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第3回 依田 巽 氏

インタビュー リレーインタビュー

依田 巽 氏
依田 巽 氏

エイベックス株式会社 代表取締役会長兼社長

リレーのバトンは株式会社ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役会長 稲垣 博司 氏からエイベックス株式会社 代表取締役会長兼社長 依田 巽氏へ引き渡されました。 88年に輸入レコードの卸売業からスタート、あれよあれよのうちに日本中をダンス・ミュージック旋風に巻き込み、創業からわずか12年で売上げ500億を超えるという前代未聞の快進撃を遂げたレコード会社エイベックス。その成功を率き、新しい経営スタイルを推し進めている依田 巽会長/社長がついにMusicman’sリレーに登場!昨年12月に株式の東証一部上場を果たした会社の頂点、依田会長。ワーナー稲垣氏からの伝言は「次は日本の音楽業界のビル・ゲイツ、依田さんに話を聞いてこい」–果たして我々如きがこの稀代のウルトラ・リーダーに話を聞けたりするのだろうか?とビビリながらも…。 

[2000年2月1日/エイベックス株式会社会長応接室にて]

プロフィール
依田 巽(Tatsumi YODA)
エイベックス(株) 代表取締役会長兼社長


生年月日 昭和15年5月27日。昭和38年3月 明治大学経営学部 卒業。昭和38年4月 長田電気工業株式会社 入社。 昭和43年12月 長田電気工業株式会社 退社。 昭和44年4月 山水電気株式会社 入社。 昭和50年4月 サンスイ・エレクトロニクス・コーポレーション(米国現地法人)へ移籍[ロスアンジェルス支店長・副社長]。昭和60年6月 山水電気株式会社へ再移籍[貿易部 第一部長]。昭和61年1月 山水電気株式会社 取締役就任[HE事業部海外営業部長・国際戦略室長・サンスイ・エレクトロニクス(米国)社長兼任・サンスイ・エレクトロニクス(独)社長兼任 ・サンスイ・エレクトロニクス(英国)取締役兼任]。昭和63年1月 山水電気株式会社取締役を任期満了をもって退任。昭和63年3月 株式会社トーマス・ヨダ・リミテッド代表取締役就任。昭和63年8月 エイベックス・ディー・ディー株式会社顧問就任。平成元年1月 エイベックス・ディー・ディー株式会社取締役就任。平成4年12月 エイベックス・ディー・ディー株式会社取締役会長就任。平成5年9月 エイベックス・ディー・ディー株式会社代表取締役会長就任。平成7年4月 エイベックス・ディー・ディー株式会社代表取締役社長を兼任。平成9年4月 (財)音楽産業・文化振興財団 理事就任。平成10年4月 (社)日本レコード協会 理事就任。平成11年10月 (社)日本レコード協会 副会長就任。平成11年10月 IFPI 理事就任。以上

 

  1. スターウォーズのヨーダ?
  2. 少年時代–夢は海外へ
  3. 就職する気はなかった?
  4. 企業家としての原点は小学校6年!
  5. 松浦氏との出会い
  6. ブランド戦略
  7. 自己実現こそ我々の存在意義
  8. ルーツの再確認—–やっぱり小学校の時から怪物?
  9. 社内長者は?
  10. 新会社に秘められた可能性

 

1. スターウォーズのヨーダ?

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--いきなり変な質問して恐縮なんですけど、資料見てましたら、依田さんがスターウォーズのヨーダのモデルになられたとかいう話がちらっと書いてありまして、それは本当なんですか?

