第21回 宮川 泰 氏
作曲家
今回の「Musicman’sリレー」は、小林悟朗氏が「お父さんのような存在」と慕う作曲家・宮川泰氏。ザ・ピーナッツの育ての親として、クレージーキャッツの映画や「宇宙戦艦ヤマト」の音楽監督として、あるときはお茶の間に音楽を届けるメッセンジャーとして、宮川先生の音楽にふれたことのない日本人はいないと言っても過言ではありません。40年以上にも及ぶ音楽活動のなかで多くの名作を送り出してきた氏の作曲術の秘訣は、そのあたたかい人柄にあるのかもしれません。次々と繰り出される逸話の数々に、予定時間をオーバーしての楽しいお話となりました。
プロフィール
宮川 泰(Hiroshi MIYAGAWA)
作曲家
1931年3月18日 北海道留萌に生まれる。
大阪学芸大学音楽科卒業。
学生時代より自らのバンドで演奏活動を展開。上京後、渡辺普とシックスジョーズのピアニスト、またアレンジャーとしての手腕を発揮。独立後、作曲・編曲家として活躍。ザ・ピーナッツの育ての親として知られている。 代表作は「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」「逢いたくて逢いたくて」「若いってすばらしい」「シビレ節」「銀色の道」「愛のフィナーレ」等。クレージーキャッツの一連の作品、「宇宙戦艦ヤマト」シリーズ等、映画音楽も多数手がけている。現在は作曲活動の傍ら、「名匠宮川組」を率いて積極的なライブ活動を展開中。
- 子守歌は母の生ライブ!?
- 将来は絵描き…のはずだった!?美大学生→音大学生→プロへ
- ジャズ・ミュージシャンのギャラはサラリーマンの3倍!栄光の「シックスジョーズ」時代
- ピーナッツとの出会い…華麗な作曲家人生の始まり
- モダンジャズの発展…ジョージ・シアリング・サウンドの魅力
- あの時代を再現!?「クラブ進駐軍」
- 名プロデューサー、ミュージシャン・渡辺晋
- 憧れのクレージーキャッツ!入り損ねたその訳は…?!
- 天才・萩原哲昌の作曲術
- 桑田佳祐との交流〜「いとしのエリー」新解釈?!
- 2002年、「新・ヤマト」発動!?
- 自薦:宮川泰音楽ベスト5は…?
- 2大ライバル!?…中村八大VSいずみたく
- 小柳ゆきの魅力
- 音の魔術師/愛息・宮川彬良氏との音楽共演
1.子守歌は母の生ライブ!?
−−宮川先生はたくさんエピソードをお持ちだと思うんですが、今日はそのなかでも面白い部分だけかいつまんでお話いただければと思います(笑)。
宮川:…けっこうそういう話は(もう他のところで)しちゃってるんだよね。記憶力が悪いもんだから、面白い話はお一人様1つしかネタがないんだよね…。テレビでもしゃべったことあるし…あの、ほら、日曜の朝からやってる…
−−『波瀾万丈』ですか。
宮川:…そうそう、あれに出たときに面白い話をいくつかしてしまってね…それからその前にはあの、よくしゃべる…『徹子の部屋』ね。あれに2回出たときに面白いネタ全部しゃべっちゃったの。『波瀾万丈』はわざわざドラマみたいのまで作ってやるじゃない。それであの番組出た後にあちこちから俺の中学にいたのに何で俺の中学の宣伝しなかったんだ、とか言われてね(笑)。
−−そんなこと言われても困りますよね(笑)。
宮川:僕には弟がいるんですよ。宮川彪って言ってね、7つ違いで今でも現役でドラム叩いてるんですけど、『波瀾万丈』に出たときにね、友達に宣伝してまわったんですって。兄貴が出るから見ろって。それで僕はそのときにね、弟のことを一言も言わなかったんですよ。忘れちゃってね。ほかの親戚の人の話とかしてるのに、肝心の弟の話を言うの忘れちゃってね。それを見てた弟が「兄貴見たよ。ひどいじゃないか。俺のこと一言も言わないなんて」って言うんですよ(笑)。弟のところに友達から電話がかかってきて、「お前ほんとに宮川さんの弟か」って言われたらしいんですよ(笑)。だってああいう番組では弟の話をするのが当たり前なのに一言も言わないなんて、「弟とちゃうやろ?お前詐欺師か」ってみんなに言われたらしいんですよ(笑)。さんざん言われてカッコつかないから、友達に電話してくれってね。疑われて本気でガックリ来たみたいなんですよ。
−−膨大な人生をまんべんなくしゃべるなんて無理ですよね。
宮川:いや、僕ほんとに子供の頃から忘れん坊でね、最悪ですよ。10のうち9つ忘れる(笑)。今何しゃべったかとかね…人の名前も出てこないんですよ。だから今日もなんかいいかげんな話いっぱいすると思うけどね、もし間違ってたらごめんなさいよ。
−−(笑)。弟さんのお話が出ましたけど、音楽一家でいらっしゃるんですよね。
宮川:お袋は僕が幼稚園の頃からお琴の先生をしてたんですよ。あ、最初は趣味で先生をしたのはあとからかな?オヤジはわりと早い時期になんとか流のなんとか師範ってライセンスをもらって尺八を弾いていて、お袋はお琴で。それでしょっちゅう弾いてたんです。
−−純邦楽の世界ですね。
宮川:そのときに「春の海」を覚えてね。宮城道雄作曲の「春の海」って、それまで邦楽のオリジナルの楽曲にしてはめずらしくあか抜けていて、今風だったんですよね。あの当時。バイオリンやピアノでレコード出したりした人もいましたね。そういうすごくセンスのいい人の楽曲を聴いたのが残ってるんですよ。
お袋はたくさんいたきょうだいのなかで自分一人だけが女学校行かせてもらっていたらしいんですよね。それでさんざんほかのきょうだいから悪口言われていじめられたらしいんだけど、女学校行って、それでオヤジと結婚してからも女学生気質が抜けないでしょ。それで夜「みんなじゃあおやすみなさいね」って電気消して10分くらいたってから、「♪なじかは知らねど〜〜」とか「ローレライ」とか、女学生唱歌を歌うんですよ(笑)。
−−生ライブが毎晩行われたんですね。
宮川:そうそう。お母ちゃんやめてぇな〜とか言ってね。
−−ご兄弟は何人ぐらいいらっしゃるんですか。みなさん音楽の道へ?
