第2回 稲垣 博司 氏
株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役会長
早くも話題沸騰のリレートーク企画“Musicman’sリレー”第1回ご登場のポリドール株式会社 折田 氏のご指名によりお待ちかねの第2回目は株式会社ワーナー・ミュージック・ジャパン代表取締役会長 稲垣博司氏にご登場頂きます。
渡辺プロ〜ソニー・ミュージック〜ワーナーと日本の音楽業界の正にど真ん中を生き抜いて来られ、また山口百恵のスーパースター化を皮切りにSD事業部の立ち上げ等、数々の手腕でCBSソニーを短期間のうちにナンバーワンに導かれた氏からどんなお話が飛び出すのか?青山のワーナー・ミュージックの会長応接室で予定をオーバーしての約1時間半のインタビューは氏の活力に満ちた若々しいイメージそのままに、大変フレンドリーかつジェントルな雰囲気の中で行われました。
プロフィール
稲垣博司(Hiroshi INAGAKI)
(株)ワーナーミュージック・ジャパン
(株)イーストウエスト・ジャパン
代表取締役会長
生年月日:1941年12月12日。出身地:三重県。1964年3月 早稲田大学第一文学部 卒業。1964年4月 (株)渡辺プロダクション入社。1969年12月 (株)渡辺プロダクション退社。1970年1月 CBS・ソニーレコード(株)入社。※CBS・ソニーレコード(株)は、その後(株)CBS・ソニー→(株)CBS・ソニーグループ→(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントと社名変更。以降、企画制作2部、販売促進部部長、SD事業部部長、企画制作5部部長等を歴任。1988年3月 取締役。1989年1月 常務取締役。1990年6月 専務取締役。1992年1月 代表取締役副社長。1996年6月 取締役(新会社設立のため代表取締役を退任)。1996年7月 (株)SME・アクセル設立、代表取締役社長に就任。※(株)SME・アクセルは(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントの100%出資会社。この間(株)ソニー・マガジンズ社長、(株)ダブル・オーレコード社長、JスカイB(株)取締役等、グループ関連会社の役員を兼任。1998年1月 ソニー・ミュージックグループ退社。1998年3月 (株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長並びに(株)イーストウエスト・ジャパン代表取締役会長に就任。
- 少年時代–魚捕りは極めた。技術的に(笑)
- 大学時代–硬派の寮生活、新聞社への入社失敗→ナベプロへ
- 渡辺プロダクション入社
- ナベプロからソニーへ–福寿司でごちそうになっちゃったから!?
- 尾崎豊の可能性
- ソニーからワーナーへ–もう一回初めて音楽そのものをやってみたかった…
- 趣味–数年前から始めたskiと登山。
- ワーナーは社員がクリエイティブイノベーターであらねばと。
1. 少年時代–魚捕りは極めた。技術的に(笑)
--さて、いきなり個人的な話をお伺いしてよろしいですか?まず稲垣さんの事を皆さんに紹介したいと思うのですが、少年時代とかどんな感じだったんでしょうか?ビジネス誌のインタビューじゃないんでなんか頭悪そうな質問なんですけれども(笑)
稲垣:頭の良い人いませんよこの業界。誰一人。みんな目くそ鼻くそ笑ってるだけで(笑) 僕は三重県の四日市ってところで生まれまして、…実家は自分で言うのもなんなんですけれども、代々続いてます旧家で。昔、庄屋をやっていたものですから、そういう意味で子供時代はね、親戚とか人間関係とか、まぁ経済的には恵まれていた方だと思いますね。
家の前には川がありまして、親父は猟が好きなんですよ。山行ってキジ鳩打ったりとかイノシシ打ったりとか、川で魚とったりとかしてました。男3人女2人の5人兄弟の4番目で、男3人の中で僕だけが親父のハンティングの血筋を相当色濃く引いていまして、子供の時は魚捕り一色ですね(笑) 音楽もなければ、勉強もなければ…
--自然児だった。
稲垣:そうですね。魚捕りと、それから空気銃でね。すごく性能の良い空気銃を親父が持ってて、昔ライフルになってる空気銃って少ないんですが、それ相当威力あるんですよ。弾丸同じでもキジ鳩でも落ちるんですよ。
--子供が撃っていいんですか?
稲垣:子供っていうか、中学生ぐらいからですけどね。それまでは魚捕り専門ですね。完璧に。魚捕るっていう点ではそれなりに極めたと思いますね。技術的に(笑)
--釣りってことですか?
