第13回 日高正博 氏
(株)スマッシュ 代表取締役
今、企業化された『プロモーター』が増える中、「唯一『呼び屋』の意識でやっているのは日高氏だけ。」と真剣に語るバッドニュース・千葉氏の紹介で、スマッシュの日高正博氏が登場!ご自身のルーツからスマッシュ設立まで、そして4年前にうまれた日本で最初のロックフェス・フジロックフェスティバルの立ち上げに至るまでを深〜く掘り下げて語っていただきました!
日高正博(Masahiro HIDAKA)
(株)スマッシュ 代表取締役
1949年1月24日生まれ。熊本県人吉市出身。1970年東京ビデオセンターにてラジオ、TV等の音楽番組製作に参加。その後同社設立の音楽出版マネージメント会社ベルキャットに参加。その後フリーランスの音楽製作として活動。1980年ジェニカミュージック入社。1983年(株)スマッシュ設立。1994年大阪事務所(のちのスマッシュ・ウエスト)開設。1995年ロンドン事務所設立。1996年(有)トマホーク(音楽出版社)設立。1997年7月富士山麓の天神山スキー場で「フジ・ロック・フェスティバル」開催。以降東京ベイサイドスクエアを経て、1999年より苗場スキー場で開催。
[スマッシュが手がけた主なコンサート・アーティスト]
エルビス・コステロ、オアシス、プロディジー、ビョーク、プライマル・スクリーム、ジャクソン・ブラウン、アンダーワールド、ケミカル・ブラザーズ、フー・ファ イターズ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、 ハイ・スタンダード、他多数
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- 幼少時代はガキ大将
- 高校行かずにホームレス!?
- 刺激がいっぱいの居候生活
- テレビの生番で好き放題!ジャクソン5から拓郎、陽水、泉谷しげるまで!
- 「芸能界」に嫌気がさして独立へ
- 幻の「ザイール川紀行計画」
- 好きなこと好きなようにやりたい──スマッシュの設立
- 「音楽鑑賞」の「常識」をぶち壊せ
- 15分のライブでピンと来た!「オアシス」との出会い
- フジロックの目指すもの…「大型野外コンサート」ではなく「フェスティバル」を!
- 第1回フジロックの教訓
- マスコミや反響には不言実行の態度で
- 1週間のフジロックに行けるようなバカンスを!!
- 趣味は山・車・海外…足で見つけたフジロック開催地
- 社員のやる気と信頼関係が基本
- 英語もパソコンも完全に独学!
- 「雑誌としてのホームページ」は5年前から
1. 幼少時代はガキ大将
--日高さんは、前から存じあげてるんですが、今やもう凄い存在で、圧倒されてるんですが(笑)
日高:そんなことないですよー(笑)
--スマッシュと言えば「FUJI ROCK FESTIVAL」(以降フジロック)ですが、フジロックは音楽産業における新しい文化を日本に根付かせてくれたと思います。ほんとうにその功績は大きいと思うのですが、今日はまずご自身のことからお伺いしたいと思います。ご出身は熊本ということですが。
日高:そう。熊本県人吉市っていう、山のなかです。鹿児島と宮崎の県境ですよ。盆地でね、360度が山のなかで、当時はとても保守的な所だったんですよ。
--そこで中学ぐらいまでいたんですか。
日高:15歳まで。卒業まではいました。
--悪さやってた(笑)?
日高:とは思わないんだけど、自分では(笑)
--けっこう田舎なんですか?
日高:すっごい田舎だよ。俺が海見たのは小学校3年か4年だもん。
--そんな田舎なんですか。
日高:今だったら車で3〜40分で行くと思うし、熊本から鹿児島まで汽車もつながってるんだけど、昭和30年代っていうのは道路事情も悪いし、そういう環境じゃなかったんだよ。
--僕も福岡だったんだけど、阿蘇山行くんだったら2泊3日ぐらいで行くみたいな感じで(笑)
日高:そういうもんでしょ。子供の時って絶対そうだよ。子供の時に歩いた所って、すごい遠く感じるじゃない、今歩けば近いんだけど。それと同じようなことでしょう。旅行するとかも…なんていうんだろ、貧乏だったのかもしれないけど。質素だったんじゃないのかな。生活自体が。
--一番近い大きな町っていうと、どこだったんですか。
日高:俺のいたのは人吉市で、熊本県では人口的には3つ目ぐらいに多いところなんですよ。2番目に大きい町は、まあだいたい同じくらいの大きさだと思うんだけど、八代っていって、工場の町です。いちばん大きいのは熊本市ですよ。
--山のなかっていうことは、野生児だったんですか。
日高:野生児かどうかはわからないんだけど、まぁあんまり誉められた子供じゃなかったことは間違いないね。
--何やってたんですか?子供の頃って。中学生ぐらいまで。
何やってたんだろ?…とりあえず遊んでた。
--それは悪い遊びでもなんでもないわけで…?
日高:喧嘩は大好きだった。よその学校に行ってたもん、喧嘩しに。強いのがいるとか聞いて、小学校の終わりぐらいの頃からさ、そいつんとこ行ったり…。
人吉は非常に小さい町なんだけど、球磨焼酎の産地なんだよ、球磨焼酎って知ってるでしょ?球磨郡なんだけど、人吉付近だけで焼酎の作り酒屋が、そうだな…30何カ所かあるんですよ。盆地だから温泉があって、やくざも多い。それと木材とか木炭とか椎茸とかの産地でもあるから、産業は結構動いてて。温泉があって、で隠れる場所もあるから、昔はけっこう、追われて逃げた人っていうのかな。多いんですよ。十代の時に田舎にいてダンスホールでバンドやったことあるんだけど。そんなところはやくざが出入りするでしょ。それで知り合って酒飲むと、どこどこで事件起こして逃げてきたとかね(笑)。そういうのが多いんだけど(笑)
--はははは(爆笑)
日高:ま。だいたい昔ね江戸時代から「仇討ち」の話があって、荒木又右衛門かな、伊賀上野の36人斬りっていうのがあんだけどさ、あのときの相手の敵の人が河合又吾郎って言う人なの。その人を討つためにあそこでやんだけど、その人が要するに逃げて行く先は、墜ち行く先は九州・相良って言って、相良って人吉のことなのよ。だから、河合又吾郎を迎え入れるために屋敷も作ってあったって話だけどね。人吉にね。言ってる意味わかるかな。だから、ま、それはたまたま偶然なんだけど。逃げて行く先・墜ち行く先みたいな。
--落人部落ですか。
日高:ま、部落じゃないんだけど、それぐらい田舎だし山の中っていうのがあって。それぐらい鹿児島と宮崎と熊本の県境だから。20キロもないし。お互いどっちいったって。だからおもしろいよ。鹿児島をぽっと超えると言葉が通じなかった、昔ね。おじいちゃん・おばあちゃんとかと話したり、道聞いても全然わかんなかった。
--全然違うよね。
日高:全然違う。宮崎行くとまた違う感じなんだけど。
--それはわざと言葉が通じないようにしてるんですよね?
日高:鹿児島はそうしてるからでしょ。江戸時代・島津以降そうしてるから。関ヶ原以降かな。
--ああ、なるほど。
日高:ま、そういう土地柄で非常にいいとこだと思うんだけど、で、いまもそうなんだけど、あまり先のこと決めないんだよ。子供の時からそうだったよ。とにかく朝起きたら、昼ごはん何かな…と。
--それぐらいしか考えてない(爆笑)
日高:そう(笑)。それで卵焼きが大好きだから、お弁当に卵焼きが入ってると思うと、そのお昼ごはんまでの4時間は「たまごやきたまごやきたまごやき…」って過ごしてるという…。
--無邪気な少年ですね(笑)。
日高:無邪気っていうのかな?単純なんだろうね(笑)。で、ご飯食べ始めると、次のことは昼休み何しようか?だよ。俺らってやっぱし今でいう団塊の世代だから、すごい多いわけですよ。同級生が。
--そうですね。
日高:だから、運動場なんて早く行かないと、その40分間が遊べないわけですよ。必ず食べるのに5分ぐらいしかかけないから。バーっと食べるの早いから。まず食べはじめた時に、何やろうかと決めるわけですよ。ソフトボールやろう、あれやろうこれやろうって。そしたら陣地取りだから、そうすると仲間の中に食べるのが早いのがいるから、食いながら「おまえ、食ったらあそこ行って陣地とっとけー!」みたいな感じで、もうガキ大将だったんだもん。
--あははは(笑)
日高:で、昼休み終わると、あとの2時間何やって過ごすかっていうと、放課後何やるか。
--基本的に遊ぶことしか考えてなかったわけですね。
日高:とにかく楽しいことしか考えてなかった。だから、家の近くに帰ってみんなで遊ぶか、もしくは、学校が山の上だったから、だから帰りは楽しいわけ、山道をあっちいったりこっちいったり。
--遊び場所が無限にあるわけだね。
日高:ほら穴はあるし、もう探検はできるし…みたいなとこだったから。学校は大嫌いだったけど、遊ぶのは大好きだった。
--授業中はなりを潜めて…次のことを…?
日高:授業中はやかましかったといわれてた。先生から。おまえはしゃべってると。
--「うるさい静かにしろ!」って言われるような
日高:うん。そういう。だいぶ経ってから小学校ん時の先生に会ったら「おまえ、やかましかったな」って言われたけど。
2. 高校行かずにホームレス!?
--東京にその後、出て来るんですか?
日高:そうですね。俺ね、高校行ってないんだよ。中学校3年ってほとんど行ってないんだよ。
--え?中学校も行かなかったの?
日高:うん。中学校2年ぐらいのころから、高校に行こうとかそういうことが嫌になって。
--嫌っていうのは?
日高:あんまよくなかったんだよ。とにかく。その頃ね。中学校の時って一番いろんなことがある時でしょ。で、学校行くのも嫌だったし、学校行くっつって行かないで、中学校の近くの山で遊んでたりして、どうしてもヤバイ授業になると、友達が迎えに来んの。探してるから降りて来た方がいいよとか言って。
--山に入ってたんですか(笑)
日高:山っていうか丘だよ。山っていうんだけど。楽しかったな。で、そういう感じで音楽大好きだったし、その頃から。聴くのが好きだったし。
--へぇ。
日高:で、高校に行こうなんていうのはなくって、親も学校の先生からも高校に行け行けって言われてて、そいで、何にも決めなかったんだよ。で…中学校3年の卒業式の日に、俺の中学校2年の担任の先生が家に来たの。すごいいい先生でさ、俺が唯一頭が上がらない先生だった。恐くってね、男でも女でも何でも殴っちゃうみたいな先生で。で、なぜか俺のことをすごい気にかけてくれてて、3年になって違う担任になって、3年の時に俺が高校行かないっていうのを聞いちゃったんだよね。そうすると、廊下ですれ違うと、「日高、おまえ高校行かないんだってな。だめだぞ。勉強しないと」なんて言われて、俺もその先生に言われると「はい」なんて言ってたんだよね、でも田舎だしああいう時代だからさ、担任の違う先生が違うクラスの生徒に指導するわけいかないからさ、言えなかったんだけど。けど、今でも覚えてる。卒業式の日かなぁ。卒業式の日にもなにも決まってないわけよ。学校行くのか、就職するのかも、なんも決まってなくて、俺もなんも考えてなかったの。どうしよーかなーみたいな感じで。親はかなり怒ってたけども、言い出したら聞かないってことはわかってるから。そんで卒業式の日にその先生がきて、「おまえ、高校行け」って言われて。で、俺もなんもやることねえから、「どこに行くの?」って聞いたんだよ。
--どこに行くの?(爆笑)
日高:そしたらね、もう持ってきてたんだよ。時期的には間に合わないわけだから、大阪のね、昔は布施市って言ってたんだけど、今の東大阪市かな?大阪府立の工業高校の第二次募集を持ってきた。「大阪〜!?行きたかねーよ」みたいなのがあったんだけど、なんでもいいや、ここから出れりゃと思って、じゃやりましょうっていうことで。ところがもう全然勉強してないから、わかんないんだよ。全然ちんぷんかんぷんで。
--はい。
日高:行くまでの間が10日間から2週間あったんだけど、毎日その先生の家に行って勉強したんだよ。
--うわ〜!
日高:行くんだったらと思って。思ったのは1日2日で(笑)。あとはもう暇つぶしただけだったんだけど(笑)。もう今はあんまりないけど、そのころはまだ集団就職があって、球磨郡の集団就職中学生は金の卵って呼ばれてた。
--そうですね、あの時期ね。
日高:というのはさ、非常に保守的な所で育ってるから辞めないのよ。過酷な工場でも。根性があるとかじゃなくて、なんていうのか、一回勤めたら辞めちゃいけないみたいなさ、そういうような環境の中で育って、もちろん俺も今でもそういうの持ってるし。
それで俺もそんな人たちと一緒に大阪まで行ったの覚えてるよ。すごい悲しかったよね。鈍行みたいな急行に乗って。当時20時間ぐらいかかってさ、大阪行くんだけど。瀬戸内海に入ってくと、みんな泣き始めるんだよ。しくしくしくしく…。若い奴も大変だよね。15歳ぐらいで…
--記録映画の世界ですね。
日高:そう、ほんとすごかったよ。昭和39年かな。東京オリンピックの年だったけど。だから瀬戸内海を通ると、思い出します。俺もつらかったもん。そばにいて。その中で俺はさ学校にいくために乗ってるわけで、目的が違うわけよ。あんまり知ってる人がいなかったから、俺も淋しかったのを覚えてるけど、まぁここから出れりゃいいなってのが半分と、どうなんだろうが半分みたいなものだった。それで大阪に行って、高校は1週間で行かなくなっちゃったんだよ。それで近くの公園でホームレスみたいなことやってた、当時。
--ホームレスを!?(笑)
日高:うん。15の時かな。
--すごいですね。
日高:仕事をするったって工場に勤めるしかないしね。誰も親戚もいないわけだから、行くとこなくなっちゃうわけよ。
--要するに帰る気もないんだ。
日高:帰る気もないし。なにしていいかわかんなかったな。そんなもんだよ。どうしていいかわかんないし。とにかく働いては喧嘩すんだよ。一週間ぐらいで。気が短いし、自分で矛盾感じちゃうと「おかしい」っていって。
--「だまってらんねえ」って。
日高:うん。なんかバーンっていっちゃう。で、向こうから生意気って言われると「なんだこのやろう」ってなっちゃって。だからいられない。そういうこと繰り返してて、で、そのうち働くのも嫌だったから公園で寝泊まりして。でもやっぱり食べれないから…当時工場の前行くと、工員求むみたいのが張り紙がしてあってさ。そこで働けば寮がついてるわけ、ご飯と寝泊まりがあるってことで。そのときは1週間ぐらいは公園で寝泊まりしたのかな?風呂ももちろん入ってなかったんだけど。おもしろかったのはその工場で勤めたときにさ、俺らが寝る頃におばさんたちが仕事してるわけよ。電気関連で、松下かなんかの下請けの下請けで。そうしたらおばさんに「日高くん!あんた今まで何してたの?」とか言われてさ。「別に…」って言ったら「あんた、汚い」とか言われてさ(笑)
--くさいとか言われた(笑)?
