アーティストの個性を伸ばしつつ進化させる s-ken氏インタビュー
‘78年にバンド「s-ken」を結成し、伝説のパンク・ムーヴメント「東京ロッカーズ」を主導。その後、ソロ、「s-ken&HotBomboms」による音楽活動と並行して、「TOKYO SOY SOURCE」や「カメレオンナイト」といったイベントの オーガナイズとともにプロデュース活動を開始。スーパーバタードッグ、ボニーピンク、クラムボン、PE’Z、DJKRUSH、エルマロ、MONDAY満ちる、中山うりなど、その作品数は100タイトルを超えるs-kenさん。今回はs-kenさんのプロデュース活動に焦点を絞り、プロデュースに対する考えや、現在手掛けられている「Kent Kakitsubata」についてお話を伺いました。
PROFILE
1978年にバンド「s-ken」を結成し、伝説のパンク・ムーヴメント「東京ロッカーズ」に参加。デビュー・アルバム『魔都』(81年)、セカンド・アルバム『ギャングバスターズ』(83年)などのソロ活動を経て、84年にs-ken&HotBombomsを結成、アルバム『ジャングル・ダ』『パー・プー・ビー』『千の眼』『セブン・エネミーズ』の4作は、2007年に紙ジャケットで再発され、17年ぶりに新曲「オールディック」も発表。
現在は「WorldApartLtd.」の代表取締役プロデューサーとして、中山うりなど数多くのアーティストを手掛ける。これまでプロデューサーとして、世に送り出したレコード・CDは、スーパーバタードッグ、ボニーピンク、クラムボン、PE’Z、DJKRUSH、エルマロ、MONDAY満ちるの作品など100タイトルを超える。
著書に父と娘の絆と自転車を相棒にしたロード・ムービー的な高揚感をシェイクしたストリート・ファンタジー『ジャバ』(08/ソニーマガジンズ刊)、東京に暮らす外国人たちを活写したノンフィクション『異人都会TOKYO』(88年/シンコー・ミュージック刊)、編者にクラブ/ストリート・シーンのリアルタイムでリポートしたムック『PiNHEAD』(CBSソニー出版刊)がある。
1.
——s-kenさんの長いキャリアの中で、今回はプロデューサー業を中心にお話をうかがいたいんですが、先日プロデュースしたアルバムが100作品を超えたそうですね。これはすごい数だと思うんですが、プロデュースを始めたきっかけは何だったんですか?
s-ken:気が付くと自分の作品も含めて100タイトルを超えました。アーティストの数で言えばオムニバスCDも多かったので150を超えているかもしれませんね。思い起こせば東京ロッカーズのムーブメントが終わった後、80年代に入って東京ではクラブカルチャーの勢いが増してきて、どっぷり関わり合うようになるんです。
それで、新宿の「ツバキハウス」を皮切りにものすごい数のイベントをプロデュースするようになっていくんです。東京ロッカーズを僕が仕切ったというイメージがあったんでしょうね。次から次に「やってほしい」ということになって。後々、そのイヴェントプロデュースがベースになり、CD音源のプロデュースに発展していくんです。
——まず、イベントのプロデュースを始めたんですね。
s-ken:そうですね。個人的にやった代表的なクラブイヴェントでいえば、80年後半にスタートさせた「カメレオンナイト」というのがありました。その中で、たまたまラテンの特集をやったら、情報誌のぴあが、「このラテンの特集を『東京ラテン宣言』という名前にして大々的にやったらどうですか? バックアップしますよ」と話をもらって、欧米のように夜の遊園地に大人の人に来てほしいということで「後楽園ルナパーク」で、一週間ほど連続でやりました。
それでイベントが終わったあとに、出演者にCDを出していないミュージシャンが結構いたので、それをまとめてオムニバスCDで出したのがプロデュースしたのが第一作目で、それが91年ですね。それからCDの音源プロデュースの依頼がくるようになったんですよ。
——それまでは基本的にはご自身の作品をプロデュースするだけだったんですか?
