スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(8)〜YouTube文化を育んだMTVの音楽離れ/iPhoneの父は誰か?「未来は音楽が連れてくる」連載第52回
ニルヴァーナ、MTVそしてレコード産業の絶頂期
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▲Nirvernaの「Smells Like Teen Spirit」(’91)。壮大でカラフルな80年代後半のLAメタルから、錆色のグランジへ時代の色が切り替わり、CDの絶頂期となる90年代の音楽シーンが始まった。このビデオは「音楽のMTV」にとってもピークといえる。’92年以降、「MTVの音楽離れ」が始まり、YouTube時代の下地ができていった
マニエリスムという言葉がある。
ミケランジェロの弟子ヴァザーリは「人類の芸術は遂に完成された」と考えていた。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロそして師ミケランジェロが創出した革新的な技法(マニエラ)は、それほどまでに完璧だったからである。
天才の死後も、ローマ教会や貴族たちスポンサーは、ミケランジェロたちの技法(マニエラ)を自在に使いこなす芸術家に資金を注いだ。後世はこの時代を、天才の模倣に明け暮れたマニエリスムの時代と評した。「ワンパターン」「時代遅れ」「退屈」を意味する「マンネリ化」の語源である。
1991年の夏。
MTVに「Smells Like Teen Spirit」のデモが送られてきた時、編成部ではただひとりの他、反応するスタッフはいなかったという。他は、ガンズ・アンド・ローゼズの開いた試聴パーティで総出だったからだ(※1)。
実は、デモを送りつけたゲフィン・レコードの方でも、ニルヴァーナという新人にほとんど期待してなかった。担当だったロビン・スローンが社内の営業に、何枚売れるか賭けを誘ったところ、初月3000枚でようやく成立したほどだった(※2)。
そんな訳で、MTVが「Smells Like Teen Spirit」をオンエアリストに載せたいと言ってきた時、ゲフィン・レコードは音楽ビデオの制作費を確保していなかった。
「とにかく仕事がほしいんだ」とランチで訴えた画家上がりの貧乏監督サミュエル・ベイヤーを、先のスローンが起用したのはそれが理由だ。
「2万5000ドル(約300万円)で、No.1の音楽ビデオを創ってやろうと思った」
ベイヤーは振り返る。音楽ビデオといえば底抜けに陽気な色使いで、セクシーな白人女性が踊っているのがMTVの創成期から続く手法となっていた。
音楽の方は、LAメタルが全盛期を迎えていた。長髪をスプレーで膨らませて化粧をした出で立ちで、底抜けに明るくてゴージャスな音がMTVからいつも流れていた。
だが音楽ビデオが描く景色は、いつしか10代のリアルな内面生活から遠く離れつつあった。ベイヤーとコバーンのふたりは、音楽ビデオとロックに起きたマンネリをすっかりぶち壊してやろうと考えたのである。
カート・コバーンは初の音楽ビデオに意気込んでいて、じぶんからアイデアを出してきた。
アメリカでは高校のスポーツ対抗試合で、ハーフタイムに双方の男子応援団とチアリーダーが集まって応援合戦をやる。これが非道くなっていく感じ、というのがコバーンの持つ曲のイメージだった。ベイヤーはこれに触発された。
「僕は画家だったからね。カラバッジオやゴヤのパロディーで表現してやろうと考えた」
どちらも錆色を活用して、闇に光が差すが如き、ひとの内面を描いた画家だ。特にカラバッジオは「発展(evolution)ではなく、革命(Revolution)で時代を進めた最初の画家」として知られている(※3)。生前、乱闘を繰り返し悪名高かったが、ミケランジェロたちの技法に固執するマニエリスムを破壊し、ルネサンスの模倣からバロックへ時代を進めた。
ビデオではニルヴァーナの演奏が進むうちに生徒たちが暴れだすが、これは演出ではなかった。監督が「ストップ!カット!」と何度叫んでも、コバーンは演奏を止めず、酒の入ったエキストラたちは興奮してセットを壊し始めたのだ。
