第28回 小杉 理宇造 氏
株式会社スマイルカンパニー 代表取締役社長
第28回目「Musicman’sリレー」は、(株)スマイルカンパニー代表取締役社長・小杉理宇造氏の登場です!
不遇のミュージシャン時代を経て、音楽出版社、レコードメーカーで経験を積み、33歳で独立してレコード会社を設立。その後45歳という若さでワーナーミュージック・ジャパンの会長職にまで上りつめた小杉氏。現在は長年のパートナー、山下達郎氏を要するスマイルカンパニーの代表取締役社長として、またジャニーズエンタテインメントの音楽アドバイザーとしてその手腕を発揮しています。 音楽業界でも比類なきサクセスストーリーを生きてきた小杉氏に、自らその半生を語っていただきました。
プロフィール
小杉理宇造(Ryuzo KOSUGI)
株式会社スマイルカンパニー 代表取締役社長
1947年11月10日 東京生まれ。
1973年 (株)日音入社。1975年RCAレコード入社。このとき山下達郎と出会い、デビューアルバムのアメリカレコーディングを実現させる。1982年 独立してアルファムーン(株)を設立。のちにワーナーミュージック・ジャパン傘下となる(現イーストウエスト)。1995年、(株)ワーナーミュージック・ジャパン 代表取締役会長就任。現在はワーナー退任後、(株)スマイルカンパニー代表取締役社長として後進の指導にあたっている。また、KinKi Kidsのデビュープロデュースをはじめとするジャニーズグループの音楽アドバイザーとしても活躍中。
- 挫折の連続…なりゆきまかせの青春時代
- 夢のプロデビュー!しかしノー・クリエイティビティな現実にまたもや挫折
- アメリカの恩人たちとの出会い
- 生の英語を身につけろ!後楽園スタジアムでのバイト体験
- 人生最高の回り道…人脈を広げた日音時代
- 山下達郎との出会い
- RCAのヒットプロデューサー時代…そして独立へ
- 天国と地獄の7年間…アルファムーンの紆余曲折
- 相次ぐ国際的なオファー…40代でワーナーの会長に
- いちばん幸せな瞬間は…仲間の目標達成を見ること!
- 挫折のなかでも夢を見失うなかれ
1. 挫折の連続…なりゆきまかせの青春時代
--まずは生い立ちを簡単に伺いたいんですが。
小杉:1947年11月10日東京生まれです。東京と言っても練馬区だから田舎だけどね。
--音楽業界とは無縁のご家庭だったんですか。
小杉:無縁と言ってもエンタテインメント業界は関係あるかな。親父が映画関係だったからどこかで関係してたんじゃないかと思いますけど。お袋も僕が小さい頃は子役を養成する、今の「劇団ひまわり」みたいなことをやってたらしいんだけど、僕は記憶にはないんですよ。
--ご兄弟は6人ですよね。その中で音楽業界入りなさったのは…
小杉:音楽業界は僕だけですね。
--6人のうち何人目なんですか?
小杉:男・男・女・女・男・女の5人目です。
--バランスいいですね。
小杉:バランスいいでしょ(笑)。それも全部3年に1人なんですよ、妹と一番上の兄貴が18歳違い。
--すごいですね。
小杉:でしょう?でも昔は「貧乏人の子沢山」とかいって1人食うも5人食うも同じって感じで。そういう意味では、精神的には豊かだったよね。教育は普通の公立に行けばいいし、塾の月謝がかかるわけでもないから。そういう普通の家庭ですよ。
--理宇造っていうお名前は本名ですか?
小杉:そう。「理科の宇宙を造る」というような意味で、親父は宇宙科学者になってほしかったんじゃないかな。なにしろスペースクリエイションっていう名前だからね(笑)。
--素晴らしい名前ですね。立派に別のスターをクリエイトなさいましたよね。
小杉:いえいえ。
--どんな少年時代を過ごされたんですか?
小杉:野球大好き、サッカー大好き!もうスポーツ少年ですよ。
--家にこもって音楽聞いたりとかはなかったんですか?
小杉:全然。アウトドアボーイですよ。
--アカデミックな雰囲気だったわけじゃないんですね。
小杉:まったくない。隣にドクターの家があって、そこの息子で僕が一番遊んでもらってた二つか一つ年上の人がラグビー部だったんですよ。僕はすごく運動が得意だったから、ぜひラガーになりなさいと言われてね。そのお兄さんが休みになるとラグビーにつきあってくれたんです。でもラガーになるにはそれなりの学校を選ばないといけない。その家の人はみんな立教なんだけど、俺は普通の区立中学校に行ってたからもちろん立教なんて入れないだろうけどね。でも高校の進路はラグビーをやるために決めたんですよ。花園の常連だった学校といえば保善と専修大学付属。お袋は当然、大学の付属の方がいいから、それで専修大学付属高校に入ったんです。実は僕、サッカーもけっこううまかったから、帝京とか何校からか特待生で引っ張られてたんですよ。
--それはすごいですね。ほんとにスポーツマンだったんですね。
小杉:そう。ぜんぜんイメージなかったでしょ。 それでね、人生って常に誰かの影響を受けるでしょう?僕は影響を受けやすいタイプだったから、そのお兄さんの影響でラグビーをやりに高校に入ったんですよ。そしたらラグビー部は全員坊主だったんですよ!坊主ほど恥ずかしいものはないと思ってたからすごく嫌でね。どうしよう、何のために入ったんだろうって。
--だったらサッカーで学校を選ぶこともできたのに。
小杉:そうですよ。それで坊主にしたことなかったからすごく悩んで、結局サッカー部にしちゃったんです。そしたらそこのサッカー部はめちゃくちゃ弱かった。東京の中でもワーストケースの学校で、1年からレギュラーになっちゃったんです。そうすると男子校だし、ヤキ入れられるんですよ、1年でレギュラーだから。
--レギュラーだったらやられないとかじゃないんですか?
小杉:レギュラーはもっとやられますよ。毎日殴られるんですよ。バカらしいじゃないですか。弱いし夢がないし。で、クラスでたまたま隣に座ってたやつが高校には珍しい管弦楽部にいたんです。彼はクラリネット吹いていて、すごくかっこよくて。それで管弦楽部に入ったんですよ。当時ベンチャーズが流行っていて、ギターがうまい奴がギターを持ってきて、昼休みに弾いてくれるわけよ。それで感動して「バンドつくろうよ」っていう話になって。そのクラリネットの奴がベース、ギターできるヤツもいて、ピアノなんてできるお坊ちゃんはいなかったから、あとドラムが必要だったんです。僕はほんとはサックスをやってみたかったんだけど、譜面をみたらあまりにも難しくて、これは覚えられないなと。ドラムの譜面が一番簡単だったし、ドラムだったらメンバーに入れてくれるっていうから「じゃあ、ドラムでいいや」って、ドラムやったのが高校1年(笑)。
--それが最初の音楽体験ですか。
小杉:そう。15の夏ですね。高校を選んだのは隣のお兄さんの影響で、サッカー部に入ったのは自分の意志だけど、それが嫌になって、音楽部に入ったのは隣の奴の影響。クラスにギターの上手いヤツがいたから、じゃあバンドやってみようかなと。
--かなりいい加減ですねぇ(笑)
小杉:まあそんな感じです(笑)。でもそのうち1年ぐらいでめきめきうまくなっていって、僕も含めて高校時代のメンバー4人のうち3人がプロになった。
--すごいですねぇ。
小杉:うん。あとの2人はテリーズっていうバンドをやってたんですよ。寺内タケシとバニーズだっけ?その弟分でテリーズっていうのがけっこう人気あったんです。僕の場合はジャズ好きの兄貴の影響があって、兄貴も中学の時はハワイアンとかずっとやってたけど、長男だからそういうことを許されなかったんです。お前は三男なんだから好きなことやればいいよ、俺もホントはミュージシャンになりたかったんだって言ってくれて。ただロックでなんか食えないんだからそれはやめてくれ、ジャズプレイヤーとしてプロになるんだったら俺は両親を説得してやるからって。兄貴の中では音楽と言えばジャズなんですよ。それで高校3年の終わりぐらいから本格的にジャズを勉強したんです。だから最初はジャズプレイヤーだったんですよ。当時はクラブしかなかったから、高校出てすぐ新宿のクラブで働いていたんです。
--プロのキャリアはジャズドラマーからだったんですね。
小杉:そうです。でもお袋が嘆いていてなかなかプロとしてやっていくことにOKもらえなくて、1年経ってやっとプロのプレイヤーとしてはじめて給料もらったのかな。
--専修大学付属なのに進学は考えなかったんですか?
