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気軽に「洋楽」を聴ける環境を作りたい “『at武道館』をつくった男”野中規雄氏インタビュー

インタビュー フォーカス

野中規雄氏
野中規雄氏

 洋楽不況、洋楽離れと言われて久しい昨今、Apple Music、AWA、LINE MUSICなど新しい音楽ストリーミングサービスが次々にスタートし、世界中の、様々なジャンルの音楽に気軽にアクセスできるようになってきた。自身の会社「日本洋楽研究会」での活動や、執筆、そしてラジオ番組「パイレーツロック」などを通じて、洋楽を聴く楽しさを伝え続ける、伝説の洋楽A&R 野中規雄氏は、洋楽を取り巻く現状と未来をどう見ているのだろうか。

(取材:Masahiko Yamaura、文:Kenji Naganawa)
2015年8月19日掲載

PROFILE
1948年群馬県前橋生まれ。1972年にCBSソニー(当時)に入社し、洋楽宣伝、洋楽ディレクターとして、エアロスミスやクラッシュ、ジャニス・イアン、チープ・トリックなど数多くのアーティストを手がけた。その後、SD本部、国内制作本部長、ソニーミュージックエンタテインメント取締役を経て2003年にソニーミュージック・ダイレクト代表取締役に就任。2008年に同社を定年退職し、同年に退職した岡田了と共に株式会社日本洋楽研究会を設立。制作に携わった洋楽カタログを後世に残すための活動を行っている。この中核として、大阪FM802傘下のFM COCOLOで6年目に入った番組「パイレーツロック」を放送。同番組には音楽業界を支えてきたミュージックマン166人が出演、幅広い世代から好評を博している。

 

  1. A&Rに自由があった洋楽黄金時代
  2. 今必要なのは音楽のキュレーター
  3. 体験した話だから面白い〜FM COCOLO「パイレーツロック」の6年
  4. 洋楽の魅力を若い世代にも伝えたい

 

A&Rに自由があった洋楽黄金時代

——野中さんはまさに洋楽の名ディレクターだったわけですよね。チープ・トリックの『チープ・トリック at武道館』を世界発売したり、世界に向けて日本発の洋楽を発信したり、手掛けたアーティストもエアロスミスやクラッシュ、ジャニス・イアンと、アーティストが感謝するぐらい売ったわけで。

野中:『チープ・トリック at武道館』に関して言えば、僕が売ったわけじゃなくて、誰かが売ったんです(笑)。制作を担当して日本で発売したのは僕なんですけど、世界発売したのは僕じゃない。キッカケは日本のLPをアメリカに持っていった誰かがいて、それを放送局のDJに持っていった誰かがいた。気に入ったDJがかけて、それを聴いてリスナーが「面白い」とリクエストをガンガン出して広がっていった。海外進出というとエージェントがいて戦略を練って、という感じじゃないですか。でも、チープ・トリックの場合は彼らの地元のシカゴ近辺のローカル・ラジオから自然にヒットしちゃったんですよ。だから、世界発売になったのも、僕がなにをしたっていうわけではないんです。時代と運が重なっただけです(笑)。

——チープ・トリックは、アメリカではそんなに売れてなかった時代に、日本で売れたというバンドですよね。

野中:そうですね。クイーンやジャパンなんかと全く同じです。

——『チープ・トリック at 武道館』は、お客さんの「キャー!」という、よその国のチープ・トリックのコンサートではあり得ない大歓声が、トラックに入っていますが、そのムードに皆がビックリしたんでしょうね。

野中:特にアメリカはね。アメリカのリスナーって、ビートルズとかその辺以降、そういう音楽の聴き方をあんまりやってなかったんですよ。「キャー!」っていうコンサートをね。ところが日本は、グループサウンズもあったし、チープ・トリックの前にベイ・シティ・ローラーズが来ていた。ベイ・シティ・ローラーズもクイーンも「キャー!」じゃないですか。日本の女の子ファンはアイドルっぽい洋楽バンドに「キャー!」って言うのは普通だったんですよ。だから“ライブ・イン・ジャパン”を録れば「キャー!」に決まっているんです。ところがそれをアメリカに持って行くと「なんじゃこりゃ?」ということになる。アメリカ人からすると『なんかビートルズが来た時みたいな熱狂だな」となる。しかも、その「チープ・トリック」とかいうバンドをアメリカ人は知らない。そういう珍しさもあったんだと思います。