依田:僕が直接聞いたんじゃないんだけど、1977年頃の話かな、僕がお付き合いしていたロスの大手ステレオ店のトップにガールフレンドがいて、彼女のいとこがスターウォーズ”THE EMPIRE STRIKES BACK”(帝国の逆襲)の製作陣に入っていたんです。それでそのいとこが「ヨダという名前のキャラクターをスターウォーズに是非入れたい」 ということを多くの人の前で言ってたっていうことがあったらしいですよ。その後完成してみたら、ヨーダという名前で、しかもそれが当時、比較的僕の顔に似てたってことなんですけど。それで依田はヨーダの原型だ、っていう風に当時電機業界では話題になっていたんです。僕はあんまり気にしてないんですけどね。

--それは山水電気時代の話ですよね。そういう風に、是非キャラクターに採用したいってことは依田さんのキャラクターは特別光ってたっていうか、ヒントにしたい逸材だったっていうことでしょうか?

依田:どうなんですかね。約25年前のことですけど、私はアメリカの電機業界では日本人としては目立つ存在だったということはあります(笑) 現地の流通業の人たちとはよく付き合っていて、だから彼女ともすごく親しくしてましたよね。それで、非常にフレンドリーな感じで僕のヨーダというキャラクターをうまく乗せてくれるように自分のいとこに頼むんだと言っていたようですけどね。

--すごく興味深いお話でした。さて本編に入りたいんですが、少年時代どこでどのように過ごされたんでしょうか?

 

2. 少年時代–夢は海外へ

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依田:祖先は長野県の佐久ですけどね。佐久市内じゃなくて、小諸に近い方、要するに中山道の宿場町だったところにずっといたんで、佐久地方の影響もかなり受けてますけど、私は長野市で生まれて小・中・高と長野で過ごしました。5人兄弟の3番目で、子供の頃は山歩きなんかよくしてました。昭和24〜25年ぐらいの話ですから、20円のキャラメル一つとおにぎり持って。今はもうオリンピックの会場になっちゃったけどね。週末は飯綱山とか戸隠山によく友達と行ったものです。とにかく春夏秋の山が好きでしたよね。

--少年時代の夢とか、当時考えていたことってどんな感じだったんでしょう?

依田:中学の頃、ペンパールっていってアメリカの人と文通してました。そういう意味では、海外に対する憧れもあったんでしょうね。だから海外ビジネスが長くなったのも、この頃から芽生えた潜在意識の表れかもしれません。信州の山の中にいると、海外へ夢を向けるのは僕にとっては自然の成りゆきだったんでしょうね。

--その時代で中学生で英語の文通してる子って、そうはいないですよね?

依田:あんまりいなかったでしょうね。航空便って、一枚のペラペラの紙に文章を書いてそのまま折ると封筒になるんです。当時40円ぐらいで送れたと思いますけどね。

--女性ですか?

依田:女性でしたよ。

--やっぱり!ところでクラシック音楽がご趣味だと?

依田:高校時代から好きになりました。昭和31年に私が高校1年、45年近い昔の話ですけど。レコードは戦前から実家に蓄音機があったりして身近にありましたが、それらは今でいう演歌でした。クラシックを好きになってからはいい音を聴こうと、よくコンサートにも行きました。巌本真理、諏訪根自子、安川加寿子といった新進気鋭のバイオリニストだとかピアニストが売れ出した頃に長野に来てましたから。それ以外にも流行歌っぽいものも聴いてましたよ。小学校5年の時に放送委員をやってたんですよ。全校に毎朝曲を流す担当で、「タンホイザー大行進曲」、「魔弾の射手」、「トルコマーチ」だとか、朝みんなを活性化するような、そういうレコードをかけて全校生徒に聞かせていました。

--今で言えばDJみたいなもんですね(笑)

依田:レコードをかけて、マイクで拾わせて、それが昭和26年ぐらいの話ですね。あと、小学校5〜6年生の時は運動会でPAを使っていろいろ曲を流したりもしてましたね。

--やっぱり山水電気と大いに関係ありますね(笑)

依田:まぁそうですね。

--大学時代の東京での生活はどんなものだったんでしょうか?

依田:出て来た当初は何でも情報が手に入りますし、田舎にいたときには話でしか聞いていなかったような建物とか人とか施設とか、そういうものを実際に目にすることが新鮮でした。例えば皇居二重橋とか、実際話には聞いていたけどって感じで。昭和34年4月10日の現在の天皇陛下の結婚の儀、あれはものすごい印象に残ってますよね、あれで自分は日本の中心、東京にいるんだってね。

 

3. 就職する気はなかった?

