第4回 飯田久彦 氏
株式会社テイチクエンタテインメント 代表取締役社長
リレーのバトンはエイベックス株式会社 代表取締役会長兼社長 依田 巽 氏から株式会社テイチクエンタテインメント 代表取締役社長 飯田久彦氏へ引き渡されました。 若きポップスターが栄光を捨て裏方に転身し、業界初の「歌い手くずれ」(本人談)ディレクターがいつしか築き上げていった栄光のビクター・スピリット。ビクターを愛して止まない飯田氏に松下グループ最後の切り札として託された老舗テイチクの再建。遂にその大仕事を引き受けられた氏の、初めて語られる素顔の個人史。演歌からロックまで伝統を守り先端を切り開き、なお日本の音楽業界の王道を歩まれる飯田社長は外見同様、そのマインドもびっくりするほど若々しい、エヴァーグリーンな”音楽青年”でいらっしゃいました。
プロフィール
飯田久彦(Hisahiko IIDA)
(株)テイチクエンタテインメント 代表取締役社長
昭和16年 8月23日、東京都生まれ。昭和36年7月 第一プロダクション入社(コロムビア専属・歌手)。昭和37年3月 芝浦工業大学電子工学部 中退。昭和39年 クラウンレコード移籍。昭和44年 ビクターレコード移籍。昭和50年3月 日本ビクター株式会社入社。ビクター音楽産業株式会社出向邦楽部。昭和54年8月 ビクター音楽産業株式会社 第1制作本部第3制作宣伝グループ課長。昭和58年2月 ビクター音楽産業株式会社 制作3部次長。昭和61年5月 ビクター音楽産業株式会社 理事制作3部長。昭和62年10月 ビクター音楽産業株式会社 取締役邦楽本部制作3部長。平成3年4月 ビクター音楽産業株式会社 取締役邦楽本部長。平成4年6月 ビクター音楽産業株式会社 常務取締役邦楽制作統括。平成5年4月 ビクターエンタテインメント株式会社 常務取締役邦楽制作統括。平成8年2月 ビクターエンタテインメント株式会社 専務取締役邦楽制作宣伝本部長。平成11年3月 ビクターエンタテインメント株式会社 専務取締役。平成11年 6月24日 テイチク株式会社 代表取締役社長就任。現在に至る。
- 野球少年、九ちゃんと出会う
- バンドボーイ兼シンガー
- 歌手になりたかったわけではないけれど…
- ついにレコード・デビュー!
- 裁ちばさみで切り開いたディレクターへの道
- ディレクター奉公
- “歌い手くずれ”の意地と誇り
- もっとカバーがやりたいよね
- 猛反対されたピンクレディーの大ヒット
- 商品ではあっても中身はマインド
- ビクターからテイチクへ
- 『孫』の大ヒット
- すべては「出会い」と「人間関係」
- たまにはカラオケで歌うこともありますよ
- 『チャコの海岸物語』誕生秘話
- インペリアルレコードのスタートは『孫』の対極から
1. 野球少年、九ちゃんと出会う
--まず、生い立ちからお聞きしたいのですが。
飯田:生まれも育ちも世田谷の松原です。下高井戸にある松沢小学校、松沢中学校と。昔は松沢村って呼ばれててね。2〜3歳の頃疎開してたので戦争の記憶はそんなにないんですけど、戦後で食糧難の時代はトマトなんかも畑入って食べたり、給食も脱脂粉乳で、そう言う時代でした。
兄弟は男3人と姉1人の長男でした。姉は小さい頃に嫁いじゃったから大体男3人で育った感じ。親父は白木屋ってデパートの呉服売場の出で、世田谷で呉服屋やってたけど、僕はそう言うの全然興味無くて、ずっと野球少年でした。どっちかっていうと悪ガキで、小学校〜中学校もずっと野球の選手になりたくて、明けても暮れても野球が好きだったですね。たまたま明大前に明治大学の野球のグラウンドがあったんですよ。そのころは嶋岡監督って有名な人がいてね。大洋にいた秋山さんとか土井さんとかっていう明治の選手もいて。野球を見に行っては破れたボールを貰ったりした想い出があります。六大学は明治が好きで、よく神宮へお弁当持って外野に見に行ってたんですけど、立教に長嶋さんがいてね。今でも長嶋監督のファンなんですけどその頃から長嶋好きだったんです。中学生の頃ですよ。だから、野球の選手になりたくて中学出て、高校選ぶときに神奈川に目を向けたんです。神奈川のほうが甲子園に出る率が東京より高いから。今は1000何百校あるんですけど、そのころは神奈川には500〜600校ぐらいしかなかったんですよ。それで神奈川の日大高校で野球をやろうと思って入学したら、たまたま坂本九さんが同級生でいたっていうのが業界に入るきっかけだったんです。
--九ちゃんと同級生だったんですか!
飯田:九ちゃんは2年ぐらいから学校サボっちゃジャズ喫茶まわりしてましたから。なんかきっかけがあったようです。高校に入ってからは野球部は元旦だけ休みで後はほとんど毎日野球の練習。もちろん勉強も適当にやりましたけど、午後からは野球に明け暮れた3年間でした。それで高校3年の時に夏の大会の予選で、柴田がいた法政二高が強くて負けて、僕らは7月の20何日で終わってしまったんで、1・2年に譲るわけです。それで髪の毛を伸ばし始めて、夏休みの終わりに坂本九さんが渋谷のテネシーっていうジャズ喫茶で歌ってるから見に行こうって九ちゃんとバンドやってた仲間に連れられてジャズ喫茶に行ったんですよ。その頃は夏だから学生服着てなくて、白いワイシャツだけですから入れたんですよ。タダで入れてくれたんだと思うな、九ちゃんが。その代わりお前ら立って見てろよみたいな。終わったら、次のジャズ喫茶に移るから楽器の運搬を手伝えってね。
2. バンドボーイ兼シンガー
--その頃って九さんはもう売れてたんですか?
飯田:まだ人気に火が付く前かな。第一プロダクションの岸部社長さんがバンマスやってた「岸部清とドリフターズ」ってバンド、今のドリフターズの前身なんだけど、そこで坂本九さんも井上ひろしさんも歌ってたんですね。そこから別れるわけですけど、しばらくして何ヶ月後に九ちゃんはパラキン(ダニー飯田とパラダイス・キング)に、ドリフターズは桜井さんになって、井上さんは井上ひろしとファイブサウンズってバンドになったんですけど、お前はそこのバンドボーイをやれって言われて。九ちゃんは自分とこには連れて行ってくれなかったんですよ。
僕もそのあとは大学受験ですからね、芝浦工大。なぜ芝浦工大かと言うと、世田谷の松原の家の裏に明電舎のお偉いさんが住んでて、「芝浦工大の電気工学を出ると就職は良いですよ」って言われて、親もその気になっちゃってね。僕は芝浦工大受かったんだけど、たぶん補欠スレスレで受かったと思うんですよ。「一年目から電気工学は無理です。一年間は電子工学に行きなさい」と言われまして。でも一年間もまともに行ってませんからチンプンカンプンでわからない(笑) それでバンドボーイが面白いから、午前中授業出て、午後からはバンドボーイの仕事。そのうち出席日数足りないと学校から通知が来て、夜も遅いし、親が「お前何やってんだ」ってね。母親が付いて来たんだけど、電車が閉まる寸前にぱっと逃げちゃって、お袋をまいてすぐジャズ喫茶に行かなくちゃいけなかった(笑)
--ジャズ喫茶の当時の雰囲気はどんな感じでしたか?