稲垣:いや、主に潜って鮎をひっかけるっていう技術なんですよ、泳いでね。どじょう捕ったりウナギ捕ったりもしましたけど、川魚漁師っているんですよね。四万十川とか琵琶湖にもいるけど、ああいうのがうちの川にも来るんですよ、その連中と競争したりなんかやってたんですよ。高校時代にね。まぁそのまんま川魚漁師になるのもまずいっていうことで(笑) 、東京の大学へ。
親父も東京の大学出てるもんですから、兄弟も全員ね。結局は早稲田か慶應かどっちかなんです。まぁもちろん東大という選択肢もありますけど、そこは無理なんで。で、親父、兄貴、兄貴、僕と、いずれも早稲田か慶應かなんで僕も早稲田に来たというわけなんです。魚捕ってる割にはラッキーにもね文学部です。文学部第一志望だったんです。
小学校の時、先生が、「君作文上手だね。」って言うんで。物を書くことで生活したいと。音楽ではないんですよ。親は、三男坊なんで好きなことやりなさいと言ってて…。だから、文学部でもいいと。それで、本当は弁護士目指して法学部って選択肢もないことはなかったんだけど、それは何故か消えちゃってて文学部だけ受けて。
じゃあ新聞社入ろう、新聞記者になろうと思ってました。新聞記者で終わるつもりはなかったんですけど、最初は食ってくっていうのと書くっていうのがあって、それで新聞社受けたんだけど最後の最後で落っこっちゃって。
2. 大学時代–硬派の寮生活、新聞社への入社失敗→ナベプロへ
稲垣:大学時代は県人寮に居たんです。だから、世間を知らないわけですよ。通常早稲田の文学部っていうと相当世間を知ってるはずなんですよ。もう学校には行かないわ、色んな異性と交遊はするわ…、学生運動はするわ、ところが寮に居たおかげでそういうことしちゃいけないんですよ。部活はやっちゃいけないし、とにかく、寮生活をきっちりやれということで。
--寮生活ってどんな感じなんですか?
稲垣:門限はないんですけれども、女の子を夜6時以降居させちゃいけないとか。
--厳しいですね(笑)
稲垣:完全学生自治寮ですからね、今にして思えば、寮生活が僕に与えた影響って結構ありますね。ですから男女関係とか、音楽とかって…音楽と異性って結構色濃くつながってるじゃないですか?それから結構隔絶されたね。
--軟派のノリはなかったんですか?(笑)
稲垣:学生のダンスパーティーは盛んだったですけど、先輩が寮で女性の代わりになってダンスを教えてくれた。
--気持ち悪ー(笑) 寮入りは自分で選んだということなんですか?
稲垣:いや、選んではいないです。親がそこに入った方が安上がりでいいぞと。それと三男坊でちょっと甘やかされて育って来てるし、やっぱりそういう所入った方が良いんじゃないかって、ダブルメリットで。安いって言うのと団体生活を経験するっていうね。
--俗に言う硬派ですね?
稲垣:勉強しない硬派ってやつね(笑) しかも学校へはちゃんと行くっていうの。だから、身体で稼ぐっていう癖がその時につきました。わかります?身体で稼ぐっていう、会社員になってからも、会社を休まないっていう。だから、学校もサボらない。一週間の時間割を先輩に提出すると4年生が部屋を見回りにくるんですよ、4年生ヒマだから。サボって外行ってればいいんですけど、そこにいたら、「行け!」って。だから僕もそこでちょっとは厳しい世間を知ったんですけど。でも、物書きっていう割には恋の一つも知ってるわけじゃなし、バイトしたわけでもなし、あまりにも知らなすぎるから、新聞社受けたんだけど、落っこちゃって。10月でもう最後ですから、出版社とかテレビ局とか。そんなに多くないけど行けそうなところは他にもあったんですけれども。
--そういうところはお受けにならなかったんですか?
稲垣:僕は自信満々で(笑) 模擬テストとかあると大体大丈夫なんですよ。だから、学科は受かって最終のグループ・ディスカッションまで行って落っことされて。でも、まぁしょうがない…と思ってたら、学校の掲示板でナベプロの募集があったんで、ナベプロ行こうって、そうしたらドロドロのネタ仕込めるぞということで(笑) それが業界とか音楽とのある意味じゃ出会いですよ。大学の時、結構先輩とか音楽を好きな連中いましたから、レコードは聴いてましたけどね。こう電蓄もいっぱいあって、ライブラリーがあって…
--その頃早稲田から芸能プロダクションとかに行く方って他にもいらっしゃったんですか?
稲垣:あのね、ナベプロは結構いたんですよ、大体は第一希望落ちた連中。晋さん(ナベプロ創業者渡辺晋氏)も早稲田だし総務部長も早稲田なんですよ、晋さんの学生時代の友達で。だから、僕らの時も結構多かったんですよ。もちろんこう言っちゃ失礼なんだけど、第一希望ではないんですけれどね。だって新卒を募集してたプロダクションっていうのはナベプロだけだったから。それで入社試験受けた新卒は、全体では800人ぐらいいたんじゃないんですか?
--800人!?ナベプロの新卒の試験にですか?
稲垣:ナベプロって結構有名だったですから。当時芸能界のパワーはあそこが持ってたんですよ。ナベプロはね、出版もやるしドラマの制作もやるし、レコード会社も作ったわけですよ。
--ナベプロ・ゴールデン時代ですね?800人中何名くらい受かったんですか?