宮川:僕は長男で、妹がひとりいて、これは音楽やってないんですけど、その下が弟かな。兄弟仲はあまりよくなかったし、弟と仲良くなったのも中年になってからですよ。それまでは干渉しないって言うか、離れて暮らしてたからね。妹なんてうちの死んだお袋のお姉さんのところに子供がいなかったからって、「じゃああたしの娘をあんたにあげる」ってお姉さんにやっちゃうんだよ(笑)。変わってるんだよやっぱりさ。あげちゃうんだよ。
−−昔はそういうことあったんですよね。
宮川:そうだね。だから音楽的環境は悪くなかったですね。
2. 将来は絵描き…のはずだった!?美大学生→音大学生→プロへ
−−僕らはロック、ポップで育ってきたビートルズ以降の世代なんですけど、僕らのイメージだと先生の年代とその辺の世界、例えば中村八大クインッテットとか、平岡精二さんとか、あのへんの音楽青年たちが日本で初めてのヒップな音楽青年の始まりだったと思うんですよ。彼らが日本の最初のミュージシャンたちなんですよね。
宮川:うん、ジャズは戦前からずっとあってさ、戦争中もひそかに仲間たちと演奏したりとかあったらしいですね。戦争が終わってからは進駐軍のラジオがあったし…だからジャズはいきなり、戦争負けた次の日からバーンとね…なんという素晴らしい音楽だろうと思ったものね。
−−そこで立ち上がったミュージシャンがいっぱいいたわけですね。
宮川:僕は戦争が終わったときは九州の中学にいて、それから大阪の中学に転校して、そして進駐軍のラジオを毎日聞くようになったんですよね。そのうちにまだ中学を卒業してないくせに、軽音楽団みたいなのを作って、あちこちのパーティに呼ばれるようになって、いろいろ覚えて演奏して、ダンス伴奏するようなことを中学の終わり頃からやっていて、そのあと大学も入ったんだけど、僕は音楽と美術と両方優れていたんですよ(笑)。そのころの友達なんかはみんな「お宮は絵描きになるんだとばっかり思ってた」って言うほど絵がうまかったの。鉛筆画でスケッチすると見事に描けちゃう。沈んだ戦艦大和の写真なんかを見事にうまいこと描くんですよ。戦争画描かせたら最高って言われてね(笑)。それで僕は美術学校行ったのよ。
−−残ってないんですか。
宮川:それが残ってないんだよね。それで京都の美術学校に行って1年半いたんだけど、結局夜はキャバレーでピアノ弾いてたから、絵の勉強はひとつもしないでね…美術学校の講堂においてあるガタガタのピアノを毎日弾いて遊んでた。
−−ピアノはそうやって覚えたんですか。
宮川:うん、そうやって覚えたの。バイエルとか一切やってない。だから指の動かし方とかまったくインチキでね(笑)、早いスケールとか今でも弾けないんですよ。
−−自己流だったんですね。
宮川:だから曲を聴いて譜面を見なくてもすぐ弾けたんですよ。
−−うわぁ〜。
宮川:器用だったんですよ。絵のほうも写実はうまいんだけどじゃあ自分の個性で描くかっていうと、全くダメでね。それで1年半行った美術学校は工芸科、図案科っていうイラストの学科に入ったから、やっぱり個性がないとダメじゃないですか。自分で「ああだめだ」って思って。そのころの同級生でいちばん有名になったのはサントリーのトリスおじさんの絵を描いていた…名前なんだっけな、ど忘れしちゃった。今まで覚えてたのに…その人とは学校時代はそんなに親しくなかったけど、同窓会とかで友達になったりしてね…なんとかリョウヘイ…あ、柳原良平だ。トップのイラストレーターだったんですよ。
それでそのあとは大阪学芸大学を受けて、そこに特設音楽科っていうのがあったんですよ。学芸大学の前身は師範学校で師範学校っていうのは小学校の教員を養成する学校でしょ。そのなかで中学校の音楽の先生ができるスペシャルコースがあったんで、そこに入って。それでもやっぱりキャバレーでピアノを弾いていて(笑)。
−−音楽の英才教育の学校、っていう感じじゃなかったんですね。正式な音楽教育を受けたというか。
宮川:そうですね。和声楽とかハーモニーの勉強とかしてたみたいなんだけど、ハーモニーなんてジャズやってたからさ、本見るよりもよく知ってるのね。なんだ、こんなもんやってんじゃしょうがねぇや、ってキャバレーでピアノ弾いて、進駐軍のキャンプ行って弾いて、それで少しずつ好きになって。
そのうちに大学でもうやめてくれ、退学しなさいって言われて「はい」って退学した(笑)。4年制大学で6年行ってもまだだめでね。全然とれなくて。7年か8年は行かなくちゃだめだろうって。担任の先生が「僕は君のような生徒は恥ずかしい。やめてくれないか」って言われてやめたの。
それで東京行ったら平岡精二さんていう超天才の人のバンドに入ってさ…プロになっちゃったのよ。
−−トントン拍子ですごいですねぇ。プロになるまでに障害はなかったんですか。
宮川:うん、時代がよかったのよ。スムーズにね。今はレベルがアップしてるし、ジャズミュージシャンもものすごい数いるじゃない。そのころはそんなにいなかったからね。給料もよかったのよ。…結婚したときに女房が会社勤めしてたけど、そのころは月給が1万いくらじゃなかったかなぁ。僕は3万円だったから、サラリーマンの3倍とってたの。若かったのにね。
3. ジャズ・ミュージシャンのギャラはサラリーマンの3倍!栄光の「シックスジョーズ」時代
−−そのころのミュージシャンってみんな銀座とかのキャバレーで一晩にいくつか回って、札束とかバンバン出して…っていう世界ですよね。
宮川:そうそう、そのころ僕が上京してきて平岡さんのバンドをやめて、自分のバンドで活動し始めた頃にね、「丸の内クラブ」っていう高級クラブがあって、経営者の人が中国人だったかな?毎晩その日に給料もらうのよ。夜7時くらいから始まって、夜中の2時頃までやるの。2時半ぐらいにへとへとになって社長のところに行って、「社長、今日の日当はどうですか?」「う〜ん、今日はお客さん入んないから、今日はナシヨ」とか言われたりしてね(笑)。そうかと思えば「今日は少し入ったから、はいコレ昨日のぶんもネ」って…ひとり700円か800円、僕が900円くらいだったかな。1000円はくれなかった。
−−でも今のお金で言ったら2万とか3万とかですよね。
宮川:いや、一晩だったから…そこのお店でなにか一杯飲むだけでも結構高かったからね。あ、でもそうか。そのくらいになるかもね。そうか、でもそうするとひと月に20何日間やるわけだから、60万から70万か…今はそんなにとれないねぇ。今だったらひとつのクラブで40〜50万とれればいいほうじゃない?
−−だいたいそういう仕事自体、ないですよね。
宮川:そうだね。
−−昔はたくさんありましたからね。ミュージシャンは派手に遊んでましたよね。
宮川:そうそう、ミュージシャンは派手だったもん。酒飲んでも女遊びしても着るもん着てもね、お洒落でね…ヘアースタイルでもわざわざ代々木の山野学校まで行ってね、そこでアイロンかけて前にたらしてね…あれやりすぎるとこげちゃうんだよね。
−−アイパーですね(笑)。
宮川:すぐとれちゃうし、髪もすごく傷むんだけど、それでもやってたからね。格好いいと思ってね……まあ良き時代でしたよ。
−−そういう流れでハナ肇さんのバンドとか出てくるわけですよね。その辺は古いつきあいで始まってるんでしょうか。
宮川:あのね、東京へ出てきてすぐ渡辺プロに入ったんですよ。
−−ナベ晋さんのバンドに?