飯田:ギンギンに盛り上がってましたよ。中学校の時もコマ劇場かなんかでやってたウエスタンカーニバルがすごい人気で見に行った事ありますし。
--九さんが脚光を浴びる前のスターというと、誰だったんでしょう。
飯田:平尾昌晃さん、ミッキー・カーチスさん、山下敬二郎さん。その後、守屋浩さんとかの「三人ひろし」。かまやつさんとか井上ひろしさんとか、水原弘さんとかいたけど、水原さんは三人ひろしには入ってなかったんじゃないかな。その頃はまだ見る立場でしたから、守屋浩さん足長くてかっこいいなとか。九ちゃんは”パラキン”で出てたころですね。
--バンドボーイの仕事はちゃんとギャラが貰えたんですか?
飯田:最初の何ヶ月は貰えないですけど、途中から三千円か四千円ぐらい貰えましたね。そうは言っても電車賃が無くて、帰りは新宿から明大前の自宅まで30〜40分かけて歩いた覚えが何回もあります。
--野球少年がバンドボーイになって、だんだん音楽好きになられたわけですか?
飯田:音楽はね、昔から歌は好きでしたね。小学校の頃から美空ひばりさんの歌は好きでしたし、聴いてました。目覚めたのは中学の時のラジオ。街頭テレビはありましたけど、その頃うちにはテレビありませんでしたから。力道山とかシャープ兄弟、モノクロで。
とにかくラジオが好きでよく聴いてたんです。チューナー回してFENにぶつかった時に、プレスリーの『ハウンドドッグ』かなんかが流れてたんですよ。いやぁすごいなと思って、そのうちにポール・アンカの『ダイアナ』だとかいろんなのを聴いて。これは自分の耳を疑うぐらい衝撃的で、いっぺんで気に入りましたね。
--歌ったりしてたんですか?
飯田:いや、歌いはしませんけど、いつもそれを聴いてました。
--野球に熱中しながらも、音楽にも興味があったということですね。
飯田:中学の時からそうでした。友達の兄貴が音楽好きで、小さなポータブルプレイヤーとレコードがあって、しょっちゅうその家にカントリーとか聴きに行ってたのを今でも覚えてるんですよ。あの時ぐらいから熱中してたんだろうな。 楽器はやりませんでしたが、随分早くからカントリーとかしょっちゅう聴いてましたし、スリー・サンズなんかもちろんのこと、ジョニー・フォートンの『ホンキートンクマン』なんかもいい歌だなぁと思って。どちらかというとギターサウンドが好きだったなぁ。
でも高校時代は野球やってたから、ラジオはたまに聴くんだけど、ちょっと疎遠になってましたね。その頃九ちゃんは学園祭でいつも歌ってたんですよ、教室でもほうき持ってプレスリーのマネしてましたよ。九ちゃんはよっぽど好きだったんですよね。彼はちゃんと卒業したのか中退なのかよく覚えてないけど。
--坂本九さんは高校でも人気者だったんですか?
飯田:ええ、人気者でしたよ。人気者って言っても基本的には男子校ですから女の子はいないわけです。
--飯田さんは野球ではどこのポジションだったんですか?
飯田:ピッチャーやってました。芝浦工大でも野球やろうと思ってたんで、高校3年の時にセレクトっていうのに行ってるんですよ。その頃の芝浦工大は二部では強かったんですよね。でも、全国から集まってきたから、いやぁこれは敵わないなっていうのはありましたね。野球やろうかなって思ったのと同時にバンドボーイ…。これは極端でしょ、野球少年なんて坊主頭で女の子の”お”の字もないんですから(笑) 反対にバンドボーイっていうのは結構モテるんですよ。なんかいろいろ貰ったりとか、これプレゼント渡しといてとかってね。2人でバンドボーイやってたんですけど、ウッドベースとかアンプとかがありましたから、東京駅でデッキの洗面所に楽器を置いて、交代で見張り番したりしてたんです。その頃は井上ひろしさんと、もう九ちゃんはいませんでしたから、あと何人か歌手もいて。田代みどりさんもいたかな?田代みどりさんも小学生かなんかでいて、みんな贈り物がすごいんですよ。四人掛けの三等車の座席が全部埋まるぐらい置いて、列車内のお年寄りとかみんなに配りましたよ、バナナとか。その頃のバナナってまだ貴重品ですから、お年寄りとかみんなに配った覚えがあります。
--駅のホームでファンの人から貰うんですか?
飯田:「プレゼントあげて 渡して」って。すごかったですね。僕も高3でジーパン履いて背も高くて細身で格好良かったですからね(笑)、結構プレゼントもあったんですよ。
3. 歌手になりたかったわけではないけれど…
--それで、いつからご自分で歌うようになっちゃったんですか?
飯田:その頃うちの親はバンドボーイをやってる事に大反対だったんですよ。決定的だったのは忘れもしない、まさにこれから旅立つって時、うちの親父が東京駅に来ちゃったんですよ。第一プロの岸部さんの所に怒鳴り込みに。「うちの息子はそういう風に育てた覚えはない。最近夜も遅いし、学校も行ってないし、冗談じゃない」って。それで岸部さんが「今回の仕事は人手が足りないのですぐは困るけど大阪から帰ってきたら辞めさせます」という事になったんです。僕も「じゃあ、しょうがないから辞めます」って話になって、後の事は後で考えようという事で大阪に行ったんです。それで大阪行って、旅館でバンドの人のギター磨いたりするでしょ、そうしたら「ボーヤは何すんのって」聞かれて、「歌、大好きなんですよ」って言ったら、「じゃあ、歌ってみる?」ってこうなっちゃったんですよ。
--最初から「いつかは自分も!」って思ってバンドボーイをやっていらしたんですか?
飯田:いやいや、ないですね。その頃歌い手になろうなんてこれっぽっちも思わなかったです。ただね、お金なんかいらないから、ジャズ喫茶で一回ぐらいは歌ってみたいなとは思ってましたね。今でいうとオーディションのようなね、チャンスがあったら歌ってみたいなって思ったんです。でも大阪から帰ってきたら辞めるっていう話がありましたからね。大阪で「何か歌えるの?」って言われたときに、「カントリーだったら『ホンキートンクマン』とか『ダイアナ』、『オーキャロル』とかプレスリーの半分ぐらい歌えます」って言ったら「じゃあ歌ってみろ」って、それで歌ったんですよ。そしたら、バンドの人が聴いてて、「お前、面白い声してるな」っていう話になって、たぶん岸部社長に話したんでしょうね。それで帰ってきたら「お前ちょっと一回歌ってみろ」って言うから。それはもう、歌えるんだったら辞める気なんてさらさらないですよね(笑) それで新宿の、たしかスワンってジャズ喫茶で、一回目のお客さんがあんまり入ってない所で歌ってみたんですよ。そのときに、何人か気にしてくれたんじゃないんですかね。こいつなかなか格好良くて面白いんじゃないかって言われたのをなんとなく覚えてるんですよ。
昭和16年生まれの巳年で結構執念深いですからね、それからは親の言うことも聞かないで、ジャズ喫茶で歌うっていう憧れもあって、勉強した訳じゃないんで自己流ですけど、前歌で何回か歌ってるうちにだんだんと…。その頃テレビの『ザ・ヒットパレード』が7時から7時半まであって、その時間のジャズ喫茶はメインの人が抜けるんですよ。その間のトラで僕と田代みどりさんの二人で前歌をやってろって言われて、ワンステージ歌ったんです。1ヶ月のうち何回かあったんですが、そのうちに段々ファンが付いてきたんです。
--そういう風に歌われるようになったのは、バンドボーイを初めてすぐの事ですか?
