【後半】『ニッポンの編曲家』出版記念インタビュー スタジオ・ミュージシャンの生演奏の素晴らしさを伝えたい 梶田昌史
70〜80年代の活気に満ち溢れたレコーディング・スタジオで音と格闘を続けていた編曲家に焦点を絞り、たくさんの名楽曲を生んだ頭脳と、レコーディング時のエピソードに迫った書籍『ニッポンの編曲家』が話題だ。編曲家だけに留まらず制作ディレクターや、スタジオ・ミュージシャン、エンジニアの他、多方面から証言を収集した本書は、音楽業界人のみならず、業界を目指す若者やミュージシャン&エンジニアの卵、そして音楽ファンまで多くの人にとって興味深い内容になっている。
著者インタビュー後編は、本書のキーマンであり、中学生の頃からプレイヤー視点での楽曲研究を行い、現在もライフワークとしてスタジオ・ミュージシャンのサポート活動を続けている日本テレビ 梶田昌史さんのインタビューをお送りする(本書編集担当のDU BOOKS 田渕浩久さんにもご同席頂きました)。
PROFILE
梶田 昌史(かじた・まさし)
1971年生まれ 東京都荒川区出身。東海大学工学部通信工学科卒。
日本テレビ放送網株式会社 メディア戦略局ネットワーク部主任。技術、報道等を経て、現職。
小学生の時に聴いたYMOがきっかけとなり、スタジオ・ミュージシャンに興味を抱く。
中学生の頃、ドラマー島村英二との出会いによって、難波正司、EVE、山川恵津子、広谷順子、比山貴咏史、木戸やすひろをはじめとした多くのプレイヤー、アレンジャーと親交を深める。
アイドル歌謡曲全盛期80年代には担当ディレクター、コーディネーター(インペグ)に自ら電話をかけ、参加ミュージシャンのリサーチ活動やスタジオ訪問、そしてプレイヤー視点での楽曲研究に傾倒する。
2010年にはスタジオ・ミュージシャン、アレンジャーを主体にしたライブ・プロデュースをボランティアで渋谷JZ Brat にてスタート。
現在はストリングス・プレイヤーの知名度向上に向けて支援を行うとともに、アーティスト活動にあたってのコンサルティングなども行っている。
『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』
著者:川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久
2016年3月発売
A5 / 336ページ / 並製
2,484円(税込)
DU BOOKS / 9784907583798 / JPN
Amazon/DU BOOKS
1.
——『ニッポンの編曲家』を読ませて頂いたんですが、梶田さんという希有な方がいたからできた本なんだなと確信しました。梶田さんがスタジオ・ミュージシャンに興味を持つようになったきっかけはなんだったんですか?
梶田:僕は中学生の頃YMOが大好きで、当時、学研が出していた『サウンドール』という毎月YMOが載る雑誌を購読していたんですよ。それにシンセサイザープログラマーとしてYMOに参加していた松武秀樹さんのインタビューが載っていて、「僕はYMOの仕事以外に、アイドル歌謡曲もやっているんです。松田聖子とか、河合奈保子とか」と書かれていたんです。それでレンタルレコード屋で、たまたま河合奈保子さんの『HALF SHADOW』というアルバムを手に取ったら、“シンセサイザープログラマー・HIDEKI MATSUTAKE”と書いてあって、「あ、これだ!」と(笑)。それで借りて聴いてみたら、そのサウンドにすごくハマったんです。それがスタジオ・ミュージシャンを好きになったきっかけですね。
——きっかけは河合奈保子さんだったんですね。
梶田:ええ。そのアルバムに収録されていたシングル『エスカレーション』と『UNバランス』は、筒美京平さんが曲を書いて、アレンジが大村雅朗さんでした。それで「ドラムの音がめちゃくちゃカッコいいな!」と思ったら、“ドラム・島村英二”と書いてあったんです。他のメンバーを見たら、ベース・高水健司、富倉安生、ギター・松原正樹、キーボード・山田秀俊、ストリングス・加藤JOEグループ、トランペット・数原晋、荒木敏男、コーラス・EVEと書いてあって、そこからスタジオ・ミュージシャンの魅力にはまって、当時、リリースされるアイドル歌謡曲を片っ端から聴きまくり、特にドラムは、プレイヤーの識別ができるまでになったんです。あるときに「なんでこの人たちは、シングルやアルバムに名前が載っていないんだろう?」と思って、レコード会社のディレクターに電話をしたんです。「この曲って誰がやっているんですか?」「ドラムは島村さんの音だと思うんですけど?」って言ったら、「なんでわかるんですか? 当たりです」と言われました(笑)。
——それってまだ中学生の頃の話ですよね?
