広告・取材掲載

第10回 平野 悠 氏

インタビュー リレーインタビュー

平野 悠 氏
平野 悠 氏

ロフトプロジェクト代表 ロフトプラスワン席亭

Musicman’sリレー記念すべき第10回は、新宿ロフトの創始者、平野悠氏が登場!ロフトで育ち、成長していったバンドは数知れない。1970年代にははっぴいえんどや坂本龍一、山下達郎などのホームグラウンドとして知られ、80年代に入るとスタークラブ、町田町蔵、ARB、BOOWY、レピッシュ、スピッツなど、数多くのバンドがロフトから巣立っていった。日本のロック史の総括とも言えるロフト興盛の歴史から、巨大ビジネスになったロックに絶望して世界放浪へと旅立った平野氏のバックパッカー生活。常に新しい刺激を求めて旅する平野氏と、ロフトの30年をたどります。

[2000年9月13日/新宿・ロフトプロジェクト事務所にて]

プロフィール
平野 悠(Yu HIRANO)
ロフトプロジェクト代表 ロフトプラスワン席亭


1944年8月10日東京生まれ。大学中途にて学生運動をやめ、郵政省東京地方貯金局に潜り込み、新左翼労働運動に従事。ブント(共産主義者同盟)の歴史に残る革命的労働者組織「東貯行動委員会」を設立。ブント分裂の折、逃走。1968年、出版社芸文社に潜り込み、労働組合を作る。1年後指名解雇、指名解雇白紙撤回を勝ち取った後、脱サラ。 1971年千歳烏山にてジャズ喫茶「烏山ロフト」、翌年中央線西荻窪にてライブハウス「西荻ロフト」、その後、荻窪、下北沢、新宿、自由が丘にロフトをオープン。1981年、日本を飛び出し、5年で84カ国を放浪。1987年ドミニカに日本料理店をオープン。1990年大阪花博のドミニカ政府代表代理、ドミニカ館館長に就任。1991年ドミニカ撤退。翌年ロフト復帰。1991年ライブハウス「下北沢シェルター」、1995年世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープン。現在はロフトプラスワン席亭、ロフトプロジェクト代表。

[ロフトプロジェクト]
新宿ロフト ロフトプラスワン 下北沢シェルター タイガーホール(レコードショップ) ピンクムーン ロフトブックス
[著書]
『旅人の唄を聞いてくれ!』 (ロフトブックス/99年12月)

 

    1. 「ロックでメシを喰う」という概念はなかった──ロフト興盛の歴史
    2. ティンパンアレイからパンク・ムーブメントへ
    3. ロックに対する絶望〜世界放浪の旅へ
    4. メレンゲの国、ドミニカでの5年間
    5. 「ロフト立ち退き事件」の真相
    6. ロフトをつぶしたい!?創始者のひそかな野望
    7. カウンター・カルチャーとしてのロック再考
    8. 若者よ、もっと知識欲を持て!!!
    9. 「なにもしない」が最後のカウンター
    10. 夢は「田舎で月5万円生活」!!

 

1. 「ロックでメシを喰う」という概念はなかった──ロフト興盛の歴史

平野 悠Book_RockIsLOFT

--まずはロフトの歴史から伺います。最初の「ロフト」を作られたのはいつ頃なんでしょうか。

平野:この本(『ROCK is LOFT 〜HISTORY OF LOFT〜』 )読んでもらえればだいたいのことはわかると思うけど…。最初に作ったのは京王線の千歳烏山。それから西荻、荻窪、下北沢と、だんだん新宿に近くなっていった。当時中央線に住んでいるミュージシャンが多かったし、吉祥寺を中心として中央線文化圏が新しい事を模索し始めていたんですよ。

--中央線は面白かったですよね。

平野:そうだよね。当時中央線吉祥寺発という「名前のない新聞」というミニコミがあって、中央線を主題にした友部正人の名曲「にんじん」が僕らの気持ちをよく捉えてた。南正人がコミューンを作って集団生活をしていたり、矢野顕子、山下洋輔なんかが住んでいて、吉祥寺周辺には「メグ」とか「ファンキー」といったジャズ道場があって、「がらんどう」とか「赤毛とそばかす」「マッチボックス」「西洋乞食」とかのロックやフォーク喫茶があって、吉祥寺を中心として 荻窪や阿佐谷、高円寺なんて結構ジャズやフォークロックで盛り上がっていた時代。

--烏山には何か独特な面白い雰囲気があったんですか?

平野:いや、僕の家から近かったと言う感じで出店を決めてしまったんですよ。脱サラだったんでマーケティングなんかしなかったけど、そんな訳の分からない小さな店に若い子達が集まってきてね。レコード枚数も少なかったんで、お客さんが勝手に自分のレコードを持ってきてくれて勝手に店でかけるんですよ。僕はロックやフォークを彼らお客から教わることになるんです。初めて聞いたエイプリル・フール(編註:小坂忠、菊地英二、柳田博義、細野晴臣、松本隆からなるバンド。のちにはっぴいえんどの前身、ばれんたいんぶるうに発展)やはっぴいえんど(「風街ろまん」)、ピンク・フロイド(「原子心母」)なんかとても衝撃的だった。へぇ〜ロックって結構面白いんだって発見する訳ですよ。烏山ロフトは解放されたジャズスナックみたいな感じかな。

--お客が勝手にかけるってのが面白いですね。

平野:浅川マキやフリージャズの山下洋輔なんかを聞いて、それがあまりにも新鮮だったのを覚えててるね。「ダンシング古事記」は僕のジャズの歴史を変えてくれた1枚ですよ!その後ずいぶんたって、烏山ロフトでは時折フォークの生ライブなんかもやってましたね。当時の「がらんどう」に一番影響されてたところがありますね「がらんどう」ってのは村瀬さん…だったかな、彼がやっていた吉祥寺のフォーク喫茶で、別にPAとかステージなんか全くなかったんだけれど、いろんなフォークシンガーが気紛れにやってきて、突然ギターを取り出して歌うんですよ。居合わせたお客さんも高田渡の「自転車に乗って」なんて曲を一緒に歌ったりして、みんな生音で、もちろんライブチャージなんかなくって、本当に自然にそれより昔の「歌声喫茶」みたいな感じだったね。

--その頃の音楽業界というのはどんなシーンだったんですか。

平野:今言ったような「日本のロック」に僕が出会って、そういう「僕らが支持する音楽」をみんなに聞いて貰おうっていうテーマがあったんだけど、そういうのをやる場所がなかったんですよ。日比谷の野音で年に1回行われるロックコンサート(日本ロックフェスティバル)にはっぴいえんどが出たり、頭脳警察が出たりするのが精一杯で。当時はキングベルウッドレコードの三浦(光紀)さんや大蔵(博/(株)ミディ代表取締役)さん、ヤングギターの、ほら、シンコーミュージックの…そう、今や偉い人の山本(隆士)さん、風都市の上条さん、如月ミュージックの田中さん、テイクワンの柏原(卓)さん、長戸(芳郎/ビリーヴ・イン・マジック)さんや前田(祥丈)さん達が頑張っていて、少なからず日本のロックやフォークのレコードは出てはいたんだよ。でもこれいいな、このバンド見たい、会ってみたいと思ってもやる場所も見る場所もない。じゃあオレが作っちゃえ、っていうのが最初の発想。吉祥寺にあったライブハウスの「オズ」や渋谷の「マガジン1/2」…それらが全部つぶれて、僕がライブが出来るロフトをやろうとしたときには、東京には常時ライブをやっている空間が1軒もなかった。勿論ライブハウスて言葉も、「ぴあ」なんていう情報誌すらなかった時代だからね。

--フォークブームは終わってる頃ですよね。

平野:中津川フォークジャンボリー(1969年/1970年)が終わって、新宿西口フォークゲリラの残党やヒッピー文化の生き残りが福生のアメリカ軍住宅や吉祥寺周辺でやってたころだね。大瀧さんや細野さん、パンタさん、友部正人とか高田渡、遠藤賢次、久保田真琴とか、そういう連中がひそんでこつこつと自分の信じる音楽をやっていた時代。

平野 悠2

--そういう状況でロフトを作ったということは、お客さんはどうだったんですか?

平野:まったく、悲惨な状態だったですね。まあ、ライブは客が入らなくて赤字というのは開店してしばらくしてから当然と思っていたから…。チャージは100円から高くって600円かな。コーヒー一杯が150円の時代。だから店でのライブ演奏が後半になるとチャージ無料にして、通りがかりのお客さんを呼び込んで入れていた。その時代、とにかく誰でも良いから、一度でも聞いてさわって貰いたかった。ミュージシャンも全然文句言わなかったんですよ。だから僕がこだわっていたのは情報が発信出来るロック、フォーク、ジャズ居酒屋なんですよ。楽屋もオープンにしてと言うよりそんなもんなかったし、出番までは客席で待っていてもらって、お客さんはいつでも音楽家と話すことができた。なぜこの3つが共存できないのか、みんな同じじゃないか?という意識があってね…。

--古き良き、ライブハウスのあるべき姿ですね。ロックのロフト、になるのはいつ頃なんですか?

平野:だんだんロック中心になって来るのは荻窪ロフトの時代ですね。1軒目の西荻窪ロフトはフォークが主流の時代。防音、機材の不備があったんで。まあなんて言っても照明は裸電球に銀紙くるんでたし、PAはヤマハの6チャンネル、スピーカーはジムテック、ピアノはアップライト。ほとんど生音状態ですからねぇ。昼12時から5時までロック喫茶をやって、5時から9時半ごろまでライブやって、またすぐ現場をかたづけて朝の4時までまた居酒屋やる。ライブは客入らないもんなんだから。ライブで儲かったことなんてほとんどない。ライブは客入らないけど、残ったお客さんとか、ロック好きのお客さんがひとつのシーンの中にいて、それをのぞいてみたい、ていうお客さん相手に居酒屋をやって僕はずっとメシ食ってきた。だから、ロックのライブでメシを食うって発想、ライブチャージの上がりで経営するって発想はまったくなかったね。そんなこと不可能だったし、だから居酒屋で稼いでいた。酒と音楽って言うのは不可欠だと思うからね。僕は酒飲みだから(笑)。だからどんなに客がはいらなくってもライブハウスをやり続けられたのかな?

