第14回 鹿野 淳 氏
株式会社ロッキング・オン「ROCKIN’ON JAPAN.」
フジ・ロック・フェスティバルで日本にフェスティバル・シーンを巻き起こしたスマッシュ、日高正博氏にご紹介いただいたのは、「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」の立て役者、鹿野淳氏です。 「ROCKIN’ON JAPAN.」の編集長として多忙な日々を送る鹿野氏ですが、その音楽人生のキャリアは意外なところから始まっていました!初めて赤裸々に語られるその半生は、いわば鹿野氏の「20,000字インタビュー」とも言えるかもしれません。
プロフィール
鹿野 淳(Atsushi SHIKANO)
(株)ロッキング・オン「ROCKIN’ON JAPAN.」編集長
1964年8月5日東京生まれ。明治大学卒業後、扶桑社入社。1990年ロッキング・オン(株)入社「ROCKIN’ON JAPAN.」に配属。 1998年「BUZZ」編集長就任。2000年4月「ROCKIN’ON JAPAN.」編集長就任。2000年8月ひたちなか市で「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」開催。
- ビートルズは課題曲?エレクトーンの神童時代
- 夢は早稲田→新聞記者!? 人生を変えた恩師・吉野大作との出会い
- 「SWITCH」希望で扶桑社入社→「CUT」希望でロッキング・オンに転職…→「ROCKIN’ON JAPAN.」!?
- 「ROCKIN’ON JAPAN.」初インタビューでロック・ジャーナリズムの厳しさを知る!?
- ロックメディアの横綱「rockin’on」に対する自社からのカウンター ──「BUZZ」創刊
- メッセージ性のある音楽雑誌を目指して
- 生き方、思想としてのロックの復権
- 東京で「ライジング・サン」をやりたい!? “ROCK IN JAPAN FESTIVAL”の始まり
- 今年は2ステージのROCK IN JAPAN FES! 全社のイベントとしてさらにスケールアップ!!
- スタッフは「編集部」ではなくてひとつのチーム
- インターネットはきつい?
- ジャーナリズムとしてプライドを持って仕事ができることの喜び
- 根っからのパーティ・アニマル?寝る間を惜しんで課外活動!
- 今年の餅は伸びがいい!?
1. ビートルズは課題曲?エレクトーンの神童時代
−−まずは生年月日と出身地をお願いします。
鹿野:昭和39年、1964年の8月5日です。36歳です。
−−東京ご出身なんですか?
鹿野:浅草です。合羽橋です。
−−じゃあ、ずっとこちらなんですか。
鹿野:いやいや…それがおじいちゃんが浅草のドンとか言われたとんだ人間で…うちの父親は6人兄弟の長男だったらしいんですけど、おじいちゃん女遊びがすごくて、そして、すぐにおばあちゃんをポイしやがって。で、ポイされた方にお前は長男だからそっち側を仕切れと言われて。父親は中学から夜間行ってたらしいですけどね。それで、浅草でずっとなんとなく過ごしていたみたいで。僕は浅草で生まれちゃったんですよ、ノリで(笑)。その後、藤沢へ行って。藤沢は善行小学校っていう所で。僕よりも3歳年下のミッシェルのチバユウスケくんとは、団地がものすごく近くにいたみたいなんだけど、全然知り合いじゃなくて。後でお互いに話をしてビックリしたんですけど。そこから鎌倉に行ったりですとかね。そういう人生です。
−−湘南ボーイですか。
鹿野:あぁ、もう鎌倉の時は。僕、桑田佳祐さんの後輩なもんで。鎌倉学園っていうお寺さんの学校にいて。
−−そうなんですか。
鹿野:それで学校帰りに由比ヶ浜っていう所に行ってなんとなく座ってると「サーファーですか?」って言われて「まあね」って言って。そこはおいしいことが多かった(笑)。そういう毎日だったですね。
−−ホント?(笑)。実際にそうなんだ?
鹿野:いえ、僕はバンドマンでした(笑)。サーフィンは全然やってない。
−−バンドマンってことは、音楽を自分で志したりしたのっていつ頃なんですか。
鹿野:あ!僕すごいですよ。小学校5年の時にエレクトーンの免許取って。
−−免許?
鹿野:はい。先生の免許。教員免許取って。小学校5年の時だったもんで、神童と呼ばれてましたよね。
−−かっこいいですね(笑)。当時はそのエレクトーンで行こう!と思ってたわけですか?
鹿野:いえいえ、物心付いてないですから。暗い話なんですけど、僕の弟が1歳くらいで死んで母親がノイローゼになって、父親がなんかわけもわかんなく買ってきちゃったエレクトーンが家にボーンって置いてあって(笑)。それをなんとなくやってたらうまくなっちゃって。それで小学校5年で教員免許取れちゃって、アン・ルイスのバックで中野サンプラザで「グッバイマイラブ」弾いたりとか(笑)、よくわかんないことしてたりしてて。当時はかなりイケてたんですけどね。
−−すごい小学生ですね(笑)。
鹿野:そうそう。エレクトーンってね、僕が小学生の頃とんだ流行り物だったんですよ。毎月毎月いろんな所とかデパートとかでエレクトーン教室が開講されてて、それでデパートの1階とかでこうやって弾くんですよ。そして金を取ってたっていう。
−−かわいい子が上手に弾いてたらすごいいいですよね。 じゃあ演奏する側じゃなくて、自覚的にいっぱいレコードを買って音楽を聴き始めたのっていつぐらいなんですか?
鹿野:それはロックって意味ですか?そうですね…小学校3年…2年くらいから、レコードはドーナツ盤買ってましたね。
−−自分でですか?
鹿野:たぶん、森進一の「おふくろさん」が一番最初なんですけど。それで、僕は西城秀樹が大好きでですね、西城秀樹の洋服を母親にいつも作ってもらって…新曲が出るごとに。で、それを着て学校で「イエイッ!」とかやったり、親戚の家に行って歌い踊ったりとか。西城秀樹、野口五郎、五木ひろし、森進一、ビートルズ、バリー・ホワイトって感じでしたね。
−−バリー・ホワイト?小学生ですよね(笑)?
鹿野:小学生です。小学生の前、中盤ぐらいまで。後半ぐらいからちょっとこまっしゃくれてきて、ディスコものとか好きになってしまいまして。
−−早いですね(笑)。
鹿野:当時、なんだっけな…ソウルドラキュラとかですね、ソウルフランケンシュタインとか、そういうなんかいい加減な…「(声色を変えて)ソウルドラキュラ、ハッハッ」とか言ってて。そういうのとか、流行ってたんですけど、僕、放送委員で、昼休みに鍵閉めてそれかけまくってたら、校長先生が窓ガラスをバーンッて割って入ってきて「止めろーっ!」って(笑)。そういうヤツでした。
−−すごいなぁ(笑)。
鹿野:あの…ビートルズをロックだと思って聴いてなくて、エレクトーンの課題曲として聴いていた人間なもので、あんまりロックっていう感情がまったくなくて。やっぱり放送委員の時なんですけど、下校の音楽ってだいたいドボルザークの「家路」じゃないですか。あれ暗いから嫌で「Let It Be」に変えてたら、またなんか近所から苦情がきたんですよ。「家路なのよ!小学校は!」みたいな。だからあんまり悪意とか自覚はないままロックとかソウルを聴いてて、けっこう問題になったことが多かったですね。
−−じゃ、ロックとして聴き始めたのはやっぱり中学生ぐらいからですか?
鹿野:小学校6年の終わりぐらいにピストルズが来たんだっけな…ピストルズ。で、近所の人からジャケット見せられて、ピンクと黄色の配色がいいなぁ…と思って。こういう曲を聴く時はこんな格好するんだみたいな。耳に安全ピンで穴開けてるバカがいて、格好悪ぃーと思いながら、こういうのもありなのかなって。その辺からだったですけどね。
−−最初はやっぱりピストルズ辺りのパンクとかが好きだったんですか?
鹿野:…っていうか、ピストルズが……あんまり好きじゃなかったんですよ。あんま好きじゃなくて。ただね、当時3歳ぐらい年上の好きな女性がいまして、あれを聴いてるとその人と話ができるっていうか、その人の家に行けるっていうか。ピストルズを好きなかわいい年下でいられたもので(笑)。そういうちょっと甘酸っぱい時間を過ごすためにピストルズを悪用してたんですけど。本格的にきたのはジャパンがデビューした年ぐらい。それはちょっとルックスからで…僕、当時、白人と呼ばれていてですね、極端に色が白かったんですよ。美白する必要がないぐらいで、ちょっと黄色人種とは違う色、限りなくカナダとかの人に近い肌の色してて、白人って呼ばれてたんですけど。で、あの格好見て、これができる日本人はオレしかいないと思って。
−−なるほど。形から(笑)。
鹿野:形から入って。で、音楽がすごく好きなものだったもので、ジャパンを聴いて、それでベースも弾きたくなっちゃって。当時、ミック・カーンっていうベーシストがいたんですけど、フレットレスベースを弾いていて。いきなりベース買いに行って、それで「フレットがないのー!」とか言って。弾けないくせに(笑)。だいぶ苦労しましたけどね(笑)。
−−いきなりそれじゃ難しいですよね。
鹿野:はい。その頃にエレクトーンもやめてて、卓球にのめり込んでたもので(笑)。ちょっと音楽離れていたから、また勘を取り戻すのにかなり時間がかかったんですけどね。
2. 夢は早稲田→新聞記者!? 人生を変えた恩師・吉野大作との出会い
−−じゃあ、音楽がコレだ!と思ったのはやっぱりジャパンとかで…。
鹿野:そうですね。
−−自分でバンドとか始めたのはいつぐらいですか?