飯田:以外と早かったですね、2〜3ヶ月ですよ。そのかわり、歌い終わったら、バンドボーイの格好に着替えて、シンガーとボーイ兼任でした(笑)
--そのうち歌うのが快感になってきたんですね(笑)
飯田:それはやっぱりね、そのへんの差っていうのはね、すごいですから(笑) 女の子とはまるで無縁の坊主頭で汗かいて野球やってたのが、突然こんなに女の子にもてはやされるっていうのは、気持ち悪くなるくらいの差ですよね(笑)
4. ついにレコード・デビュー!
--正式なレコード・デビューはいつですか?
飯田:そうやって歌ってるうちに、事務所の社長とかの口伝てでレコード会社の人が来て、「やってみないか?」みたいな話になって…。バンドボーイで歌ってる頃はね、外人の女の子にモテたんですよ。日劇にも出てカバーソングとか歌ってたら、外人の女の子のファンがついたんです。当時ワシントン・ハイツとかグランド・ハイツっていうキャンプがあって、レコードがいっぱいあるから聴きに来ないとか言われて、キャンプに行くようになった。今の代々木公園にワシントン・ハイツってのがあって、まだジャニー(ジャニー喜多川氏)さんがそこにいる頃ですよ。そこにはレコードがいっぱいあって聴けるんですけど、歌詞も何もない。こういうボール紙の中にアナログとかバーンと入ってて、それで聴かしてもらうと良い歌があるんですよ。『グッドタイミング』だとかね。もう一つは漣(サザナミ)健児さん(現シンコーミュージック会長草野昌一氏)の事務所が四谷にあって、そこに遊びに行って曲聴かせてもらって、お前にはこういう歌が合うよって。デル・シャノンの『悲しき街角』をデビュー曲に選んでくれたのは、コロムビアのディレクターでもあり、シンコーの漣健児さんでもあるわけですよ。お前の声にはこれが合うって、『ルイジアナ・ママ』もそうだと思いますよ。その頃の草野さんはいち訳詞家じゃなくて、プロデューサーですよ。それで僕のキャラクターに合った詞に翻訳してくれました。あんまり極端に変わらないように…。
--すごい功績ですよね、後にも先にもいない重要な方だと思います。当時は平凡とか明星の付録にその辺のヒット曲が出てて、全部詞は漣健児。どんな方なんだろうなって、子供心に尊敬してました。ところで、レコードデビューしちゃうと親も諦められたんですか?
飯田:諦めました(笑)
--『悲しき街角』が最初で『ルイジアナ・ママ』は何枚目なんですか?
飯田:四枚目か五枚目ぐらいじゃないかな?
--一番売れたのはどれなんでしょう?
飯田:一番売れたのは『ルイジアナ・ママ』じゃない?売れたって云ってもその頃30万枚か40万枚ぐらいじゃないかな。
--そのころコロムビアからクラウンに移籍されたんですか?
飯田:僕がデビューしてすぐクラウンが出来たんですよ。出来たって言うよりね、なにかあったみたいで、コロムビアの人が(クラウンに)ごっそり移ったんだね。今思うとなんとなくわかるんだけど。北島三郎さんだって最初コロムビアからのデビューだったんですよ。僕は北島三郎さんとも一緒に前歌やったりしてたんですから、井上ひろしショーとかでね。
--(北島さんといっしょということは)ジャンルはごちゃまぜだたんですか?
飯田:北島三郎さんはギターでお話をしながら歌っていたんですよ。色々な人の歌を歌ったりなんかして。
--今のイメージとは全然違うんですね。ギター漫談のようなものですか?
飯田:いや、そうじゃないんだけど。まぁでも同じ様なもんかな?それで僕も一曲だけ前歌で歌う、今で言う一時間何分のステージなんだけど。それはジャズ喫茶じゃなくて、どっかの公会堂だとか市民会館だとかそういうところの井上ひろしショーで。
5. 裁ちばさみで切り開いたディレクターへの道
--僕らは当時飯田さんのファンだったんですけど、もっと飯田さんの歌を聴きたいのに段々歌わなくなってしまった時期がありましたね。
飯田:昔からほんとうは引っ込み思案で恥ずかしがりの性格だったんですよ。歌の勉強した訳でもないし、たまたまカバーやって、ジャズ喫茶が好きで、自分でも想像もつかないような事になってしまってね。でも、格好良い言い方するんじゃないですけど、 人に知られるようになっても、歌は自分にとって男の一生の仕事じゃないなって最初から思ってたんです。若気の至りでちょっと人にもてはやされたりして有頂天になってた時期はあったと思うんですよ、21〜22歳ぐらいの時ですから、生意気で。でもその頃からこれが一生続くとは思っていなかったし。
--冷静ですね(笑)
飯田:冷めてるのかな?性格的に合ってないんですよ。どちらかって言うとやっぱりアーティストっていうのは常に勉強っていうか、悪く言うと人を押しのけてもっていう所があるじゃないですか。それで僕は自分には向いてないなって思ってたんで、「いつ辞めようか、いつ辞めようか」って思ってはいたんですよ。ただキャバレーなんかで営業やってデカイお金が入って来たりとかしますよね。そういうのでついつい辞める時期を逸しちゃったりして、生活の為にも全国のキャバレー回りなんかやってたこともあります。その頃も「いつ辞めようか、いつ辞めようか」ってずっと思っててね。だけど当然自分に決断力はない。それである時に酔った勢いもあって、家に帰って裁ちばさみで衣装とか譜面だとか全部破いた。これでもう仕事出来ない、やらないって疑問を感じて(笑)
--それは何歳の時ですか?
飯田:26〜27歳ぐらいの時かな?
--普通だとまだまだそういう気持ちにならない年齢ですよね。まだ売れてらっしゃった訳だし。
飯田:その頃のね、レコード会社のディレクターさんてすごく格好良かったんですよ。昭和45〜46年の。ディレクターっていいなって思ってたのもあるし、もう一つは自然の流れっていうのかな、自分がカバーを歌ってたら今度はオリジナルを歌え、その次はこれ歌えっていう風になって、なんで僕がこの歌歌わなくちゃいけないのかな?ちょっと違うな、上手くも歌えないし、合ってないなって。
--歌いたいものじゃなくなってきた?