--アメリカではそういうパターンが当たり前ですよね。それがアメリカの懐の深い土壌を作ってきたルーツ・バックグラウンドであり、そういう所からアメリカのジャズやロック、ブラック・ミュージック、カントリーなどが育ってきている風土がありますよね。そういう思いは漫然と頭の中にあったんですか。

平野:そうですね。まだアメリカを見たことなかった時は自然に適当にやっていたんですけど、一度行ってからはアメリカ行くたんびにね、なんでみんなこうやって楽しそうにやってるんだろうって思ってた。そして自分のやって来たことが間違ってはいなかったと確信するようになったのかな。PAだって酒飲みながら女と肩組んでやってたり、ステージングだって楽しそうにやってるし、お客も中高年もたくさんいて、雑談ありで、なんでこんなに自由なんだって。その点なんで日本ではPAや照明スタッフは真っ青な顔してやってるし、どうしてこんなに楽しめないんだろうって思いはありましたね。

--そういう日本にバカヤローって言えない自分からつなげていって、日本なりの形を作っていたわけですよね。ルーツはやっぱりアメリカですか。

平野:そうですね。僕はいちばん初めにはまったのはジャズでしたから、それもコルトレーンさえ聞いていれば満足と思っていた時代が長くあって。やっぱり昔のアメリカのライブハウスっていうのは、その原点は郵便局員や道路工事の労働者達が昼間働いて、夜気の合う仲間同士が三々五々地下室にやって来て演奏を楽しむ。それをみんなコーラやハンバーガー、ビール片手にちょっと聞きに楽しみに来る、それがライブハウスの基本でしょ。音が悪いとか照明がなんてそんなのは酒を飲んで、音楽を楽しむって言うことにはあまり関係ないと思っていたんですよ。重要なのは表現者と聞く方のコミュニケーションの仕方が重要なんだと…。

--そのへんもやっぱり60年代のアメリカ文化の影響がありますよね。日本人はジャズ喫茶にしてもこうみんなで真面目そうに聞いて、私語禁止、みたいな感じでしたよね。もう文化が全然違う。烏山に最初のロフトを作ったのは正確には何年ですか?

平野:1971年。烏山はジャズ喫茶だったけど、1973年に西荻ロフトを作って、これはまだフォーク喫茶みたいな感じだった。そのころは本格的なライブをやれる場所がほんとになくて、それで1974年に作ったのが荻窪ロフト。荻窪はティンパンアレイ系のミュージシャンのたまり場みたいなもんだったよ。下北沢ロフトがその次の年で、新宿ロフトができたのは1976年だね。自由が丘ロフトが1980年かな。結局その時点ではロフトは6店舗あったわけなんだけど。

--さきほどのお話で、居酒屋で儲けるっていうことは、出演バンドのノルマとかはないわけですよね?

平野:もちろんノルマはないですよ。すべてライブチャージは出演者に返していたんですよ。客が全然入らなくても、きちんとチャージ分は返していた。僕らは飲食代でかせぐっていう方針。入った人数分のチャージをピンハネするようになったのはもっとず〜っと後のことですね。

--ほんの数年のあいだに、ノルマがないという経営の仕方で6軒にも増やしてしまうっていう、その経営手腕はすごいですね。

平野:ライブでは全然儲からなかったですけどね。客より演奏者の方が多いというのは日常でした。でも、ライブのおかげで店は有名になっていくし、ロック居酒屋ではよく客さんが入ってくれました。外でライブが終わるの待って行列まで出来ていたんですよ。ライブではあまりお客さん入らないのにね。下北ロフトのサザンオールスターズのライブなんか客5人以下なんていうのが続いてたしね。サザンがこんなに大きくなるなんて当時は全然思わなかったけど、メンバーが下北ロフトの店員やってがんばってくれてたから文句言えなかった(笑)…サザンが凄いバンドだって発掘したスピードスターの高垣さん!すごいですね、脱帽ですよ。サザンもね、ロフトにまた一度は出てほしいと思うけど・・やっぱり資本の論理で無理ですかねぇ?タモリが東京初進出のライブをやったのも下北ロフトだったし、楽しかったですよ。小屋のおやじもお客も彼ら音楽家と一緒に新しい時代を作っているんだと言う共同作業という感覚があったし。初期のロフトの頃がいちばん楽しかった。

 

2. ティンパンアレイからパンク・ムーブメントへ

平野 悠3

--平野さんが特に印象に残っているバンドっていうのはありますか。

平野:僕がいちばん面白かったのはティンパンアレイの前のはっぴいえんど、はちみつぱい(後のムーンライダース)、あの伝説のバンド、バンブー…バンブーっていうのは結成して一度しかライブをやらなかったんですよ。ロフトで徹夜で練習してその次の日に解散したものすごいバンドだった…メンバーわかります?わかった人は偉いですよ(笑)。そんなバンド達を見れただけでも幸せ者でしたね。山下達郎のシュガーベイブ、鈴木茂とハックルバック、桑名正博とゴーストタウンピープル、柳ジョージとレイニーウッド、矢野顕子とか…そうそう、売れる前の太田裕美まで見れたんだからね。あの時代がいちばん面白かったですね。そのころは新宿ロフトはまだなくて、荻窪ロフトでしたけど…(当時のスケジュールを見る)……ほら、これは1974年ですけど…はちみつぱい、荒井由美、藤竜也、山下洋輔、本田竹廣、三上寛、友部正人…もちろん内田裕也もやってましたよ。

--すごいですね。

平野:でしょ。…矢野顕子、桑名正博、愛奴(あいど)。この愛奴ってのは浜田省吾のいたバンド。この時代は経営も苦しかったけど、いちばん面白かったね。

--荻窪のキャパってのはどのくらいだったんですか。

平野:最大限入れて、100ぐらいじゃないですか。このころはスタンディングじゃなくて椅子席だったからね。スタンディングという発想は全くなかったですね。そんな時代だったから、新宿ロフトのオープンのとき(1976年10月)もすごいメンツだったよ。

本格的ライブハウスと言うふれこみで、当時キャパ、機材、収容人数では日本最大だった。これが僕にとってのライブハウスの完成形だった。だからライブハウス店舗展開はこれで打ち止めにしたんです。オープンセレモニーはソーバッド・レビューから始まって、桑名正博、吉田美奈子、山崎ハコ、サディスティックス…これが、新宿ロフトを作ったときのだいたい基本ね。「パンクのロフト」って言われるのはそのずっとあとのことで、その前が面白かったんですよね(笑)。まあいってみればニューミュージックの時代ね。

このころにはもう桑名(正博)、チャー、原田真二がロック御三家と言われ僕たちの期待を一心に集めていた。売れ出したらロフトなんていうライブハウスなんかには出演しなくなるのにね?坂本(龍一)はまだ銀パリなんかでシャンソンのピアノ弾いていた。

平野 悠open

--ロフトがいちばんもりあがっていたのは70年代ですかね。平野さんはいつごろまで関わってらしたんですか。

平野:暴威を全く客が入らないゼロから始めたぐらいが最後に手がけたものってことになるんですかね。ARBやルースターズ、アナーキーのいわゆるニューウェイブと言う時代で、それなりにブレイクしていて、その後パンクムーブメントがあって、そのころのロフトは「パンクのロフト」って呼ばれてかなりもりあがってた。パンクってのは衝撃だったよね。一方ではヘビメタが「東京殴り込みギグ」って大野(祥之/音楽評論家)さんの力で44マグナム、アンセム、マリノ何かをひきいてブームを作っていく。もう一方ではヒカシューやP-MODELなんかがいい音出していて。イギリスやドイツのシーンに影響された日本のパンクは1バンドがーっとものすごい早いテンションで15分ぐらいしかやらないんだもんね。僕がいちばんぶっとんだのは「非常階段」とか「スターリン」「フリクション」「S-KEN」「突然段ボール」「ゼルダ」「なぞなぞ商会」「くじら」っていうバンド群。ああ、こういう表現もあるんだなって思った。これはおもしろいな、って。それで直感でこういうのを中心にしてやっていこうと思ったんですよ。当時こんなバンドだれも怖がって入れようとしなかったのに、ロフトではパンクに門戸を開いた。

 でも結局、最終的には僕はパンクを追い出したんですよ。僕は日本のパンクをつぶした張本人って言われてるんですけど(笑)。「非常階段」なんてライブで臓物は投げるし、腐った納豆を客席にばらまく。ロフトの店員さん達から猛烈な抗議を受けたりして…「これでは僕ら働けません」って、臭いがすごくって、何日も店では食事が出せなかった。「じゃがたら」のアケミが「商業主義ロフトをつぶせ!」ってアジって蛇を投げたり、イスを投げたりすして店を壊そうとするんです。「フールズ」なんか客が入っているのに「これから風呂に行ってくる」って言ってライブを始めたのは10時頃。さすがこれには怒りましたけど。