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--それで何を目指されたんでしょうか?

依田:大学を卒業した時から、僕は何か起業しようって思ってました。良い単位を取って成績を重視した就職活動をやるつもりはありませんでしたし、大きな会社に入って偉くなれるとはまったく思ってませんでしたから。

--いくつかアイデア持ってらしたんですか?

依田:アイデアはなかったんですけど、どこでもいいから面白い会社があれば入ればいいし、何でもいいから商売してみたいなっていう気持ちは強かったですね。自分はどっちかっていうと、変わってる方ですからね。世間一般の尺度で試験を受けたりするところに入って、良い子でいられる自信はなかったし…。

--だけど最初は長田電気へ就職されてるわけですよね。

依田:早稲田の教授が自分の下宿の一角に住んでおられて、僕をすごくかわいがってくれていたんですが、その教授の紹介で早稲田の大学院の理工科のゼミ卒生が経営している会社に行かないか?って言われたんです。そこに6年間いて海外ビジネスを全部マスターしたんですよ。

--じゃあ山水に入る前から海外事業部?

依田:卒論は一応、原価計算のゼミでしたから、原価計算の担当で入ったんですけど、入って7ヶ月目でちょっとしたきっかけがあって、輸出の担当にしてもらって。そこから丸5年英語も含め、みっちり勉強したんです。当時流行りの輸出の専門職ですよ、輸出業務。それからもうそろそろ独立しようかと思っている時にある縁で山水に入ったんです。

--依田さんは山水電気にしても出世が早いというか、お若い時、アメリカですぐに支店長とか副社長とかになられてますよね。アメリカの生活はいかがだったんでしょう?

依田:いや、ロスにいたんですけど、とにかく僕は仕事一筋でした。それから、日本の電機メーカーはほとんど全部アメリカに出てますけど、私のように日本人で現地従業員の先頭に立って営業やってたっていう人は大勢いませんでした。当時で言えば、東芝の西室さん、今は社長さんですけど、西室さんとはマーケット(流通業界)でよく顔を合わせましたね。ロスでは少ない存在でした。自分で現地のディーラーとの交渉とか、心臓英語を使ってやってたわけですけどね。

--その頃は単身赴任ですか?

依田:ワイフと一緒でしたけど、まあワイフの犠牲の上に成り立っていた仕事ですよね。とにかく仕事、仕事、仕事がすべてでしたから。

--全米を飛び回られていた?

折田:そうですね、楽しかったですけどね。

--若い時から起業を志されていたのはご両親とかそういう方の影響もあったんでしょうか?

依田:それはあんまり関係ないですね、実家は運送業の商売をしていて、サラリーマンの家庭じゃなかったですけど。昭和10年からトラックを持って長野と東京間で運送業をやっていました。道路も悪い時で大変でした。碓氷峠なんてりんごを積んでトラックでゆっくり走ってると、泥棒が荷台から持って行っちゃったりするんですよ、山賊みたいに(笑) それで助手一人が常にトラックの荷台に乗って、木炭をかき回す小手みたいなので追っ払っていたということでした。

--木炭車!?

依田:燃料は木炭ガスでしたから(笑) それでその棒を持って乗ってたみたいですよ(笑) 昭和23〜26年ぐらい。

--そういうご家庭でお育ちになって勤め人はつまらないと、何か自分でやってみたいと…。

依田:つまらないっていうんじゃなくて、「はまらない」と思いましたね。

 

4. 企業家としての原点は小学校6年!

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--ご両親以外で影響を受けた人物とか?