s-ken:ええ。作詞作曲もできるし自分のレコードやCDも自分でプロデュースしているんだったら、他の人のもできるだろうということになって。音楽シーンには常に新しい動きがあるじゃないですか? 例えば、ラテンもクラブサーキットでやる雰囲気は全くなくて、全く違うシーンだと思われていたのを、「カメレオンナイト」ではクラブ感覚で脚色して「新しい音楽としてラテンを紹介する」という切り口でやったわけですね。その記念としてCDを出してみないかという流れでした。
——イベントの記念にCDを出すと。
s-ken:そうです。それで反響があったので、調子にのってレゲエルーツのラガ・マフィンというダンスホールシーンも関西で盛り上がっていたので、それを中心にまとめたり、最初はシーンごとにオムニバスでまとめていった感じですね。それで、アシッドジャズの流れがロンドンから出てきたときも面白いなと思って、すぐにアシッドジャズの東京的なものを作ったら、ロンドンでも反響があってリリースしたら、向こうのチャートにぞくぞくランクインしてきました。
それでイギリスにもちょくちょく行くようになって、いつだったかバーミンガムで2週間ほど仕事をして列車でロンドンに戻ると「ジャズエクスプレス」なんて雑誌が僕を表紙しているのには驚きました。
——その頃のプロデュースの中心はクラブシーンですね。
s-ken:東京ロッカーズ以降、80〜90年代はずっとクラブシーンにいましたからね。今から考えたら80〜90年代にかけてのクラブやストリートカルチャーが一番面白かったかもしれないですね。面白い人がたくさんいましたよね。アーティストだけでなくインクスティックのオーナーの松山勲さんなんかは、まだ売れる前のシャーデーを気に入ったからって個人で呼んじゃったり、非常にバブリーな時代だったということもあると思うんですが、自分が気に入ったバンドに関しては、動員がなくても驚くくらいのギャラを約束してくれたりしましたからね。「俺が気に入ったアーティストの客は俺が呼ぶ」って感じでした。カッコいいですね。
——クラブシーンから出てきたアーティストも多いですよね。
s-ken:今メジャーなシーンで残っているのはスカパラぐらいかな。でも、インターナショナルで通用するアーティストはみんなあの界隈を根っこにしているような気がしますね。屋敷豪太も、あのシーンから出てきてロンドンへ行って成功し、後にフランスに渡るトランペッターの三宅純もそうです。
それで、80年代の終わりに六本木インクスティックが閉店したとき、最後の5日間くらいを「カメレオンナイト」で閉めたんですよね。松山さんが締めは僕に任せると決断してくれたんですが、すごく名誉なことだったと思っています。たぶん、一緒にやっていた女性スタッフのカッチユカさんがゴリ押ししてくれたんだと思いますが。
——今そういったシーンがあまり存在しないですよね。
s-ken:僕自身もそうなんですけれど、各アーティストの出世ばかりに目がいってしまって、時を超えてニューオーリンズからジャズが、リバプールからマージービートが、キングストンからレゲエが、ニューヨークからパンクやヒップホップが、ロンドンからアシッドジャズが生まれてきたようなクリエイティブな交流とかシーンというものの気配をまったく感じなくなってしまいましたね。
80年代は東京のクラブシーンには世界に誇れるようなオリジナルなネットワークとストリートカルチャーがあったように思いますよ。一人一人やっていることは違うんだけど、シーン全体をみると独自なサウンドを形成しているみたいなね。今は新しいものを発信していくような都市空間の存在を感じなくなっちゃった。
——確かにそうですね。
s-ken:東京ロッカーズが終わってから、15年くらいそういうシーンを感じつつ、僕のプロデュースというのも、スーパースターを作りたいという流れではなくて、シーンそのものを増幅しようとしてレーベルを起こした感じなんです。
2.