飯田:そうですね。その時に、僕がもしディレクターになったら、アーティストと相談するって訳じゃないけど、アーティストの気持ちとかアーティストのキャラクターも含めて考えて物作った方が良いのになって疑問に感じた事もあるんですよ。もちろん単純にディレクター格好いいなっていうのもあったんだけれど。ディレクターになってもっとアーティストの気持ちをわかった上で裏方の仕事をした方が、今までのディレクター、プロデューサーとはまた別な見方・やり方でディレクターの仕事が出来るんじゃないかなっていう風に思ったんです。
--ディレクター転向されるには、はっきりと自分の意志がおありになったんですね。
飯田:良い言い方をするとそうですね(笑) そこまでは深く考えなかったと思うんだけど(笑)
--現代の26〜27歳に比べると考え方がすごく大人っぽいですよね。
飯田:でもそれは音楽の流れがこう来てピッとなったみたいなね。ロカビリーブームが去って、グループサウンズが来て、フォークブームみたいになってって事もありますからね。
--じゃぁそういう状況の中で冷静にならざるを得なかった?
飯田:うん、確かにそれもありますね。
--そういう意志があって、人との出会いもあってビクターへ入社ということになるんですね。
6. ディレクター奉公
飯田:最初はアルバイトで。じゃあ雇ってあげようかってそんな感じですよ。
--ビクターレコードには歌手時代に移籍されたんですか。
飯田:ビクターで一作二作やってみないかって、ちょっと出したんですよね。
--最後に在籍したのがビクターだったんですね。
飯田:そう。それでビクターで裏方の仕事あるからやってみないかって。それもね、とんでもないところですよ。メインじゃないところですから。今のユニバーサルビクター社長の岩田さんのアシスタントだったんですよ。
--えっ?岩田さんと飯田さんて、おいくつ違いなんですか。
飯田:岩田さんの方が一つ上ぐらいじゃない?違うかな?同じぐらいかな?岩田さんがポップレコードっていうのやってたんですよ。JCM(文化放送・出版)とビクターで作ったポップレコードって、今で言うレーベルかなんかで、そこへアシスタントとして入ったんです。それで岩田さんの所にしばらくいて、メインのビクターのほうに移るって事になって。だから、奉公ですよ”岡本正と梅祭り”とか最初やったんですよ。売れなかったですけどね。
--知らなかった。
飯田:それでポップレコードでしばらくやってて、まぁテープ繋ぎみたいな事もやりましたしね。
--そこでのディレクター業一年生っていうのは、楽しかったですか?
飯田:まぁ無我夢中ですしね、メッセンジャーボーイみたいな事もやりましたよね、アメリカでいうランナーかな。そういう事をやったりとか、そこで『宮田輝の”歌と共に50年”』っていう全集を作るときに、アシスタントでがんばって宮田輝さんにインタビューしたり、あとは2インチのテープを切って繋いでって編集したり。そういう仕事もやってました。
--よく聞かれる質問かもしれませんが、アイドルスターだった飯田さんがそっちの方に回ったときの周囲の反応は?
飯田:まだビクターのスタジオが出来たばっかりの時で、「おい歌い手くずれ!」とか言われましたよ。「お前にディレクターなんて出来んのか?」って言われて「出来るか出来ないかわからないけど、好きなんで一生懸命やりますからよろしくお願いします」って。
その頃は自分でそれはもう過去の事だって思って割り切りましたね。この仕事は一人じゃ何も出来ない、やっぱり周りの人に助けてもらわないと出来ないっていうのはその頃からわかってましたから。
--バンドボーイの下積みも生きてますね(笑) アーティストという立場からから裏方に回ることに対する抵抗が強い人が多い中で、そういう意味では前向きに、遠くが見えてたって事ですね。
飯田:いえいえ、とても見えてなんかいないですよ。歌辞めて僕は裏方の仕事をやりたいんだっていう時に、結構何人かに相談したんです。平尾昌晃さんとかね。平尾さんなんかは「じゃあ俺の事務所来い」って言ってくれて、「俺の事務所でプロデューサーみたいな事やれ」って。守屋浩さんとホリプロの堀会長からも「ホリプロで出版関係の仕事やってみないか」って。
--どこでも行けちゃうわけですね(笑)
飯田:いや、そんな事ないですよ。「来ないか?」って言われてたんですけど、結局はビクターへ。僕は敢えてその頃一番厳しいところ選んだんですよ。ホリプロ、ありがたい。平尾さんのところもありがたい。でもそこじゃ甘えもあるし、それより一番厳しいところ入ってやった方が自分の為になるだろうなっていう…。ちょっと迷ったんですよ、その時は。
7. “歌い手くずれ”の意地と誇り
--実績のある歌手の方がレコードメーカーに残って制作者になる第一号というか、珍しかったですよね。
飯田:自分が歌い手やった時に疑問に感じたこともあったし、ディレクターって格好良いなって思って…。でも実際やってみたらあんまり格好良いものじゃなかった(笑) あの頃のディレクターの人ってみんな肩で風切って歩いてたみたいな感じですからね、会社で。僕は最初アルバイトで、今のいわゆる契約社員までいかないですよね、なんの保証もないんですから、給料だけじゃ食っていけない。まぁ今だから言いますけど、その頃付き合ってた今のカミサンと結婚してカミサンにも働いてもらったりして…。
--なんか略歴を見せて頂くと、トントン拍子の出世みたいな感じですけど。
飯田:そんなこともないですよ。まぁ今で言うとね、全部プロセスなんだろうな。
--ヒットの連続で出世街道まっしぐらっていうイメージだけじゃなくて、飯田さんをビクターが別の切り口で評価した部分もあったんじゃないでしょうか?
飯田:ひょっとしたら途中から「こいつ自分が歌歌ってた分だけ面白いことやるな」みたいな感じはあったかもしれませんね。
--でも、なかなか邦楽のディレクターには、部長、常務、専務っていう道は用意されませんよね。
8. もっとカバーがやりたいよね
--飯田さんのお仕事で大きなヒットを見ていくとピンクレディーが有名ですけど、ご自身としてもあれはいい仕事だったなっていうのは、ほかになにがありますか。
飯田:田中星児さんの『オーマニアーナ』と『ビューティフル・サンデー』のカップリング。これが最初なんですよ。これはカバーですから。僕はカバーやりたくてしょうがなかった。カバーっていうのはセルフカバーでも良いんだからね。よく日本のアーティストはカバーを嫌うけど僕はカバー大好きなんですよ。今でも「なんでカバーやんないの?」って思いますよ。それは方位を問わずね、日本の曲のカバーがあったって良いと思うし。
--良い時代でしたからね。洋楽をあんなに聴き易く日本語で身近にしてくれた漣健児さんもいて、楽しかったですよね。最近だと郷ひろみとか西城秀樹がカバーで甦ってますよね(笑)
飯田:もっとやるべきだと思いますね、日本の楽曲だってやるべきだと思いますよ。
--みんな利権に走ってるんでしょうかね。
飯田:なるほどね。それもあるかもしれないし、シンガーソングライターが多いって事もあると思うし。でも、これからそういうのたくさん出てきてほしいな。
--やっぱり名曲を出したいですよね。
飯田:出したいですよ。それで詞がもし古くて時代に合わなかったら、改めて補作したって良いと思いますよ。
--歌い継がれるような歌って言うのをね…。
飯田:僕は決してトントン拍子じゃないですからね。今思えばその時はその時でつらい思い出はいっぱいありますよ。でもどちらかと言えばポジティブな方ですから、そういものをエネルギーにしてた部分はありますね。
--話を戻しますと、二番目の大ヒットは松崎しげるさんの『愛のメモリー』ですか?