依田:影響を受けた人物はね、今でもお付き合いしてますけど、僕が小学校6年ぐらいの時に起業して、すごく成功した人がいましてね。隣に住んでいる人で両親がお互い知り合いで、その御子息とは今でも付き合ってますけど。

--そんな方を目の前で見られていた…。

依田:もうね、大変な人だったんですよ。昭和25年ぐらいの、ホンダのドリーム号とか弁慶号とかいった二輪車が発売された頃から、ホンダに乗って自分の会社に通勤してましたよね。かっこよかったですよ、スバルにもすぐ乗って。だから、その人が目標になったかもしれないですね。

--その方は何をおやりになって成功なさったんですか?

依田:石油ポンプです。石油タンクからストーブに入れるサイホンを利用したあのポンプを発明した人ですよ。今エムケー精工っていって株式を店頭公開してますよ。その人の影響は大きいと思います。今生きていれば90歳ぐらいになってる方なんですけど。

--さて、次回後編は、松浦氏との運命的な出会いから現在の成功まで、そして今後の展望など貴重なお話が盛り沢山。ご期待下さい!

 

5. 松浦氏との出会い

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--山水をお辞めになられて、コンサルタントの会社を開かれてその頃に松浦さん(専務)達と出会われたと思うんですが、何度も聞かれてると思うんですけれど(笑)、松浦さん達に会った時の第一印象っていうのは?

依田:まあ、私の当時の感覚からいったら異次元の世界に住んでいる若者でしたよ。風貌、容貌、立ち居振る舞い、やっぱり違ってましたよね。山水の役員をやってた時の目から見ると、これぞまさしく新人類なんだっていう…。

--そういう彼らの話を聞いて一番最初からピンと来るモノがあったわけなんですか?

依田:そうですね。一言二言しゃべる内容が非常に核心を突いていましたから、非常に興味がありましたね。

--当時松浦さん達は何人で会社を立ち上げていたんですか?

依田:設立時は7、8名でしたが、実質は5、6名でした。僕が’88年の3月に自分の会社を創って、エイベックスは4月11日なんですよね。その数ヶ月後に彼らに出会ったんですよ。最初に会ったのは7月だったと思うんですけど。CDとか12インチを東京の業者から買っては仲間のレンタルレコード店に流してたんですよね。でもこれじゃオリジナリティがないし、継続的にサプライがないってことではまずいと…。根っこのところで東京の業者とかその先のサプライを押さえようっていうことになって、彼らが一生懸命探そうとした時に私に出会い、私がルートを作ったんです。その前はWAVEだとかCISCOから買ってたんですが、そのまま流すのではなくライナーノーツを書いたりして…。CD屋さんから買ってきたってもうからないですからね。それで肝心要のサプライ元を押さえたんです。

--音楽業界自体は今までいらっしゃった業界とは違いますよね。そこでそういうサプライヤーをパパッと見つけたっていうのは?

依田:マーケットのニーズがあって、そのニーズに基づいて松浦君とか、若い人がこういうモノが欲しいと、こういうところにあるんだってことになれば、私のアメリカ時代からの人脈を活用して輸入する体制ができました。

--失礼ですけれども、当時48歳で山水電気の取締役までお務めになって、松浦さんが大学出てすぐぐらいで、常識的に考えると、そういう年代の若い人と組んで何か商売をするというのは非常にリスキーというか…。

依田:思い切ってスピンアウトしない人にはそういうチャンスがなかったかもしれませんね。リスキーと思うよりも何よりもそういうチャンスがなかった。だから大事なのは出会いですよね。

--出会いのその瞬間に確信がおありになったんですか?

依田:これはイケると思いましたね。私がそういう案件をアメリカの知人からも日本に依頼されてましたから、そっちの方にもニーズがあって、彼らもそういうものが欲しかったんです。

--じゃあ求めているものが一致したわけですね。最初は洋楽だけでスタートされて、僕らもすごい盛り上がりになってきたなと思っていたんですけれど、いつから邦楽やられるんだろうって外からは期待していました。TVCMの深夜帯への打ち込み方っていうのは洋楽だけの時代から始められましたっけ?