鹿野:…バンドというものをちゃんと始めたのは高校1年です。
−−その頃はまだ、今みたいに音楽でもマスコミじゃなくて、自分のバンドでやっていこうって思っていて…?
鹿野:いや僕ね、中2の時から自分の進路っていうのは決めていて、早稲田の政治学部に入って記者になるはずだったんですよ。
−−そうなんですか。音楽とかじゃなくて新聞とか…。
鹿野:はい。僕、音楽の仕事する気なんて、この会社に来るまでなかったですから。音楽は大好きだったし、ロックはいつも隣にいたんですけど、でも、全然そういうつもりはなくて、中学2年の時になんか文章で書いてました。早稲田の政治学部に行って記者になるって言ってましたね。
−−早稲田の政治学部っていうのは何なんですか(笑)?
鹿野:いや、記者になるための最短の道だったみたいで。当時何かで読んだのか、父親が公認会計士だったもので、それで、そういうことを僕に入れ知恵したのかわかんないですけども。
−−ずっとそのつもりで…。バンドは趣味みたいな感じで…。
鹿野:そのつもりでいたんですけど、それに対しての早稲田の政治に行くプロセスはまったく踏まなかったんですよ。ひとりっ子だったもので、他に比較する対象がないですから、決めたらそれは叶うものだと思っていたんですよ。下手に小学校の頃にリトルリーグで活躍したり、エレクトーンの先生とかやっていたもので(笑)。なんか、ちょっとグレイトなヤツだと自分で勘違いしてて(笑)。だんだん鈍っていってるんですけど、それに気付いてない自分がいて。ベースも超下手でしたから。で、エレクトーンがうまければ、音楽はオレはすごい勘持ってるんだろうって思って練習もしないでいたら、超下手だったんですけど、その超下手な自分に対しての自覚だけはまったくなくて。
−−あぁ…もう全然オッケーでイケてるんだって…。
鹿野:そうそう。それで、音楽を語ることだけはずっとしてきて。だから、ジャパンから入ったんですけど、クラッシュとかジャムとか、あの辺で本格的にロックが好きになって。で、「ミュージック・ライフ」をずっと買い続けて、「rockin’ on」は小難しいから大嫌いだったもので。
−−「ミュージック・ライフ」はわかりやすいですよね。
鹿野:「ミュージック・ライフ」は、すごく…うん。当時の「ミュージック・ライフ」は僕は未だに最強の雑誌だと思ってるんですけど。
−−編集長がどなたの時なんですか?
鹿野:東郷かおる子さんですかね、はい。
−−高校時代はずっとバンドをやっていたんですか。
鹿野:ええと…高校でバンドを初めて「やっぱりポール・ウェラーだよね」とか「ミック・ジョーンズはいいよね」とか。ミック・ジョーンズと同じくなるために赤いリーバイスのロンドンスリムを厚木まで買いに行ったり、いろいろ努力とかしてですね。それで、いろいろ頑張って、初めてバンドを組んで最初にカヴァーした曲はレインボーの「Since You Been Gone」っていうね、なんかよくわかんなくなっちゃって(笑)。バンドをやれれば何でもよかったもので。そしたら、なんかハードロックをやる人と一緒になって。レインボー、カヴァーしてましたね、最初にね。
−−でもバンドは趣味だったんですよね。
鹿野:僕ね、高校の同級生で今バンドマンやってる人がいて。コレクターズのベーシストの小里くんっていう人です。中学からずっと同じで。で、彼は非常に当時からうまくて、センスがよくて。オレはセンスがいいフリしてて、とても下手で(笑)。そして、ふと気付いたら、今コレクターズでベース弾いてる小里くんと、あと今河合塾という所で漢文の先生をやってる村山くんって人が、オリジナル・ラヴというバンドを組んでインディーデビューしていて、スゲェーなーっと思ってたんですよ。
なんで彼らがそうやって音楽の道に進み、僕も音楽にずっぷしハマってしまったのかっていうと、高校2年の時にインディーでバンドやってる人が古文の教師で来まして、吉野大作&プロスティチュートっていうバンドの吉野大作っていう人なんですけど。その人が急に来て、ちょっとロックをかじってる人間を放課後集めたりして、で「僕のコンサートに来て下さい」とか言うんで行ったんですよ。そうすると、遠藤ミチロウっていうちっちゃな人が豚の頭を振り回していたりとか、田口トモロヲっていうすごくいい顔をした人がウンコぶりぶりしていたりとかですね。あと「どこに何を口の中に入れたらそんなに目ん玉がぐるぐる回るんですか」っていう江戸アケミって人が山本寛斎のような服を来てやっていたりとか…ちょっとすごい世界があってですねぇ…。
−−単に先生のライブに行ったはずなのに、そんな人たちがいたんですね(笑)。
鹿野:それで先生は先生でちょっとイっちゃってるわけですよ。授業中に急に「ウォーッ!」とか声出して「先生、何ですかそれは?」って言ったら「ノイズを出してみました」とか…よくわかんない人に引っかかっちゃって(笑)。それで音楽っていう魔物に引っかかりつつ、全然勉強しなかったわけです。
−−高校時代の体験としてはすごい特殊な経験ですね(笑)。
鹿野:それから父親がですね、身体障害者になってしまいまして。僕が高2の後半ぐらいから。で、大学に行くお金がなかなか掴み辛くなってですね。僕、当時、鍵っ子やってたもんで、飯代でレコード買ってたわけですよ。まあここ(「ROCKIN’ON JAPAN. 2001年2月号/鹿野淳の食獣日誌2001」)にも書いてあるんですけど、頑張って頑張ってご飯を食べる練習をして、1食4人前とか10人前とか食べたらいくらくれるだろうって思ってタダ食いをし続けてですね。 それで、高校卒業して早稲田の政治とか言ってる場合じゃなくて、シェラトンホテルを造るために掘り仕事をしたりとか(笑)、いろいろしなくちゃいけなくなっちゃって(笑)。で、土方やったりとかですね、イタ飯屋でパフェのデコレーションをやるコックをしたりとかですね、そんな2年間を送っていたりしたんです。そのうち父親もなんとかいい方向に行き出したもので、予備校にタダで潜ってお勉強したりですね。それで、明治の夜学に入って、昼間はスイス銀行で働いて高額のお金を稼ぐという…そういうちょっととっぽい生活をしていたんですよ。
−−スイス銀行で何をなさってたんですか?
鹿野:いやいや、もうあれですよ。メッセンジャーのような仕事をしたり。メッセンジャーっていうのは「日銀に3億円の小切手を運べ」と言われて運んだりとかですね。あとはよくわかんない外人から「ウナギガ食イタイデース!」とか言われて鰻の弁当買いに行ったりとか(笑)。ま、そういうことから、あと一応、ディーリングっていう、ちょっとお金のいろいろな銀行の取引のサポートをしたりとか。いろいろやっていて。六本木のアークヒルズの32階なもので、相当いい環境の中で仕事をしてたんですけど。まぁ、それをやりながら、車持ちで夜学に行くというですね、とっぽい生活をしていて。そこでもずっとバンドはやってたんですけどね。
3. 「SWITCH」希望で扶桑社入社→「CUT」希望でロッキング・オンに転職…→「ROCKIN’ON JAPAN.」!?
鹿野:それで就職の頃になって、ハッタリをきかしたらですね、フジサンケイグループに入れてもらえることになりまして。扶桑社という会社なんですけど。「SWITCH」という雑誌をやりたかったんですよ。僕、当時サブカルくんで。サブカルくんな感じっていいなぁって思ってる、そういうすっごくダメなサブカルくん(笑)。で、「SWITCH」を作りたいと思ってですね。だから早稲田の政治はダメだったんですけど、仕事としてマスコミ以外やる気が全然なかったもので、父親に会計士を継げと言われて断った瞬間から、もうそれしかできないと思って。それだけは決めていたもので…何の勉強もしてないんですけどね。ずっとマスコミだけを受けていたんですよ。ですけど、あんまりどこの会社に対するっていうロマンがまったくなかったんです。あと、当時付き合ってた彼女と旅行がしたくてしょうがなくて、まず、一番最初に採ってくれた所に入ることを決めようと思って。で、一番最初に採ってくれた所がその扶桑社だったんですよ。僕の誕生日の8月5日だったんですけど。扶桑社と…あ、そうそうそう、レコード会社も3件受けたんですよ。ビデオをやってる所を3件受けて。ポニーキャニオンのポニーを受けたりしてて。それで、フジサンケイグループの中で競合になったみたいで。ポニーの方には受けた会社「扶桑社」って書いてあったんですけど、扶桑社の方には「ポニー」って書いてなかったから「コイツは扶桑社に入りてぇーんだな」っていうことをグループで打ち合わせたみたいで。で、扶桑社の方で内定が出て。ビックリしましたけどねぇ…
−−正社員ですよね。
鹿野:ええ、もちろん。「君は夜間なの知ってるんだよ」とか急に内定式の時になんかよくわかんないこと言われたんですよ。で、聞いてみたら、僕親と別居してたんですけどね、親の所とか実家の近くのそば屋に僕の調査をしたりとか、いろいろしていて…「君が同棲してるのも知ってるんだ」とかいろいろ言われて。
−−ええ〜〜?