日高:くさいとは言われなかったんだけど、首のあたりが真っ黒だ、風呂行って来いって言われて(笑)。そういうことって若いからわかんないじゃない。その日風呂行ったらほんとに垢がゴロゴロ出てきたっていうの覚えてる(笑)
--すごいですね(笑)。大阪の学校に行ってたときはどこに住む予定だったんですか?
日高:知りあいのところ。
--じゃそこには行かれないわけですか。
日高:もちろんそこにいる気もなかったしね。
--その後はどうしたんですか?
日高:そしたらさ、例の先生が迎えに来たんだよ。夏の7月か8月だったかな。帰ってこいって言って。
--ずいぶん気にかけてもらってたんですね。
日高:それでもう一回高校に行けおまえは、って言われて。もうお腹も減ってたし、大阪もだれてたから、汽車の旅費もってくれるっていうし、じゃあ帰ろうかって言って九州に帰ったら、もうどっから聞いたんだろね、一晩泊まった明くる日には友達が10人ぐらい来てたもん家に。朝7時ぐらいに。「帰ってきたんだって?」って言って。中には長崎の学校抜けて帰ってきたりだとか、なんか…
--友達がいっぱいいたんだ。人望が厚かったわけですね…。
日高:中にはやくざだとかチンピラになってるやつがいたりとかしてさ…。それで、先生がもう一回学校行けっていうから、俺も目的がなかったし、それが8月か9月だったと思うんだけど、それでもう一回勉強し直せって言われてね。(勉強はな〜…)とは思ってたんだけど、アルバイトをしろっていわれてアルバイトをしてて。で、そのころまた色々あって、それでまた飛び出したという。
それで東京来たのかな。昭和40年ぐらい。やっぱおんなじような生活ですよ。中卒でまともな仕事なんかないし、色々やって、20歳ぐらいまでは日本国中流れてたね。あっちいったりこっちいったり、田舎帰ったり。田舎では親父の仕事が木材とかの仕事だったから、それを1年以上やったりだとか、そんときバンド組んだりだとか、ダンスホールでね、当時。性格がひねくれてるからさ、当時田舎でやるっていったらベンチャーズをやらなくちゃいけないとか今みたいに要するにディスコティアじゃないからね、組んで踊ったりツイスト踊ったりしてる時代だったからさ。
--ゴーゴーですか?
日高:ゴーゴーの前だよね。そこでやる曲はだいたい決まってるわけよ。絶対そういうのやらないじゃない。ブルースやったりとかさ、踊れない曲ばっかりを延々とやったりとかさ(笑)。そんで必ずクビになるんだよ(笑)。で、クビになったら田舎だから一週間たつとバンドがいないからまた出てくれとか言われるわけ。ただそのときにおもしろくなかった。ステージに立ってて。リハーサルは大好きなんだけど。ものすごい楽しいんだよ。みんな昼仕事もってたからさ、夜だって40分4回のショーやってたんだからさ。
--ギター弾いてたんですか?
日高:ギターやってた。あの頃ははみんなやったよ。太鼓もたたくし、ベースも弾くし、それぐらいしないとバンドできないわけだから。昼仕事してて間に合わないとかで、来ない奴いたりするんだから。そんときにステージ立つのがおもしろいって全然思わなかった。恥ずかしくてしょうがなかったし、みっともないと思ったし。ただ演奏したりするのは好きなんだよ。客がいない時とかさ。
--よく、女にもてたいがためにバンド、みたいなのがありますけど。
日高:それはなかったね。なんとなく始めたんだもんバンドも。
--すごい生活ですねそれは…。
日高:だから俺、やった仕事は100ぐらいあるよ。20歳か21ぐらいまでに。
--それでどこから業界に入ってきたわけですか。
日高:おもしろいんだよね。いつだったかな。東京は何回かいったりきたりしてたからさ、その間、軽の車を買って日本中まわってた時があって、そんときは360っていう小さい車乗ってて、で、金がなくなったら仕事するわけよ。あっちこっちで。京都まで来たらタイヤがすり切れてなくなってさ、たまたま京都の町中にタイヤ屋さんがあったから、タイヤ4本でいくらになるとかきいたら5万とか6万とか言ったのかな、それじゃあその分だけ働かせてくれとかいって働いたりとかさ。
--はははは(笑)
日高:それと、ガソリン代がいつもないからさ、予備のガソリンタンクとかあるじゃない。それ持っていって。昔のトラックのガスタンクは鍵ついてなかったからさ、夜中行って、ガソリン盗んでタンクに入れてもらってきてさ(笑)。でも一回間違えてディーゼル用の軽油入れて動かなくて、えらい高くついた時があって(爆笑)…けっこうそういうのいたよ、あっちこっちで。
--ありましたよね、ほんとに。ガソリン抜かれた!とかね。
日高:そういうことやったりしてて。
3. 刺激がいっぱいの居候生活
日高:もう何回目の上京だったのかな、当時俺の後輩が大学行ってたんだけど、そいつが練馬の豊島園の近くにアパート借りるっていうから一緒についていったのよ。要するに単に居候しようと思ってね。
--許可はとったんですか?(笑)
日高:いやもうそれは相手は暗黙のあれでね(笑)。
それで当時4畳半で7000円とかで、もちろん風呂もトイレもないとこだったんだけど、そこがすごいおもしろいとこだったんだよ。そこに住んでるときに色々転機があったんだと思う。だって連合赤軍とか東大とか早稲田とか、ちょうど70年代の安保闘争の時に籠もった連中がたくさん住んでたんだよ。上に3部屋、下に3部屋でさ、おもしろい。隣が東大の安田講堂でさ、下が早稲田。連合赤軍の片割れが遊びに来たりとかさ、なんかあるとあの頃はいっつもローラー作戦に合うのよ。俺はそういうことを全然知らないで、友達が借りてたからそこの真ん中に部屋にいて、当時その連中からハウスジャックって呼ばれてたの(笑)。当時ハイジャックがはやったあとでね(笑)。だって俺の後輩が逃げて行っちゃったのよ、あまりにも俺がやかましいから出ていくっていって。どこいくのって言ったら友達の家に居候するって言うから、「行っていいから家賃だけ払いに来いよ、おまえ」って言って(笑)
--わはははは(爆笑)
日高:それで家賃だけ払いに来てたんだけど(笑)
--いい奴だなぁ、その後輩(笑)
日高:ハウスジャックとか呼ばれてそこに1年間いたんだけど…正味2年かな。20歳の終わりぐらいから1年間そこにいて。
--1年間分家賃を払わないで2年もそこにいたんですか?
日高:うん。2年間家賃払わなかったけどね。
--友達に払わせて?
日高:そう。当たり前だよ、「お前の家なんだから、いつでも帰ってきていいんだよ」って言ってね(笑)
それで、まず1年間はなんにもしなかったけど、すっごい面白かった。初めて左翼の連中と酒飲んだりして…もうあの頃は言葉からして喧嘩ごしだから、隣が拓大の空手部の寮で、夜中酔っぱらって大喧嘩。ばかやろう!みたいな感じで(笑)。
--空手部と喧嘩したんだ。
日高:そう、やばいよね。ほんとにね。ただもうその1年間は本だけ読んだよ。本だらけなんだもん、彼らの部屋中。やっぱり、この直前の70年代安保のときに、学生運動やってるいろんな連中と話して思ったけど、ほとんどの子がハシカなんだよね。ほんとうに自分らで何かを求めてるっていうよりも、集団的に染まってるみたいな感じで。非常に情緒的だったしね。実は喧嘩できない連中ばっかりなんだよな。でも、アパートにいる人たちはそういう連中と違って筋金入りだったから、かなり楽しかったし、勉強になったよ。ありとあらゆる本が読めたしね。でも仕事してないから食っていけないじゃない。たかりの人生でね、そのころ自分の名前を「タカリノコウゾウ」って名付けててさ。
--そう言われてたの?え、自分で!?(笑)
日高:そうやって表に張っておいたんだけど(笑)。
--自分で自覚してるのがいいですね(笑)
日高:仕事する気になんなかったの。
--それはなぜですか?その前に働きすぎたとか。
日高:それは関係ないよ。この(最初に働いてた)5年間はおもしろいだけで一所懸命やってきたわけじゃない。やっぱり、いろんな事知っちゃうっていうのがあるよね。いろんな人と出会ったりとか。
--それも20歳前なんですか?
日高:それは20歳ぐらいの時だね。だからそのアパートに居たときにいろんな事を知っちゃった。思想的な事も含めていろいろね。自分はそれまではさ、日本という国に生まれて、その中の環境でいわばずっといたわけじゃない。その中で自分の好き嫌いだけで動いてきてて、初めて5年間やってちょっと振り返るっていうのかな…と同時に今まで出会ったことないものや、いろんな人たちと出会うっていうことで、懐疑心だとかこれでいいのかなとか、だいたいみんなそういうのを持つと思うんだけど。そうすると極端だから(働かなくなっちゃう)。とにかく怠け者だし。俺、怠けもんなんですよ。怠け者で絶対起きないから、2日でも3日でも寝てるもん。電気もつけない・トイレ行かない・起きるのがめんどくさい、みたいなね。
--ほんとになまけもんだ(笑)。どっちに行く時も常に徹底してますね。
日高:そう。こっち行くぞっていったら、もう1週間寝てなくても行っちゃうもんね。だから、ま、ちょっとおかしいのかなと思うけど。
--おかしかないですけど、激しいですね。
日高:自分でも極端だなって思うけど。
4. テレビの生番で好き放題!ジャクソン5から拓郎、陽水、泉谷しげるまで!
日高:それで1年もしないうちに、たまたまね、TBSの番組制作会社が音楽番組をやるんだけど、その会社はドラマしか作ってないから、音楽知らないから、誰かいないかなって話がまわりに回って回って来たんですよ。早稲田とかそういう連中ばっかりじゃない、同級生がいるんですよ、そういう会社に。それで隣の部屋に年がら年中ギターばっか弾いて、酒ばっか呑んでるばかな奴がいるからって言って紹介してくれたのね。それで俺もおもしろいからやってみようかなって言って。それが(業界に入った)初めてかな。
TBSの音楽のラジオ番組で、公開録音みたいな…いろんな所にカラオケ持って行って、歌謡曲とかいろんな歌手の人に唄ってもらって、持って帰ってきて編集して番組にかけるっていうのを3ヶ月ぐらいやった。3ヶ月間の契約だけだったから。それが終わったら、来年からTBSで、今でいうワイドショーの走りだよね、そういう番組をやるんだけど、その中で音楽番組をやるからやらないかって言われて。昔「ヤングセブンツーオー」っていう番組があったんだけど。その後番組で。それ、おもしろそうだからやろうということで。おもしろかったよ、ワイドショーで生番組だった、いろんなことやったよ。当時来てたジャクソン5+マイケル・ジャクソンを生でやったりとかさ。
--生で?
日高:だからほんとに好きなことできたんだよね、俺も。ほんとに下請けでポっと出なんだけども、非常に恵まれたっていうか、やりたいこと色々やらせてもらったよね、いろんなことやったよ。「中津川フォークジャンボリー」のドキュメンタリーやったりとかさ、ピンクフロイドのあれやったりとかさ、もう上の連中はだましてね。箱根に紅葉を撮りに行くとか嘘言って撮りに行ってたよ。
この話したら長くなると思うけど、たとえば…ちょうどグループサウンズのブームが終わる時期で、みんな解散だから、じゃあそういうの全部集めてやろうみたいなことやったり。沢田研二さんとなんだっけ…テンプターズのショーケンがピッグっていうの作ったのよ。それに出てもらったりとか、ほかのバンドもみんな一緒に出てもらうとかね、そういうことやったり。ドキュメントやったし。それからまた全然違う番組で、3分間ぐらい放送局が持ってる枠があるのよ。ステーションブレイクっていうCM枠が。そこはさ、各地方局で勝手に地方ニュースをやったりして、で、こっちは1日に2、3回ぐらいそういう枠があるっていうから、勝手にしていいよって言われて。3分間でできるものやろうって考えたのよ。そしたらカラオケでアコースティックギターでスタジオで生でやってもらうしかないなって、そんときにでてもらったのは吉田拓郎くん。全然売れる前だよね。レコードが出たばっかだったけど。あとアンドレカンドレだとか…今でいう井上陽水くん。いろんな人に出て貰ったよ。
で、そういう番組を1年やって、1年やってるうちに嫌になっちゃってさ。ちょうどアイドルブームみたいになってきて、俺ああいうの嫌いなんだよ。芸能界のさ、「おはようございまーす」とか言ってさ、コーヒーをヒーコーとか、チェーセンディーセンとか隠語使って、そういう奴らとは全然合わないし、カメラ割りもつらい。音楽番組とかやってても下手なアイドル歌手ばっかりじゃない。つらいんだよね聞いてるのが。なんでこんなオンチな歌、聞かなきゃいけないんだ、みたいなさ。
--誰ですか?その頃の人って。
日高:それはですねー。山口百恵さんの前だよね、まだね。
--浅田美代子とかそういう時代?
