第29回 恒川光昭 氏
株式会社日音 代表取締役社長 兼 COO
第29回目のMusicman’sリレーは、(株)日音代表取締役社長、恒川光昭氏の登場です。今や日本を代表する音楽出版社、日音が音楽出版業務を始めたころに入社し、日音が放ったヒットほぼすべての制作に携わってきた恒川氏。「いちばんいい時代を経験できた」と自ら語る恒川氏は、まさに日本の歌謡史を見つめ続けてきた生き証人とも言えるでしょう。運命の出会いとも言える村上司氏との出会いや、スタッフ一丸となって作り上げたC-C-Bの大ヒットなど、日音ヒットの舞台裏を伺うことができました。さらに大の犬好きでもある氏の「世界一の愛犬」、レオン君の素顔も本邦初公開!!
プロフィール
恒川光昭(Mitsuaki TSUNEKAWA)
株式会社日音 代表取締役社長 兼 COO
1944年7月27日 横浜生まれ。
1967年 (株)日音入社。
1983年6月同社取締役制作部長、1989年6月常務取締役就任。1992年、同社専務取締役就任。1995年12月(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長就任。1999年7月(株)日音 取締役副社長就任。2001年6月、同社代表取締役社長就任、現在にいたる。
1.モダンな母とベースの思い出…初めて触れたアメリカ文化
−−ご出身はどちらなんですか?
恒川:生まれは横浜なんです。横浜の間門という所で、今はマイカルとかできてニュータウンになってますけど当時はあの辺りにはベース(米軍基地)がありましてね。
−−折田さん(折田育造氏:元ポリドール(株)代表取締役社長、現ユニバーサル・ミュージック(株)相談役)にも伺いました。
恒川:ああ、折ちゃんも子供の頃はあの辺ウロウロしてたんじゃないかな(笑)。
間門は母親の実家なんですよ。でも戦時中で港が近かったから空襲でやられるようになったんで、疎開して、終戦後に戻ったのは杉並区の荻窪です。父親が荻窪の家を見つけて引っ越したんだと思いますけど…4歳だったかなぁ。それからずっと荻窪育ちで、横浜っ子とは言えないですね。小学校、中学校、高校、大学卒業して、日音に入って、しばらくするまではずっと荻窪でした。
−−そもそもどういうお子さんだったんですか?スポーツマンだったとか悪ガキだったとか…。
恒川:子供のころはね、夏は母親の実家の間門にずっと行ってたんですよ。僕は今でも色黒だけど、その頃はもう真っ黒けで、目がグリグリしてて、それでベースの辺りをウロウロしてますとね、8〜9才ぐらいだったけど僕は小さかったから、進駐軍とのかわいそうな混血児に見えたらしいんですよ(笑)。ベースの大きいゲートがあって、今の三渓園の入り口あたりなんだけど、その入り口の所に行くと、衛兵じゃなくて、日本人の門衛みたいのが立っていて、僕を見るとかわいそうな顔をするんですよね(笑)。
−−ははは(笑)
恒川:ゲートを入ってちょうど正面にカマボコ兵舎が並んでいて、そのうちのひときわデカイ兵舎の中から「ゴロゴロゴロゴローッドカーンッ」っていう音がするんですよ。何だろう?って不思議だったんですよね。
−−ボーリングですか?
恒川:そう!すごいな、よくわかりましたね。普通はこの話してもわかりませんよ。それで、あれは何の音だろう、見たいなと思ってのぞいてると、かわいそうな子だからいいんじゃないか?ってなって、「OK」って通してくれたんですよ。それでドアの隙間から見ると、板張りの床で向こうのほうにピンが並んでてね、Tシャツ着た兵隊が大きな黒い球を投げると、向こうにあるピンがドーンって倒れる。「なんだこれは?!」って思いましたよ。それでくびれた黒い瓶をラッパ飲みしてるんですよ。「みんなが飲んでるあの黒いのは何だろう?」って思いましたね。コカコーラですよね(笑)。僕はボーリングとコカコーラの存在を知ったのは早いんじゃないですかね。まあ実際体験するのはずっと後なんだけれども、ちょっと普通の子になかったような体験はありますね。だからって洒落たアメリカナイズされた何かをその頃から持ってたってことはまるでなかったけど。そういう場所に母親の実家があったことと、それから母は長女で、弟の一人が医者で、ベースの中の病院でインターンやってたんですよ。そのおかげでハーシーのココアとかチョコレートとかが母の実家にはありました。「Give me a chocolate.」って言わなくてもそういうものを口にすることはできたんですよね。
ちょっと話飛んじゃうんだけどね、「ハーシーのチョコレートをその頃食べたんだ」っていう話をしたらね、長戸大幸さん(現(株)ビーイング代表取締役社長)がね、「恒川さん、それはやっぱり都会の男だよ」て言うんですよ。「俺は近江にいて上京してからハーシーを食った。やっぱりこの差だなぁ」なんて言ってましたけどね。それぐらいレアな体験だったんでしょうね。それとアメリカの音楽がしょっちゅう鳴ってましたね。
−−ベースの中はフリーパスだったんですか?