小杉:全然。付属高校は進学できることが条件だから、勉強がまったくできなかったわけじゃないから試験さえ受ければいいんですよ。でも僕は1回も受けなかった。それである時にお袋が呼ばれて、先生になぜ試験を受けないんだって聞かれて「俺はプロになるんです。大学なんて行く必要ありません」って言ったらみんなすごくショック受けてましたよ。行かなかったのは僕だけかな。バンドのメンバーは一応みんな親のために進学したんですよ。だけど結局、卒業した奴は一人もいなかった。
--みんな親のためだけに行ったんですね。
小杉:うん。親のために大学に行ったけど授業は出なかった。リードギターの奴なんかは一度も授業に参加しなかったって言ってたな。もっとひどい奴はね、5人目のメンバーになった奴なんだけど、彼は中央大学の付属で、母子家庭で育ったのに、大学の入学金をもらって、払わずにアンプかなんかを買っちゃったのね。それはあまりにもひどいんじゃないかと思うけどね…(笑)。
--自分の息子だったら、やっぱり嫌ですよね。
小杉:嫌だよねぇ。
--小杉さんの場合は行かないんだから、入学金も授業料もかかってないですよね。振り返ってみて、やっぱり行かなくて正解だったって思いますか。
小杉:いや、正解だったっていうのは結果論だよね。当時はそういう風に思わなかった。
2. 夢のプロデビュー!しかしノー・クリエイティビティな現実にまたもや挫折
--どんなプロ生活だったんですか。
小杉:ジャズバンドをやってたんですけど、歌も歌えたからコーラスグループに参加しないかって言われたんですよ。ジャズバンドだと給料2万7000円だったんだけど、コーラスグループに参加したら4万だっていうんです。「なんて楽な商売なんだ」と思ったよね(笑)。しばらくしたら4万5千円になりましたよ。
--当時のサラリーマンの倍ですよね。
小杉:ちょうど倍だよね。でも元々ロックバンドでスターになりたいっていう夢があったんですよ。それで結局CBSソニーからバンドデビューできたんです。バンドを一緒にやってたのが馬飼野さん(作曲家の馬飼野康二氏)。彼がキーボードやってて、僕がドラムで。同じ年ですごく仲良くて。家もすぐ近くに彼が引っ越してきて。僕が詞を書いて彼が曲を書くっていうことを19歳ぐらいの時からずっとやってたんですよ。あれはとても楽しくていい時期でしたね。でも曲を持って行っても当時のディレクターは聞いてくれないんですよ。昔のディレクターはすごい偉くて、面会をするだけでもドキドキするぐらい。そういう時代だったんですよね。デモテープを持っていくと、「なぜバンドマンが曲を作ってきたんだ?」って言われるわけ。当時はミュージシャンとも言わないからね。「お前らは歌ってりゃいいいんだ」って。
--バンドマンの分際で、曲なんか作るなと。
小杉:そう。はっきりね。それで「わかりました。すみません。でも馬飼野君がアレンジをやりたいと言ってるし、彼は譜面も書けるしいろいろできるんで、アレンジをやらせてもらえないでしょうか」って頼んでみたんです。そうすると「プロの素晴らしいアレンジャーがいるのに君たちにやらせるわけにはいかない」「でも僕たちなら演奏もできるし…」「演奏ならCBSグランドオーケストラがある」。…万事がこの調子ですよ。俺たちは何のためにいるんだろうって思いましたよ。
ほんと全部挫折の記録ですよ。ラグビーやりたくて高校入ったのにラグビーやめて、サッカーも三流高校だったからやめて。親の許しが出ないから好きでもないジャズでプロになって、お金のためにコーラスバンドに入って、それから初めてロックバンドみたいなのを組めてデビューして幸せだったのに、その時点でノークリエイティビティだっていう現実に気が付いたんだよね。何のために音楽やってきたんだって。好きなことをやりたくて音楽をやりたくてやってきたのに。それで自分の夢が夢で終わっちゃうということを知って…当時はそういう状況だったから仕方ないんだけどね。バンドマンが曲作るような時代じゃなかったから。
--そうですね。
小杉:未だに覚えてるけど。1月21日がCBSソニーからのレコードの発売日で、発売日に自由が丘の「クインビー」ってキャバレーでデビュー演奏をしたんですよ。ホステスや飲んだくれの客の前でね。なぜ夢のデビューの日にここにいるんだろう…って哀しかったなぁ。。。そういうバンド活動を2年ぐらい続けて、これは意味ないなあと思ってやめたんです。自分たちの曲でもないし、自分たちがやりたい音楽でもなかったから。グループサウンズやロックじゃなくて、ムード歌謡だったんですよ。どうしてムード歌謡なんですかって聞いたことあったけど、あれはショックでしたね。理由が「若い、5人がコーラスできる、譜面が読める。彼ら以外にはないだろう」ってことでね。僕らの意志はまったくなくて、会社が僕らをムード歌謡にするって決めてやっていたんですよ。そういう現実にすごく失望しました。
もしこのバンドがヒットしてたらまた人生変わっただろうけど、かすりもしなかったから、それでやめようということになったんですよ。まあ未練がなかったからけじめもつけやすかったけどね。
それで解散の相談したときに、ほかのメンバーもやっぱり音楽で食っていきたい、この業界に残りたい、ミュージシャンやスターシンガーになりたいって思いがあったんです。でも僕はその時21か22でしたけど、スタッフのなかにミュージシャンを理解してあげる人がいないと、音楽は伝わらないんだっていうことがわかったんですよ。僕らがどんなデモテープ作ったって、聞いてくれなかったら始まらない。それを宣伝したりプロモーションしてくれなかったら売れない、っていうことをミュージシャンのときに気がついたんです。それで僕はスタッフになろうと思ったんです。そう思い立ったときに、僕は高卒だったんで、レコード会社には入れなかった。でも自分の夢を実現するにはどうしたらいいか。それを考えて、今から日本の大学に行くことはできないけど、アメリカに行って学校に行って大学を卒業して英語を話せるようになれば、どこか就職できるんじゃないかって考えたんです。そういう意味ではシンプルな考え方でアメリカに行ったんです。
3. アメリカの恩人たちとの出会い
--アメリカにはどれくらい行ってたんですか。
小杉:1年8ヶ月だったね。
--じゃあ約2年間ニューヨークにいらっしゃったんですか。
小杉:そうですね。マンハッタンにいました。
--留学期間はわりと短いのにその間にあれだけの英語を身につけられるなんてすごいですね。いきなり向こうで覚えたんですか?
小杉:留学前にお金貯めるためにアルバイトしてたんですよ。そのころけっこう勉強したからね。
--いきなり大学だけじゃそこまでいかないですか。
小杉:やっぱりいかないだろうね。
--アメリカでは夜大学に行ってたんですか。
小杉:昼間バイトして夜学校でしたよ。だいたいなんでアメリカに行けたかっていうと、ウチの姉貴がパンアメリカン航空のスチュワーデスだったんですよ。だから通常の10分の1の費用で世界中どこにでも行けたんです。
--家族パスですか。
小杉:そうですね。それに姉貴の友達がニューヨークにもロサンゼルスにもサンフランシスコにもいたから、現地でもいろいろケアしてくれたんです。
--でもたった2年間とは信じられませんよ。
小杉:貧しかったけど楽しかったな。勉強したと言うよりヒッピーみたいなもんでね、アルバイトをやって、アルバムをしょっちゅう買って、ミュージカルを見て、コンサートを見て…そういう意味では有意義だった。向こうで初めて知ったのは「アルバムデビュー」って言葉。アメリカは当時(1970年代初頭)から言ってるんですよね。日本で育った僕にとっては、なんのことかわかりませんでしたよ。だってシングルでデビューして当たらなかったらアルバム作れないだろうって思ってたから。それからライブハウスで知ったのは「新人でも2時間の演奏ができるんだ」っていうこと。僕らは1曲当たらなかったら何もやらせてもらえなかったし、学生時代はオリジナルがなくてカバーばっかりやってたでしょ。「アメリカは実力の国なんだ」ってことを思い知るわけですよ。ヒットがあったからアルバムが作れたんじゃなくて、アルバムを作れる実力があるからコンサートができて、ラッキーな人はシングルヒットに恵まれてビックになる…っていう図式を目の当たりに見たってことかな。やっぱり頭の中で考えるより体験の方が多かったなぁ。
--アメリカの生活で思い出深いことはありますか。
小杉:僕は勉強はあまりできなかったけど、ニューヨークですごくいい出会いをしたんです。当時まだ日本人ってあまりいなかったと思うんですけど、ふたりの建築家と出会ったんですよ。一人はコロンビアの大学院を出て、もう一人は大林組だったかな…後々有名な建築家になるんだけど。
--その人は日本人なんですか?
小杉:二人とも日本人。オッドカップルみたいに一緒のコンドミニマムにフロア違いで住んでいて。一人は高卒の実力者で、もう一人はバイリンガルでコロンビア大学の大学院を出るんだけど、残念ながらレイオフになるとレイオフの対象になっちゃう。二人は同じ年ですごく仲が良くてね。彼らが言ってくれたんですよ、「君は何のためにアメリカに来たんだ?この国は実力の国なんだ。だから高校しか出てなくても実力のある人は主任デザイナーでもトップにでもなれる。大学を出てどんなに勉強ができてもトップになれない人はなれない。これがアメリカだ。まして君が目指しているのはミュージックビジネスだろう?大卒の資格が必要なのか?博士号を持ってたからっていいモノを作れるとは限らないだろう」って。二人がそういうコンビじゃなかったら説得力なかったかもしれないね。「所詮、君たちはコロンビア大学の大学院を出てるんじゃない」ってなっちゃうところを、そうじゃなかった。その二人に説得されたんです。「このままだと大学を卒業できるのは27歳ぐらいになるぞ。勉強見てあげてるけど、君は相当できないじゃないか。27歳になって日本に帰っても就職なんてできないぞ。音楽は感性の仕事なんだから、早く帰った方がいい」って。
--音楽業界じゃない人でも、音楽業界のことわかってるんですね。
小杉:わかってましたね。
--学歴よりも感性の仕事だっていうことを…
小杉:そう。ミュージシャンじゃないけど、建築デザイナーだったからね。
--だいたい小杉さん自身が就職しようと思ってたというのが意外ですね。
小杉:僕は思ってましたよ。当時はそれしか音楽作る方法ないですもん。レコード会社か、あとは日音とかフジパシフィック(音楽出版)とか以外ないですからね。スケールが違いますよ。
--その二人とは今でもつきあいあるんですか?
