第26回 中井 猛 氏
株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役社長
今回の「Musicman’sリレー」は、(株)スペースシャワーネットワーク代表取締役・中井猛氏の登場です。渡辺プロでは同期入社だったという旧知のアミューズ大里会長のご紹介ということで、語れどつきないナベプロ時代のエピソードも満載。伝説のロック・レーベル「ノンストップ・レコーズ」誕生秘話、そして決して順調とは言えなかったスペースシャワーTVの紆余曲折からVMCの立ち上げまで、ざっくばらんにお話しいただきました。
プロフィール
中井 猛 (Takeshi NAKAI)
株式会社スペースシャワーネットワーク 代表取締役社長
1947年1月3日 大阪生まれ。
1969年、同志社大学卒業と同時に渡辺プロダクションに入社。制作部で番組制作やマネージャー、プロデューサーをつとめる。大阪支社ではロック系の「ノンストップ・レーベル」を立ち上げ、スターキング・デリシャスやゴンチチのプロデュースを手がける。
1988年に独立、(株)ヒップランドミュージックを設立し、代表取締役に就任。
1989年、(株)スペースシャワーの設立に伴い、取締役エグゼクティブプロデューサーに就任。
2000年6月、(株)スペースシャワーネットワーク代表取締役社長に就任。
2001年4月、株式店頭公開。
2002年4月、ビデオクリップ専門チャンネル「ビデオミュージックチャンネル(VMC)」開局。
- 同志社軽音楽部の売れっ子ギタリスト!? 音楽三昧の楽しい青春時代
- あらゆる経験をした20年…黄金の渡辺プロ時代
- カリスマ社長・渡辺晋氏の素顔
- ナベプロでロックを!ノンストップレコーズの立ち上げ
- スペースシャワーTV、苦難の船出
- ついに来た!ビデオクリップ時代の到来
- スペシャの立ち位置はあくまでオルタナティブで
- 週一ゴルフは仕事と趣味で一石二鳥!?
- スペースシャワーがめざすもの
1.同志社軽音楽部の売れっ子ギタリスト!? 音楽三昧の楽しい青春時代
−−お生まれは大阪ですよね。
中井:そうです、大阪です。高校も大学も同志社だから京都でしたけど。
−−今大きな会社を2つも3つも率いてらっしゃいますけど、やっぱり小さい頃もリーダーシップを発揮されてたんでしょうね。
中井:いやぁ…自分ではそんなイメージはなかったですね。
−−ガキ大将だったとか、子分がいっぱいいたとか……
中井:まあワガママでしたね。ワガママとね、3日坊主なんだよねぇ…。やりたいことは パッとやるんだけど、すぐ飽きちゃうんです。思いついて会社創っちゃったみたいな感じでだんだん増えちゃったんですよね。あとはまあ成り行きですよ。
−−子どもの頃の思い出とかありますか。
中井:友達とね、「木の上に家を造ろう!」ってことになって「こうしろ、ああしろ」って指図しながら(笑)やってましたよ。でも潰れるんだよね、ああいう家は…うまく造れなかったな。でもそういうのは好きだった。算数、国語、理科、社会よりやっぱり図工が好きだったもん。学校の音楽はクラシックとかだから関心なかったけど、何かを組み立てたりするのが好きでした。キットで売ってる電気機関車を組み立てたり…。
−−プラモデルですか。
中井:僕らの時代はまだプラモデルじゃないですね。あとラジコンも好きだった。
−−ラジコン?というといつ頃の話ですか?
中井:それは24〜5年前かな。ヘリコプターのモデルを一所懸命作って飛ばしたら…しばらくしてガチャン!「あぁぁぁ俺の10万円が…こりゃちょっと俺の給料じゃ続けるのは無理だな」と思ってやめましたけど(笑)。
−−ラジコンは大人になってからの話なんですね。じゃあ子どもの頃は日本の少年らしい健全な少年だったんですね。
中井:そうね。健全な少年だったと思いますよ。
−−特にませてたとか、そういうわけでもなかったんですね。
中井:そうですねぇ。だって中学のときは丸坊主でしたからね、色気もなにもないですよ。 中学3年の時にマラソンのトップの奴がいて、そいつは女の子とつきあってたんですよ。「かっこいいなぁ…俺には関係ないけど」みたいな(笑)。「俺、丸坊主だもんな」ってね。
−−自分で好きで丸坊主にしてたんですか?学校がそうだったんですか?
中井:あの時はね…五分刈りでもないな。うん。全体的には、全員がそうだったの。つるんつるんじゃなくてね。そんな感じでしたよ。中学には越境組がすごくたくさんいて、最初は京大とか行こうと思ってたけど、成績どんどん下がっていくしさ…こりゃあきらめたほうがいいなと思ってそのまま同志社行ったんですけど。
−−でも同志社ってやっぱり東京でいえば早稲田慶応みたいな。同志社に入れるだけでもすごいと思いますね。
中井:いや、けっこう僕、優秀だったのよ、高校に入った時はね(笑)。350人中7番ぐらいで。それが卒業する時は320番ぐらい(笑)。ただまあ行きたい所は行けたからよかったけど。
−−学生時代はどんな少年だったんですか?
中井:学生時代はとにかく女の子にモテようと思ってギター弾いてたんですよ(笑)。高校時代はギターにはまってコピーばっかりしてたなぁ…。
−−どの辺のコピーを?
中井:ベンチャーズのコピーとかやったり、できなかったけどMJQ(モダンジャズカルテット)が日本に来るとライブを見に行ったりとか。
−−ジャズも好きだったんですね。
中井:ジャズも好きだった。シャンクレールっていう京都にあるジャズ喫茶でじっと聴いてたりとか。音楽すべてが好きなんですよね。ただ歌謡曲とかはあんまり好きじゃなくて、やっぱり洋楽が好きだったの。それで大学で軽音楽部に入ると、ギターが弾けるってだけでたらい回しにされるわけですよ。ジャズも何も関係なくて。「明日京都でダンパあるから行け!」ってウクレレ渡されて「えーー!?」って前の日にコードを覚えてね。それでも「(ダンパで)いい女の子いないかなー」みたいな…もうそういう生活ですよ。
−−じゃあけっこう大学では売れっ子だったんですか?
中井:いや、売れっ子っていうか…ギターはけっこう生き残りがきつかったんですよ。
−−大学の軽音楽部ですよね。
中井:そうそう。最初はボーヤをやりながらでしたけどね。
−−大学でボーヤがあるんですか?
中井:1年はみんな楽器運びですよ。弾かせてくれないもん。練習なんかは部室の外で。向井滋春っていうトロンボーン奏者は僕のボーヤやってましたよ。そういう徒弟制度だったんです。それで全国にある県人会で手打ち興業をやるわけです。地方をぐるぐる回ったりして。フェスティバルホールとか京都会館とか手打ち興業やりまくりましたよ。
−−けっこう金ももらえるんですよね。
中井:いやいや、僕らはそんなに入ってこないですよ…でも「そんなに部費稼いでどうするんだ?」って事務室に呼び出されて怒られたりしましたけど。
−−個人には入ってこなかったんですか、そのお金は。
中井:それがね、実は先輩がその金でフェアレディ買ったんですよ。
−−それは怪しいですね(笑)。
中井:当時はカッコいいなぁと思ってたけど(笑)。そういう意味ではいい加減な生活でしたよね。一番遊んだし。
−−モテたんでしょうね。
中井:というかね、チケットを持たされて、女の数が少ないとチケットの配布が大変なのよ。隣に同志社女子があるからね、そこのパイプを使って女の子のゴマすって「5枚買ってよ」とか言って。そういう世界ですよ。それでアメリカに行ってブラブラしてて。
−−アメリカも演奏旅行ですか?