恒川:いえいえ。そうではないですよ。覗きに行くのはボーリングの所だけでした。
−−かわいそうだから入れてもらえたんですね。
恒川:そうそう(笑)。それと叔父が医者をやってたんで、ベースの中からSP盤を持ってきたりとか、食べ物持ってきたりっていうことはありましたね。
−−聞くところによると、お母さんがクラシックソプラノをやられていたそうですね。
恒川:そうです、よくご存じですね。母は音楽家を目指してたんですが、戦争で挫折して、結婚したんで音楽家にはなれなかったんですが、歌は続けてましたね。今はやってませんけど、40年ぐらい前は、母親コーラスで活躍していました。
−−そういう音楽的環境があったとはいえ、子供時代から音楽業界に行こうという考えがあったわけじゃないですよね。
恒川:まったくなかったですね。また話が荻窪のころになりますけど、母親はそういう夢を持ってオラトリオとか賛美歌とかの音楽をやっていたようで家に教会のオルガンがあったんですよ。土曜日だったかなぁ、私と妹と母親と3人で強制的に賛美歌を歌わされてました。日曜日は教会に行くんですよ。「来い」って言われて1円玉を持って行くんですよ。まあ私はあんまり行かなかったですけどね。でも、そういったことが音楽と接することだったのかもしれませんね。
−−ずいぶんハイカラなお母さんですよね。終戦直後のことですもんね。
恒川:そうでしょうね。やっぱり当時はモダンだったんじゃないですかね。母は戦前は東芝にいたんですよ。当時の芝浦電機で、秘書課で英文タイプをやっていて芝浦電機の合唱団でソプラノをやってたんです。また話が枝葉になっちゃうんだけど、ここでテノールをやっていた男性が、後々わかったんだけど、ドリーミュージックの社長の新田さん(新田和長氏)の父上だったんです。
−−すごい偶然ですね(笑)。
恒川:あとで仰天しましたよ。二人で仕事しながら「どうもあなたのお父さんとうちのお袋は知り合いらしい」っていう話になって。そんな縁もあったりして。面白いもんですね。
−−子供の頃は将来何になりたかったんですか。
恒川:僕は音楽よりも運動が好きだったので、小学校の時から野球は毎日のようにやってましたし。
−−野球少年ですか?
恒川:野球少年のこんこんちきですよ。妹はその分、小さい時からピアノをやらされたりしてたようですけど。
−−妹さんは渡辺プロでデビューなさってたんですよね。
恒川:そうなんですよ(笑)。ほんとに驚いちゃうよね。
−−何ていう名前で活躍されてたんですか。
恒川:なんとなく言うのも恥ずかしいんだけども、最初にデビューした時はね…。昔、スクールメイツってあったの知ってます?
−−はい、もちろん知ってます。
恒川:昔は森進一もいたんですよ。最初はそのメンバーだったんです。そこからピックアップされた4人の女の子グループ「ザ・スカーレット」になって、ピーナッツさんとか、(伊東)ゆかりさんとか、中尾ミエさんとかのバックコーラスをやったりしてたんです。すぎやま(こういち)先生がやっていた『ザ・ヒットパレード』にデビュー曲で出していただいたりね。それで実はね、その当時のマネージャーが稲垣さん(稲垣博司氏:現(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長)なんですよ(笑)。
−−え〜っ?(笑)そうなんですか!
恒川:最高でしょ?(笑)。笑っちゃいますよね。
−−妹の元マネージャーですか。
恒川:そう。僕が日音で彼が渡辺プロの時に初めて会ったんですけどね。「ああ、なるほどな」と思いました。ウチの妹が「稲垣さんはほんとにいい男なのよ。ハンサムなの」って言ってたから、なるほどなって(笑)。
−−じゃあお会いしたときはもうあの稲垣さんだって知ってらっしゃったんですね。不思議ですね。
恒川:そう、不思議ですよね。そういう縁がほんとにね。
2. 印刷営業から日音へ…村上司氏との運命の出会い
−−大学は何学部だったんですか?
恒川:商学部です。
−−この業界にはどんなきっかけで入られたんですか。
恒川:叔父が印刷会社をやってたんですが、レコード会社との仕事がとても多い会社だったんです。
−−ジャケットの印刷とかですか?