日高:ああ、もうちょい後だよね。その後が山口百恵とかそういうのだったからね。その前だよ。名前も顔も覚えてないよ。とにかく、連れてくんだよねああいうのを。それで嫌になったんだけど…。
そうそう、辞める前に、拓郎くんのマネジメントやってた人が突然、「日高さん、すごいおもしろい男を見つけたんで、これがまたテレビ大好き人間で、なんか出してもらえないか」って言われて「誰なの?」って聞いたら「泉谷しげるくん」。それで音聞いたらおもしろかったの。彼もまだ全然売れる前でさ、ジァンジァンかどっかでやってるときで。一回会おうって言って、泉谷君がTBSまで来て、お茶飲みながら話したのかな。すっげーおもしろいキャラクターだった。ちょうどその頃、東大を目指してる男の子のドキュメンタリー作ってたのよ。まさにマンガの「東大一直線」みたいなね。当時あのマンガはなかったけどさ。一切何も知らない、ただ父親や母親から言われて、もう東大一直線の中学生で。
--勉強一筋の子だったんだね。
日高:うん。すっごい真面目な素朴な子でね。
--それ、ドキュメンタリーで追ってたの?
日高:うん。たまたまね。それで、その子と泉谷君会わしたらおもしれーだろうって思ってね。泉谷君がジァンジァンでやってる所にその子連れていって見せて。
--録ったの?
日高:ビデオじゃないからね、16ミリで回しててさ、で、終わった後対談。すごいショック受けてたよね、男の子は。泉谷君は初めてのテレビ出演っていうんであがってたみたいだったけど(笑)、それで仲良くなって。
その後でもう番組が嫌になって辞めるって言ったら、「東京ビデオセンター」って会社だったんだけど、そこの社長さんが辞めてどうする?って聞くわけ。「何にも考えてない。どっか旅行でもしようかなと思ってる」って言ったら、「じゃあ会社に残れ。でもお前は仕事嫌がるだろうから、何がやりたいんだ」って言われて、音楽出版とかやりたいなって言ったら、会社作ってくれたの。たまたまその会社、出発して2年ですごい黒字が出たから、当時のお金で500万ぐらい渡してくれたの。で、ビル借りて、それで3年間やってたのかな。出版とか日本のアーティストだとか、いろんなものやったりとかしてて、で大赤字を作って辞めたという(笑)
5. 「芸能界」に嫌気がさして独立へ
日高:まあその間いっぱい知り合いができて、ちょうどその頃ミッキー吉野がゴダイゴ作る前で、アメリカから帰ってきてたの。沢田研二君のバックをやるとか言って。ミッキー吉野グループを作るとか言ってて、たまたまうちの事務所にいるバンドのギターの子が解散するんで、その子に入って欲しいって言って、来たんだよ。それが最初のミッキー吉野との出会いだね。そのギターの子は解散するからって抜けて、ミッキーんとこ入って、ゴダイゴになってすごい売れちゃったわけよ。
ゴダイゴっていうのは俺にとっては音楽的には全然興味がないバンドだったんだけど、一人か二人知ってるのがいて、めちゃくちゃ売れた後に、彼らのマネジメントが来たのよ。俺が30になる前かな。広報とかやってもらえないかって言って。ちょうど俺そのころ会社やめてフリーになってたから、最初俺断ってたわけ。いや、ゴダイゴはちょっとやる気がない、すごいクォリティの高いポップミュージックだけど、自分の仕事にはしたくないからって。そのゴダイゴの会社は、ものすごい急成長してて、なんか新しいものが必要だったと思うのね。社長がジョニー野村って言ってすごいおもしろい人で、とにかく入ってくれ、入ってくれって言って、一回会社遊びに行ったら突然「うちの会社に入った日高です」とか紹介されて、騙されたーとか思って(笑)
--ははは(笑)
日高:騙されたけどまぁいいかぁって思ったんだよね。その頃はフリーで3年か4年やってた時だったから、ちょっとけじめつけた方がいいなって思ってたし。ていうのはさ、フリーでやってると約束を今日みたいに破っちゃうんだよね。
--今日みたいにね(笑)
日高:今日はなんとか変更してもらえたんだけど、もっとヒドイのは二日酔いで朝雨がふってたら、もう今日打ち合わせやめとかね(笑)
--素直な人ですね(笑)
日高:それよくないなーとか思うんだけど(笑)。そういうのがずっとあったりとかして、たまたまその会社から誘いがあったんで入社したんですよ。
--それがジェニカミュージックですね。
日高:そう。そのとき条件だしたのは、新しいバンドしかやらないって言って。それで一番最初にやったのがルースターズ。彼らが小倉から出てくるときかな。今でもつきあいあるけど。
そういうのやりながら2年か3年やって。でもやっぱゴダイゴみたいなバンドもやらざるをえないでしょ。そうすると疲れるんだよね。さっき話したような音楽もわかりもしないようなプロデューサーやバカな奴らと「日高ちゃーん」とか呼ばれて「おはようございまーす」とか言って。バカじゃないのって。今でもゴロゴロしてるけどさ。BMW買っただのゴルフだとかさ、何なんだこいつらって。ほんと嫌で、2年ちょいが限度だったんだよね。
6. 幻の「ザイール川紀行計画」
--僕が日高さんと知り合った頃…ジェニカに行ったらしいよ、って聞いた覚えがあるから、まだスマッシュ作る前だと思うんだけど、一番印象に残ったことがあるんですよ。だから僕は日高さんをバンドマネージャーみたいな仕事してる人だと思ってたのね。それがテレビで、アフリカのナイル川かなんかを撮っていく大冒険紀行を企画してて、その企画書を見せて貰ったことがあって。いきなりこんな企画をたててくる人なんて、これはなんだろってびっくりしたことがあるんですよ。あの企画は、実ってないでしょうけど、壮大な企画でしたよね。
日高:ああ、あのザイール川のやつね。要するに俺は音楽が大好きなんだよね。世界中の音楽が大好きだし。民族音楽も大好きだし、アフリカも大好きだし。あれはまだスマッシュ作る前のころだと思うんだけど、突然夜中にね…
--ひらめいたの?
日高:うん。アフリカのことを考えると体中の血が熱くなってきてとまらないんだよ。
--すごいなあ(笑)
日高:それでずーっと考えて。いろんなアフリカ関係の歴史、調べて本読んだりして。一つの本に行き着いて、それがコンゴ川の本だったんだけど、これはすごい本でね。これは1964年当時の中央アフリカ付近は、コンゴって呼ばれてた所で、この前やめたモブツ大統領がオランダとかベルギーの後押しで独立して、それがザイールになったんだけど。独立革命戦争の時に行っていたイギリスの記者が非常にショックを受けて。それはもうひどいもんよね。身内同士で殺し合ったりして。その記者が何十年かけて、なぜアフリカなのか、どうやってヨーロッパに伝わってきたかっていうのを書いた本なのね。で、コンゴ川っていうのがあって、東海岸の方から西海岸まで抜けて赤道を2度越えてる、その間にいろんな音楽や民族の歴史までいろんなものが何千年間にかけて、焼畑農業やりながら移動したりとかしていっぱいあって、音楽もいっぱいあって、読んでいくと音楽が出てくんだよね。それで、ぜひここに行きたいと。それではじめたのね。で、動いたよ。ほんとに何年かかけて。テレビも動かしたし、実際一回行きかけたのよ。もう、先発隊も送ったのよ。あの、要するにロケーションハンティングだよね。どこの川をどう越えていくかみたいなさ。帰ってこねえんだよ。あいつら、1年経っても。あんまり楽しくて。
--はははは(笑)
日高:集まった連中は皆蒼々たるもんよ。早稲田に慶応、それから東京農大、みんなアマゾン川とかナイルやってる連中で、それからミシシッピを、ニューオリンズからアラスカまで逆にいった奴だとかさ、そういうの全部単独で調べて。
--冒険家たちだよね。
日高:みんなと話し合って、うちの会社で寝泊まりして話し合ってさ、利根川の水上で合宿やってキャンプやって川下りやって、俺は一所懸命金作って。
--そのときスマッシュは、始まってたんですか?
日高:うん。もう始めてた。それで、やっと整って、2人の人間を先発隊で送ったのよ、アフリカに。帰ってこないの半年の予定が楽しくて。で、1年後やっと帰ってきて、もう約1万キロ近い距離だから、ここは漕いでいける、ここは運ばなきゃいけないとかさ全部チェックして、よーしって、NHKだとかいろんな放送局と話してる最中で、その頃スマッシュがちょうど業績が伸びてきた頃だったのよ。さぁ行くぞー!とかみんなで言ってたりしたら、石飛って知ってたっけ?うちにいた奴で、昔ルースターズのマネジャーやってたんだけど、あいつが「日高さん何考えてるんですかー!」ってめっちゃ言われてさ。会社がやっと苦労して1〜2年たって、こうなってきたのにね、いなくなるのはどういうことなのか!って。俺には苦労してる感じは全然なかったんだけど、こんこんと言われて(笑)
--社員に説教されて(笑)
日高:説教されちゃってね(笑)。それもあって、「そうかぁ、それじゃ行けないかなー」って。それで一時延期というか断念したんですよ。
--おしい企画だったね。
日高:うん。でも、やる気持ちは今でもまだあるけど。そのうちの一人はまだやってるよ。世界中を川で繋ぐって言って。時々ヨーロッパで会うけど。ずーっと単独でアフリカの川をくだってやってるけど、お金がなくなったりすると、一回パリかロンドンに帰ってアルバイトしてお金稼いで、また帰ってずっと回ってる。あとその中のメンバーの一人は死んだよ。アフリカで。亡くなったって聞いたときは、やっぱりすっごいなんか申し訳ないと思ったよね。そいつは、中国の長江やってるやつで、農大の大学生だったんだけど、俺らと知り合ったことでこういう音楽とか映像の世界にのめり込んでいっちゃてさ。国岡さんっていう、ずーっと中近東をドキュメンタリー録ってた人も一緒に亡くなったんだけど、俺も海外でしか会ったことないんだけど、国岡さんはそういうジプシーみたいなのをずっと追いかけたりとかしててね。彼と一緒にテレビ番組をアフリカで録ってる時に突風がきて車がひっくり返って死んじゃったのね。
--突風で死んだんですか…うわぁ…。
日高:それ聞いたときはさ、俺らと知り合わなければこの世界に入んなかったよな、とか思ったりした。まだ若かったし、25, 6だったりしたし。そういうこともあったね。
7. 好きなこと好きなようにやりたい──スマッシュの設立
--日高さんほんとに活動の幅が広いんだけど、スマッシュ作ったきっかけっていうのは?
日高:だからね、さっきも言ったようにジェニカを辞めて、疲れてたんですよ。それで新しい会社を作って、1年の半分は寝て暮らそうと思ってスマッシュを作ったわけ。
だってすごいショービズの、芸能界のど真ん中にいたわけでしょ、そうするとやっぱり、疲れるんだよ。肉体的に疲れるのはどうってことないんだけど、精神的にも疲れるし。俺はやっぱり九州の田舎出身だから、一回勤めたらさぼることができないのよ。まあお国のためとまでは言わないけど、要するに人から後ろ指さされたくないってのが絶対あるからね。ジェニカのときも自分なりに一所懸命だったんですよ、会社の経営者になったつもりでね。それで疲れが来て、2、3年経つと反動として怠け者が出てくるわけですよ。
--がんばりすぎちゃう反動なんですね。真剣に熱中しすぎたというか。手を抜いてないから出ちゃうんですね。
日高:うん。手抜きとかできないもん俺。抜くんだったらやらない。オール・オア・ナッシングなの。真ん中がない。だからそういうのもあって、スマッシュ作ったときは、1年の半年は仕事して、後の半年は寝て暮らそうと思って。
前の事務所って来たことあったっけ?
--行ったことありますね。
日高:あそこもだんだん人が多くなったから事務所っぽい感じになっちゃったんだけど、最初のころははあそこで寝泊まりしたりして、椅子も机も何にも置いてなかったんだよ。バーを作って酒置いといて、1年の半分だけ仕事しようみたいな形で。でもだんだん仕事が増えてきて、人も増えてきちゃったからね。
--人が結構集まってきますよね。やっぱり人の中心になるっていうか、みんなその日高さんが言われてるヴィジョンにやっぱりついてくるってことですかね。
日高:うん。そういう人もいた。特にヴィジョン語ったりしてないし。俺としてはスマッシュ始めたときに、プロモーションの仕事をメインでやっていこうと思ってはじめたわけじゃないから。
--はじめから呼び屋、招聘元としてやっていこうっていう気は…
日高:そういうつもりはなかったですね。
--そうなんですか。
日高:最初はそういうつもりなかった。気に入ったことをやろう、嫌なら断ろうみたいなね。
--商業的な業務を立ち上げた形ではなかったんだ。
日高:はっきり目的はなかったよね。ただ、まあなんかあるだろうみたいなね。
--でも、それなのに人がついてくるっていうのは、日高さんの人間的な魅力なんでしょうかね。
日高:最初は自分の好きな海外のバンド、好きなアーティストに来て貰おうということでちょこちょことやってたのね。それが、そういうアーティストって、まだレコード会社もほとんど決まってないとかが多いわけですよ。イギリスの新人でまだ日本でレコードも出てないとか、そういうのもあったし。
--普通はそんなの呼んでもだれも知らないのに入るわけないじゃんって言われてる時代ですよね。
日高:うん。だから俺はね、別に確固たるものがあったわけじゃないんだけど、いわゆるその音楽業界にいたときにアイドルとかいっぱいでてきたときとかずっと見てたし、どういうのが出てくるのとかわかるじゃない。なんてバカなんだろうって思ってたんだよね。なぜこんなライバルの多いのばっかりの世界に飛び込んで行くんだろって思ってた。これが流行れば、そればっかり似たのばっかりだったし。数うちゃ当たる。で、俺はそんなのありえないよって言われたら絶対なんかあるんじゃないかしか思わないんだよね。
--人の裏を行ってみようと…。
日高:そういうのじゃないんだけどね。むしろ、そういうひとたち俺は馬鹿に見えるんだよね。変な言い方で言えば。
株が流行るからって、みんながバーっと行ったりするとさ、馬鹿じゃねえかこいつって思うもんね。人間の誇りどこにあるのおまえみたいになるよね、やっぱり。儲かりゃいいのかい、みたいなさ。だから、要するに大きなもの嫌いだしね。子供の時から。で、人がいっぱいたかってるのも嫌なんだよね。そういうのもあるかもしんないけど。ただ、基本的に言えば音楽が好きだから。
--だけど、業界的に見れば邦楽の世界にいたのに、向こうから誰も知らない普通 の洋楽の連中でも知らないみたいなね、そういうのを知って見つけて連れてきたりしてたっていうのは、やっぱり相当色々アンテナを張り巡らしてたってわけなんですかね?