書籍「『at武道館』をつくった男」
▲野中氏のキャリアを描くドキュメンタリー書籍「『at武道館』をつくった男」

——なるほど。

野中:ああいったコンサートの楽しみ方をしていたのは日本のファンだけとは言わないですが、日本のロックファンの特徴ではありますよね。だから謙遜ではなくて、そういうラッキーが重なって、アメリカで400万枚という結果が出ただけなんです。でも原盤はアメリカなので、エピックソニーやCBSソニーには日本国内での通常の印税しか入ってきませんでした。

——アーティストには還元されるけれど、残念ながら日本原盤ではなかったと。しかし5,000ドルのアドバンスで安く買ったアーティストに、印税あげたらひっくり返ったっていう話がありましたよね。

野中:G.I.オレンジですね。これは日本でしか出ていないんです。イギリスのバンドなんだけど、イギリスで1枚シングル盤を出しただけ。でも、日本ではシングルとLPを出して、10数万枚売れたんです。イギリスで出していたシングル盤を聴いて契約しようと思って連絡したら、シングルしかない。「アルバム作らなきゃダメだよ」と言ったら「よし!作る」と。それで3,000ドルだったか5,000ドルだったか忘れましたが、そのアドバンスで契約しました。

マネージャーもいないので契約は大金持ちのお父さんとだったんですが、全ての権利を日本に売り払ったものだと思ってたらしいんですね。原盤が自分だってことも後で分かったらしく。契約書をちゃんと見ていないか見てもわからなかったんじゃないかな。大金を払ってレコードを作ったのに日本からは3,000ドルしか貰ってないものだから「お前は会社にとって良いビジネスしたなあ」みたいな事を言ってたんです。1年後くらいに国際電話で「ノリ、お前は神か!」って。印税が振り込まれたんですね (笑)。

KISSのいたカサブランカ・レコードもビクターが直契約じゃないですか。70年代ってビクターやCBSソニーだけじゃなく各社が単発契約をしていたんですね。その仕事はある種バイヤーに近いんですけど、MIDEMのような見本市なんかに行っては、「当たりそうだな」と思うのを契約して。高橋裕二さんのガゼボ「アイ・ライク・ショパン」なんて一本買いの典型ですよね。

そんな風に各社のディレクターがそれぞれ日本のマーケットに合いそうなものを見つけてきては、契約して発売していました。私の場合それで当たったもののひとつがG.I.オレンジというアイドルバンドだったんです。でも世界中のレコード会社が徐々に集約され本国から日本への指示も厳しくなっていった結果、「日本のA&Rが勝手にどっかの国の音源やアーティストと単発契約するなんてとんでもない事だ」という話になり、そういう活動は難しくなるわけです。だから私が退社の前年にMIDEMに行った時は日本の外資系レコード会社のA&Rは誰もいませんでした。

——僕らが音楽、洋楽を聴き始めた頃は、漣健児さんや坂本九さんなどの和製ポップスや60年代のカヴァー・バーションが多かったじゃないですか。原曲とは違う詞を付けて、海外から怒られる事もなく、ノー・チェックで。

野中:先輩の磯田(秀人)さんなんかだと、シカゴに日本語で歌わせるどころか、シングルに編集でハサミ入れちゃっていましたからね。サビを頭に持ってきたりだとか。許諾なんて取れるわけないですよ。だから勝手にやっていたんです。ショッキング・ブルーの『悲しき鉄道員』もピッチ上げていますからね。どこでもやってました。だから、洋楽が黄金期だった当時のやり方は、今では絶対に出来ないです。

——「なんでもありで楽しかった」という風にはならない?