小杉:もちろん。一人はある大手の会社の副社長になられてるし、もう一人はずっとニューヨーク在住でたぶん有名な設計家になられてるでしょうね。ふたりと巡り会ったことは大きかったですよ。
--そうですよね、彼らに「とにかく日本に帰って実力で勝負しろ」と言われたわけですよね。
小杉:そうです。「約2年つきあってきたけど、君には絶対何か(something else)がある。だから早く帰って就きたい仕事に就きなさい、実力があれば、大学を卒業してようがしてまいが関係ない」って。
--めちゃくちゃ役にたつアドバイスでしたね。恩人ですね。
小杉:ほんとにそうですよ。
--もしそのお二人のその言葉がなかったら…。
小杉:たぶん日本食のレストランか何かやってるんじゃないの。
--居心地よくてそのままニューヨークにいたんでしょうね。
小杉:居心地はよかったですよ、楽しかったからね。
4. 生の英語を身につけろ!後楽園スタジアムでのバイト体験
--帰国されてから、日音に入るきっかけはなんだったんですか。
小杉:アメリカに行く前にミュージシャンをやめて1年間だけアルバイトをやってたんですよ。英語を勉強しようと思って、東京ドームの前の、後楽園スタジアムで外人イベントのボーヤみたいなアルバイトをしていたんです。サーカスとかリオのカーニバルとかハワイアンショーとかね。
--イベントのボーヤですか?
小杉:そう。イベントのボーヤ。そういう仕事だと生の英語を使えるでしょう。それを1年間やってたんです。
--小杉さんの選択はいつも具体的ですね。
小杉:たぶん非常に具体的だと思う。今みたいに電子辞書がないから、1年間辞書を持って外人と話しながら。外人っていっても金髪はみんなアメリカ人だと思ってたからヨーロッパの人もいるんだって初めて知ったけどね(笑)。
--そこでの経験も大きかったでしょうね。
小杉:努力はしてたと思いますよ。だれよりも朝早く行って仕事してたし、半年も経たないうちに招聘関係の書類は全部自分で調べられるようになりましたからね、バイトなのに。
--英語の書類ですか?
小杉:それは日本語ですけど、いろいろややこしいんですよ。外務省や大蔵省、日銀や入国管理局にも行ったりしてね。当時はまだ外貨が自由じゃなかったから、申請とかいろいろあるんですよ。
--聞いてるだけで難しそうですね。
小杉:先輩たちが作ってるそういう書類に興味があって、半年ぐらいで全部自分でできるようになったんですよ。そういうことも楽しかったですね。その時の課長が今の東京ドームのナンバー2なんです。これも何かの縁で、僕をすごくかわいがってくれたんです。なぜかというと社員の人はみんな大卒じゃないですか。だから仕事とは言えキャバレーとか行くの嫌なんですよ。僕はキャバレー育ちだからどうってことない。サーカスなんかをしょっちゅうやってたけど、レギュラーがケガした時のためのスタンバイ要員がいるんですよ。スタンバイもずっと遊ばせておくわけにはいかないから、で、地方のキャバレーに仕事入れて…それについていくのがみんな嫌なんです。まあ実際嫌なんだけど(笑)、そこそこ英語できるし、どう見たって行くのはアルバイトの俺だよなあ、ってことになるんですよ。「課長、僕行きましょうか?」「悪いな、いつも。ありがとう」って。それでよく行かされてましたね。そのうちにフリーターなのに仕事が僕に集中してくるんです。「今日中に許可もらわなかったら座り込んで帰ってくるな!弁当代だけ出してやるから」とか課長に言われて、黒塗りの車で外務省に行ったりとか。・・・めちゃくちゃでしたよ。
--だって、1年前はムードコーラスだったわけですよね。
小杉:そうだよ。
--半年後には黒塗りの車で外務省?
小杉:そう。後楽園だから読売の車で日銀とか外務省に行くわけ。かっこいいでしょ(笑)?
--まだ20歳そこそこですよね。
小杉:22歳ぐらいだったかな。そういう所に行く時は、フリーターとしてではなくて、会社の代表として行くわけだから。
--普通22歳ぐらいの年齢の人間に任せるとは思えないんですけど、相当大人だったってことですよね。
小杉:やっぱり一生懸命やったってことじゃないですかね。かわいがっていただいたとは思いますよ。
後楽園時代はそういう時代で楽しかったですよ。ただ音楽が最終目的だから、ずっといる必要は感じませんでした。ただ今でも当時の上司とはもちろん親交がありますから、それが今のKinKi Kidsのドームカウントダウン3daysとか、あとXが最初に東京ドームでコンサートをやった時も僕がコーディネーションしたんですけど、そういうのにつながってくるんです。
--貴重な人脈をそこでも得たわけですね。
小杉:恵まれてるんですよ。ずっと人に恵まれてたと思いますよ。その時の縁で日音に入れていただいたんです。
5. 人生最高の回り道…人脈を広げた日音時代
--後楽園のバイト時代に恒川(光昭氏。現(株)日音代表取締役社長)さんと知りあったんですか?
小杉:そうです。恒川さんはまだ新入社員だったんですが、当時はベッツィ&クリスとか外人フォークみたいなのが流行ってたでしょう。そういう外人を僕が連れてくるわけですよ。ハワイアンの女の子がデビューするのにくっついて行ったりしてね。村上さん(司氏。現(株)日音代表取締役会長)はまだ課長かなんかで、ピアノ弾いてレッスンさせたりしてました。村上さんは英語も上手だったからね。それを恒川さんと一緒に見てて、「お前はいつもキレイな女の子と一緒にいていいな」なんて言われましたよ(笑)。
その後ニューヨークに行っても、最終目的は音楽業界にいたいっていうことだったから、ミュージシャンでずっと一緒にやってた馬飼野さんにいちばんお世話になりましたね。彼がいろんな所を紹介してくれたんです。
--アメリカから日本に帰るときにはすぐ恒川さんに連絡を取ったんですね。
小杉:恒川さんだけじゃなくて、ずっと何人かには連絡を取ってましたよ。「ニューヨークの音楽業界は今こんな感じです」って話したりして。
--日本の音楽業界に戻った時のためにですか?
小杉:そうです。恒川さんとももちろんコンタクト取ってましたけどね。実際戻る場所の選択肢にはフジテレビやワーナーパイオニアもあったんだけど…テレビは僕のフィールドじゃないと思ってたし、やっぱり日音って当時は一番ヒットが多かったんですよ。ヒットチャートの30〜40%はあったんじゃないかな。それで夏冬以外に3月と9月に特別ボーナスが出てたんですよ。それくらいヒットがガンガン出てた会社だったからね。
--東京音楽祭も盛り上がってた時期ですよね。
小杉:そうだよね。それで日音に入ったんだけど、ちょっと英語が話せたから洋楽管理になっちゃったんですよ。それがまた挫折のショック!日本のロックをやりたいと思ってるのに、洋楽になっちゃって、あれはつらかったなぁ…。
--地味な仕事をコツコツやられてたんですね。
小杉:2年間やりましたよ。
--日音はすんなり入れたんですか?