恒川:ジャケットはやってなかったけどカタログとかね。
−−何ていう名前の印刷会社ですか?
恒川:ご存じないとは思いますけど、三和印刷っていう会社です。一番大きな取引先はキングレコードでしたね。父親と母親が早くに離婚したものですから、母親がずっとそこで金庫番をやっていた関係で、高校時代からそこでアルバイトしてたんです。押し掛けアルバイトですね。それで給料を野球部の部費の足しにしたりとかしてました。それであるとき叔父に「アルバイトじゃなくて将来役に立つような姿勢で取り組め」と言われたんですよ。
−−後を継ぐつもりで本気で仕事しろと。
恒川:そうです。それで昼間はそこに勤めて、夜は商学部の二部に通ってたんですよ。仕事終わって学校に行くっていう…真面目ですよね、勤労学生だからね。でもやっぱりその仕事が好きになれなくてね。パンフレットを作ったりレイアウトをしたりすることは嫌いじゃないんだけど、その仕事を後を継いでやっていく気にはなれなかったんですよ。当時、妹は渡辺プロのオーディションを受けて、いつの間にかテレビに出てましたしね…。やっぱり音楽は好きだったし、子供の頃から軍歌も好きだったんですよ。
−−軍歌ですか?
恒川:そうなんですよ。妙な奴でね。子供が歌うって珍しいんだろうけども「異国の丘」とか「ああモンテンルパの夜はふけて」とか「暁に祈る」とか、いろいろあるじゃないですか。ああいう軍歌も知ってましたし、もちろん日本の歌謡曲なんかも今でも歌えるし、あの頃の歌ってほとんど歌えましたよ。学校でそういう歌を歌うと先生は嫌がるんだけど(笑)、先生が喜ぶ歌もちゃんと歌えたし。やっぱり歌うまかったんですよ。賛美歌歌ってたからかなぁ。声変わりしてからも声が高い音域まで出たりしたんで、何でもこいみたいな感じでしたね。
−−やっぱり音楽の素質があったんですね。
恒川:当時アメリカの音楽なんかもラジオでばんばん流れていたし、友達でエレキバンドやる連中もいましたしね。僕はバンドには入らなかったんですけど、よくくっついて学生のインチキパーティー風な所にも出入りしてました。その時の仲間が、今(株)ジャパン・ミュージックエンターテイメント代表の藤岡さん(隆氏)ですよ。
でもほんとに音楽業界を目指そうと思ったのは、人との出会いですよね。印刷会社で仕事をしてるときにキングレコードさんに年がら年中行って、キングレコードの方がある人を紹介してくれたんですよ。すごいカッコよかった。スカジーのBタイプって知ってます?
−−もちろん、わかります。スカイライン2000GTのことですよね。
恒川:そうそう、あの当時スカジーのBタイプに乗ってるなんていうのは大変なことですよね。それで音羽のキングレコードから、赤坂の溜池まで乗っけてきてもらって。「何やってるんだ?」って話したんですよ。「昼はこの仕事をしてて、夜は学校に行って、夜中は友達とバーテンとコックやってます」って。「やけに欲張りだなお前は」って言われましたよ。欲張りかどうかはわからないけど、自分が何をやりたいのかわかんないから客商売もやってたんですね。若いから元気いいから夜中の3時まで働いたって平気でしたね。…その人がかっこよく見えたから半ばいいかげんな気持ちだったかもしれないけど(笑)「音楽の仕事に携わりたいんです」って話したんです。そしたら「ともかく仕事あげるから会社においでよ」って言われて。今のコロムビアの近くの音楽出版社なんですよね。
−−その人はどなただったんですか。
恒川:その人はね、今はもう業界にはいないし、知ってる方はほとんどいないと思います。そこに仕事をもらいに行ったら、ギターを弾いて曲を作ったり歌ったりしてる人がいるし。…ヘンリーって知ってます?シンガーソングライターのハシリですよ。その人が来たりしてカッコいいなと思ったりして。それで何回か行ってるうちにそこの社長の方が「ほんとにそういう仕事がしたいなら、俺の親友が音楽出版社にいる。優秀だし、たぶんそいつは将来社長になると思うよ。彼がアシスタントを捜しているから、卒業したらもしかしたら雇ってもらえるかもしれない。とにかく一度紹介してあげるけど、でも半端じゃなく厳しいよ」って言ってくれたんです。でも僕は楽天的で、「大丈夫ですよ〜」とか言ってたんですよ(笑)。
−−はははは(笑)
恒川:ほんといいかげんなんですよ。カッコばっかりつけてたし。まあそれで紹介してもらったのが村上(司氏:現(株)日音 代表取締役会長)ですよね。たしかに第一印象は怖そうだなって思いましたね。当時の日音は「日本音楽出版」て社名だったんだけど、「ウチからも仕事あげるから来なさい」って言われてちょっとしたチラシを作らせてもらったりしてました。
−−印刷屋さんとして行ってたんですか?