梶田:中学校2年生くらいですかね。そのときのディレクターさんも親切な方で「参加ミュージシャンは、僕らも覚えていないので、インペグというところを紹介するので、そこで聞いてみてください」と言われたんですね。でも、最初の頃なんかは、中学生がいきなり電話してきて「メンバーを教えてください」って言ったところで、相手にしてもらえなくて、冷たくあしらわれました。でも、諦めないで何回も電話していると「そこまで好きなのならば、しょうがないな」って感じで教えてくれるようになったんです。その頃から、スタジオ業界では「梶田」という名前は有名になっていたようです(笑)。その後、島村さん、EVEさん、山川恵津子さん、広谷順子さん、比山貴咏史さん、木戸やすひろさんなど、サインが欲しいと思うようになるんですね。それでどうしたらいいんだろうと思って、何社かインペグに電話を掛けたんです。すると当時、新音楽協会(新室)にいらした、松倉さん(現:ダットミュージック)、杉山さん(現:ウィッチクラフト)が丁寧に対応してくださったんです。お二人は、僕の大恩人です。それで僕は島村さんやEVEさんの自宅に連絡をして、手紙をお送りしたらサインを書いて送ってくださったんですよ。とても感激して、額に入れて飾っていた程です。
——お手紙にはなんて書いたんですか?
梶田:この曲のプレイに感激したなど思いを書いたファンレターです。そしてサイン下さい!と。その後、僕が高校1年生くらいのときに島村さんは斎藤ノヴさんたちと「NOBU CAINE」をやりだして、父と一緒に六本木ピットインヘライブを観に行ったんですよ。そのときに島村さんに話しかけたら、覚えていてくださっていて「手紙をくれた梶田くんだよね」って。それで島村さんと話している中で、「レコーディングを観に来なよ」って言ってくださって、スタジオに何回かお邪魔して、大ファンになりました。
——スタジオ・ミュージシャンに向かっていく中学生って、やはり聞いたことがないですよね。自分がプレイヤーになりたくて、尊敬する師匠みたいな感じならまだしも。
梶田:プレイヤー志望でもないですし、楽器をやっていた訳でもなかったですからね。島村さんを通じて、いろいろなプレイヤーの方をご紹介いただいて、スタジオレコーディングを見学していく中で、衝撃的だったのは、CBSソニー信濃町スタジオでの郷ひろみさんのシングル「Wブッキング」のレコーディングでした。難波正司さんがアレンジ、ドラム・青山純さん、ベース・伊藤広規さん、ギター・是永巧一さん、ピアノ・倉田信雄さんで、出音の凄さにシビれました。「レコードの音そのまんまだ!」「テイク1でもう完璧」と思いました。「これで何を直すんだろう? この人たち」と思いましたね(笑)。身体に電気が走って、それがきっかけに、スタジオ・ワークにも興味を持つようになりました。
2.
——スタジオで一流プレイヤーの凄さを肌で感じられたんですね。
梶田:そうです。当時のディレクターさんでは、ポニーキャニオンの田中洋子さん(工藤静香担当)、CBSソニーの稲葉竜文さん(河合その子担当)、高野利幸さん(国生さゆり担当)、ポリスターの水橋春夫さん(Wink担当)には、とても良くして頂きました。河合その子さん、工藤静香さんがデビューシングルを出したときにプレイヤーの問い合わせを稲葉さん、田中さんにしたら「いまアルバムを作っているので、クレジット全部載せますよ」って言ってくれたんです。「本当かな?」と思ったんですけど、実際見たら、クレジットがされていて、とても嬉しかったですね。当時のディレクターに聞いたシングルの参加ミュージシャンは、全部記録に留めていまして、この本にも載せる事ができなかった曲がいっぱいあるんです。
——それはとても貴重な記録ですよね。梶田さんしか把握していない情報も多いんじゃないですか?