宮川:いや、平岡さんのバンドに入ったんだけど…面白くなかったんだよね、あんまり(笑)。それでやめて、自分たちでバンドやり始めて。浜町あたりにMOCAMBOっていうダンスホールができて、初日なのに客4、5人しかいなくてシーンとして座って聞いてて大丈夫かなと思ってたの。そこでやってたら力道山が酔っぱらってきて、あれやれ、コレやれってうるさいわけ。うちのドラムはジミー竹内さんで、鼻息荒いから文句言ったらさ、「何ぃお前?!」って殴られてさ(笑)。力道山に。
−−素人に手出しちゃやばいですね(笑)。
宮川:あっという間につぶれたね、その店は(笑)。
それで渡辺晋とシックスジョーズの山崎唯さんがやめるっていうんで俺は引っ張られたわけよ。その前にもうドラムのジミー竹内は引っ張られてて、それで「おう宮、俺んとこ来る?」って「ああ行く行く」って参加してね。(俺たちのバンドの)残党はもうガックリして仕事してたみたいだけどね。俺の中学校の同級生だったんだけど。
でも(シックスジョーズでも)松本英彦さんがやめちゃって、そうすると人気なくなるでしょう。そのころにはピーナッツもやってたしね。
−−もうそのころなんですね。1963年ごろですか?渡辺晋さんは社長やってたんですか。
宮川:うん、社長業もやってたけど、それを全面に出すのはもうちょっとあとかな。ナベプロが日比谷にあったころね。
僕はピーナッツのトレーニングやれって晋さんに言われてね。(ピーナッツのふたりは)ものすごい勘がいいんですよ。双子だから音色が似てるし、リズム感があるし、若くてピチピチしてる。すぐスターになれるよって。それで教えたんですよ。それは勉強になってね。アレンジも自分でやらなくちゃだめだからね。それから『ヒットパレード』ができて(1959年)、そこにピーナッツを売り込んで、バーンとスターにしちゃったのよ。
4. ピーナッツとの出会い…華麗な作曲家人生の始まり
−−宮川先生のキャリアのなかでもわりと最初のほうなんですね、ピーナッツっていうのは。
宮川:うん、シックスジョーズ入って1年もしてないのに…あ、松本英彦さんがいたときだ。だからやめる寸前かなぁ?ピーナッツ入ってきたのは。それでお前に任せるからちゃんとやれってね。
−−ということはそのころから大先生を40年ぐらいやってらっしゃるわけですね(笑)。
宮川:大先生じゃないけど(笑)そうなるね。カバーじゃないオリジナル曲で最初のころに作ったのはね、そのころ流行ってたロックンロールの「エイエイオー、ウォーウォーウォー」っていうのを「♪ふりむかなぁ〜いで〜エイエイエー♪」(「ふりむかないで」/1962年)ってやってね。ロカビリーの初期の真似をしたわけ。真似はなんぼでもできるわけよ。ジャズやってたから、あれよりもっと高度なことやってたわけだからね。アメリカンポップスってこんなのかってね。スラスラ〜っと書けたんだよ。それで『ザ・ヒットパレード』に入れちゃったらいきなりトップいっちゃって。それで「お、俺は作曲もいけるな」って自信ついてね(笑)。次の年かなできたのが「恋のバカンス」(1963年)。それでいくつか歌作ってさ、ある程度は認めてもらえるようになったけど、中村八大さんとかバーンといるからさ、なかなか…。
−−中村八大さんと交流はあったんですか。
宮川:うん、同じ会社で渡辺プロだったけど、もう大先輩だからね。雲の上の人だよ。まあ僕も少しは売れて関係者にも認知されるようになったんだけどね。それで昭和38年(1963年)のレコード大賞ね、いろいろ賞あるじゃない。僕が最初にもらったのが「恋のバカンス」の編曲賞。あの年にはいい編曲がなかったの。でも「恋のバカンス」のアレンジはジャズ風で、歌謡曲には全くと言っていいほどなかった時期だったから、だから編曲賞もらったの。翌39年は「ウナ・セラ・ディ東京」とかたくさん作ってた。今度は作曲賞に該当するのがいなくて、「あの、去年の宮川ってのはたくさんヒット曲つくってるから、あれにしましょう、そうしましょう」って簡単に俺にくれたのよ(笑)。38年の編曲賞の次は39年の作曲賞でしょ。じゃあその次はレコード大賞だ!って俺は思ったの(笑)。がんばったがんばった。でもいっこうにできないんだよね(笑)。やっぱり欲を出すとなかなかね…こうやったら売れるかなとか、ノウハウを少しずつ学んだ気でいるわけですよ。あのメロディはこういう風にしたからよかった、とか、このアレンジは、ハーモニーは、リズムはこうしたほうがいい、とかね。ジャズやってたから、そういうことは演歌や歌謡曲の世界の人よりも優れているわけですよ。そのジャズの手法で伴奏書くと、とてもあか抜けていて素晴らしいってみんな思ってくれるの。だから(編曲は)楽だったのね。でも作曲となると話は別で、インスピレーションと、あとはいい詞をもらって自分が歌がうまくて、酒飲んでどこでも大きな声で歌えて、歌を歌うのが好きで…そうじゃないと曲は書けないね。流しの歌手上がりの作曲家がものすごい多いわけ、日本は。船村徹とか遠藤実とか、みんなそうだもんね。
だからどうやったら受けるかとか、大衆は何を求めているかとかね、音楽的な学問はともかく、そっちのほうはみんなすごいからね。
−−それは今の音楽にも言えることですね。
宮川:うん、でも今の音楽はね、音楽学校ちゃんと出たヤツがいっぱいいるしね、マニュアルや資料も山ほどあるんですよ。音だって何だって今の機械はいいからさ、優れた音楽がいつだって聴けるし、すぐ作れちゃう。だいたい最初はピアノが芯だったのが、ある時期からフォークギターが全盛になって、その後はギター中心で、今もやっぱりギターでしょ。フォークで生ギター弾いてたのが、エレキでガーンと音が出るようになって、さらにエレキでいろんな音が出せるようになって、世界中でそれが主流になったでしょう。日本は真似するの好きだからね。それで日本のポップスは急激に…60年代の後期から70年代、80年代の前半まで。これが日本の歌謡曲・ポップス界にいい曲ができた時期だね。あのころヒットした曲を今聴くと、ああ日本人はすごいって思いますよ。モノマネばっかりしてるようで、日本人の曲がちゃんとできてるじゃないかって。しかも外国風の着物を着せて飾り立てて、そしてそういう歌を日本で流行らせて、それでおばちゃんもおっちゃんも若いヤツもみんなそういうの好きだし…ジャズはまた別のルートでね、一生懸命やってたけど、ジャズだけはどうしてもなかなか芽が出なくて…今は何人も(ジャズのトップミュージシャンが)いますけどね。
−−ジャズはやっぱり(昭和)30年代がいちばんすごかったんでしょうね。あとは日本はポップスのほうへ行っちゃいましたからね。
宮川:そうね。でも今でも日本でジャズで優れた人いっぱいいるからねえ。
−−テクニック的にはみんなすごいですよね。
宮川:うん、すごいよ。だけどね、ジャズっていうのは昔スイング時代、1920〜30年代はね、社交ダンスのフォックストロットの伴奏がメインだと言ってもいいぐらいで、ッチャッ、ッチャッっていう踊りと一緒にでね…
−−それで大衆と結びついていたんですね。
宮川:そう、ダンスがあってのジャズだったのに、モダンジャズはダンスできないんだよ、難しすぎて。
−−それで頭のほうへ行っちゃって、大衆と別れちゃったんですね。
宮川:だからみんな貧乏になって苦労して、酒飲んでブツブツ言って体壊して薬やって…ってなっちゃうわけでしょ。勉強すればするほど難しいドツボにはまっちゃうわけですよ。
5. モダンジャズの発展…ジョージ・シアリング・サウンドの魅力
宮川:僕はジャズをスイング時代もやってたし、東京出てきた頃はモダンジャズが始まった頃でね。日本で最初にモダンジャズをやり始めたのが中村八大さんがやってたシックスジョーズの「ジョージ・シアリングサウンド」。ピアノとバイブとギター。この3人で音出すんですよ。あとはドラムとベースね。ピアノが中心になって、バイブラフォンとギターで、メロディを全部やる。バイブラフォンの高さのちょうど1オクターブ下がギターの高さで、その間にピアノが大事な音を全部埋めてるの。そのサウンドっていうのはモダンジャズにはそれまでなかったんです。それをジョージ・シアリングが、彼はイギリスだから、アメリカに行っても真似はできるけど自分の個性まだできなかった、そのときにレオナルド・フェザーって有名な評論家がジョージ・シアリングにアドバイスしたんですよ。フルバンドでサキソフォンが5本の指でやってる音をピアノで押さえる、その下をバイブとギターで同じように♪カカンカッカカン、カカンカッカカン♪って、そういうのを作ったらどうだって言われて、ジョージ・シアリングはほら、目が見えないからサンキュー、サンキューって言って感動して、やってみたら大成功した。モダンジャズは難しくなっていくのに、ジョージ・シアリングのやってたこのサウンドは半分コマーシャル的で誰が聞いてもわかりやすくて、室内学風でうるさくなくて上品でお洒落で、みんなが聞いたことあるような曲がちょっといじってあるのがなんともお洒落だった。それで一世を風靡したのね。