野中:いや、ノスタルジーで言うならばそうなんですけど、その事ばかり語っても今はあまり役に立たないんですからね。ベースにあったのは「日本のお客さんに受けるかどうか」って判断で、僕らはこの判断を委ねられていたわけです。アメリカではアルバムからのシングルはこの曲だけど日本ではこっちが当たると思えば、それをひっくり返して発売することが出来たんですよ。でも今は出来ないでしょう。各国に「第1弾シングルはこれ」「今年はこのアーティストを推せ」とか指示が徹底している。それで毎週売上げ数字の報告をしなくちゃいけないという風にコントロールされていると、日本のA&Rが自由に日本のマーケットに向けて、という判断はなかなかできないと思いますよ。 

 

今必要なのは音楽のキュレーター

野中規雄氏

——A&Rに裁量権がなくなったことで日本の洋楽マーケットは萎んでいったんでしょうか?

野中:そう思いますけどね。個人的な感覚なんですが、85〜6年あたりから洋楽で仕事をしている事が息苦しくなってきた。それはお話ししたように自分の判断でシングル盤を決めたり、単発契約をしたり、レーベルを取りに行ったりという事が徐々に許されなくなってきたからです。我々は毎月「一押し、二押し、三押し」みたいな事をやっていたわけですが、その「一押し」まで、海外が口を出すようになった。それまでは恐らく日本という極東の小さな島国は、「言葉も文化も違う。よくわからない。ちゃんと送金してくるならいいんじゃない?」みたいな感じだったと思うんですよ、アメリカからしてみれば。ところがどんどんマーケットがデカくなって、重要になり無視出来なくなった。自分達の支社みたいな形でコントロールするようになってくると、勝手な真似はできなくなったんですね。さっきの海賊まがいの行為は論外ですけどね。それと海外の音楽情報が直に入ってくるようになったこともあります。

——自動車とかもそうですが、今や日本に現地法人が出来て、本社が全てコントロールしていくと。

野中:「独自のマーケティング」というのはあまり好きな言葉じゃないのですが、それが許されていたというか、見逃されていた。だから自由に勝手なことが出来た。それがあったから我々どのレコード会社も自由にやりたい放題やっていたと。

うちの会社は「日本洋楽研究会」というんですが、「日本の洋楽研究会」ではなく「”日本洋楽”の研究会」なんです。”日本洋楽”つまり日本だけでヒットした洋楽ってたくさんありました。しかも、僕らが子供の頃って、ロック、フォークだけじゃなく、ヨーロッパのヒット曲、例えばシャンソンやカンツォーネ、映画音楽、あるいはラテンとかまで、音楽のジャンルがバラエティに富んでいたじゃないですか。アメリカやイギリスのチャートだけじゃなく世界中の色々な国の音楽を日本のラジオのリスナーが「これ良いじゃん!」とリクエストしてヒットさせていた。

——シルヴィ・ヴァルタンとかダニエル・ビダルとかジリオラ・チンクエッティとか、確かに自由に聴いていましたね。

野中:ええ、すごく幅広くて。で、アメリカではB面だったりまったく無名だった曲が日本ではヒットしたりもしたわけです。あと、重要なのは邦題ですね。邦題というのも日本洋楽のひとつの切り口で「邦題で覚えている」という側面もあります。でも、最近は邦題が無いじゃないですか。シルヴィ・ヴァルタンの『アイドルを探せ』の原題ってなんでしょう? ったって、分からないですもの。高橋裕二さんの『落ち葉のコンチェルト』の原題がまさか『全人類の平和のために(『For the Peace of All Mankind)』だとは思わないじゃないですか。日本洋楽というのは洋楽が日本化していく過程で邦題と密接に結びついていた一つの文化なんです。

——日本人に売れそうな洋楽は日本人が独自に見つけて、邦題をつけて売ったら、再び日本洋楽の時代が来るかもしれない?

野中:うーん、どうなんでしょうね。でも環境がそんな時代はもう作らせてくれないでしょう。やっぱり世界企業、つまりメジャーにとっては、日本って大きな営業所なんだと思います。しかもまだパッケージが売れている大切な国、という、捉え方でしょうし。ただ、その時代に仕事をしていた元業界人としては、あの頃に起きていた事を伝えて、今の現場の若い人たちが「今はこういう制約があるけど、それでもこれなら俺でも出来るんじゃないか」とか、色々アイデアを考える材料にしてくれたら良いなと思っているんですけどね。