鹿野:「そういうところで採るのも戸惑ったんだけど、ま、君にかけることにしたからよろしく」みたいに言われて(笑)。フジサンケイグループ恐えーなーって思いましたよ。そんなフジサンケイグループにのこのこ入りましたよオレは。「SWITCHを作りたいっ」とか言ったら「SWITCHの編集はうちでしてないんだ」って言われて。その瞬間に「あぁ、SPA!って最高ですよね!」みたいな。適当にごまかして入ってですね。
ただ入ったのはいいんですけど、局ノリなんですよあそこは。フジテレビの出版部だったんで要するに出版社ではなくて。それが自分で仕事してて痛くてですね。勉強しなくても志しだけ高かったもので。痛くて腐っていたところに専務に呼び出されてですね、「鹿野、オマエを10年間かけて日本一の広告営業マンにしてやる」って言って下さいまして。非常に丁重な言葉に打ちのめされて、次の日から転職を考えてですね。10年間かけて広告の営業マンに対してのプロセスなんか踏みたくねーよと当時は思っていて。次の日に本屋に行ってどこに行きたいかなって思ってたら、ちょうど…「rockin’on」当時は読んでたんですよ。そこで「Cut」という雑誌を創刊するよってことが載っていて。「あぁ、SWITCHよりもSWITCHな雑誌が生まれそうだ」と思って。それで会社として増員をすると正社員募集が載っていたもので…ここの会社を受けに来たんですよ。
「Cut作りたいっ!」って言って…受かったんですけど。まぁ、課題作文とか、扶桑社での経緯があったもので、この会社に来たという話をして、非常に編集希望なとこをアピールしてったもので、うちの渋谷が「まぁー、君は編集だから」とか言って。うれしいなと思って会社に行ったら、そしたら「ROCKIN’ON JAPAN.」と言われてですね(笑)。ちょっとあんまり邦楽を当時は聴いていなかったもので…はい。ビビリながらこの会社に入り始めたって感じなんですけど。
−−でも、その時もすごい競争率だったんでしょ?扶桑社も、「rockin’on」も…。
鹿野:扶桑社は何倍かわかんないですけど、「rockin’on」は僕の時に1200人ぐらい受けに来ていて、ただ、2人入ったから、僕以外にもう1人。今、「音楽と人」とかでライターをやってる田村浩一郎っていう人間ですけど。彼と僕が、当時同期入社で、2人入ったんですよ。
−−600分の1ですか。すごいですね。現在だと倍率はもっと大きいんでしょうね。
鹿野:最近うちの会社、2千何百人入ってて、それで1人しか採んない時もありますけどね、たまには。2000倍ですよね。
−−めちゃくちゃ狭いですよね。
鹿野:その割りには…っていう人間が集まってる気が自分も含めてしますけどね(笑)。
4. 「ROCKIN’ON JAPAN.」初インタビューでロック・ジャーナリズムの厳しさを知る!?
−−でも、その中から選ばれたっていうのがすごいですよね。じゃあ、「Cut」をやるつもりで「ROCKIN’ON JAPAN.」に入って、そんなに邦楽を聴いてなくてっていう風におっしゃってましたけど、それで入ってすぐから「ROCKIN’ON JAPAN.」の仕事をされたんですよね。
鹿野:そうなんですよね…。なにしろ先入観がないわけですよ、邦楽に対する。こういうのがいいであるとか…ジャンル付けが。こういうジャンルが好きだとかなかったもので。がむしゃらに聴いてですね、入ってうちの会社にあるいろんな、ま、カセットからCDからいろいろ聴いて、いいなと思ったのがドリカムとフリッパーズ・ギターっていう…訳わかんない選択を僕は当時してまして(笑)。
当時、自分の中でね、邦楽っていうのはアングラでしかなかったんですよ。一番メジャーなものでルースターズ、っていう感じだったもので。突然ダンボールとかじゃがたらとかね。そういうのばっかり聴いていた感じですから…。
−−じゃあ、「ROCKIN’ON JAPAN.」に載ってるようなのはあんまり聴いてなかったんですか?
鹿野:当時の「ROCKIN’ON JAPAN.」っていうのはそれでも結構マイナーな雑誌だったもので、僕が入った瞬間っていうのはニューエスト・モデルが表紙でしたから。充分にマイナーだったんですけど。
−−それは何年でしたっけ?
鹿野:1990年のはずです。ジャストなはずです。コンプレックスが解散してですね…そういう時期だったんですよね。その頃に入りはじめて、会社にあるのあさったら、フリッパーズ・ギターとドリカムが良くて。で、それを会社に言ったら、ドリカムを好きになってるって言葉に対する会社中から白い目というものがギンギラギンに来てですね。フリッパーズ・ギターもやってるんだけど当時なんてうちの雑誌の1ページの中での4分の1のコーナーでしかやってなかった頃で。で、当時、あの…「恋とマシンガン」っていう初めてのタイアップを彼らが付けてぐんっと伸びて曲が出た時で。で、それがいいなってことで、じゃコイツに仕事させるかみたいな会社もそういう感じで僕に2ページを用意してくれて、インタビューをしに行ったらですね、あれがロンドンレコーディングで「ロンドンレコーディングって楽しかったですか?」ということを聞いたら「何聞いてんですかあんた」みたいなことを彼らにいきなり言われて(笑)、ロックの洗練を受けてしまいまして。そこで泣きそうなインタビューをしながら「あぁ…僕はシビアな競争社会の中に入ったんだな」ってことを初めて気づかされて。非常に…まぁ自分ですごく志が高くて、ジャーナリズムというものをシビアに、自分の仕事にしたいという風に思っていたんですけど、ただ、実際にそれをやったこともないし、非常に漠然としたある種幻想論的にそういうことを感じていたもので、なかなかそれと現実との折り合いが自分の中でついてなかったんですけど、そこで一回打ちのめされることによって、非常にジャーナリズムというものと、あとロックというものと、ま、要するに自分がこれからここで、これで喰っていくんだっていうそこの世界のシビアさってものに金槌で殴られて。そこからいろいろ、本当に自分の仕事というものと自分の生き方というものがちゃんと一本の線で繋がってったのかなっていう気がするんですけど。
−−それはフリッパーズ・ギターのどちらの方に言われたんですか?
鹿野:小沢くんですね(笑)。
−−恩人ですね(笑)。
鹿野:恩人ですね。早く復活してほしいですね、恩人には。
5. ロックメディアの横綱「rockin’on」に対する自社からのカウンター ──「BUZZ」創刊
−−「鹿野さん=JAPAN」ていうイメージがずいぶんありましたけど、最初にかなり長く「ROCKIN’ON JAPAN.」にいらっしゃいましたよね?