中井:そうそうそう。
−−アメリカまで行くっていうのがすごいですよね。でも学生時代は音楽ライフを満喫してたというわけですね。女の子にモテモテの黄金の日々ということで…。
中井:そんなに黄金じゃなかったけどね、実際は。でも楽しかったですよ。
−−京都の大学とか楽しそうですよね。
中井:いいかげんなもんですよ。勉強とかまったくしなかったし、徹夜で麻雀やって今のカミさんと車でドライブしてたり、あとギター弾いてたりっていう、軟弱決定版の大学生活。それは堂々と言えるね。抜け切っちゃってるよ(笑)。だってさ、高校でギターにはまって、大学では軽音楽部で…僕は人生そのものが軽いんだよね(笑)。とにかく汗水流して努力するっていうのは、何回やってもうまくいかないんですよ。ただ、地獄にはめられたところから、抜けきるっていうのはできるんです。
−−サバイバル能力があるんですね。
中井:そう。サバイバル能力は俺あると思う。でもなんかコツコツ努力するのはダメ。途中で飽きちゃうし、達成感ないし。よく「成功してますね」って言われるけど、それは違いますよ。常に一勝九敗。「一発うまくいったな」と思ったら、風呂敷広げるだけ広げて、さも大成功したように見せといて、9回ぐらい転けてるわけよ実は(笑)。「ちょっとまずいな」みたいなのがいっぱいあるの。そんなもんだよ。十戦十勝なんてありえないし、絶対そんなの信用しませんね。
−−そういう楽しい大学生活で、就職はどうやって決めたんですか。
ギターはずっとやってたんだけどね、増尾好秋のライブに行ったらあいつのほうが圧倒的にうまかったから、もうヤメたと(笑)。
−−ジャズの増尾好秋ですか?
中井:そうそう。同じギター持ってて、僕もけっこう自信あったんだけど圧倒的にうまいんだもん。彼は学生の頃から渡辺貞夫さんのグループでやってたしね。こんな奴と競争なんかできやしないと思って。やっぱり一等賞じゃないと納得できないからね。
−−じゃあ増尾好秋さんショックで方向転換されたと。
中井:そうそう。あれは誰が見ても、見たら辞めるよね。話にならないだもん。ただね、そういう軟弱な大学生だったから朝9時の会社は無理だろうと思ったんですよ。それで9時出社じゃない会社はないかなぁ、と思って探したら、渡辺プロダクションが11時出社だったんです。総務は10時ですけどね。
−−制作関係は11時出社だったんですね。
中井:そうそう。最初は何の会社かわかからずに受けたんですよ。「ワーナーブラザーズプロダクションみたいだな」って思いました。要するに「モノ作ってる」ことが好きだったんですね。
2. あらゆる経験をした20年…黄金の渡辺プロ時代
−−それでいよいよ渡辺プロダクションに就職されるわけですね。
これまでの「Musicman’sリレー」で感じたことは、やっぱり渡辺プロダクション出身の方々のパワーってすごいなって改めて思うんですよ。まず稲垣さん(稲垣博司氏:現(株)ワー ナーミュージック・ ジャパン代表取締役会長)さんから始まって、前回の大里さん(大里洋吉氏:現(株)アミューズ代表取締役会長)もそうですしね。 みんな「渡辺プロダクションはすごかった、面白かった」って仰るんですよ。今でもおつきあいが続いているようですし…とても楽しそうな世界に見えますが(笑)、中井さんはどうでしたか。
中井:そうですね、やっぱり楽しかったですよ。まあレコーディングとか、自分で写真録ったり、あるいはマネージメントでも荷物持たされて嫌だなぁとか(笑)…いろんな経験しましたけど。でも今はみんながいろんな所で活躍してるから、おたがい情報交換もすばやくできるし、いろいろ裏情報もわかるし(笑)……そういう意味では得してると思いますよ。
−−渡辺プロダクション時代に多大な人脈を築き上げたということですよね。でも当時も渡辺プロダクションは大変な競争率だったと思うんですが…面接は何回ぐらい?
中井:もう3回ぐらいやりましたよ。アミューズの大里は僕より前でね、あいつ、映画論で社長と20分ぐらいしゃべって盛り上がってるんですよ。僕なんか「君はお父さんOKなの?長男なのに」「いや、もう大賛成です(本当は怒り狂ってるんだけど…)」 「そうなんだ」…それで終わりだもん。これは落ちたな、と思ったら俺も大里も受かってたけどね。
−−社長の見る目はすごいですね。
中井:配属は制作部でした。第一志望は渡辺企画だったんですよ。コマーシャルとか作れるのかな、と思って。でも気がついたら制作部で、要するに渡辺プロの心臓部ですよ。マネージャーとかプロデューサーがいるわけで…「お前向いてるから」って言われて配属になって。
制作部でマネージメントやってるとね、レコーディングスタジオにも顔出すし、フォトスタジオにも行くし、テレビ局にも地方のFM局にも行くし、キャンペーンでレコード会社も行く…全部見えるじゃないですか。だからね「何でもできるんだな」っていうイメージはありましたよ。そういう全体の流れを渡辺プロダクションで覚えましたね。番組制作もイベント制作もマネージメントもレコード制作もやった。やっぱり全部やっちゃってるんだよね。その中の、番組制作の延長線上でスペースシャワーがあるっていう、そういう感じですよね。
−−そこでプロデューサー業も覚えたんですね。
中井:そうですね。まあ逃げまくってたけどね。「おまえはホントに逃げるのうまいな」って先輩の尾木さん(尾木徹氏:現・(株)プロダクション尾木 代表取締役)に怒られたりね。「だってイヤなんだもん」なんつってね。大里だって逃げ足速いんだよ。「あれ、大里いないの?あの野郎!」とか言われてたよ。あとはハンズの菊地さん(菊地哲榮氏:現・(株)ハンズオン・エンタテインメント 代表取締役)もいましたね。
−−菊地さんも同期なんですか?