日本でもみんな真似てさ。俺なんかもよくやってた。ところがある時期続いて、ジョージ・シアリングが何を思ったかラテンが好きになって、ラテンにそのサウンドを持っていって、ラテンばっかりやるようになって、それでみんなからひんしゅくを買ってしまったの。それで落っこちちゃった。それでも80年代くらいにはまたカムバックしてね、ジョージ・シアリングのレコードいっぱい出てるんですよ。もう最近はもうそろそろあぶないからね、出してないとは思うけど。
それでシックスジョーズのリーダー渡辺晋さんがね、そのジョージ・シアリング・サウンドは中村八大さんがいたからそのサウンドを取り入れたんですよ。バイブもいるし、テナー(サックス)の松本英彦さんもいたから、そのメロディーにうすーくのってね、新しいサウンドなんだけど、あくまでもジョージ・シアリングのコピーってことで。それで日本中まわったんだけど、やっぱりそのサウンドだけじゃダメなのね。松本英彦さんのワンマンショーがないと。彼がブヮ〜ってやったおかげでバンド全体がものすごく人気がでたのね。
そういうのを見てきたから、僕は今でも難しいジャズはできなくてね。大阪にいたころからジョージ・シアリング・サウンドとか勉強してたからね。
6. あの時代を再現!?「クラブ進駐軍」
宮川:そういえば『ジャズ・ワールド」っていうジャズの新聞があるんだけど、そこが毎年主催してる「クラブ進駐軍」っていうイベントがあるんですよ。なんで進駐軍の名前が付いてるのかわからないけど、当時進駐軍のクラブに集まってジャズやってた人があつまってやろうということなのかな?渡辺晋が死んじゃって何年かたって、何回忌かの時にそこの社長が渡辺美佐さんのところへいって、「もういちどああいうのをやりたい、あの晋さんのシックスジョーズのサウンドをみんなに聴かせてあげたいから協力してください」って持ちかけたら美佐さん喜んでね。「それはもう主人もとても喜ぶでしょうから」って乗り気になってやることになったんだよね。シックスジョーズの残党も集まってね…ピアノは俺でしょ、バイブはその新聞の社長の内田君、ギターは沢田駿吾ちゃんていうベテランね、ドラムはジミー竹内さんが具合が悪くてダメでね、ナンバーワンの猪俣猛が叩いてくれてね。ベースはね、(オリジナルメンバーが)いたんだよ。鳴瀬(昭平)くんて、僕もシックスジョーズのときにいっしょにやってたんだけど。だからベースとピアノとバイブの3人が現役だったわけ。それでこないだ発表会をやったんだけど、大きいところでやったのよ(2001年9月8日(土)/東京厚生年金会館)。それがね、100人ぐらいの小さいサロンで聴くといいんだけど、大きいところでやったからエレキは目一杯音入れてるし、ピアノも負けていられないから大きくなるでしょ。
−−マイクはついてるんですか。
宮川:うん、全部マイクついてるからさ、ものすごい大きい音になるわけでしょ。 もうジョージ・シアリング・サウンドじゃないんだよ(笑)。得体の知れないデカイ音になっちゃってさ。
それで当日渡辺美佐さんが「主人のためにありがとう」ってみんなにご祝儀くれたんですよ。始まる前にいただいちゃったからみんな感動して一生懸命やっちゃってね。一生懸命が仇になって大きな音になっちゃったんだよ。ジョージ・シアリング・サウンドのサの字もないんだよ、うるさくて(笑)。それで終わってから美佐さんがガックリしててさ…あんなんじゃご祝儀やるんじゃなかったなって思ってたんだろうねえ(笑)。終わってからさ、「あの…お宮さ、ああいうのだっけ?」「そうなんですよ。ジョージ・シアリングの今やってるバンドも、ああいう風に大きな音出してやるんですよ」って言ったら「……そう…」ってね。あれでよかったのかな…?っていう怪訝そうな顔をしてましたよ。それでさ、ジョージ・シアリングって知らないミキサーとかいるとさ、「ピアノの大スターだったらしいよ」とかいって、ピアノのヴォリュームをあげるんだよね。そうするとピアノがでっかい音になる。そうするとギターもでっかいなーと思いながらあげるでしょ。ギターもピアノもあがったらさ、ドラムもどーんとなるでしょ。
−−それですごいことになっちゃう(笑)。
宮川:うん。美佐さんには悪いことしちゃったな。だからね、今度またどっかでもう1回やろうってことにしてね、来年はね、(音を)あげないようにしなくちゃいけないのよ。そういうことがあったね(笑)。
7. 名プロデューサー、ミュージシャン・渡辺晋
−−ご自身のお話に戻りますと、ピーナッツを育てたあとは、クレイジーキャッツですよね。映画の仕事が増えたってことですね。
宮川:うん、そうそう、映画の仕事が増えたね。ピーナッツが映画に出てたころも書いたことあるけど。クレイジーキャッツでは萩原哲晶さんていうすごい人がいて…
−−僕もすごいファンなんですよ。萩原哲昌さんはクレージーキャッツの作曲家としてとても有名ですが、そのほかであんまりお名前を見ませんよね。
宮川:あの人はちゃんと勉強してきた人でね、大先輩ですよ。スーダラ節を最初に作ったんだけど、それがものすごくあたっちゃって、それで何十曲も作らされて、みんな似たり寄ったりなんだけども、1曲として同じ曲がない。
−−斬新なのが多いですよね。
宮川:うん、斬新で、見事な作りですよね。
−−でもほかの人の作品でお名前見かけませんよね。
宮川:渡辺プロでね、次から次へとどんどん書かされてね…僕もアレンジを担当するようになったから曲の会合に出てたんだけど、詞は青島(幸男)さんでしょ。青島さんが書いてきて渡辺晋さんの家でミーティングするの。もちろん植木(等)さんも来て、今度歌うのはどんなのかな、って興味持ってるでしょ。そうすると青島さんが詞を読んで聞かせる。あの人が読むとおかしいのよ。「ちょいと1杯のつもりで飲んで〜」って飲んでる格好するわけ。ムチャクチャおかしいのよ。それを渡辺晋社長がね、「うん、そこわかるけどね、ちょっとしつこいからもう少し変えてね」とか言ってね。それで萩原さんがメロディー作ってくるとA、B、Cと3つぐらい作ってくるの。それを歌いながら「そこもうちょっと下世話にできないかな」とか社長たちにいろいろ言われながら作ってたのよ。
−−ナベ晋さんがプロデューサーだったんですね。
宮川:うん、あの人はすごい先頭に立ってやってたよ。それは僕の曲でもみんなそうですよ。渡辺晋さんがOK出したらそれでいいの。すごかったよ。
自分のことで話すると、「恋のバカンス」を書いたときもね、できました、じゃあ弾いて見ろって言われて、伴奏をロッカバラードのスローの伴奏を書いたんですよ。そしたら社長が「宮ちゃんな、それ、あのポール・アンカの作ったあの曲じゃないか」「そうですよ」「そんなの真似しちゃだめだ。自分流のを作れ」って言われちゃって。「俺がいっつも弾いてるように、フォービートのベースに変えて書いて見ろ」って、言われたとおりにやってみたら「あ、こっちのほうが感じでますね」「そうだろ?」
−−すごいですねぇ!ナベ晋さんんて、ミュージシャンっていうより、僕らの世代だと「社長!」っていうイメージで、音楽に口出すような感じじゃないと思ってたんですけど、思い違いだったんですね。
宮川:そう、すごいですよ。だからちゃんと僕は言うこと聞きましたよ。そういうの何曲もありましたよ。
−−じゃあみんなナベ晋さんの指揮の元に集まってやってたんですね。
宮川:うん、まあでもそれもいいときと悪いときとあるんだよ。いっつもいいとは限らないけどね(笑)。そういうときは「社長でも僕はこう思うんだけど」って言うと「ん?じゃあお前やってみるか?責任とれるか?」「いや、じゃあ社長の言うとおりにやります…」ってこともあったし。そういう雰囲気もあったからね。
−−今日のテーマは「今だから言えること」ですから(笑)
宮川:社長の言うとおりにやって失敗したこともあったと思うよ。僕は覚えてないけどね。…今だから言えるかどうかわからないけど、当時の社員で僕らがすごくいいディレクターやマネージャーだなって思っていた人がいっぱいいたのに、一人ずつ抜けて行っちゃったの。それで自分の会社作ったりしてる。それはほとんど成功してるよ。中にはレコード会社の社長になったヤツもいるでしょう。
−−人材の宝庫ですよね。いい学校だったんでしょうね。
宮川:社長は早くに亡くなったでしょう。だからね、非常にくやしかったでしょうね。社長はえらかったよ、自分が病気でもうだめだってわかっていてもね、いつもニコニコして、病気だってところを見せなかったね。あの人はほんとうに武士の鑑だね。だけどどれがヒットしてどれがヒットしないかっていうのはまた別の問題だからね。最初のうちはよかったけど、そのうちだんだん自由に作るっていうのができなくなっていったところがあったかもしれないね。それでスタッフもどんどんやめていって、社長は辞めるな、って言わずに、「ああそうか、じゃあ頑張ってこい」って外に出してくれるでしょ。それでみんなあんなに成功しちゃってさ…それでも渡辺プロの同窓会って言うとみんな集まってきて「あのころはよかったよなあ」「よかったってお前出たくせに(笑)」なんてね。いいヤツばっかりでね。
−−ナベプロ出身者はすごい人がたくさんいますよね。
宮川:うん、いいヤツ、頭のよく切れるヤツが多いですよ。
8. 憧れのクレージーキャッツ!入り損ねたその訳は…?!