鹿野:はい。6年ぐらいいたと思います。
−−その後「rockin’on」から「BUZZ」の立ち上げに参加されたんですよね。
鹿野:そうです。1997年に「BUZZ」という雑誌をうちの会社から創刊したんです。渋谷系という音楽が流行りだして、特に首都圏レベルでの洋楽と邦楽というものの垣根がどんどんなくなっていった時代があって…音楽雑誌以外のクチコミというものがすごくロックの中でメディア化していって、雑誌というものがあんまりかっこよくない、雑誌というものの必然性というものがよく問われるような、そういう時代に成りつつあったと思うんですよね。そういう中で、我々はある種ラジカルな雑誌を作っているという意識はあったし、そういう評価はたくさんいただいてきて、「rockin’on」も「ROCKIN’ON JAPAN.」もでかくなってきたんですけど、もっともこの会社の中でメディアとして、ラジカルな道っていうのは「rockin’on」と「ROCKIN’ON JAPAN.」だけではないのではないかと思い始めたんです。それから、…まぁ、これは我々も頑張ってきたっていうのもあるし、あと他の雑誌の皆さんが頑張らなくなってきたんじゃないのかなと僕は思ってるんですけど(笑)…「rockin’on」と「ROCKIN’ON JAPAN.」というものが、かつては非常にカウンター的な存在であったはずなのに、いつしか両方とも両横綱になってしまったところがありまして。
−−たしかにそれはそうですね。
鹿野:そういう中で、雑誌を100%使って暴れまわるということがある種できにくくなってきた。で、それプラス、その横綱にとっての対抗馬というものがなかなか存在しなくなってきてしまって。外側の出版社さん…例えばシンコーさんやソニーマガジンズさんから出てきてる雑誌で。それで対抗馬をうちの雑誌の中からも作らなければいけないのではないかという発想も持ちまして、「BUZZ」という雑誌を実は立ち上げたんですよ。
そういう意味を含めて非常にユースカルチャー的なものを、そして90年代になってから流行りだしたダンスミュージックっていうかリズムミュージックっていうか打ち込みというか、そういう音楽もの、そして、洋楽と邦楽ってものを一緒にやるっていうことと、あと非常にサブカルチャー的なネタとの共有っていうものを雑誌内で繰り返して、それを全部一緒くたにしてやるっていう雑誌を作ったんですね。
作ったんですけど、ただ「rockin’on」編集部の中で合同で作ってきてですね(笑)、なかなか雑誌がキャラ立ちしないで、ちょっと強くなれなかったんですよ。で、おかしいな、難しいなと思いながら、僕も自分の中でこの会社にいるということと、これから10年間自分がどうやって社会人としてステップを踏んでいくんだろうということを個人的に考えた時期があって。ま、結構賭けに出てですね、うちの渋谷に「BUZZ」を独立編集部化しましょう。それで編集長を僕にさせてください。ダメだったら、雑誌は潰さなくてもいいんですけど、僕が辞めていくなり何でも責任を取りますから」とかなんとか変に空回ったことを言いまくってですね。で、「BUZZ」という雑誌を独立編集部化して、編集長をやらさせてもらったんです。
6. メッセージ性のある音楽雑誌を目指して
鹿野:でも実際それが実現して、いざ作ろうと思った時に、洋楽と邦楽の垣根であるとか、ダンスミュージックであるとか、サブカルチャーっていう概念であるとか、そういうものはどうでもいいんだなっていうか、そういうものっていうのはオピニオンにならないんだなってことに気づかされて。要するにそれよりもロック雑誌としてのメッセージみたいな…
僕、ある種ロック雑誌っていうのはやっぱり宗教性があるものだと思っているし。宗教性があるものだからこそうちの雑誌っていうのは他の雑誌よりも勝ててるんだと思うし。それだけの求心力、そして主張というものがやっぱり必要なものであると思ってますので、そういう思想的なことをどうやって言っていかなきゃいけないのか、メッセージをどうやって発していくのか、ということをある種ロック雑誌でもう一回きちんとやり直すメディアが必要なんだろうなっていう風に思って。1号作ってそういう風に思うことがありまして、僕が担当になっていきなり2号目からカート・コバーンを表紙にして「90年代のロックは何を殺したのか」というテーマを全面に出して、特集主義で雑誌を作っていったら、途端に市場が開けてきて、雑誌もキャラ立ちしてきてですね。ま、ある種、勝負に勝ち始めてきたんですよね。あぁ、よかったなと思って。その後、僕は2年間、非常に楽しく「BUZZ」を作り続けたんです…はい。
−−やっぱり最初は「rockin’on」と似たような感じでもうちょっとサブカルチャーが多くてって感じでしたよね。
鹿野:カッコつけた「rockin’on」だったんですよ。だから売れるわけないですよそんな本。
−−その後はテーマごとに打ち出していくっていう風になりましたよね。
鹿野:そうですね。「rockin’on」と「ROCKIN’ON JAPAN.」はやらなくちゃいけないことがあるし、きちんと「今」というものを表現しなくちゃいけないこともあるし、明日に向かって攻めなくちゃいけないこともあるし。ただ「BUZZ」っていうのは、明日に向けて攻め続けることが雑誌のポリシーにもなっていく、そして商業的な成功の元にもなっていくっていう雑誌を作ろうと思って作っていったもので、それがうまく歯車が合ってきたんですよね。
−−「BUZZ」はどんどんイメージがアップしていって、影響力も大きくなってきましたよね。
鹿野:そうですよね…。僕が編集長をやるのはその次からなんですけど、「BUZZ」が発刊された年とフジロックが生まれた年が同じ年だったんですよ。それでフジロックが、ロックフェスティバルというものが日本にもたらされたことによって、もう一度ロックリスナーという人たちが、ロックというものがサウンドだけではなくて思想として生き方として考えるきっかけになっていったんですよね。フジロックというのはそういう意味で僕はすごく大きかったと思うんですけど。お祭りとしての意味以上に思想と生き方というものをもう一回日本のロックマーケットに持ち込んだ、そういう大きなものだったと思うんですけど。そういう時期だったもので、それを雑誌で僕はやっていく。ロックというものは思想であり、そして、それが堅苦しいものではなくてライフスタイルとでもいうべき生き方そのものなんだということを伝える。ということを紙のメディアで僕はやっていこうとして、それがうまく時代の波とシンクロしていったと思うんですよね。だから「rockin’on」の場合、非常に論理的かつ文学的かつ堅苦しいというイメージもあったんですけど、そういうイメージとはまた違ったことが時代の中でも起こりつつあって、そこを?BUZZ」という雑誌はキャッチすることができて、しかもそれをキャッチしながら「rockin’on」的な論理性というものも入れ込むことができて。まぁ、うまくやったのは僕なんですけど…という風に自画自賛しますけど(笑)。実際そういうことではなくて、非常にそういうことを求められてる時代の波みたいのがあって、それを「BUZZ」で的確に掴めたことが一つの勝因だったと思うし、僕はそれを掴めた時点で非常に雑誌を作りやすく、そんなに苦労することなく2年間楽しく作れたんですけどね。
7. 生き方、思想としてのロックの復権
−−フジに始まるフェスティバルのおかげでマーケットに思想としてのロックっていう考え方ができたっておっしゃってましたけど、フジ以降、業界の人の対応とかバンドとかアーティストの意識とか、もちろん読者も含めて、変わったなと感じられることはありますか?
鹿野:それはフェスティバルだけの問題ではなくて…例えばフェスティバルっていうのもそれも一つの要素だし、あと…洋楽と邦楽の境もなくなったっていうのも一つのことだし、リスナーとミュージシャンが自分の耳をシビアにしていって自分の耳をシビアであるということをすごく強調しながらリスナーも音楽を聴き、ミュージシャンも音楽を作っていくっていう時代になったっていうことも全部含まれていたんですけど。音楽のジャンルの中だけでモノが固まっていくということがあんまりなくなったような気がするんです。それは例えばミュージシャンで言えば「僕は打ち込みをやってるから打ち込みの人としか友達になれないし、パンクの世界に行くと片隅で内股になってしまいます」であるとか「僕はヘビーメタルを好きだったから、とてもスカビートの曲なんか作ることはできないし、そういう人とお話をすることもできません」であるとか、なんか非常に…自分の今までの音楽的なルーツだとか、あと自分がどういう音楽をやってるかってことを形式的に通ってる時代っていうのが日本はすごく長かったと思うんですよ。
でもその時代が終わっていって、ミュージシャンがロックをやる、音楽をやる、っていうすごく広い意味で自分のやってることを捉えるようになってきて、リスナーも例えば打ち込みっていうものとロックンロールというものを同次元化して聴くことができるようになってきて、そういうリスナーとそういうミュージシャンが作っていくマーケットっていうのは、非常にやっぱりある意味ポップミュージックっていうものがすごく高レベルで表現されやすい。で、コミュニケーションツールになりやすい時代になってったんじゃないのかな…そういう風に思ってるんですけど。
だからこそ我々も「ROCKIN’ON JAPAN.」「rockin’on」っていう、ロックという言葉を使って雑誌を作ってるんですけど。その中でいろんなものを…傍目から言ったらロックではないことを、以前だったら絶対に言われていたであろう音楽というものも、自然にスムーズに雑誌の中に取り込めるようになったし、それをスムーズに音楽として、スピリチュアルなものとして、メッセージ的なものとして、捉えてくれるユーザーっていうものが増えてきて。で、今だから、ロック雑誌を作っているということがポップミュージック雑誌を作っているということと同一化しているような時代になってきてるな…と。だからこそ、うちの雑誌はこんなに売れてんのかなっていう気がするんですけどね。
−−じゃあ、他の雑誌はそれができていないということですかね(笑)。
鹿野:いや、あの…よくわからないんですけど、例えば、僕がこの会社に入った頃、今からさかのぼってだいたい10年前ぐらいに「ROCKIN’ON JAPAN.」よりもはるかに売れていた「PATIPATI」という雑誌とか「B-PASS」という雑誌がありますよね。僕はあの辺の雑誌というのは、僕が小学校であり中学校であった頃に流行っていたピンククレディーや山口百恵、それから中森明菜だとか、そういう人を篠山紀信で綺麗な写真で撮って、そして休みの日の過ごし方を聞くような、「明星」とか「平凡」とかそういう雑誌の今時版を「PATIPATI」とか「B-PASS」、僕は作ってるのかなと。で、そうやって作る時にそこにアイドルとしてロックミュージシャンが入ってくるっていうのが必然なのかなという風に見ていたんですけど。その辺に徹しられなかったのか、もしくはそういう雑誌を作りたくなかったのか、僕にはよくわからないんですけど、その辺でどんどん雑誌のアイデンティティがなくなってきちゃったような気がするんですよ。それによって他の雑誌は元気がなくなりつつあるのかなぁ…という気がするんですけどね。
−−音楽雑誌そのものに元気がなくなってきたと言われる昨今、独走態勢を貫くロッキング・オンの強さの秘訣は、「BUZZ」の成功に見られるような雑誌としてのアイデンティティの確立にあると言えそうです。 後編では、すでに今年の構想が徐々に明かされて話題となっている「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」第1回目の苦労話や、多彩な課外活動、さらに有名な食獣ぶりまで(?)、JAPAN読者だけでなく、音楽ジャーナリズムにかかわる業界人必読です!ご期待ください。
8. 東京で「ライジング・サン」をやりたい!? “ROCK IN JAPAN FESTIVAL”の始まり
−−鹿野さんの代からロッキンオンとフェスティバルっていうイメージが急激に増してきているような気がしますけど…。
鹿野:そうですね、この会社で始めたのが去年からですから。
−−それは鹿野さんが持ち込んだことなんですか。
鹿野:いえ、全然違います。「ライジング・サン・ロック・フェスティバル」っていうのが2年ぐらい前から始まって、そこでうちの会社が企画協力をしたわけですよ。で、すごく素晴らしい体験をさせてもらったんですよね。素晴らしいフェスティバルがそこで行われて。で、それを見ながらなんとなくその次の年の春から「ROCKIN’ON JAPAN.」の編集長になることが決まっていた僕と、それをなんとなく僕に空気として示していた渋谷とで、さてどうしますかと…という話をしていて。
ぶっちゃけた話で、東京であれをやりたかったわけです。東京であれをやるっていうことを本気で考えたかったんですよ、まずは。利益はどうのこうのっていうのは最初はなかったんです。ただ北海道であれをやって、すごくいいフェスティバルが生まれたんですけど、やっぱり自分らがさらにこのフェスティバルというものに加わっていくんだったら、この北海道という距離はリアリティの面において非常に遠いなと。だから、それを首都圏でできないのかなということを考えてったんですけど、実際、邦楽のどこかのプロモーターさんの企画に我々が賛同してやるっていうのでは、そこのプロモーターさんの契約してるミュージシャンだけしか呼べないであるとか、そういう非常に問題点がありまして。じゃ、我々が企画制作をある種していくっていうもとにいけば、出版社からのオファーなもので、プロモーターさん、呼び屋さんの壁を越えた形でのブッキングがしやすいんですよね。それを考えて、現実的にそうでないと、そういうところに縛られない形での邦楽のブッキングをやる邦楽ロックフェスティバルっていうのは厳しいだろうと。東京での邦楽ロックフェスティバルは厳しいだろうという結論になって、うちの会社が中心になって邦楽のロックフェスティバルを作ろうってことでいろいろ考え出して。僕は「ROCKIN’ON JAPAN.」の編集長になったのは去年の春からなんですけど、それ以前からROCK IN JAPAN FESTIVALの方では、かなりこまめに動いていたんですよ。で、動いていくこと、いろいろシミュレーションしていくことによって、あぁ、これうちの会社ですべての責任、要するに金銭的な問題ですよね。金銭的なすべての責任を負わなければそういうことにはならないんだなというところから始まって、いきなり鉄骨1本いくらっていう(笑)。ほんとに途方もないような話から全部やっていって。僕にはもうよくわかんない世界の話を全部していって、去年のフェスティバルっていうのはなんとかそこまで実現にこぎつけたんです。
−−それはみんな社内のスタッフでやってるんですか?
