandoraやLast.fmとも出会い、もうひとつの未来について、手がかりを得ることになった。
▲YouTube(青)のデイリー・リーチの伸び。別格の勢いを見せている。音楽ビデオが、動画共有の時代到来を牽引していた。
同2005年の秋。
YouTubeの視聴者数は空前絶後の伸びを見せ始めた。これほどの爆発的な伸びを見せたサービスはNapsterの他はかつて無く、FacebookやTwitterもこれに及ばない。
「我が社はユーザー・トラフィックの80%が、違法ビデオに依存している」
その頃、共同創業者のチェンがメールに二度、そう著したことが明らかになっている(※2)。
ファイル共有と動画共有。NapsterとYouTubeはよく似ている。
2014年のいまでも、YouTubeで「Coldplay full album」と検索をかければ、利用者はタダでColdplayのアルバム全曲を聴くことができる。勿論、レーベルが投稿したものではない。「U2 full album」でも「Justin Timberlake full album」でも同じだ。
同じことをファイル共有アプリでやれば、ユーザーは法に触れる。YouTubeなら、投稿者の他はOKだ。なぜNapsterは違法で、YouTubeは合法となったのか。お考えになったことはおありだろうか。
【本章の続き】
■なぜファイル共有は違法で、動画共有は合法となったか
■GoogleのYouTube買収。メジャーレーベルの計算
>>次の記事 【連載第52回 スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(8)〜YouTube文化を育んだMTVの音楽離れ/iPhoneの父は誰か?】
著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
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