中井:一期上です。あと稲垣さん(稲垣博司氏:現(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長)は僕の元上司でしたね。…あの人もまた超いいかげんだよねぇ(笑)。でも、どさくさにまぎれて、ちゃんと形にする人なんだよねぇ。
−−あははは(笑)その手のお話はこの間も大里さんからさんざん伺いました。
中井:(笑)。とにかく会社としてはね、ぐちゃぐちゃな会社でしたね。もう体で覚える。夜はみんな会社に集まるんですよ。外で酒飲んで深夜に会社に帰ってきたりするじゃないですか。そこで「どこそこのあいつは使いものになんないよね」とか情報が入ってくるわけですよ。レコード会社だの放送局だの代理店だの「あいつはタコ坊主だ」「あいつは逃げるぞ」とか。「この人はダメなんだな」「この人は優秀なんだ」とか、そういう情報も入ってくるの。遊びながらそういう会話になるんですよ。自然に良い情報と悪い情報を照らし合わせながらやっていけたんですよ。
3. カリスマ社長・渡辺晋氏の素顔
−−渡辺晋さんはどんな上司だったんですか。
中井:渡辺晋さんは音楽に対してポリシーのある人でしたね。モノ作りにはうるさかったですよ。クリエイティブっていうことを絶対にはずさなかった。普通のアーティストマネージメント会社とは違ってました。アーティストを売るための手段として番組を作ったり。僕は最後の方は渡辺晋さんの直属だったんですよ。「お前は俺の部下なんだから」って言われて焦っちゃったけどね。社長が上司なんだから(笑)。僕はね、あるとき渡辺晋さんに聞いたことがあるんですよ。「僕らは晋さんの影響を受けてますけど、社長は誰の影響を受けたんですか?」って。そしたら「ノーマン・グランツだ」っていうわけ。
−−どんな方なんですか。
中井:パブロレーベルっていうレーベルの凄腕プロデューサーですよ。エラ・フィッツジェラルド、ジム・ホールズ、アート・ブレイキーとかね。マネージメント兼レコード制作、ステージ制作もやってていて、JATPっていうジャズのイベントを手がけたりしてました。日本の一番最初のジャズブームのころですよ。晋さんも元々ジャズマンだったから、彼に影響を受けたんですね。僕は音楽が好きだから、晋さんとはわりとコミュニケーションできたんです。
でもね、晋さんは数字を見やしないから楽でしたよ(笑)。説明しながら「あの…実はここで1200万の赤字が出まして…」「お前、そんなことはどうでもいいんだ。要は、あのレコーディングのあのトラックダウンどうしたんだ?」って、もう音楽の話になるんですよ。
−−かっこいいですねぇ。
中井:幹部会で数字の話をしていても、「3000万赤字…まいったなぁ」とか言うでしょう。そうすると社長が「お前はな、本気になってないからこういう数字になるんだ。努力が足りないんだ。それよりお前、今度のアン・ルイスのあの曲は何だ?」って、その話になっちゃうんですよ。それでダーッて言って20分ぐらいで終わっちゃうから。いつもそうなの。そういうときにも音楽の話。社長はそういう人でしたね。プロデューサーとしてはやっぱり凄かった。
−−すごい人なんですね、やっぱり。
中井:僕が36歳の時「社長は36歳のとき何やってました?」って聞いたんですよ。そしたら「俺か?…東宝から頼まれて無責任シリーズやってたなぁ」。
−−あの時、渡辺晋さん36歳だったんですか!
中井:その時に「この人には一生勝てないや」と思ったね。今でもあの人ぐらいじゃない?まあ社会背景も運もあるだろうけど。それからアーティストもみんな信頼してるしすごかったですよ。
あるときね、自動販売機で「コーラが出ないな」ってボンボン叩いてたらさ、後ろから「ここからビールが出りゃいいよなぁ」って声がするわけ。バカなこというオヤジだなと思ったら、社長なんだよ(笑)。社長が言うかよ社員に。昼間の1時にね。
−−はははは(笑)。さすがジャズマンですね。
中井:そうそう。やっぱりそうなの。根がミュージシャンだからね。自分が何を生業にしてるかってところがやっぱり外せなかったんだよね。だから僕もスペースシャワーにとっては音楽っていうのが生業としてはそこからスタートしたわけだよね。新聞、テレビにラジオに雑誌、そこに唯一インタラクティブな電話って手段があったわけでしょ。今度はケーブルができてスカパーみたいな衛星システムができて、今度はブロードバンドだFTTH(光ファイバー)だとか。要するに電送システムが変わっていくだけ、多様化するだけであって、モノを作る方としては人に感じてもらえるモノをちゃんと作れるかどうかだから。そこが勝負だからね。
−−そうですよね。ただの手段ですよね。
中井:レコードにしても映像にしても作り込むところのその作品。たまに勘違いして「何時間もかけて作りました」って。それで作ったと思ってるの。「違うだろ」って。それはお客さんが見て初めて感動するなり、何かを感じることによって付加価値が出てくるんであって、時間をかけて、それで「やりました」。そうじゃなくて、その後が勝負なんです。番組制作であろうがレコード制作であろうがステージ制作であろうが、何だって一緒だと思うのね。その時にアーティストとかあるいは出演してくれた人と本当にちゃんとしたコミュニケーションとれてないと、やっぱりそこまで作り込めないよね。
−−そういうコミュニケーションに気を遣ってこられたというよりも、中井さんのもともとの性格で、自然にそういうことをこなしてこれたんでしょうね。
中井:僕、人間好きだもん。いろんな人にいろんなことを聞いたり。「なぜなぜ坊や」みたいなところあるからね。わかんないことは全部聞くし。そんなのぜんぜん恥と思わないし。勉強になるもん。やっぱり常にミュージシャンは、売れてても売れてなくても「来年どうなってるんだろう?」って毎年思うでしょう?でも組織の中にいたらさ、「来年どうなってるんだろう?主任になってるかな?」とか、そんなレベルだもん。置かれてる立場がアーティストとぜんぜん違うもん。だから一人のプロデューサーを見てても、作るっていうのはものすごく金もかかるし時間もかかるし、人脈もなきゃだめだしね。
4.ナベプロでロックを!ノンストップレコーズの立ち上げ
−−では話は次に移りますけど、ノンストップ(ワーナー・パイオニア/アトランティ ックーノンストップレコーズ)を立ち上げられたのは中井さんですか?あれは渡辺プロダクションの中では初めてロック!ていう感じでしたよね。
中井:そう。評論家の北中(正和)さんとかには、「渡辺プロダクションがこういうバンド(スターキング・デリシャス等)を手がける意味がよくわからない」とか新聞で言われましたけどね。ほっといてくれって感じだよね(笑)。スターキング・デリシャスはね、大阪のバーボンハウスでアレサ(・フランクリン)のコピーやってるバンドを見て「かっこいいな…こんな音楽あるんだ」と思ったのがきっかけですよ。それまで森進一、布施明、沢田研二の世界じゃない。もう全く違う。サザンソウルなハイレコードな音とか。「あぁ、音楽ってやっぱりたくさんあるな」と思ったよ。もともとそういう音楽好きだったから。ただ渡辺プロダクションっていうところに入っちゃったから限られた音楽だったの。
−−大阪支社で立ち上げられたレーベルなんですね。
中井:そうそう。レーベル名はほかの人がつけたんだけど、中井猛って猛獣の「猛」だから、それでノンストップになっちゃったんですよ。
−−そういう意味だったんですか。
中井:僕はね、アサイラムレコードとアイランドレコードとCTIが好きだったんですよ。 デビット・ゲフィン、クリス・ブラックウェル、クリード・テイラー…彼らはマネージメント兼プロデューサーだった。アーティストとの人間関係でやってるレーベルっていうのはかっこいいと思ったし、「俺が目指すのはこれだなぁ」って思ったんです。
−−それでノンストップレーベルを立ち上げたわけですね。
中井:そう。それでワーナーの知久(悟司氏:現(株)フリーウェイ代表取締役)が「やらせてくれ」っていうからいっしょにやることになってね。彼はちょうどムーンライダーズやってた頃ですよね。
−−ノンストップは他にスタキンからはじまって…。
中井:それがね、スタキンやったんだけど、大阪で売るのにマーケティングできないのよ。演歌の世界が確立されたりしてたから。だからロックのイベントやったり、番組制作やりはじめたりしたんですよ。その時に、ラジオ大阪の栗花落さん(栗花落 光氏:現(株)FM802取締役)とウマがあって、ラジオの番組制作手伝ったり、番組のPRするためにイベントやったりするようになったんです。ラジオ番組から生まれた“JAM JAMスーパーロックフェスティバル”ていうイベントに山下達郎とかサザンに出てもらってね。サザンがまだ売れる前で、大里に電話して「ちょっとこれに出てくれよ」って感じで。でも(サザンが)売れてきたら「おまえちょっとギャラ上げろよ」「バカヤロー」みたいな(笑)。RCサクセションとか柳ジョージとか竹内まりやとか大沢誉志幸とかもそんな感じで大阪で盛り上がってきて、その流れで東京でもそういうのやりたいってことになったんですよ。それでいっそのこと「東京と大阪を一緒にしちゃえ」って話になって…「おまえ東京でやれ」「えー?!東京に行くんですかぁ?」って。大阪でビシバシやってるのに、東京行くのは全く興味なかったし最初断ったんだけど、社長が点滴打ってるところにつれていかれて「おまえが創ったんだから、おまえが責任とれ」って言われて…。かみさんに「また東京に転勤になったから」って言ったら「あ、そう。がんばって」って言われちゃって。おかげでもう17年〜18年単身赴任ですよ。
−−奥さんはずっと大阪にいらっしゃるんですか。
中井:そうです。
−−どうして来てくれないんですか?