日高:いや。ないでしょ。ただね、ほんとに自分でもおもしろいことに俺、昔聴いた、例えば戦前の音楽なんかは、ほとんど覚えてるんだよね。海外のも含めてね。一回聞けば、覚えちゃうんだよ。ほんとに。どの音楽でも、民謡でも明治の歌でもね。音楽に好き嫌いないから、ただ自分自身に仕事をしていくときにはやっぱ、まぁ歌謡曲はできないだろうし、ポップもできないだろうけど。だからそれまでの30年間近く、海外もあちこち行ってたっていうのもあったんだろうけど、すごい音楽いっぱい聴いてたんだよね。それで、売れると思ってやったことないんですよ。なんでも「おもしれえ!」ってね。倒産しなきゃいいや、みたいなね。
まず俺が20代の時にね、日本のバンドをいっぱいやろうとしたときに、俺らがやろうとするバンドは絶対レコードの契約が取れなかったんだよ、当時。英語で歌えとか言わる時代だったんだから。フォークとかはっぴいえんどとかが出てきてからだいぶ変わったんだけど。とにかく日本のロックはつらかったよ。食えないんだよ。たとえばイギリスとかアメリカとかってさ、音楽があちこちにあるわけよ。
--街に音楽があるんですよね。
日高:そう、通りから聞こえてくる。レコード屋さんとかね。日本ではメディアがコントロールしてて音楽が産業になってるから、ある程度売れてるものとか売ろうとしたものが流れてくる。だからほんとのストリートの音楽がないわけ。やっぱり自分が聴いて好きだっていうのが一番大事なんだけども、俺が好きな海外のブルースやアフリカやイギリスやアメリカの新しいものとか、そういうのが自然に流れてくるような音楽環境がいいなと思って。だから、そういう人たちを呼んで、ライブハウスとかでやりたかった。
8. 「音楽鑑賞」の「常識」をぶち壊せ
日高:当時、海外のアーティストが来るとなると、2000人以上入る厚生年金とか渋谷公会堂とか、そういうところで見るものだって思われてたでしょ。
--最初にビジネスありきみたいな。
日高:うん。売れてるものから呼ぶってことだよね。それで見る姿勢、環境も決まってて、ホールで指定席で座って見るわけでしょ。動物園にパンダを見に行くようなもんじゃない。ステージの上に見えない檻が置いてあって、あなたたちはチケットを買って、そこに座って拝見しなさいって。
今でもよくあると思うんだけど、履歴書の趣味の欄に「音楽鑑賞」ってあるでしょ。日本人の中にはコンサートを見に行くのは音楽「鑑賞」だっていうのがあると思うんだよね。俺はそれを壊したかったの。そういう音楽もあって当たり前だし、クラシックやジャズ、ポップミュージックもそうかもしれない。けど俺らがやってるのはロックンロールだぜ!タバコ吸ってどこが悪い、踊ってどこが悪い、動いてどこが悪いってね。それがやりたかったことなんだよね。
--それは見事に壊しましたね。いや、ほんと覚えてるんだけど、誰もやってないことをそれははじめたわけで…
日高:そういうことをやり始めると必ず「NO!」って言われるんだよ。すると、おもしろいわけ。よーしやってやろうって思っちゃう。
--そんな商売にならんことやって何やってんだ、馬鹿かって思われてるかもしれないけど、おもしろくてしょうがない、と。
日高:うん。なんか血が騒ぐよ。最初にスタンディングでやろうとか言ってて、当時スタンディングっていったら、LOFTとかライブ・インぐらいだったでしょ。スタンディングなんて言葉もなかったけど。もうちょっと大きいサイズになると、会場がないんだよ。これはよく話すことなんだけど、それで目をつけたのが「後楽園ホール」。でも(値段が)高いんだよめちゃくちゃ。1600人しか入んないのに、渋谷公会堂の2倍ぐらいすんだよね。
--ああそんなにするんですか。
日高:ステージも作んなきゃいけなかったし。それであそこの支配人に日参したんだよ、「こういうことやりたいから貸してくんないか、安くしてくれよ」って。でも、全然音楽のことわかんないんだよ。ボクシングとレスリングしか知らないんだからさ(笑)。でもおまえ、おもしろいからいいよ、交渉してあげるって言って、半額で貸してくれてね。
--へぇー。
日高:で、そんときに「ミュージックマガジン」の(中村)とうようさんだとか、友達の「rockin’on」の渋谷(陽一)君だとか、スタンディングで利用するのは初めてだから、金はないけどキャンペーンやってもらえないかって協力してもらってね。今よりも厳しいから、ああいうのやればやるほど大変なんだよ。警察の許可は取らなきゃだめだし、消防署の許可はとらなきゃいけないわで。なおかつ金がかかんのよ。規制かかるから。人をこんだけ用意しろ、とかね。むしろ、座らせた方が安全じゃない、けが人も出ないし、金もかかんないんだよ。それじゃ、変わらんだろ、って思ってさ。その延長線がずっとあとになってフジ(ロック)になっちゃうんだけど。
--なるほどね。そのへんで呼んで後楽園でやったバンドって誰がいたんでしたっけ?
日高:その頃はね、イアン・デューリー&ブロックヘッズ、そこにウィルコ・ジョンソンからませてみたりね、パンク以降になるとやっぱり、ノイバウンテンだよね。すごかったよね。あれは。あとは、レゲエやろうつうことで、まだ売れる前のアズワドだとか、ニック・ケイヴだとか、主にイギリスとかが多かったと思ったけど。
--普通に考えればよくつぶれないなって感じでしたよね。
日高:そりゃ、苦しかったよ。…そりゃ苦しかったよ、ほんとに。
--そこをよく耐えましたね。
日高:そうだねぇ、やっぱ感謝するしかないよね。
--その後は、スマッシュの活躍が認められてきて、そういう流れが根付いてきて大きくなってきましたよね。
日高:うん。大きくなったという意識はあんまないんだけども、安定してきたっていうのかな。
今から15、6年前っていうのはほとんど日本にいなくてね、イギリスとアメリカとかフランスとかずーっとまわってて、半年ぐらいいなかったんですよ。それでとにかく、観てまわるわけ。何でもいいから。ちょっとでもおもしろいやつを見てまわる。おもしろくないのもいるよ、当然。で、結局そこでおもしろいと思ったら、話し始めるわけじゃない、マネージャーとかにダイレクトにばーんと。そうすると、最初はネットワークが小さかったんだけど、たとえば、その中の一つがRED HOT CHILI PEPPERSだったりとかするわけじゃない。そうすると、時代がくるわけよ、何年か後に彼らが出てくると。そうするとそのネットワークっていうのは、単なるビジネスネットワークじゃなくて、ビジネスネットワークも入ってるけども、人間的交流にもなっていくよね。そういうのがあって、それまでやっぱし招聘するっていったらデータ、情報が先だったでしょ。イギリスで何位になったとか、あそこでトップ10に入ったから…とか、そういうレコード会社と興業をやってる会社との連携プレーだったのものが、ま、当時から俺は今でいうショーケース・スタイルでやろうみたいなね。
--だって、昔でいうとさ、あの呼び屋というか、あれはね相当大きいビジネスマーケットの流れを自分で持ってないと始められなかったわけだよね。それをそういうのをなしに勝手に始めちゃったわけだよね。
日高:うん。やっぱりね、状況がよくなかったから、おもしろかったんだろうね。一番最初はじめたころっていうのはさ、あるレコード会社にさ、おたくのアーティストのこういうのやりますとか言ってさ、レコードは出てるけどすごい売れてないわけよ、なんでやるのかから始まって、これもどこのレコード会社にも説明しなきゃいけなかったわけだけど、一番おもしろかったのはね、おたくは何者だ、と。知らん、スマッシュつーのはなんていわれてさ。今でいえば大きなレコード会社だけど。で、一回会社に来いと、説明会をやってくれと言われてさ。会社で説明会やったことあるよね。それぐらい、ちょっと違ったわけだよね。
--(笑)。レコード会社らしいですね。ウドー、ユニバーサル、キョードー…それぐらいだったもんね。
日高:うん。あと、HIP があったかな。
--林さんのHIPね。
日高:そのころスタートしたのかな。
--彼の立ち上げる時も知ってるんだけど、そのそういう経験があって集めたノウハウがあるから、独立してできるっていう土壌をその前に作ったわけだけど、別に土壌なんてなかったわけですよね。
日高:全然ない。
--勝手にやりはじめたわけですよね。
日高:うん。アイデア出すのがすごい好きだから。一番最初レコード会社に行って話すと、まずやめてくれ、とかね、これはまだイギリスでシングル1枚しか出してないから、とか。
--ただ、あれだよね、そういう招聘はじめるには一応資本金・資金とかがいりますよね。
日高:借りたくなかった。今でもないけど。ある金全部使っちゃうから。
--金がないと、呼べないって単純に思っちゃうんだけど。
日高:自分が最初に呼ぶやつはすっごい安いわけじゃない。ちっちゃいものだから。だから、なんとかなるんじゃない。
--高くないものを呼んできたってわけですよね。呼べるものを。それと、そういうのを呼びたかったっていうのがあったんでしょうね。要は一致してたんでしょうね。
日高:うん。そういうのがないとだめだよ。いくら安くったって…。
--そこが一致していて、向こうのストリートっぽい部分をうまく持って来れたと言う感じですよね。
日高:そうですねぇ。あとはやっぱり、いい新人で向こうがプッシュして、これは来るだろう、というものをやろう、ということをはじめた。そのネットワークがだんだん増えてきたってことだよね。
--そのネットワークを自分で作っちゃったわけですよね。
日高:今思えばね。それに、これは売れないだろうとか、予め判ってたしね。自分たちのために、やっておきたい。こういうアーティストをやったんだって誇りを持ちたい。そういう音楽をやってるミュージシャンと関わるということは幸せなことだっていう気持ちもあったし、やっぱり。
--その辺から、日本でもクラブチッタやCLUB QUATTROなんかのスタンディングのある程度のハコができましたよね。僕は元々洋楽畑の人間だけども、離れてると知らないようなアーティストのライブも行ってみると満杯になってて…へぇーそんな日本じゃそんなにCDが売れてるっていう話でもないのに、ライブは入ってるなっていう現象があるのは、若い子達にとって、そういうライブに行くってことが特別じゃなくなったってことですよね。
日高:日常的になってきたんだよね。俺はいいことだと思うよ。
9. 15分のライブでピンと来た!「オアシス」との出会い
--そういうシーンを作ったのは見事にスマッシュの功績でしょうね。
日高:シーンを作ろうと思って、やったんじゃないんだけどね。だいたい一番最初の頃、レコード会社さんにしてみれば、新人には来日してもらうことが迷惑だと言われたこともあるしね。
--そういうこと言いそう…(笑)。
日高:売れてないんだしさ、金かかるしね。
--売れてるやつは売ろうとしてるのに、余計なことしないでくれみたいな(笑)
日高:そうですか、ってそれで終わったときもあるし、それなら自分で宣伝するしかないよね。俺がロンドンで自分でインタビューをセッティングしたこともあるよ。友達の久保憲司君(カメラマン)とか花房とかも当時ロンドンにいたんだけど、じゃあおまえはインタビュアー、おまえは写真、なんてね。久保君なんて当時はまだアマチュアだったんだからね。
--人を使うのがうまいよね。
日高:で、それのインタビューを持って帰ってきて、雑誌社に売り込みにいったりさ、それで宣伝とかして…。
--そこまで自分で動いてたんですか。
日高:うん。やっぱりそうしないとね。これはレコード会社が悪いんじゃなくて、レコード会社だって迷惑だと思うんだよ。そんな1000枚か2000枚しか売れてないのに来てもらったってさ。
--立場もわかると。
日高:そう。そりゃ大変だよね。時間は使わなきゃいけないし、来たら接待もしないといけない、協賛金も出さなきゃいけない。じゃどんだけ売れんのかってそんなに売れない。じゃあレコード会社に迷惑かけないようにしようと。そのかわり俺らが宣伝もするし、全部やるから、そのかわり会場に来て、握手はしてね、もしよかったら食事に遊びにきてください、みたいなね。そういう交流もありましたよ。
特にイギリスではそうだったんだけど、向こうで自分で新しいバンドを聞いてね、あーこれはイギリスで売れるけど日本じゃだめだなとか、イギリスじゃ売れないかもしれないけど、日本だったら後でいくだろうとかね…当たりハズレもあるだろうけど、そういうのがあったのよ。そうやって見つけてきたバンドって相当多いしね。
--オアシスもそうですか。
日高:オアシスはほんとにそんな感じだよね。
その日は俺夕方4時ぐらいにロンドンに着いた日でさ、非常に疲れてて時差ボケで、知りあいの音楽関係者と話してたんだよ。そしたら今日オアシスっていうバンドがやるって話になってね。まだ誰も知らない頃だから、なんだその名前、なんて言ってたんだけど、オックスフォード・ストリートのハンドレッドクラブでやるっていうから、じゃあ行こうってことになって。
オアシスは8時からだったんけど、実はそのあと9時半ぐらいにもブックしてたから、ちょっとだけ見ようと思って、結局15分ぐらいしか聴けなかったんだよ、時間がなかったから。でも俺、絶対これだと思ったもん。それでマネージャーどこにいるって聞いたら、いないって。
--マネージャーいない時代があったの?