——チャンスレーベルは93年頃から始まっていますが、そこからDJ KRUSH、BONNIE PINKなど、今でも第一線で活躍しているアーティストを輩出していますよね。
s-ken:そうですね。なぜかチャンスレーベルはコロムビアとの原盤制作契約で、金は出すけれど口は出さない「どうぞ勝手に出してください」という感じでスタートできました。最初にエスカレーターという女性がリードボーカルのR&Bバンドがまずまずのセールスで、つぎに新人の女性ボーカリストばかりを集めたアルバムを作ることになったんです。
当時、ラブ・タンバリンズあたりから盛り上がってきたR&B女性ボーカリストブームがあって、チャンスレベーベルでも女性ボーカリストを発掘しようということになったんですね。タイトルを「レディース・イン・モーション」にして5アーティスト、1アーティストか2曲くらいずつ収録しようと。
——その中にBONNIE PINKがいたんですね。
s-ken:そうですね。当時、「カメレオンナイト」を関西でもやっていたので、大阪にも拠点があって、アーティストを見つけるのに関西も視野に入れていましたから、いい人がいたらオーディションしたいと思っていたんですよ。それで、いっぱい候補が出てきまして、その中に、若くてすごく歌が上手くて美人な子がいるという情報が入り、会うことしたんです。それがBONNIE PINKでまだ20才だったと思います。
でも、会って話してみると、外見や感性は光るものがあったけれど、デモテープも一曲もないという状況で、「さて、どうしよう?」ということになったんですね。それで、当時クラブものの12インチシングルのアナログ盤にはよくインストトラックが入っていて、これはカラオケに使えると思いついたんです。
それを何曲か彼女に聴かせて、気に入った曲を選ばせて、「2週間後にまた来るから、その曲に自分なりに歌詞を書いて歌を練習しておいて」と言ったんです。他にも3人か4人くらい同じようなことを言ってオーディションしたわけです。やはりデモを録ってみないとわからない、ライブだけじゃわからない、だから僕の場合、気になったら必ずテープを録ることにしているんです。
——ウルフルズのデビューにもs-kenさんが関係しているんですよね。
s-ken:トータス松本も自伝を出したので書いてあると思いますが、「カメレオンナイト」は大阪でもやることになって、ラジオ番組にもなったんですよ。そのきっかけは、その頃、大阪で「ダイナマイト」という高架下の有名なクラブがあって、それをタイスケの社長、森本泰輔さんがやっていたんです。たまたま大阪に行ったときに親友のピリピリというDJに森本さんを紹介されて、何か感じるものがあったんでしょう、その二日後くらいに森本さんから急に電話がかかってきて、「スタッフと一緒に会いにいくから時間ください」と東京まで会いに来てくれて、そのまま「パラノイア」という新しいクラブで「カメレオンナイト」を開催することになったんです。
それで毎月、東京からはオルケスタ・デ・ラ・ルス、オリジナル・ラブ、電気グルーヴなんかを連れて行ったんですけど、一緒に関西のバンドも出したくて、ピリピリに頼んで集めてもらったデモテープの中から選んだのがウルフルズでした。それで森本さんが「東京に出てマネジメントもやりたいと思っている。オリジナル・ラブがいいんでマネジメントできないかな?」と言ってきたときに、オリジナル・ラブはもうマネジメントが決まっていたので、ウルフルズを勧めたことがきっかけで、彼らはタイスケに所属したんです。その頃は大阪アソシエーツっていいましたけれど。はじめてウルフルズのライヴを観たときのトータスのパフォーマンスは、本当にワイルドで驚嘆しました。やはりすごい奴は最初からすごい。それから何度も、カメレオンナイトに出しました。
——その後、SUPER BUTTER DOGやクラムボンといったアーティストも発掘していくわけですが、現場ではどのようにプロデュースされているんですか?