小杉:もちろん。
--学歴は関係なかったんですね。
小杉:うん。村上さんがそういう人だったんじゃないかな。面接で感性を見て「コイツはいけるか、いけないか」って判断する。ヒット曲を作る人だからそういうのが優れていたんじゃないですか。
--そこで村上さんに出会ったんですね。
小杉:そうですね。それも一つの飛躍したきっかけ。村上さんに教えられたことはすごく多かったですよ。精神的には。
--挫折だったかもしれないですけど、洋楽にいた2年間がのちにとても役に立つわけですよね。
小杉:それがすべてじゃないかなぁ。当時、チャペル音楽出版を日音がやってたでしょう。後々ワーナーチャペルになっちゃいましたけど。だから東京音楽祭があるシーズンだけはアルバイトみたいに季節労働者で東京音楽祭へ出向に行きましたね。一応ローディーは得意だし、英語はしゃべれたし、外国の事とかもわかってたからアメリカ人にすごく気に入られました。それでワーナーブラザーズミュージックに来いって言われたけど、出してもらえませんでしたよ。そりゃそうですよね、新入社員がすぐアメリカに行くような時代じゃなかったから。
--日音でも使い勝手がよくて手放せなかったんじゃないですかね。
小杉:そんなことはないと思いますけど。でもそのワーナーブラザーズの人脈がまた後々生きるんですよ。不思議な縁ですよ。例えば、後に山下達郎の作詞家として頑張ってくれたアラン・オデイは日音時代に知りあったワーナーの人間だったしね。例えばキム・カーンズは最初ニュー・クリスティー・ミンストレルズにいて、それから2人でキム&デイブになって、デビッド・キャシディの前座で来日もしたんですよ。僕はいつも接待要員だったからそういうところで知り合ったりして…。彼らはロサンゼルスに住んでいて、ふたりの最初の子供が生まれた時にはちょうど旦那さんのデイブとお茶を飲んでたんですよ。そうしたら「今電話がかかってきて、これから子供が生まれるからキムのところに行く」なんてことがあったしね。それがあの「ベティ・デイビスの瞳」(1981年グラミー賞受賞)のキム・カーンズなんだから。そういう出会いにはほんとに助けられましたよ。まず2年間日音にいて、それからRCAに行って…そこで日本のロックをやろうと思った時に、桑名(正博)君とか山下(達郎)君と知りあった。
--小杉さんがやりたいことを最初にできたのはRCAに移ってからですか。
小杉:そうですね。
--やっと邦楽の仕事ができるようになったと。
小杉:28歳ですよ。長かったなぁ。
--でも、ものすごく有益な下積みでしたよね。
小杉:下積みが長かったけどね、やっぱりそれなりの思い出もありますよ。ニューヨークにいた時、有馬三恵子さんっていう作詞家の先生が書いてきてくれた手紙に「人生にとって若い時の遠回りは、金で買えない貴重な遠回りになる」って書いてあったんです。当時は「人気作家だからって何言ってるんだ、冗談じゃないよ」って思ってましたけど(笑)、でも後々になって、ああやっぱり有馬先生の言うとおりだったな、ってわかりましたよ。よく日音の村上さんにも「管理たりともクリエイティビティが重要だ」って言われました。今でこそ電子メールの時代になったけど、当時は「増えていく書類の山をどう整理整頓するか」というだけでもクリエイティビティが要求されたわけでしょう。クリエイティビティがある人とない人とでは、整理の仕方が違う。やっぱり当時は反感を持ってましたよ。「村上さんはクリエイティブな仕事をしてるからそう言うんであって、結局俺たちは管理だし、なぐさめるために言ってるんだろうな」って。でもこれもあとで考えるとそのとおりなんですよ。やっぱり先輩たちはいつもすごいことを言ってきたなと思う。RCA時代に日音時代の交友関係はすごく生きましたね。
6. 山下達郎との出会い
--では改めて山下達郎さんとの出会いについて語っていただけますか。
小杉:達郎さんとの出会いは、RCAですね。僕はRCAでロックをやりたいと思ったときに、僕はまだなにもわかってなかったから、まず二人の人間に会いに行ったんです。一人はヴィエントソングスの山本さん(山本久氏。現(株)アミューズ代表取締役)。当時山本さんは四人囃子とかコンディショングリーンとか、伝説のロックバンドを手がけてたんですよね。それからもう一人は今ポリスターにいる牧村さん(憲一氏。現(株)ポリスター専務)。竹内まりやとか山下達郎とか、センチメンタルシティーロマンスとか、そういったいわゆるポップ系を一手にやってた人なんですよね。その2人に会いに行って、山本さんには一つのバンドを紹介してもらって、牧村さんにもあるアーティストを紹介してもらうことになったんです。それで牧村さんと荻窪ロフトのシュガーベイブ解散コンサートに行ったんですよ。山下君を見たのはそれが初めてで、ものすごく感動したんです。牧村さんは他のアーティストを紹介してくれるって言ってくれたんだけど、僕はシュガーベイブを見て、山下達郎はすごい、ぜひやりたいと思ったんです。でも彼はその時もうほとんどソニーと契約決まってたんです。でも正式にはしてないらしい。だったらとにかく本人に会いたい、と伝えてもらって、山下君が吉田美奈子のインタビューのときにRCAに遊びに来てくれたんです。それで二人きりになって「君をやりたいんだけど」って申し出たんです。でも最初はなんか理屈っぽいことをいろいろ言ってたんですよ。でも話しているうちに、ニューヨークレコーディングをやりたいから、そのお膳立てをしてくれたらやってもいいって事になったんですよ。それから自分のフェイバリットプロデューサーは、チャーリー・カレロで、ベーシストはウィル・リーで、ギターは誰、サックスは誰、ドラムは、と全部指定するんです。僕は全然知らなかったけど、これを用意したらやってくれるっていう答案用紙が出てきちゃったんだから、それをすればいいんだ、じゃあ楽だなと思ったんですよ。
それでちゃんとしたオファーリストをもらってRCAニューヨークに電話して、チャーリー・カレロの自宅の電話番号を教えてもらったんです。このときに英語力が少し生きた訳なんですけどね(笑)。かけられた方もびっくりするよね「なんで東京から俺に電話があるんだ」って(笑)。「うちのアーティストがあなたのファンで、プロデュースをしてほしいと言ってる」と言っても相手にされないんだよ。たぶん初めて日本人と話したんじゃないかな。だから1週間以内に僕はニューヨークに行ったんですよ。スケジュールを聞いたら「メディアサウンドでレコーディングしてる」らしいと。スタジオの中には入れてもらえないから外で待っていたら、チャーリーの運転手と話ができたんですよ。「日本から来たのか、すごいなあ。日本のスタッフから電話があったことは聞いてるよ。このあと(カレロ氏が)ヒットファクトリーってスタジオに行くのに15分ぐらいかかるから、車に乗りなよ。車内で話せるだろう」って言ってくれて、それでチャーリー・カレロと面談でききて、ヒットファクトリーに着いたらスタジオにも入れてくれたんです。その日はそれだけ。別の日に電話で話してたら「離婚した息子が土日は自分の所に来る。食事をするから、お前も一緒に来い」って言うんで、ステーキハウスかなんかに行って、そこで話がまとまったんです。息子さんはチャーリー・カレロJr.って言うんだけど、コースターの裏に漢字の当て字で名前を書いてあげたらものすごく喜んでくれたんですよ。日本人と話すのも初めてだったんでしょうね。友達まで連れてきて「僕のも!」なんて大騒ぎになってね。
--まだ小さいんですか?
小杉:まだ小学生でしたね。「学校に行ってみんなに見せる」ってすごく喜んでくれて、それでお父さんもすっかり気分よくなっちゃって…「じゃあ、やろうか」って(笑)。そんなきっかけだったんですよ、山下君と契約できたのは(笑)。
--そのレコーディングをセッティングできたから契約したんですね。
小杉:そう。ただ当時ニューヨーク(でのレコーディング)はあまりにも高すぎたんです。フジパシフィック音楽出版が予算を持っていて、相当な予算をもらってるんだけど、それでもニューヨークで一枚のアルバムを作るのは無理なんですよ。結局4、5,000万ぐらいはかかっちゃったのかな。1枚作るのにね。それでニューヨークでのレコーディングは半分以下の楽曲数にして、あとをどうしようかと考えたんですよ。ロサンジェルスに行けば、僕が日音時代に東京音楽祭とかで知り合ったミュージシャンがたくさんいるからなんとかなるかもしれない。そう考えて山下君に話したんです。「ニューヨークでは予算の都合でできないからロスでやろう」って。そうしたら山下君が「じゃあ小杉さんはロスのどんな方と知り合いなんですか」って言うからジョン・サイター&ジミー・サイターのサイター兄弟、当時タートルズにいたんですけど、彼らと仲良かったんですよ。イクイノックス・ファミリーっていうテリー・メルチャーとかデビッド・キャシディとかをやってた集団がいて、山下君が彼らの大ファンだったんですよ。そいつらを俺はタダで使えるなぁ、ってことになったんです。それでロサンジェルスに行ったんです。僕もそんなすごいとは知らなかったんだけど、友達だったジョン・サイターはラヴィン・スプーンフルとかフィフス・アベニューバンドとか、山下君が好きなバンドの連中をみんな集められちゃうんですよ。山下君はびっくりですよ。すごいって大感動ですよ。僕はもう内心(よかった〜〜、これなら200万ぐらいでできるぞ)ってね(笑)。
--お互いすごいいい話だったんですね。