でも今のレコード会社の洋楽の人はすごく仕事量が多くて、なかなか他社アーティストのコンサートに行く時間もない。洋楽のシェアが低くなって、スタッフも減って、でも扱うタイトル数は多くなって、来日も多いから、朝から夜までビッシリ仕事をしていると、「あのアーティストが今晩下北のGARDENでやる」って時でも「入稿があって行けない」みたいな。忙し過ぎて音楽現場に出られないとしたら、不幸な事だなと思うんですけどね。

——今のレコード会社の社員の人たちは皆さんとても忙しそうですよね。

野中:だって夜中にクラブなんかで遊んでるレコード会社の社員なんていないんじゃないですかね。 スタッフが減って会議費もなく真面目に仕事しているから。でも本当は「何が当たるんだろう」とか「今度これが来そうだ」とかは、自分の肌で感じた方が良いに決まっているんですよ。だからちょっと可哀想な気がするんです。

ただ、洋楽のシェアが低いのは、ある意味正常かなって気もします。これが50%あったらそっちの方がおかしい。今は8割くらいが国内ですか?それはシェアとしては良いんじゃないですかね。映画も日本映画が盛り返して、今じゃ圧倒的に日本映画でしょう? 僕は洋画しか観ませんけど、日本映画が強いのは良い事だと思いますし。

——もちろん邦楽が盛り上がるのは良い事だとは思うんですが、アメリカやイギリスのロックだけじゃなくても、世界には色んな良い音楽があるので、もう少し多様性があればいいなと思うんですけどね。

野中:全くその通りで、高久(光雄)さん(ドリーミュージック・ 代表取締役社長)なんか今、北欧のラジオを聴いているじゃないですか、ソフトジャズかなんかの。今は聴こうと思えば世界中の音楽を簡単に聴ける時代ですよね。そうすると、キュレーターみたいな人がいて、「こういう音楽はどう?」「こういう放送局はどう?」「こういうテレビ番組はどう?」という感じで、信用出来る人が教えてくれたら聴くかもしれない。多様性も出てくるかもしれない。今の時代、探せばいくらでも簡単に聴けるチャンネルはあるので、そこへ橋渡しをしてくれる人がいればいいなと思いますね。 

 

体験した話だから面白い〜FM COCOLO「パイレーツロック」の6年

野中規雄氏

——日本のFM局などに音楽番組がいっぱいあれば良いのかもしれないですが、純然とした音楽ファンだけのための番組はあまり多くないですよね。

野中:生活の中に自然に音楽が入ってくるという環境があればいいんですよね。昔はラジオだったから洋楽ファンは普通にヒット曲や好きなアーティストのファンだった。今も「洋楽ファン」はいるんだけどちょっとマニアックになってる。もう少し気軽に洋楽を聴ける環境を作れたらいいなと思いますね。だって、例えばトロイ・ドナヒューの「恋のパームスプリングス」はロックバーでもかからないし、雑誌で取り上げられることも稀でしょう。あんなの、一緒に歌うだけでいいんです。

——洋楽を聴く楽しさを伝えるべきなんですよね。

野中:そうです。僕はFM COCOLOの「パイレーツロック」という洋楽番組の手伝いをしています。この番組のキーマンはFM802の栗花落光さんで、FM802がどちらかと言うと若者向けのFM局であるのに対して、FM COCOLOというのは45歳以上の人をターゲットにしたFM局という位置付けにしたんですよ。そのスタートにあたり、栗花落さんとPの古賀さんと伊藤政則さんが相談して決めて、そこに「日本洋楽研究会」が参加したのが「パイレーツロック」です。

この番組はタレントやミュージシャンやプロのDJを使うんじゃなくて、音楽業界を卒業した元スタッフを中心に、「トークは素人なんだけど、自分の体験した音楽を語る2時間の洋楽番組」。結構乱暴な企画なんですけどね。それが始まったのが2010年の4月。最初は「半年くらい持てば良い方かな」と思っていたんですが、もう6年目です。続いている最大の理由は、「45歳以上をターゲットに」と銘打っているのに、若い人も聴いてくれてるからなんです。

——6年も続いているというのは本当に立派ですよね。

野中:なかなかビジネスにはならないんですけど、やり甲斐はありますし、やっぱり楽しいんですよね。まず色んな人と会える。その人の選曲がそれぞれで、聴いていて楽しい。2時間選曲するのは結構大変なんですよ。

——出演者も結構気合いを入れて番組に臨んでくれる?