依田:そうですよ。もともとエイベックスがいいなと思っていたのはユーロビートを扱ってましたから。ユーロビートっていうのはヨーロッパ、特にイタリー・ベースの曲なんですけど、ヨーロッパでは日本でいう演歌の一種といえるでしょう。だからユーロビートっていうのは絶対にこの国からなくならないだろうという思い入れで…。ただし、洋楽が邦楽へ、邦楽が洋楽にというインタラクティブな関係は常に頭の中に入っていました。あと洋楽もユーロビートばっかりやっているわけにいかなくて、たまたまひょんなことからテクノ/ハウスも我々が持ち込むことができましたから。それをジュリアナTOKYOにのっけて、売れたっていう段階でTVCMを積極的に多用したんですね。それでジュリアナTOKYOがエイベックスと一緒にブレイクしたっていう側面もすごく大きいですよね。

 

6. ブランド戦略

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--当時僕らはエイベックスの外側の人間としては、社内の体制が普通のレコード会社からの移籍組の人材で固められてるんではなくて、広告代理店とかそういうところからの人材を求められていて、広告戦略のプロ集団を組織されて進められたのかってイメージがあったんですけれど。

依田:それはないですね。立ち上げ当時は松浦君と僕でやってましたから。ブランド戦略って言い出したのは私ですしね。要するにCM、ブランド、マーケティングというキーワードが非常に重要だって私は言ってたんですよ。

--あれはちょっとびっくりする手法。今までの業界人から見ると。

依田:レコード業界でメジャーのレコードメーカーと競合してやっていくつもりはあまりなかったんです。業界の常識はエイベックスでは非常識って言ったのはそういう意味ね。よそのまねをしていると嫌がられるけど、そうじゃなければいいじゃないって。

--まねされるハメにはなりましたけど(笑) 気になっていたのは、すでに資金がプールされていて、あれだけの大量CMが打てたんですか?

依田:回転させてたんですよ。当時はあの深夜帯のTVCMは誰もやっていなかったから、始めたんですね。

--当時この本でレコード会社をいろいろ回って協力を要請したりした時に、何社からはレコード会社っていうのは企業イメージなんかどうでもいいんだと、曲が良ければ何レコードだって何レーベルだって聴きたいヤツは買うんだから、会社自体の広告宣伝とかイメージアップと言われても何も協力のしようがないっていう風に言われたんですよ。それとまったく正反対だったのがエイベックスだと思うんです。エイベックスっていうブランドが今これだけ評価されていますが、どうして音楽ビジネスの外側にいらっしゃった依田さんにはわかっていらっしゃったんですか。

依田:そういうマーケットがあるということを松浦君から聞いて信じることができたからですよ。

--でも音楽業界の内側で何十年もレコード会社で働いてきた人たちはそこに気付いてなかったと思うんですよ。

依田:そうですかね。要するに企業のブランドというものがいかに大切かというよりアーティストの名前の方が重要だったのではないですか?

--音楽業界の常識のひとつはアーティスト名がブランドであると。

依田:アーティストだって人だから変わってくるわけですよね。そういうアーティストを抱える企業としての存在感っていうものは、はじめから大きいわけですよ。レコード業界ってほとんどはメジャーですからね。例えば、海外のメジャーレーベルを扱う日本の大企業系レコード会社であれば、会社の宣伝をするよりもそこに所属しているアーティストをきちんとマーケティングしていけばいいという発想でよかったのではないでしょうか。我々もそうしたかったんですけど、その前にアーティストがいませんでしたから(笑) だから、エイベックス=ダンス・コンピレーションと結びつくように徹底的なブランド戦略を展開しました。ネームバリューがいかに大事か、ブランドがいかに大切かっていうのを前の会社で経験してますしね。

--業界も既に何でもありで、まさかそんなところにニッチがあるとは思わなかった時代ですけどね。

依田:あと一つは権利ですよね。音楽ビジネスは権利の固まりだっていうのはずっと言い続けてますからね。

 

7. 自己実現こそ我々の存在意義

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--それにしても宣伝費の比重っていうのがすごく高いですよね。やっぱり、TVというメディアの力を最優先として?