中井:引っ越しがめんどうなのと、近所の奥さんとの人間関係。たったこれだけ。「あんた一人で稼いでね」って。はっきりしてるの。僕もそれはそれでまあ気楽でいいやと思って。その代わり毎週帰ってましたよ。今でも帰ってます。
−−ノンストップを立ち上げたのは何年ですか?
中井:今から…そうだなぁ、26年前かな。1976年ですか。ちょうど細野晴臣関連の流れとか、久保田真琴と夕焼け楽団、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、憂歌団、スモーキー・メディスン、吉田美奈子…そういうほんとに新しいニューミュージックの流れがバッと出てきた頃なんですよ。俺はもう絶対これしかないと思ったもん。もうテレビに出るアーティストだけで音楽を語るのは限界あると思った。自分で番組を作ってたからよくわかるのよ。やっぱり「テレビ局のミキサーでやる」っていうことに限界があるなと思って。だって、全然わかってないんですよ。「すみません。キーボード上げてください」「はあ?」「あ、ピアノのことです」とか言わなきゃいけなかったし。今はそこそこあるけど、当時の放送局で音楽を作る能力はないと思った。やっぱり「音もちゃんと出したい」っていう当時のアーティストの気持ちがあるから、テレビ局でやるのは嫌だって。俺たちの音楽でやるっていうのは無理だよねって。
−−’76年頃っていうのは、いわゆるニューミュージック系のアーティストが「ザ・ベストテン」とかに出たくないって言ってた時代ですよね。
中井:そうそう。でもどちらかというとフォーク系はそういうのあったけど、僕らは別にテレビに出たくないとかはなかったですよ。だって僕、ソー・バッド・レビュー、久保田真琴とかムーンライダーズの番組作ってましたから。マーケティングとしてそういうのをやらなきゃいけない。MBSの深夜の枠をもらって、僕がプロデューサーで、東通の中継車をたたくだけたたいて(破格で)二本撮りにしてもらってね。それでもギャラ払えないから、手打ち興業をして、それをギャラにしてやってた。それを2クール作ってたかな。視聴率※印だったけどね(笑)。
−−外から見ると、渡辺プロダクションが新しい時代にきちっと対応したっていうのが、ノンストップだったと言えるかもしれませんね。渡辺プロダクションもそのままだったら時代についていけなかったかもしれない。
中井:まあね、やっぱり東京のスタッフは刺激を受けたと思うんだよね。ある程度音楽的な良識を持った奴が。大沢誉志幸にしても山下久美子にしてもアン・ルイスにしても。でも考え方は僕はプロダクションサイドだから、いくらの利益になるんだっていう考え方。印税計算じゃなくてキャッシュ・アンド・デリバリーの方の計算だから、赤字が多くて…。渡辺プロダクションって原盤会社でもあるから、コンサート援助金とかもらえなくて、自分たちで手打ち興業をやって。それでも赤字になっちゃうのね。それで上がってくるわけですよ。
−−だから番組制作とかいろいろ提案してまわしていたと。
中井:そうそうそう。
−−その辺の盛り上がりがあったうえで、ヒップランドミュージック設立につながるわけですね。
5. スペースシャワーTV、苦難の船出
−−ヒップランド立ち上げ後ほどなくしてスペースシャワーを立ち上げられましたけど、その経緯を聞かせていただけますか。
中井:僕は渡辺晋さんが亡くなってから渡辺プロダクションをやめたんです。そしたらみんながいっしょについてきたんですよ。山下久美子とか大沢誉志幸とかゴンチチとかね。だからヒップランドを立ち上げたんだけど、その時にスペースシャワーの話も同時進行で来たんです。ヒップランドで金がいるから、つなぎで日テレの番組プロデューサーやっているときにもちかけられたんですよ。「24時間音楽をかけられる」なんて、最初は何のこと言ってるんかわかんなくてね。番組とかビデオを作るのかなと思ったら、パラボナアンテナで人工衛星みたいな感じでしょう。ほんと訳わかんなかったけど、よくよく聞いてみたら、そのアンテナで配信してケーブルとかに24時間音楽をかけられるっていう。これはいいなと思ったんです。
−−簡単にスペースシャワーの話をなさってますけど、僕らが思うにはヒップランドを立ち上げるというだけでも、創業するわけですから大変な忙しさなのに、スペースシャワーのような大きなプロジェクトの話をどうして簡単に平行してやれたのかな、と。
中井:いや、だってさ当時はヒップランドで食わなきゃならない、それには自分が出稼ぎに行くしかないじゃない。それで(スペースシャワーの)ギャランティをヒップランドに入れて、穴埋めしながらやってたんですよ。
−−そういう状態だったんですか。ヒップランドの1年後に新たに立ち上げた、とかそういう話じゃなくて、ほとんど同時進行だったんですね。
中井:それで辞められなくなちゃったのよ。みんなの資本を入れちゃったから。ソニーとかビクターの資本をね。資本を集めてくださいって言われても、僕一人で一億のうち3千万なんて持てないでしょう。それで14分割して一口200万で。手頃な値段でしょ。それでみんなに言って出してもらったの。
−−たしかにそれなら手頃ですよね。
中井:うん。そしたら1億がいきなり4億に増資になっちゃって。でも付き合ってくれるところもあったしね。
−−そもそも「放送局を創ろう」っていう話を持ってきたのは近藤さん(正司氏:現・ (株)スペースシャワーネットワーク 編成部長)ですか?
中井:そう。大阪のポテトキッドっていう、ミュージシャンとか業界関係者の集まる有名な店があるんだけど、そこであいつがボソボソって言うわけ。「うちの社長がCSをやろうと言ってるんですけど…とりあえず僕は音楽しかないと思うんですよ」って。最初は何言ってるんだと思いましたよ。
−−前からお知り合いだったんですか?