野中:人によっては30曲に絞るために200曲用意したりする。「自分の体験して来た思い出の曲をリストアップしていたら200曲出て来ちゃったんだけどどうする?」って。「そりゃ無理でしょ」と(笑)。それをどんどん削って削って25曲のエッセンスになると、これは物凄い思い出のプレイリストになるんですよね。

——そういった濃い放送を毎週されているわけですね。

野中:そうです。日曜日の20時から2時間。週代わりでDJの人が変わって、たまに音楽評論家とか本職のDJの人にお願いしたりもするんですが、基本的には元洋楽ディレクターとか、洋楽の販促宣伝を担当していた業界OBが務めます。

——ちなみに折田育造さんがやると話が止まらなくて曲がかけられないという噂を聞きました(笑)。

野中:それも有名な話で。最初、折田さんにお願いした時、20曲くらい準備していたのに、頭の1時間で3曲しかかけられなかった(笑)。普通だと巻きのサイン出すんだけど「話が面白いからこのまま行っちゃおうよ」という事で、残った曲は2回目に回そうと。結局2時間番組で5〜6曲しかかからなかった。やっぱり聞いた話とか読んだ話じゃなく、体験した話だから聴いている方も絶対に面白いんですよ。喋り方にクセのある人もいるし、あんまり上手くない人もいるんですけど、都市伝説じゃなくてその人が体験した真実ですからね、面白い。あまりにもヤバい話はオフレコにして、打ち上げの時にデッカイ声で喋る(笑)。

——(笑)。

野中: 6年もやっているので、のべ100何十人に出てもらっています。その人たちが自分のFacebookやなんかに書くじゃないですか、すると「大阪の方でこんな事やっているらしいぞ」みたいな話になって。少なくとも今、音楽業界OBたちの中では「FM COCOLOの『パイレーツロック』って知ってる?」「ああ、政則と野中がやってるやつでしょ?」と、ソコソコ皆に知られた番組になりました。

——100何十人って凄い人数ですね。

野中:166人と思うんですけど、評判の良い人とか上手い人には何回かお願いしているんですよ。元東芝EMIの鈴木博一さんは14回出ている。折田さんと高橋裕二さんが9回。3〜4回という人は結構たくさんいます。1回目は大体皆さん「自分の洋楽遍歴」。子どもの頃はこういう音楽を聴いていて、こうやってレコード会社に入って、こういうのを担当して今に至ります、みたいなのをやるんです。でも2回目以降は自分の推薦したいジャンルやアーティストをやるようになるんですね。

東芝EMIからフジパシ(フジパシフィックミュージック)へ行った森俊一郎さんは「ステイタス・クォーで2時間やっていいかな?」って言って来て、「ステイタス・クォーで2時間も出来るネタがあるの?」って聞いたら、「10回分あります!」って(笑)。ステイタス・クォーって全部同じ曲に聞こえるよなあと心配したものの、番組が終わってみたら、やたらと評判が良かったんですね。若い人たちから「聴いた事がない」という反響がたくさんあって。でも考えてみたらステイタス・クォーって日本の放送局でかからないんですよね。で、森さんは気を良くして「ステイタス・クォー 2時間」の2回目をやったんですよ。つまり彼は、ステイタス・クォーを4時間もかけたことになります。で、「3回目やろう」とか言い出したから「いや、それは流石にやめよう」と(笑)。

——3回は止めてくれと(笑)。

野中:元ワーナーやキングの加藤正文さんにこの話をしたら、あの人はストラングラーズで2時間やりました。加藤さんは今、ストラングラーズの日本窓口をしているんですが、ジャン=ジャック・バーネルに「今度、日本の放送局で2時間ストラングラーズ特集をするんだ」とメールしたんだそうです。返事が「クレイジーな放送局だ」と(笑)。で、そこに「じゃあこの曲をかけてくれ」と、メンバーからリクエストが来た。さらにジャン=ジャック・バーネルから「俺たちの歴史をかけてくれてありがとう」とメッセージまで来たんです。その回もまた結構若者に受けが良かったんですよ。
かかるのは古い音楽だし、60才過ぎのおじさんおばさんが喋っている番組だし、、必ずしも番組のリスナー全部が気に入っているかどうかは分からない。ましてや若い人たちは聴かないだろうって思っていたら、そうでもなかった。これは嬉しい誤算でした。