だがこの瞬間、撮影の成功をベイヤーたちは確信したという。コバーンの意図した「ヤバくなっていく応援団」がリアルに現出したからだ。
「みんなが感じていたことを見事に表現していたろ?」
ジェイ-Zはそう振り返る。Hip Hopを牽引していた彼でさえ、そのメッセージ性に衝撃を受けていた(※4)。「Smells Like〜」は若者のアンセムとなり、触発されたバンドが後に続いた。時代はL.A.メタルからグランジへ移り、90年代の音楽シーンが始まった。
アルバム「Nevermind」は毎月40万枚のペースで売れ、初月3000枚で賭けたスローンは、営業スタッフから結構な酒代を巻き上げることとなった。92年に入るとマイケル・ジャクソンの「Dangerous」を超えて、No.1に。現在までに累計3000万枚を超えている(※5)。
CDアルバム・ビジネスが全盛期に入った90年代、レコード産業は三度目の黄金時代を迎えていた。CDのセールスを支えるMTVもまた、文化的影響力は頂点に達しようとしていた。
92年の大統領選で当選したビル・クリントンは「MTV大統領」の異名を得た。趣味のサックスをテレビで披露し、MTVで学生と討論番組を開くことで、政治に興味のなかった若年層の票を開拓したからだ。
貧乏監督だったベイヤーも一躍、売れっ子に変わった。
「あんな感じで撮ってくれと、みんなオファーしてきた。1年間、ずっとニルヴァーナの模倣をつくらされたよ」
ベイヤーはそう回顧する(※6)。それまでMTVを彩っていたカラフルなヘアメタルの音楽ビデオは全くかからなくなった。当時それは、人びとの話題から消滅することを意味していた。
「お願いだから俺のビデオをかけてくれ」
ウォレントのギタリスト、ジョーイ・アレンは、パーティでMTVの友人を捕まえ、財布とクレジットカードを突き出してそう言ったという(※7)。かなわぬ相談だった。MTVは「Smells Like〜」に似た錆色の映像で溢れるようになっていた。
革新は模倣され、新しいマニエラとなったのである。
※1 Craig Marks , Rob Tannenbaum(2011)I Want My MTV: The Uncensored Story of the Music Video Revolution, (MA)Dutton, Chapter 48
※2 Idem.
※3 http://www.nytimes.com/1985/01/27/arts/from-the-baroque-age-a-modern-spirit.html
※4 http://www.spin.com/articles/jay-z-nirvana-stopped-hip-hop-for-a-second/
※5 http://noisecreep.com/nirvana-vs-pearl-jam-make-some-noise-debate/
※6 I Want My MTV, Chapter 48, 49
※7 Idem.
音楽ビデオの黄金時代は終わったのか
「92年、音楽ビデオの黄金時代は終わりへ向かい出した。業界でビデオを創っていたほとんどがそう認めている」
インタビュー集『I Want My MTV』をまとめたR・タネンバウムとC・マークスは同書でそう述べている。原因は何なのか。
「肥大化した予算が新鮮なアイデアに取って代わったからだ」
これが、ふたりの結論だった。
創成期には1本、2万ドル(約240万円)だった制作費は、93年には10万ドル(約1200万円)、30万ドル(約3500万円)、場合によっては100万ドル(約1億2千万円)にまでに肥大化していたと、キャピトル・レコードの幹部は認める(※1)。
大金を賭けたビデオがMTVでオンエアされなかったら大損だ。レーベルはそうしたリスクを嫌気するようになった。それで、80年代初頭のように映像監督が、音楽ビデオでやりたい放題をやることは難しくなった。かわりにレーベルのプロデューサーややマネージャーが参加する制作委員会が、音楽ビデオの制作を指揮する機会が増えていった。