中井:そう。近藤は僕が番組制作やってる時の下請け会社の社員だったんですよ。それで俺に声かけてきて。しばらくしてからパラボナアンテナの営業の人が来て「近藤が言ってる意味とぜんぜん違うけど、でもとりあえずはギャラ取れるな」って思って、それでやり始めたんです。でも資本を集めなきゃいけないし、スタッフも集めなきゃいけない。それで近藤に「お前来るんだろ」って言ったら「いや。僕は大阪で…」「なに言ってんだ、自分で言い出したくせに、いいかげんにしろバカ野郎!」って引っ張ってきてね(笑)。案納(俊昭氏:現(株)セップ代表取締役)とか梶田(裕貴氏:現(株)セップ常務取締役)とか、みんなそのときにバーッとかき集めたスタッフですよ。 ガンガンスタッフ入れていって。それで最後に近藤を東京に入れて、やり始めたんですよ。だから機械のことは、僕はぜんぜんわからないから、そういう意味では(株)エキスプレス(近藤氏の所属していた映像制作会社)は、もともと技術系の会社だったから、その骨組みは作れる。中身のブッキングは僕がバーッとキャスティングして、やり始めたたんですよ。いとうせいこうとかね。どうせ誰も見てないテレビなんだから好き勝手にできるなって感じだよね。だから匂いとしては非常にインディーズな匂いをさせつつ、アン・ルイスとか沢田研二とか入れて(笑)…インディーズばっかりだとケーブルテレビの鼈甲のメガネかけたおっさんには通用しないからね。
−−そこでも渡辺プロダクションの人脈が生きますね。
中井:そう。加藤和彦とか入れてね。それで形にしてやっていくうちに、赤字がどんどん貯まっていって。
−−何年間は超赤字ですよね。
中井:増資、増資、減資、増資、減資、でね。謝りながら。「すみません」とか言って。で、また増資みたいな。「いつまでやってんだよ」って言われながら。何年かたって単年度赤字23億ぐらいの赤字の時に、90人社員がいたのを「半分にしろ」って言われたの。でもどうしようもないじゃない。その苦肉の策にセップっていう番組制作会社を作ったの。「スペースシャワーでこれだけ何十億も赤字だして、それで貯まったノウハウってなにがあるんだろうか?」と考えたら「ディレクター」が育っていると思ったのよ。レコード会社のディレクター育てるの大変じゃない?それと同じように映像制作も大変なんですよ。「こいつら金になるよな…」っていう発想だよね。うちから出せる番組制作費なんてたかが知れてるし、ちょうどビデオクリップの時代にもなると思ったし。それでレコード会社とかに「LOW BUDGET, LOW COST, HIGH QUALITY!(低予算、低費用、高品質!)」って売り込んでね。当時は編集費はコストのなかに入れてなかったから、1本80万くらいで売れてたんじゃないかなぁ。だから理想だよね。ウチでビデオクリップを作ってレコード会社に納品して、それをまたウチで二次使用で使って、オンエアーさせてもらう。
−−一言でいうと「うまいなぁ」ってことですよね(笑)。
中井:アメリカにMTVを見に行った時に知ったんだけどね、アメリカにはTurnerBroadcasting System(TBS )とか、そういう(映像制作)プロダクションがいっぱいあるんですよ。でも日本にはない。あとこれもFM802の栗花落さんといっしょに見たんだけど、アメリカのラジオの世界。もう規模が違うんですよ。1万局あるし、もともと人種が多いから、最初から多様化されてるんですよね。だからそこで初めて「MTVってラジオと同じような役割を果たしているんだな」っていうのわかったんです。ジングルとかヘビーローテーションとか、全部ラジオ用語だし、今でもMTVのスタッフはラジオのスタッフでしょう。ウチはラジオ系のスタッフは1人だけで、あとはテレビ系ですね。だから、僕は言ってみればスペースシャワーという会社をプロデュースする感じでやってきたんですよ。スペースシャワーは伊藤忠が大株主でやってきたんだけど、前社長で、今、伊藤忠の常務執行役員の篠木廣幸氏が、経営のいろんなことを教えてくれたおかげですね。
だってそれまでやってきたプロデューサーなんてPL(プロフィット&ロス:損益計算書)の世界でしょう?いくら金引っ張ってきて、いくら使って、いくら利益上げてっていう。でもBS(バランスシート:貸借対照表)って、常に左右のバランスを計算しなきゃいけない。もうわけわかんないですよ。最近やっとキャッシュフローの計算をして「何だこれ?」みたいなね。その程度で、そういう経営に関しての知識は徐々に覚えていったんですよ。僕はやっぱり、ヒップランドがあったから、スペースシャワーの社長になるなんて考えられなかったし。ところが篠木さんが役員になったので結局ヒップランドの代表権をはずして、スペースシャワーの社長を成り行きでやらざるを得なくなったんです。
−−逃げようがなかったんですか。
中井:僕が引っ張ってきた人間が多すぎたもんなぁ。まあ、ヒップランドはプロの集団だからいいんだけど、昔は、言ってみればアマチュアの集団だから、業界とのコミュニケーションもそんなになかったし。それで最初は僕が動いて、人脈を作って、それからは番組編成や制作を近藤に任せるようになったんです。この世界ってある程度存在感がないと、後からは入りにくい世界だからね。今は少し安定して、セップもあるし、中途採用でも業界の人間が入ってきたりして、だんだんそれらしくなってきたけどね。
6. ついに来た!ビデオクリップ時代の到来
−−巨額の赤字を積み重ねていたのは約何年間だったんですか?
中井:’89年にスペースシャワーが設立されて、営業譲渡したのが’96年ですから…。
−−ということは8年間。その間、株主は…。
中井:伊藤忠がただひたすら…毒食らわば皿まで状態ですよ。
−−伊藤忠だけだったんですか。
中井:そうですよ。最初は(株)エキスプレスの大富さん(國正氏:代表取締役)が社長だったんだけど、資金の関係で伊藤忠の篠木(廣幸)さんが社長になって、伊藤忠の資本を入れざるを得なくなった。伊藤忠もコンテンツなんかやる気なかったんでしょうけどね。でもJSAT(株)ってあるでしょう?(編註:伊藤忠が1985年に立ち上げた通信衛星会社。民間としては初の通信衛星JCSAT-1を打ち上げたのは1989年) 伊藤忠としてはコンテンツなくすわけにいかないじゃない。
−−そうなんですか。
中井:あくまでも(株)エキスプレスの大富さんがやろうとしてたことだったんですよ。でもやっぱり著作権や隣接権の問題、それにキャスティングの問題とか…いろんな問題がありますからね…。そこを手伝うという感じで。
−−中井さんが掲げた壮大なビジョンに対して、伊藤忠が資金提供を惜しまなかったっていうかっこいい話では…。
中井:そんな話じゃないよ(笑)。もう切りたかったと思うよ。ほんとに次から次と…… 「まだ金いるの?」ってさ。
−−でも今は見事に逆転しましたよね。
中井:ケーブルテレビ経由の加入世帯数が100万超えたぐらいからリアクションが出るようになったんですよ。最初は暗闇の中に石投げてるみたいだったからね。それからだんだん「SSTV見たよ」って言われるようになってきて、そのうちミュージシャンが「どうして俺のビデオクリップがかからないんだ?」って言うようになって…「よしよし…」ですよね。それからですよ、存在感がでてきたのは。
−−やっとインフラというか、時代が追いついてきたんですね。
中井:そうそう。時代が追いついたとかそんなデビッド・ボウイみたいにカッコイイ話じゃなくて、なんとなくね。ただ、一つだけ言えるのは、常に「俺が今やってることは間違ってるのかな?……いや、絶対合ってるはずだ」って考えてたんですよ 。だから俺がフェイドアウトしても、今後これは形になると思いますよ。だって価値観の多様化なんて当たり前の時代なのに、マスメディアという大きな一括りでね、延々と続けていけるわけがないと思うんですよ。そういう意味で必ず立ち上げなきゃいけないし、その時に音楽で一等賞取っていたいよね。
−−やはり音楽だけは負けられないと。