——やはり若い人が聴いてくれるのは嬉しいですよね。

野中:そうですね。出演をお願いする時「DJで喋って下さい」っていうと、最初は皆さん尻込みして「ラジオなんかで喋れないよ」って言うんですが、出来上がった番組を聴いてもらうと喜んでくれるんですよ。なぜかというと、喋りがトチったとしても、音楽がバンっとかかるとカッコよく聴こえちゃうんですよ。音楽そのものは過去に既に折り紙つきのヒット曲なんだから、喋りは音楽を彩ってくれれば良いわけです。そこが音楽の凄いところかな、と思いますね。またその音楽すら若い人には新鮮なのかもしれません。

——他に結構面白い反応が来たとか、この人の回は面白かったとかありますか?

野中:基本は1人で喋るんですけど、朝妻(一郎)さんと折田さんの2人に喋ってもらったら、大学の授業みたいで面白かったんです。それもすごく反響があったんですが、朝妻さんと折田さんは原稿が無いんです。曲を選ぶ人は必ず喋る内容をメモしてくるわけじゃないですか? ところがあの2人にはそれが無い。曲目しかないんです。で、「次の曲は!」となると2人が掛け合いでネタを出し合うんです。それは評判が良かったので3回やりましたね。ああいう大学の授業があったら最高だと思いますよ。

——ちなみに番組の聴取率はいいんですか?

野中:ラジオですから、コンマなんとかという数字なんですけど、でもその数字の争いで言うと良いです。
そもそも業界の他社の人たちと友だちになったのは、ラジオの深夜番組で会ったからなんですね。TBS(ラジオ)、LF(ニッポン放送)、QR(文化放送)の深夜番組のプロモーションに行くと必ず毎日顔を合わせる他社の人間がいた。ライバルなんだけどだんだん仲間意識が芽生えて。その人たちとはサラリーマン辞めた今も仲良しだから、みんな「パイレーツロック」に出てもらっているんです。そういう意味ではコミュニティみたいなもんですよね。「○○さんの連絡先知らない?」みたいなメールがあったり、僕は洋楽OB会の連絡幹事みたいになってます(笑)。 

 

洋楽の魅力を若い世代にも伝えたい

野中規雄氏

——Apple Music、AWA、LINE MUSICなどのストリーミングサービスが始まり、洋楽に接しやすい環境になっていると思うのですが、野中さんは新しく始まったストリーミングサービスについてどのようにお考えですか?

野中:僕はこの春までMusic Unlimitedの選曲の仕事もやっていて、仕事場でMusic Unlimitedをかけていたんです。すごく心地良いんですよ。パソコンで仕事をしている時のBGMに最適で、「これはいいな」と。僕は会社を退職してからCDが欲しくてタワレコにすごく行くようになったんです。2000年くらいから7、8年間くらいの間は、あまり音楽を聴いていなかったんです。

——そういう期間ってありますよね。音楽を聴かないという。

野中:でも会社を辞めた途端にまたリスナーに戻って、タワーレコードに行けば1000円くらいでCD買えるじゃないですか、だから一杯買っていたんですが、2年ぐらいたったある日突然、部屋のCDが邪魔になってきた。それでCDを大胆に整理してしまった。資料じゃなく本当に好きなものだけを残して。それをMusic Unlimitedでもリスト化して行ったら、それで充分じゃんということが分かってきて。

——そういうところではストリーミングって便利ですよね。

野中:そうなんですよ。邪魔にならないし、他の人に自分のプレイリストを紹介も出来るわけじゃないですか。だから僕はストリーミングのサービスは、すごく可能性があると思いますし、どこかが勝ちそうになったら、みんながそこに一気に参加するようになると思うんですよね。ただ1つ問題があるのがMusic Unlimitedが無くなった時に思ったんですが、サービスが無くなった時に自分がリストしていた音楽が全部無くなってしまうということですよね。これは結構寂しいものがあります。

——CDはどうなるとお考えですか?