梶田:そうですね。調べていくと、当時の記録はコーディネーターの手元に残っていなかったり、ある程度の年代で捨てられていたりするんです。僕はたまたまリアルタイムで記録していて、そういうものが積み重なっていきました。
僕は日本テレビに入社して、報道局に在籍中は、日テレNEWS24イメージソング 松浦亜弥さんの「笑顔」や、NEWS ZEROでもOAされた、沖縄のシンガー大城友弥さんの企画、news every.サタデーのお天気テーマをスタジオバイオリン、ヴィオラの方に作曲オファーしたりといった、音楽、プレイヤーたちと繋がる事をやってはいたんですが、何か恩返しをしたいという気持ちがずっとありました。ですから、自分の中ではこの本を出すということが、いままでお世話になったプレイヤーの方々への恩返しだと思っています。プレイヤーの皆さんは、自分が何の曲に参加しているのか、ほとんど覚えていないんです。でも、90年代の後半くらいから仕事量も減少していく中で、自分がやってきた仕事を見つめ直したいと、思うようになった方もいました。
トランペットの数原晋さんやキーボードの難波正司さんからは、「梶田くん、当時の音源持っていますか? 聴きたいんです、僕持っていないから」と声をかけてもらい、音源をチョイスして差し上げたりもしました。
——ほぉ〜。
梶田:今の時代だからこそ、当時の記録を残していかなければ、消滅してしまうものだと思いますし、何人かの方からは「私たちがやってきたことを、後世に伝える意味でも形に残して欲しい」という声も頂いて、ディスクユニオンに書籍の企画を持っていきました。
DU BOOKS 田渕浩久さん
——それは何年前の話ですか?
田渕:約2年前です。
梶田:作詞作曲家に比べると職業編曲家、アレンジャーの評価というのは低かったと思うんです。テレビでも作詞・作曲家しか名前が出ないですし、雑誌を見ても編曲が掲載されることはあまりないですよね。
僕も編曲家の偉大さを知るのは、高校生くらいのときで、プレイヤーから入って「この人はどのアレンジャーの作品に参加しているのか?」と掘り下げていくと、傾向がわかってくるわけです。このアレンジャーだからこのプレイヤー、さらに突き詰めていくと、アーティスト、インペグ、アレンジャーの3点から分析した上で、参加ミュージシャンが見えてきます。
当時のレコーディングのスタイルで言うと、レコーディング時は、「M1」「M2」「○○曲」って呼ばれていたものが、僕が問い合わせをすることによって「このタイトルになった」と逆にわかったりもするので、録ってから後のことは、僕の方がわかっているという側面もあったのではないかと思います。この本は、僕のライフワーク最終章として、全力で取り組みました。
——タイトルが「ニッポンの編曲家」ですから、そこにスポットライトが当たっている感じですけど、本当にプレイヤーの話がいっぱい出てきて、日本の音楽が生まれた熱い現場っていうのを知ることができますよね。
梶田:そうですね。今回インタビューしたアレンジャーを選定させて頂いた後に、やはりプレイヤーの部分も絶対に外すことはできないと思いましたし、そこをキチンと残さないといけない。データの確認を慎重に進めた上で、ミュージシャンの主要参加作品を掲載させていただきました。当時のアルバムのクレジットに、シンセサイザー・プログラマーの名前が載っていなかったり、コーラスが入っているのにコーラスのクレジットが抜けていたりとか、実は結構あったんですよ。今回そこを救済する形でクレジットを追記したりしています。
——間違ったことは書けないですから、相当苦労があったんじゃないですか?
梶田:細心の注意を払ってやりました。アレンジャーやプレイヤーの方が覚えている一次情報がすべて正しいと言い切れないんです。ですから、二次情報、三次情報がやっぱり大事になってきます。二次情報はたとえば当時のディレクターさんの記憶だったり、三次情報はエンジニアさんだったり。もちろんインペグさんもそうです。
——各情報を突き合わせていく作業になるわけですか?
梶田:そうです。あとはレコーディング時のトラックシートですよね。ミュージシャンの名前が記載されているものもあるので。僕が持っている記録、それにアレンジャー、プレイヤーの方から伺った話、そしてディレクターさん・エンジニアさん・インペグさんの話、そしてトラックシート、これまでの経験に基づく音源の分析ということになります。
3.
——企画から2年というと、かなり濃密な2年ですね。仕事量が凄かったたんじゃないですか?
田渕:そうですね。まずラインアップを決めるところから苦労しました。どうまとめたところで「この人が載っていない」という話には必ずなると思いましたし。なので、宮川泰さんや東海林修さん、森岡賢一郎さんとか、何で載っていないんだって言われると、言い訳しようがないんですよね。
——歴史を追いだしたらキリがないですよね。
田渕:膨大な量になってしまいます。どこで線引きするかというところで考えると、筒美京平さんが編曲を編曲家に任せるようになる時代以降で割り切った部分はあります。
——そこはお断り入れておかないと始まらないですよね。
田渕:私はギター誌の編集出身なので、ギタリストはたくさん知っていたんですが、そこと編曲家との密接なつながりについて、梶田さんに話を伺うことで理解していきました。そこは本当に切っても切れない関係なんだなと。なのでこの本は『ニッポンの編曲家&スタジオ・ミュージシャン』というタイトルでもぜんぜんおかしくない内容になっているわけです。
梶田:今回、僕が一番大事にしたかったのは、アレンジャーの皆さんがインタビューで語っている内容プラスα、その当時の現場の臨場感やサイドストーリーを描くことでした。実際に読んで頂くと分かって頂けると思いますが、それぞれのアレンジャーの下の欄に、現場の証言というのを追加しています。それは、当時の現場ディレクター、ミュージシャン、エンジニアの皆さんがどういった想いでレコーディングをしていたのか、ヒット曲誕生の裏にはどんな現場の想いがあったのかを僕が個別にお会いして伺ったエピソードになっています。
——それによって書籍にぐっと厚みが出ていますよね。ちょっとさっきの話に戻ると、いろいろな方法で検証を重ねて、やはり一番正しかったのは、梶田さんご自身の記録ですか?