日高:そう。マネージャーいなかったんだよ当時。客も200人もいなかったかな。来週から決まるからって言ってたエージェントが知ってるやつだったのよ。それでレコード会社はたぶんクリエイションになるだろうと。それが金曜か土曜で、月曜にそのエージェントのやつに、レコード出たら、絶対に日本でやろうや、QUATTROかどっかでやってステップアップしていこうって言って、おまえ馬鹿かって笑われたよ。まだレコードもできてないのに何言ってんだって(笑)。
そういうケースもあるんですよ。さすがにあんなに売れると思わなかったけど。あれは売れすぎだよ。聞いてておもしろくないもんね全然。
--当時のオアシスはあのファーストアルバムの曲をやってたんですか?
日高:当時はもうレコーディングしてたんだよ、自分たちでね。PRIMAL SCREAMのオープニングアクトをそのときぐらいから始めたのかな。それで、広まっていって、レコードが出たときにばっとブレイクしたんだよね。
--アーティストを選ぶセンスっていうか、日本の中ではもう「スマッシュが呼ぶアーティストはおもしろい」みたいな、スマッシュのカラーと信頼感ができあがってますよね。
日高:それはわかんないけどね。
--スマッシュファンっていうのがいるんじゃないですか。
日高:そうなればいいなと思ってたの。このバンドは知らないけど、スマッシュが呼ぶから見てみようかなって、おぼえてもらえばいいかなって、16年前に思ったんだよね。
10. フジロックの目指すもの…「大型野外コンサート」ではなく「フェスティバル」を!
--スマッシュのブランドはもう出来上がってると思いますけど、決定的にしたのがフジロックということになるんですね。
日高:それはまた違ったもんだと思うんだよね。俺が思ったとこと違うところに歩きはじめてるし。結局、さっき言ったみたいに、スタンディングとかおもしろいことやろうとかいろんなことやってきたのに、チッタができ、クアトロができ、ブリッツができたりしたらさ、結果的にさ同じルーティンワークになってるわけよ。俺らも同じルーティンワークの中で仕事して、要するにベルトコンベアーの中で仕事してる。レコード会社もそう。あれだけスタンディングがエキサイティングだったのに、今や普通になって、ハイ何時開場で、はい終わったら出て下さーい、みたいな、なんか特別なものがなくなってきて、単なる会場になってしまってる。向こうはレコード出たらとりあえず日本に来るとか、そういうのが形態化しちゃってるじゃない。
--はじめたことも今は普通になってしまった…。
日高:もっと違うことやりたいっていう気持ちも出てくるし。フジロックのことは10年以上前から考えていたんですよ。まだフジロックという名前はつけてなかったけど。うちの会社のやつにも言わずに、考えてた。
--ずっと暖めていたんですね。
日高:うん。(場所を)探し回ってたよね。知ってる奴もいたんだよ。たとえば、(レッド・ホット)チリ・ペッパーズのアンソニーとかには、こんなのやりたいんだけど、1回目にはぜひ出てくれって言ったら、絶対行くよって言ってくれてたしね。
--日本にはこういうフェスティバルみたいなものはそれまでなかったですよね。
日高:ないよ!全然ないよ!今もまだないんじゃない。
--まぁ伝説のアフロディーテがあったけどね。
日高:あんなのはフェスでもなんでもないじゃん。あれは野外コンサートだよ。俺はフェスティバルはそういうもんじゃないと思ってるから。日本の中にそういう非日常的なものを醸し出す土壌っていうのが今までなかった。お祭りはあったとしても、日本的な、規制だらけだし。現実にフジロックを一番最初にやるときに難しいテーマのうちのひとつがフリースタンディングっていうことだったからね。2万人3万人がフリースタンディングで1回将棋倒しになったら、どういうことになるかっていうのは誰でも想像できるわけだから。これをやるのは、俺もものすごい勇気がいったし。
--海外のそういうフェスティバル、実際にはロンドンとかイギリスとかのフェスティバルを何回も生身で経験してきてるわけでしょ。この雰囲気はおもしろいわっていう影響があったんですよね。
日高:そういうことはいっぱいあるよ。たとえば、「レディングフェスティバル」ってあるよね。あれは俺の言ってるフェスティバルじゃないの。単にステージが2つあって、バンドがいっぱい出る大型野外コンサートなんだよ。全部そう。ウッドストックも大型野外コンサートだよ。あれはフェスティバルでもなんでもないよ、俺に言わせれば。あれはお祭りでもなんでもない。あれはただのビジネスだね。もちろん俺もビジネスでやってるんだけど。
--その辺くわしく伺いたいですね。日高さんの言う「フェスティバル」っていうのは、どういう意味なんでしょう?
日高:モデルケースがいっぱいあるでしょう。(イギリスの)グラストンバリー(・フェスティバル)なんてね、広大な山の中にほんとにたくさんいろんな人が集まってきて、自分の好きなように過ごしている。そこにはいろんなものがあるわけ、ステージはもちろん7つ8つあるし、ほかにもヒッピーの人たちが集まってやってるクラフトショップなんかがあるグリーンフィールドがあったり、ジャズもあればブックフェアもあるし、コメディテントもサーカスもあるし…もうとにかくありとあらゆるものがある。汚くて不便だけどね。
日本はものすごい便利でしょ。いつからこんな国になったのかわからないけどさ、お金でチケットを買えば何でもできると思ってるんだよ。そのいい例がさ、立川談志の長野県の話があったでしょ、去年か一昨年。
--何があったっけ?
日高:立川談志が落語やってるときに、酔っぱらったお客が前の席で寝ててね、目の前で。それで談志が怒っちゃって、おまえもう出て行けーって言ったら客が文句言ったんだけど、談志を呼んだ人が追い出しちゃったわけ。そしたら追い出された客はぎゃーぎゃー文句言ったわけ。新聞に載った話だよ。俺は談志が正しいと思うもん。その客が言うにはさ、俺は金払ったんだ、俺は客なのに追い出すとは何事だ、っていうんだけど、客でもやっていいことと悪いことがある、コノヤロー!ってね。そこんところがどうもなんかおかしいのよ。お金払ったからなんでもできると思ってるんだよ。
大きい話で言えばね、日本は民主主義の国だなんて思ってないんだよ。北朝鮮や中国と比べて自由があるって思ってるだけで、実際は集団主義だし、隣同士の目の色をうかがいながら生きてきてる国だったのが、戦後変わっちゃったわけじゃない。突然、自由みたいなのが入ってきてさ。だからみんな自由だ自由だって言うんだよね。
--はきちがいだね。
日高:自由であるためには自由を守らなきゃいけないみたいな自分の義務みたいなもんがあるんだよね。権利と義務は裏表なのに、裏側がなくて自由だ自由だって権利ばっかり主張するんだよね。コンサート会場の若い子たちのなかにそういうのを見ることがあるよ。一体、親はどういう躾したんだろうとか思うもの。
--そういうことはあるでしょうね。
日高:全部が全部じゃないけどね。音楽だけじゃなくて、ほとんどそうでしょ。世の中で起きてることって。電車の中でなぜこんなことが起きんの?って。親の対応がなってないとか、学校の先生の対応がなってないとか、いろんな問題があるんだと思うけど…だからね、こういうフェスティバルで一つの音楽しかしらない子が、Aというアーティストを見に来て、全然知らないBを見たら面白かった。それにキャンプって、きついと思ってたけど、結構おもしろいじゃん、みたいなね。そういう感じで、最初はバンドだけ見に来るんだけど、2年3年経てばさ、もういいや、その中の空間にいたい、って思って貰えるようなものにしたいわけ。あっちからもこっちからも音が聞こえてくる。フジロックに来てもらえばわかると思うんだけど、そういう無駄なもんばっかり作ってるのね。来たことあります?
--いや、行ってないんですよ。うちの会社の若いやつらは、初回に行ったそうですけど…なんか雨ですごかったときですよね。豊洲は行きました。
日高:豊洲?2回目のときね。あれは大型野外コンサートだよね。完璧なね。だから無駄なものといえば、今年(2000年)はいろんな詩のテントを作ったり、レストランを作ったり、「フィールドオブヘブン」とかそういうのを作ったり、来たお客さんが楽しめる場所を幾つもそろえたの。何時から何時までこのライブ、次に何時から何時まではこのステージ、とか、そんなにずっとライブ見続けるなんてできないからね。倒れちゃうよ、日中ずっとそんなことしてたら。
11. 第1回フジロックの教訓
--フジロックと言えば台風でやられた1回目、あの打撃は、スマッシュはもう立ち直れないんじゃないかと周囲は考えていたんですけど、すごかったですね。
日高:全然。何とも思ってないから、ほんとに。俺、嬉しかったの。「ああ、神様は俺にのぼせ上がるな、って言ってんのかな」って。あの日のこと今でも覚えてるよ。開催日が土曜・日曜だったから、俺は水曜ぐらいから入って、富士山の五合目ぐらいまであがって、キャンプやってたの。会場は3合目だから、すっごいきれいでね。ものすごい夜中酔っぱらって5合目まであがって行くんだけど、お月さんが出るとすごいきれいなんだよ。
--主催者なのにそういう余裕もあるんですね。
日高:自分が楽しめなくちゃだめだね。うちの連中なんか3年目ぐらいから、休暇くれって言うもんね。働くもんじゃないって、フジロックは(笑)。客で行った方がなんぼもおもしろいって言って。まあそう思ってもらえれば、ある意味でうちの会社の中でも成功だと思ってるんだけど。それでさ、金曜ぐらいに雨が降って台風が来るらしいってことだったんだけど、そのときはまだ大丈夫だろと思って、金曜の夜中、土曜の3時ぐらいからほんとに来るなってのがわかってね。中止にしたのは、台風が一番大きな原因だよ。場内や設備はいやという程痛めつけられたからね。
お客さんの中には、2日目は陽が出てきたのになんでだと言っていた人がいたけど、ステージ前なんかはドロドロだったし、他にもあのフェスティバルで今のいろんな日本の現実が見えたよね。お客さんの参加意識とか、俺達の対応と用意とかなんかね。だって富士山の3合目でやるんだから、ってどれだけ言ったって、短パンにスニーカーで来て、天候のための替えも持って来てなくて、暴れるだけ暴れてね。言われなくても富士山の3合目まで登るっていったら、誰だってそんぐらい考えるんだよね。服装とかさ。でも何とかなるさ、金払ったんだからって思ってたんだよ。
--あれで一番学習したのは若い奴かもしんないね。
日高:だと思うよ。それと大きな原因だったのはやっぱり駐車違反だよね。あの村道でそんなことやるかっていう。俺もあそこまで予想してなかったもん。あれさえなければ交通渋滞もなくて、もっと人の上り下りが楽だったんだよね。なのに違反してる奴らは何回呼び出しても出てこない。音楽関係者もいたんだよ、その中に。要するにさ、あそこは入り口が2つあってね。駐車場が一杯だと駐車券をもってない人はまず一つ目のゲートで止められるわけ。そこを通ると二手に分かれてて左に行くと別荘地なのよ。
でね、別荘に行くって言ってそこを抜けていくのよ。ところが左へ行くと別荘地帯なんだけど、右に曲がれば会場なわけよ。ここでもう嘘ついても駐車券がないと帰されるんだけど、ここに停めちゃうんだよ。バスがやっと行き交うぐらいの村道なんだけど、そのカーブで人が見えないとこで置いてっちゃう。もちろん何キロごとにスタッフを置いてたんだけど、その見えないカーブのところに置いていくわけよ。そうすると、また今度違う車が一つ目のゲートをだましてきて、また追い返される。そうすると、違反して置いてある車を見るでしょ、それでまた置いていっちゃう。これが3〜40台から50台になって、夜中の2時か3時ぐらいに台風がきて、バスも通れなくなった。車輌をレッカーで引っ張ってもらおうと警察に電話したら、レッカー車はないって言われてさ。
--レッカーがないんだ?
日高:ないんだよ。俺らもまさかあんなとこに置くとは思ってなかったからね、あれは俺たちのミスなんだよ。でも会場の上から何回も呼びかけて、来たのは2、3人だったのね。結局、そこで交通渋滞がおきた。だから、3つだろうね。天候と天候に対する用意、渋滞、それと我々のスタッフ。一回目ってことでやっぱ十分じゃなかった、みんなが習ったっていうかさ、そいで終わった後になんにも言えなくて、一番最初の2〜3週間はえらい抗議だらけだよね(笑)
--そうなんだよ。それで日高さんは大丈夫なんだろうかって思ってたもん(笑)
日高:俺、なんともなかったもん。非常に日本的なもんが出たなと思ったよ。あの時さ、外国の連中、みんな来てたわけじゃない?イギリスやアメリカやフランスやドイツやオーストラリアから、メディアの連中から、ミュージシャン、マネージャーまで。なんでやめんだって言われたよ。こんなの向こうだったらやってるって。なんでこんなことぐらいでみんな文句たれんの!?って。3時間も4時間もかけて皆歩いてきて、何も食べないで、野外でやるっていうのはそういうことだろってさ。俺だってそんなこと知ってるって。そりゃわかってる。でも日本人で、日本のことはあんたたちよりもっとわかってる、って言って。ここは日本だし、こういうイベントはまだまだ始めたばかりなんだから、海外ではこうだ、なんて言えないよ。徐々になっていくものなんだって話をして、だいぶ納得してもらったんだよ。
夜中の12時ぐらいからうちの連中と延々どうしようどうしよう・・って話し合って、土曜日が終わって、だいたい朝の4時半ぐらいに夜が明けるんだよね。その間、ずっと話し合ってて、もううちのスタッフも台風の中で限界がきてたの。それもあったし、会場の横に本部があって、そこにステージが見えるのよ。もう台風がいっちゃって、だんだんだんだん日がさしてんだよ。あの会場のドロドロのところを埋めたとしよう、砂やなんとかで。でもね、あのときは二日間あって計3万のチケット売ってるのよ。そのなかで共通券買ってる1日目の客が2万人残ってたわけ。1日目のあの雨の中疲れ果てた人間が2万人残ってる。そこに明くる日、あと1万人、すごい元気なグリーンディ、プロディジーで暴れたい子達が来るわけ。2万人の疲れ果てた連中に1万人の新鮮な元気いっぱいの暴れたくて来てる子たちが来たらどうなるか、誰でも想像できるじゃない。それで中止を決めたのが、朝方の4時半ぐらいかな。
--2日目は天気は回復してたんですよね。
日高:そう。だから、なんでやめるんだって言われたよね。
--でも、その前の日の打撃が凄かった。
日高:あの1年目の1日目っていうのはね、ほんとに来たお客さんは絶対忘れないだろうね。あそこ行ってみればわかると思うんだけど、俺もステージの上から見て恐いものがあったもん。だってお客さんもう行くとこないわけよ。だから雨の中ずっと立って見てるわけ。そうなると、出てくるバンドに対してさ、おまえ下手なのやったら許さねえぞぐらいのものすごいテンションが高いのよ、お客さんが。で、バンドも出てくるとね、始まった瞬間、これは違うっていうのが明らかにわかる。そうすると、もうすごいエネルギーが出てくる、ロックバンドから。特にRAGE AGAINST THE MACHINEだとか FOO FIGHTERSだとか、ものすごいパワーが出るんだよね。そのパワーをお客さんが受けてまた返す。これは、目には見えないよ。それが相乗してものすごいテンションが上がっていく。そういう意味で凄かったよね。
--うわあ、それは行った人にしかわからないでしょうね。
日高:わかんないだろうね。
--すごい壮絶な雰囲気だったんだろうね。
日高:そうやって話だけが先いっちゃうわけよ。俺もいろんな話し聞いたよ。死人がいたとかさ、いろんな嘘ばっかり。いろんなこといってたよ、ほんとにもう。みんな。
12. マスコミや反響には不言実行の態度で
--マスコミには叩かれた?