 でもこういう不良バンドっていい音出すんですよね。やっぱりロックは不良の音楽であるべきだっていう信念がますます強くなっていきましたね。間違いなく今でも通用するんですよ。だから音楽好きの人は絶対聞いてみて欲しいな。僕は馬鹿だから、そういうのも面白がってしまう体質なんで、音さえ僕を納得させてくれれば何でも平気でした。じゃがたらが投げた白蛇の何匹かは最後まで見つけられなかったしね。でも、その頃のパンクはいい音出していた。最後のころのパンクっていうのはひどかったんですよ。もうただ混乱を見に行くだけのような感じで、乱闘するだけ、という感じで。どうしてパンクを追い出したかというと、そのころはリザードとかフリクション、S-KENとか、そういう音を大事にする大物連中は去っていって、最後に残ったのはテーマが薬と酒と女と暴力、それだけの連中が、勿論お客も含めて、ただ騒ぐためだけにロフトに来るという。これには参っちゃったね。お客さんもライブ会場に入らないで店の前でたき火をして通行人を襲ったり、通りの車にビール瓶投げつけたり、大騒ぎするんですよ。なんと言ってもはとバスが店の前に止まって中でガイドが田舎のおじいちゃんやなんかに説明しているんですよね。この時期に付近住民から第一回目の立ち退き署名運動が起こるんです。当然ですね。住んでいる人達はたまったもんじゃないですよ。僕も署名したいくらいだったから…。

--あれはしらけましたよね。

平野:ですよね。あれが悪くしたというか…僕はああいう混乱やぐちゃぐちゃは大好きなんですよ。店がどうなってもいいとは思っているんだけど…。ステージに空の缶ビールが跳ぶことは結構あったんですけど。パンク末期の頃にはステージに傘までが飛ぶようになって、ステージは明かりで見えないじゃないですか。これはもうその危険度が半端じゃないと思うようになって、パンク一切やらない、って断固言い切ったんです。勿論ひかげのバンド(スタークラブ)なんかは大事にしていたけれど。そのあともアシベとかでやってたのもありますけど、結局は主流になれなくなったというのがその時代ですね。

--そのころは地方のライブハウスとの連動はなかったんですか。大阪とか。

平野:あんまりないですよね。ライブハウスはミュージシャン、客の入るいいバンドの取り合い戦争ですからね。とくにロフトなんかは、1回地方のライブハウスと仲良くなっちゃうと、地方からバンバン客の入らないバンドを送ってきて、それをやらざるをえないっていうのがめんどくさいんで(笑)、なるべくならつながらないんですよ。東京に店構えてるとそういうところがめんどくさいっていうのがあって、あんまりライブハウス同士のコミュニケーションというのはないんじゃないですかね。昔から。

--今もないんですか。やってはいるみたいなんですけどね。僕は参加したことないんですよ。以前、新宿ルイードの田中さんが中心になった「ライブハウスコミュニケーション」と言う親睦団体はあったんですけど…でもただの飲み会でした。今は「ライブハウスの会」とかはやってるんですけどね。今そこで問題になってるのはダイブ問題とかですけどね。今すごいんだよ、ライブでダイブしてケガして、親が出てくるんだから(笑)。ダイブ禁止、やめてくれってこちらでは言ってるのに勝手にやってケガしたくせに、親が出てきて「確かにうちの子供が悪い、しかし、では店に全く責任はないっていうんですか、仕方がないですね、では裁判で…」なんていうんですからねぇ。

平野:移転する前のロフトはダイブに1億円の保険をかけていて、他のライブハウスがみんなダイブを禁止する中、ロフトはダイブを保証していたんですよ…当時保険会社はダイブってどれほど危険なのかの認識がなかったんで契約できたんだけど、新しい新宿ロフトの時はそのダイブのやばさに保険会社がビックリして、再契約は出来ませんって言われちゃったんですよね。ライブハウス側も定員以上のお客さんを入れているから弱みはあるんですよ。これじゃあダイブ禁止するしかないでしょ?若者に自由を保障するって難しいよね。

 

3. ロックに対する絶望〜世界放浪の旅へ

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--その後、新宿ロフトだけを残して日本を離れ、旅に出られてしまうわけですけど、きっかけは何だったんでしょう。

平野:そのころの背景はその本(『旅人の唄を聞いてくれ!』)を読んでいただければ判ると思いますけど…僕が旅に出たころは、ロックに絶望していたころなんだよね。今まで自分が支持してきたロック、不良の音楽であったものが、山下達郎とか坂本龍一とかどんどんブレイクして、ライブハウスが単なる武道館や渋公へのステップの一部になってしまっていた。大手資本も訳の分からないプロダクションも商売として入り込んで来るようになって、それがばかばかしくなってしまった。その時代まではロックっていうのは手作りで、みんなで楽しくつきあって作りあげてきたものだったのに、突然大きなビジネスになって、吉野屋の牛丼がおいしいかどうかって言ってったやつが、突然六本木のしゃぶしゃぶがうまいかとかいう話になって「ロフトなんか出られねえよ!」って言い出すわけですよ。いきなり儲かってくるとね。そういうのを見るとオレにはもうポジションはないし、ライブハウスをやっている意味がないという意識が強くなって、何か取り残されてしまったな、もうオレの役目は終わったなって思ってしまったんですよ。

 ロックに絶望したというか自分のポジションが解らなくなってきてしまったんです。みんななんとか多くの人に聞いて欲しいと頑張っているのに、「売れたら出演してくれなくなる」というのが悲しくって、「俺は一体何をやってきたんだろう?」って思ってしまって、仕事が面白くも何ともなくなった。それまでが楽しすぎたっていうのもあるでしょうけど、いつまでも残しておくには、ここで俺は身を引くしかないと思ったんですよ。かっこいいでしょ?

--大きなビジネスになってしまったロックに絶望したと。そもそも、最初に日本を出られたのはいつなんですか。

平野:というか、大手資本の論理に対抗する手段が僕にはなかったと言うのが本音ですよね。海外ですか?僕は遅かったんですよ。下北沢ロフトを作った頃かな。27歳のころ、初めてアメリカに行きました。アッコちゃん(矢野顕子)のロスレコーディング(『ト・キ・メ・キ』1978年作品)があって、それに勝手に自費参加したんです。

--じゃあ本格的に10年間の放浪の旅についてお伺いします。ロフトを締めて旅立たれたのは…

平野:1982年ですね。当時、烏山、下北沢、西荻窪、荻窪、自由が丘、新宿と6軒のロフトとレコードレーベル、プロダクション、機関誌(ルーフトップ)、内装会社なんかを持ってたんですよ。

--そんなに手広くやってらしたんですね。

平野:今ではライブハウスがレーベルを持つことは当たり前みたいだけれど、僕はもうこの時代に挑戦していた。うちのレーベルからは竹内まりやがデビューしているんですよ。売れ出してからは一度もロフトには出てはくれなかったけれど(笑)。

まあそれで、そういった会社や、ライブハウスも新宿以外はすべて閉店するか店長に暖簾分けするかして、決断してしまったんです。それまでの僕は毎日が会議の連続、店回り、売り上げ至上主義に陥って、その頃僕の友達はみんな離れて行ってしまった。「あの頃の平野ってとっても嫌な奴だった」と言われるぐらい何が偉いんだか威張っていたんですよね。本当に恥ずかしいと思って全てを手放して、旅に出たんです。もうそんな自分を含めて日本が嫌になって、帰る気はなかったしね。

そのころ僕はバックパッカーにはまっていて、無期限の世界放浪をしたくってたまらなかったんです。それをやるためには一切の仕事を放棄するしかないと思ってしまったんですね。仕事、親、金、恋人、友達、生まれ育った故郷、というすべてのしがらみを断ち切った時に、初めて自由が手に入るっていう思想を感じていたんですね。僕は新しい国に行くのが好きで、カントリーハンター、フラッグハンターをやってたんです。これはバックパッカー用語なんだけど、その国の首都に最低1泊以上滞在すればその国を制覇したことになる。資金は現地調達して安宿に泊まって陸路で国境を移動する。そういうバックパッカーの旅でとにかく世界100カ国まわってやろうと思っててね。そして、どこか見知らぬ国でのたれ死にしたい!って…。

--それっておいくつのときですか。

平野:35歳〜45歳の10年間。最初の5年は世界を放浪していて、あとの5年はドミニカに住んでたんですよ。日本に帰ったのはそのあいだ2〜3回だけだったかな。

--旅のあいだはどうするんですか。

平野:ほとんど安宿に泊まって陸路で移動して貧乏旅行に徹して、あとは働いてましたね。

--働くんですか。

平野:いろんなところで働いて皿洗いやって資金をためて、また2、3ヶ月なにもしないでひたすら旅するんです。勿論陸路で。一応一軒だけ残した新宿ロフトからは毎月給料振り込まれてたし、日本には店を処分したお金もありましたけど、持って行かずに、現地で調達してました。それがバックパッカーの基本ですから。

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--ロフトの経営者なのに、そんなことやってたんですね…。

平野:やっぱり働いてみたいじゃないですか、特に外国で、英語の勉強にもなるし。ニューヨークのレストランで移民局の摘発を恐れながら一日中皿洗いしたり、オーストラリアでフルーツピッキングとかいって、地平線の彼方まで続くオレンジ畑とトマト畑とかで汗いっぱいかいてオレンジつんだりするんですよ。たぶん仕事が終わった後のビールはおいしいだろうな〜っていう幻想をもって…そういうのって1回やってみたいじゃないですか。死ぬ前にどこまでいろいろできるかっていう。結局好奇心なんでしょうね。でも、一番面白かったのは日本語の先生やっていたとき、これは楽なんですよ。相手の言っている事理解できなければ「日本語で喋りなさい」って言っていれば何とかなってしまうし、生徒(それも金持ち)からリスぺクトされて家庭に招かれたりするし…。

--それは貴重な体験かもしれない(笑)。旅ではほんとにいろんな体験をされたわけですね。

平野:そうですね。音楽一筋、経営に一筋とかじゃなくて、僕はいろいろな好奇心があって、それがすべてなんですよ。でも放浪の旅も4年を過ぎると飽きてくるんです。どこへ行ってもどんな風景や人と出会っても「これってどこかで見たような、経験した風景だな」って思ってしまうようになってね。非日常である旅が日常になってきてしまうんです。感動や驚きが何しても喪失してしまったんです。
 バックパッカーには北米、南米、ヨーロッパ、ユーラシア、アフリカといろんな陸路制覇のコースがあるんですけど、そのほとんどは制覇してしまって、僕は最後に、パッカーたちにいちばん難しいと言われてるアフリカのサハラ縦断コースをやって、これでバックパッカーを卒業しようということにして、それでサハラ縦断に挑戦したんです。