鹿野:一番最初はそうでしたね。去年の5月ぐらいまでは社内スタッフだけでやってて、鉄骨1本いくらって言われてもわかんないですよ。鉄骨1本いくらはわかりますけど、ただそれが高いのか安いのかわかんない。高いと思ったら鉄骨1本5円って言われたってとことん高いですし。ただ、こういうので使う鉄骨っていうのは、人が死んだらどーすんだよって言われたら、鉄骨1本150万円って言われたって全然安いと思ってしまう(笑)。まあ、そういう人間なもので、そういう人間同士でシミュレーションしててもわかんないもので、ちょっと事業局っていうのを5月ぐらいから創って。3人ですけど(笑)。3人だけで創って、で、スマッシュのみなさんの協力を得てやってたという形なんですね。
−−フェスティバル専任の方が3人っていうことですよね。編集部の方以外に。
鹿野:そうです。郵便振替でチケットを申し込んでくれた人に返信を送ったりとかですね(笑)。
−−それもここでやってたんですか?すごいですねぇ〜〜。
鹿野:そうなんですよ(笑)。
−−メインのスタッフの方はみなさん編集の仕事があるわけじゃないですか。編集っていうか本の仕事。それでよくそんなこともやってらっしゃるなと思ったんですけど。
鹿野:うん、まぁ、去年はほんとに月刊誌を月に2冊作ってるような気持ちで…。フェスティバルって結局、1年間かけて作るものですから。すでに我々は今年の夏のフェスティバルに向けて相当動き回っていますし。だから、月に2冊雑誌を作っているような気持ちで。去年はちょと…きつかったですね。ババを引いたと思いましたけど(笑)。
−−現場はいろんなプロモーターとかプロの方を遣って。
鹿野:はい。ホットスタッフとスマッシュさんの方でだいぶ協力してもらいましたから。ただ、現場でもケンカになるわけですよ。だからこうじゃなくて僕はこう思うみたいな話をすると「オマエらはさぁ、制作、自分らでこうやって造れねーんだからそういう時に出てくんなよ」とか言われて。出てくんなよって言われたって責任持ってるのはこっちだよって話をして。
−−そういう戦いありますね。向こうはなめちゃうわけでしょ?ところがプロデューサーはオレなんだよって話だよね。
鹿野:そうなんですよ。あっち側の言い分もわかるし、だからこっち側もこっち側で責任を持つっていうことと、あと、要するにプロモーターさんっていうのは僕はやっぱりステージの後ろ側にいる人達だと思うんですよね。で、そこのプロパーな人たちだと思うんです。それに対しては「すっごいなーやっぱりこういう人たちの考え方は…」っていうのをものすごくいろんな所で見せてもらって。そのノウハウと才能にはビックリさせられたんですけど、ただ、得てしてこっち側のプロパーなもので、ステージからあっち側に関しては、やっぱり毎月20本ぐらいのライブを見ている僕らの方が気づくこともあるんですよ。そこのところもお互いの情報交換ですよね。それをやっていって。
−−今は非常に日本の業界的にもおもしろいものがフェスティバルという形で組み上がっていこうとしている状況ですよね。数も増えてるし。
鹿野:そうですね。すっごい量ですよね、去年から。
−−プロモーターが、がんがん突き進んでるものだけだとまた違うけど、こういう別の場所から企画が始まってるっていうことでのおもしろさっていうのが、やっぱり時代を変える部分で大きい役割を果たすような気がしますね。
あぁ…そうなるといいですよね。
9.今年は2ステージのROCK IN JAPAN FES! 全社のイベントとしてさらにスケールアップ!!
−−このフェスティバルは今後毎年行う予定なんですか。
鹿野:5年間はやりたいなっていう目標があって。単純に去年はご存じの方も多いように、2日目の途中で荒天のために途中中断せざるを得ない状況だったもので、やっぱりあのまま終われないですから(笑)。あのまま終われないし、これがいいのか悪いのかわからないですけど、うちの出版社は雑誌を廃刊にしたことがないんですよ、未だに。ていうことはイコール始めてしまったものを終わらせてしまったことがないもので、なかなか終わらせられないんですよね(笑)。
−−1誌もないんですか?
鹿野:1誌もないですね。
−−すごいなぁ。
鹿野:ですので、このフェスティバルもまだ今のところはやめるというはずはまったくなくて。
−−まだ始まったばかりですもんね。これからですよね。
鹿野:はい。で、去年あれだけ多くの課題を残したもので。今年はそれを克服して。
−−でも、1回目から大成功っていう感じがしますよね。集まった人とか。
鹿野:いやいやいや。っていうか、喜んでくれる人が多かったのと…。あと、あれだけ、まぁ、1日目が2万5千人で2日目が3万5千人ですから6万人の数をカウントできたっていうのは、非常に多くの期待を持っていただいたってことで、そういう意味で大きなイベントだったもんですけど…。やっぱり課題はすごく残りましたよね。
−−何ですか?課題は。
鹿野:いや課題は…まず天候ですよ。
−−天候はどうしようもないですね(笑)。
鹿野:そうなんですけど、具体的に今年のフェスティバルに対してまず何を変えていくかっていうと、風向きとステージの設定、そして音の向きの設定っていうのが、ちょっと完全ではなかったなということがあるので。それで今ステージの向きを変えていったりとか。具体的により台風が近くない状況にするためにちょっとスケジュールを前倒しにしたりとか、それは手を打ちました。あとはモッシュピットの問題であるとか、いろいろ手を打つところは打ちつつ進んでいます。
−−今年のステージの発表はいつ頃になるんですかね。
鹿野:たぶん、4月か5月ぐらいですね。
−−今は教えてもらえないね。
鹿野:はい(笑)。一番シビアな時期ですから。
−−ひたちってキャパ的にはどのぐらい入るんですか?