稲垣:15〜6人ぐらいですかね。
--相当狭き門ですよね。
稲垣:まぁ、そうですね。早稲田からは僕ともう一人。
3. 渡辺プロダクション入社
--ナベプロではどんな仕事をされていたんですか?
稲垣:マネージャーとテレビ番組制作ですね。ナベプロのユニット番組の。マネージャーとしてはね、中尾ミエとか園まりとかザ・ピーナッツとか田辺靖雄とかザ・ドリフターズとか。あそこはずっとやらさないんですよ。
--回すんですか?
稲垣:まさに担当ということで。マネージャーといっても担当ってことで、サラリーマン・マネージャー。それから、ナベプロのユニット番組、「シャボン玉ホリデー」とか「ザ・ヒットパレード」とか、「ホイホイミュージックスクール」とか。僕は「ザ・ヒットパレード」と「シャボン玉ホリデー」の担当、二足の草鞋。番組担当は面白かったですよ。「シャボン玉ホリデー」担当の時には洋楽曲のカバーをやってました、新しい曲や古い曲の。「ザ・ヒットパレード」も洋楽ですから、その時に学生時代あまり知らなかった洋楽の知識が身に付きました。知らないとまずいから、一生懸命曲を聴き勉強しましたよ。
--じゃあ本当にナベプロに入ってから、はじめて音楽と…
稲垣:全くそうです。それまでは魚捕りと寮生活ですね。先輩は音楽好きな人でしたけど、家族では音楽好きな人はいなかったですから。通常の歌謡曲とかその程度でね。でもジャズが好きとか、クラシックが好きとかそういうのはいなかったんです。
--じゃあ、さほど音楽的にアカデミックな環境で育ったわけではないと。
そ稲垣:うです。ただね、だんだん音楽って好きになってきましたね。比較は出来ないけど今が一番、ワーナーに入ってからが一番音楽好きになったかもしれない。ここは音楽だけしかやってないから。ナベプロは音楽もやってればテレビタレントもやってるし、いろいろやってるわけですよ。ソニーミュージック入った当時は音楽だけだったけど、ソニーミュージックグループとなると、出版もやった、色々兼務もやって来てる、それから段々単なるビジネス、経営者っていう方向になったし。ここへ来て初めて音楽だけになった、だから、結構レコード店とか行くようになったし、試聴盤も聴くようになって、音楽がすごく好きになった。
最近、言葉と音楽の違いをすごく意識するようになりましたね。誰かがね、音楽雑誌の編集者はバンドやるべきだみたいなことを言ってましたね。言葉っていうのは知的レベルがある程度ないとだめでしょ。言葉を知らなきゃいけないんだから。それでもっと言えば文字。言葉を知らない人はいないけど、文字は出来ない人はいますよね、それから我々は外国語がわからない。文字が書けない人がアフリカとかにはいるかもしれない。だから活字っていうのは音楽に比べたら理解するのに関門があるんですよ。でも音楽っていうのはなんにも知らなくたって楽しめる。なんて原始的なもんなんだろう、その分奥が深いんだろうって僕は思う。それでね、これはちょっと語弊があるんですけど、制作やってて音楽の本を書き始めた人って必ずヒットが出なくなってくるんですよ。それと活字に詳しい人が音楽のプロデュースとかやると以外とだめなんですよ。だから、活字と音っていうのは似たようでいてすごく違うなと思う。
--理屈じゃないと。
稲垣:ソニーマガジンズの社長兼務やってた時に、まずそのこと考え始めたんですよ。ソニーマガジンズっていうのは大きくないですけど、すごく年齢幅広いんですよ。音楽ってなんて狭いんだろうと思った、活字の世界に比べてね。クラシックとか演歌とかジャズとか、少数派は若干いますけど、ほとんどは14〜5歳から24〜5歳にぐわーんと購買層が固まるでしょ。活字は全然違いますからね。5〜6歳から80歳ぐらいまでばーんとカバーしてるから。やっぱり音楽はいわゆるアカデミック風じゃ絶対まずいと。
--身体で感じる?
稲垣:身体っていうか直感的にね。とにかく能書きがいろいろ出てきたらダメだなっていう。活字の世界は以外と能書きが出た方がいいわけですよ。僕は、人前で出来るほどの楽器の腕もないから、どちらかと言えば音楽っていうのを聴く方からだけ入ってますからね。楽器出来る人と出来ない人では根本的に違うんだっていうことを伊藤八十八(現SME録音グループ本部長 伊藤八十八氏)から聞いたことあるんですよ。やっぱりそうなんだろうなって思って、音楽に対する聴き方、接し方が。ギターのコード押さえられる程度じゃ楽器出来るって言わないんですけど、もっとちゃんと出来る人との違いは確実にあると。
--違うでしょうね。絶対音感がある人とない人でもまた違うって言いますよね(笑)
稲垣:それからオンステージ/バックステージも全然違う。バックステージでも人前で聴かせる楽器が出来るか出来ないかですごく違う。なんかその違いっていうのを認識したいなって思うんですよね。
--極める派ですか?