中井:「絶対、他には負けたくない」ていうのはありますよ。MTVが日本に本格参入して来た時はちょっと焦ったけどね。でも、うちは邦楽を主体にして、MTVは最初洋楽メインでしたからね。
−−「Musicman」でも、5〜6年前からビデオクリップの制作者を紹介するページを企画してるんです。「あのビデオは誰が作ってるんだ?」「誰に頼めばいいビデオができるんだ?」って。そういう情報を収集してるんですけど、半分以上がS社とM社で占められているんですよ。
中井:結局ね、コマーシャルは15秒か30秒でしょう。番組は30分とか60分。映画は120分の世界で、みんなノウハウが違うじゃない。だからビデオクリップの5分でもノウハウが違うんですよ。このノウハウが初めの頃からうち(SEP)にはあったから、「これは金になる」って思ったんです。
−−ビデオクリップページを立ち上げるにあたって、当時のミュージックビデオをどこの会社が作ってるか調べたんですけど、アメリカやイギリスにはビデオミュージック制作会社があるのに、日本にはその専門会社がなかったですよね。みんなCM制作プロダクションとかが代行してた。
中井:そうそう、やっぱりCM制作のノウハウで作ったものはちょっと違う感じがするよね。
−−音楽だけで映像制作プロダクションを初めて成り立たせたのがSEPだということになりますね。
中井:ほんとはコスト的に設立したかどうかはわからないけど、スタジオは開放してたからね。スタジオはあるし、練習もできるし、ノウハウもあるし。そしたらビデオ1本100万だったのが、だんだん120万、150万と上がっていったんです。
−−今度はさばききれなくなっちゃったんですよね。セップからフリーになっていったクリエーターもたくさんいますよね。
中井:うちは社員にディレクターなんかさせないですよ。ディレクターなんてお声がかかってなんぼの世界でしょう。給料でやる世界じゃないから、外に出るべきだよね。プロデューサーはお金の勘定だから会社員でいいけど、最後までディレクターやるんだったらフリーで、セップをエージェントみたいにしてやっていけばいいと思ってね。こっちも仕事をふるし、逆にそっちに話がきたらふってくれるし…「外でやるなら恥はかかせるなよ」って脅してるけど(笑)。
−−それも渡辺プロダクション仕込み(笑)
中井:だってさ、うちを出てからもSEPにいたっていうのはついて回るでしょう…でも「あいつ元気でやってるの?」って「いや、もういい先生ですよ」って話をきいたりすると、うれしいよね、そういうのって。この世界は一等賞しかダメだ。通信簿は「5」じゃないとギャラになんないぞって言ってきたからね。「3」だったら企業モノのマニュアルビデオになっちゃうよ、ほんとにこの世界でやりたかったら、自分を磨いて「5」取らなきゃダメだよと。そういうサジェッションはしてますけど。
−−中井さんの目から見て「コイツはスゴイな」っていうディレクターはたくさん生まれたんでしょうね。
中井:いや、丹(修一)もそうだし、須永(秀明)もそうだし……成長したなと思うね。ただね、僕が最初に目をつけた奴は、プータローなんだけど、そいつのセンスはやっぱり良かったね。
−−今もプータロー?
中井:今もプータロー。そいつがスペースシャワーのある種の色を作ったのよ。でも、いいかげんなヤツなのよ、ほんとに。ディレクターなのに本番になったら来やしないんだから。でも、しっかりADが仕切れるように作ってあるの。それで自分はサボってるわけよ。コンセプトとか出演者の考えてることを全部読みながら「こういう風にしようよ」「選曲は、じゃあこれにするわ」とか言って。でもレギュラー番組やらせたら、ほとんど来ないよね(笑)。どこか行っちゃって。
−−どなたですか?
中井:北岡一哉っていうんだけどね(編註:初期SSTVの伝説の番組「BUM」などを手がけたディレクター)。
−−一種の天才だったんですね。
中井:今回のEGO-WRAPPIN’のビデオ(「サイコアナルシス」)は北岡なんですよ。久々に「やっぱコイツいい作品作るな」と思いました。インディーズだから80万ぐらいなんだよ。だからやっぱり才能さえあればねいいもの作るんだよね。一回あいつにユーミンのビデオを1200万の予算で作らせたらね、金の使い方知らないから赤字になっちゃって。
−−あははははは(笑)
中井:ほんとだよ。300万ぐらい赤字になっちゃって。それはユーミンから指名できたんだけどね、「バカ野郎、あいつにこういうネタはやらせるなよ!」ってね。さすがにXの話がきた時は断ったけど(笑)。
−−お金の計算はぜんぜんダメなんですね。金使っていいって言われちゃうとわかんなくなっちゃう。
中井:ぜんぜんダメ。でもこの範囲内でやれっていうと、興奮しながらやるタイプ。
−−その方が面白かったりするんでしょうね。
中井:作品って感じるか、感じないか、だから。いくらバックのサウンドに金かけてもさ、詞と曲が悪ければ売れないモノは売れないんだから。
7. スペシャの立ち位置はあくまでオルタナティブで
中井:作品の善し悪しでやっぱり決まるんだから、これからは徐々にインディーズからいい曲がたくさん生まれて、支配していくと思いますよ。今ちょっとね、中だるみしてるけど、メジャーは大変でしょう?
−−これからはインディーズの時代だということですね。
中井:メジャーの前にインディーズの時代が入ると思う。アメリカなんかはレコードの売り上げが60%がインディーズだからね。どんどんダウンロードしてもいいっていう、そういう前提で作っていかないとね。レコードありきって発想じゃななくて、まず、ライブがあるでしょ。そのライブを記録するっていうだけの話で、その流れでアメリカでラジオっていう媒体ができたわけで、それがまた付加価値を上げていったんであってね… それから50年経ってるんだから、そんなビジネスモデルが延々に続くわけがないんだろうねぇ。
−−そういった意味では音楽業界は今急激に変わろうとしてますよね。スペースシャワーではハイラインレコードを創られたり、関連会社がいろいろありますよね。
中井:ハイラインは営業戦略ですよ。「インディーズの情報を集めるにはどうしたらいいか?……お店を創ったら一番集まるね」ということで(笑)
−−マーケティングなんですね。
中井:そうそう。それとやっぱり下北だから、僕らが志向してる匂いがある所だよね。決して原宿じゃないから。
−−ハイラインは儲かってるんですか?
中井:あそこねぇ…タワーレコードがインディーズをガンガンやりだしてからね、そんなに儲かってない。でも、元々そういう意図で作ってないから、情報が集まればいい。
−−レコードショップじゃなくて、お店のほうはいつも人入ってますよね。
中井:スペースシャワーブランチね。あれもそうだね。
−−あそこは何ができるのかなと思ったらカフェで…あれもアンテナショップですよね。
中井:そうそう、アンテナ。いろんなところ考えたんだけど「原宿高いよなぁ。原宿でもないし、やっぱり下北かなあ」ってね。原宿はもうちょっとポップでファッショナブルな世界だから。
−−そうですね。メジャーな感じで。
中井:スペースシャワーはもうちょっとね、その手前のオルタナティブな部分が一番の立ち位置だと思ってるから。
−−ああいうものを立ち上げようとしたのは、中井さんじゃなくて、現場のスタッフですか。
中井:うん。現場ですね。
−−中井さんは任せてればいいみたいな。
中井:いや、任せてるっていうよりも「やりたい」っていうのがあるよね。ウチの社員はそうだよ。みんな音楽好きだから、「レコード店やりたい」って言うと「いいですね」ってなるわけ。やっぱりみんなの気持ちがある程度一緒じゃないとなかなかうまくいかないと思いますよ。
−−ある意味ではそういうやり方のルーツは晋さんにあるのかもしれないですね。
中井:似てるかどうかはわからないけどね…そりゃあメロディを聴いて誰かが曲を作るみたいなもんで、やっぱどこかで影響受けてますよ、僕らはね。
−−そうですよね。何年一緒にいらっしゃったんですか?