飯田:そうかな、『愛のメモリー』かな?いや、でもね、そんなには大ヒットしなかったけど隠れた名曲もあるんですよ。佐良直美さんでね、『一人旅』っていうのをやったんですよ。あんまり世間では知られていなけど、30万〜40万売れたんですよ。これはね、佐良直美さんの歌をカントリーに変えたんです。浜圭介さんと吉田旺さんが作ってきたものをカントリーにアレンジしちゃったんですよ、スチールギターいれて。みんなぶっとんだんですよ。「何でこれにスチールギター入ってるんだ」って。その頃はまだ社員じゃなかったんだけど。その頃から「こいつ面白いな」って言われはじめてね。それで社員にしてくれたのかな?
--松崎しげるさんは一発目から担当されたんですか?
飯田:一発目じゃないです。途中からです。『黄色い麦わら帽子』かなんかもうヒットは出てたんですよね。それでその後、ビクターを辞める辞めないってもめてた時に「僕がディレクターやるから、やろうよ」って。
--そこは大きいんじゃないですかね。
飯田:『愛のメモリー』の前にね、何だっけな?松崎さんと最初につくった楽曲、これも良い出来でね。その頃4000枚のうち3000枚大阪で取ってくれたっていうのがあって、松崎さんとマネージャーの三人で大阪へ行った覚えがあるんですよ。レコード出る前に挨拶に行って、松崎しげるさんと「大阪でアパート借りて住もうか」って言った事もあるくらいですから。その時に僕が大阪で歌うたってた頃お世話になった電通の岡さんってグリコのCMやってた人がいらして、その人の所に行ってみようって。犬も歩けばじゃないですけど、それでその後も『愛のメモリー』なんか持って行ったんじゃないかな。もう亡くなられてしまったたんだけど、岡八さんて、有名な方だった。その頃、三浦友和さんが初めてCMで使われて、まだタイアップがあんまりなかった時代ですけど、もしかしてこれ使って貰えるかもしれないと。それで松崎さんでグリコのCMを二発か三発やったんですよ。
松崎さんとはよくヒマな時は、彼がロッテに色々知ってる選手がいたんで、大阪球場に南海vsロッテの試合を見に行ったりとかね。彼とはそういう思い出があるなぁ。
9. 猛反対されたピンクレディーの大ヒット
--ピンクレディーはその後ですか?
飯田:それからもね三善英史さんとかいろいろやったんですよ、大ヒットはしなかったけど何人かやって、それでピンクレディーかな、ピンクレディーと岩崎宏美さんと同時ぐらいかな?
--最初から関わられてるんですか?
飯田:ピンクレディーはね。これは何回か話したかもしれませんが、”スタ誕”っていうのにね「お前も行ってこい」と。僕はあんまり好きじゃなかったんですよ、”スタ誕”て。こうやって旗あげて、人買いとは言わないけど(笑) なんか好きじゃなかった。”スタ誕”行って一回目か二回目の時にピンクレディーと岩崎宏美さんもいたのかな?その時は挙げなくて他の人が挙げたんだけど、その次にいった時に清水由起子さんっていう人がいたんですよ。ソニーからデビューしてギターでこう…。その人が新鮮でみんな旗挙げて「お前もこれを挙げろ」って言われて、でも挙げなかったのよ(笑) みんな何十本も挙がってね。ちょうどその頃ピーナッツ(ザ・ピーナッツ)さんが引退しちゃってね、ピーナッツさんって、接点もあるし大好きだったのよ。あぁピーナッツさんみたいなの引退したら寂しいなって、今度こういう歌って踊れるデュエット、双子だったらなおさら良いんだけど、そういうデュエット作りたいなって思ってたら、たまたま行った時にあの二人が出て来たの、それでパッと挙げちゃったのよ。会社帰ったら怒られてね。
--怒られた?
飯田:怒られたんですよ。「なんで清水由起子を挙げないんだ」ってすごい勢いで怒られた。清水由起子さんはね、桜田淳子さんと岩崎宏美さん取った後でみんなこれだけ何十本も挙がったら取れないですから、「僕はたまたまこの二人がいいなと思って挙げたんだ」って言ったら、又怒られた(笑)
--でも、その後で褒められたんでしょう?
飯田:いや、褒められていませんよ。『ペッパー警部』出たときだって「馬鹿野郎!こんなゲテもの作りやがって」って怒られた(笑)
--そう言えばとんでもなかったかもしれませんね。普通なら怒る人がいてもおかしくない感じですよね。
飯田:そうですよね。その頃から僕はね、こういう仕事は総意で物作ったら良くないなと。賛否両論、両極端あった方が良いなって。総論で作った物は大したこと無いなってその頃から思ってましたよね。それだけみんなに反対されたのもあったし、ようし、僕は良いと思ってるんだから徹底的に頑張ってみようっていうエネルギー、狂気の伝達っていうのかな?こういうのがね、ありました。ピンクレディーを作った時も宣伝マンが一人、一番ノってくれたんですよ。「協力してやりますよ!」って。
--そんなもんだったんですか?
飯田:そんなもん。会社は全然知らんって(笑) 他の者がイチ押し、イチ押しっていうまで。ピンクレディーは初回は大した事ないですから、ただ”スタ誕”から出たからある程度枚数付けなくちゃいけないって事で、4000枚とか5000枚じゃない?初回。
--ヒットのきっかけってテレビですか?
飯田:それは”スタ誕”がありましたし、でも初っぱなから『ペッパー警部』は売れた訳じゃないですから。一番最初発売されてオリコンの90何位に入ったんですよ。次の週はまた落ちちゃって100何位に。やっぱりそう簡単には売れないなーなんて思ってたんですよ。それで三ヶ月ローテーションで二作目っていうのが出来てたんですよ。 ただね、もう一つ、なぜ『ペッパー警部』が出来たかっていうのはね、あの頃新人賞だとかレコード大賞、歌謡大賞っていうのがもてはやされたっていうのかな?賞を取るとレコードが売れたって時代なんですよね。それでビクターはその年は新人があんまりいなくて。その頃コロムビアは新沼謙二さんと内藤やすこさんが売れてたんですよ。そうするとね、新宿音楽祭とかあってもビクターはあんまり新人がいないんで「そういうのに入るようなの作れ」と言われて、僕は一番はじの方でピンクレディー作ってたんですよ。まぁ”スタ誕”っていうこともあるんでね。新沼謙二さんとか内藤やすこさんを追い越そうとは思わないけど、あの人たちに少しでも近づくにはやっぱり同じ様なものを作ってもまずいかなと。面白いもの作るにはやっぱり阿久さんに!ってお願いしたんですよ。思い切ったもの、面白いもの作りたいんだっていう感じで、それで歌って踊れて、ザ・ピーナッツだと!