稲垣:極めるって訳でもないですけどね。引き出しはやっぱり大引き出しに入れとくっていうんではなくて、セグメンテーションですからね。十人十色っていうか百人百色ですから、やっぱり趣味の世界っていうのは本当に細分化してるから、大雑把にこれいいだろっていうんじゃないってことですよ。音楽は文字知らなくったって、言葉知らなくったって良い悪いは判断出来るんだから。同じ伝えるものですけれどもね、人の感情を。文字も言葉も音楽もね。
--子供でも判断しますしね(笑) 原始的なものですよね。
稲垣:2歳児だって、テレビ見れば踊り出す。本当にね音楽っていうのは自然音の模倣から始まった。まず、歌から。歌も自然の音の模倣ですよ、波の音を真似して歌い始めたってね、そりゃあハワイアンみたいにありますよね。もうちょっと自然音に合う楽器をやり始めたり、風の音で木が揺らぐチャッチャッってのがマラカスだったり、その通りですよね。文字も象形文字で自然から来ていてプロセスが相当あるけど、音楽はアコースティックから電気楽器へって、たったそれだけだから。
すごくプリミティブなんですよ。僕ソニー入ってからは主にマーケティングでやってきましたけど、やっぱりどれだけプロモーターが巧言令色言ったって、聴けば一発でわかりますからね(笑) 良いか悪いかは人に言われなくたってね…。でも何回もテレビスポットで反復されちゃうとね、つい買っちゃうみたいな。根負けしてって言うと言い方悪いけど(笑)
--じゃあ、ソニー時代っていうのは制作よりはマーケティングの方で?
稲垣:マーケティングですね。マーケティングと新人開発ですね。SDってのはね。
--SD立ち上げられたのは稲垣さんの大きな業績の一つと言われてますが…?
稲垣:それはやや大げさですけど、僕のライフワークだったでしょうね。あれでいろいろ効果的な発展が出来たし、プロダクションともうまくやれたし、権利も押さえられたし、高利益体質をソニーにもたらす事が出来たと思います。やはり発掘者が一番全ての権利を押さえられるわけですからね。
--それまでなかったのが不思議でもありますけど、日本の音楽業界の中で最初の…
稲垣:いやいや、大いにあったんですよ。
--あったんですか?
稲垣:昔ね、コロムビアとかビクターはやってたんですよ、ミス・コロムビアとか。それを専属作家時代にやってて、専属作家がダメになって外部のフリーの作曲家が活躍し始めた時に、なぜかやめちゃったんですよ。
--そう言えばそうですね。
稲垣:あのね、初めてやることって、ほとんど、世の中にないんじゃないですか?
--だいたい先人がやっていたと。
稲垣:その人が、目立って言ってないだけなんですよ。大々的にやったどこかがうちが、初めてやったって宣言してるだけで、大体そうだと思いますね。
--最初にやった本人が気がついてないだけで、自然にやってる。
稲垣:それか、密かにあれ本当は俺がやったんだよって家族とか周囲の人に言ってるだけで、あんまり自己顕示欲がないとか。世の中全員が自己顕示欲強い人ばかりじゃないですからね、強くない人もいますからね。自分のやったことを後から人がやったやったって言ってもあんまり気にしないような人っているんですよね。少ないですけどね。人がやったことを後から自分がやったやったって言う人の方が断然多いですからね(笑)
4. ナベプロからソニーへ–福寿司でごちそうになっちゃったから!?
--話が前後しますが、ナベプロからソニーに移られた理由は?
稲垣:ソニーが本格的にスタートしたのは68年なんですよね、僕は70年の1月に入ったんです。本当は69年の1月に入る予定だったんですけども。一人新人を手がけてたもんですから、中途半端でやめるわけにいかなかったので。
当時は、ソニーが本格的に邦楽をやるのに宣伝のプロがいない、業界知ってる人間がいないということで69年に誘わました。制作は雨森、酒井(酒井政利氏)、中曽根。雨森、酒井はコロムビアから、中曽根は朝日ソノラマから、でも宣伝は誰もいないってことで、ある程度業界知ってる人間が欲しいと。それで僕は業界5年選手だったから強く誘われた訳ですね、それでも迷ったんですけどね。やっぱりレコード会社っていうのは学生時代からガンガン、バンドやってたような人間が行くべきじゃないかなって。
ナベプロより範囲が狭いってみたわけですよね、レコード会社を。ナベプロの方が会社は小さいけどカバーするところがすごく広いと。大きくエンターテイメントですからね。歌手もいれば、テレビタレントもいれば、映画スターもいれば、テレビ制作もあれば、映画製作も出来るし、コマーシャル制作も出来るし、っていう。だから、迷ったんです。もう一回就職をしようかなとも思ってたんですよ。
--就職?