中井:僕は20年です。でも最初の頃はぜんぜん。後半4年ぐらいですよ、晋さんの「部下」になったのは。
−−考えてみると中井さんにとっての「社長」は渡辺晋さんしかいないんですね。
中井:そうなんですよ。今でもね、右左どちらに行くべきか迷ったときは、「渡辺晋さんだったらどっち選ぶだろうな」って思いますよ。
−−それは、すごい影響力ですよね。
中井:うん。ほんと大きいですよね。
−−でもさっき一勝九敗と仰いましたけど、順風満帆にしか見えないですよ(笑)
中井:いやいやいや。一勝九敗ですよ、ほんとにね。
−−最近ではVMC(Video Music Ch.)を立ち上げましたよね。あれはどんな感じですか。
中井:けっこうリクエストも入って、会員登録もどんどん増えてるみたい。
−−あのチャンネルは何で見られるんですか??
中井:スカパーです。携帯でリクエストできるんですよ。「何月何日、あなたがリクエストした○○○っていう楽曲がオンエアされます」っていう返信メールがくるんです。
−−ホームページでもリアルタイムなリクエスト状況が見られるし…ほんとに双方向なんですね。
中井:大げさに言えば双方向テレビみたいなもんですね。技術的にはローテクですけどね(笑)。
−−同じフロアの同じ制作部で作るんですか?
中井:効率的にやっていますよ。チャンネルVをうちが統合して、スカパー上で50万持ってるチャンネルの営業権譲渡を受けてVMCを創ったんですよ。もともとそういうアプローチをしたいなっていうのがあったからね。それがそう簡単にお金になるとは思わないけど。今、洋楽ってプロモーションする場がないじゃないですか。だから洋楽にシフトを引いていってやっていけば、ある程度レコード会社とコミュニケーションが取れるだろうし…。
−−洋楽の需要が大きくなるということですね。
中井:邦楽もちろんやるけどね。メジャーのレコード会社自体が邦楽の制作費を押さえてるでしょ。それで洋楽も売らなきゃいけないから…洋楽の場合、ライセンスでマーケティング費いらないから。
−−MTVはどう見ているでしょうね…
中井:MTVはね…アサヒとダブルネームやったりとか、VAIOのイベントに出たりとか、徹底的にあの「ロゴ」のビジネスだと思いますよ。スペースシャワーも「S」のマークがね、MTVに対抗できるほど強くなればいいけど、地上波でずっとやっていた先入観が強いから、MTVのブランド力にはやっぱり負けるよね。
−−でも今の日本は邦楽が強いですからね。
中井:売上比率は、邦楽が80%以上あるんだから。ただ、これからメジャーの邦楽率は低くなると思うよ。インディーズが増えてくる。だって80万とか100万で作っちゃうんだもん。それが20万とか売れちゃうんだよ。アメリカみたいに、まずインディーズで客動員をパシッとできた奴をメジャーが交渉して売っていくっていうのじゃないとね。だから、ある程度高く売るために、まず動員を高めるのに必死になる。ニルバーナなんかもそうだよ。もともとインディーズで10万枚売れてたの。「50万枚売ってあげるから」って契約しに行ったらメンバーは「ノーサンキュー」。だってインカム一緒だもん。そうでしょ?アーティスト印税で12%、インディーズでは50何パーセントだから。
−−メジャーにしたところでなにもおいしくなかったんですね。
中井:それどころかA&Rの言うこと聞かなきゃいけないし、聞きたくない、ほっといてくれってことでしょ。
−−今の日本でもね、MONGOL800がそうですよね。何もプロモーションしてくれるな、自分たちだけでいいって。
中井:あの口コミはすごかったねぇ。ウチもあれには脅威を感じてるよ。何のメディアも通らないであそこまで動いていくっていうことがやっぱり新しい時代だと思うよ。
−−原盤を手伝った会社が「宣伝しなくていいのか?」って言ったら「宣伝はしないで欲しい」って言われたっていう。すごいですね。
中井:だから、やっぱり作品でしょうね。その作品が「良い」「悪い」は僕らの判断じゃなくてそれを求めてるお客の臨場感と、その作品がピタッと合ったと思うよ。その空気感とかね。だから、政治、文化、経済ってどこかでリンクしてるんだよ。要するに経済の中ではインターネットも含めた違うITが出てきたりしていて、マーケティングそのものが変わっていくと思う。VMCだって、あそこに顧客のデータが集まるわけじゃないですか。そこでライフスタイルの分析したりしてて、マーケティングするようになってきましたよ。だから、そういう風に発想を変えていかないと。とりあえず取材何本入れて、テレビに何本出て、ラジオのゲスト何本入れてみたいなことじゃ、もうレコードは売れないんだよ。そういうマーケティングする商品に関しては、お客はもう興味を持たなくなってきたってことなのよ。今のレコード会社のマーケティングも変わるでしょう。
−−できてると思いますか。
中井:できてるところと、できてないところとあるでしょうね…。それから、これからは権利のあり方もね。レコードは売れなくても著作権はさぁ…JASRACはどうなってるんだか。録音著作権っていうのは、100%に対して6%〜7%が著作権の取り分だけど、著作権そのものの権利はアメリカみたいにサウンドまで著作権として考えたら、レコード価値と著作権価値との比率は1対1ぐらいだよ。そういうバランスに成りつつあるってことだよね。スペースシャワーなんかも、これからは権利関係のとのコミュニケーションで何か新しいモノを作っていったりする可能性は十分あるよね。それはレコードを作るんじゃなくてね。
−−ジャパンライツクリアランスとは関係あるんですか?
中井:あれは直接は関係ないですよ。どうなるかはまだこれからだろうけど、何か方法案はみんな考えてくるよね。だって博報堂のイーライセンスなんか、ラジオ局経由で入ろうとしてるけど、うまくいくかどうかはわかりませんが、好き嫌いもあるからね。だからそういう系列じゃないかな。スペースシャワーは常に二次使用料を常に払う側ですよ。著作権もなにも。だから払う側も、もらう側も、僕は全部著作権産業だって思うんですよ。テレビ局の売り上げだけでも2兆円以上あるわけだし、ゲームやレコード業界や、映画会社も含めると、10兆円超えてる産業なんだからね。
−−中井さんのビジネスターゲットはそこにあるということですか?
中井:そうだね。ターゲットにするような大げさな話じゃないけど、意識してますよ。僕はもう業界という単語じゃなくて、産業としてとらえるべきじゃないかと思う。だって機械とかコンピュータとか作ったってさ、すぐ中国が作るんだから。ユニクロしちゃうんだから。そんなもん作っててもしょうがない。日本はもうやっぱり何かアイディアとか人間にしかできない、コンピュータではできないことをやったほうがいいと思いますよ。
−−そこがキーワードになってるわけですね。
8. 週一ゴルフは仕事と趣味で一石二鳥!?
−−じゃあ最後に少し私生活について伺いたいんですけど…
中井:私生活はだらしないに決まってるじゃない(笑)。
−−ゴルフは週一回ぐらい行かれてるんですか?
中井:週一だね。ぜんぜんうまくないよ。
−−いろんなコースに行ってらっしゃるんですか?
中井:この業界みんな見栄っ張りだから、いいコース持ってるんですよ。いろんなところ行きますよ。東京、大阪、問わず。
−−一緒に回るのが多いお友達はどなたですか?