s-ken:SUPER BUTTER DOGやクラムボンに絡んでいた頃も、その前も、僕は自分の組織を持っていないフリーランス的立場の一プロデュースだったわけです。だから、ワーナーでやった「マージナルライン」というレーベルにしても、クラウンでやった「ローブロー」というレーベルにしてもEMIでやった新人発掘プロジェクトの三部作「スープアップ」でもアーティストを発掘して最初の作品をCDリリースするまでの数ヶ月、長くても半年ぐらいの関わり合いで、別れてしまうことが多かったんです。
だから、その数ヶ月の間に、「動員も人気もない超無名のアーティスト」から「将来有望なブラティストホープ」にイメージ転換してやらなければならないわけです。ただアーティストによってそのアドバンテージや欠点が違う。歌は素晴らしいのに、作詞・作曲はひどい、トラックは最高なのに、メロディーライティングはいただけない。とてつもないユニークな歌詞を書くのに音楽になっていない。すべて、揃っているのになぜか歌詞だけが、でたらめの英語、仲のいい兄、妹のユニットだと思っていたら、喧嘩して妹が失踪しましたと泣きながら電話してくる兄。
といった具合で、臨機応変に対処しなければならないんです。それでもどうにかEMIの「スープアップ」プロジェクトだけも10アーティスト以上、メジャーデビューさせているんですが、じっくりプロデュースするにはどうしても自分の組織を持たなくてはダメだと思いまして、後のワールドアパートを設立することになるんです。
——そういった理由でワールドアパートを設立されたんですか。知りませんでした。
s-ken:今の事務所、ワールドアパートができて、じっくり時間をかけてプロデュースできるようになってわかってきたことですが、本当に十人十色、いかにしたら世に出すまでに進化させられるか、色々実践しながら試行錯誤する時期が一番、頭を悩ますときです。
もちろん、エスケン流の進化のための秘伝みたいなものは、長年かけて築き上げてきましたが、アーティストそれぞれ、独自の長所、短所があって、それぞれの個性を伸ばしつつ進化させるためには、やはり、そのアーティスト独自の進化方法を編み出さなければならないということです。
だから、僕の思うプロデューサーはアレンジャー、作詞作曲家&補作者ばかりでなく、時には精神的なカウンセラーであり、そのアーティストの未来像をサポートするためには、変化しつつある社会の現実や未来を予見する現代思想の流れをも把握してないとダメだと思うんです。そして、あれこれ工夫して、うまく動き出して、すごい勢いで結果もついてきたときが、プロデュースの一番の醍醐味じゃないですか。
3.
——プロデュースする側としては意見を素直に聞いてくれるアーティストの方がやりやすいですか?
s-ken:いや、素直な人間じゃなくても、天才的に素晴らしいものがあればいいわけじゃないですか。
——でも、本当に何も手を加えなくても黙っていても素晴らしい、何も言うことはないよっていうのはやっぱり万に一つくらいの…。
s-ken:もっとかもしれないですね。プリンスみたいなアーティストは(笑)。
——(笑)。それ以外のほとんどのアーティストは、もうちょっと素直になった方がいい?
s-ken:いや、そうとも言わないんですよ。それは向こうから見れば余計なお世話ってことも多いでしょう。でも、潜在的はいいものを持っているのに、そのままじゃあ世に出ないか、くすぶっている場合、プロデューサーかプロデューサー的役割を果たす人間と信頼関係を結んで進化していかないと終わってしまうケースが多いですね。
そして、信頼関係を結ぶ時期は若い方がいいです。マラソンの高橋尚子と小出監督の金メダルを獲るまでの関係なんか理想的なんじゃないかな。1プラス1が2じゃなくて何十倍もの奇跡が起こっちゃうわけです。ところがね、その信頼関係はなかなか長く続かないんですね。成功してくるとアーティストとの関係がもつれてくる、「ひとりでできる」って思っちゃうわけですよ。高橋尚子の場合もそうでしたね。
——確かにそうですね。
s-ken:ある種のセルフプロデュース性ってあるじゃないですか。僕は30歳過ぎてセルフプロデュース性がないアーティストっていうのは、ちょっと伸びないかなと思います。セルフプロデュース性とは作詞・作曲、アレンジ、演奏などが一人でできるというだけじゃなくって、多くの人がプロジェクトに関わって、支えてきたから成功したんだということを認識できないとダメだと思うんです。