--サハラ縦断っていうのは歩いて行くんですか。

平野:今は良く知らないけれど、足で歩いていくのはムリなんですよ。歩いてたら水が無くなって終わっちゃうからね。リヤカーかなんかで食料や水を積んでいくしかない。そのころニジェールとかそういう小さな国が、いろいろな所に点在する町やヨーロッパに買い出しにいくキャラバンがあるんですけど、これは絶対1台ではいかないんです。砂で動けなくなった車を皆で助け合っていくんです。昔はラクダだったんでしょうけど、今はトラックで、その運転手と交渉して荷台に乗っけてもらうんです。それを乗り継ぎ乗り継ぎ、行くんですよ。

--先の保証はないわけですね。砂漠でこの先どうなるかわからないっていう。

平野:そういうことを求めていってしまうのは、やっぱり革命運動のせいというか、より緊張感とスリルを求めてしまう性分というか、そういう状況を楽しんでしまうんでしょうね。

--サハラの話も壮絶ですけど、ほかにもアフリカはやっぱりすごい体験でしたか。

平野:すごかったですね。僕はエチオピアでマラリアにかかってしまって、2週間入院していたんですけど、それを背負ってサハラ砂漠の挑戦したんでとてもきつかったですね。アフリカですか?やっぱり違いますよ。想像を絶するというか、ほかにはないですよ。他の国は南米でもアジアでも一応道路はちゃんとあったりして、何日かに1回とかバスが通ってたりするんですけど。アフリカでは雨がふって川が洪水になると1週間位そこでとまったり、国境でいちゃもんつけられて、通してくれなかったりするんですけど、でも極地はみんな助け合って生きているんです。アフリカの人はいい人たちですよ。貧しい国に行けば行くほど、人は親切ですよ。パッカーの旅って要するに人を信用するところから始まるんです。あれ怖い、あそこはやばいなんて思っていたらパッカーの旅は出来ません。目標は100カ国制覇だったんだけど、最後はもう疲れてきてしまってね。それでもマラリアの再発がこわくって、医者もいないところで再発したことがあって、「俺ってここで死ぬんだな〜」なんて思ったことは何度もありました。でもそういうときって心は意外と穏やかなんですよ。「俺は誰からの命令でここにいるんじゃない。こういう旅をしていればどこかで命を落とす危険も覚悟の上の旅じゃ〜ないか、しょうがねえな〜」という気分になる悟りみたいな感覚になるんですね。旅の最後の頃は旅と言うより病気との戦いの連続でしたね。もう安宿にも泊まれなくなってしまうし、移動は飛行機を選ぶ様になって…それで結局84カ国で終わっちゃった。もう旅はいいや!っていう感じだったんです。

--残した16カ国のうち、あそこだけはまたいつか挑戦してやろう、なんて国はありますか。

平野:ないねぇ(笑)。今どういう状況になってるか知らないけど、たとえば今サハラ縦断もう一度やれって言われたら、金積まれたって絶対やらない(笑)。苦しかった事しか覚えていないんですよ、サハラは。だからきっとそういうもんなんですよ。そのときはすごいやりたかった、これをやりきらなければ終われないっていうことなんでしょうね。そこで完全燃焼しつくしたと言う充実感が残ればそれで終わりにしても良いと思っていたんですよ。だから、パッカーの世界で一番難しいコースをやりきって終われたんだと思う。

 

4. メレンゲの国、ドミニカでの5年間

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--サハラ縦断を終えてドミニカに渡るわけですね。5年間世界を旅して、最後に選んだのがドミニカだったということですか。

平野:そうですね。僕はね、自分自身の存在をふくめて自分も日本も嫌いだったんです。全共闘の時代は面白かったんですよ。勿論ライブハウス初期の頃も旅も…毎日毎日緊張感があって、1ヶ月に1回か2回かは、「今日もしかしたら死ぬかもしれない」とか思って、自分が信じた理想に向かって行くわけじゃないですか。「革命だ!」とか言ってね。あれは飽きなかったですね、こんな事やったって一銭の得にはならないし、かえって就職はなくなるし、良いことなんか一つもない訳じゃないですか?でも「俺は生きているぞ!」っていつも空に向かって叫んでいたような気がする。あの時代はむちゃくちゃ面白くて毎日充実してた。本も読まなくちゃいけない、勉強もしなくちゃいけない、機動隊とも戦争しなくってはならないし、逃走もしなくちゃいけないって、すごい面白い時代だったのに、連合赤軍が日本で最初の権力との銃撃戦を浅間山荘でやって、凄惨なリンチ内ケバ事件があって、だれもが反体制運動に幻滅してしまった。

 そしてそれがいつのまにか若い夫婦がペアのTシャツ着て歩いて、ショートケーキ半分に切ったようなウサギ小屋が並んでる国になっちゃって、いわゆる「片隅の幸せ」っていうんですか?「赤い屋根と緑の芝生、白いスピッツ、可愛い母ちゃんがいれば最高の幸せ」という面白くも何ともない時代になって、「なんだなんだこの国は、世界はもっとすごい形で動いてるじゃないか、俺は今何をしているんだ〜」って思ったんですよね。それでもう、日本は捨てよう、死ぬ場所を探すために旅に出ようと放浪して、どこで住んで、どこで骨を埋めようかとず〜っと思ってたんですよ。

--そこまでの覚悟で行った放浪だったんですね。

平野:それぐらい日本が嫌いだったんですよ。それで、ここ(ドミニカ)なら、ちゃんと自分の生活手段を確立するために商売して、生活手段を稼ぎ出して、馬鹿な話だけどちゃんと天皇誕生日には大使館から招かれて、市民権を獲得して、友達から家庭パーティに招かれて、無責任な旅人ではなくってちゃんと隣近所から尊敬されて、市民生活して、そしたらこの国で骨を埋めることが出来るんじゃないかと思ってね。

--ドミニカでは何を見つけたんですか。

平野:それがメレンゲなんだよ(笑)。音楽に興味ないとか言ってたのに、やっぱり音楽だったんだよね。どこまでも激しく情熱的なメレンゲにはまったっていうのと、住み着くのであれば、まず日本から出来るだけ遠く離れているところ、住んでいる日本人が少ないところ、音楽と海がきれいで、それなりですが安全なところが次のテーマである「骨を埋める」国の条件だったんですね。なんといっても軍事独裁政権ではないという、当時の中南米では希有な国でしたから、中南米でいちばん安全だし、物価が安くて、人が明るくって親切で、少しは寿司を食べに来る金持ちがいるところ。ドミニカに決める前からまず日本レストランを作ろうと思っていたんでね。海(カリブ海)がきれいで、人口たかだか600万の国でしょ。そこでアンテナをしぼってればいろいろなことができるはずだと思ったんですよ。生き馬の目を抜く東京で商売を成立させたんだ!という確固たる自信があったんでしょうね。失敗するなんて考えたこともなかった。でも失敗してしまった。五年間は頑張ったんだけれど…僕は日本料理店をやってたんだけど、なにしろカリブ海諸国では初めての本格的(?)日本レストランをオープンしたんですよ。ほかにも貿易とか観光をやったりしていたんですけど。

--日本人で、ドミニカでビジネスしようとしてた人はほとんどいなかったんですか。

平野:商社連中が30人くらいですね。それも日本のODA(海外経済援助)の利権に群がる日本人の連中でした。そこに日本大使館の連中もからんでいてひどいもんですよ。あれは日本の為にやっている経済援助だってドミニカの役人も言っていましたね。もともと 40年前に入った移住者が地方に600人ぐらいは散らばってるんですけど、僕の住んでいた首都サントドミンゴという街には、30人ぐらいしかいなかったんです。そうすると日本との関係では第一人者になれるはずだと思ったんですね。馬鹿ですね…。

--そうやって現地の人々にとけ込んでしまう術をもってらっしゃるということですね。

平野:どうでしょうかね。まあとにかくスリリングで、面白いですよ。どこかで緊張感やスリルがないと生きられない性格だったんですよね、このころは。とにかく一番困ったのはスペイン語の勉強でした。英語はなんとかなるっていう自信は当時あったんですけど、レストラン経営の相棒は日本から意気投合して一緒に頑張った京都の本田さんという板前さんだけで、後は現地の人を雇うのですから、英語では通じないし、役所の届け一つにしてもスペイン語ですからね。だから始めのうちは通訳を雇うしかなかった。

--いろいろたいへんだったんですね。ドミニカのメレンゲに魅力を感じたということですが、隣にはレゲエの国がありますよね。

平野:ジャマイカですね。ほんとはジャマイカに行こうかと思ってたんですけど、ほんとヤバイんだ、あの国は。車で走ってても赤信号でだれも止まらないんだよ。危なくてね。いくらレゲエがいいからって、ここで一生骨をうずめるのもなあって思ったんですよね。とくにジャマイカとかインドとか、イギリスの元植民地から独立した国はみんな性格悪いんですよね。イギリスには白人と黒人は違う、っていう徹底的な差別風潮があって、そういうところから独立したからだと思うんですけどね。ジャマイカ人がいい奴だなんて話聞いたことないですよ。まあ、音楽と大麻は最高かも知れないけれど、その国が心底好きになれなければ永住は無理なわけですよ。短期で遊びに行くわけではないのだから、ハッパと音楽だけではダメなんですよ。何度も行っては見たけれどジャマイカはどうにも好きになれなかった。