依田:それと、アーティストに対するコンサート協賛等の投資も大切でしょうね。要するにアーティストの自己実現をどのように図ってあげるかっていうことが我々の大きな存在意義ですから。

−−自己実現の場っていうのは社員だけじゃなくて、アーティストも含めてエイベックス・グループ全員のことをそういう角度で考えてらっしゃるっていうことですか?

依田:そうですね。

−−自己実現のサポートとは具体的には?

依田:社員ひとりひとりに対して、自分の目標、志があってはじめてそれが実現できるようにバックアップをしてあげなければなりません。年の初めには全社員が“サクセス・ストーリー”という個々の自己実現のための目標を提出しなきゃいけないことになってるんですよ。それが実現できれば、年間を通して収入が増えたり、表彰されたり、次のステップに進むことができるんです。それは従業員に対するインセンティブであり、ノルマでもあるんです。もちろんアーティストにも良いアーティスト活動をしてもらうためのサポートをどんどんしてあげると。

−−アーティストがわがままを言ってまいったなっていうようなことも…。

依田:ブランド、商品はモノですけどアーティストは人ですから、これはまあしょうがないですね(笑) それをお互いにうまく理解して共存を図るってことですから、そういう意味では我々はうまくいっているんじゃないかと思いますよ。

−−毎朝朝礼されてるってお聞きしてるんですけど。

依田:週に一回、月曜日にやっているんですよ。

−−依田さんが毎週お話されるんですか?

依田:僕はなるべく月曜日の朝は会社にいるようにしています。自分のつたない話ながらだいたい10分ぐらい話すんです。

−−全員集まれるような場所があるんですか?

依田:あります、8階にね。全員って言ってもこういう仕事だから、つい数時間前まではスタジオにいたっていう人もいますし、出張していたり、アーティストと一緒にコンサートに行ったりなんかしてる人が大勢いますけど。

−−それはもう習慣になっているんですね。

依田:私の場合、1月、2月はミデムとか海外へ行く機会が多いのでしょうがないですけど、基本的には出張しても日曜の夜帰ってくるっていうのが多いですよ。

−−朝礼のために?

依田:そうです。だから月曜日は出張するんだったら午後からとかね。

−−やっぱりそれだけ力を入れてらっしゃる重要なことなんですね。エイベックスは破竹の勢いで来てるわけなんですけど、会社の運営は自己採点するとしてほぼ100点に近い予定通りの道筋なんでしょうか。

依田:どうでしょうかね、今まではお陰様で大けがをしてこなかったってことはありますよね。その都度いろんな問題を抱えたりしてますけど、大きな問題になる前に未然に回避してきたっていうのもありますし、そういう意味では堅く経営したいと思います。石橋を叩いて渡るところもありますから。

−−大きな失敗はないわけですね。

依田:失敗っていっても今起きつつあるかもわからないから、あんまりそういうことは言えないですけど(笑)

 

8. ルーツの再確認—–やっぱり小学校の時から怪物?

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--自己実現の場を作るっていうのは並大抵ではできないと思うんですが、そういう哲学っていうのか、考え方はいつ頃から持たれていたんですか?

依田:そういう意味ではさきほどもお話したように、昭和30年前後のエムケー精工の創業者の丸山さんを見ていて、将来こういう形でビジネスに成功したいなって気持ちはありましたね。みんな志、目標を持ってるわけですから、それを明確にしてその目標に向かって進みさえすればと。

−−そんな早い時期から!?じゃあ近年到達した考え方とかいうんじゃ…。

依田:全然ないですよ。だから、小学校時代から家業の手伝いで集金に行ったこともありますしね。僕が集金に行ったら絶対取ってきました(笑) 取るまでは帰らないんですから。まあ言ってみれば商売が好きだったっていうことはありますよね。仕事は飯より好きかもしれないですよね(笑)

−−そこに依田会長のすごさのルーツが潜んでいそうですね。話は変わりますが、上場するんだっていう考え方はいつ頃から?