プロデューサーとアーティストの関係って、始めから「長くは続かないな」って思いながら、でも「その中でベストを尽くす」ってくらいタフな精神力がないと務まりませんね。夜な夜な一杯やりながら「トラブル イズ マイ ビジネス」と笑い飛ばしていかないと、もちませんよ。
——なるほど…。
s-ken:桑田佳祐さん、井上陽水さん、ユーミン、中島みゆきさんなんかは、そんなセルフプロデュース性ももちろんあるんだけど、しっかりとした観客から観た自分のイメージ、自分の役割、そういったものを持っているように感じます。例えば、中島みゆきさんだったら「あの男と5年経ちました」「でも、また、もう少しで終わっちゃうんです」「私ってダメね」みたいな寅さん的ダメ女をベースに毎年「夜会」で、さらに展開していく脚本も書いて、チームを仕切って演じているわけでしょう。ですからプロデューサーとしては、本当にそのアーティストを愛していたら、そのアーティストが将来セルフプロデュースをできるように育ててやるってことが大切なんじゃないですかね。
——独り立ちできるように。
s-ken:そう。独り立ちできるっていうのはどういうことかというと、プロジェクトが必要だって分かることなんですよ。例えば、映画監督の黒澤組があったように中島みゆき組とか絶対あると思うんですけど、チームワークが必要だってことを分かるってことなんです。
——今勢いのあるアーティストを見ていくと全部そういうパターンですよね。チームが素晴らしいっていう形になる。
s-ken:そうです。チームが素晴らしくないとやっぱりダメです。ただ、チームなんだけど、その核は、アーティストとプロデューサーだったり、アーティストとマネージャーだったり2人で、3人目がなかなか出てこない。だから2人の関係が崩れるとえらいことになる。
——2人の絆っていうのが核になっているんですね。
s-ken:ビートルズなんかわかりやすいんじゃないですか。核はマネージャーのブライアン・エプスタインとポール・マッカートニーの絆だと思いますが、ブライアンが亡くなったら解散じゃないですか。だからグループって難しいんです。
4.
——では具体的にワールドアパートのアーティストとはどのように関わっていったんですか? まずPE’Zからお伺いしたいのですが。
s-ken:PE’Zは、トランペット、サックス、キーボード、ベース、ドラムスというジャズコンボでよくある編成のインストバンドなので、それでジャズテイストの演奏をすると、かなりオーソドックスなサウンドになってしまうんです。新鮮さがない、普通のサウンドバリエーションになってしまう。だからドラムとベース、いわゆるリズムセクションをヒップホップやアシッドジャズを通過している現在のリスナー耳にも新鮮なリズムやリフ、音質にしなければならないと思いました。
そしてジャズ、ロック、ファンク、ヒップホップ、アシッドジャズからブラジリアン、レゲエ、スカ、キューバン、タンゴ、シプシーと多彩なリズムアレンジを取り入れ、特にドラムで一番目立つスネアーサウンドにこだわってプロデュースしました。
——つまりPE’Zの個性を確立させることから始めたと。
s-ken:15秒聴いただけでも、PE’Zだと分かるアンサンブルということです。もともと、彼らはクールドライブメーカーズのブラスセクションとして活動していて、ビジネスパートナーの浅野(浅野勇一氏:ワールドアパート(有) 代表取締役)が面倒をみていたんですが、彼から頼まれてプロデュースすることになったので、初めは信頼関係を作るのが大変だったんです。
それで、デモテープレベルで試行錯誤しつつ、カバーをやらせながら僕が納得できるようなオリジナルが出てくればレコーディングに入ろうと思っていたんですが、かなり時間がかかりました。リーダーのOhyamaが浅野に「s-kenさんはいつになったらCD出してくれんでしょう?」みたいな話をしたらしいです(笑)。その後、メジャーデビューして彼と2人でニューヨークにTDに行ったときにしみじみと話しましたが、当時、Ohyamaは、バーの経営をしている自分の親父にも「わけのわからないプロデューサーが俺たちの曲をボツにして…」と相談したそうです(笑)。するとそのお父さんが「まあしばらくその男を信用して言った通りにやってみたらどうだ」って言ったらしいんですよ。親父さんは当時ライブにも来ていたらしいんですけどね。