小杉:両方ハッピーでしたよ。アーティストの希望と予算がぴったり合っちゃったわけだから。それが『CIRCUS TOWN』っていう山下君のデビューアルバムになるんです。
--達郎さんも小杉さんと仕事していけばなにかが絶対ある、って思ったんでしょうね。
小杉:そうですねぇ。彼は絶対に言わないけど、びっくりしたんじゃないの。チャーリー・カレロとできちゃったしね。 僕の方は何かをしたいって具体的に言われる方が楽なんですよ。アルバイト時代に「黒塗りの車を使って良いから、今日中に外務省の許可証を取ってこい。そうじゃないと招聘できないから。取るまで帰ってくるな」って言われると、「ああ、じゃあ取ればいいんだ」って思うでしょう。とにかく座り込みでも何でもやって取ってくればいいんだから。とにかくミッションを与えられるとうまくやるタイプなんでしょうね、僕は。
--最初にシュガーベイブの解散コンサートを見て、そのあと初めて達郎さんにお会いしたときの印象はいかがでしたか。ライブの時と同じでしたか。
小杉:うん、まあ見たまんまですね。いいヤツだなと思いました。一番感じたのは、声がいいと言うことと、すごいインテリジェンスがあるということですね。それはすごい感じました。
--じゃあ今と何ら変わってないんですね。
小杉:そうでしょうね。
7. RCAのヒットプロデューサー時代…そして独立へ
--RCA時代にはほかにもいろいろ手がけられてたでしょうけど、印象深いものはありますか。
小杉:やっぱり桑名正博くんと近藤真彦くん、マッチがいちばんのヒットですよね。
--ジャニー喜多川さんとのおつきあいもその時期からですか。
小杉:そうですね。もともとRCAに入ったときは、まず1年間ロビー和田さんていう人のアシスタントをやってたんです。美樹克彦さんとか、韓国の女の子とか森田健作さんとか…ほかにも売れなかった物も含めていろいろやりましたけど、その中のひとつがジャニーさんのところのグループ(リトル・ギャング)だったんです。サラリーマンだからやれって言われたことはちゃんとやってましたよ。それでアシスタントを1年やってから、好きなことをやっていい、ってことになったんです。そのときにロビーさんはいいこと言ってくれたんです。「もうアシスタントじゃないんだからお前も好きなことやれよ。ただし、お前は俺たち二人には適わないよ」って(笑)。二人っていうのは当時演歌で藤圭子さんとかをやってた榎本襄さんと、和田アキ子さんとか西城秀樹さんとかシモンズとかのポップス系をずっとやってたロビーさんのことですよ。そう言われるとやる気出ちゃうよね(笑)。まあでも僕は別に演歌をやるつもりもなかったし、ポップスもアイドル歌謡はやりたくなかったから、初めから日本のロックをやりたかったんで、そう主張しました。会社には反対されましたけど(笑)。「日本のロックなんてありっこないだろう、何言ってるんだ」ってボロクソに言われましたよ(笑)。専務に呼ばれて諭されたんです。「日本のロックをやると言うけど、それは不毛の地であって、ありえないだろう。それよりスター誕生に行って、プロダクションからタレントを紹介してもらいなさい。そんなにロックがやりたいならフォークをやりなさい」って。僕ね、フォークは演歌と通じるものがあってあんまり好きになれないんですよ(笑)。でもサラリーマンだからそんなこと言えないし、まだアシスタント上がりのぺーぺーだしね。それで僕はまだ28か29だったけど、こう言ったんですよ。「でも専務、うちの会社は弱小でいつも赤字だと言われてますけど、人に勝てると言うことは、誰もやってないことに成功したときに勝てるんだと思います。たしかにフォークをやっても勝てるとは思うけど、それなら今成功している会社よりも予算を増やして、人数を増やすことが既存の会社に勝てる条件なんだと思います」
--そんな経営の根幹に関わることを専務に言ったんですか(笑)。
小杉:そう(笑)。「バカヤロウッ!うちにそんな金があるか!」って言われましたよ、当たり前ですけど。それでね、「お金がなくて他に勝とうと思うなら、まだ見ぬ土地に行かなければだめだと思います。それが僕が言っている日本のロックなんです」と、こう言ったんです。それでなんとなくわかってもらえましてね。あいつの言うことは間違ってないし、どうせたいしてヒットも出てないんだから3年やらせてみてダメだったらクビにすればいいだろう、っていうことでやらせてもらえることになったんです。そしたら2年目ぐらいからヒットが出始めたんですよね。その時の専務とはずっと親交がありますよ。
--それで小杉さんの発言権もグッと増したんでしょうね。 達郎さんはいきなり売れたんですか。
小杉:いや、『CIRCUS TOWN』(1976年)は全然売れなかったよ。3万位しかいかなかったんじゃないかな。売れたのは『RIDE ON TIME』(1980年)からですよ。僕が手がけて最初にヒットしたのはその前の桑名正博君の「セクシャルバイオレットNo.1」(1979年)で1位とれたんですよ。当時はアルバム10万なんて絶対売れない時代でしたからね。だれも10万なんて売れなかった、25年前は。
--そうやってRCAで7年間やって来られて、そのあとご自分でレコード会社(アルファムーン(株))を作られたわけですよね。あれは業界内でもけっこう衝撃でしたよ。思い切りがいいですよね。
小杉:アルファムーン(株)ね。実はね、僕は高卒だったからサラリーマン生活のほうが幸せでしたよ。給料ずっともらえてたでしょう。本当のプロデューサーはクレジットももらえるんだろうけど、サラリーマンだったからクレジットもされてないし、それでいいやと思って。だからほんとはサラリーマンずっとやりたかったですよ。独立しようなんて全然思わなかった。
--それがどうして会社を辞めちゃったんですか。
小杉:どうしてなんだろう…今考えると、上司と喧嘩したからじゃないかなぁ(笑)。
--そんな理由なんですか(笑)。
小杉:うん、だって僕は辞める気なかったし、生意気だけど自分は役員にもなれると思ってたもん(笑)。すごいじゃない、売れなかった高卒のミュージシャンが会社の役員になれちゃうんだよ?当時はまだ課長でもなかったけど、なれると思っちゃってたんだよね、真面目だしちゃんと仕事してるしヒットも作ってるし上司の受けもいいし社長も可愛がってくれたから。まさか自分がやめるなんて考えもしなかった。
--じゃあどうして(笑)。
小杉:うーん、まあくだらないことなんだけどね、要するに会社がうまくいってないときにね、 上司は会社の批判をするわけですよ。自分たちが批判されるべきなのに、経営陣と従業員の批判をするわけです。それをよせばいいのに僕が問題提起をしてしまったんですね。この会社が良くないのはあなた達の問題で、従業員の問題じゃない。従業員はあなた達が変えることができるんだから、って。まあヒットプロデューサーになってたからおごりもあったんでしょうね。その行き違いで喧嘩になって、社長もその喧嘩を聞きつけて、社員全員が知っちゃうんですよ。大喧嘩したっていうのをね。
--当時の社長っていうのはどなたですか。
小杉:奥野さんです。奥野さんはけっこう可愛がってくださってたんですけど、社長室に呼ばれたんです。「喧嘩しちゃったらしいね」って。それで諫めるのかと思ったら逆なんだよ(笑)。「素晴らしいよ。今あの何人かを変えることができるのは君なんだよ、私たちは君の味方だから大いにやりなさい」って言うわけよ。「おいちょっと待ってくれよ、それって社長の仕事じゃないの?」って思うでしょ?俺の仕事じゃないじゃん!って。
そういうこともあったし、あとね、喧嘩してしばらくたって、どうも小杉さんが辞めるらしいって話が出ていたときに、当時の僕の部下たちがうちに来たんですよ。僕はもうやめて他のもっと給料のいいレコード会社に行こうと思ってたんですよ、引っ張ってくれているところもあったからね。なのに4人ぐらいのスタッフが来て、「いっしょに辞めましょう」って言うんですよ。僕の部下だったスタッフっていうのは、ノンキャリアが多かったんです。最初にレコード会社に入って疑問だったのは、プロダクションやミュージシャンは土日も働いているのに、どうしてレコード会社の人達は働かないんだろう、これじゃ同じ目線で仕事ができないなって感じたので、その後僕が採用するようなスタッフはみんなアルバイトだったけど、そういう条件の人ばかりだったんですよ。コンサートの時なんかは土日も出られるか、いっしょにツアーに出られるか、深夜でも働けるか、それならいっしょに働こうって。だからノンキャリアが多かったんです。一人だけキャリアがいて、「自分は夢を持って入ってきた。この会社で夢を与えてくれた上司はあなただけだった。その上司が去るんだったらこの会社にいる必然性はまったくない。僕らは夢にかけてこの音楽業界に入ったんだし、リーダーはやっぱり必要なんです」って非常にロジックに語るわけですよ、いちばん若いのにね。だから、やるんだったら、みんないっしょに新しいものを作りたいって言われて、仕様がないなあ、やってみるか!ってことになったんです。 だから計画的に辞めたわけでも何でもないんですよ。
--いちディレクターがいきなりレコード会社を設立って、かなりインパクトありましたよ。
小杉:あっただろうねぇ……まあたいしたレコード会社じゃないけどね。
8. 天国と地獄の7年間…アルファムーンの紆余曲折