恒川:そう。最初はね。まだ在学中だったから。夏のめちゃくちゃ暑い時でしたね。それで何回か会って飲んだりして。僕も飲んべえだったし、向こうはもっと飲んべえだから(笑)。それで「卒業したらどうするんだ?」「実はこういう仕事をしたいんです」って話したんですよ。でもどこまで本気で思ってたか自分でもわからないんですけどね。とにかくひとえに「この会社を継ぐのは嫌だ」というのがあったから(笑)。
−−確実に継ぐことが決まってたんですか?
恒川:そう。そういうストーリーができてたんですよ。いとこが小さかったのでそれが後を継ぐまでかなりあるから、とりあえずそれまではってことでね。だから村上さんには「ともかく頑張りますからよろしくお願いします」って、これしか言うことなかったですよ。それで晴れて卒業と同時に日本音楽出版に入社することができたんです。
−−日本音楽出版だから日音になったんですね。
恒川:そうです。「また逢う日まで」の頃は日本音楽出版なんですよ。あれが大ヒットして、日音創立8周年のイベントをやった時に、通称「日音」だったので日音っていう社名に変更したんです。きっかけは「また逢う日まで」と「雨がやんだら」の大ヒットかな。
−−その頃も日音はある程度大きかったんですよね。
恒川:いやあ、小さかったですよ。
−−今では日音でスタッフ募集したら何千人が応募してくると思うんですけども、当時は知り合いの紹介で入れる規模だったんですか?
恒川:まだそういう規模ですよね。当時は本の出版もやってたから、その社員が半分ぐらいいたかな。今やってるようなオリジナル楽曲の原盤制作等の仕事は村上が一人でやってましたから。
−−村上さんが始められたんですか?
恒川:そうです。村上が始めたんですよね実は。そこに私が入ったんです。オリジナル楽曲をNo.1から台帳に打ち込んでいくのがまず仕事でしたけど、僕が入った時はまだ一ケタでしたからね。日音のオリジナル曲にはTBSの鈴木道明さんっていう泣く子も黙るTBSの歌の番組のプロデューサーがいらしたんですが、作詞作曲もなさっていて、その大先生の担当は別だったんです。鈴木道明さん以外のオリジナルを村上がやっていたんですね。このオリジナル楽曲の2番か3番目が猪俣公章さんで、何番目かが筒美京平さんですよ。筒美京平さんには初めはすぎやまこういちさんの名前で作った「黄色いレモン」っていう曲があるんです。「♪黄色いレモンに涙がこぼれ〜」っていう歌ね…知らないでしょ?やっとここ最近になってすぎやまこういちさんの名前から「筒美京平」に変えたんです。
−−当時は自分の名前を伏せてたんですか?
恒川:そうです。筒美さんはまだポリドールの社員だったから名前は使えないっていうんで、すぎやまこういちさんの名前でやっていて、その直後に筒美さんがポリドールを辞めたので筒美さんの名前で出したんですよ。その時は村上と私の二人しかいなかったから、ほんとになんでもやってましたよ。できないとクビになっちゃうし(笑)。
−−でも村上さんは頼りにしてたんでしょうね。
恒川:いやぁどうだろう?こいつ調子はいいけどほんとの所はどうなんだろうって思ってたんじゃないかな。入社に当たっては厳しいテーマを与えられてましたから。「人の3倍仕事をしろ」って。
−−でも学生時代から人の3倍働いてたでしょう。
恒川:たしかにそうだけど、それはどこかいいかげんなところもあったからね。今度は本気で人の3倍やらなくちゃいけない。「3年で覚えるところを1年で、3ヶ月で覚えるところを1ヶ月で、3日で覚えるところを1日で覚えろ。二度と言わないぞ」と言われてましたから、何度クビって言われたかわからないですよ。
−−クビって言われたことあるんですか。
恒川:言われてましたよ。最初は入社前に言われましたからね、あまりにもいいかげんだから(笑)。
3. 歌謡曲全盛の黄金期…日音ヒットの舞台裏
−−恒川さんは入社した時からほぼ日音一筋ですよね。
恒川:そうですね。入社から辞めるまで29年と8ヶ月。それで日音を辞めてワーナーに行ってまた戻って、それで丸3年経つから、日音での勤務は足すと33年になりますね。