野中:アナログもそうですが、CDも残ると思います。ただ、主流はやっぱりストリーミングの方ですよ。CDが出た時に、裕二さんがアナログを全部処分してしまったんですね。「裕二さんそんなことしちゃ絶対ダメだよ」って言ったんです。だってCD化されない作品って多いはずだから。昔出ていたもので採算合わないからとCD化されていないのかなりありますからね。そういう聴けなくなっていったものでも、もしかしたらストリーミングで復活できるかもしれない。そういう意味では大きいなって思っているんです。しかも無料ではないんだし。まあ安いに越したことはないですけどね。

僕は2000年にソニー・ミュージックハウスという通販会社に異動になりまして、社名を「ソニーミュージック・ダイレクト」にしようとしたら、社員から「その名前はやめてくれ」と直訴されたんです。「“ダイレクト”って直接商売しようってことですか? 」と。「そうだよ」って答えたら、「そんな事したらレコード店がウチのCDを置いてくれなくなりますよ」と。「大丈夫だよ。ソニーミュージックの中の小さな子会社が“ソニーミュージック・ダイレクト”なんて名前にしたって誰も気にしやしないよ」って言いました。案の定、誰も気にしなかった。でも、扱っている商品がカタログものが多かったので本当に直販したかったんですよ。で、現実に直販したんですけどね。まだソニーがAmazonでCDを売る前のことです。

——それはネットですか?

野中:ネットです。「ソニーミュージックショップ」って名前にして。本社の営業には嫌な顔されましたけど、ちょっと考えればゆくゆくはそうなるに決まっているんですよ。でも2000年の時は「その他チャンネル営業」でした。たいして数字も上がってなかった。

——直販のきっかけは何かあったんですか?

野中: 元The Clash担当の私の思い入れがあって、クラッシュの全シングルをアナログで出したかったんです。英盤ってアナログ・シングルのパッケージがカッコ良かったんで、全部オリジナルのままで発売しようとイギリスのソニーと交渉してたら、本国で発売することになっちゃった。輸入盤は1万4〜5000円で売られそうで、日本盤は色々計算したら3万5000円くらいにしないと元が取れないと。2倍以上の値段にしなければ発売できない。現場の営業担当からは「輸入盤に日本の解説を入れるか、赤字でもプロモーションであるとして限定盤にするか」と言われました。

でも「それ、両方ともおかしくないか?」と思ったんですよね。一応社長だから「初めから赤字です」「いくら売っても赤字です」という企画書にハンコは押せないでしょう、と。日本でカッティングして印刷もしたいから輸入盤はやりたくない、と。仕方なく日本盤は作ってネットだけで販売したんです。「市販しません」広告をいっぱい打って、それで2万円くらいで売ることになった。輸入盤より5000円くらい高かったんですが、そこにまたお得意の特典をいっぱい付けて(笑)。そしたら大きなレコード店から「買い取りでいいから卸してくれ」と。「ホラ見ろ!」と思いましたね。

——音楽のクラウド化は進んでいくとお考えですか?

野中:何年後かは分かりませんが、加速度つけてそうなると思います。僕自身も含めて、現実にCDを買わなくなっちゃっていますからね。

——野中さんは定年退職して7年とはいえ、ラジオや執筆などを通じて現役で洋楽の魅力を伝え続けていらっしゃいますね。

野中:楽しい事しかしてないですけどね(笑)。

——野中さんの活動は若い世代に共有財産を渡して行こう、ということでしょうか?

野中:その通りです。「趣味」と言ったら怒られるんですけど、まあ「サークル」ですかね。そのサークル活動の目的は、放っておいたらどんどん廃盤になって、世の中から忘れ去られる音楽が増えていく。それを紹介する事で伝承していきたい。凄く楽しい事ですし、楽しい事をやって仕事になっているなら、それは嬉しいですよね。

レコード会社にいたディレクターたちが定年退職して辞めちゃうと、その人たちが現役時代に体験して来たノウハウと言うか知識の蓄積が伝わらない事が多いんですよ。そういうのがもったいないなと思って。それもきっかけですね。ノウハウをアーカイブすることは出来ない。でも少なくとも紙だったり電波だったりに乗せていく事で、少しでもいいから伝えていきたいですね。

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