--当時はディレクターの役割がすごく大きい時代ですよね。
飯田:うん、あの頃僕はそれしか信念がなかった。それで阿久先生が面白いタイトル出してくれて、それで一発目出来た時にはもう次の『SOS』出来てたんだから。阿久さんがタイトルいっぱい作ってくれて。タイトルはね、アナログの時代からずっと大事だと思ってましたから、タイトルは顔だってね。
--タイトルって大事ですよね。洋楽も邦題が大事な時代がありましたけど。
飯田:映画の世界なんか、もっとそうですよね。それで『SOS』を作った時に、なんか仕掛けをしたいんで都倉俊一さんと相談して、シンセサイザーでSOSのモールス信号作ったんですよ。これは放送でかけたら絶対放送禁止になると、だからテスト盤だけ作ろうよってシンセサイザーで作って、本チャンはSOSを抜いといて。それでねニッポン放送かなんかでかかったらすぐに中止ですよね。案の定。
--ダメなんですか?
飯田:ダメなんですよやっぱり、間違われるから。それを新聞のネタにしてもらったんですよ。話題にしてもらって。それで『SOS』が出た時から若い子たちがみんなフリをマネするようになって。オリコンで『SOS』は一位になって『ペッパー警部』は二位になったのかな?確かそうだと思うんですけどね。
--ダブルで一気に行っちゃったんですね。
飯田:一気にね『SOS』からドンとですよ。たしか8月25日で『ペッパー警部』出して、11月25日に『SOS』。『ペッパー警部』はだんだん評判になって『SOS』出た後追いついてきた。そうしたらすぐに「アルバム作れ」ですよね(笑) いや、何を言ってんのかなと思って最初ピンと来なかったんですけど、アルバム作れったってね。アルバム無いわけですよ急に言われても。その頃はベイシティローラーズが次の年に来日する事になってましたから、ベイシティローラーズの曲を片面に付けてね。後からいっぱいベイシティローラーズのファンに怒られましたけど…。もう突貫工事でアルバム作ったのを覚えてますよ。
10. 商品ではあっても中身はマインド
--会社の態度は手のひらを返したように変わりましたか。
飯田:いや、でも宣伝部長とか偉い人がね「俺はこんなのは売れるとは思わなかった」とかね、「こんなものを取りやがって」って、怒った事はその宣伝部長も潔く謝ってくれたりしたんですけどね。でも100人中95人は「売れない」って言ってましたから。関係ないけど、そういうのって多いですよ。半分以上ありますよ。スターになってる人ほとんど、例えばサザンオールスターズだってデビュ-の時は同じような記憶をしています。
--最初のジャケットって顔写真も出てない。
飯田:そんなもんですよ。でも誰かの信念があったんですよ。
--担当者の信念は強いと。
飯田:信念ですよ。そういうものが大きくなる。それが良い悪いっていうより、スタッフが責任と信念持ってやるっていうのはすごく大事ですし、僕はビクター20数年いましたけど、移籍とかあんまりなかったでしょ。
--そう言えばビクターのアーティストは安定してますね。
飯田:いや、安定してるわけじゃない。苦しい時代もあるんですよ。でも、一発二発売れなかったからって、はいサヨナラって言うような事だったらこの仕事辞めた方がいいよって、僕はここ(テイチク)へ来ても言ってるんです。
--でも今は音楽業界全体がそういう見切りが早くなりましたね。
飯田:そうですね。でも、それはね失礼ですよ、人間を扱うのにね。これもいつも言ってるんですが、コップだとか鍋とか茶碗だとか作るんだったらそれでいいけど、人間の場合はそれじゃいけないと思うんです。僕はスタッフになった時にね「歌い手あがり」とか「歌い手くずれ」だとか言われて、いろいろ苦しい思いをしたんですよ。まぁ多くは語りませんけどね(笑)
--ご自身の経験からくるお言葉なんですね。
飯田:ミュージシャンの人達がこういう所で働くってそんなに簡単な事じゃないんです、特に男性がミュージシャンから裏方になった時は、人生賭けてやるわけじゃないですか。それでも上手くいかない率の方が九割以上あるわけですから。でも売れなかったけどお互いにこの仕事やってよかったねって言えるように、これを反省材料にして次のステップへ行けるようじゃないと…。
--途中で辞めたりすると、無念だし、悔しい結果になりますよね。
飯田:でもそういうケースの方が圧倒的に多い訳ですから。何かが残る仕事をしないと。恨みつらみでね、人間扱いしないで一発二発やってあんた売れないからもうサヨナラですよって、これはね違うと思うんですよ。やっぱりCDは商品ですけど中身はマインドですから。血の通った感情のある人間がやってる訳ですから。
--社長業でそれを貫き通すのは大変ですよね。
飯田:それは大変ですよね。でも、やる気ですよ大事なのは。本当に責任持って出来るのかと、信念持って出来るのかと。それを重視したいですね。
--ビクターからテイチクに来られる時の心境っていうのは?
飯田:それはね、色々な思いがあって一口では言えないですよ。
--当然ビクターに対する愛着も強いですよね。
飯田:もちろんそうです。僕はあんまり会社変えるの好きじゃないし、アーティストもよっぽどの事がない限り変わっちゃうのは良くないって言ってるし、ビクターでも売り上げがない時にお金はたいてアーティストを獲得する。これもよっぽどの事がない限りはダメだと。もちろんディレクターなりプロデューサーなりがアーティストと一緒に同じレベルとは言わなくても、きちんとクリエイティブな考え方が一致して、よしこれだったら一緒にやってみようっていう以外はね、移籍はまかりならんと。それはアーティストの為にもよくないと。お金で移ったら、お金で獲得したら、必ずまたお金で移られますよって。
--そういうやり方したら、そうなりますよね。
飯田:全部が全部それがNGって事ではないんですけど。
--確かにビクターの中でそういう話はあんまり聞かなかったですね。
飯田:一からみんな立ち上げてますし。まあ上手くいかなくて移ってった人もたくさんいますけどね。
--ビクターの中に飯田さんの考え方っていうのが行き渡っていたんですね。
飯田:僕の考え方はみんな持ってくれてると思います。
--そこは大きいですね。
飯田:だから僕はね電気会社から来た人達がよく会議で使うスクラップ&ビルドとかリストラって言葉はね、アーティストに使う言葉ではないと思ってる。
--簡単に使われちゃってますよね。
飯田:うん、簡単に使われてますよね。僕は会議で言った事がありますよ。スクラップ&ビルドってのは車とか物だったら良いけど、アーティストがそれを聞いたらどういう思いをするかって、僕一回怒ったことありますよ。
--これは飯田さんがおっしゃると説得力ありますよね。山本譲二がテレビで泣いてました(笑) そういう風に言って頂いて嬉しいって。
11. ビクターからテイチクへ
--テイチクやってくれって話がきたときはどんな感じでしたか。
飯田:最初は断りましたよ(笑) 一ヶ月間断り続けましたから。
--やっぱり。
飯田:でもその時は立場もあるから、断って辞めようと思ってました。
--腹切る覚悟みたいな感じですね。
飯田:別に食うのは何とかなるだろうっていう風にね。
--でもどこかで決心されちゃった訳ですね?