−−まさに日本歌謡史の生き証人というか、まっただ中にずっといらっしゃるってことですよね。
恒川:まっただ中であるかどうかは何ともわからないけど、たぶん一番よかった時代を経験してるんでしょうね。。
−−そうですよね。
恒川:日音だけではなくて音楽業界がガーッと変わる時だったと思うんですよ。どう変わったかっていうと、すぎやまこういちさんや橋本淳さんや筒美京平さんだけではなくて、フリーのポピュラー作家がどっと出てきて、グループサウンズから始まってヒットをどんどん作り出した時代ですよね。
−−歌謡曲が変わった時代ですよね。
恒川:そうですよね。その時代をつぶさに見ることができたし、アシスタントとして一緒に仕事をさせていただいた。ほんとに使い走りで譜面を取りに行ったり資料をもらいに行ったりするところからやってましたから。後々自分が制作担当するようになっても、レコード会社の先輩、作家の方達、プロダクションの方達、いずれにしてもみんなが先生でしたね。そういう恩恵を被ったのは日本の音楽業界のなかでも何人もいないんじゃないかと思ってるぐらいラッキーだったと思いますよ。
−−素晴らしい時代だったんですね。
恒川:自分の体験的にもそうですしそう思ってるんだけど、やっぱり成功体験が一番の教科書だと思うんですよ。これは僕自身の経験でもそう思いますけど、失敗から学ぶことよりも成功したことから学ぶことの方が圧倒的に多いし、後々に役立つのは成功体験ですよね。私が日音に入った頃は村上も本当に苦労してやってました。レコード会社に曲を売り込みに行っても相手にされないし、雑誌社に譜面を載せてもらうために持って行っても「なんで歌本にあれだけ載ってるのにウチは載せてもらえないんだろう」っていうぐらいに悔しい思いもしました。それが入社して2年3年ぐらいで「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか大ヒットがバンバン出てきて「また逢う日まで」につながるわけです。それからはもう成功体験ばかりでしたからね。
−−うらやましい話ですね。
恒川:当時はありがたいことに何でもやらなきゃいけなかったからね(笑)。
−−全業界に顔を出して人脈ができたわけですね。
恒川:そうそう。朝一番で「おはようございます!」って作家の家にすっ飛んで行って…「お前かー」ってとても優しくしてくれたのが、なかにし礼さんだったり…そういう毎日のことだけでもとても勉強になりましたよ。でも今はファックスやEメールでしょ?だからそういう機会がなくなっちゃいましたね。
−−タイミングのいい時代を目の当たりに体験されて、なおかつそこで偉くもなり、最高ですね。
恒川:ほんとにラッキーですよね。
−−最初に手がけられたヒットはなんですか?
恒川:自分の初のヒットはね、とてもラッキーなヒットなんですよ。村上から言われてレコード会社の先輩達の所にちょろちょろ行くわけですよ。「また来たのかお前。うっとうしい。シッシッ!」「そう言わずにスタジオにちょっと入れてくださいよ」って行くわけですよ。そうすると聞かれちゃうと困るから「ダメだ」って入れてもらえないでしょう。そこを「入れてくださいよ」って出前のラーメン屋と一緒に入ったりとかして(笑)。
−−ほんとですか?(笑)
恒川:ほんとほんと。そういうことをいっぱいしましたけど、そのうちの一つで、ビクターの深井さんっていう先輩が「こういうのはタイミングだよな。これからスタジオだからおいで」って言ってくれたんです。それでスタジオ行ったら学生がいるわけですよ。それがソルティ・シュガーで、「走れコウタロー」だったんですよ。「これオモシロイですね」「やりたい?」「やらせてください」って言ったら「いいよ。じゃあ著作権、日音でやりなさい。がんばってくれよな」「がんばります!!」ということになって。彼らと一緒に走り回りましたよ。
−−自分が中心になって走り回ったんですか?