中井:伊藤忠の篠木さんとか、あと丸さん(丸山茂雄氏:前 (株)ソニー・コンピュータエンタテインメント会長)なんかもそうだよね。あとは大里とか。仕事の関係があるから様々ですよ。コーラの宣伝部長とか松下電器さんとかレコード会社の役員とか…。
−−いいですね、仕事でもあり遊びでもあり…胸を張って仕事と言えないことはないですよね。気をつかって負けたりはしないですよね?
中井:そんなことしないし、あり得ないよ、冗談じゃないよ(笑)
−−ほかにスポーツは、スキューバもやられていたそうで。
中井:昔ね。ゴルフやり出してからやめましたよ。
−−年60回ゴルフやってたら、スキューバ行く暇ないですよね。
中井:ないなぁ…。スキューバもいいんだけどね。宇宙への旅みたいな。でも俺、沖縄で免許取ったから、やっぱりキレイな水でやりたいから伊豆とかだとやる気しないんですよ。 ゴルフだと毎週行けるけど、潜りは毎週行けないもんなぁ、さすがに。「海」っていうのは基本的に好きだから。青春のイメージって僕は海ですよ。白い砂浜があって、そこから先は青々とした海がバーッとあって。あの一瞬大好き。開放感があるんですよ。テクテク歩いてる時はまだ海見えない。石垣を上がってフッと見えるあの瞬間がすごい大好きなんですよ。
−−それは大阪の話ですか?
中井:大学の時ね。
−−大阪の海っていうとどの辺ですか?
中井:僕は日本海。高浜。だからハワイなんか大好きなんだけど…最近はゴルフに行って泳がずに帰ちゃうもんなぁ。
−−ハワイでゴルフ?
中井:うん。死ぬほどやって帰ってくる。
−−それだけハマってるんですね。
中井:いや、今はね、そこまでハマってない。だんだん自分の力量が見えてきて嫌になっちゃって。ね、45インチのドライバーなんだけど、88,000円するんですよ。買おうかな、どうしようかな…。
−−悩む必要ないじゃないですか(笑)。買えばいいじゃないですか。
中井:いやぁ、あのね。僕はずっと仮払い5万の生活なんですよ(笑)。金もたせたらあっという間になくなっちゃうからね。毎週5万円。そういう生活ですよ。
−−でも、単身赴任で、奥さんは離れてるわけですよね。
中井:娘と同居なんですよ。飲み屋の女の子から同伴出勤の電話がかかってきたりするとさ、「お前、電話してくんなよ!」「何で」「いや、娘と一緒なんだよ」「ほんとぉ?」って(笑)。「ほんとだよ!」って言いながらね。娘が出たら具合悪いでしょ。そしたらかみさんがね、「私はいいけどさ、娘にね、そういう印象を与えていいか悪いか、あんた考えなさい」って。
−−あはははは(笑)。娘さんには甘いんですか?
中井:やっぱり甘くなるよね。
−−お嬢さんが2人いらっしゃるそうですが、同居してるのはどちらの娘さんですか?
中井:長女です。めったに行かないけどたまに一緒に買い物に行くとさ、ピンクとグレーのセーターがあって悩んでてね、グレーを買おうとするから「二つ買えばいいじゃない」って言ったのよ。「そんなもったいないことしないわよ」って、俺かみさんと歩いてる気分になるよ(笑)。俺はピンク着せたいのにさ、違う方を買っちゃうんだもん。「これ買え」って言っても「ダメ」って言われて…ままならないよね。
−−やっぱり甘々ですね(笑)
9.スペースシャワーがめざすもの
−−スペースシャワーは最終的にはなにを目標にされてるんですか。
中井:まだわかんないけどね…。僕は音楽を伝えたいから。コンテンツサプライヤーの立場でしょ。エンタテインメントの世界でより多くの人に、楽しさを伝えていくのが仕事だから。でも自分自身が今楽しんでないからね。今はコンテンツサプライヤーじゃないね。
−−たくさん人材を育てられてますから。
中井:だからそう、彼らがね。そういう意味では、今後もっと大きくなってくれればいいかな。そんな感じですね。
−−関連会社も膨らんでいろいろやってらっしゃいますよね。
中井:たたむところもありますよ。常に創って、いいところだけ残して。それで潰して、また新しい何かを創って。人間は限られてるから。失敗したらまた新しいの創るだけですよ。僕はね、お金に執着するんじゃなくて、ただやりたいことをやりたいんです。やりたくないことやるとだいたい失敗するんですよね。やっぱり能力に無理があるんだろうね。やりたいことだけやっていって、多少何か形になっていけばいいんですよね。
−−それがいい形ですよね。ところで上場なさったのはどういうきっかけだったんですか。
中井:あれも成り行きでやらざるを得なかったんですよ。でも、パブリックな会社になってステップアップという気持ちも強かったけど。
−−その時はそれしか選択肢がないんですもんね。
中井:ないですよね。自分がやり始めたことにベストを尽くすしかないじゃない。ガッシャンなったらおしまいだけど、ガッシャンになる寸前までやっぱり頑張るよね。変に頭いいやつは、もしダメになったらって計算しちゃうけど、俺は頭いい方じゃないけど、とにかく結果がでないと気がすまないたちだから。だから昔は「この会社がどういう風に潰れるのかな」と思いましたよ。倒産の体験がないから、どういう風に倒産するのかなって考えた。
−−そこまで考えてたんですね。
中井:そうですね。でもまあなんかうまくいっちゃったけどね。やってることは世の中の流れに反してることじゃないから。うまくいくかどうかは別だけど、VMCもそうですよ。でも今の時代にはこういうのが必要だよね。だから時代に逆行してることじゃないから。ただそれは徹底的にリスクを持って償却かかえて、儲かるまでやる。そういう感じですよ。儲からないと責任を取らなきゃいけないでしょ。
−−でもちゃんと先を見てらっしゃいますよね。
中井:先って言うか、勝手にみんなやりたがるんですよ。もちろん僕も自分が興味のないことはやりませんよ。自分がまったく興味がないとやっぱりうまくいかないですからね。
−−それを考えると大変な重圧の中で毎日を過ごしてらっしゃるってことですよね。
中井:そうね。重圧っていう単語が合ってるのかっていうのはわからないけど、とりあえず楽じゃないよね。
−−そうですよね。こんなに大きい会社になっちゃって。
中井:いやぁ…とにかく、安定させたいと思いますよ。安定っていうのは、ぬるま湯の安定じゃなくて、厳しさに耐えられるような強い会社という意味での安定ですね。そういう会社にしたいと思ってるんです。傍目からみたら大きく見えるかもしれないけど、まだまだ豆腐みたいな会社だから。それがとりあえずの目標ですね。
−−今日はお忙しい中どうもありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
稀代のカリスマ・渡辺晋氏直属の秘蔵っ子として渡辺プロで20年努めあげ、今でも「足下にも及ばないですよ」と語る中井氏。しかし、お話を伺ううちに、現在のスペースシャワーの成功は、ひとえに中井氏の人を魅きつける人柄によるところが大きいのではないかと実感しました。VMCの立ち上げで新たな転機を迎えたスペースシャワーの今後にますます期待が高まります。
さて、中井氏にご紹介いただいたのは、先日取締役に就任した(株)ソニー・ミュージックエンタテインメントCE・盛田昌夫氏です。(株)ソニー本社でキャリアを積み、SMEでも新しい試みに挑戦する盛田氏ですが、ソニー創業者盛田昭夫氏の次男として育った盛田氏は、いったいどんな少年時代を過ごしたのでしょうか。乞うご期待!