小杉:これも時効だからいいと思うんだけど、RCAをやめるときにね、フジサンケイグループの羽佐間さん(重彰氏)に呼ばれたんですよ。当時ポニーキャニオンの社長だったんですけど、けっこう可愛がっていただいていたので…料亭か何かに呼び出されたんですよ。「やめるという話を聞いたんだけど…やめるのか」「はい」「近藤真彦はどうするんだ」「いや、僕は達郎にも声をかけていません。僕がやめるのであって、タレントを連れて行くことは全く考えてません」と答えたんです。そしたら羽佐間さんが「ジャニーさんやメリーさんは近藤真彦をお前に預けたのであって、RCAに預けた訳じゃないんだ。だからお前がやめたらやめるだろう。でも、今ミリオンヒットをだしているタレントが移籍なんて前代未聞だぞ、ルール違反もいいとこだ。そんな業界のルールをねじ曲げるようなことをするつもりなら俺が容赦しないぞ。お前の会社が甘くても、俺はお前をとことんやっつけるからな」って言われたんですよ。もっともな話ですよね。「じゃあ山下達郎はどうするんだ」「達郎も連れて行く気はありません」「バカ野郎!山下はお前が必要なんだよ!お前には山下が必要なんだ。なんだお前、味噌もクソも一緒に考えやがって、そのくらいちゃんと考えろ!」って言われて「わかりました」って。そしたら手をぽんぽん叩いて「ほら、メシ、メシ!」って食事が出てきて…へえ〜料亭ってこうなってるんだ〜ってね。
--じゃあ辞めてから本当にレコード会社を立ち上げるまでの経緯はどんな感じだったんですか。
小杉:ほんとに大事件ですよね。山下達郎も移籍になるわけだし。 そうですよね、スタッフも何十人も連れて来ちゃったわけだし。
--だいたいそんな若い人がレコード会社作るって言うイメージもなかったですよ。前代未聞の若さでしょ。
小杉:そうだよね、当時33歳だったからね。
--資金とかどうしたんですか。
小杉:資金はアルファレコードの村井さん(当時アルファレコード(株)代表取締役社長 村井邦彦氏)とヤナセの会長(柳瀬次郎氏)に支援していただいたんです。
僕はアルファレコードに憧れがあったんですよ。僕が当時から憧れていたのは大メジャーではなくてアルファとかキティ、フォーライフやポリスターだったんですよ。プロダクションも兼任できるような会社ね。そういう自分のテイストを一番よく理解してくれそうなのが村井さんだったんです。それでご相談したら快く応じてくれて…村井さんもぜひやろうと言ってくださいまして…でも僕は若いから社長はやりたくないんだけど、決裁権は僕にあるっていうね。村井さんが社長で僕が専務。実際は僕が常勤で村井さんは非常勤という形だったんです。だから独立したときには村井さんにいちばん多くのことを教えていただきましたね。
--そうだったんですか。
小杉:それでアルファムーンを7年やって…なんでやめたかっていうと、これもまた人なんですよ。それはね、最初にRCAから僕と一緒に辞めてきてくれた人がどんどん辞めて行っちゃったんです。それはたぶん僕が理由なんですよ。柳瀬さんたちに言われてきたことは、インフレ人事をしてはいけないと。友達や共同創立者のような形で始めたかも知れないけど、幸か不幸か、人間には個人で能力の差もあるわけだし、そういうメンタルな部分でポジションをあたえたりすることは経営者としてはよくない。でもそれは柳瀬さんみたいな何千人も従業員を抱えている人とは勝手が違ったんだろうけど、どうしても柳瀬さんたちと接触する機会が多くなって、自分のところでいっしょにスタートしたスタッフに役員をほとんど与えなかったんですよ。僕一人がどんどん有名になって、僕の経済も良くなっていって、一緒に独立した人達は僕のそのやり方に失望したんだと思います。当時は僕はそのことをうまく説明できなかったんだけど、まず僕が最初にやって、次に2番目、3番目がいる。川を渡るときに全員が一緒には行けないんだって思っていたんだけど、渡りきるまでのお互いの意志の疎通がうまくいかなかったんでしょうね。どんどん辞めていったんですよ。もう地獄ですよ。会社の経営が悪くなってやめたんじゃなくて、会社はどんどん良くなっていったのに、最初にいたスタッフはほとんどやめましたね。
--精神的にはすごくショックだったでしょうね。
小杉:すっごく疲れましたよ。
9. 相次ぐ国際的なオファー…40代でワーナーの会長に
小杉:それで精神的にぼろぼろで失意の底にあった時に、ニューヨークに呼ばれたんですよ。もう亡くなったRCAのルディ・ガースナー氏が会いたいと言ってくれたんです。「RCAの歴史を紐解くと、一人会っておかなければならない男がいる」って言われたらしくてね。それでBMGという新しい会社を設立することを聞いたんです。そして「RCAに戻る気はあるか。もう会社は用意してあるから、もう一度メジャーレーベルの新しいトップになる気はあるか」と言われたんです。
すごい話だなーと思いましたよ。どうやら候補になっているのは僕だけじゃなくて、佐藤修さんも候補にあがっていたんですね。「佐藤さんはずっとメジャーをやってきて、その役にふさわしいけど、君はメジャーでもたいして役職はやってなくて、ヒットプロデューサーから独立して、インディペンデントをうまくやっていただけだから、その君がまたメジャーのトップとしてやれるのかどうかこちらも判断しかねている。が、その前に君がこの話に興味があるかどうかを聞きたい」というんですよ。僕は「興味ない」って答えましたけどね。でも二日間いっしょにいていろいろ話をして、ナイスなドイツ人でしたよ。それからロサンジェルスによって、エイブ・サマーっていう弁護士に会ったんです。もう旧知の仲だから、「どうだったBMGは?なにをオファーされたんだい?」っていうからその話をしたら、「実は MCAが会いたがっている。MCAジャパンを作るつもりで、お前が中心になって作るべきだと俺は思ってすすめているから、会ってくれ」っていうんですよ。でもMCAって僕はカントリーのレーベルだと思っていたから、自分のなかでは(ダサイな〜〜)と思って、断ったんです(笑)。会わなかった。それで日本に帰ってきたら、ワーナーのキース・ブルースとラモン・ロペスが会いたいっていう話になって、これもワーナーとジョイントしないかって話だったんです。
--は〜〜すごいですね。そんなに国際的に小杉さんの名前がとどろいちゃったのはなにか理由があるんでしょうかね。
小杉:いや、まあタイミングでしょうけどね。僕はこう思いましたよ。捨てる神あれば拾う神ありだなって。日本の仲間にこんなに失望感を与えた僕が、アメリカ人には結構人気あるんだなーって。じゃあそれでいいんだ。生意気にも3つから選ばせていただける余裕があるなら、それは絶対ワーナーだなって。
--3つから選んだ結果だったんですか…
小杉:自分の会社を売る、売らないはまた別だけどね。
--小杉さんがご自分で海外のレーベルに顔を売っていたのならまだわかるけど、自分では特になにもしてないのにそうやってオファーがきちゃうっていうのはそれだけ名が轟いていたってことですよね。アルファムーンだって国内レーベルなんだし。
小杉:そうですねぇ。自分では何にもやってないからねぇ。たぶん日音時代のコンタクトがあったってことと、あとはなんだろなぁ。僕もわかんないけど、村井さんがロスで一番仲良かったエイブ・サマーっていうその弁護士かも知れないね。音楽業界で知られた敏腕弁護士だったから。
--彼がよく話題にしてたんでしょうね。クリエイティブとマネージメントの両方の才能があると。
小杉:うん。英語もしゃべれるし、なかなかいいぞ。会社もコンパクトだし、買っちゃえ!ってどっかのお茶のみ話で話したんじゃないのかなぁ。
--傘下に入るって事は会社を売るってことですものね。
小杉:僕はさ、会社ごと買ってくれたりするんだってことも知らなかったからさ。僕は会社がいつかはつぶれるんじゃないかってずっと心配してたんだから。村井さんを見てたからね。これは悪い意味じゃなくて僕にとって、村井さんと多賀さん(多賀英典氏。キティレコード創立社長)の二人はヒーローなんですよ。そのヒーローが会社を無くすんだから、僕なんか失くしてしまうに決まってるって。だから無理な拡大をせずに慎重にやってきたんです。自分の好きなことしかやらずにね。達郎とかまりや、AB’sや44マグナムなんかのロック路線しかやらなかった。フォークやアイドルはやらなかったし、それらは自分のメイジャーじゃないからやる必要ないと思ってたんですよ。売上を増やしたくてやったわけじゃないし、生意気だけど自分たちの理念のためにやっていただけだからね。だけど絶対いつかつぶれるだろうと思ってた。僕のヒーローたちが同じように苦しんでいるのを見てきたんだから。そんな時に会社を買ってくれるっていう話があるなんて…つぶれなくて済むんだ…すごいなぁ、って思いましたよ。
--そういう心境だったんですね。
小杉:社員に言われましたよ。そんな会社の一部になったらもう入社できなくなっちゃいますよって(笑)。喜んでましたよ(笑)。
--超メジャーですからねぇ。
小杉:従業員も株主もアーティストも喜んでた。みんなが喜ぶ選択って言うのがあるんだなって思いましたよ。
--それぐらい劇的な出来事でしたよね。具体的にはアルファムーンがワーナーの傘下になってMMGになったということですよね。
小杉:そうです。MMGはワーナーの第二会社だからね。今のイーストウエストですね。
--そしてついに、ワーナーミュージック・ジャパンの会長になられたわけですよねぇ。これも劇的でした。当時はおいくつだったんですか。
小杉:…45歳だったね。
--もともとワーナー傘下のMMGの社長だったのが、イーストウエストになって統合されて、親会社の会長になったわけですよね。
小杉:そうだね。