−−面白い人もいっぱいいましたしね。先生もコントとかおやりになってましたよね。実は宮川先生はクレージーキャッツに入りたかったとか?(笑)
宮川:そうなのよ(笑)、そのころはもうシックスジョーズに入ってたのに、ハナ肇さんが冗談でさ、「宮ちゃんな、(石橋)エータローと桜井センリとふたりでピアノ弾いてるけど、エータローは病気がちだから、宮ちゃん来る?桜井センリがファーストピアノで、宮ちゃんがセカンドピアノで…」「またそんな〜〜」なんて言いながらも嬉しいのよ(笑)。嬉しくて嬉しくて、女房にさ、「おい大変だ!ハナちゃんからな、クレージーキャッツに来いって言われたんだよ。エータローが休むかもわかんないし、セカンドピアノで来いって。俺もうサイコーだよ。どうするお前、俺入ってもいい?」って聞いたらさ、「やめなさいよあんな下品なバンド」って(笑)。それでやめたのよ(笑)。
−−(笑)じゃあ行ってたかもしれないんだ。
宮川:うん、ほんとは行きたかったのよ。
−−でも奥さんの反対でやめたんですね。
宮川:そう。「やめなさいよあんな下品なバンド。それよりピーマンの肉詰め食べるの?どうするの?」なんて言って、全然無関心だったんだから。おかしいよね(笑)。
−−わりと奥さんに弱いんですね(笑)。ハナさんとかとは同じ世代ですか?
宮川:年は向こうの方が全然上だよね。
−−じゃあほんとは嬉しかったんですね。
宮川:うん。嬉しかった。
−−音楽プラスお笑いっていう部分が、本来の宮川先生の体質に合うわけですね。
宮川:そうだね。人を笑わせるのはもともと好きだったからね。でもね、人を笑わせて、笑ってもらって喜んでもらうっていうのはね、結局自分がかわいいのよ。僕は意気地なしで喧嘩もできないし度胸も据わってないの。だから人に逆らったり、そういうことをほとんどしない。なるたけ控えて優しく優しく、なおかつ面白くないとダメなの。ダジャレ言ったりギャグやったりするのはいつのまにか好きで…ほんとにクレージーキャッツ入りたかった。
−−クレージーキャッツのみなさんも同じような人種なんでしょうね。
宮川:たぶんそうでしょうね。同じ人種で…
−−冗談音楽っていう分野が昔ありましたよね。海外で言うとスパイク・ジョーンズとか日本だと三木鶏郎さんとか…
宮川:そうそう、三木さんもそうだし、スパイク・ジョーンズをそっくり真似しようとしてたのが谷啓さんなんかはね、実はすごくうまいのよ。だってあれしかなかったんだからね。音楽家として超一流のおじさんたちがやってるのがすごいのよね。日本だと音楽はどうでもいいからダジャレとギャグをやってればいいっていう雰囲気があったけどね…あの人たちの音楽はほんとにすごいから、だからよけいギャグが効くのよね。
−−クレイジーキャッツも発想は同じですよね。
9.天才・萩原哲昌の作曲術
宮川:「スーダラ節」ができて、初めて聞いたのが大阪のコマ劇場でやったクレージーキャッツのショーでね。その時初めて人前でやってるのをみたの。そしたら大阪の客がシーンとしてて、途中で笑わないんだよみんな、初めてそんなの聞くからさ。それで「♪〜っときたもんだ〜」って終わるでしょ。終わって一瞬の間があってものすごい拍手。笑い声とかじゃなくてものすごい拍手。そのときは感動したね。お笑いの、どちらかといえばくだらないことばっかり言ってて、こういう音楽をシーンとして聴いて終わったらワ〜ッて拍手したでしょ。びっくりしたね。なんというすごい曲だろうと思った。
−−すごい瞬間を目撃されたんですね。
宮川:ああいう冗談系の曲、日本の曲っていうのはほとんどそうなんだけど、ドレミファソラシドの「ファ」と「シ」はほとんど使わないんですよ。「ドレミソラドラソミレド」って音階で作る。「ファ」は西洋音楽の音階で日本にはない音でしょう。「ドレミソ」って続いちゃうし、「シ」はあるんだけどね、「ファ」はないの。ところが、あの「スーダラ節」には「ドドソドドソレミミレドレソソ〜(ちょいと一杯のつもりで飲んで) レレドレレソソミファミレド(いつの間にやらはしご酒)」って、ここだけ「ファ」があるわけ。
−−そうなんですか!