飯田:そうですね。何人かと相談したり。色々と話聞いて。10人から10人全部反対されましたよね。そうこうしてるうちに、まぁ今だから言えるんだけど、そういう話が巷に出まわって、何社からも「ビクター辞めるならウチ来ないか?」って誘われたりしましたよね。その時に考えたのが…ある人のアドバイスもあったんですけど、そういう所行って楽して少しぐらい成績が上がったから云々っていうよりはね、テイチクには申し訳ないけど、四期連続赤字の会社行って、それがプラスになるって事の方がよっぽどやりがいもあるだろうしって、自分に対してね。
--20代にもありましたよね、2回目ですね。
飯田:それで僕はねこれは自分の運命なんだと、運命って言うと大げさだけど…。
--稲垣さんもそういう話がありました。お聞きした中でやっぱり楽を取るんじゃなくて敢えて、っていうところが組み込まれてて。そのへんがやっぱり偉い方は…。
飯田:すごいって事ではないんだけどね。
12. 『孫』の大ヒット
--テイチクに移られてすぐに『孫』が大ヒットなさいましたね。
飯田:それはたまたまですから、それは僕が運がよかっただけですから。
--GOサインを出したのは飯田さんではないのですか。
飯田:僕は途中で(『孫』が)毎日300枚〜400枚出てるのが気になって、聴き直してみた。そしたら大泉さんの声も二番の歌詞も、あぁ良いなと思いましたよ。それで全社員に「これみんなでやってみようよ」って。去年の8月ぐらいにね、まだ3万か4万ぐらいの時。
--そんな早い段階の時に?
飯田:希望を感じたからですよ。僕は他の人じゃなくて大泉さんが歌ったから売れたんだと思ってる。
--にじみでるものがありますもんね。
飯田:僕は新鮮に聞こえましたよ。
--ラッキーも実力のうちって言いますからすごいですよね(笑) 拾うか拾わないかですから。
飯田:社員がみんな日曜祭日関係なく頑張ってくれたっていうのがまずありますよ。大泉さんも含めてね。仕掛けっていうのももちろんありましたよ、これ社会的現象にしようよって。そうするには何をやったらいいか、それで僕はみんなの前ですぐフォーカスにお願いしまして、これは活字だなと思ったから。
--「62歳の新人歌手」みたいな感じで。
飯田:62歳じゃないよ、57歳(笑) 8月にね野球部の同窓会があったの、孫のいるやつが何人かいて、聴かしたの。そうしたら、みんな「滲みる」っていうのよ。それで孫のいる世代って何人ぐらいいるの?って調べたら2000万人ぐらいいるって。これは売れるかもって(笑) 9月にねライジングプロの平さんと会って「今何やってるの?」って聞かれて「今こういうの売りたいな」って言ったら「飯田さんこれ 100万枚ぐらい売れるんじゃない?」って言うのよ。「えっ、ホント!?嬉しいねそんなこと」って100万枚売れるなんて思ってないからね、「10万枚売れるの目指してんのよ」なんて言ってね。
--今実数でいうとどれぐらいなんですか?
飯田:今週中(2月中)に100万枚行きますよ。
--すごいですね。これはテイチクにとって何年ぶりの大ヒットなんですか?
広報:演歌でいきますと、最近では天童よしみさんの『珍島物語』だとか、川中美幸さんの『二輪草』とかそういうのはありますけど、時代を一つ形として残すような曲っていうのは近年無かったですから。
飯田:いみじくも、これ社会的現象にしてみようよなんて言ったけど、まさかこんなになるとは思わなかった(笑)
13. すべては「出会い」と「人間関係」
--飯田さんのまわりでそういう状況が生まれるっていうのはそういう星のもとに生まれたってことですよね。ビクター時代はあまり表に出られてませんでしたけど、テイチクに来てからは積極的に表に出られてるような気がしますが…。
飯田:歌い手くずれが古い伝統のあるテイチクの社長になるっていうから、僕は半分以上は興味本位で取材されるのかなと思っていたんですよ。でもテイチクの宣伝になるんだったら、どんどん引き受けようって言ってやったんですよ。でも僕はね感謝してますよ。99 パーセントいや、100パーセントだな、期待してるとか応援したいとか好意的に書いてくれてますから。
--それまでの積み重ねと人柄のたまものですね。
飯田:それはすごく感謝してます。僕がこの業界に入ったのだって、もちろん九ちゃんがきっかけっていうのもありますけど、すべて「出会い」だって思うんです。人との出会いを今でも大事にしたいと思ってるんですよ。そういうのが今までずっと度重なってあるんですよ。最終的には歌で一生身を立てようとは思わなかったんですけど。そういうきっかけがあって、大学を中退して「よし、歌をやってみよう」って最終的に自分で決断した部分はあるんですけど、なんか人との出会い。それで歌うの辞めてレコード会社に契約じゃなくてアルバイトで裏方をやる時も人との出会い。何か今まで、僕はポイントポイントで人との出会いがあったような気がします。それともう一つ、これはいつも言っているんですけど、人一人の力ってたかが知れてる。ある人がきっかけになることはありますけど、やっぱり周りの人間関係、信頼関係で一人でも多く応援してくれる人がいるって所から成り立っていくもんだなって。今回の場合もそうですよね。まだ話題にもなんないのをフォーカスが取材してくれる。演歌がこういう状況なのにみんなが一つ返事で書いてくれるって事が、有り難いですよね。
--飯田さんの人脈ってすごく横に縦に大きいんでしょうね。
飯田:いいえ、そんな事ないですよ。確かに僕も人が好きですからね、人とのお付き合いが無駄になんなかったなって思ってます。そりゃあ恨みつらみ持ってる人もいるかもしれませんけど、ビクター時代から夜はほとんど人付き合いを大事にしてきました。まぁ人と会うのが好きだったっていうのもありますし、何だろうな、反面教師っていうのもありますしね。だって、例えば嫌いな人と仕事したくないっていうのは簡単な事ですよ。でも、そういう人から学ぶ事もたくさんあるしね、いつどこでどういうきっかけになるかわからない。マネージャーにしたって作家にしたってそうですよ。例えば僕がビクターのスタジオ時代にアシスタントで入った時に、いつも会社にデスクがなくてスタジオのロビーでうろちょろしてた時に荒木とよひささんが売り込みに来てて「トヨさんお互いに頑張ろうよな」って声掛けた事を今でも忘れてないって。だから「飯田さんの言う事なら何でも聞く」って言ってくれる。それはたてまえであっても嬉しいよね。
14. たまにはカラオケで歌うこともありますよ
--毎日がお仕事と人付き合でお忙しいんでしょうね。
飯田:ここのところ土日はずっと人材募集したり、面接やったりしてるからね。
--休んでいないんですか。
飯田:いや、僕が休みないんじゃなくて、みんなが休みないんだから。みんなが休みないのにね僕だけ休んでるって訳にいかないから。
--もしオフがあるとすれば、何をなさるんですか。プライベートでのご趣味などは?
飯田:家帰ってレコード聴いて寝てますよね。僕はアナログ盤聴くの好きですから。
--最近はどんなものを聴いてらっしゃるんですか?
飯田:いや、昔のアナログ盤聴いてますよ。70年代。吉田拓郎、井上陽水、最近ではねポール・マッカートニーとか。ドナ・サマーも聴くし。
--幅広いですね(笑)
--今、飯田さんが歌われると若い時よりもっと上手いって話聞いてるんですけどね(笑)
飯田:たまたまカラオケでたまに歌うからですよ。それもお金払って。
--飯田さんの歌聴ける場ってどっかにないんですか?無茶苦茶聴きたい人いっぱいいるでしょうね。
飯田:人前ではあんまり歌わないけど、一人か二人で行ってね、もう『孫』とか歌いますから。
--どっかでやりませんか(笑)?