恒川:そうそう。マネージャーも学生だったからね。TBSの中を彼らと一緒に走り回ったり。最後はレコード大賞新人賞でしたよ。
−−いきなりすごいですよね。
恒川:ほんといきなりですよ。これはうれしかったですね。
−−タイミングがよかったんですね。
恒川:タイミングも大事ですからね。タイミングの悪い奴っていうのはほんとにいますからね。そういうのに限って会いたくない時に来るんですよね(笑)。後々になってそういうことがわかりましたよ。
−−はははは(笑)。でもいきなりヒットしてしまえばこっちのもんですからね。
恒川:それはだから自分が手がけたということにはならないかもしれないけどね。
−−運も実力のうちですよ。ほかにはどんな作品をなさってたんですか。
恒川:日音のヒットが出はじめた時にはアシスタントしてましたからね。「ブルー・ライト・ヨコハマ」「愛の奇跡」「また逢う日まで」「雨がやんだら」…そのへんは経験してたはずですね。
−−昔のヒットっていうのはレコード会社が作っていたと思うんですが、これらの日音のヒットは出版社が制作してヒットさせるっていう方法を切り開いたってことになるんでしょうね。
恒川:そうですね。まああくまで当社の場合はってことですね。もうその当時は音楽出版社のエキスパートであるシンコーミュージックさん(当時は新興音楽出版社)の企画制作でヒットが沢山ありましたし、フジパシフィックもありましたし。日音はそのちょっと後ぐらいになりますね。ほんとに日音がアーティストを育てて独自の企画でレコーディングをやって原盤を作って大ヒットしたのは「また逢う日まで」の尾崎紀世彦ですね。あとは朝丘雪路、坂本スミ子。それからその直後に、郷ひろみ、南沙織、西城秀樹ですね。
−−歌謡曲の全盛期ですね。
恒川:ほんとにいい時代でした。
−−その制作のすべての舞台裏を知ってらっしゃるわけですよね。恒川さんが本をお書きになったら、それがそのまま日本の歌謡史ですよ。
恒川:いや、それほど面白い本を書けるわけじゃないと思いますけどね(笑)。
4.筒美京平、安井かずみ、南沙織…日音での貴重な出会い
−−筒美京平さんとの出会いはいつなんですか。
恒川:僕が入社したときにはもう村上と仕事していたみたいで、ときどき曲を持って会社に来るんですよ。なんか小さい人がいつの間にかすうっと来て、社内テーブルで書き直ししてたのを覚えてますよ。それが筒美京平さんだったんですけどね。向こうは向こうで、とんでもなく人相の悪い奴が村上さんのアシスタントになったと思ってたみたいですね(笑)。だってほとんど僕の顔を見ないんですよ。「これ村上さんに渡しといてね」って言って。まあガラが悪く見えたんでしょうね。ガラは元々よくないですけどね(笑)。
−−筒美京平さんご自身はあまりお顔が知られていませんよね。
恒川:そうですね。「また逢う日まで」でレコード大賞を取った時も京平さんは逃げちゃったかな。取材も受けないし、テレビに出るのもとても嫌がっていたので。そのシーズンになるとTBSに頼まれました。「今年の(レコード大賞の)作曲賞はまた筒美京平だから頼むな」って。要するに騙して連れてこいってことなんですよ。
−−そうやって連れ出したことがあるんですか?
恒川:あります(笑)。そしたら作曲賞を取った時に授賞式でバーンと僕まで映ってしまって「なんで恒川まで一緒なんだ」ってTBSから怒られました。「だって僕が腕を放すと逃げちゃいますよ」って言いましたよ(笑)。ほんとに嫌みたいですね。最近は前ほど嫌がってないようですが、やはり好んで出る方じゃないでしょうね。
−−京平さんの弟さんの渡辺氏(渡辺忠孝氏:現(株)ワーナーミュージック・ジャパンチーフプロデューサー。「ター坊」の愛称で知られる)ともお友達でいらっしゃるそうですが……京平さんに紹介されたんですか?
恒川:違うんですよ。ター坊は当時、同じ関連会社のTBSミュージックっていう会社にいたんです。TBSミュージックはBGMの会社で日音と関係があって、まあ同じグループっていうこともあってよく来てたんですよ。見るからに変な奴だなと思ってね。間もなく筒美京平さんの弟だっていうこともわかって。生意気だし自分はセンスある奴だと思ってるし、最初は嫌な奴だと思ってたけど、お互いに酒飲みだったんで、飲みに行ったり何回か会っているうちに、実像はなかなかいい奴で。それからは毎晩のように二人で飲んでましたよ。二人の有り金を合わせて「よし、これならボトル1本空けられるぞ」みたいなことがありましたね。ふたりで酔っぱらって僕の荻窪の家に帰って泊まって、朝一緒に会社に行くなんてことやってましたよ。
−−はははは(笑)。ほんとに仲いいんですね。でも別々に知り合ったのにご兄弟と縁があったなんて不思議ですね。
恒川:ほんとにそうですね。
−−他に印象的なエピソードはありますか?例えば安井かずみさんとはどのようなおつきあいだったんでしょうか。。
恒川:浅田美代子の「赤い風船」ですね。ご存じのように「時間ですよ」っていうドラマで久世プロデューサーがオーディションをして、浅田美代子が選ばれて。ドラマの中でうたう歌を作ることになりました。美代子ちゃんはほんとに下手でね(笑)、童謡しか歌えない感じだったんですよ。それでたぶん「新しい童謡を作ろう」ということであの曲ができたんです。久世プロデューサーと京平さんは童謡が大好きだったしね。童謡を書ける作詞家っていうと 安井かずみさんしか頭になかったので、どうしても安井かずみさんに書いてもらいたかったんです。でも当時 安井かずみさんは渡辺プロのお抱えっていうイメージがあって…ガードがものすごく固くてとてもアプローチできないんです。
−−でも一応フリーだったんですよね。
恒川:そう。フリーなんだけどフリーじゃないみたいなね。
−−見えないバリアがあったんですね。
恒川:そうそう。だからどうやって安井さんにコンタクトしたか覚えてないんだけど、とにかく安井さんに会ってお願いしたんです。
−−空港で捕まえたって聞きましたけど(笑)。
恒川:それはね、契約書(笑)。契約書にサインもらおうと思って待ってたんです。実は「安井さんは日音とは契約できない」という噂が流れて、安井さんに電話したら「とんでもない。そんなことないから、ちゃんとやるから心配しないで」と言われたんだけど、でも心配でね。それで羽田空港に契約書を持って行って待ってたというエピソードがあるんです(笑)。まあそれでなんとか書いていただいたんですよ。
−−恒川さんは日音のオリジナル作品のすべてに関わっておられるんですよね。ほかに印象的なお仕事はありますか?