宮川:あとは1回も「ファ」は出てこない。でもそこに1箇所だけある。これがいいのよ。それは萩原さんが計算したんじゃなくて、どうしてもそうなったんでしょうね。そっちのほうが洒落た感じだなって思ったんでしょう。僕だったらこうは書かないと思う。よくある日本のメロディーにしちゃうでしょうね。それと1回使っちゃうとそこで洋風な味がでるから、あとでまた使いたくなるのよ、僕だったら(笑)。
−−それも出てこないんですか。
宮川:うん、絶対出てこない。それはもうびっくりしたね。
−−僕もこの方は天才だと思ってましたけど…スゴイお話ですね。
宮川:それからああの曲、「タ〜ラララタラ〜…てなこと言われてその気になって…」ってあれ何だっけ。
−−それそれ!「これが男の生きる道」ですね。
宮川:そういうタイトルだっけ?あれは作詞が最初だったからそうなったのかな?おそらく頭は哀しいブルース調のマイナーな感じで行きましょうってなったんでしょうね。それでだんだん調子が出てきて、「…てなこと言われてその気になって〜」ってエイトビートのノリになって、聞いてるほうも「来た来た来た〜!」って感じになるじゃない。ああ、植木等だ、これだってんでツイスト踊る感じになって、それでガーッときて最後にブレイク。このブレイクは必要なのね、それで「ハイそれま〜で〜ヨ」。その構成の見事なこと!すると(2番は)今度は怒って「ふざけやがって、ふざけやがって、ふざけやがって、コノヤロー!」、そのあとに「泣けてくる〜」と、だめ押し!どこにも穴がない。抜けたことない、完璧ね。あの曲の作り方っていうのは未曾有だよね。しかもお笑いの曲でしょ。
−−歴史上後にも先にもありませんよね。
宮川:これはほんとに斬新だったと思いますよ。
−−それなのに賞とかとってないですよね。
宮川:これは何もとってないんじゃないかな…それはもちろん「スーダラ節」もいいんだけどさ、でもやっぱりこれがね…。それとばかばかしくておかしいのはさ、やっぱり青島(幸男)さんの詞でね、「ホンダラ節」ってのがあるのよ。「なにをやってもホンダラがホイ、あれをやってもホンダラがホイホイ、やってもやってもホンダラホダラがホイホイ、だからやらずにホンダラっがホイホイ…」って、何回出てきた?ホンダラが。そのあとは「ホンダララ〜ホンダララ〜ホンダララッタホイホイ〜!」って、そんな歌がどこにありますか!?(笑)とにかくヒドイのよ(笑)。青島さんはそんなヒドイの書いてきてさ、都知事になってからもあの歌歌ってるのよ、そりゃないだろうって(笑)。
−−それはまずいですね(笑)。
宮川:それは困るんだよね、そんな歌を額にして部屋に飾っておいていいのかって(笑)。都知事の部屋だったか覚えてないんだけど、あの曲の歌詞が額に飾ってあったような気がするんだよなぁ。僕の思いこみかな?(笑)。行ったことはないんだけどさ。ライブとかで俺言っちゃったんだよね(笑)。「ホンダラ節が都知事の部屋に飾ってある」まずかったかなぁ。嘘だったら申し訳ないな、謝らなくちゃいけないな。でもそういうイメージなんだよね。絵が見えなくても頭に入ってくるんだよ。
10.桑田佳祐との交流〜「いとしのエリー」新解釈?!
宮川:あと絵が見えるのはね、「いとしのエリー」の桑田佳祐ね。僕の作曲の本にも書いてあるんだけど、「いとしのエリー」を聞いてるとどうしても夕焼けの空が頭に映るのよ。エリーは桑田君の妹でね、片っぽ足が不自由なの。その妹を桑田君がほんとにかわいがって、お兄さんが夕焼けの土手の草っ原の上で足の悪い妹を横に座らせて聞かせてる……
−−それは勝手な思いこみなんですね(笑)。
宮川:そう、そういう思いこみの絵が頭に映ってくるんですよ。その絵を描きたいんだよ俺は。あの曲を聞くたんびに、どうしてもその絵が見えてくる。そういう曲何曲かありますよ。不思議と必ずその絵が映ってくるっていう曲。
−−それは先生の中では名曲ということになるんですよね。 そういえば桑田さんとお仕事なさってるんですよね(「心を込めて花束を」/1996年『Young Love』収録)。
宮川:うん、1曲だけね、僕がストリングスのアレンジが得意だってことで、頼まれたんですよ。桑田さんのところにわざわざ会いに行ってね、桑田さんが一生懸命メロディーを歌ってくれるんですよ。詞はまだできてないの。それでメロディーだけを聴いて俺はアレンジして…もう夢中になって書いたんだけど、桑田さんはものすごく喜んでくれてね…これからもよろしく、って言われてその気になっちゃったけどさ、僕はほんと感動しましたよ。桑田佳祐さんがわざわざその1曲のために僕に会ってくれて…
−−それはまた先生は謙虚すぎますよ(笑)。逆に桑田さんはとても先生を尊敬してるんですよ。
宮川:いやいやほんと、ものすごい尊敬してたからね。そのレコード(『Young Love』)ではね、1曲だけなのよ、弦がびっちり使われてるのはね。
−−まさに宮川音楽なわけですね。
宮川:そう、だからね、あの人にはすごく感謝してるのよ。
−−彼も希代の作曲家ですよね。
宮川:だって「TSUNAMI」だってさ、去年だっけ、流行ったの?ずっとあの人は何十年も歌作ってきてね、あんな難しい上がり下がりの激しい、細やかな曲、ああいう曲をまた書けるのかっていうがすごいんだよね。
−−今かかってる曲(「白い恋人達」)もすごいですよね。
宮川:ああ、あれね!どうしてあんな風なことができるんだろう桑田君って。
−−この期に及んで何であんな曲が書けるんだろうって(笑)。
宮川:ほんとに。いやぁ、僕最近わかったんだけどね、僕は今までパターン通りにやりすぎたのよ。アメリカのポップス、アメリカの歌謡曲ってみんなパターンなのよ。AABA型なの。最初の基礎的なところがね。
−−確かに昔の曲はみんなそういうところがはっきりしてますよね。
宮川:Aメロが8小節あって、8小節で終わるのもあるけどだいたいもう一回繰り返す。そうすると今度はサビがあってがらっと変わって、最後の8つはまたAメロで。そうするとカッコがつくんですよ。
−−昔はそうでしたけど、今はA→B→C→D→E、だめ押しでラストエンディングがF、っていう感じで複雑ですよね。
宮川:そうだね。今はもうAABA型っていうのは絶対、ほとんどと言っていいほどないですよね。それですむようなメロディーはないのよ、もう。出尽くしちゃってね。だから思いがけなくどんでん返しありのメロディーになるわけでしょう。それで続いてるんだと思いますよ。僕はそういう勉強を全くしてないからね。自分が今まで作ったやつを見ると、みんなAABA型なの。ああこれじゃあダメだなと思ったよ。
−−でもそれだけ中身のメロディーがいいとそれが成り立つんでしょうけど、今はもう出尽くしちゃってるわけだから。
宮川:それは出尽くしますよ。「ドレミファソラシド」の7つの音階に、中に半音入れたって12音でしょう。12音階の音楽なんてもう決まってるじゃない。何十年もやってるんだからね。
−−昔はAメロとBメロを譜面で入れ替えてみるとかありましたけど、今は実際に編集で簡単にできちゃいますからね。
11.2002年、「新・ヤマト」発動!?
−−ところで少し「ヤマト」のお話をお聞きしたいのですが、映画音楽は「ヤマト」の前から手がけられているんですか。
宮川:うん、あれですよ。植木さんの、あのシリーズからやってるし、自分なりに映画音楽勉強したんだけど、今聞くとちゃちいね(笑)。何で俺はこんな曲を書いたんだろうって。
…実は今ね、「新・宇宙戦艦ヤマト」が少しずつ動き始めてるんですよ。もうほんとはできなくちゃいけないんだけど、少しずつ押してる見たいなんだけど、来年には本格的に作り始めるのかな?僕には今のうちに思いついた曲を書きためておいてくれって言われてるんですよ。なかなか進まないんだけどね。うち4曲だけはもう去年のうちにできて、もうレコードになっているんだけどね。だけど紀元3000年の話だからさ、あと1000年あとの話でしょ?あと1000年あとの音楽なんて想像できないからさ…。いろんなスタッフはみんな新しい人を入れることになってるんだけどね、じゃあ音楽はどうするんだ、いや、それはやっぱり宮川さんしかいないでしょう、って話になったらしいのよ。それで俺んとこに松本(零士)先生が直にお電話くださって、お願いしますって言われたんで俺もう喜んじゃって、よし、またやるぞ!って思ったんだけどさ…考えてみるとヤマトのこれまでの6つか7つのシリーズでね、音楽はほとんど出尽くしちゃってるのよ。おしまいのころなんかももう苦労して苦労してね、ヤマトの音楽の流れから離れてもいけないし、といって二番煎じを作ってもいけない。
−−難しいところですね。
宮川:難しいですよ。しかもそれを僕一人でやるんだから(編註:当時のプロデューサーは今回のヤマトの製作に関わっていない)。でも断るのは癪じゃない。
−−ヤマトは最後までやらないと。
宮川:僕からヤマトが無くなっちゃったら何にも残らないんですよ。ヤマトがあればね、今でもファンの人は喜んでくれてね、「毎日涙流しながら聞いてたんですよ」って言ってレコードにサインしてくれって言われるとね、嬉しくなって、よし、この次もやるぞって思うんだけどね…。
−−アニメの音楽を交響曲でやられたっていうのも斬新でしたよね。
宮川:あれは当時のプロデューサーのアイデアだったんですよ。
−−松本さんと言えば、最近はダフト・パンクっていうフランスのテクノ集団のPVを依頼されてましたよね。クラブシーンのプロモーションビデオに海の向こうから指名されて、書いてましたね。
宮川:この調子じゃいつまでたってもヤマトはできないかな。
−−いや、その企画はもう終わりましたよ。
宮川:だって延びに延びてるんだもん。
−−でもやっぱり先生のなかでもヤマトシリーズっていうのは大きな存在なんですか。
宮川:僕ね、ヤマトのレコード見るとね、ああ俺一生懸命やったなって思うの。これは俺にしては上出来だな、よくこんなの考えついたなっていうのが何曲かあって、あとはまた同じの書いてら、っていうのが山ほどあるけどね(笑)。
12.自薦:宮川泰音楽ベスト5は…?