飯田:それはやっちゃうとね、もうね。
--折田さんから聞いた話なんですけどね。歌を聴いたらめちゃくちゃ上手いって!
飯田:上手くないよ、全然上手くない。
--少なくとも若い頃よりかは上手いって(笑)
飯田:それは言えるかもしれないね(笑) なんか楽しんで、辛い事を忘れて歌う事が多いです。だからあんまり佳境に入って行くとオールディーズまで行っちゃうんですよ(笑) 僕はテイチクの前から裕次郎さんの歌とか好きで、歌ってましたから。今はあんまり高い声は出ないけど。カラオケでね、たまにノってプレスリーとか『ルイジアナ』とか歌うと(笑)、上の方はちょっと苦しいですけどね。でもキー落とすとかそういう事はしたくないからね。一応プライドがね(笑)
--じゃあ音楽が趣味でもありお仕事でもあるわけですね。
飯田:仕事と音楽が好きなんだと思います。ジャンル問わず好きですから。
--そこから離れたいみたいな事はあまりない?
飯田:全然ない。
--正に「ミュージックマン」ですね。
飯田:コンサートも好きだし。
--結構足運ばれてるんですか?
飯田:運びます。こないだも天童さんと大阪行って、また行きますよ。
15. 『チャコの海岸物語』誕生秘話
--チャコっていうニックネームはいつ頃から?
飯田:小さい頃からですよ、みんな久子とかね久彦とか”久”がつく人ってね、小さい頃自分の名前が言えないんですよ。ゴルフの樋口久子さんもねチャコって言うんですよ。言えないんだよね”さしすせそ”が。小さい頃から「チャコちゃん、チャコちゃん」って言われて。そう言えばサザンオールスターズの『チャコの海岸物語』っていうのは桑田さんが私の事書いてくれたんですよ。「飯田さんの名前使わせてもらいます」って、それでね二番の”ミコ”ってのは弘田三枝子さん。三番の”ピーナッツ”ってのはザ・ピーナッツ。
--そうだったんですか!いいネタもらいました!(笑)
16. インペリアルレコードのスタートは『孫』の対極から
--これからはインペリアルレコードですよね、若者向けのポップス系をバシッと立ち上げるという。
飯田:バシッと立ち上げるまで行かないですけど、そんな簡単にいくとは思ってませんけど、何とかテイチクってう伝統ある歌謡曲、演歌っていうのもこれはこれで他社がやらない分だけもっともっと強化もしたいけど、これは会社入ってすぐ言ったんですけど、ポップス、ロック部門。若者の音楽っていうのを徹底的に強化する。
--ビクターはサザンもいるし、ドラゴン・アッシュが出てきて、Kiroroが出てきて19(ジューク)が出てきて、続々とアーティストが育って来てますけど、今度インペリアルでは?
飯田:あれだってそんな簡単に出来たわけじゃないからね。SMAPやり、何やりってやってる中でこういうのが出て来てる訳だしね。
--宇多田ヒカルについてはどう思われますか?
飯田:宇多田さんにしても、東芝の人がみんな最初から乗ったんじゃないんだと思いますよ、最初は誰か一人か二人ですよ。ひょっとしたら最初行った時は断った人だっていたかもしれませんよ。
--相当断られたらしいですよ(笑)
飯田:そうだと思いますよ。英語では絶対売れませんよって。
--藤圭子さんの娘って事で「また七光りかよ」みたいな、逆のイメージ持ったりして..。
飯田:でも誰かがあれを強力に推したんだと思うんだよね。誰だって、本人だって、お父さんだってあんなにいくとは思っていってなかったと思うよ。
--そうですよね、予想出来たらみんなやってますよね。
飯田:これからはR&Bばっかりじゃなくてロックやったりポップスやったりすると思うよ、でも歌も曲も新鮮だし、フィーリングもそうだけど、やっぱり詞が良いんだと思いますよ。若者の心を捉えてると思いますね。僕はカラオケ行くと見るんですよ、詞を。
--詞は相当重視される方?
飯田:言葉っていうのは大事ですね。もちろんそれだけじゃないですけどね。
--今度はまるで新人を始められる訳ですよね。もうどのくらい用意されてるんですか?
飯田:お陰様でたくさん来てはいるんですけど、そう簡単に右から左へ出来ませんから、それは僕の意見っていうよりは現場の人達の意見。さっき言ったように、「常に責任持って信念持って出来るんだな?」って「今日は女の子とデートしたい」「今日は麻雀したい」「今日はこうしたい、ああしたい」ってのを犠牲にしてまでア−チストの為に出来るんだなって僕は念を押してますから。
--厳しい(笑)
飯田:それはね、売れるか売れないかなんて神様だってわかんないし、私だってわかんないですよ。
--お前本当に惚れてんのか?って事ですよね。
飯田:そのぐらいの気持ちでやんないと、それだって9割上手くいかない事の方が多いんですから。
--今おっしゃった事は全部ご自分に課して自分がおやりになってきた事ですよね?
飯田:そうですね、僕は経験だとかね、過去でもってもの言いたくないんですが、でも言ってんのかな?半分言ってるかもしれないけど、なるべくそういう思い方はしたくないですね。若い人達にこれだけは忘れて欲しくない、あくまでもアーティストってのは人間なんだぞって。商品と言えば商品なんだけど、中身はマインドですから、デジタルだなんだってどんどん技術革新で新しいものが出てくる。これはこれで良い、時代の流れだから。物作りとしてはもう一回アナログのマインドをよーく見直せよ、人間がやってるわけだから。口で言うのは簡単ですけど、そんな簡単にヒットの飛ぶスターなんて出ませんから。一生懸命やってたらあっちの方から風が吹いてきちゃったりする場面も多いわけですから。
--ジャンル的にはそんなに意識されていないんですか。インペリアルレコードで狙ってる方向は?
飯田:こう思って下さい、テイチクエンタテインメントで『孫』っていうのが一番向こうにあります。それで今度のインペリアルレコードの最初のリリ−スは一番こっちからスタ−トします。
--端と端、対極ですね。
飯田:最初はクラブ系ですから。これ聴いてみますか?
(生き生きと目を輝かせ、楽しそうにインペリアル第一弾アーティスト”Joi”を聴かせて下さる)
飯田:どこまで行くかわからないけど、まずこういう音楽からスタートしていって、ゆくゆくはジャーニーズ事務所のア−チストとかもやらせてもらいたいと思ってるんだけど、でもインペリアルレコードのスタートはこういう所から初めて行くって事です。
--新鮮味充分にありますね。
飯田:やっぱり新人が売れるっていう波及効果は大きいですから。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
知られざる飯田氏の素顔を少し覗かせて頂いた感じで幸せでした。やはり、「人を大事に」歩まれてきたお姿はとても明るく大きなものでありました。さて氏の次なるご指名はフジパシフィック音楽出版の朝妻一郎氏。さあ、次も面白いこと間違いなし!どうぞお楽しみに!