「毎回、偉いさんが『いいアイデアがあるんだ』と言い出すのがいちばん怖かったよ」
音楽ビデオで、実写にアニメを合成する手法を確立したジェフ・スタインはそう語る。不思議なものだ。創作というものは、予算が無ければ自由が無い。やれることに限界ができて、安っぽくて似たものばかりになる。
だが華形ビジネスになり、予算が巨大になるとまた自由が無くなる。失敗が許されないので冒険できなくなるからだ。そして成功作の模倣で溢れ、マンネリ化する。
音楽に限らない気がする。ゲーム、音楽、バラエティ番組等々、おしなべてそんな衰退サイクルが存在するようだ。コンテンツ産業を設計する立場の人間は、平均的制作費のちょうどいい塩梅をいつも探した方がよさそうである。
才能の流出も起こった。
音楽ビデオは自由がない上に、監督は印税収入も与えられなかったからだ。映像印税がない件を、音楽レーベルの横暴と詰るのは酷だろう。セル・ビデオが全く売れないので印税の出しようがなかったからだ。この状態はYouTube時代の今も続行中だ。
音楽ビデオの監督業は、ハリウッドへの踏み台に変わっていった。「Smells Like〜」を編集した映像エディターもハリウッドに転向した。後に、映画『ソーシ ャルネットワーク』(第二巻2章)でアカデミー賞を受賞している。
音楽レーベルで働く人間も、こうしたまずいスパイラルに気づいていたが、どうすることもできない事情があった。90年代に音楽ビデオを取り巻く環境は、さらに悪化してしまったからだ。
92年以降、MTVは音楽ビデオのオンエア数を減らし始めた。
※1 C.Marks, R.Tannenbaum “I Want My MTV”, Chapter 52
YouTubeブームの文化的下地をつくったMTVの変節
▲YouTubeの歴代累計視聴数Top100ビデオ(https://www.youtube.com/playlist?list=PLirAqAtl_h2r5g8xGajEwdXd3x1sZh8hC)。うち97本が音楽ビデオだ。音楽がYouTubeを牽引してきたことは間違いない
「MTVマジック」という言葉がある。
アメリカの若者はみなMTVを見ている、そんな印象を創りあげたMTVのブランド力を云う。90年代初頭、その文化的影響力とは裏腹に、MTVの全米視聴率は平均0.3%と低迷していた(※1)。
一方でテレビ・ドラマの方は、90年の『ツイン・ピークス』を皮切りに、新たな黄金時代を迎えつつあった。
80年代を通して、安価な日本製テレビが一人一台まで行き渡ったことで、アメリカではテレビのパーソナル化が進んでいた。結果、91年に始まった『ビバリーヒルズ高校白書』は若年層に特化したにも関わらず、平均視聴率は11.7%に到達した(※2)。MTVの平均視聴率と比べると、39倍である。
MTVの編成部は頭を抱えていた。「若者向ドラマに比べて、MTVの番組視聴率は何だ」とスポンサーからお叱りを受けるようになったからだ。
音楽テレビには根本的な弱点があった。
ヒップホップがかかれば、ロックファンはチャンネルを変える。クラブ・ミュージックを聴き続けたかったのに、オルタナ・ロックが鳴り始めればテレビを消す。指向性の強い音楽を舞台に、視聴率をまとめ上げるのは至難の技だった。後にPandoraがAIの力で音楽放送にパーソナライゼーションをもたらし、解決した課題がこれである。
しかし、かといって、当時のMTVに『ビバリーヒルズ〜』みたいなものをやれと言われても無理な相談だった。
MTVはこれまで、「プロモーション」を殺し文句に、レーベルに支払うべき音楽ビデオの使用料を格安で済ませて、音楽番組を作ってきた。いっぽう、人気俳優・人気作家を要するドラマは金食い虫だ。一話30分に30万ドル(約3500万円)を賄う制作費は、MTVには無かった。
MTVは苦肉の策を出した。
素人の若者たちをひとつの家に集め、暮らしの中に生まれる人間ドラマを筋書き無しで追う。これなら格安で制作できる。リアリティ番組『リアル・ワールド』の誕生だった。
人びとは飽きていた。伝統芸能のように決まりきった映像となった音楽ビデオに。お決まりの企画で、芸能人たちがわざとらしく会話を進めるバラエティ番組にも。