依田:そうですね、10年以上前に松浦君に「会社は公開までできるんでしょうか?」って聞かれたことがあります。「できるよ、良い会社になるよ」ってその時からずっと言ってました。最初からエイベックスは間違いなく利益が上げられる、良い会社になると思ってましたよ。といっても今日現在ここまでの規模の会社になっているとは想定してませんでしたけどね。

−−予定より早いと?

依田:早いんでしょうかね?

−−早過ぎですよ(笑) 当時この本の2号目を作っているときに、どなたかわからないんですがエイベックスの方からお電話いただいて「町田にスタジオがあるんだけれども本にはどうやって載れるのかな?」って問い合わせを受けたことがあるんですよ。

依田:それは松浦君でしょう。

−−結局はよそに貸すようなスタジオじゃないからって話は立ち消えになっちゃったんですけど。

依田:広さは卓を一台置いて横一杯で、ボーカルブースは1メートル四方しかなかったから(笑) 、とにかく小さかったです。マンションの地下を借りてね。

−−70年代〜80年代にかけてCBSソニーが新興会社としてトップに躍り出たんですけど、エイベックスは90年代で一気にトップクラスに登りつめましたね。

依田:エイベックス・トラックスを立ち上げて90年11月21日に初リリースでしたから、10年もかかってないですね。

−−信じられないことになっちゃったんですけどね。さて、プライベートな生活においてのご趣味とかは?

依田:最近やってませんけど、スキューバダイビングは好きで一時やってました。ここ3年はゴルフに凝ってますね。アメリカ時代あんまりやる気もしなかったものですから、最近は一念発起してゴルフを一生懸命やっています。健康にも良いですしね。でもウィークデーゴルフはやりません。よほどのことがない限りは土日だけです。あとは乱読ですけど、本は良く読みますね。

−−ゴルフのハンディは?

依田:ハンディキャップは26とか27です。でもなんでこんなスコア出すんだ?というのが実力です(笑) まあ楽しんでやってる方ですから。あんまりカリカリしてやっているようなゴルフじゃないんで、運動のつもりでやってます。でも今年はハンデ20を目指します。

−−時間的な余裕ができたらやりたいなと思ってらっしゃるようなことは?

依田:そうですね、旅行は嫌いじゃないですからしたいですね。特に海が好きです

 

9. 社内長者は?

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−−今回の株式の上場で社内にもたくさんのリッチマンが誕生してると思うんです。それで社内の雰囲気とかは大きく変わったりとか、何か影響はありましたか?

依田:変わってないんじゃないかな?お金が貯まって辞めた人もほとんどいないし。

−−株は全社員が持てるのですか?

依田:基本的には社員持株会がありますから、全社員対象でね。かなりの社員が買ってますよ。

−−全員買えるのは素晴らしいですね。

依田:買おうと思っても高くなっちゃって買えない人もいますけど(笑)

−−あと、株の分割が2〜3回行われてますよね。そこでガバっと増えた人がいらっしゃるようですよね。社内では話されないんでしょうけど。

依田:みんなわかっちゃいますけど、言わないですよ(笑) かなり大勢いますけどその人達は変わっていません。公開した時、株価は悪かったですけれど、株価は気にしなくても業績をきちんとしておけば良くなるんだっていう、私なりの持論をずっと言い続けてきてますから、上場しても奢ることもないし。良い時も悪い時もありますから、良い時は謙虚に、悪い時には悪びれずと。

−−稲垣さんからの伝言をお伝えしますと、日本音楽業界開闢以来のリッチマンになられた依田さんのところに次は行けと、株式の上場でどのくらい儲かったんですか?と聞いてきてくれと。そして、もう一言、是非養子にでもなりたいと(笑)

依田:言っといて、「待ってます」って(笑)