--ドミニカにはいい女もいたんですよね(笑)。

平野:そりゃもう、中南米の女っていいんですよ、これが。東南アジアの売春婦の暗いイメージはまったくなくって。海と音楽とハッパが良くて女もよかったからね。

--ドミニカで経営されていた日本レストランはけっきょくどうなったんですか。

平野:その話をすると長くなりますよ。いろいろ面白い話はたくさんあるのだけれど、大変でしたよ。先ほどの僕にとっての永住の為の条件だと、うまくいくはずはないですよね。それでも五年頑張った。ほめてやって下さい。これがもしニューヨークやヨーロッパだったらあれほど苦労することはなかっただろうし、多分成功していたんじゃないかとは思うんですけど、でも、そういった所ってもう僕の前に成功した人ってたくさんいるわけじゃないですか。そんなことやったって面白くないというのが僕の信念だったから。本当に馬鹿ですよね。初めて!っていうことに美学を感じるんですよ。

--南米はほとんどの国に行かれたんですよね。ほかに印象に残った国はどこかありますか。

平野:ハイチですね、ハイチのブードゥーの音楽が面白くてね。ハイチはドミニカの隣の国だし、陸路で行けるんですよ。だから暇が出来ると何度も遊びに行っていましたね。それがまあ〜世界最貧国なんですよ。すごいでしょ?難民と乞食と泥棒ばかりの国なんですけど、でも音楽や絵画、彫刻なんかの芸術分野にとても優れていて、コーヒーがおいしくて、物価がべらぼうに安くって、素晴らしい国でした。あまり住みたいとは思わないけど…。

--ドミニカのメレンゲといい、やっぱり音楽なんですね。本を読ませていただいた限りでは、音楽の話はまったく出てきませんでしたけど(笑)。

平野:そうですね(笑)。なぜその国を選んだのかっていえば、音楽がつまんない国はやっぱり好きになれないんですよね。夜に何するかって言えば、カジノに行っているか淫売宿に行くかで、それでも音楽聞いて酒呑むわけですから。スポーツ嫌いな奴、本が嫌いな奴もいるけど、音楽嫌いだっていう奴は聞いたことないでしょ。だから音楽っていうのは世界中でやっぱり永遠、普遍的なんでしょうね。どこの国に行っても音楽はあるわけだし。

 

5. 「ロフト立ち退き事件」の真相

平野 悠6

--では、当時はかなり話題になったロフトの「立ち退き事件」の経緯をくわしく教えて貰えませんか。

平野:立ち退きの話が持ち上がったころ、僕はまだドミニカに住んでたんですよ。それで帰ってきてすぐ(下北沢)シェルターを作ったんです。要するに新宿の都市再開発で、ビルを立て直すからいったん出ていってくれっていう話だったんですよ。新宿ロフトは 1976年に作ったからもういろんな意味で限界だったし、僕らも何がなんでも都市開発に絶対反対というわけではなくて、ビル立て替えるならしょうがない、そのかわり再入居させてよという交渉をしてて、出来たらパワステぐらいの規模の新しいタイプのライブハウスを作ろうと思っていたんです。だからその避難場所としてシェルターを作っただけなんです(笑)。

--だからシェルターなんですね(笑)

平野:そうです。でも新宿ロフトの大家さんは初めは(立て直したら)自由に使わせてあげるよ、とか、好きな設計で店作らせてあげるとか、おいしい話がいっぱいあったのに、その後バブルがはじけて大家がとんじゃって、一銭も出ない、ただ出てけって話になってしまってね。それでトラブルになって裁判でうるさい、汚い、迷惑だ、無条件で出て行けって訴えられたわけ。で、僕も10年間日本にいなかったんで、日本の裁判制度がどんなものか見てみたくって、なにもやらずに弁護士に任せたままただ裁判だけやってたんですよ。そしたら見事に負けちゃった(笑)。

 あら負けちゃったよって、これは面白いと思って、俺ってばかだから若い奴全部集めて、こう宣言したんです。「俺が尊敬している一人に、三里塚の大木よねさんっておばあさんがいて、この人は三里塚で千葉県の執行官や機動隊に住んでいる家をぶちこわしに入ったときに、自分の体を柱にくくりつけてがんばった不屈の農民のおばあさんなんだ」。もうイデオロギーとかじゃなくて、信念とか権力の横暴に対する怨念とかね。だから闘うんですよ、あきらめないで、最後まで。そういう人は必要だと思うんだよね。で、「オレもそれをやってみたい。みんな嫌なら辞めてもいいけど、オレはロフトに籠城して、機動隊とか都の執行委員に囲まれるなか、電気や水道も止められても最後の最後まで戦い抜いて籠城したい。当然破れていくのだろうけど…それで電源だけはなんとか確保して、それでも来てくれるミュージシャンだけでライブをやってみたいんだ」ってね。何かそれの方が面白いし、かっこいいじゃないですか?そしたら、今のロフト社長(小林)連中は「このオヤジは何をするかわからない、気が狂っている」って思ったんでしょうね。若い連中が署名運動を始めちゃったんですよ。 BOOWYを育てた土屋さんやアナーキーの(仲野)茂、キース、(スマイリー)原島、ホットスタッフの醍醐なんかが立ち上がってくれて「新宿のロックの伝統を守れ!」ってね。それが3〜4ヶ月で署名が18,000も集まったんです。全国から署名簿が送られて来たんですよ。今までロック野郎が署名運動に協力してくれるなんて思ってもみなかった。それで「ああロフトってのは結構みんなから愛されてたんだな。自由でめちゃめちゃだったけど、愛されてたんだな」って思ったんです。

--すごいですね。

平野:それでその署名を裁判所で裁判長の前にどんと積んだんですよ。さらにマスコミが「ロフトの大家は日本の全ロックファンを敵に回した」「日本のロックの聖地の危機」とかいろいろと大げさに書くわけですよ(笑)。筑紫哲也さんの「異論反論オブジェクション」にまで登場したりしてね。そうなると裁判所がびびるんです。これは政治じゃなくてただの立ち退き問題じゃないですか。これが政治だったら、裁判所はもう法もへったくれもないようなひどい判決をくだすんだけど、音楽で大話題になってしまったから司法権力がびびっちゃって、なんとか調停に持ち込もうと大家をおどすんですよ。調停に持ち込まなければ不利な判決が下るよ、って脅したんで、それで僕らが勝っちゃったんです。

 でもロフトはお金の要求は全くしてないんですよ。単に再入居させろって言ってただけなんです。新しいビルが建つわけですから、僕らもある程度自由に設計できるわけじゃないですか。今ならパワステに勝てるっていう意識が強かったのかな。でも今やパワステもなくなってしまって、その時パワステ存続運動一つ起こらなかったね。この時代いくらパワステが天下とっているといっても、やはりロフトとは違うんだと思いましたね。

 僕がさらにびっくりしたのは、ロフトの立ち退きに関してたくさんのミュージシャンや若者が動いたこと。このイベントもそうですけど…(ロフト存続を訴えるライブイベント「KEEP THE LOFT〜ででで出てけってよ!」)…100名近くミュージシャンがノーギャラで出演してくれたんだけど、これはうちの若い連中がやったんですよ。こういう署名運動なんていうのは僕は嫌いなんです。バカだから「ただ実力闘争あるのみ」なんて思っていたんですね。でも若い連中が頼まれもしないのに自主的にやったんです。若い奴らは俺に任せたらなにやるかわかんないって思ったんでしょうね。そしたら職も失っちゃうし(笑)。

--ということは、これを勝訴に結びつけたのは若い力だったんですね。

平野:そうなんですよ。びっくりだよね。『ミュージック・マガジン』で小野島(大)さんなんかが「ロフトの戦いは、今の無気力な若者達に、負け犬にならないで闘えば道が開ける事を教えてくれた」なんて書かれたときは本当にうれしかったですね。

--いつのまにか育ってたんですね。それで、ロフト裁判は結局どうなったんですか。

平野:裁判としては2審には進まずに「調停」で勝って、再入居の権利を勝ち取っていたんですけど、その後バブルが想像以上にはじけちゃって、立て替えどころじゃなくなったんですよ。大家が潰れてしまったんです。ビルは第三者が競売で競り落としていて、新しい持ち主はロフトになんの義務もないわけですよ。勿論闘おうと思ったら闘えるんですけど、新宿ロフトも古い機材のままなんで、もう新しい時代に対応できないから、やっぱり出るしかないってことになってね。結局今の場所(歌舞伎町)に移って1年ほどになります。それも、場所を移してもどうしてもロフトを続けたいっていうのは、僕の考えではなくて、うちの若い連中で、彼等が作ってきたんですよ。僕はもうロフトを続けてること自体それほど興味なかったんですけど (笑)。

--もう興味ないんですか。

平野:そうですね。でもロフトって不思議なところでね、ロフト信者っていうのが育ってくるんですよ。うちの今の社長とか、あいつらのほうが全然僕よりロフト大好きだもの。彼等のロフトを愛する気持ちからの提案にはとても勝てないと思ったんです。

--それはいつのまにか後継者を育ててたってことですよ。なんか本田宗一郎みたいですね。

平野:本田宗一郎さんとは格は違うけどそうなんですかね(笑)。そう言えば僕も今は会議にも呼んで貰えないですよ。あの人が来ると何言い出すかわからない、会議が進まないからって(笑)。本田宗一郎さんもそうでしょ。ロフト20周年の武道館でコンサートをやった時も「有名バンドの中に俺の推薦するバンドいれろ!」とか言い出すし、「ちんぽしごいて32年、とか、中途半端な人生、なんて名曲を持っているシンガーのゴールドマン(AV監督)を出せ!」とか言ってたんですよ。このゴールドマンっていうのが面白くてね。丸裸でステージするんですよ。そしたら小林が僕にこう言ったんです。「わかりました、悠さんの指示ならやりますけど、そのかわり、スピッツや布袋さんやなんかは多分出ませんよ、スポンサーも降りるでしょう。多分赤字は6〜7千万になりますけど、それでもいいんですか?」…なんて脅かされてしまったりして。若い奴らから完全に無視されるの(笑)。議題が違う方向へ行っちゃうから。だから今のロフトの音楽関連の話では会議すら呼んでくれない。呼ぶとろくなことにならないから(笑)。それでいいんじゃないですかね。あとは若い奴がやればって。