だから、なりゆきもリアクションも全く読めない斬新な『リアル・ワールド』に、MTVの視聴者は夢中になった。
「あの頃、『どうやったら「リアル・ワールド」みたいな番組ができたんだ?天才的だ』ってよく聞かれたけど、あれは単に、お金がなかったから思いついたんだ」
MTVの社長を務めていたトム・フレストンは振り返る。『リアル・ワールド』の人気爆発は、MTVにとっても完全に予想外だった。
なにせ素人たちの他愛のないおしゃべりシーンを延々と並べただけなのだ。1発めのシーズンは物珍しさでイケたが、さすがにシーズン2までやって、また素人たちをスターに祭りあげたら鼻につくのではないかと心配した。
「間違っていたよ!それこそ視聴者が求めていたものだったんだ」
後にMTVの社長となったダグ・ハーザッグはインタビューにそう答えている。『リアル・ワールド』のシーズン2は大人気を博し、MTVの平均視聴率は0.3%から0.9%に上がった。実に3倍だ。
MTVは気づいてしまった。音楽ビデオよりも視聴率が取れるものがあることに。徐々にMTVから音楽ビデオは減っていった(※3)。
MTVをつけても音楽ビデオがやってない。でも、見たいときに音楽ビデオを見たいんだ…。
YouTubeが誕生したのは、MTVの変節で、そんな渇望が人びとのあいだに育っていた頃だった。いつでも音楽ビデオが見られるように…。人びとはMTVの音楽ビデオを、次々とYouTubeに無断投稿していった。
「MTVはつまらなくなった」
「MTV、僕らの音楽ビデオを返してくれ」
YouTubeのコメント欄には、皮肉にもそんなメッセージがあふれていたという(※4)。
音楽ビデオだけでなかった。世界中の放送局で『リアル・ワールド』の成功は踏襲され、リアリティ番組であふれるようになっていった。
素人を撮った映像が面白い。それは世界の常識となり、YouTubeにユーザー作成ビデオの文化が花開く土壌が耕されていった。
「MTVはリアリティ番組にスイッチして、いまのソーシャルネットワークのような雰囲気になった。それは時代の予感みたいなものだったんだ」
【本章の続き】
■YouTubeブームの文化的下地をつくったMTVの変節
■Android、プロトタイプで犯した決定的な判断ミス
■iPhoneの父はジョブズ
■マルチタッチスクリーン。アクセスモデルへ連なる扉
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著者プロフィール
榎本 幹朗(えのもと・みきろう)
1974年、東京都生まれ。音楽配信の専門家。作家。京都精華大学講師。上智大学英文科中退。在学中からウェブ、映像の制作活動を続ける。2000年に音楽TV局スペースシャワーネットワークの子会社に入社し制作ディレクターに。ライブやフェスの同時送信を毎週手がけ、草創期から音楽ストリーミングの専門家となった。2003年ライブ時代を予見しチケット会社ぴあに移籍後、2005年YouTubeの登場とPandoraの人工知能に衝撃を受け独立。
2012年より『未来は音楽を連れてくる』を連載・刊行している。Spotify、Pandoraをドキュメンタリーとインフォグラフィックの技法を使って詳細に描き、 日本の音楽業界に新しいビジネスモデル、アクセスモデルを提示することになった。 音楽の産業史に詳しく、ラジオの登場でアメリカのレコード産業売上が25分の1になった歴史とインターネット登場時の類似点 や、ソニーやアップルが世界の音楽産業に与えた歴史的影響 を紹介し、経済界にも反響を得た。
寄稿先はYahoo!ニュース、Wired、文藝春秋、プレジデント、NewsPicksなど。取材協力は朝日新聞、Bloomberg、週刊ダイヤモンドなど。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビなど。音楽配信、音楽レーベル、オーディオメーカー、広告代理店を顧客に持つコンサルタントとしても活動している 。
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