−−先生の自薦する楽曲ベスト3とかありますか。
宮川:今ね、「若いってすばらしい」がものすごく気に入ってるの。あのね、火曜日のNHKで『歌謡コンサート」っていうのがずっと続いているんですよ。歌謡曲の番組にしてはピカイチの音楽的センスでね、面白いですよ。それでこの前ね、アンコール放送の希望の曲を視聴者から募ったらね、ダントツで「若いってすばらしい」(1965年/槙みちる)なんだよ。歌謡曲の番組なんだよ。「若いってすばらしい」はどっちかっていうとポップ系なんだから。それも林あさ美さんて若い歌い手さんに歌ってもらってね。ビデオ見るとものすごいうまいのよ。ピッタンコなの。それがすごく評判よくて、その時は視聴率20%いったらしいんだよ。それぐらいね、もりあがった番組でね。それをまたアンコールでやったって聞いて、聞いたんだけど…演歌がメインの番組で、アンコールやったらその曲がダントツで1位なわけでしょう。それぐらい、歌謡曲のおっちゃんおばちゃんたちにもわかる曲なんだなって思ったのね。歌詞は優しいし、「若いってすばらしい」って単刀直入でさ、若く生きようってことだからさ。
−−ほかにはどんな曲がお気に入りですか。
宮川:ほかはねぇ、「恋のバカンス」は最初にできたから好きだね。それから「ヤマト」のテーマも今聞くといいから好きだね。それからね、「逢いたくて逢いたくて」(園まり/1965年)が好きなの。「ウナ・セラ・ディ東京」も好きだけど、あの曲は要するにパターン化の典型でしょ?「恋のバカンス」もそうだけどさ。AABA型なの。あともっと上品なやつだと「愛のフィナーレ」(ザ・ピーナッツ/1968年)がものすごく自分ではいいなあと思ってる。うん。
−−「銀色の道」(ザ・ピーナッツ/1966年)は?
宮川:うーん、「銀色の道」はねぇ、フォークが流行ってしばらくしてからかな?もう忘れたけど、塚田茂さんていう作家の人と組んで、毎月NHK かなんかでやる番組で作ったんだよね。これはフォークで、フォークってピアノで作ることができないから、ギターが少し弾けたからギターで作ったんですよ。それもAマイナーしか弾けないから、Aマイナーだけで、ほかのキーだと難しいの。それで(ギター弾いて作る真似をしながら)♪ブンチャカブンチャカ…♪とおい〜とおい〜♪、お、これはいけそうだな、と思ってね(笑)。ピアノだと絶対こういう作り方はできないよね。
−−(笑)。よくありますよね。みんなやりますよ、息詰まると三味線弾いたりして(笑)
宮川:それはあるかもね。僕ピアノだとどうしても和音でね、リズムよりも和音でメロディーをきれいにしようと考えるですよ。だからいいコードを使おうとか欲が出てくるのね。でもギターだと何しろスリーコードしか弾けないからさ、「ブンチャカブンチャカ」ってこれしかないわけよ。でもやってると自然に「とおいとおい〜〜」って出てくるんだから。
−−ギターだからできた曲なんですね。
宮川:うん、唯一ね。ほかにはないもんだって。 それも苦労しないで。
−−いや、あれはいい曲ですよね。
13.2大ライバル!?…中村八大VSいずみたく
宮川:そういえばこの間中村八大さんの「明日があるさ」がリバイバルされたじゃない。あの当時さ、「ああ俺もこんな曲作りたいなぁ」って思ってたらさ、たまたま作ってたんだよね。そっくりじゃないし、全然節は違うんだけど、気持ちとしてはあれなのよ。それをテレビの人気番組でやったらバーッとみんなが歌うようになっちゃった。自分のコンサートとかでラストはその曲になっちゃうとかね。そういう、みんなで楽しく口ずさんで歌えるような歌、明るい歌っていうのがいいんでしょうね。演歌だと明るいっていってもまた少し違うし。僕の作った和製ポップスみたいなのは難しいこともないしね。
−−そういう曲ってみなさん書かれてますよね。いずみたくさんとか…
宮川:いずみたくさんはすごい僕のライバルだったからね。まあライバルといえば中村八大さんといずみたくさんがライバルだったんだけど。僕はその両方先生の曲から10曲選んで解説してみんなを笑わせるっていうのをね、永六輔さんとサントリーホールでやったのよ、何年か前にね。
−−あ、面白そうですね(笑)。
宮川:そのときに調べたらね、中村八大さんていうと「上を向いて歩こう」「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」「世界の国からこんにちは」と、「遠くへ行きたい」とか、それぐらいで、6つか7つまではいいんだけど、ベスト10はすぐ思いつかないんですよ。いずみたくさんはね、10じゃ入りきらないくらいあるよ。そういう意味では中村八大さんんはちゃんとした音楽の大学を出て、ジャズをきっちりやっていて、インテリなんだけど、いずみたくさんは違うじゃない。苦労して苦労していろんな労働してダンプの運転手やったりしてやってきた人で。こっちはスマート、こっちは汗だくって感じでね。曲もこっちのほうが泥臭いの。それがやっぱりいいんだよね。泥臭いにもかかわらず、ミュージカルをいっぱいやったり、「見上げてごらん夜の星を」とかね。あれだって僕は最初はたいしたことないって思ったけど(笑)最近聞くといいんだよね。年を取ったせいかもしれないけど、この歌いいなあって思うようになったね(笑)。
14.小柳ゆきの魅力
−−今の若者がやってる音楽とか、今の音楽シーンをご覧になって、宮川先生はどんな風にお考えでしょうか。
宮川:あんまり若い人たちの音楽を聴かないからいけないんだろうけど…よっぽどでないと「あ、いいな」って思うのがなかなかなくてね。例えば曲が始まって「かわいいな、けど歌ヘタだな」って思うとあんまり聞かないでしょ。歌が上手くても曲がつまんないな、って思うこともあるし。そういう気持ちで見ちゃいけないんでしょうね。若い人たちがわぁ〜っと盛り上がってる気持ちに自分で入っていこうとしないと。少々のことはどうでもいいから、今の若い人の音楽はこれだ、っていう風に聴かないと…。
−−いや、そうやって無理なさることはないですよ。
宮川:一人で見てるとどうしてもそういう風に見ちゃうからね。
でも小柳ゆきが「君が代」を彼女流に歌ったでしょう(2000年11月3日/オールスターズ2000日米野球開会式)。あのときは感動したものね。いやぁ、ついにこういう風な人が出たか、って。こんなこと言っちゃ怒られるかもしれないけど、これで「世界の君が代」になるな、って思いましたよ。ああいう尊い歌だからね、冗談にしたり替え歌にしたりふざけたりしちゃいけないっていうのがあるじゃない。それぐらい厳粛な曲ですよ、あれは。日本だけじゃない、あんなに厳粛にやってるのは。世界に誇る曲だと思うんだよ。どこの国にもない見事な曲ですよ。それをああいう風に歌っっちゃったっていう度胸もそうだけど、それがまたよく聞こえたのよ。雅楽風にやってるとどうしてもイメージが固定しちゃって、あの曲にあるいろんな要素が出てこないままずっと来てたわけでしょう。