恒川:C-C-Bもそうだし、例えば小林明子の「恋におちて」なんかも非常に印象的な仕事でしたね。でも非常に長く一緒に仕事したアーティストというとやっぱりシンシア(南沙織)かな。僕も京平さんも、彼女、内間明美さん(南沙織の本名)が沖縄から出てきて最初のレッスンの時から立ち会ってたんですよ。京平さんが「初めまして、筒美です。レッスンをやろうと思うんだけど、何が歌えるの?」って言ったら「私歌える曲、1曲しかありません」。それが「ローズガーデン」だったんです。それで京平さんが「ローズガーデン」をバックで弾いてシンシアが英語でローズガーデンを歌ったのが、「17才」につながってるんですよ。
−−たしかに言われてみれば似てますね。イントロなんかそっくり。
恒川:ね、似てるけど、でも違うでしょ?笑い話があるんだけど、「17才」のレコーディングの時にね、コーラスを入れたんですけど、当時、京平さんのコーラスには必ずシンガーズスリーっていう女性コーラスが担当してたんですよ。それで彼女たちがふざけて「ローズガーデン〜♪」って歌って大笑いになったことがあって、筒美さんが思わず「冗談やめて」って怒鳴ってね(笑)。そんなことを覚えてますよ。
そう言えばあるとき彼女が「私は日音のアーティストです」って言ってくれたことがあるんです。普通なら「ソニーのアーティストです」とか、レコード会社の名前で言うでしょ。それが「日音の」って言ってくれて、しかもその発言をした場所が泣けるくらいうれしい場だったんですよ。ちょうど吉田拓郎さんとか、かまやつひろしさんとか、そういう連中とみんなで集ってる時にシンシアが来て、その席でそう言ってくれて。それはとても嬉しかったですね。彼女とは9年いっしょにやりました。長さで言うなら渡辺美里さんも同じ9年ですね。
−−いっぱいアーティストがいらっしゃるわけだからそれはそれは忙しいでしょうね。
恒川:当時はねぇ。いろんな関わり方してましたから、一番関わってたときは20以上あったと思うんですよ。ちょっと関わったものもあれば深く関わるものもある。それをどううまくやっていくかっていう。みんな当たり前のようにやってたと思いますね。
5. スタッフ、メンバーが一丸となって作ったC-C-Bの大ヒット
−−ではC-C-Bについて改めてお話しを聞かせてください。
恒川:C-C-Bはね、語るべきテーマです。さっきから言ってるター坊っていう京平さんの弟がいるんですが、ター坊とは長い付き合いにも関わらずそれまでたいした仕事はしてなかったんです。ブレッド&バターぐらいでね。でもブレッド&バターはブレイクしなかった。業界での評価は高かったですけどね。やっぱり時代と合わなかったのかもしれないね。「傷だらけの軽井沢」とか今でも歌えるけどね(笑)。それでター坊が日本フォノグラムからポリドールに行ってから、あるバンドを見てくれと言われて、エッグマンに行ったんです。それがココナッツ・ボーイズだったんですよ。当時はもうレコード出してたかな。(編註:C-C-Bはココナッツ・ボーイズ名義で1983年にポリドールからデビューしているが、1985年にC-C-Bと改名)。スマイルカンパニーの小杉さんたちが関係していたみたいだね。それで見たんだけどね、まず下手だし、見かけもあんまり良くない。ただものすごくいい子達だったんです。マネージャーもとても良くてね。だけどどうやったら彼らを売れる商品にできるだろうかと思っても、なかなかアイディアが浮かばないわけですよ。