——お父さんとs-kenさんって同じ世代だったりしますよね(笑)。
s-ken:でしょうね。当時、親父さんはライブ会場で僕のことを見ていたみたいなんです。それで「あの派手な奴か」って言ったらしいんだけど(笑)。僕はそういう場では割合目立たないような格好をしていると思っているんだけど(笑)、非常に目立っているみたいなんですよね。
で、何曲かカバーやらせながら試行錯誤していくうちに、思いがけない経緯で納得できるオリジナルができて、レコーディングしデビューCDをリリースしてみたら渋谷のタワーレコードのチャートで1位になりました。僕もすぐに渋谷のタワーレコードまで行ってチャートを見ていたら、何と脇から「僕らも見に来てました」ってPE’Zの5人が出てきたんですよ。それで「1位になって良かったな」って言ったら、「もしかしたらプロデューサーが良かったのかもしれない」と言っていました(笑)。
——正直ですね(笑)。
s-ken:あれはチームの勝利ですね。今もそうですが僕が思いつくままに、自由にあれこれ好き勝手に発想できるのは、経営能力、企画力ある浅野勇一という人間とパートナーを組んだおかげなんですけど、PE’Zの場合は特に彼が考えたプロモーション計画と守谷竜汰以下スタッフとの連携が強力だったからだと思います
——では、中山うりの場合はどうでしょう?
s-ken:彼女の場合は非常にめずらしいケースです。高校を卒業するまでトランペットで吹奏楽をやっていて全国大会で金賞をとっているんですが、それからは美容師のアシスタントをしていて、20才を過ぎて歌いだしたという。ところが、デモテープをとってみると本当に驚きました。ピッチは完璧、音域は狭いんですが声質が何とも不思議な憂いを秘めていて惹きつけられました。後に“ミラクルヴォイス”と騒がれた、人の心を非常にリラックスさせ、決して力まない声で、初めて録ったデモテープを何十回とリピートして聞き惚れました。
それでぜひプロデュースしたいと思ったんですが、彼女、「美容師の道もあきらめられない」って言うので、アシスタントからスタイリストに昇格するまで本格的に動き出すのを待つことになったんです。
——その間、辛抱強く待っていたんですか…。
s-ken:今考えると逆にそれが良かったのかもしれません。3年ほど、じっくり作詞作曲を教え、ヴォイストレーニングをさせ、アコーディオンの弾き語りというユニークなスタイルを思いつき、サポートのメンバーを探し、そのメンバーも育てようとシーケンサーを揃えてやってアレンジに参加させといった感じに、着々と準備を進めることができましたから。
これまで7枚ほどCDをリリースしていますが、中山うりの仕事で試行錯誤するうちに、作詞、作曲、アレンジ、ライヴパフォーマンス、デザイン、マネージメント、プロモーションとすべてを、時間をかけて統括する機会に恵まれて、非常に勉強になりましたね。
5.
——最後にKent Kakitsubataはs-kenさんが久しぶりに手掛けられたロックアーティストですよね。
s-ken:ロック的と言えば、SUPER BUTTER DOGもそういうところがあったし、smorgas、カメラマンズ、あとはMONG HANGっていう、BEAT CRUSADERSのメンバーになったケイタイモのバンドもありました。それ以降、ロック的なものであまり気に入ったものが出てこなかっただけで、それが久々にポンと出会ったんです。
——Kent Kakitsubataはどういうアーティストなんですか?
s-ken:2年前にバンドのフロントマンとしてKentを初めて観たときに、とてつもない過剰なものを持っていると思ったんですよ。言葉としてちゃんと説明できていないけれど、過剰なエネルギーっていうのを内に秘めていて。ただ、ちょっと暗くって力みすぎていて、空回りしていてるって感じでした。もちろん声が良いとか、ギタープレイに関してとか、男前であるとか、それ以外の基本的なものは凄いなって思ったんです。
——それはどこで観たんですか?