鹿野:1日で4万人までは入ると思います。7万人ぐらいは入るっていう数字的な統計では出たんですけど、ただそれは実際には厳しかったなみたいな。2日目が3万5千人で、ま、雨天だったものでなんですけど、結構フルなスペースになっていたもので、4万人が一番快適なマックスなのかなっていう気がしますね。
−−今年はそんな感じで…3日間ですよね、今年ね。かなりすごいですね(笑)。規模的には去年の1.5倍から2倍ぐらいになる可能性があるんですよね。
鹿野:そうですね。実は2ndステージをつくる予定もありまして、3日間ということと、2ndステージをつくるってことでいくと、去年の倍以上のアーティストが出ることがほとんど確定しております。ですので、もうほんとに…。
−−今の仕事量の倍ですよね(笑)。
鹿野:はい(笑)。月刊誌を3冊作るような感じで頑張ります。っていうか、まあより会社のイベントにしようと思っているもので、「CUT」「H」「rockin’on」「BUZZ」などの雑誌や、いろいろこのフェスティバルに対して協力をしていきながら、今年は会社全体で作っていこうということで。
−−「ROCKIN’ON JAPAN.」だけじゃなくて。
鹿野:はい。
−−これはあれですね。お金のためじゃないっていうことはわかるけど、これは上手くいったら、めちゃくちゃすごいビジネスになりますね(笑)。
鹿野:そうですね。フェスティバルはロマンであるとともにやっぱり現実的なものでないと続いていかないと思いますので、僕はきちんと儲けなくちゃいけないのではないかなぁと。で、そういうことすることによって、来年も再来年もあって。そして、よりよいアーティストが出てくる可能性が増えて、より装備が完璧になっていくのかなっていう気がするんですけどね。
−−儲かんないと終わっちゃうだけですからね。
10.スタッフは「編集部」ではなくてひとつのチーム
−−ロッキング・オンでは編集担当とか宣伝担当とかじゃなくて、みんなでいろんなことを担当してますよね。
鹿野:はい。うちは編集部というよりは「ROCKIN’ON JAPAN.」という一つのチームですよね。実際、問屋さんというべき取次には僕が自分で「今月は奥田民生が表紙で、こんな号を作りました。普段よりも頑張って作りましたからこれだけ増やさせて下さい」とか自分でやるんですよ(笑)。広告も、ま、インタビューしに行ったりとか、いろんなスタッフが自分らで「我々は頑張っていい記事作りますのでお恵みをっ!」みたいな…はい。自分らでやってますね。
−−「ROCKIN’ON JAPAN.」は何人いらっしゃるんですか?
鹿野:「ROCKIN’ON JAPAN.」は今、アルバイトから全部含めて8人で作ってますね。
−−鹿野さんご自身が広告を取りに行くことも…。
鹿野:もちろん。すごくあります。
−−でも、今受け手でしょ。断るの大変なんじゃないですか。
鹿野:それも正直ありますけど。ただ、業界そんなに景気がよくないですから…昔は「週刊少年ジャンプ」と「週刊少年マガジン」と「週刊文春」以外は広告がないと雑誌は成立しないと言われていたんですけど、今その3つすら成立しなくなちゃってるもので(笑)。だから広告っていうのは僕らにとって非常に意味のあるものだし、雑誌を続けていくための、どうしてももらわなくちゃいけないもので、それはそれできちんと皆様に頭を下げてお願いしながら、今のところすごくいろんな方から広告をいただいておりますので、雑誌は順調に進んでいるんですけど。頑張って作ってるんですけどね。だからそういうある種音楽雑誌界っていうのはある種ミニマムなものですよね、一般雑誌に比べて。そういう中で広告を出す意味であるとか、そういうことも全部クライアントさんに納得してもらう、理解してもらう。で、我々が雑誌を作るってことに対して、そしてクライアントさんからお金をいただくってことに対して真摯になっていくのと、あとそれのシビアな現状っていうのを自分らで把握していくためにはそのやり方が一番いいんですよ。広告だけ取っていってもやっぱり本編の雑誌に対しての愛情がどこまでキープできるかってことの不安になることもあるだろうし、編集だけやってっても、やはり雑誌というものの屋台骨がわかんなくなってしまうということもあるだろうし。全部やってくとなかなかいいですよね。僕も雑誌の編集部の編集長というよりも、「ROCKIN’ON JAPAN.」というのを出している一つのマニファクチャーの工場長のような。
−−前からそのスタイルでしたっけ?以前は広告担当者が別にいらっしゃいましたよね。たしか兵庫さんとか、最初は広告担当で。
鹿野:ああ、そうでしたね。5、6年前にちょっとそういう発想になりまして。
−−制作宣伝を一人で両方兼ねるというスタイルですね。バッドニュースもそういうスタイルですよね。メリットはたしかに今おしゃったように大きいと思うんですけど。
鹿野:はい。ケツが拭けます、すべてにおいて。それは編集だけではなくて広告においてもケツが拭けますし。失敗したら失敗したで、全部自分らですべてが…責任も取れるし見渡せるし。
−−その理由もわかるってことですよね。デメリットは大変だっていうことですか?
鹿野:デメリットは…いや、レコード会社さんはやっぱり編集の人から広告まで言われるとたまったもんじゃないと思う人もいるでしょうし。そういう意味では、それがもしかしたらデメリットになるかもしれないし。あと、まぁ、生活がより失われていくということですね(笑)。ただうちの場合、昔から一貫して編集プロダクションに仕事を頼むということもしなければ、ある種外部ライターという人も極端に少ない中でやっている状態があって、その会社のメカニズムというか、なぜそういう風にやってるのかっていうところから考えると、これが自然なやり方なんですよね。だからまぁ、しょうがないんじゃないでしょうか。
−−ということは、ほとんど代理店とか通してないってことですか?
鹿野:いやいやいや。向こうさんが代理店を通される場合には、うち通すなとは言えません。ただ通さなくても全然結構ですよ。我々が飛脚になりますよってことですね。
−−最近ここ数年で単行本とかたくさん昔より増えたと思うんですけども、あれは雑誌の編集部とは違う人達がやってるんですか?
鹿野:いえ、全部うちです。例えば邦楽ミュージシャンのことも全部うちです。
−−「rockin’on」 「ROCKIN’ON JAPAN.」のスタッフの方は全部?
鹿野:はい。
−−ミュージシャンじゃない…例えば(吉本)ばななさんとか北野武さんとか、いろんな本がありますよね。
鹿野:あれは、例えば「CUT」とかの編集スタッフですね。
−−メインになるところですよね?
鹿野:はい。その表現者の人達がメインで出て下さっている媒体は自分らで作ります。
−−「CUT」だったり「SIGHT」だったり「BRIDGE」だったりってことなんですね。それもまためちゃくちゃ忙しい話ですよね。
鹿野:でもそれは、例えばドラゴンアッシュの単行本を作りたいと思うのは、ドラゴンアッシュがデビューする時からやり続けて、ドラゴンアッシュが成功していって喜びを覚えて、ドラゴンアッシュのスタッフとシビアな話をして広告ももらって、そして、ドラゴンアッシュに表紙を飾ってもらって。すべてが自分の中での経験と喜びであったっていう人間が単行本を作るわけですから、その人間が作りたいんですよ、たぶん。忙しくなってでも、寝なくなってでも。それはこっち側のある種マゾヒズムというか(笑)…ま、好きでやってます(笑)、そういう感じですよね。
−−「rockin’on」も「ROCKIN’ON JAPAN.」も、写真がすごいでしょ。数年前から特に、雑誌の性格づけする上で、写真の良さっていうのがすごいありますよね。
鹿野:うちの雑誌の場合、「rockin’on」的なものの書き方であるとか、インタビューパフォーマンスであるとかっていうところにほとんどの焦点が行きがちなんですけど、本当の意味で「rockin’on」の雑誌の意味でのクオリティ管理をしているのは、ビジュアルだと思うんですよ。それはやっぱり、うちの会社にいるハウスデザイナーチームの優秀さであり、あとそういう優秀なハウスデザイナーがいる、写真をちゃんと芸術としてエディトリアル上で扱うことができるスタッフがいるということに対する信用のもとに、いいカメラマンがうちで写真を撮ってくれるからだと思うんですけど。
−−そのカメラマンは全部ロッキング・オンの会社のカメラマンってことじゃないですよね。
鹿野:いえいえいえ。
−−フリーとかありますよね。そういう写真っていうのは単行本を作る時に、また非常に生きてくるわけですよね。
鹿野:そうですね。
−−その辺の権利っていうのは、ロッキング・オンが撮った写真はロッキング・オンのものなんですか?
鹿野:いや、っていうか、1回のギャラはいくらっていう風に…1カットいくらで。うちの場合、昨日、僕見せてもらって明日から働きましょうって言った若いカメラマンの方も、あと、何十年撮っててどこかのクライアントから何千万ももらってるようなカメラマンでも一律なんですよ。
−−1カットいくら?
鹿野:それはなかなか言いにくいんですけど、ま、2万円ですよ。非常に安い中で(笑)。1カット2万円です、うちは。ものすごく安いんですけど、ただ他の音楽雑誌の方が安いみたいですよね。1万円とか1万5千円とかの所いっぱいありますもんね。
−−でも、相当、写真撮るまでに完璧なシチュエーションまで作って。いろいろセッティングをして、スタジオ代とか。
鹿野:いやいやいや。他の出版社さんよりも派手な演出はないですよ全然。全然ないですよ。ないんですけど、打ち合わせをものすごくしますから、そのカメラマンの方と。で、この人のここを撮れとかいうことを、感覚的な話から具体的な話から全部していきますので。それでより突っ込んだ仕事ができるっていう、それだけだと思います。
−−そうすると編集の人がビジュアルワークにとことんミーティングを重ねてっていうところまでやるってことなんですね。
鹿野:はい。そうですね。
−−カメラマンを育てたと言ってもいいようなケースもこれまでにありますよね。
鹿野:何回かありますね。幸福なことに。
−−HIROMIXってそういう言い方できちゃうんですかね。
鹿野:はい。そういう人達がいるもので。で、そういう人達もうちを踏み台にしてくれたことを喜ばしく思ってくれてる方がいるので、たぶん、安いギャラの中、永遠に同じギャラでやり続けているんだなっていう気もするんですけど(笑)、はい。
−−カメラマンは常時何人ぐらい抱えてらっしゃるんですか。
鹿野:いやいやもう…。っていうか月に…僕はカメラマンさんからの新しい売り込みを月に10件以上は絶対に受けてますから。
−−新しい人もチェックしながらどんどん使っていくし…。そうすると増える一方ですね。
鹿野:増える一方だし、まぁ…いなくなっていく方も、もちろんいますよ。戦いですから。
−−なるほどね。カメラマンの新陳代謝っていうのもあるでしょうしね。ライターの売り込みだけじゃなくて、カメラマンの売り込みって相当多いんですね。
鹿野:そうですね。すごくありますね。
−−デモテープが送られてくるってことはあるんですか?