日高:読売とか結構叩いたよ。今でも覚えてるよ。読売の言い分としてはね、なぜフリースタンディングでやるんだ、どうしてブロック別でやらないのか、危険じゃないかって。それだけだったんだよ。わかってないんだよ。違うよ、それをやれば安全なのはわかってる、それじゃいつまでたっても自由になれないんだよ。何万人が自分で自分のスタイルで観て、隣をいたわって自分で自分の面倒を見るっていうことをしないかぎりだめなんだよ。どこへ行ってもガードレールがあって、修学旅行は旗の下でさ、同じ靴下はいておんなじ髪型してあっちいくなこっちいくなって、そんなことやってっから俺はだめだと思ってるからさ。
--俺は朝日新聞だったんだけど、意外と好意的な文章なんだなって覚えてますよ。
日高:そうだね、あの1回目の反省はお客さんとメディアから始まったからね。もし、こういうものを臨むんだったらば、我々が成長しなきゃだめだっつって。
--それは、「(ミュージック)マガジン」ではそう書いてあったよね。日高イズムじゃないけど、理解者もけっこう広がっていたっていうところも…。
日高:メディアの人たちにそういう意味でほんと感謝してるところはあるよ。彼らもね自分たちも悪かったって言ってくれたからね。たとえば、事前キャンペーンでカッパ持ってこいとか、そういうのは一切載せてくれなかったわけよ。ただ、こんなバンドが出るこんなバンドが出るってだけで。こっちが発信できたのはチラシとホームページぐらいでさ、あと雑誌とかではやっぱ1回目だからね、どうしても話は「これも出る、あれも出る」っていうのがメインになっちゃってさ。
--全員が初めてのことでほんとにことがわかってなかったんだね。でも、2回目からですよね、すごい客がマナーがいいっていうかゴミもきちっと掃除するし、そういうものを伝えられましたよね。
日高:2回目の時は、豊洲にせざるをえなくなった時に、ほとんど興味がなかったもんね、俺。こんなの成功しなかったら嘘だろって。俺が心配したのは、日射病対策だけ。だからプールを作れだの、テントをずーっと外側に張って休めるとこを作ったりとか、そういうことしか考えてなかったから。あと、ゴミ対策っていうのがあったから、ボランティアの人たちとやって、もちろんその前に半年間ぐらいキャンペーンやったよね、で、お客さんの中からとにかく守ろうよみたいな自意識が出てきて。
--そんなのができちゃったんだよね。やっぱり強烈な勉強はしたんだね。1回目の時は2日目を払い戻ししたんですよね。それは相当な打撃があったんですか?
日高:保険に入ってたから、どうってことねえよ。
--ああそっか。保険で。
日高:興業保険てのがあるからね。
--じゃあ経済的な打撃はなかったんですね?
日高:そう。終わってから2、3週間さ、みんなそんな話ばっかりしてんだって。俺に電話できねえっていうから、どうしましょうかってうちの連中が保険のこと話しましょうかって言うからさ、言うな言うな黙っとけ、ほっとけほっとけ、そういうことしゃべるのが好きなんだから、って。もうつぶれるだのなんだのって。そうじゃないとこみせてやるから大丈夫だよ、その方がおもしろいよ、って。
--フジロックは今年何回目だったんですか。
日高:4回目かな。
--次で何か変わることとかあるんですか。
日高:うん。また馬鹿なことやるよ。今年も馬鹿なことやったし。今年は前夜祭だとか盆踊りだのさ、いろんなものやったし。来年はまた違うことやる。また違うステージも作るし。
--場所は苗場で?
日高:うん、苗場で。
--苗場はもうかなり根付いてきたかんじですかね。
日高:うん。はじめは猛反対だったけどね、村の人たちから。
--今はよろこんでるんですか?
日高:今はものすごいよろこんでるね。(苗場の)1年目終わってから。スキーの客よりもマナーがいいって言って。道ばたのゴミとか全部拾ってくんだもん、お客さんが。会場のゴミとか拾って掃除してくれんだもん。
--地元のゴミまで(笑)
日高:そんなことすんなって言ったの。2回目の時言ったのかな。2回目の豊洲のときにさ、おかしいって言って。1年目みたいになんにも言わなければやりたいだけやって、言えばさ、やるっていうのは、裏返せばどっちも同じだっていうことだって。俺がああいうきれいなとこ行ったら、ごみだしてやるって言って(笑)
--ははは(笑)。地元に貢献しちゃったね。じゃあしゃべれる範囲で来年の計画を教えて下さいよ。
日高:バンドのことは言えないよ。これだけはやっぱり先走りしちゃうからさ。現実に今決まってても、だめなことってあるから、やっぱある程度、たぶん公式発表するっていったら、来年の2月か3月になるからね。
--バンドのこと以外にフジロックに限らず2001年の抱負とかは?
日高:2001年とかないもん。俺別にキリスト教とか信じてるわけでもないし。だから、ミレニアムだなんだって、俺、馬鹿としか思えないんだよ。えーおまえそんなにキリスト教信じてんの、みたいなさ。
13. 1週間のフジロックに行けるようなバカンスを!!
--今後のフジロック、スマッシュの展望としては?
日高:とくにないけど…この前ELECTRAGRIDEっていうのをやったんだけども、インドアーでね、テクノのイベント。underworldとかOrbitalとかいれてやったんだけど。そういうようなのもやっていきたいなと思ってる。フジって3日間だけだしね、俺らにとってみれば。えらい精力っつーか時間もとられるイベントであるんだけど、なんていうのかな、もっとこう日常生活の中に持っていきたいんだよ。あそこに見に行くっていうことは、けっこうきついことだと思うんだよ。それは社会人だったら、たとえば全部見たければ5日間かかると、前後。そうすると、なかなか行けないっていう声が多いよね。それはよくわかるんだけど、俺はそれがおかしいと思うんだよね。別にフジに見に来いっていう話じゃなくて、そこから見えるのはさ、俺らの社会人たる働いてる人間のバカンスの取り方の問題でしょう。休暇の取り方の問題でしょう。要するに、俺ら休暇って持ってないもん。日本に生まれて。長い休暇取ることできないもん。
それって、やっぱりね、ここまで経済的に潤った国なんだから、そろそろ会社とかさ環境がそうなっていかないとおかしいと思うんだよ。なんかそういうのを取りにくい雰囲気だったり、だからさ、ああいう集中するわけでしょ。お盆の時とかさ正月に。お盆とか正月は我々が伝統的に持ってる行事だから、それは俺も田舎に帰るし、仕方がないと思うんだけど。なんつーのかな、とにかくみんなが働いてるから行かなきゃいけないとかさ、ほんとにさ、働いてる人の100%や90%の人間がさ、7月や8月の暑い時にね、その時期に会社にいなくちゃいけないことってあんまないと思うんだよ。ただ、そういうことを言えない雰囲気っていうのかな、それが俺達が持ってる社会環境だと思うのね。だから、フジだからうんぬんとかじゃなくてさ、3日やる、俺は1週間やろうと思ってるから、最後は。1週間のフェスティバルだって言って。月曜から木曜まではタダ、みたいなね。キャンプやって過ごしてようみたいなね。それから、ステージでちょこちょこやるからタダで見れるよ、みたいなさ。で、金曜から有料になって、ていうような形で。で、そこにきてテント張ってゆっくり過ごしてほしいみたいな、ね。ところが、そうじゃなくて、なかなか休暇が取りにくいっていうことが、一番我々が持ってる非常にせせこましいような感覚をもってるところじゃないかなぁと思って。そこから見えてくるっていうのは、繰り返し言うようだけど我々の社会環境、会社環境だと思うんだよね。「音楽見に行くの?なにそれ」みたいな。
--そんなことで会社休むのか、みたいな。
日高:とかね。その延長線上にあるのが、とにかく会社に行ってなきゃいけないってのがあるじゃない。俺、極論言えばね、8月なんてさ、ほとんどの会社半分ぐらいさ1ヶ月ぐらいやめたって、日本の国がつぶれるとは思わないんだよ俺。あの暑い中、背広着てネクタイしてさ、それだけやって、全然かわんないわけじゃない、不景気になったとかいって、ここ10年間。もっとやりくりすればさ、どっかで仕事をかちっとやって、どこか半月ないし2週間ないし3週間ないし休みが取れるようになっていった方がいいと思うんだよね。そういう発想になかなか持っていけないっていう環境の中で俺らは生きてるってことだと思うんだよね。
--個人的にはどうなんですか?
日高:俺?俺は仕事とか私生活とかほとんど関係ないもんね。いないときは全然いないよね。だからうちの連中にも夏は1ヶ月休めとかって言ってるよ。2週間ぐらいしか休まないよね。やっぱり。
--でも、2週間も休めるんだから普通の会社より相当いいですよね。
日高:ほんとは、だって8月は一切仕事してなかったんだから。スマッシュつくってから。ほんとに。一回か二回ぐらいしかないよ。
--年中無休じゃないとやってられないようなイメージありますけどね。海外のアーティストはガンガン来てるし、フジロックもほかのイベントもやってるでしょ。
日高:まあフジロック始めるまでは7月から8月の終わりまでうちは全然やってなかったから、フジロック始まってからだよね。夏に働くようになったのは。今年なんて大変だよ。おまえら死んでこいとか言ってたもんね。フジ終わって2週間後に、ロッキンジャパン、その1週間後にAIR JAMじゃない、一方で今度は北海道でエゾロックがあってさ…
--それ全部やってんですか?
日高:エゾロックは札幌のウエスがやってるけども、あとは全部うちのスタッフがやってるわけだからね。
--なんでできるんだっていう量ですけどね。
日高:いやもう人でなしで若い連中こき使うことですよ(笑)
--なるほど(笑)。社員13名ってオリコンには書いてありますけど、ほんとにそんな人数でやってるんですか?スマッシュって「大きな会社」っていうわけじゃないのに、よくあれだけのフェスをやれるよなあって思いがあるんですよね。
日高:自主的に任せるよね。やりたい人間がいればやるっていうことだよね。フジは強制的にやらせたけどね。結果的にフジでやったことで、俺嬉しかったのはさ、うちの連中もそうだけど、これって延べ1000人ぐらいいるんだよ、警備入れれば。で、主要なパートだけで100人か200人ぐらいいるわけ。常時、常に働いて俺らと一緒にやってるのは。で、みんなが誇りに思ってくれてることだよね。だからほんと、何にも言わなくていいもんね。
--このフェスに参加できてて、作ってるのは俺たちだみたいな。
日高:うん。なんかそう思ってくれてるみたい。だから、今やなんも言わなくていいよね。まあいつも今年はこれやるからねって言ったら、まず反対するけどね。「殺す気ですか」とか言ってね(笑)。1年目がステージ3つで、1つ潰したでしょ、雨で。2年目がステージ2つ。で、3年目はメインにグリーンにホワイト、それに、それまでなかったのに俺がダンステント作るって言って、今年はダンステントの次はフィールドオブヘブン作るって言った時には、怒り狂ったもんだよ。でもやればできるじゃねえかみたいなとこがあってさ。
--人使い荒いって言っちゃ荒いんだろうけど、そうやって無理矢理やっても、みんながしまいには誇りを持ってやっているっていう、そこに落ち着かせるっていうのがすごいよね。素晴らしいですよ。
日高:いや、それは俺じゃなくて、みんなが好きだからだと思うんだよ。最初はやっぱりきついよ、そりゃ。こんだけのステージ作るっていうのは。
--日高さんじゃなくて社員にインタビューして、日高さんをどう思うかっていうのをやりたかったですね(笑)。日高さんには、どうやったらそういう社員を雇えるんですかっていう、それを聞きたいですよね。
日高:いや、もっと自然だったけどね。
--昔から自然に人が集まってきたんですよね。
日高:音楽好きだったからじゃないかな。彼らも。音楽が好きで、で、若い人たちが来たのは特にそうだよね。スマッシュこんな音楽をやってるから、そういう仕事してみたいってのが、そっちのが多いと思うんだよね。もちろんその中の全部が長くいるわけじゃないけども、ほとんど残ってるのはみんな長いよね。俺、自分が若い時にいろんなことをやらせてもらったことに対して感謝してんだよね。恵まれてたと思う。曲がり角の所でいつも人が見ててくれた。だから、もし俺が若い人たちと仕事するとしたら、そういう人たちにやりたい仕事をやらしてあげたいって思うね。そうすると、伸びる人は伸びるもん。圧倒的に。だからね、入って半年ぐらいでだいたい仕事慣れるじゃない。こんなことやればいいんだなって。そのころに何が好き?って聞いてさ、こんなのが好きだって言われたら、じゃあそれやろうって、予算全部任せるわけ。まあやっぱり、とまどうよね。海外の(アーティストを)扱えば金額とかってえらいもんだからさ。「これを管理するんですか?」「そうそう」って。レコード会社と打ち合わせするのとかも任せていくようにしてるんだけどね。
--ということは、今は海外交渉から何から全部を日高氏一人でやってるってわけじゃないんですね?