s-ken:横浜ミュージックスクールというところにKentはいたんですが、彼の担任の先生、江蔵浩一というですが彼は近田春夫がプロデュースしたピンナップスっていうバンドでギター弾いていた頃から対バンしたりして非常に馬が合うというか親しかったんです。
それで、どうしてもオーディションに来て欲しいと言われて観に行ったら、Kentのバンドが出てきわけです。この種のオーディションでいいアーティストに会ったことがなかったから、本当は行くの嫌だったんですが、行かないと江蔵が可哀そうだと思っちゃったんです。
——s-kenさん以外にも観に来ている方はいらっしゃったんですか?
s-ken:ええ。業界の人がいっぱい来ていましたよ。でもKentのバンドを良いって人はほとんどいなかったですね。大体いつも最初は僕がいいっていうアーティストを、周りは残さないことが多いんですけどね。
——Kent君って今、いくつですか?
s-ken:21歳ですね。知り合ったときは19歳でした。始めはバンドだったんですが、そのバンドのメンバーが突然引きこもりになっちゃったり、他のメンバーとも音楽性の違いが出てきたりと、バンドを解散してソロになったんです。ある種、引きこもってしまったベーシストと同質なものをやはりKentも持っていたと思うんですよ。それをどうにか前に出してやりたい、ポジティブな方向にシフトできないかと思案していました。
それで今まであまりやらなかったセルフプロデュース性をキープしつつプリプロダクションを繰り返し、作詞作曲手順をあれこれ変えていくうちに、思いがけなくいい方法を思いついて、だんだん精神的にも出口が見えてきた感じです。ソロになってからのここ1年は、それまでとは比べ物にならないぐらい意欲的で、前向きのアグレッシブさが全面に出てきたので、今年の春、デビューアルバムのレコーディングを開始したといういきさつなんです。
——プロモーションビデオを拝見したんですが、ギターが滅茶苦茶上手いですよね。あとコードがちょっと普通じゃない。
s-ken:どの曲も常識を外してくる部分がかならずありますね。バラードとかも変でしょう?
——はい。確かに放っておいたら、引きこもりそうな感じがしました。
s-ken:(笑)。でも、だからリアリティーがあるんじゃないかということと、アニメ好きを公言していて、意外と根がポップなところがあるんですよ。プリンスにしても何にしてもみんなそうじゃないですか? 最初は勢いで作っていたけど、だんだんと大衆性を帯びていくみたいなね。だから、始めから大衆性を帯びなくても良いと思います。今の彼が持っているものをどんどん出して、それがだんだん洗練した形で出てくれればと良いかなと思っています。
——最初は尖っているくらいがいい?
s-ken:ビートルズやストーンズも初めはみんな尖っていましたよね。
——今後はどのような活動を予定されているんですか? やはりライブですか?
s-ken:そうですね。今はライブが強くないとダメかなって思うんですよね。音源っていうのはどちらかっていうとプロモーションとして機能していくイメージにだんだんなって行くんじゃないですか。まあ、SUPER BUTTER DOGのメンバーだったハナレグミも竹内朋康もクラムボムもPE’Zも中山うりも共通して言えるのは、みんなライヴパフォーマンスが素晴らしいから生き残っているわけで、ライヴが重要なのは今に始まったわけではないですけれど。
それと今言えることは、PCからスマートフォンとクラウドの狭間に新しいカルチャーがボーダレスに広がっていく時代のクロスポイントに立っていることです。まさに、Kentの時代の可能性もジレンマも、新しい視点に立たなければ見えてこないでしょうね。Kentを支えるチームもまさに今スタートしたばかりですが、ワールドワイドな視野に立って、新しい試みを面白がってやるようなプロジェクトにしたいですね。
ここ10、20年はレコード会社が衰退していくと逆に、音楽自体は媒体や表現を変えながら、ひょっとすると経済や政治より、人々に影響力のある存在になっていくような気がするので、Kentの世代の活躍の場はむしろ今より広がっていくと確信しています。
——s-kenさんが今後、Kent Kakitsubataというアーティストをどうプロデュースしていくか、どう打ち出していくか楽しみにしたいと思います。本日はありがとうございました。