鹿野:もちろん。デモテープは月に20本以上送られてきます。
−−それでデビューしたケースってあるんですか。
鹿野:何個かのアーティストの方がデモテープ送ってくれてデビューした人はいますけど。あと、うちで紹介した方とかもいますね。
11.インターネットはきつい?
−−ロッキング・オンでは積極的にホームページやBBSをコミュニケーションツールとして活用してますけど、今後はさらに何か新しい展開を考えていらっしゃいますか。
鹿野:いやあ、そうですねぇ…まあ、考えることはと言えばまあ音楽配信ですよね(笑)。やっぱりさっきの話じゃないですけど、僕らの所には日々新しい可能性を持った音楽がすごく多く寄せられていて、それが今後もしかしたら音楽配信という形を含めた上で僕らの方から発信していくことができるかもしれないなってことは、まぁ、それは考えたりしますよ。どこの出版社も考えていると思うんですけどね。そういうことや、あとは、雑誌を売れないのかな、とかですね。オンラインショッピングとかどうなのかなって。地方では本屋に毎月1冊とか2冊しか来ない、あるいは今月は見なかったとか、そういう話をよくいただくんですよ。そうやって考えていくと、アメリカの場合そういう所だからこそコンピュータが流行っていったわけで、日本もだからやっぱり東京よりもどっちかっていうと地方のそういう方達のほうがコンピュータに対する切実なニーズを感じているわけでしょう。そういう所にコンピュータの可能性は一番あると思うから、こういうことはすごく考えたりしますよね。
…ただ、インターネットきついですよね…。特にうちみたいに喧々諤々…我々もやってるし、それをやり合うことを指向とするユーザーが多い雑誌のホームページっていうのは…その中では論争も絶えないし。我々に対する賛同と同じ量の苦情というものが(笑)、いろいろ来たりとかですね…。
−−そういう意味できついでしょうね。
鹿野:はい。もう自分の名前があれだけホームページの中で一人歩きしてるとすごく恐くなるし、いろいろ考えることありますよ。2ちゃんねる(一般のBBS)の中でも…。2ちゃんねるの何が恐いって僕の名前でいろいろ書き込みしてる人がいたりとかして。「鹿野さん何であんなこと書いたの?」って言われて「僕は何にも書いていない」っていう。フェスティバルのお詫びをしていたらしいですからね、僕、2ちゃんねるで。文体がまるっきり僕だったらしくてですね(笑)。誰が読んでも、僕が2ちゃんねるの中でフェスティバルが雨になったことをお詫びしているようにしか思えなかったらしいんですけど…恐いですね。
−−そういうイタズラができてしまうのが恐いですね、インターネットは。
−−Musicmanのホームページを見ている人の中には業界人と、あと音楽業界に入りたい人もたくさんいるかと思うんですが、ロッキング・オンに入りたいという人もたくさん見てると思うんですけど、どうしてご自分がロッキング・オンに入れたと思われますか?
鹿野:全然わからないです。わからないですけど、僕は今ロッキング・オンで編集長として、自分に自信を持って仕事をできていますので、なんで入れたのかはわからないんですけど、あぁ、入れるべき人だったんだなという風に自負していますね(笑)。そういう理解の仕方でしかないですよね。だから…わからないですよ。わからないし、それなりのステップを僕は踏んできてないですから。ただ、基本的に自分はテンションだけで生きてきてここまで来てるっていうタイプの人間なもので、そのテンションの前にはだかる、学歴であるとかそういったものを、なんとなくテンションで乗り越えられてきた人間なんですよ。だから、そういう人も大丈夫だよという一言ぐらいは僕の足跡を見てればわかってもらえるんじゃないのかなあ。
−−面接は渋谷さんがなさるんですか?それともみなさんで…
鹿野:うちの会社は渋谷の一声だけでは何も決まんないですよ。今は僕は管理職だから自分もその一員になってますけど、合議制で、人を採る時は喧々諤々みんなでやります。
−−うちに面接とか来るような女の子に「ほんとは何やりたいの?」って聞くと、みんな口を揃えて「ほんとはロッキング・オンに行きたい…」っていうんですよ。ほとんど「ROCKIN’ON JAPAN.」なんでしょうけどね。だから、やっぱり編集とか音楽で何かやりたいっていう人にとっては、あこがれの会社なんでしょうね。
鹿野:みんな、泣きながら仕事してますけどね、いざ入ると(笑)。
12.ジャーナリズムとしてプライドを持って仕事ができることの喜び
−−「ROCKIN’ON JAPAN.」の編集長になったのは…。
鹿野:2000年4月からですね。
−−「rockin’on」っていうのはそれまで渋谷さんが何十年間かけてやってきて、「ROCKIN’ON JAPAN.」では次に山崎さんの時代があって、鹿野さんは3代目なんですよね。
鹿野:編集長として…そうです、僕、3代目です。
−−基本的には編集長が代わるとやっぱり変わるんですよね、何かがね。
鹿野:雑誌は変わってしまいますね。だから結局、編集長が代わって、別に雑誌をどう変えようってことを考えないんですよ。ただ変わってしまうんですよ。変わらない方が難しいんですよね、すごく。
−−でも「rockin’on」の雑誌としてのスタンスみたいなものは、初代渋谷さんから脈々とつながる歴史もありますよね。
鹿野:そうですね…思うんですけど、僕がこの会社に入った頃っていうのは非常にロッキング・オンの中で揺れていたんですよ。ついにこの会社にも体のメカニカルが100%ロッキング・オン・イズムでできていない人間が入ってきてしまったという風に言われていて。まぁ、僕はそういう人間じゃなかったもので。あんまり「rockin’on」が好きで入ってきたわけじゃないですから。「CUT」というサブカルマガジンを作りたくて入ってきたわけで。実際ロッキング・オン・イズムっていうものをよくわからなかったし、そんなに好きではなかったし。で、僕は新婚旅行でスペインに10日間休みを取るって言ったら、会社中でものすごい…コイツやめさせるかって。今だったら1ヶ月休んでもオッケーですけど、僕の時っていうのはそういう時代だったんですよ。僕が会社のモラルをだいぶ変えてきてるんですけど実は(笑)。
−−何年ぐらいですか?それって。
鹿野:8年前ぐらいですよ。新婚旅行で1週間以上休みを取るっていったらすっごいことだったですから…何考えてんだって。宇宙人って呼ばれてましたから。そういう会社だったんですけど…。何の話でしたっけ?…そういうことだし、僕はそういう人間として未だにいるんですけど、ただ、やっぱりこの会社がすごいなと思うのは、ジャーナリズムというものに対してもっともシビアで本質的に付き合っていくっていうことをこの会社にいるだけで僕らは自然と、血と肉がそういう形で動いていくことができるんですよね。この会社のジャーナリズムというものが日本のジャーナリズムの最も本質的なものだとは僕は思わないんですけど、ただこの会社のジャーナリズムっていうのは、ジャーナリズムとして誰に文句言われようと誰に誹謗中傷受けようと、自信を持ってジャーナリズムだと言えるそれだけのプライドが、ちゃんとジャーナリズムとして書き並べることができてる雑誌がうちの会社には並んでると思っていて。僕らもそういうプライドをもとに、非常に敵が多い出版社であり、雑誌を作りながら僕もそういう編集長やってるんですけど。自分の仕事に誇りを持っていられるというところがあって。それっていうのはやっぱりこのロッキング・オンっていう会社のある種の空気っていうのがすごく強いのかなっていう気はしますよね。 うちの会社を辞めていかれた人でですね、なかなかうまくいってない人が多いっていう現実が実はいろいろあってですね(笑)、これは微妙なところなんですけど…。それを見てるとなおさらやっぱりこの会社の中っていうのはある種、戦うっていうこと、そしてジャーナリズムを自分らの仕事としてやり続けるってことはすごくやり易い場所にいるのかなってことだと思いますけどね。
−−ところで鹿野さんにとっての渋谷さんっていうのはどういう存在なんですか?
鹿野:う…ん。考えたことないですね…。
−−社長と従業員っていう関係なのか、それとも…。
鹿野:いや、社長と従業員以上でも以下でもないです。以下でもないんですけど、僕は上司という人が基本的に苦手なまま学生時代からずっと今の今まできていますので…要するに基本的にヒエラルキーであるとか年功序列というものに対しての抵抗を…一人っ子なことも含めて、けっこう持ってきながら当たって挫けてきた人生があったもので、うちの社長のように、自分が何か行動を起こして、実力を示して、上司であるっていうことをちゃんと示してくれるっていう人が上司である会社にいることに対しては、僕はすごく喜びと理解を感じますけど。いや、すごいですよ。今だに自分が一番元気いいとあの人思ってますから(笑)。そう思ってばりばりやってる。で、まぁ、現場感覚が非常にある経営者なもので。その点では会社の未来に対して、あの人が経営者であるっていうことでは、幾分かの不安感は取れていきますから(笑)。そういう意味では非常に感謝していますね。
僕は学生時代はどっちかっていうと大貫憲章の方が好きだったもので(笑)、渋谷陽一宗教には入ったことがなかった人間なんです(笑)。だから、そういった意味でのうちの社長に対するロマンはまるっきりないんですけど、実際仕事をしてみて、非常にいろいろ感じるものがありましたね。
−−やっぱりすごい人ですか?