−−日本の音楽業界のビル・ゲイツだともおっしゃってましたよ。

依田:私はお金にあんまり執着がないんですよね。お金儲けするために起業しようっていう気持ちもなかったし、そういう意味ではどちらかっていうとストイックな方ですよね。社員もそうでしょ。僕のことを、お金儲けのために公開したとはあんまり思ってないんじゃないの?私はお金には淡白ですから(笑)

 

10. 新会社に秘められた可能性

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−−事業自体の方に興味が継続されているわけですよね。ここに来てまたすごい計画を打ち立てられてますよね、SS21プロジェクトと称されて。

依田:志だけは大きくしておかないと皆が伸びないですからね。

−−これからインターネット関連のビジネスにも向かわれるわけですよね。

依田:はい、これは大きいビジネスになりますね。まもなくインターネット絡みの新会社構想を発表します。

−−それは孫正義氏とかがおっしゃっていることと重なりますね。でもエイベックスの音楽配信に対する考え方は去年、一昨年と比べると幾分修正されたような…。

依田:いや、あれは業界の一部で、熱病に浮かされるように音楽配信って言うから、そんなもんじゃないでしょうということで問題提起をしただけですよ。当時から一貫して言っていたのはエイベックスもやりますよと、やる時は他社よりも早くやると思いますけど、現状ではまだ時期尚早じゃないんですかと言っていたんですよ。それを「エイベックスの依田は反対意見だ」ってとられたこともありますけど、私はあんまり気にしていませんでした。

−−ソニーが始めたってことになると、稲垣さんも、折田さんも春にはなと。この辺はエイベックスも?

依田:私共も3月31日立ち上げで動いてますから。

−−あらゆるモノが買えるサイトになるわけですか?

依田:エイベックス ネットワーク(株) という会社をこの春に立ち上げるんですけどね。

−−別会社になるわけですね。

依田:ええ、そっちで音楽配信もやりますけど、音楽配信はたくさんのメニューの中のひとつですから、総合的にeコマースを目的とする新会社はものすごく大きな可能性を秘めた会社ですよ。

−−アーティスト関連グッズとかファンクラブ系のものが全部含まれて、その中の一部が音楽配信というわけですか?

依田:アーティスト関連の音楽配信はごく一部で、ものすごくたくさんのプログラムを持ったサイトになると思いますよ。商品とかノウハウとか情報とか、あるいは、コンシューマーが期待しているありとあらゆる情報がサイトから流される。データベースの構築によってはカスタム情報を我々のサイトから得ることができる。その他には、株式会社メガポート放送っていうBSデジタルデータ放送にも我々が参加してますから、そういう意味では音楽情報番組、エイベックス番組っていうのがBSデジタルデータ放送でも流れますしね。たぶんここ1〜2年でガラっと変わるんじゃないですか?

−−あとは、アジア戦略。これは日本のレコード会社の中で一番進まれているような…。

依田:どうでしょうかね。失敗は絶対しちゃいけない、絶対赤字を出しちゃいけないっていうマーケットなんですが、積極的にやってます。大きなビジネスになるのはいつなのか、ちょっとわからないですけど、5年、10年は先でしょうね。そう急には良くならないんじゃないですか。でも市場規模はともかくとして、アジアマーケットに大きな拠点を築いておくってことは絶対不可欠ですよ。

−−ライブ、コンサートとかで行くだけでも、大変な出費になりますが…。

依田:もちろん日本の感覚のままではできないことですが。

−−この先の大躍進がいかにも見えてきそうなエイベックス・グループの勢いには本当に圧倒されます。

依田:いえいえ、まだまだこれからです。

−−今日はまた貴重なお話大変ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

フーッやっぱり大変に奥の深いお方でありました。いろいろヒントはいただいた感もありますが、器が大きすぎて輪郭に触れることができたかどうか?は皆様の判断に委ねたいと思います。さて、氏の次なるご指名は誰もがもっと知りたい(株)テイチクエンタテインメントの飯田久彦氏です。お楽しみに!

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