--古くからワーナーに在籍していた50代60代のベテランの経営陣が数多くいるなかで、そのトップとなってリーダーシップを発揮しなくちゃいけないわけですよね。
小杉:そうだよねぇ。折田さん(折田育三氏。元(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長。のちにポリドール(株)代表取締役社長などを歴任、現ユニバーサル・ミュージック(株)相談役)もいらっしゃったわけですからねぇ。
--そのなかでの大役というのは精神的にいかがでしたか。
小杉:まあ終わってしまえばどうってことないかもしれなけど、今考えると当時はやっぱり相当精神的な大変さはあったんだろうね。会社は株主のものだから、株主のニーズに合わないといけないでしょう。僕はアーティスト出身の経営者だから、アーティストのメンタリティを理解しない経営者にはなりたくないというところから始まっているわけでしょう。その狭間に立つことがものすごい疲れましたね。売上は上げなければいけない、アーティストのアイデンティティも守っていかなければならないし、できれば従業員も幸せにしてあげたいし。でもとどのつまり会社の所有者は株主だし、株主の目標はマーケットシェアとかプロフィットとかになるわけじゃない。それらをシェイカーにかけていくと、微妙な味になっていくんだよね。自分が最高のバーテンダーでいられたら楽しかったんだろうけど、力量不足もあったからね。こっちを立てればあっちが…ってバランスを取るのがね…。
ワーナーにお世話になったのは7年半なんだけど、そのあいだに時代の変遷はすごく感じましたよ。最初にワーナーに入ったときは、生粋の「ミュージックマン」たちがほんとに多くて、国際会議に行っても音楽の話をみんなでするんですよ。当たり前だけど、そういうことがとても新鮮でよかった。どんなレコードを聞いてるのか、フェイバリット・アーティストは、最近見たコンサートは、っていう感じにね。ほかにも映画や絵の話をするのが日常茶飯事だったんですよ。いわゆるエグゼクティブたちの会話がね。
--それはワーナーの伝統かもしれないですね。
小杉:うん、ほんとうに素晴らしかった。アーメット・アーティガンを筆頭に、そういう巨人たちと会えたことは、僕の人生の財産になりましたね。それは普通では体験できない体験をさせてもらったと思いますよ。それが、その後の変遷でアーメットをのぞいた全員が去ってしまって、アジアでは僕がいちばん古くなってしまった。どうしてこんなに変わっちゃうんだろうって、どんどん変わっていく様を肌で感じました。それはいい悪いじゃなくて、時代は変わるもんで、しょうがないんだけど。だからそのうち、「僕もここにはいないほうがいいのかな」って思うようになったんです。数字の会議がすごく多くなってきたからね。
--ミュージックマンが去ったあとですよね。
小杉:うん、去ったというかクビになったんですよね。
--音楽業界にも不況の陰が忍び寄ってきて…アメリカの資本がガラッと変わったわけですよね。
小杉:そうですね、合併や買収の話、上場や株価の話…昔はビルボードの話題がメインだったのに、後半はウォールストリートジャーナルがメインだったからね。それは善し悪しじゃなくて、会社の論理が変わっていった時期で、それはだれも止めることができない。そういう状況で自分は果たして必要なのかどうかっていうのを考えましたよ。僕はそういうことには不適格な人間だと思うから。たたき上げ中のたたき上げなわけだから、だったら博士号を持っているハーバードビジネススクールを出た人の方がいいんじゃない、って。
--でもいちばんいい時代の最後に行くところまで行ったとも言えますよね。40代でそこまで行ったわけですよね。
小杉:そうだよね。まあ欧米では40代の会長なんてごろごろいるけどね。
--日本ではごく希ですものね。
小杉:確かに画期的だったけどね。
--会長をやってた何年間は楽しかったですか。それとも責任のほうが重くてつらかったですか。
小杉:今考えると最初は楽しかったんじゃないかな。有頂天でね。途中で責任を果たさなきゃいけない重さをひしひしと感じたけど…
--途中で「こんな事ならそのままMMGの社長だけやってればよかったな」とか思いましたか?
小杉:それは初めから思ってたね。そのほうがいいとは思ってたよ。MMGは70人ぐらいの社員で130億くらいの売上があったんだから。世界のワーナーのなかでもっともプロフィットの高い会社って言われてたんですよ。でも振り返って悪い思い出っていうのはとくにないですよ。
10. いちばん幸せな瞬間は…仲間の目標達成を見ること!
小杉:僕は今54歳だけど、これまでの自分の足跡をふりかるとね、ひとつのことを長くやらないっていうのは自分の性だと思うんですよ。ミュージシャンが4年、アメリカが2年、日音が2年、RCAが6年、アルファムーンが7年弱、ワーナーが7年。7年っていうのが僕にとってマキシマムなんですよ、きっと。
--リタイアしようと考えたことはおありですか。
小杉:うーん、リタイアはしたいと思ってましたよ。でも日本の場合は政府がリタイアメント政策をちゃんと考えてないから、日本人は死ぬまで働け、という政策でここまで来ちゃってるからね。物価も高いし、税金も高いし、年金で暮らしていけるような国じゃないでしょ。欧米は文明がもっと進んでるから、若くしてリタイアすることも可能なんだろうけど、日本はそういうシステムを作ってこなかったから、なかなかリタイアできないよね。
--まあそうは仰られても、僕らからすれば小杉さんは生粋のミュージックマンだから、たとえリタイアしたとしても血が騒いで、プロデューサーのような形で制作現場に関わっていくんだろうなと思いますけどね。
小杉:ワーナーを続けていくかどうかの決断の一つは健康上の理由なんですよ。当時「黄班円孔(おうはんえんこう)」っていう病気にかかってしまって、右目が失明するかしないかのところまでいってたんですよ。
--そうだったんですか。それはやはりストレスから来たものなんでしょうか。
小杉:うーん、珍しい病気だから、なぜそういうことになるのか原因は究明されてないらしいんだけど、大学病院曰く、二つの理由が考えられると。この病気にかかった多くの人は、45歳から50歳の間に激務の人で、環境の変化や老化がいちばんの原因らしいですね。二番目の原因はやっぱりストレスだそうです。ただこれらの因果関係について学会で証明された訳じゃないんですけどね。目に穴があいてものがゆがんで見えちゃうんです。気持ち悪いですよ。まっすぐの1本線がS字に見えちゃうんです。
--怖くて車も運転できませんね。
小杉:ええ、できませんでしたよ。
--見た目には老化と全く縁がないような若さを保ってらっしゃるのにね。
小杉:目はそんな状態だったんですよ。
--表には出してなくても、目に見えないいろんなストレスがあったんでしょうね。
小杉:それはみんなに言われますよ。僕は感じてなかったけど。
--だってなんでも仕事自体楽しいわけではないでしょう。
小杉:僕にはないですよ、仕事は仕事だから。目標を達成することが仕事の目的だし、リーダーになればなるほど、責任は重いし。目標を達成すればほめられるけど、失敗すれば失望されるし。仕事が楽しいのは目標が達成できたから楽しいんであって、達成感でしょう。ワールドカップだって、優勝できたから笑顔なんであって、優勝できなかった人は割り切るしかないわけでしょう。しょうがない、って。レコードは作れたら嬉しいんじゃなくて、みんなヒットしたいんだから。ヒットしたら今度は100万枚、と次々に目標が出てくるでしょう。それを全部クリアーした人が楽しいんですよね。
僕はたまたま45歳で会長になっちゃったから、みんなより進み方が早いんですよ。10年ぐらい早いかもしれないね。でもさ、どこまで上り詰めても、最後はみんなクビ切られるわけでしょう。俺も最後はそうなるんだな、って思いましたよ。成果があがらなかったときには必要とされないんだから。
--厳しいですよね。
小杉:もちろんミュージシャンにも、みんなそれぞれ成果はあるでしょう。それはたいへんだったと思いますよ。だから会長だったから大変だったとか、そういうことじゃなくて…それぞれの与えられた役職においての成果を得るために仕事しているわけだから。仕事とはそういうものでしょう。
--現在はそういう公的な企業から解放されて、いわゆる個人カンパニーをやってらっしゃいますよね。それはやっぱり以前よりはやりやすい状況にあるんでしょうか。
小杉:確かにラクはラクだよね。予算がないし、お洒落としてのネクタイができる。普段はTシャツでいられるし。手術後経過が良好だからもう自分で車も運転できるし。
--運転はお好きなんですか。
小杉:いや、嫌い(笑)。でも手術後好きになりました。できなくなるときがあったから、やっぱりできると嬉しいよね。
今はスマイルカンパニーで、達郎さん、まりやさんを中心にやっているでしょう。生意気だけど、自分が一緒に過ごしてきた時間が多い人達が幸せになるにはどうしたらいいか、仕事は成果を上げなくちゃ幸せにはならないから、いっしょにやってきた仲間たちが成果をあげるのを見たいんです。僕はもう充分成果をいただいたから。
もう一つはジャニーズグループのスーパーバイザーみたいなことをやってるけど、僕はジャニーさん、メリーさんという人間が大好きで、この人たちが僕を必要としている限りはお役にたちたい、ただそれだけです。だから目標はもうふたつしかない。達郎、まりやが続ける限りは手助けしたいということ、ジャニーさんメリーさんに必要とされる間はお手伝いしたい、このふたつなんです。