日高:交渉はやるけどね。話をしたりとか、だいたいそうなるけども。やりたいっていうことが一番本人にとっておもしろいでしょ。で、だんだんだんだん幅を拡げるようにして。たとえばうちの隣のセクションでやってるのに興味ない、これしか聞きたくないって奴もいるわけだから、それをなんとかやっぱ拡げていくっていうこと、話し合ったり酒飲んだり言い合ったり討論したり、そういうのもあるし。
--スマッシュ自体もこれまで全然したことがない仕事を平気で成功させてますよね。
日高:成功なんかしてないよ。これだってまだ、フジだって成功なんて言えるって俺思ってないからね。
14. 趣味は山・車・海外…足で見つけたフジロック開催地
--なるほど。仕事以外で何かしてることはあるんですか。体鍛えるとか…
日高:やってるよね。やってるっていうか…だって俺日本にいるとき仕事以外ではほとんど東京にいないもん。
--どこに雲隠れしてるんですか。
日高:ほとんど山かどっか行ってるよ。山歩きやったりジープに乗って、寝袋持って、冬でもキャンプやってるんだよ雪の上で。2000メーターぐらいのとこで。
--えー!根っからそういうのが好きなんですかね。
日高:どうなんだろうね。山育ちでしょ。とにかく、今でいうアウトドアライフていうのが大嫌いで、キャンプ場でやるのも嫌だし、とにかくなんもないよ。木は拾ってきて、河原でやるという、そういうやつです。うちの会社の奴も遊びに来るけどね。
--それは一人っていうわけじゃないですよね。
日高:一人の時もある。日本国中キャンプしながら一人でずーっとまわったこともある。フジロックの場所探すのだって、俺ずーっと自分のジープがなかったら見つかんなかったと思う。一番上は福島から下は岐阜までかな。俺、不動産屋だよねと思ったもんね。その頃、趣味と実益っていったらそうなんだろうね。もう何年も前の話だから。7、8年前の話だから。ばーんと行って、うわぁこの場所いいなぁ、ここはどこが持ってんの、みたいなね。そっから始まって、そこの親父さんとそこに泊まり込みで酒飲んで、3日間いたことあるけどね。でも、そこはできない場所が多かったけどね。いろんなインフラとかあるからさ。
--全部自分で走破して見つけた場所なんだ(笑)。そうなんですか。そりゃおかしいな。別に山に行って何するってわけじゃないんですか。
日高:なんもしない。酒飲んでボケーっとして…
--そうしてるだけなんですか?なんかスキーするとかそういうんじゃなくて?
日高:スキーとかやだな。ただ歩きはする。ぼんぼん歩く。1回うちの連中だましてさ、「尾瀬に行くぞ、尾瀬に」とか言って、普通みんな尾瀬って言ったら群馬県から入ってなだらかなとこと思って、ぐ〜っと福島のむこうからまわって檜枝岐に連れて行ってキャンプして、露天風呂もあるんだよね。その日はまだいいんだよ、明くる日に尾瀬に行こうかって。みんなテレビしか見てないから、なだらかなとこだと思ってるからさ、裏側から(笑)2時間かけて…(笑)ほんと怒ってたもん、詐欺だとかいってさ(笑)
--そういうの定期的にやるんですか?
日高:うちの連中連れて?いやいや無理強いしない。
--俺が行くから付いてくるかとか言って…
日高:だって、俺いやだよ。自分が勤めてるときにさ、そんなの興味がないよっていうときにさ、上司から無理矢理来いなんて言われたって嫌だもん。まず、楽しくもないじゃん。
--海はやらないんですか?
日高:海もやるよ。
--どっちかっていうと、自然派志向なんですね。
日高:車が好きなのね。単車とか。で、だいたい行き先を決めなくて出るのよ。特に車になってからは。単車だったらさ、行き先決めてから行けんのよね。渋滞があろうが何があろうが。車も単車も昔からおんなじものを何十年か乗ってんだけども、車だと高速乗って決めんのね、渋滞の情報見て。東名混んでるわ、じゃああっち行こうとか言ってね。
--じゃあほんとに常に詰め込んであるんですね。
日高:キャンプやるとき以外は詰め込んでないけどね、詰め込んでる時も多いけども。なんとでもなるっていうのが俺のあれだから。
--どこでも生きていけるって感じですね。
日高:うん。俺、どこでも生きていけるっていう自信あるよ。北極でも(笑)
--すごい(笑)野生児ですね、ほんとに。
日高:いや、やろうと思えばできると思うんだよ。要するに自分の生活習慣を持っていったらだめよ。便利なものや暖かいところに、そう持っていったらだめ。比べるから今度は。
--海外でもそういう街じゃなくてそういうところに…?
日高:うん。多いよ。昔、ロンドンに住んでた時はやっぱり疲れるんだよね、週末になると。仕事の話ばっかりでしょ。で、その頃はパリに逃げてたの。週末になるとパリに。その頃は全然違うから、やっぱり。友達もいるし、音楽もすごくあるし、アフリカの音楽もいっぱいあるし、もっと違うから。ロンドンみたいに別にギスギスしてないから。で、どうしてもやっぱり田舎の方に行きたくなるよね。イギリスの時は、ウエールズに行ったり、スコットランド、アイルランドに行ったり…キャンプやったりとか600年前の人の家に泊まったりさ、全然見知らぬ人のところに泊まったりさ、電気もなにもないところに泊まったりとか、おもしろいよ。で、ちっちゃなパブに行ってさ、おじいちゃんたちがアイリッシュのバンジョーとかバグパイプとかやって一緒にビール飲んで騒いだりとかさ、楽しいよ。世界中まわるのは。
--女房、子供っていうのは?
日高:いない。結婚してないし、する気もないし。
--そうなんですか。じゃあそういう生活もできるかもしれないですね。
日高:ま、勤め人じゃないってこともあるんだろうね。会社やって、まぁ最初の方は(会社の人たちも)嫌がってたっていうか、またいなくなんのかい、みたいなのはあったみたいだけど、もう今居ない方がせいせいしてるみたいだけどね、うちの連中。
--じゃあ、けっこう自分の中では、めちゃくちゃ忙しそうに見えるけど、適度にオフも作ってるってわけですね。
日高:ていうか俺忙しいと思わないもんね。全然忙しいと思わない。今までの中で一回でも忙しいと思ったことはない。
--けっこう要するに日高氏がつかまんなくても、全部まわってるわけだ。
日高:うん。いなくてもいいんじゃないかな。
--日高さんがいなくて困ってる困ってるって必死で追いかけられるっていうかんじでもないわけですか。
日高:だから、部署部署で仕事はできるでしょ。ただやっぱり決めなきゃいけないことってあるよね。考え方が違ったり、考え方とか一つのことを判断するのに違うものの見方が必要なときもあるから。今さ、メールもあればさ携帯もあるしさ、俺も電話は入れるもん。俺が一番嫌いなのはケイタイ電話だから。
--持ってないんですか?
日高:いや、持ってますよ。だけど、かけてこれないんだよ。自分が電話するときしかかけないから。かけてこれなくなる。
--ひどいなぁ(笑)。でもそれいいかもしれないですね。
日高:だってそんな世の中でどうしても話さなきゃいけないことなんてないと思うよ。よく俺、レストランやいろんなとこで人が話すよ、そんな必要ないと思うんだよ俺は。ましてや、仕事の打ち合わせでどっかに行くって行ったらさ、行ってる場所はわかってるわけだから、相手の会社に電話すればつかまんだもん。俺そう思うんだよ。お互いそういうこと意識してやってかないと、便利だから便利さに慣れすぎちゃうもんね。
俺、この前一番びっくりしたのはさ、2年ぐらい前体の調子が悪くなったんで、時々病院に、なんていうのかな、お医者さんが来いと言うので行くじゃない。定期的に1年に1回ぐらいちょこっと行ったりすんだけど。ところが、待合室にいたら、信じられなかったよね。ケイタイ電話でさ、話してんだよ。待合室がこうあって、俺は待合室の中にいて、向こうがお医者さんがいる部屋が5つぐらい並んで、そこの前で患者さんが待ってるわけね。そこで、ばって話しはじめてんだよ電話で。すげえのがいるなおい。知らねえんだろなーって。そういうことしちゃいけないとかさ入り口に書いてあるんだけどね。
--心臓のペースメーカーとか…。
日高:明らかに知らないんだろうと思ったんだよね。で、言おうかな〜って思ったのね。おせっかいだから。したらね、向こうから看護婦さんが飛んできて、使ってはいけませんよとか言われてもうやめたんだけどね。ああいうの見ててもね、そんな重要なことかい!?っつーのがあるんだよね。即やめるようなもんであればさ、そんな重要なものじゃないわけじゃない。待合室の前に公衆電話があんだから、本当に重要だったら切って公衆電話のところに来るじゃない、それが窓のとこに座ってんだもん。自覚してないんだよね。
15. 社員のやる気と信頼関係が基本
--自覚してないんだね。話は変わりますけど、会社の中で定期的な会議とかミーティングとかはやってるんですか?
日高:ない。なんか必要に応じて。俺ミーティング大嫌いだから。
--意思統一というか会社の全員に伝達するっていうのは?
日高:そりゃ重要なことがあったらやるけど、あんまりないよね。
--(笑)。(スマッシュは部署によって)階がわかれてますよね。そうすると、みんなバラバラになるような可能性がある建物だと思うんだけど、それでも縦の階で有機的につながってやってる…
日高:有機的かどうかはさ、俺は客観的になれないよね。でも主観的に見て有機的じゃないと思うけどね。つーのは、あなたはレコード会社で働いてたからわかると思うんだけど、レコード会社って工場みたいでしょ。オフィスって。日本ってそういうとこあると思うんだよね。さっきの話じゃないけども。自分の空間がないよね。
--ま、アメリカや海外的とはえらい違いでしょうね。
日高:だって、やってることがオフィスのデスクワークじゃないわけじゃない。なんかさ、自分でヘッドフォンで聴かなくちゃいけないとかさ…。だから、基本的にさ、なんか日本てみんな同じ所で同じ格好して同じような時間にはじめて、同じことやって、そういう仕事だったらいいよ。俺はそうじゃないと思うんだよ。一つ一つ、それぞれレコード会社ならレコード会社の、事務系の仕事ならそれでいいと思うし、守衛さんはそれでいいと思うしさ、ただやっぱり海外交渉するやつは夜中に仕事してるわけだろうし、A&Rとかそういう人たちは聞くことやそういうことがもう…、音楽と自分と仕事っていうのはやっぱ一緒でしょ。そういう効果がほとんどないと思うんだよね。どこのオフィス行っても、ばーっとしたところにさ机だけならべてさ、なんか俺あんまり好きじゃないんだよ。それで、ここを借りようと思ったときに、みんな分けちゃおうって。当然、分けた結果バラバラになるだろうなというのも、そりゃやっぱいちお経営者だから考えるよ。
--日本の普通の考え方だったら、ワンフロアの方が便利だって考えますよね。
日高:実際、反対があったんだよ。一つのフロアのほうがいいって。そいつらくどくことからだったからね。「いや、違うんだ」って。まったく自分らで、ほんとは2階なんかも人が多すぎるから、もうちょっとなんとかせにゃいかんなっていうことで今、一つほか借りたりなんかしようと思ってるんだけど、俺ね、その方がいいと思って自分を信じてんの。信じないとだめだ、人を信じないと。不安もあるよ。バラバラになっちまうんじゃないかとか勝手なことするんじゃねえかとか。そう思っちまったらなんもできないもん。信用するなら信用するってことだよね、ギリギリ以上まで。だいたいはわかるから、どういうことやってるか。
--腹のくくりかたが、完璧なんですねスマッシュ大阪やロンドンブランチではどういう活動をしてるんですか?
日高:スマッシュWESTは東京とまったく同じだよね。
--でも、外タレ系はこっちで呼んで、向こうに卸すって感じなんじゃないですか。
日高:いやいや、そうじゃなくてお互い一緒にやってるよ。俺に言わせれば東京も大阪もないと思ってるから。
--向こうは向こうで独自に呼ぶってことはあるんですか?
日高:一緒になってやってるよ。で、たまたま日本のバンドの比重が高いけどね、大阪の方が。彼らは好きでやってるのがいるから。結局ね、東京でスマッシュ大阪やりますよっていうことでいろいろ話した時にあるレコード会社さんが「大阪ですか」とかって言った人がいたの。それはわかるんだよ。その気持ちは。なんで東京じゃないの、うちのアーティストは、うちのこれは、ってそれで大変だったの。たまたま担当が大阪にいただけだって。1週間に何回も来てるわけだし、今時そういう距離感とかほとんどないと思ってるし。だから、大阪に関してはまったく同じ業務。コンサート制作やインディーの面倒みたりとかそういうことやってる。ロンドンに関しては、あんまりこの仕事には関係させてない。ほとんどコンピューターワークだとか、ま、日本のアーティストが向こうに行った時にビデオ作ったり、レコーディングやったり、コンサートやったりそういうのやったり、あとは向こうの番組作ったりとか。
--何人いるんですか?
日高:ロンドンが5人で、大阪が7人か8人。てことは、20何人いるんだ。うちの会社って。
--ロンドンブランチは向こうの人を雇ってるんですか?
日高:そう。イギリスの。
--5人とも?