 

6. ロフトをつぶしたい!?創始者のひそかな野望

平野 悠7

--平野さんは音楽業界、ミュージシャン以外にもかなりの人脈がおありでしょうね。

平野:どうでしょうね。プラスワンに出てくれるような文化人とかならたくさんいますけど、僕ホントにミュージシャンとはあまり付き合いはないんですよ。彼等ほど扱いにくい人種はいないですから。

 僕がミュージシャンとほとんど話さなくなったのは、新宿ロフトを作った時ぐらいかな?昔は演奏が終わった後に酒の席で「なんだ今日の演奏は…」とかよく言ってたんですよ。「なんだあのドラムは!」とかね。そうするとミュージシャンは傷ついちゃうんですよ。そのうちにマネージャーが飛んできて、「平野さん。わかってます。言うのはマネージャーの仕事ですから。ミュージシャンがいちばん調子のいいときに言うのがマネージャーの仕事なんです。それを終わったとたんに平野さんに言われちゃうと、ミュージシャンが落ち込んで次の演奏に響くから、やめてください」って言うんですよ。たしかに当たり前かも知れないけど、そういうことが何回かあって、それで僕はミュージシャンと話すのが嫌になっちゃったんです。今日の演奏はどうだったよ、もっとこうしたらいいんじゃないか、ああしたらいいんじゃない、そういって一緒に作っていきたいのに、内部の人以外はみんなおべんちゃらだけになってしまって、そういうのはプロ(マネージャー)がやる、ライブハウスはただ演奏させてその上がりで喰ってればいい、っていうそういう感じになってきてね。そうすると、音楽が面白くてやってきたのに、オレは何なんだと。単なる渋谷公会堂の管理のおじさんと同じじゃないかと思ってきて、どんどん離れてしまったんですよ。

--でも平野さんとロフトが日本のロックシーンに果たした役割はとてつもなく大きいですよね。

平野:そんなのあるわけないじゃないですか。まあね、多分ロフトがなかったらロックやめていた音楽家は少なからずいるとは思いますけどね。

--当時は芸能界、歌謡界はあったけど、ロックシーン、ロックをやる場所がなかったんですよね。

平野:そうかも知れないですね…僕はほんとはね、実はロフトをつぶしてみたいの。何でかっていうと、今の名だたるミュージシャンっていうのは、ウチがなかったら多分成立しなかっただろうバンドがあるわけ。彼らに落とし前をつけてみたいと時々思うんですよ。それで、「もうロフトは終わります。だからファイナルイベントに1回だけでもいいから最後に出て欲しい」って直接音楽家に会って交渉してみたいの。2〜3ヵ月はイベント打てるのかな〜、最後だからって果たして何人のミュージシャンが出てくれるか…これ僕にとっては面白い実験だと思うんですよ。

--それを録ってソフトにして売るんですか(笑)?

平野:その時はもう音楽業界とは縁がなくなるわけだから、無茶無茶したいんですよ。権利がらみのがんじがらめの音楽業界に一泡ふかせたいという気分かな。売るかどうかわからないけどさ、ブート盤かなんかで出して逃げまくっていたりして(爆)。それを死ぬまでにやりたいと思ってるんだよね。でも、もう、西口のロフトから移転してしまった今は無理だと思うけど…。

--今は大成功しているミュージシャンでも、まったく売れない時期をロフトが支えたんですものね。

平野:そうとも言い切れない部分はたくさんありますけど。

--さっきサザンの話が出ましたけど、彼等は下北ロフトで働いてたんですか?

平野:そうですね。そんな時期もありましたね。昔のロフトのスタッフはみんな音楽家志望者だったから。サザンの連中はロフトの店員やってて、うちでメンバー集めて、夜中店で練習してたんですよ。一生懸命働いてくれれば絶対ステージは保証するよって言ってあげて、夜中に練習してはライブやってたんだよ。最初は客は全然入らなかったけどね。

 今は出演交渉しても「いや、もうロフトのキャパでは客が一杯で危なくってやれません」なんて言われてしまって…。

--でも立ち退き事件のときの「KEEP THE LOFT」(1994年)とか、20周年のイベント(1997年)のときなんかは、大物ミュージシャンが多く出演してましたよね。ロフト文化っていうものがきっちり形成されている証ということですよね。

平野:どうですかね〜。こちらのほうも適当にやっていたからねぇ…。

--ロフトの作った文化の影響は音楽シーン全体や僕らのこれまでの仕事にも影響を与えていると思いますよ。もし平野さんやロフトが無かったら、違った状況になってたかもしれないですよね。

平野:それは少しはあるかもしれないね。ライブハウスの最初のシステムを決めたのはロフトだったと言うことは確かだとは思うけど…。ホント初期は固定ギャラ制だったから、でも僕はロフトが一番もてはやされた時には日本にいなかった訳だから…。実際にロフトが天下を取った時期っていうのは一時期あるんだと人から言われたことはあったけど…。ロフトに出なくちゃミュージシャンじゃない、ロッカーじゃないっていう時代があったみたいですね。今は違うだろうけど。

 

7. カウンター・カルチャーとしてのロック再考

平野 悠8

--ロックに絶望してて、ミュージシャンも嫌い(笑)。日本のロックを語る上ではずせない存在の平野さんを、これ以上失望させないような音楽業界にしないとだめですよね(笑)。

平野:今の音楽業界、ロック業界にどんな風穴をあけていくかっていうことだよね。それはもう、若い世代の音楽に関わる人たちがこれからどうするかにかかっていると思うけど。

--平野さんは30年前に風穴をあけたわけでしょ。でも今は時代的にそれがとても難しいですよね。

平野:そうだねぇ。たとえば政治家や評論家が何を演説しようが聞こうともしなかった若者が、尾崎豊とか、ARBとか、そういうミュージシャンの一言で人生変えられたり、自殺を思いとどまったり、感動や生きる勇気を与えられたりする人達って本当に多いんだよね。確かに使い古された言葉、30年前のボキャブラリーを未だに使っている政治家や評論家なんかとは違って、ロックミュージックは実に時代の最先端の表現手段や伝達を行っていると思う。勿論そうじゃないと売れないしね。

 一番ビックリしたのはずいぶん前だけれど、忌野清志郎が原発の唄を歌って、レコード会社の意志で発禁になった事あったじゃないですか。僕はそれまでいつも、原発はやばいってロフトの若い奴にいっていたわけですよ。でも誰も聞いてくれなかったのに、その事件が起こった時、うちの若い奴が僕に聞いてきたりするんですよ。「なぜ、原発は危険だと言う歌が発禁になるんですか?おかしいじゃないですか、ほとんどのレコード会社はその経営母体が原発作っているメーカーだからですか?これっておかしいですね」なんてね。今まで僕のそういうコアな話なんか誰も若い子達は聞いてくれなかったのにね。

 そういう風にロック、音楽っていうのは若者へのいちばん大きな影響力をもっているものなのに、今のロッカー達はちゃんと考えてメッセージを送っているのか?と思ったりするんですよ。ただ売れたいためだけのメッセージが多いような気がしますね。大資本の「売れなきゃクソだ」という論理が先行してしまって。確かに売れることはいいことだとは思うけど、じゃあ、ただ売れたい、女にもてたい!だけだったら君はロックでなくても良いわけだ。ロックやめたら…なんて思ってしまうんです。

--生き方を変えられるという点では、僕らもそうやって音楽に出会って人生を変えてきたわけですけど、今は「あいつすごいな何百万枚も売って、儲けやがったな、よし、オレも」って「儲けよう」ってところに目標がいってしまうみたいですから、質が変わりましたよね。

 いいミュージシャンはどっかにいっぱいいるんだろうけど、それを探し出してやろうという音楽へのパワーは僕はもう無いですから。問題はそういう真摯なメッセージを発信している人たちはほとんど見向きもされない、勿論レコード会社や大手プロダクション、音楽雑誌は積極的に彼らを応援しないって言うことにつきると思うんですよ。文化にたずさわっているんだというオピニオンリーダーとしての意識がなさ過ぎる。なんと言っても「〜救援コンサート」とかのエイドで出演する順番でもめる音楽業界ですから…情けないと思ってしまうのは私だけですかね。

--レコード会社や音楽業界全体にも一家言ありそうですね。

平野:まあ今の状況はおもしろいよね。ばらけてきてるじゃないですか。たとえばハイスタ(Hi- Standard)がインディーズで80万枚(?)売ったりしてるでしょ。大手レコード会社とかイベンターがどんどんいらなくなってきて、若者はレコーディングからプロモーション、流通も含めて全て自分たちの手でやろうという時代にはなってきていると思いますよ。大手のレコード会社はどうしていいのかわからないんじゃないかな。

--レコード会社としては「100万枚売れる以上力を持っているのはレコード会社だ」っていう言い分があると思いますよ。でもレコード会社はもう2万枚以下しか売れないミュージシャンは切ってしまいますからね。実力のある、サイズのいい連中はたくさんいるんですけど、メジャーなレコード会社から相手にされなくなっちゃうんですよ。

平野:なるほどね。100万枚売れる可能性のないものは自分たちでやりなさい!って言う時代になってきたわけですか?これってとてもいいことだと思う。雑多な音楽があちこちで生まれる可能性が出てきた訳ですね。今や時代はネット時代に入ってきて、音楽情報はもう一部音楽関係者の独占物にならなくなってきているし、後はリスナーの意識の問題なんでしょうね。

--でもそうやって業界の論理に動かされてしまうってことは、歌謡界、芸能界に対するカウンター・カルチャーとして出てきたロックというものが、いつのまにか芸能界のようなものになってしまったということなんでしょうか。