鹿野:そうですねぇ。酒飲めたらいいんですけどね。酒飲めないもんで(笑)。
13.根っからのパーティ・アニマル?寝る間を惜しんで課外活動!
−−ロッキング・オンではフェスの他にイベントとかもよくやってらっしゃいますよね?
鹿野:ああ、あれはまぁ好きモンだと思っていただければ(笑)。「BUZZ」でクラブパーティー(BUZZ NIGHT)を作って、「ROCKIN’ON JAPAN.」でライブパーティー(LIVE JAPAN)を作ってることですよね?あれはもう僕の趣味です(笑)。はっきり言って。趣味がちゃんと雑誌のパブリシティに繋がるというこじつけが成立してしまうもので、それでやってるだけなんです(笑)。会社として文句を言わせない僕の趣味(笑)。ちゃんと会社と雑誌には還元されてますので。自分の人脈と趣味を巧妙に使ってるだけのものなんです(笑)。
−−そうなんですか。てっきり「BUZZ」や「ROCKIN’ON JAPAN.」としての、会社としての方針なのかなって思ってたんですけど(笑)。
鹿野:いやいや(笑)、もういかに自分がパーティーアニマルなのかなってことをそれでわかってもらえると思うんですけど。
−−趣味なんですね(笑)。
鹿野:はい。睡眠欲がないものでですね、遊び欲は非常にあって。夜寝るんだったら踊ってる方がいいという風に思うタイプなもので。夜中の3時ぐらいで仕事が終わってそれから朝まで踊って、また昼…朝から仕事とかざらですから僕は(笑)。
−−タフですね…。体に悪くないんですか?大丈夫ですか?
鹿野:いやどうなんでしょうね…。体に悪いことはこの仕事やってるってことと飯をいっぱい食うってことで、すでに壊しまくってますから。今更それを、踊って睡眠を少なくしたぐらいでどうにも変わりませんよきっと(笑)。
−−大食いっていう割には全然太ってらっしゃらないですよね。新陳代謝がいいんですか?
鹿野:一日4回ウンコするもので。新陳代謝がいいっていうか燃費が悪いっていうか(笑)。
−−ほんとですか?一日4回?かなりの時間さかれますね。
鹿野:そうですよね。無駄ですよね。
−−食う量減らすと減るんですか?
鹿野:でも、なんとなく、飯を減らした時のそのフラストレーションのたまり方と、落ち着きの無さと判断能力の低下と、いろんなこと考えると(笑)、喰ってたほうが自分がいいもの生産できる人間だと思いますけどね(笑)。
−−タバコは吸わないんですか。
鹿野:いや、吸います。タバコ、酒、女性も大好きです…アニマル系ですね、ほんとに(笑)。恥ずかしくなりますね。
−−鹿野さんは最近は「ROCKIN’ON JAPAN.」とか「rockin’on」とか編集の仕事以外の、外のお仕事を結構やられているようですが、そういうのはご自分のなかではどういう位置づけなんですか。
鹿野:それはイノッチと一緒にテレビに出るなよってことですよね(笑)。まあそれはすごい為にはなりますよ。でもなんとも言えないですよね。僕の課外活動っていうのはそれこそ「ワンダフル」に出て飯を食うところから、「笑っていいとも!」でお稲荷さん60個食ったり、アンダーワールドをイノッチに語ったり…ちょっとあまりにも範囲が広いもので…これが肥やしになるかどうかは…。
−−確かに幅広いですよね(笑)。
鹿野:「rockin’on」「ROCKIN’ON JAPAN.」の編集長としての肥やしになるかどうかっていうのでいくと、確実になってないものはたくさんあります。僕がそんなことやるために時間を割いてることでおもしろく思ってないスタッフも絶対いるはずです(笑)。自分の実績、経験上ではかなりの肥やしになってますね。こういう仕事をやってるから下手なしゃべりしかできないけどって言い訳を使って電波に出ることはないもので。僕この会社で確実に電波に出て一番パフォーマンスができる人間ですから。それはもう現実的にもそうだし、自分でもそういう自覚はありますので。その辺はちゃんとある種のプロフェッショナルリズムを持って僕はやってるつもりなんですけど。
…だからって、羽織袴やサンタクロースの格好してロックを語ることねーじゃんって言われたら、その意見もあるでしょうっていう感じもしますから(笑)。「ほっといてくれ」ってしか言いようがないんですけど(笑)。嫌なら見るなよって感じなんですけど(笑)。雑誌は嫌でも頑張って「買い続けて下さい」って言いますけど、テレビは「嫌だったら見るな」と言うしかないです(笑)、僕は(笑)。
−−ああいうのは依頼がきたからやるっていう感じなんでしょうか?
鹿野:依頼がきて、それなりに自分の中で意義を感じたから出ますけど。嫌なものは全部お断りしますから。
−−でも、今の「新・真夜中の王国」は音楽担当ということで、洋楽の紹介とかが多いですよね。
鹿野:そうですね。(ロッキング・オンのなかでは)「BUZZ」から「ROCKIN’ON JAPAN.」になちゃったもんで洋楽の仕事が極端に減ちゃったからいい息抜きになってますけどね(笑)。
−−「ROCKIN’ON JAPAN.」とか「BUZZ」とかの宣伝にもなりますよね。
鹿野:そうですね。なってんですかね…いや、なってないかもしんない(笑)。「あんな人間が作ってる雑誌買うかーっ!」みたいな(笑)。ちょっと微妙な所あるんですけど、いいんです、あれはあれで。
14.今年の餅は伸びがいい!?
−−鹿野さんと言えばやはり「食獣」として有名ですけど…コイツには負けたと思う大食いミュージシャンはいますか?
鹿野:一人っきりでちゃんと負けたことないですから。相手3人かかってきて負けたことあったかな。
−−やっぱり負けなしなんですか…食獣日記読んでると、もう読んでるだけで結構…なんでこんなにまでしてって思いますよ(笑)。
鹿野:気持ち悪いですよね。文字がコレステロールって感じですね。
−−どう見ても痩せてる方ですよね?
鹿野:そうですね。普通ですよね。
−−羨ましいですね。やっぱり新陳代謝がいいんでしょうね。
鹿野:燃費は悪いですよね。エンゲル係数は高いですからね。
−−今ハマってる食べ物とかありますか?
鹿野:今年はね…いい餅が…今年の餅はいいですよ。いろんな所のお餅が。だから、去年の米が良かったんですよたぶん。今年の餅はいい。
−−おすすめは?
鹿野:おすすめは、山形から届いた…あれ何て名前だったかな…イサリなんとかっていう餅だったんですけど、あれが良かったぁ…。伸びがいいんですよ、今年の餅。
−−伸びが違いますか…。普通のサイズで何個ぐらい食えるんですか?
鹿野:いや、いっぺんには9個ぐらいしか食えないですけど…1日に気がつくと50個ぐらい食っちゃいますよ。
−−えぇーっ!50個?!
鹿野:それで去年の12月20日から8キロ太ちゃったんですよ。
−−まだそれからは痩せてらっしゃらないんですよね?
鹿野:痩せてないんですよ、まだ。たぶんまだ餅を食い続けてるから、今9キロから10キロぐらいいっちゃってるかもしれないんですけど。
−−そんなに細いのに普通は何キロぐらいなの?
鹿野:今64kgぐらいあるんですよね。普段は僕55〜56kgなんですよ、一番ベストなのは。
−−ボクサーになった方がよかったかもしれないですね(笑)…ダイエットとかしたことは…あるわけないですよね。
鹿野:ないですねぇ。
−−その年でそれだけ食べて、太んないってことはもう大丈夫ですね。
鹿野:いやだからポックリいくんですよたぶん僕は。何も気づかされないわけじゃないですか、体の異変に。僕は、実際に胃拡張、胃潰瘍、胃下垂なもので(笑)、体は悪いんですよ実際に。体は悪いんですけど、暴飲暴食をして、まだそれが許されると勘違いして毎日生きていて、それを仕事のタネにして、調子ぶっこいてるだけで(笑)。だから絶対にポックリいくんですよ。それが恐くてしょうがないんですよ最近。非常に恐いですよね。そろそろ階段の上り下りとか…
−−じゃあそろそろ気をつけないといけないんでしょうね。
鹿野:今日はどうもありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
渋谷陽一氏に代表されるような独特の社風を持つ(株)ロッキング・オンで、入社当初から異色の存在だったという鹿野氏。「僕が社内のモラルをずいぶん変えたんですよ」と笑って言う鹿野氏の言葉尻からは、ジャーナリストとして、また(株)ロッキング・オンの社員としての自信と誇りを垣間見ることができました。次回のMusicman’sリレーは、鹿野氏が学生時代にあこがれていたという音楽評論家、大貫憲章氏の登場です!DJとしても活躍中で、若いDJやミュージシャン達からのリスペクトも多い大貫氏が、現状の音楽業界にカツをとばします!業界の皆様は襟を正してお待ち下さい。