−−音楽的要素を封印してたんですね。
宮川:それを封印しないでさ、ゴスペル風にウワ〜っとさ、感動したもん。
−−ヴォーカリストとしての小柳ゆきには一目おいてらっしゃるわけですね。
宮川:そうそう、僕は「有線大賞」の審査員なんですよ(編註:小柳ゆきは2000年度の日本有線大賞で大賞受賞)。つい2、3日前にも今年の打ち合わせに行って来たんだけど…ほとんどがみんな若い人たちの曲でね。上から下までずっと。演歌とかと比べると比率が8対1ぐらいなんだってね。だから候補もポップスが100曲ぐらいなのに、演歌は11〜12曲ぐらいしかないのよ。それぐらい違っててね…若者達の歌はほとんどがみんな同じような歌で、かわいくてフレッシュで、娯楽としてはいいんだけど…演歌の法はいつまでも古い伝統から抜けきれないでいるような気がするんだよね。「女が失恋して酒飲んで酔っぱらっちゃった、っていう歌がたくさんあるけどさ、女が失恋して一人さびしく酒飲んで、なんて歌は今の若い人には合わないわけよね。
−−女性がお酒を飲むことがべつに珍しくないですからね。
宮川:だから今の状況には合わないんだけど、そういう匂いって言うのがずっと残ってるんだよね。それから歌い手さんの歌い方、ビブラートのかけ方も問題があるし、作詞もねえ…。
作詞といえば星野哲朗さんがすごい新しい詞を書いてね、ボニー・ジャックスが歌って僕が作曲して、今度レコーディングするんだけどさ、すごいのよ。星野さんの演歌じゃない詞でね、おかしいんだよ。「風邪を引いてしまったサンタクロース」って題名なのよ。演歌にはならないでしょ?だからそういう詞を書く星野さんっていうのはやっぱりすごいなと思ってね。自分でもいい曲ができたと思うんだけど、ヒットするかしないか…わかんないけどね。
星野哲朗大先輩にも僕は曲を作らせてもらえるのが嬉しくてね。だからヒット出したいよね。いっぱい作っていっぱいやらせてもらいたくて。
−−お元気ですよね。
宮川:いや、それで元気になったのよ。
15.音の魔術師/愛息・宮川彬良氏との音楽共演
−−名匠・宮川組での活動も続けてらっしゃいますよね。よくライブなさったりして。
宮川:うん、侍の集合だからね、すごいんですよ。
−−ライブはどのくらいのペースでやってるんですか。
宮川:前はもうちょっとあったんだけど、去年、一昨年とちょっと減っちゃってね。だからまたみんなで考えてね、やってるんだけど。東京は毎月1回あるから、年に12回はあるんですよ。
−−じゃあお忙しいですね。
宮川:うん、でも僕自身の仕事がものすごい減ったからね。あと目の手術をしたからこれからは気をつけて目をもっと大事にしないとね。あんまり細かい譜面を書くわけには行かないよ。当分、今年いっぱいはゆっくりして来年から新しい仕事しようかなと思ってるんだよね。
−−新しい仕事っていうのはまだ内緒ですか?
宮川:内緒じゃないですよ。新しい仕事が来ないかなってこと(笑)。
−−弟さんだけじゃなくて、息子さん、彬良さんも音楽家ですよね。音楽的な親子交流とかありますか。
宮川:うん、うちの彬良はね、大阪フィルハーモニーとのコンサートを全部自分でアレンジしてやったんですよ。何年か前にね。そのときに評判がよくてね、お客さんにもすごく受けちゃって、「ああこんなに喜んでくれてどうもありがとう。これじゃ今年の秋もやらなくちゃならないね」ってステージ上で言ったらお客さんが大拍手。それでその秋にもコンサートをやって、それ以来毎年2回、コンサートをやってるんですよ(大阪フィル・ポップス・コンサート)。いつの間にかお客さんが入るようになってね、いつも切符は売り切れ。歌手は出ないんだよ、オーケストラだけでね。普通ポップスのコンサートだったら歌手が出るんだよ。でも全部大阪フィルハーモニーだけで、彬良が全部アレンジして司会して、棒振って、非常に地味なやり方なんだけどお客さんが入ってくれるのね。
ついこの間(2001年10月7日)は「今回はうちの父の曲をやります」なんてとりあげてやってたんで聞きに行ったんですよ。「恋のバカンス」と「ウナ・セラ・ディ東京」と、あともうひとつ何だっけな…忘れちゃいけないよな自分の曲を(笑)(編註:あと1曲は「若いってすばらしい」)。…彼らしいアレンジをしてね、やってましたよ。「ああ俺だったらこういう風には書かないけど、こっちの世界を書くのか、どうしてこういう世界になるのかな?」…今まで僕が書いたことのない世界が出ていてね、なんて思いながら聞いてましたよ。そういうのは逆にいいと思うんだよね。僕らはもうほんとにパターンどおりだしね、ポップスとはこういうもんだって、ヘンリー・マンシーニの本とか見て勉強したりしただけだからね、自分独特の個性はそうはないんですよ。癖はあるんだけどね。
−−先生は日本のヘンリー・マンシーニとも言われてますよね(笑)。
宮川:(笑)。ヘンリー・マンシーニ好きでねぇ。あの人のアレンジの本が出たときに僕の友達から「これで勉強したらいいよ」って言われてね。あれは大阪にいたときだからずいぶん前になるね。
−−仕事がオフの時はどのように過ごされてますか。
宮川:何にも趣味無くなっちゃったんだよね。前みたいに絵描いたりね、プラモデル作ったりするのもなくなっちゃってね…絵描くのも億劫になって来ちゃって…
−−健康にいいこととかなさってないんですか。
宮川:冬はずっとスキー行ってたんですよ、10年ぐらい前まではね、毎年。それももう体壊してから行かなくなって…今年は1回は行きたいなと思いますけど…あとは酒飲んで、時々金持ってたら銀座のクラブ行って馬鹿話して…適当にいい酔っぱらい方して。「あ、ここで帰るといいな」ってとこでね。で、帰る。
−−大人の遊び方ですねぇ〜。
宮川:だいたいほら、女の子がさ、できなくなったから。昔はね、女の子と遊んでたけど…最近はもうダメでね。
−−…(笑)。
宮川:いやあもうムチャクチャしたからね…もう女房には頭上がらないくらいね。うちの女房は俺が悪いことしたのを全部知っててもね、怒らないの。で、がっくりすると1週間ぐらい黙って悲しそうにしてるけど、1週間たつと「ハイ、終わり!」ってまた元気になるの。ありがたい女房ですよ。
−−いいご夫婦なんですね(笑)。今日はどうも長い間ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
作曲家に必要なのは「インスピレーション、いい詞、そして歌への愛情」だと語る宮川泰氏。古希を過ぎてもなお現役で活躍し、闊達と語る口調からは、冗談めかしてはいたものの、自身の作品や活動への確固たる自信が満ちあふれていました。2002年には新しい「ヤマト」も動き出すとあって、音楽業界の重鎮としてますますの御活躍を期待しております。
さて、ご紹介いただいたのは同じく音楽業界のサラブレッドとして知らない人はいない服部克久氏。ほぼ同期だというお二人ですが、知る人ぞ知るどんなお話が飛び出すのか…乞うご期待。