稲垣:就職っていうのは普通の会社に。文学部でも、ややマーケティングっていうのにうっすらと興味はあったんですよ。僕のすぐ上の兄貴が早稲田の商学部の大学院に行ってたもんですから、面白いからお前も行かないかって言われて…。文学部だけじゃまずいから、商学部の大学院に行こうかなと思って、いや学生になるつもりは毛頭ないですよ、一応普通の会社を受けられる勉強をしようと思っただけで。それをやろうかすごく迷って…だけど福寿司で2〜3回ご馳走になっちゃったしねー(笑) 当時の福寿司って大変なもんですからね。
--西麻布の?
稲垣:だから、まったくそういう意味じゃ一宿一飯の恩義もありましてソニーミュージックへ入ったんですよ。それでソニーミュージックで、宣伝の仕事、それから制作の仕事、新人開発のSDの仕事。それからマネージメントの仕事、経営の仕事ですね。それとソニーマガジンズの兼務とか色々なこと、グローバルライツで著作権の会社の兼務とか本当にいろいろやってましたよね。ソニーミュージックコミュニケーションの役員とかも。
--後でお聞きしようと思ってたとこなんですけど、兼任兼任でものすごくいっぱいやってらっしゃったでしょ。そういうのをこなすための秘訣とかってあるんでしょうか?
稲垣:それはね、こなせていなかったっていう事だったんですね(笑) 僕は結構ね、小器用なところあるんですよ、だからね、浅くやるのは得意だったんですけど、それは本質を捉えていないっていう。何だって深くやらないとだめですよね。だから、表面上はそこそこ平然とやってたんで、やれないことはないですけども、浅いってことですよね。
それとまぁ音楽の方はね、やっぱり若ければ若いほど良いっていう風潮になってきますから、あんまり音楽の方に口出す時間がないじゃないですか。それも良いことだっていう風に自分でも思ってましたけどね。
--さて、次回は尾崎豊などソニー時代のアーティストの想い出話他、またまた貴重なお話がどんどん飛び出してきます。乞う御期待!!
5. 尾崎豊の可能性
--ソニー時代の印象に残るアーティストというと?
稲垣:ナベプロでマネージャーやってた時の反動で、アーティストとはあんまり近づかないようにしてたんですよ。アーティストってのは浮き沈みがあると。だから親しくなるとレコード売れなくなった時にこう(首切りの仕草)やんなきゃいけない企業のエゴってのをね、僕も味わいたくないし、相手にも味あわせたくないから。浮き沈みがあるものだからあんまり親しくならないようにしてた。SD出身のアーティストですらそんなに…。そんな中でも松田聖子とか、尾崎豊とか、この辺は結構親しくしましたけど。友達ぽかったのは南佳孝とか下田逸郎、それからカールスモーキー石井ですね。この辺は結構友達ぽかったですね。
でも一番深く関わったのは尾崎豊ですかね。現場のディレクターは須藤だったんですけど、彼が病気で一年半ぐらい休みましたからね。その間ずっと僕の方で担当しましたからね。
--稲垣さんにとっての彼の死っていうのは?
稲垣:ソニー時代にね、会社出来て10年で、売り上げも利益もナンバーワンの会社になったわけですよ。でも勲章もらってないって大賀さん(元SME会長/現ソニー株式会社会長大賀典雄氏)の言葉で。レコ大をジュディ・オングですごく頑張って、勲章も貰ったと。それで今度は自前のアーティスト取ってないと、メーカーがスカウトしなきゃいけないってことになって。それはナベプロでね、スカウトのシステム知ってたんですよ。それでソニーでも初めてじゃないんですけどオーディションっていうのをやり始めて、それで上手くいってずっと来たんです。
しかしながら、売り上げ、利益はナンバーワンになっても、いわゆる時代を超えるような日本の若者音楽のシンボル的な歌手がなんとしても出来ないわけですよ、ソニーは。それは何かって言うと、例えばユーミンとかサザンみたいのが出来ない。僕は個人的にはユーミンとかサザンっていうのは本当に時代を超えてる、大変な才能兼努力家で、尊敬しまくってるんですよ。要するに、尊敬できるアーティストがなぜソニーに出来ないんだろうと。ソニーに29年間いましたけど、後半の6〜7年間ずーっとそれを誰かで作らなきゃ作らなきゃっていう焦りで、尾崎かな?と思ったんですよ。彼が死ぬ3ヶ月ぐらい前に。ああこいつだったら僕が考えている仕組みに乗せてユーミン、サザンに次ぐ存在に出来るなって思ったんですよ。やってみようか?やりますって話になって…。
--死ぬ3ヶ月前ですか?
稲垣:2ヶ月前かな?