日高:うん。日本人は一人も居ない。
--じゃあこっちの出張所というか…
日高:いや、資本はこっちが出してるけど、あとはマネジメントは自分でやれ、と。結局俺、会社つくるってそういうことなんだよね。なんでロンドンにオフィス作ったかっていったら、いいやつがいたから。こいつはいいやつだ、こいつは絶対何かやればできるっていう。大阪もそうよ。
--昔、自分がされたことを自分がしてるんですね。
日高:うん。ということになるよね。だって、人間次第だもん。こういう仕事って。つうのは、俺らの仕事ってさ自分が仕事作らないとないのよ。どっかからかこういう仕事ありますよ請け負って下さいっていう仕事じゃないから。自分で作り出さないといけないのね。これやったらどうだろうって。フジロックでもそうでしょみんな。べつに誰かがフジロックっていうのを開催するからやってくださいって言われたわけでもなんでもないし。
--そうじゃないと、やる気しないでしょ(笑)
日高:そういうかんじだから、やる気のあるっていうのかな、おもしろいことやってみたい、その、なるべく一人一人が違った個性がいいよね。おんなじ人間じゃないほうが、絶対。
--人もやっぱ発掘して、アーティストの先物買いもあるけど、そういう社員もきちんとする。若いですか。その人達は。大阪の若手の人は。
日高:トップの南部が40ちょいかな。でももう20年近いつきあいだしね。みんな、貧しくてもやってきた連中だよね。ロンドンの連中もそうだし。音楽が好きでやってた連中だし。一人一人それなりに才能があるし。一人は映像をやるのが好きだし、一人はコンピューターをやるのが好きだし、みたいなので。
16. 英語もパソコンも完全に独学!
--ところで海外でご自分で交渉されるっていう話ですけど、日高さん英語はバッチリなんですか?
日高:いや、バッチリとまではいかないけど、まぁ自分で全部やってきましたよ。
--どうやって身につけられたんですか?お話伺ってても、いつから英語が話せるようになったのかがあんまり…。
日高:環境だろうね、俺辞書持ってないし、さっきも言ったように学校も行ってないわけだから。だいたい教えてもらうの嫌いなのね、人にものを聞くっていうのが大嫌い。昔から言われてる言葉で、それはその通りだなぁって思って絶対実行してないのが「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。その通りだなと思いながらなかなか聞けないんだよね。英語の場合、今思うとね、映画と音楽が大好きだったんだよね。
--それだけでいけちゃうかなぁ。
日高:あとはやっぱり海外でしょ。
--必要に迫られて覚えたってことですか。
日高:そういうようなもんじゃないけどね。自然にね。だから音感とかってあると思うよ。人間。だって俺はそこまでないけども、人の話声聞いてて、これはドの音だミの音だとかわかる人いるでしょ。絶対音感持ってる人は、持って生まれた人もいるだろうし、訓練して覚えてそれを持つ人もいると思うんだけれども、俺の場合そんな絶対音感ないけども、たまたま子供の時から映画とか音楽とか大好きで、特に中学ぐらいからシングル盤、もう覚えるまで何百回も聴くよね。歌も全部覚えるまで。
--最初に一回聴いたら覚えるって言ってたよね。あれもその覚えちゃうっていうのも英語も覚えちゃうみたいな話なのかな。
日高:最初は意味わかんなくて覚えてたんだから。たまたま映画を見に行くと、同じ言葉が字幕でしゃべってんだよね。言葉でしゃべるってから字幕が出る。日本語と英語ってさ、文法的に前後が違うときがあるから。だから間違えて覚えたことあるよ、こういう意味かと思って。間違って使ったこともあるし。あと、海外が長いというか仕事関係つきあうとか…
--実践英語なんですか。
日高:実践だね。人と話して。
--元々、度胸たるやすごいものがあるんでしょうね。
日高:英語をしゃべれるようになってわかったことがあるんだけど、たとえば、韓国の人と会うとさ、ものすごい英語の発音がうまいんだよね。なぜ同じアジアの人でこんなに違うんだろって思ってたんだけど。
--中国人、韓国人とか日本人より英語うまそうですよね。言葉の並び方が英語と一緒っていいますよね。
日高:それでなぜだろなーと思ってたんだけど、彼らは恐れないんだよ。日本人てさ、英語しゃべれるようになるには、しゃべれてからしゃべろうって言うんだよね。まず覚えて、外国の人としゃべる前にある程度しゃべれるようになってからしゃべろうとすんのよ。いつまでたってもしゃべれるようにならないと思うんだよ俺。うちの会社連中がいい例だよね。ほとんど英語しゃべれなくて入ってくんだから。それがさ、慣れだよね。だんだん覚えていくし、時々間違えたこと言ったりもするときあるんだけど、それでだんだんコミュニケーションだけはできるようになる。そのうち何人かは電話でも英語を話せるようになってくるし、そういうのも出てくるようになる。やっぱり環境はすごいでかいよね。日本人の3歳ぐらいの子供をイギリスでもアメリカでも半年おいてみな。あっという間にしゃべれるようになるよ。頭が固くなっちまったらどうしようもないってことかもしれないし。
--コンピューターを始めたのはいつ頃ですか。
日高:やり始めたのは40になる前かな。37、8だから、今から14年ぐらい前かな。
--日高さんが自分から始めたんですよね。早いですよね。
日高:うん。そのときは早いなんて思わなかったけどね。俺にとってはタイプ叩くのもひとつの仕事だったわけよ、契約書を作ったりね…当時、テレックスだったからね、ファックスの前は。日本ではワープロだったけど、その頃にだんだんコンピュータが出始めて、アメリカの連中がEメールの機能を持ってるやつを持ってきたりして、面白いなぁーっと思ってて。それで、やろうと思ったんですよ。今から13、4年ぐらい前ですよ。それで、NECのやつを買ったのね。ものすごい反対だよね。俺が何かやると絶対一番最初に反対されるんだよ、また変なのはじまった、どうせ長続きしないんだからって。でもやってるうちに嫌になっちゃうんだよ。そのときのパソコンはあまりにも動かないからね。でもいろいろやったりしてみんな薦めるけど誰もやらないんだよ当時。
そのうちにFISHBONEっていうバンドの昔からの知りあいが日本に来たときマックを売りに出したの。クラシックっていうちっこいやつね。じゃあ俺買ってやるって中古で買ったんだよ。あれはいいよ、今でも。すっごいトロいけどね。マックだとおもしろいんだよね。遊び心がすごくあって、間違うと爆弾がでてきたりさ。これはおもしれえなって思ってるうちに40になって…会社作って7、8年目でだれてくるんだよね、慣れっていうか、ある程度まぁ食ってはいけるし…ていう状況で、これはなんかやらんといかんな思って。ちょうどゴダイゴの事務所にちゃんと入って仕事しようって思ったような気持ちと同じで、それでちゃんとコンピューターやろうと思って、途中で逃げ出さないように全部そろえたんだよ。11〜2年ぐらい前かな。
--会社的に揃えたの?
日高:いや、俺用に。プリンターからソフトもポスターから何から全部できるようなものをね。
--ということは、だれかに教えてもらうんじゃなくて、自分ではじめたんだ。
日高:うん、全然。俺教えて貰うの大っ嫌いじゃん。ほんとに家帰らないで事務所で一晩中やってたんだよ。
--全部自分で?
日高:そう、ポスターからチラシまで全部作ってさ、社員の機嫌とんなきゃいけないんだよね。ほら、見ろよおまえ、こんなんができるんだよ。やってみねえかって。
--はははは(笑)
日高:それでもあいつら興味もたねえんだよ当時は。今や俺の何十倍もすごい詳しいけどね。事務所に猫が何匹かいるんだけど、当時迷い猫になったから迷い猫のポスターを張ったら見つかったとかもあってさ。何年ぐらい前だろう…7、8年ぐらい前からかな、みんながパソコンに興味を持ちはじめたのは。今はもうほとんどの人間が俺より知識多いけど。
17. 「雑誌としてのホームページ」は5年前から
--スマッシュはホームページもかなり早くからやってますよね。自社で作られてるんですか。
日高:ホームページは、フジやる前だから…フジが97年でしょ、その2年近く前だったと思うから、たぶん一番早いんだろうね。ホームページ作って、チラシとかに全部にアドレス入れろって言ってもやらないんだよ。忘れちゃうの、そういう意識がないから。アドレスが載ってるものと載ってないものができちゃう。今じゃテレビの宣伝の下にもドットコムが出るぐらいだけどね。ホームページについてはさ、自分ではこれだなって思ったんだよね。それで、今うちでホームページ担当してる花房と話して、やろうやってことになってね。どうせだったら雑誌を作ろう、雑誌になるようなのをやろうと。自社の宣伝機関じゃなくて、自分らがやって楽しいもの。うちが呼んだアーティストでなくても、いいアーティストを紹介していこうということで(SMASHING MAGを)はじめたのね。そのあとでフジをやることになって…97年のたぶん2月か3月にチラシ作って、アーティストを発表したのは3月か4月ぐらいだったとかな?その前からフジ専用のホームページを立ち上げてたんだけど。
--それは早いですね。
日高:早いと思わなかったんだよね。絶対そうなるだろって思ってたし。だってさ、今これだけパソコンが流行ってるっていってるけども、実際20代ぐらいの人たちのパソコン所有率っていうのは、人口の10何%ぐらいしかないんだよね。低いんだよ。
--そんなもんなんですか。
日高:うん。データとして出てるよ1ヶ月ぐらい前。森とかいう馬鹿な奴がIT革命とかなんとか言ってたときリサーチしたやつが。ということは、若い人たちは実際やってんだけど会社とか学校とか、共用のものでやったりしてるだけで、実際自分で日常生活の中に持ってる人はまだまだなんだよね。
ということは、今後どうなるかと言うと、(インタビューに使用したICレコーダーを指して)こういうやつだよね。たぶん、こう(携帯できるような小さなやつに)なった瞬間にものすごい勢いで普及してくんだと思うよ。あとテレビがデジタルになって一方通行から双方向になるでしょ。家庭に入ってくるわけ。そしたらもう、あと何年かでものすごい普及してくるよ、インターネットは。そうやって普及するまでには3〜5年かかるんだよね、なんでも。ファクスもそうだったし。で、あるときバーっていくんだから。実はその下じゃずーっとたき火っていうか、タバコの火がブツブツブツブツ燃えてたわけでしょ、見えないだけ。俺はその最初のうちに燃えはじめてるよって思っちゃうみたいね。今はもうホームページとかメールとか、普通になったでしょ。
--海外とはずいぶんやりやすくなりましたよね。
日高:そうだよね。
--この原稿もあとでメールでお送りしますんで、確認お願いしますね(笑)
日高:インタビューの確認って言えばさ、フジの前後ってものすごい量のインタビュー受けるんだけど、あの確認作業ってけっこうたいへんだよね。中にはひどいものもあってさ、俺そんな言葉使ってないとか、そういうつもりで言ったんじゃないとかで、直すのに1日かかっちゃったりするからね。前にオリコンに載ったときのなんて、言葉遣いが50代の紳士なんだもん。俺そんな言い方してないよって言っても、そういう表現使ったこと無いからって。インタビューしてくれた人はすごいいい人で、フジロック大好きだって言ってくれてたんだけどね。
--難しいですよね、そういうのは。ところでSMASHっていうのはテニスのスマッシュのことですか。
日高:SMASHっていうのはさ、ヒットするっていう意味があるでしょ。俺なりの解釈だと、ほんとの英語の意味とはちょっと違うんだけどね。SMASH HIT っていうと、ヒットすることだけど、ピンポイントみたいな感じなんだよね。ものすごくでっかく大ヒット!っていうんじゃなくて、なんかこう、ポンとそこだけヒット、みたいなね。俺のいうSMASHってのは、パンキーな曲にあった”Smash It Up”みたいな、ぶちこわす、とかそういう意味も含んでるの。
--海外のアーテイストで日高さんとつきあいの深い人っていうとたとえばどんな人たちですか。
日高:それはいっぱいいるよ。お酒を飲んだり食事をしたりする人はいっぱいいる。いろんなタイプがいるよ。セックス・ピストルズのジョニー・ロットンだとか、全然違うけどジョー・ストラマーとか、ジャクソン・ブラウン…ジャクソンとジョニー・ロットンは性格とか全然違うからおもしろいよ。話してて勉強になる。ジョニーはね、ほんとにこいつ頭いいなーとか思うもん。同じジョニーでも、ジョニー・サンダースもね、死んだ人だけど、ほんと頭よかったし、自分がどう思われてるかちゃんとわかってる。その上で別に演技してるわけでもなんでもないんだよ。それなりに自分で生きてんの。ジョニー・ロットンの場合は意地があるよ世の中に対して。おまえらのいうとおり、期待なんて絶対に報いてやんねえからな、みたいな感じでね。頭いいよね。
--でも日高さんにもありますよね、そういう反骨の精神。それで日高さんはアーティストともけっこうそのまま繋がってますよねマネージャーを通してどうのこうのじゃなくて。
日高:いや。そういう人もいるし、そうじゃない人もいっぱいいるよ。
--担当スタッフに任せるってことですね。
日高:俺がそいつだったらさ、3〜4ヶ月来日するまで一所懸命やっててさ、いざ日本に来たらなんか一番いい格好したやつが来て、食事とか酒とかわーってやられたらさ、あんまりいい気持ちせんだろって思うんだよね。かえってそれやった方がいいときもあるんだけど逆に。そうした方がうまくいくときもあるんだけど。
--そのへんは臨機応変にやってるわけですね。
日高:うん。一所懸命やったんだから、ミュージシャンもそいつの名前を呼んでくれたら嬉しいんだよね。こいつがおいらの面倒見てくれたからよかったなみたいなさ。
--やっぱり人をうまく使えてる人ですね。
日高:計算してやってんじゃないんだけどね。
--そういう日高さんの元にいいスタッフが集まるのはわかる気がしますね。今日はどうもありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽シーンだけでなく日本社会の根本的な問題にまで目を向け、問題提起をし続ける日高氏。「フジ・ロック」にはその姿に共感し、自らの意識変革をはかろうとする大勢の人々が集う。今後の「フジ・ロック」、そしてスマッシュの動向からは、ますます目が離せそうにない。さて、その「フジ・ロック」の影響で、昨年はたくさんのフェスティバルが国内で開催された。そのなかでもとくに注目を集めたのが、「ROCKIN’ON JAPAN.」主催の「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」。
次回のMusicman’sリレーは、プロモーター/イベンター以外が主催する初の大規模な邦楽フェスティバルを実現させ、創生期のフェスティバル・シーンに一石を投じた張本人、鹿野淳氏の登場です。「ROCKIN’ON JAPAN.」の名物編集長として幅広い活動を続ける鹿野氏の素顔に迫ります!