平野:そういうことなんでしょうね。相変わらずテレビのタイアップを取れた取れないしか能のないレコード会社、それに表現する方もカウンターの当てようがわかってないんじゃないかと思いますね。フォークゲリラとかストリートミュージックなどいろんなことを見てきたけど、反体制音楽がすべて正しくて、愛の唄を歌っちゃいけないというわけじゃないでしょ。でもカウンターの当て方がいろいろあるのに、それをミュージシャンは勉強不足で知らないし、レコード会社もそんなのやる気がない。そう言う意味でカウンターカルチャーとして今の音楽は成り立ってないってことだね。

--ミュージシャンも何をメッセージとして歌うのかって考えたときに、何に命題をすえればいいのかっていうところでミュージシャンも苦労してるみたいですね。

平野:それは自分の好奇心でいろんなことに関わって、その結果の感性の表現としてメッセージがあり、音楽があると思うんだけど。やはり売れる売れない以前の問題として、このメッセージを送る事の意味、まさか自分の表現が、時の権力者や体制の補完物になってはいないだろうか?という意識が必要と思うんです。

--ハイスタに代表されるハードコアシーンは全国的に盛り上がってるし、僕らがパンクやってたころは500枚だったのが、その1000倍も売れてるのに、まだ足りない、まだ低いってことなんでしょうかね。音楽が与える影響というものが、世界的に昔より低下したってことなんでしょうか。ビートルズのような存在はなかなか出てこないんでしょうかね。

平野:そうですねぇ。ロックで莫大に儲かった連中はたくさんいるわけじゃないですか?たとえばある社長なんかは日本のロックを変えてやる!って30年前は意気込んでいたのに…僕からいわせれば、「もうそんなに儲かったんだからここらで原点に帰りなよ」と思うんですけど、きっともっと儲けたくなってしまうんですね。

--こんな状況で、昔ロフトが生まれた頃にロックがカウンターカルチャーとしてわき上がってきたように、今のミュージックシーンにそういうかつてのロックのようなものがわき上がってくるよな可能性は感じてらっしゃいますか。

平野:どうなんでしょうか?僕らジジイには今の新しい音楽を理解するには年とり過ぎたよ。個々には好きな、いいバンドあるけど、総体としては音楽にはもう興味なくて、昔の音楽聞いてればいいからね。いちばんおいしい酒が飲めるのは何かっていうのはもうわかってるから。一言で言ってしまえば僕はPANTAの「マラッカ」聞いて、いい酒が呑めればいいんです。今更新しい音楽を聞いて感激する能力はない。僕の音楽的感性はもう終わってるってことですよ。

 

8. 若者よ、もっと知識欲を持て!!!

平野 悠9

--30年間ライブハウスやってて、そこに出てる若者達が入れ替わりますよね。昔の若者と今の若者いちばんの違いはどのへんに感じていらっしゃいますか。

平野:そうだねぇ。僕らはバカだったから、イデオロギーから入るわけですよ。たとえばジャズが好きだったら、マイルス・デイビスがアメリカの黒人解放運動のブラック・パンサーに資金援助してるとか知るわけでしょ。そうするとブラック・パンサーって一体なんなのか調べたりして行くわけでしょ。少し好きになったら思想的な人間的な側面まで入り込んでいって、その上でマイルスはやっぱりいい、とか、コルトレーンがいいとかいって、どんどん好きになっていく。内面まで知らないと気が済まない、みたいな思想。極端にいうと、音楽とはどうあるべきか、っていうところでどうしても考えてしまう世代ですよね。ロックってなんだったのか、原点はなんだったのかっていうのは知りたくなるじゃないですか。ロックというとどうしても従属の縛りからの解放なんて言う気分がどうしてもあるわけですよ、僕らみたいな全共闘世代、団塊の世代にはね。

 今の音楽をやってる子達は、知識がなさすぎると思う。少しはロックの歴史をひもといて、自分なりにロックとはどうあるべきかというのを考えるべきなのに、ただ自分が気持ちいい、癒せるという音楽だけをやっている気がするんですよ。第一今は癒している時代状況ではないでしょうし、だから僕は若い連中にいろいろ本を読んだり勉強したりして、そのなかで音楽という表現で何をやるか、ていうのが重要だと思う。それもいいのかもしれないけどねぇ。

--そこまでバックボーンを研究しようとしない、とか、イデオロギーから入っていかないっていうのは、平野さんから見れば底の浅い奴ら、ってことになっちゃうんですかね。

平野:そんなことはないけど…まあ、たかが音楽、されど音楽、そんなもんだろうと思うし、今はすたれてしまったけれど、日本の歌謡曲、特に演歌は確実に日本の戦後から高度経済成長の時代をリアルに歌い上げてきたと思うんですよね。守屋浩の「僕の恋人東京にいっちっち」や都はるみ「あんこ椿は恋の花」や北島三郎の「ゴムのカッパにしみとおる雨」が、いつの間にか、橋幸夫の「雨が小粒の真珠なら」になってしまって。日本が高度経済成長するのに、今度は農村や漁村を犠牲にするわけですよ。農村なんかでは農業だけでは食べられないから都市に出稼ぎに来る。いわゆる農民層分解ですね。僕の大好きな作詞家の星野哲朗さんなんかは日本の行き先に抗議を含めて、こういったものにカウンターをあてていたと思うんです。

--そのころは作り手の側にカウンターを当てるべき対象がはっきり見えていた、ということなんですね。

平野:そうなんですよ。それが加山雄三の「お嫁においで」とか「白いスナック」「もしも家をたてるなら」なんてのを筆頭として「幸せだな〜、僕はなんて幸せなんだ」と歌い上げる「四畳半の世界」に行ってしまった。音楽が秘めているダイナミズム性がなくなって…最後の極めつけはユーミンだと思う。勿論僕はユーミンは嫌いではないんですけど、若者は四畳半で煎餅布団、裸電球の暮らしをしているのに「豊かな中流意識」を歌い上げる。随分前だけどプラスワンで「水鉄砲に涙をつめて」という詩がいいかどうかが論争になって、その時僕は「なんて情けない唄なんだ」と思ったんですよ。こういう唄が若者の特権である「反逆」という精神を奪ってしまうんだな〜って。

 ロックの評論家も含めて、今の人たちはいろんな知識は持ってるかもしれないけど、いろいろ知っていてあれはいいよね、ってそれだけかよって思うわけですよ。自分の身を挺して新しくなにか変えてやろうとかしているロックの評論家やミュージシャンって凄く少なくなって来ていると思うんですよ。

--たしかにあまり見かけませんよね。

平野:今の若者は音楽おたくで、自分の好きなジャンルについてはとても深いし、よく知っているけど、横がない。政治も経済も世界情勢も17歳の殺人もまったく関係なくて、横のつながりがないものになってる。だからロック自体が偏屈で、中高生に受けるだけの音楽になっていってるんだと思うんです。音楽聞く人はいろんな生活してて、その中で音楽を聞いているはずなのに、俺達オヤジを納得させる音楽が出てこないのはなぜなのか、ということを考えると、あまりにも表現者に知識がなさすぎると思う。だって今の子達は三島由紀夫すらも読んでないでしょう。だから僕は彼等に知的な抑圧をして、「お前この本も、このマンガも読んでないのか、この映画も見てないのか、恥ずかしくないのか」って言うしかないんですよ。こう言うことを知ればもっと豊かな幅の広い視野に立った素晴らしい人生が送れて表現が出来ると思うのに…これは社会学者の宮台真司さんの受け売りだけど。

 だって今の若い連中は「無知」を恥ずかしいと思わないんだから。俺達の時代は、そういうものを知らなければバカにされて仲間に入れなかった。今、世界で何が起こってるかも知らないで表現するというのは、それはちょっと違うだろって思いますよ。音楽っていうのはトータルな感性の表現であるべきだと思うのに、今の総理大臣の名前も知らないようなやつが、「どうだ、オレのメッセージはいいだろう」って、それは違うだろと(笑)。

--確かに、アカデミックなことに対するコンプレックスがないから、最近の子達はあっけらかんと明るいですよね。屈託無いんですよね。僕らの世代でもまだそれはありましたけど、今の子はほんとに、みんなそうだからつらいですよね。

平野:今40代の人たちが、そういう事にこだわった最後の世代でしょうね。これ以降はまったく関係ない。

--テレビ見たりして普通に生活してればわかるようなことも知らなかったりしますからね。でもそのかわりむちゃくちゃ楽しくて明るいですよね。

平野:ほんとに明るいよね。そういうほうがいいのかもしれないけどね(笑)。成熟した社会はそういうものかもしれないし、否定するつもりもないけども、これでは勝手なことやっている為政者は喜びますよ。僕らは上の世代から「そんなことも知らないのか」って知的に抑圧されて、それは恥ずかしいなと思ってあせって勉強してきたけど、僕らが今若い世代に同じ事を言ってきたかというと、言ってないでしょ。それを言うのも恥ずかしい時代になってきた。だから若い子たちは、日本の歴史や朝鮮の38度線も知らないで音楽やれるわけでしょ。それは違うだろって。たとえばピカソのゲルニカを見て何も感じないやつがロックやってる。

--そうすると僕たち親の世代、大人が悪いってことになりますよね。

平野:そうですねぇ。それは否定できないと思いますけど、だからそれは1970年代初期にあった連赤(連合赤軍)とか新左翼とかの運動がありましたけど、あれは一種の文化運動だったじゃないんですか。サークルが面白くない、大学がよくないって言って、映画とか文学とか新しい文化が雑多にうわあっと芽生えた時代。そういう時代を生き抜いてきた世代は、もう連赤とか内ケバとかああいうのが嫌になっちゃって、政治とかそういう問題を語る事自体がかっこわるくなってきた。若い奴から「もうやめてよそんな話」って言われて黙っちゃう。自信がまるっきりない世代なんでしょうね。