--その頃すでに充分大きな存在だったはずですけど。
稲垣:いや、大したことはないんですよ、そんなに。美空ひばりの「川の流れのように」ですよ。死んでから大ヒット。尾崎も死んでからなんですよ。売り上げは。ただね、彼の持ってる才能と、努力しようとするアンビシャスですか?そういうところがいけるかなって感じで。
--じゃあ稲垣さんにとっては何とも悔しいタイミング
稲垣:それはもう残念ですよね…。本人の才能と、生き様と。せっかくね、ソニーミュージックがね、売り上げ・利益・勲章。そして最後に、業界を代表するアーティストが欲しい、それを作り損ねた。僕は本当に思うんだけどね、なんでね宇多田ヒカルがまたもや東芝なのかって(笑) 不思議なもんだなーって。あれは偶然じゃなくて、東芝EMIは人が変わってもなんか風土があるんだと思うんですよ。ああいう大物が生まれる…。
--アメリカでcubicUだった時に2000枚だったらしいですけどね。
稲垣:あーあれの時はね。結局ソニーなんかは3つの部門で断ってるらしいんですよ。コピーライトの一部はソニーのどっかが持ってるらしいですけどね。
--面白いですよね。他でも結構断られてたみたいですね。運もあるんですかね?
稲垣:宇多田の衝撃はそんなに簡単に消えないでしょ。あの娘が努力していけば、ユーミンみたいにね、それこそ時代の第一線を20年ぐらい走れるっていう…。そういう存在になるんじゃないですか。
--ユーミン、サザン、そのレベルの尊敬すべきアーティストとお考えになっているのは他にもいらっしゃるんですか?
稲垣:他にはちょっといないですね。マスセールスでクオリティーとセールスとが大ダイナミックだっていう点ではあの二人ですよね。和田アキ子さんとかね、ワーナーだからいうわけじゃないですけど、山下達郎っていうのも大したもんだと思いますけど。あと大滝詠一もすごいんだけど、寡作ですからね。やっぱり商業ベースでどうしても見ますから。
--毎年アルバム一枚20数年続けて出せるっていう力はすごいですよね。
稲垣:それはやっぱりね、あの辺はもうちょっと、人間離れしてるっていうか、ミューズの神に近づいてると思いますよ。みんなそう思ってるんじゃないんですか。僕の年代…というか50から60代ぐらいの人間はユーミンとサザンには一目も二目も置いてるんじゃないんですか?才能とマスセールスっていうね、数字。
--もうかないませんからね。どっから見てもかなわない。
稲垣:今度は宇多田ヒカルがね。B’zもその可能性あるけれども、ベストを早めに決めすぎてるかなっていう。でも、やっぱり歌は死ぬほど上手いですよね。あれほどロックで上手いっていうのはいなかったですよね、日本ではね。
--色っぽいですよね、歌が。モテるんだろうなっていう感じがしますもんね。
稲垣:いや、彼はストイックなんじゃないんですか。そこが良いんじゃないんですか?モテてそれを外に出してると、色気出ないんじゃないんですか?ぐっとこの…一穴主義なんだと思いますよ(笑)
6. ソニーからワーナーへ–もう一回初めて音楽そのものをやってみたかった…
--話を少し戻しまして、ソニーからワーナーへ来るときの心情っていうのは?
稲垣:こっちに来るときにはね、まぁ結局向こうではもうレコード部門にいるときから世代交代で若手に権限委譲してたわけですよね、それでいくつかね会社の2つか3つの会長職で行くかなとも思ったんですよ年齢的に。そうすれば僕が最高位の時の待遇を受けるわけですよ、会長職をやって。本体の会長じゃなくてね、それは関連会社のなんだけど、まぁ色々ありますでしょ、相談役・顧問…。でも、まぁもう一回ちょっとやってみたいなって思ってね…初めて音楽そのものを。
--そういうタイミングで話がいったんですか?
稲垣:いや、話はね前からあったんですよ。他からもソニーミュージックの専従を離れた時から話はあって、ずーっと迷ってたことは迷ってたんですよ。どこにしようかなと。
--ソニー残っとけば安泰ですよね。
稲垣:ただね、その時にすぐ他に行こうと思ったんですけどね。やっぱりねそれはちょっと事件になっちゃうから、やめてほしいっていうんで、それもそうだなって。そういう風な攻撃的な意味で辞めるわけじゃなかったんで、自分の部下の処遇ってことも残ってましたんで、じゃあ二年は残ってくれと、それで二年経ったから来たってことですよ。その間に色んな話を頂いてどこにしようかなって迷ったり。SMEアクセルっていう投資会社で、衛星のCSの関係をいろいろやったりとか、まぁそれなりに面白いと言えば面白かったですね。金の使い方、どう投資していくのかっていう。でもそういう純然たる投資のビジネスっていうんですか?それは自分には無理だなって思いましたね。なんで文学部出身がこんなことしなきゃいけないんだっていうね。
--それでもやっぱり充分に衝撃でした。当時二年待たれたといわれても、業界としては。
稲垣:だからあれですよね、頑張らなきゃって思ってますよね、衝撃倒れってありますからね(笑)
--オリコンの年頭あいさつ読ませて頂いたら、相当今年アツいですよね、稲垣さんの…
稲垣:アツくないとまずいですよね。
--あの中で一番面白かったんですから(笑)
稲垣:面白くしてはいるんですよ。ああいうのってそんな読まないに決まってますから、僕だってね、読むの同業者二人か三人ぐらいだけですよ。
だって、顔見れば決まりきってる。この人こういうこと言うだろうなって、その通りだもん。そんなの見ても…(笑) だから、寺ちゃん(マーキュリー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長 寺林晁氏)とかね、ああいうのちょっと読んだりするね。飯田チャコちゃん(テイチクエンタテインメント代表取締役社長 飯田久彦氏)とかね、新鮮なところでね(笑)
--でも、一番アツかったのは稲垣さんでしたよね。反省しないっていうのが結構すごいですね。
稲垣:反省してたらだめだと思いますよ。
7. 趣味–数年前から始めたskiと登山。
--意地悪な質問しちゃうと、これまでに反省はあったんですか?
