「花のサンフランシスコ」のスコット・マッケンジー氏が死去
1967年の大ヒット「花のサンフランシスコ」のシンガー、スコット・マッケンジーがロサンゼルスの自宅で死去した。難病のギラン・バレー症候群を患い、入退院を繰り返していたという。73歳だった。ビーチ・ボーイズのナンバー・ワン・ヒット「ココモ」の作詞作曲家の一人でもあった。
1939年、フロリダで生まれた。ノース・キャロライナやヴァージニアで少年期を過ごす。高校時代に運命的とも言える、後にママス&パパスを結成するジョン・フィリップスと出会う。音楽活動を続けるために二人ともニューヨークに移る。1961年、ジョン・フィリップスや友人とフォーク・グループ、ジャーニーメンを結成。キャピトル・レコードに3枚のアルバムを残した。その後ジャーニーメンは解散、スコット・マッケンジーはジョン・フィリップスの新しいグループに誘われたがソロに、ジョン・フィリップスはママス&パパスを結成しロサンゼルスに移る。
ママス&パパスはルー・アドラーのダンヒル・レコードと契約。1965年「夢のカリフォルニア」が大ヒットする。ビルボード・シングル・チャートの最高位4位になった。スコット・マッケンジーとジョン・フィリップスの親交は続き、ジョン・フィリップスはスコット・マッケンジーの為に「花のサンフランシスコ」を書く。1967年、ベトナム戦争の反戦歌のようにとらえられ大ヒットする。ビルボード・シングル・チャートの最高位4位になった。「花のサンフランシスコ」の発売から1か月後、伝説のロック・フェス「モンタレー・ポップ・フェスティバル」にトリでママス&パパスと出演する。
ウッドストック・フェスティバルの2年前に開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバル。ほとんど伝説的な出来事と言ってもいいだろう。今から45年前の1967年、サンフランシスコ郊外で開催された野外ロック・フェスティバルだ。ジョン・フィリップスとルー・アドラーが企画した。出演アーティストが凄い。ヒッピー・カルチャーで必ず語られるサイケデリック・サウンド系のアーティストが総出演。ジミヘンもジャニスもこのフェスがブレイクのきっかけになった。オーティス・レディングは飛行機事故で亡くなる半年前の出演だった。日本人でこのフェスティバルを観ている人がいた。アメリカに留学中だった元ニッポン放送社長の亀渕昭信さんと、社長のお供でアメリカ出張中だった現フジパシフィック音楽出版会長の朝妻一郎さんだ。多分他に日本人はいなかっただろう。スコット・マッケンジーは「花のサンフランシスコ」を歌った後、ママス&パパスとフェスティバルのクロージング曲、モータウンのマーサ&ザ・ヴァンデラスがヒットさせた「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を歌いフェスティバルの幕を閉じた。とにかくラインナップが凄い。
6月16日(金)
アソシエイション
ルー・ロウルズ
ジョニー・リヴァース
エリック・バードン&ジ・アニマルズ
サイモン&ガーファンクル他
6月17日(土)
キャンド・ヒート
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー featuring ジャニス・ジョプリン
カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ
アル・クーパー
ポール・バターフィールド・ブルース・バンド
クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス
スティーヴ・ミラー・バンド
エレクトリック・フラッグ
モビー・グレイプ
ヒュー・マセケラ
バーズ
ローラ・ニーロ
ジェファーソン・エアプレイン
ブッカー・T&ザ・MG’s
オーティス・レディング
6月18日(日)
ラヴィ・シャンカール
ブルース・プロジェクト
ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー featuring ジャニス・ジョプリン
アソシエイション
バッファロー・スプリングフィールド
ザ・フー
グレイトフル・デッド
ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス
ママス&パパス
スコット・マッケンジー
ママス&パパスとスコット・マッケンジー
1988年、「ココモ」はトム・クルーズ主演の映画「カクテル」の主題歌として書かれ、ビーチ・ボーイズの22年振りの全米1位になった。曲はスコット・マッケンジー、ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴ、ジョン・フィリップスと女優ドリス・デイの息子のテリー・メルチャーによって書かれた。マイク・ラヴは日本滞在中に訃報に接したかもしれない。余談だが亀渕さんからもらったメールにも書いてあったが、ママス&パパスのジョン・フィリップスとメンバーで奥さんのミシェルの娘とブライアン・ウィルソンの2人の娘が作ったグループが「ウィルソン・フィリップス」だ。音楽業界は狭い。業界内でよく「It’s a small world」という。
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