梶田:それは難しい質問ですね。当時の記録自体が100%正確であるとは言えないと思います。差し替えも日常的に行われていましたからね。
——ちなみに今もスタジオ・ミュージシャンのサポートを続けているのですか?
梶田:今もライフワークとして続けています。例えば、僕はアレンジャーの萩田光雄さん、船山基紀さん、若草恵さんも大好きなんですが、そのセッションには当時のプレイヤーが今も参加していますから。渋谷JZ Bratでのライブ・プロデュースをボランティアで始めさせていただいて、今年で6年になります。これはスタジオ・ミュージシャン、アレンジャーをメインにしたライブで、近年はストリングス・プレイヤーの活動も支援しています。
——もはや梶田さんは音楽プロデューサーですね。
梶田:いや、あくまでもその部分は仕事じゃなくて、趣味ですから。スタジオ・ミュージシャンのアーティスト活動に向けてのコンサルティング的なこともやらせて頂いています。例えば、ヴァイオリン・加藤JOEさんのファーストソロアルバム、直近では、ヴィオラ・萩原薫さんのファーストソロアルバムもお手伝いさせて頂きました。
——『ニッポンの編曲家』は70〜80年代の話が中心ですが、決して回顧的にはなっていないですよね。
梶田:ええ。音楽のレコーディングスタイルは、テクノロジーの進化と共に、変わってきていますよね。今の音楽も素晴らしいと思います。ただ、僕は70年代後半から80年代の音楽を聴いて育った世代なので、打ち込みの音楽も否定はしませんが、何といっても生の人間が奏でる、特にスタジオ・ミュージシャンの演奏の素晴らしさを、色々な活動を通じて知っていただくということが僕のライフワークであり、アレンジャーやスタジオ・ミュージシャンへの恩返しと言いますか、僕ができる最大限のことなんじゃないかと思うんです。
自分が愛しているプレイヤーの方たちに「梶田くんと一緒に何かやりたい」とおっしゃっていただけるのなら、僕は全力で支えたい。80年代のプレイヤーの方は、今も皆さん現役で活躍している素晴らしい方たちばかり。その素晴らしさを多くの人たちに伝えたいんです。
それは今だけでなく、後世にも、70年代・80年代っていうのはいい時代だったという時代回顧だけじゃなく、その時代が生んだ音楽の素晴らしさを知ってもらうことで、音楽の楽しみ方も変わると思うんです。僕はこの本を通じて、「こんな素晴らしいプレイヤーがいたんだ」「もう1回昔の曲を聴いてみよう」と思ってもらえたら、新たな発見があったりして、音楽の楽しみ方がより広がってくるのではないかなと個人的に思っています。
4.
——『ニッポンの編曲家』刊行後の周りの反応はどうですか?