稲垣:反省の毎日ですよ、もう。いや、だからね、最初の反省は、就職に失敗したことですよ、はっきり言って、それは反省しました(笑) それまでは全く挫折なしで、高校も第一希望で、大学の学部も第一希望できてましたからね。魚も極めて、魚も川から海に変わりましたからね、海で潜りをずっとやってましたからね。
--続けてらっしゃったんですか?
稲垣:川から海に変わりました。海で潜って魚を突いてました。海ではMTMプロダクションの藤岡君(旧アンクル・エフ代表取締役会長 藤岡隆氏)ってのに負けちゃいましたけどね(笑) 僕より上手がいましたけどね。ただ川だったら僕は負けないと思いますけどね。
--今でもやってらっしゃるんですか?
稲垣:時々やってますよ、素潜りはね。前はスキューバーをやってましたからね。今は山ですよ、山。山登りとスキーですよ。3〜4年前から。
--スキー?
稲垣:家族と一緒にやりはじめたんですよ、年に2回ぐらい。まだ始めて4年目なんで、去年やっと蔵王行ったんです。今年は志賀か八方尾根か北海道行こうと思ってるんですけども、それぞれ良い所だって言いますけど。中級クラスの腕で上級コースを滑ってるんですよ、強引に。すごく迷惑かけちゃうんですよ、崖にかじりついてるから。
--負けず嫌いなんですか?スポーツとか?
稲垣:そういうことのみね。勉強とかそういうのはまるで負け好きなんですけどね(笑) 海と山。…ゴルフは全く負けず嫌いじゃないんですよ、まるでない。
--山登りもされてるわけですか?スキーだけじゃなくて。
稲垣:始めました。年に一回なんですけどね、3000メートル級の山に。去年2回行きましたよ、ワーナーの社員も連れてって、ちょっと低い山に。
--最近なわけですか?
稲垣:えぇ、スキーも4年前、山登りも3年前ですね。
--遅いデビューですね(笑)
稲垣:そうですね、ゴルフは年間40回ぐらいやってますけど、会社勤め辞めたらゴルフは辞めると思うんですよ、言いますもん、ゴルフやってるとポストにしがみつくって。その理由はゴルフ仲間を確保するためには会社勤めしてないと出来ないっていうんですよ、ある程度の権力を持っていないと(笑) それじゃあねぇー、だったら一人でやれるスキーとか山登りとか素潜りとかの方がいいですもんね。
8. ワーナーは社員がクリエイティブイノベーターであらねばと。
--さっきワーナーに来てから、今が一番音楽が好きかもしれないっておっしゃっいましたけど、ワーナーミュージックが稲垣さんになられてから、ヒップホップ系とかそういった若者の音楽に力が入ってるような印象を受けるんですけども。
稲垣:あれは近藤君(ワーナー・シニア・エグゼクティブ・バイスプレジデント 近藤雅信氏)が前から手がけたものが少しずつ花開き始めたってことですよね。それこそsomething new,something differentじゃなきゃいけないと思うんですよね。確かに技術革新で業界大きくなってるんですよ、モノラルからステレオとか、オープンリールからコンパクトカセットとか、EPからLPとかビニール盤からCDとかの変化でね。
でも中身としては60年代のロックから、世界の音楽産業って、「産業」って言われるぐらいになってきたんですよ、単なるレコード会社が。まぁ例えばアメリカのヒップホップでね、エレクトラなんかすごく大きくなってるんですよ。日本でいうとエイベックスなんかがね、まさにダンス音楽で大きくなった。やっぱり、中身を何をやるかっていうことなんですよね。そこは色んな技術的なこととか仕組みの変え方ねプロデューサー使うとか使わないとかそういうことでもいいんですけど。どういう音楽をやるかっていうね。
--そこがやっぱりポイントであると?
稲垣:会社がやっぱりリーダーシップをね、もしくは刺激を与えなきゃいけないと。会社の人間が外部プロデューサーに対してね。
--クリエイティヴ・イノベーターであらねばならないと?