--子どもたちに僕たちが教育できてないっていう現実があるわけですよね。

平野:教育っていうか、知らないことが「当たり前」なのか「恥ずかしい」のかっていう…。僕らが親や近所のじいさんから教わった事を、僕らは次の世代にちゃんと伝えていない。日本の素晴らしい伝統文化をちゃんと伝えようと言う意識がマスコミも含めてほとんどないと言うことが問題なんでしょうね。

--これは日本だけの問題なんでしょうか。

平野:世界の中でも日本がいちばんヒドイだろうね。若者の政治的な無関心を中心として文化も含めた無関心は…。東南アジアなんかはやっぱりみんなが明日の新しい時代を作ろうと勉強してるし、権力者が勝手なことをやらないようにちゃんと見張っている。なんでも知ろうっていう気持ちがありますからね。僕らが時代の主役なんだ!何か問題あったらまずインテリゲンチャー、芸術家、学生たちが行動するという意識、ここで僕らが黙ってしまったらダメなんだという意識は日本の若者が一番低いと思う。日本で一番ダメなのは大学生ですね。親から仕送りして貰ってコンパといい点数をとって、無難に学生生活をエンジョイしていい就職を、だけしか考えていない。自分だけよければそれでいい、どんなに社会が悪くなろうと関係ない。

--飽食ニッポン、ってことですね。貧しい国は必死で這い上がろうとするから勉強もするけど、豊かになったら忘れちゃった、っていう。そうすると、何十年後かには世界地図が変わっちゃうかもしれませんね(笑)。

 

9. 「なにもしない」が最後のカウンター

平野 悠10

平野:基本的に、時代は若い奴の手にあって、ジジイがのこのこ出てきてギャアギャア言ってるもしょうがないと思ってるんですよ。でも、だからだめなんでしょうね。今の時代は若い奴らがあんまり文句言ってないじゃないですか。何といってもあと3〜5年で日本の借金は1000兆円になるわけですよ。これはものすごい数字で、そうなると日本は国家としての体裁はなくなって、80年代の中南米の様になるわけです。大インフレと失業者の群れで貧富の差は拡大するし、大蔵省は価値の無いお札をどんどん刷るようになる。ジュースが一杯100万円の時代が遠からずやってくるわけです。80年代の中南米は先進国の景気が良かったので借金を棒引きにしてくれたわけだけど、果たして日本の借金をアメリカは帳消しにしてくれるんでしょうかね?当然日本はつぶれていくでしょうけど、でも若い奴らはなにされても怒ってないでしょ。どれほど時代は若者の怒りの行動を期待しているのにね。今の連中は原発が破裂しようと、どんなに環境が破壊されて日本が借金大国になろうと、関係ないんですよ。全然反応しない。それでいいんだったらもういいんですよ。、盗聴法が通ろうが、何されようが、いいんじゃない、それで、っていう感覚なんだろうね。

--びっくりですよね。でも我が事だと思ってないんですよ。

平野:我が身に降りかかってるとは思っていないんでしょうね。そうはいっても、海外旅行も行けるし、おいしいものも食べられるし、ブランド品も持ってるし……それでも今だってバイト料とかこの数十年間全然上がりもしないでしょう。だから金持ちと若い労働者世代の違いっていうのがどんどん出てきて、「総中流」っていうのは確実に崩壊していると思うんです。それも結局若い奴に降りかかってくる問題だから、若い人達が怒らないんだったら、もういいんじゃないの、って思ってしまうんですよね。

--若い人はほんとに怒りませんよね。怒りのない国、日本ですからね。でもあの時代はみんな怒ってたんですよね。

平野:そうですねぇ。でもまあ今考えれば大したことなかったんじゃないですか。いくら5万人の集会開いてたって、こっちでは後楽園で5万人が野球見てるわけですから。たいしたことないんだけど、僕はあの時代がものすごく面白かった。そして抗議の為に街頭に出ていった、それだけですよ。

--要するに若い世代の問題は自分たちで解決しないとどうしようもないだろってことですよね。

平野:そうですね。時代は常に若い奴が作っていく物だから。僕の若い頃、ゲバ棒持って走り回ってたころっていうのは、50代以上の権力持ってる奴らをどこかで憎んでたのね。お前らがこんなに悪い国にしたんだ、責任取ってやめろ!って。奴らをいつかステージから引きずり降ろしてやる、っていう感覚を持ってたいたんだけど…。今の子は怒らないからね。

--でも日本がつぶれたら、そこからまた新しい何かが生まれるんでしょうね。

平野:そうね。マフィアが横行してロシアみたいになるんじゃないの。それともどっかで歯止めを掛けるのかな?わからないけど、若者が立ち上がらない限りだめなんだと思うし。

--「何もしない」ことが最後のカウンターになるんですね。

平野:そうだね。ちょっと新聞でも読めば日本は本当にやばいところに来ているって知れるわけじゃないですか。やはり、で、君はどうするの?っていうことかな。

--でも「今の若者」が間もなく若者じゃなくなるわけだから、そうすると「次の若者」が出てくるわけで、そこでまた違う考え方をするかもしれないし…楽しみですね。こういうことを考えてる大人は多いでしょうしね。

平野:20代後半の人たちだって、コギャル世代から言わせればもうおばさんでしょ。コギャル世代はほんとに何を考えてるのか全く判らないっていうところが逆にいいんじゃないかね。極端に言えば健全なのかもしれないですよ。僕らの若い頃のほうが、マルクス主義だとか、そういうイデオロギーにがんじがらめに縛られてて、健全じゃなかったと思いますよ。

--人間面白いですよね。そうなるとつまんなくなるんだよね(笑)。敵がいないとつまらない。

平野:だいたい音楽はどうあるべきかなんてね、それぞれの感性があるわけだから。僕は音楽一筋に来た訳じゃなくて、いろんな選択肢があって、そのなかから面白い物を見つけて、はまって、飽きて。その繰り返しですよ。

 

10. 夢は「田舎で月5万円生活」!!

平野 悠2

--ところでロフト・グループのことなんですが、新宿ロフト、下北沢のシェルターと、ほかにもいろいろやられてますよね。

平野:今の僕は、体が動かなくなるまでに何が出来るのか、と思っていろいろ挑戦しているんですよ。映画だビデオだ本だ、ふむ、これからはネットの時代か?ではそれをやろう、なんてね。そういう風に自由に挑戦できている今の環境は大切にしたいとは思っているんですけどね。

--でたらめにしているようで、きちんとやってらっしゃるんですね。

平野:いや、適当に食い散らかしているだけで、レールはそれなりに引けたから後は若い連中がやりたければやれば、っていう感じなんですよ。

--今は会長さんってことですね。プラスワンには顔出されることはあるんですか。

平野:一時は僕が全部仕切ってやってたこともあるけど、今は自分の気に入ったときしか行かないですねぇ。そろそろぼくが行くと迷惑がる人がたくさん出てきて、もう平野の時代ではないよと暗黙のうちに言われたりしていますから。

--じゃあ今日みたいに会社にいらっしゃってるのはめずらしいことですか?

平野:そう。いつもだったら今頃の時間(夕方)はアスレチッククラブで走ってますよ。おばはんに混じってジャズダンスとかやってる。

--いいなあ(笑)。ずっと経営は任せっきりなんですね。たまに叱ったりとか、そういうこともないですか。

平野:僕は会社でレジャー部隊の隊長として頑張ってるんです(笑)。だから、会社でみんなが忙しそうにしていると、僕は孤立してしまうんですよ。

--ロフトの今後としては、インターネットでも新しい展開があるとお聞きしましたが。

平野:そうなんですよ。僕は現在もロフトのホームページ上でコーナーを持ってるし、掲示板も持ってるんですけど、ロフトではこれだけ音楽もトークライブもソフト生産してるわけだから、いいライブはぜひ皆にきいて、見て貰いたいと思っているんです。音楽関係は結構権利とかとてもうるさいので大変ですね。プラスワンに出演している文化人なんかはあまりギャラとかうるさくないから楽なんだけど。

--それはインターネット放送局になるんですか。

平野:いずれはそうしたいんだけど、今はまだ技術的な問題もあるし、課金も最悪だから、まだそこまではいかないんだけどね。

--平野さんのご自身の今後の目標は何ですか。

平野:ガーデニングとか(笑)。あとはどっか東京から2時間ぐらいのアクセス出来る農村での生活ですかね。最終的なテーマは農村に入って、1ヶ月5万円で生活すること。畑があって、自分で野菜とか作って、なるべく自給自足して、晴耕雨読の生活をして、田舎で土地借りて生活する。これ、可能だと思うんですよね。50人ぐらい泊まれる所を作って、都会で傷ついた若い子たちが再度都会に立ち向かって挑戦できるまで泊めてあげるとか、サークルの合宿なんかに解放して。今はパソコンとかいろいろあるわけだから、不便なことはないですよね。これが今のテーマ。ジジイになると、こうなるんでしょうね。世俗から離れて土に帰りたいっていうか…。

--あんまりお金とかそういうことに興味ないんですね。

平野:まあ月5万円で生活しようと思ってるくらいですからね。

--今日は長い間どうもありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

知識欲のない若者、怒らない国民、メッセージ性のないミュージシャンや評論家…平野氏のもっともなご指摘に耳が痛くも背筋が正される思いでした(またもや反省しきり)。そしてご紹介いただきましたのは、サザンオールスターズの育ての親、現スピードスター・レコード取締役本部長の高垣健氏。平野氏のお話にもあったように、ロフトに通い詰めてサザンを見守り続け、日本を代表するトップ・アーティストに育てたその人です。日本の音楽業界の最先端を切り開き、新しい可能性を探し続ける高垣氏。初めて語られるその半生とは…サザンファンならずとも乞うご期待!!