田渕:「そもそも売れるのか?」というところで言うなら、本当に出してみないとわからないという状況だったんですが、発売から2か月で3刷までハイピッチで重版されたことに正直びっくりしています。
梶田:業界の視点を持っている方であれば、抵抗なくこの本の世界に入れると思うんですけど、たとえば南野陽子さんのファンが、萩田さんのアレンジはすごいとTwitterなどで話題にしていたりする。それがきっかけになって関心を持ち、本を購入いただたりもしているようです。
ディスクユニオンには「昭和歌謡館」というお店がありますが、そこには当時の音楽を聴いて「いいよね」って思っている若い人たちがいて、当時を遡って聴いてみようと思って来店している。そういった方々と『ニッポンの編曲家』の読者は繋がっているのではないでしょうか。当時は僕みたいにマニアックな聴き方をしている人ってほとんどいなかったでしょうから、掘り下げがいがある時代だったとも思います。
——当時の、例えば、アイドル音楽っていうのは、そこまでの価値がないと思っていた方がたくさんいたわけじゃないですか。
梶田:制作現場の空気感としてはあるように感じましたね。
——それが、きちんとしたデータが残っていなかったり、そういう人たちが意外に大切にされていないみたいな原因ですよね。
梶田:当時、問い合わせをして思ったのは、明らかに「ニューミュージックとアイドル歌謡曲は違う」という捉えかたをされていて、一部のディレクターの方々には、「所詮、アイドル歌謡曲ですよ」って言われました。「ファンの人で、梶田さんみたいに、ミュージシャンのことに興味がある人はいないので、クレジットを載せていないんですよ」って言われたこともあって、「プレイヤーが好きで聴いている人もいるわけで、そういうことじゃないでしょう!」って思いましたね。
——その感覚はミュージシャン側にもあったわけですよね。
梶田:たぶんそうだと思います。しかも365日、1日4セッション、M-1などタイトルが決まっておらず、歌い手本人がいない状況でレコーディングをしていたら、まったくわからないですよね。
——作品を残しているっていう感覚が、ミュージシャン本人にもなかったときに、そこに光を当てた梶田さんってすごいですね。
梶田:未だにクレジットがされていないのが、演歌の参加ミュージシャンとストリングスのメンバーですね。特にストリングスは、○○ストリングスという形でグループ表記がほとんどです。皆さん、素晴らしい人たちばかり。この場を借りて、各レーベルの担当ディレクターの皆様にクレジット表記をお願いしたいです。プレイヤーの方の知名度UPやモチベーションUPにも繋がり、業界の活性化にも繋がるのではないかと僕は思っています。
——そして、続く後進たちへの何かのきっかけにもなりますよね。
梶田:まさにそうです。例えば、プレイヤーの方に、最近の参加作品を聞いたときに、「何をやったかわかりません」って言われると、ファンとしてはとても残念で、悲しい気持ちになりますね。もっと自分のやった仕事をアピールして頂きたいですね。
——書籍『Musicman』にある個人の情報ページでも、色々書いてアピールしてきている人もいれば、「僕はいいです」っていう人もいるんですよ。だから、ミュージシャンなり何なり、人それぞれの性質だとか、アピールを好まないのか、あるいは「お前これもやっていたのか」って言われるのがイヤとか、色々な事情もあるような気もします。
梶田:それは間違ってないとは思いますが、音楽業界の中では正論であっても、一般の音楽を聴いている人達にとっては、それって違うんじゃないかって思うんです。これから自身の活動を活性化していったり、知名度をあげていくという意味では、音楽業界以外の方に知っていただくことも、僕は大切だと思うんですよね。それをやっている方と、やっていない方というのは、やっぱり知名度などの点で差が出てしまうんじゃないかと思いますね。
——皆さん実力のある方々ばかりだからもっとアピールしていくべきだと。
梶田:ええ。日本って、いろいろなところとの向き合いや業界内のしきたりだったり、それはテレビの世界もまったく同じですけど、ありますよね。でもスタジオ・ミュージシャンは、業界の中で、演奏家としてトップクラスの方ばかりですし、一般の方にもっと知られるべき存在であるということを皆さんに感じてほしいですね。
——最後になりますが、梶田さんが今後やりたいことは何ですか?
梶田:『ニッポンの編曲家』で全てのアレンジャー、プレイヤーの方をフォローできたわけじゃないんですね。今回、泣く泣く掲載を見送った方も多くいますし、そういう意味ではこれは始まりであって終わりでないと思うんです。パズルで言うと一つのピースでしかないかもしれないけども、まずは、それを残すことが大切だと。
音楽業界の皆さんは、スタジオ・ミュージシャンの凄さを分かっていますが、一般の音楽好きの人でも、その事をよく分かっていないと思うんです。僕は幸いなことに当時の現場でリアルタイムで体感出来て、身体に刻み込まれた。それを伝える義務があるんじゃないかと思っています。当時のディレクターは、ご自身が手がけたアーティストのことはわかるんですが、俯瞰でみたときに、プレイヤーがどういう動きをして、誰のレコーディングに参加していたのかまで語るのは難しいと思うんですよね。
——確かにそうですね。
梶田:そこを僕は俯瞰で見ていて、アイドル全盛期の作品は全部聴いていましたから、そういう点でも、自分に役に立てる事があれば、どんどんやっていきたいですね。
『ニッポンの編曲家 歌謡曲/ニューミュージック時代を支えたアレンジャーたち』
著者:川瀬泰雄+吉田格+梶田昌史+田渕浩久
2016年3月発売
A5 / 336ページ / 並製
2,484円(税込)
DU BOOKS / 9784907583798 / JPN
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