稲垣:そうですね、これも結構忘れてるんですよ、クリエイティヴ・イノベーター。外部のプロデューサーにお任せでね、それでも大きい会社はそれで良いと思うんですよ、ソニーとかビクターとか東芝。ワーナーみたいな中堅の会社は社員がクリエイティヴ・イノベーターじゃないと消されちゃいますよ。資金力、それから組織力共にでかいところから劣ってるわけだから、社員がそういうことやってないとスケール競争になったら負けちゃいますよ。プロデューサー時代っていうのはスケール競争ですもん。
--吉田さん(株式会社イーストウエスト・ジャパン代表取締役プレジデント 吉田晴彦氏/キューンからワーナーへ)もそういう意味合いで…
稲垣:全くそうですね。彼は去年なんでもありで、今年ぐっと絞り込んで、って事になると思うんですけどね。
--やっぱり、若い人に向ける音楽が一番?
稲垣:ただ、成果はちょっと違うかたちで出てますが、坂本龍一と山下達郎とクラプトンでね。クオリティー・ミュージックになってる(笑) でもシュガーソウルとか小柳ゆきとか若者が出てきたから嬉しいんですけどね。僕ね、洋楽の編成会議に出てね、昔のワーナーの洋楽もそうだったけど、今もすごく良い音楽をワーナー、エレクトラ、アトランティックは提供してるなっていうことがあって、より音楽を好きになった部分もあるんですよね。これをなんとかもっと大きく売らなきゃいけないだろうって。そりゃあ色んな構造があるんですよ、今変えてるんですけどね。ヘッドカウンターの部分で頭数が少なすぎるとか、邦楽の赤字を洋楽で補填しなきゃいけないから宣伝比率が低いとか。だから邦楽が上手くいけば洋楽は明らかにもっと伸びますよ。
--その辺で稲垣さんがワーナーに移られた意味は特別に大きいような気がしますね(笑)
稲垣:洋楽で儲けなきゃいけないっていう宿命がありすぎるんですよ。洋楽はトントンでいいやと、邦楽で儲けりゃって、いうそういう図式に持っていけば、かぁーっと上昇しますよ。今ね、洋楽の利益で邦楽の赤字を補填っていうんだよね。本当に洋楽をプロフィッタブルにしなきゃいけないから、経費を切り詰めるだけ切り詰めてるって形だから、これはもうね、本当に残念でね、モノが成果をあげられないまま停滞してますよね。
--今、業界で着眼してる事とか、呼びかけたいこととか何かありますかね?
稲垣:やっぱり、うちがやった洋楽200タイトルの旧譜セールスキャンペーンとか、あれは思いのほか、うちが先鞭を付けたかなって自負もあるんですよ。
--本当にあれは大成功しましたね。
稲垣:そうですね、やり方はあるっていうか、あれで旧譜対策もっとやっていきたいって気持ちになりましたよ。それからやっぱり、男のソロがうまくいってないじゃないですか?男って言えばバンドか、プロジェクト、それかグループ。ソロは女性しかいない。男性でね山崎まさよしさん、スガシカオが頑張ってるけど、もっと男のソロが頑張って欲しいね。どんな音楽にしろ出て来て欲しいですよね。
--もっとマス・セールスの?
稲垣:でもまぁ須藤(元ソニーレコード尾崎豊担当 須藤晃氏)がね、当てるとしたら僕しかありませんって言うんで、そうだろうなとは言ってるんですけどね。
--彼は今はフリーなんですか?
稲垣:フリーです。もう完璧フリーになったんです。これまで3年間はソニーのひも付きだったですけどね、今はうちでJEHOと鈴木崇、それと東芝でもやり始めたんですよ。
--やっぱり、稲垣さんの須藤さんに対する評価は高いんですね。
稲垣:ただ彼がね、本を書くようになったんで、ちょっと良くないなとは思うんですけど(笑)、もう一花あるはずなんですよ、もう一花。自分もそう思うし、ベテランはもう一花あるってみんな思いたいんですよ、スタッフもアーティストも。それに賭けたいって。でも、一花しかないですよ、ふた花はないと思いますけどね(笑)
--配信の事とかはどうでしょう?
稲垣:それはもう、配信については、ちゃんとやるべき事をやっていくってことです。リリース規模は大きくないから、オートマティックにやってくってこと、そんなブレークスルーを起こすような結果は残念ながらあり得ないっていう、それははっきりしてますけど、ビジネス的にはね。
--まぁ、今年中にはワーナーも…
稲垣:えぇ、やることになると思います。大体3月ぐらいが目途でね。
--では、最後に次の方のご指名と、何か伝言をお願いします。
稲垣:うーん、それじゃavexの依田さんにいきましょう。音楽業界開闢以来のリッチマンになられたそのへんのところを中心に話を聞いて下さいよ(笑) だけどほんとに大変なものですよね。じゃ、次は音楽業界のビル・ゲイツ、依田巽氏。僕がそう言ってたってちゃんと伝えて下さいよ(笑)
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
--さて、次回はエイベックス株式会社代表取締役会長兼社長 依田巽氏のご登場です。ご期待下さい!!