--これから新しいレーベルを立ち上げたり、新会社を作ったりするような動きはないんでしょうか。
小杉:ないですね。そういうことはやりたいとは思うけど、僕自身が直接はやりたくない。仲間たちがそうやって成功するのが見たい。今スマイルにいるスタッフやジャニーズエンタテインメントにいるスタッフが新しいヒットを作っていくことはすごく見たいですね。もう僕はいいです。
--もう充分なんですね(笑)。ミュージシャンになろうと思って音楽業界を目指したときから一応行くところまでは行ったということですね。
小杉:いや、できすぎでしょう。人生こんなにできちゃまずいんじゃないの、ってぐらいできすぎですよ。
--ご自身ではそれなりの達成感を持って、今は別の次元から他の仲間をサポートしていきたいと。
小杉:精神的には引退しているようなもんですよ。肉体的にはそうじゃないけど。最近はジャニーズの音楽関係のニーズが高まるに連れて自分の経験と知識を生かせるんだったら、後進の指導のために何かしたいと思うし、昔は「勝たなければいけない」ということがあったけど、今はもっと側面的に見ているよね。具体的に言うとスマイルのスタッフが一日も早く新人を育成して、ヒットを作るのを見るのがうれしい。それからスマイルの女優部門では最近売れてる子も出てきてるから、そういう子たちをやってるスタッフを見ると嬉しい。
--それはかつての自分を見ると言うことですよね。
小杉:そうですね。だってそういうのを見るとほんとに幸せだから。達成感が生まれれば生まれるほど、みんな幸せになれると思うけど、それを見てるのがいちばん幸せだね。自分が達成した満足感より、人が達成して喜んでいる笑顔を見る方が嬉しいですよ。自分の喜びはもういいですよ。
--すごい境地に達してるわけですね。
小杉:だってビル・ゲイツになれるわけじゃないし、これは批判ではなくて、上場会社を作りたかったわけでもないからね。ただロックをやりたかっただけだから。
この前ロサンジェルスであるエージェントの人とアメリカのエージェントの日本版を作るかどうかって話になったんですよ。どういう話かというと、7年前に野茂英雄が渡米したときに、今のイチローが出てくるなんてだれが予想しただろうか。だれも予想しなかったでしょう。そういうことなんですよね。今やメジャーリーガーに日本人は当たり前だし、ハリウッドでもこのあと必ず出てくるよね。でもいちばん最初にやったヤツがいちばん偉いですよ。野茂はパイオニアで、イチローはヒーロー。だからミュージックアーティストもそのうち必ずパイオニアが出てくるだろうし、ヒーローも出てくると思う。そうすればロスでももっと日本人を呼べるようなエンタテインメントのエリアが形成されれば嬉しいね、っていう話をしてたんです。でもそれを「おまえがやるか?」って聞かれたらそれは俺じゃないなって思うんです(笑)。僕は飽きっぽいから、それは次の世代の仕事だよね。
11. 挫折のなかでも夢を見失うなかれ
--じゃあ最後にプライベートな質問を少し。オフはどのように過ごされてますか。
小杉:……テレビ見てるかなぁ…(笑)。あとは趣味は旅行ね。お洒落な趣味は海外旅行。仕事を半分利用して半分遊びに行くときもあるかな。海外旅行は家族で行くことが多いね。
--どちらに行かれるんですか。
小杉:ニューヨーク、ロサンジェルス、最も多いのはハワイかな。
--お子さんは何人いらっしゃるんですか。
小杉:二人です。上の息子はミュージシャンで、あと娘がいます。
--息子さんはどんなことなさってるんですか。
小杉:一応cannaというグループをやってるんですよ。ソニーでレコードだしていて、チャートには入るんだけどブレイクはしてないね。
--小杉さんがプロデュースとかは…
小杉:俺はしてないけどね。息子がミュージシャンになりたいって言ったときはね、厳しい仕事だから、ぜひトライしろと言いましたよ。若いうちしかできないからね。自分のやりたいことをやれと。
--当然親は反対しないでしょうねぇ(笑)。わりとこの世代の業界人のジュニアミュージシャン多いですよね。
小杉:幸せだと思いますよ。親を嫌っていたら同じ仕事したいとは思わないだろうから。息子にはよく言うんだけど、「お前はすべて俺を超えている。ヒットチャートに入っているし、ソングライターとしても仕事しているし、印税生活者なんだからすごいんだぞ。ただそう甘い世界じゃないからな」って。あと娘は今16歳でカリフォルニアに高校留学してる。もちろん自分の意志でなんだけど、まあ僕の影響も多少あるのかもしれませんね。
僕が家族との対話の仲でいちばん大切だと思ってよく言っていることは、何を着たいとか、どこの学校に行きたいとか、そういうことは自分の判断と自分の決断ですべて決めなさいと。これも外人と接するなかで教わったことなんだけどね。ただし親として選択肢を用意してあげることはできる。留学先としてもロンドンやカリフォルニア、ニューヨーク、どこもいいところだよ、そして行かせてみて、さあどこがいちばんよかった?じゃあそこにしよう、っていう風にね。娘もインターネットでいろんな高校を検索して調べて、どこの高校に留学しようか相談されましたよ。親としてはカリフォルニアにいてほしいけどね、オレゴンとか行かれちゃったら会いに行くの大変だからね(笑)。できればハワイにしてほしいけど(笑)それじゃあドラッグにはまるとヤバイ。結局カリフォルニアに行ったんだけど。
--心の中では「第2の宇多田ヒカルになれよ」とか思ってたりして(笑)。
小杉:(笑)いやー、あれはさあ、もう天賦の才能だからね。ジーニアスだよ。あれはしょうがないよ。
--なったらなったで大変でしょうしね。じゃあ海とかスキーとかそういうスポーツはなさらないんですか。
小杉:全然ないね。ゴルフもほとんどしないよ。一番楽しかったのは、4年前にフランスへ行って、ワールドカップを5試合見たこと。あれは楽しかったな。
--今年もサッカーはばっちりチェックしてましたか。
小杉:いやー、盛り上がったよ。ロシア戦は行ったんだよ。サッカーそのものがすごく好きっていうんじゃなくて、日本で盛り上がるワールドカップっていうのが楽しかったんだろうね。フランスでもパリにいて地下鉄に乗ったりお茶飲んだりブティックにいったり、そういう合わせ技もあるじゃない。ドイツもだから行くつもりですよ。そのほかの合わせ技が楽しめるから。
--お気に入りの街はありますか。
小杉:一番好きなのはローマかな。でも今はパリかもしれない。やっぱりヨーロッパが好きですね。
--なぜでしょう。
小杉:やっぱりお洒落だからかなぁ。
--フランス語やイタリア語は?
小杉:全然できないです(笑)。
--じゃあ最後に音楽業界全体へメッセージをいただけますか。
小杉:僕はね、挫折の歴史だったけど、挫折のなかで夢を失っちゃいけないと思うんです。自分ができなかったことでも次の代ができるかもしれない。それを見る楽しさもひとつの夢だよね。それをみんながわからないと、後輩たちが育たないと思うんですよ。実際僕は僕のところで働いていた人達が成功していくのを見るのがとっても楽しいし。なぜならばミュージシャンとして不遇な時代に生まれて、それは会社じゃなくて時代が悪かったんですよ。アルファムーンもワーナーの中でイーストウエストとして生き続けているけど、でもエイベックスやトイズファクトリーの成功を見るとすごく嬉しいですよ。
それから願わくばインターナショナル・スピリッツを失わないでほしい。僕は今のメジャーレーベルが今後どうなっていくのか、その行方を見守っていくのが楽しみなんですよ。ミュージックスピリッツとビジネススピリッツの台頭というか…なんて言うんだろう、ミュージックビジネスなのか、ビジネスなのか、ミュージックだけなのか。僕らの時代は両方なければ行けなかった時代だったけど、どうやらそれが今は分かれて存在しているようだなと思うんです。もちろん結末はないんだけど、あと10年、自分のなかでの結末を見届けたいんですね。メジャーが今後も台頭していくのかどうかね。だって日本みたいにインディペンデントが乱立してる国はないでしょう。欧米はたいてい全部5メジャー(EMI/UNIVERSAL/BMG/WARNER/SONY)ですよ。
--インディーズが出てきても全部メジャーに取り込まれてしまいますからね。日本はエイベックス、トイズを始めとしていろいろありますからね。
小杉:そうでしょう。そういった意味ではビクターだってそうだし、キングもコロムビアもまだそうじゃないですか。5メジャーVSインディペンデントレーベルのシェアを調べたことはないけど、日本はインディペンデントの割合が高いんじゃないかな。だからそういう日本で今後音楽業界がどうなっていくのか見たいですね。
--そうですね。まだまだ現役でのご活躍を期待しております。今日はどうもありがとうございました。(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
「挫折のなかでも夢を諦めないこと」という小杉氏の言葉は、音楽業界にとどまらず、夢の実現を目指すすべての人々に訴えかけています。口で言うのはたやすいことですが、常に前向きに具体的な選択を続けて夢を実現してきた小杉氏だからこそ、実感を伴って聞く人の胸に響くことでしょう。
次回の「Musicman’sリレー」は、そんな小杉氏の夢の実現に大きな影響を与えた一人、(株)日音 代表取締役 恒川光昭氏の登場です。日本を代表する音楽出版社、日音の創生期から日本の歌謡史を見つめてきた恒川氏。どうかご期待下さい。