どうしようかと何ヶ月か話してるうちに、木下プロっていうTBSグループの制作会社があって、そこの阿部プロデューサーが「毎度おさわがせします」という番組を企画したんです。当時大センセーショナルを巻き起こしましたよね。当時のテレビ編成の担当が原田さん(原田俊明氏:現 トレソーラ代表取締役社長)だったんですよ。この3人は同じ年なんですよ。同じ19年生まれで、そういったよしみでつるんでたんです。それで「毎度おさわがせします」の音楽を考えてくれ、番組がこんな感じだから踊れるものがいいということで、最初に一世風靡が候補にあがってたんです。当時はそれこそ一世を風靡してましたからね。でも打ち合わせでまったく話がかみあわなくて、ゼロからまた考えようということになって「このバンドで第二のチェッカーズを目指すから私に任せて欲しい」と2人に頼みました。ター坊と話して、やっぱり曲は京平さん、詞は松本隆さんだろうということでできたのが「Romanticが止まらない」だったんです。編成の方も当初「チェッカーズなんて嘘じゃないか。どこがカッコイイんだ?」「カッコよくするからみてろ」と。レコーディングに入って、船山基紀がどういうアレンジをするかなと思ってカラオケが流れ出したらあのイントロですよ。京平さんと「これは売れるぞ」と思った。番組の人達にも来てもらってスタジオで聴いてもらったら「いいんじゃない。お前が言ってた通りになるよ。後はがんばってな」昔の人は判断するのが早いんですよ。それであの曲ができて、これだけじゃダメだから名前を変えることになって。「ココナッツ・ボーイズなんてダメだ」と。メンバーも一緒になって考えたら誰が言ったのかわからないけど、「CCBと頭だけ取ったらどうか」と。これだったらキャラクターにもなるということで、C-C-Bになったんですよ。それで最後に「あと足りないのはお前達だ。お前達がここで何かをやらないことにはダメだよ」って言って彼らが考えたのが、髪をそれぞれの色に染めちゃうってことですよ。あれにはびっくりしました。挨拶回りに行こうとTBSの前で待ち合わせしていたら、突然自分たちで考えて髪を染めてきたんですよ。
−−あれは自分たちで考えたんですか!メイクはしてませんでしたっけ?
恒川:メイクはしてないですね。あれにはほんとに感動しましたよ。「よくぞやった」って。今でこそ当たり前だけど、あの当時で紫、グリーン、黄色、赤ですからね、びっくりですよ。連れて歩いたらみんなびっくりするんですから(笑)。1回放送したらドラマも大変な騒ぎになったんだけども、主題歌も問い合わせがどーんと来て、発売前に新譜バックが入っちゃうぐらいですよね。放送1回か2回して発売だったかな。あっという間にベストテンでしたから。
−−C-C-Bはほんとにゼロからしっかり作り上げたアーティストなんですね。
恒川:そうですね。いろんな仕事があるけどほんとに楽しい仕事なんていうのは10やったうちの2つか3つですよ。あとは仕事と思ってやれってことですよ。今の子たちって嫌な奴と仕事やりませんからね。でも仕事は好きになれない奴とやる仕事だっていっぱいあるわけですよ。それがヒットになることだっていっぱいあったわけだし、そういったことではこの仕事は、数少ない仲間でやって大ヒットしたっていうことでは、一番思い出になってますね。
−−達成感ありますよね。
恒川:そう。当時ポリドールの邦楽のシェアが社内で1ケタパーセントだったときですよ。だからこの貢献度は大変だったと思いますし、その頃死んだようになってた人たちが一気に息吹き返してがんばったっていうことでは大変な貢献だったと思いますね。
−−C-C-Bはどれくらい活動してたんでしたっけ?
恒川:8年間やってましたよ。だから日音は彼らの楽曲の権利をほとんど持ってるんですよ。コピーライトから原盤権からマーチャンダイジングからなにからね。もちろん最終的にはメンバーのものですけど、エージェントの権利だとかも全部持ってましたから。キャラクターや写真を使うことも全部取り扱ってたわけですから、大変なもんですよね。ビデオも今はTBSがやってますけど、当時はまだ立ち上がったばっかりでTBSと日音とで共同製作したり、ライブの主催をTBS事業部が初めてやって大成功したりして。ほんとに彼らは貢献するだけしてくれたと思いますね。最後の最後、解散コンサートまで直接彼らと関わってきましたから。
−−果たした役割は大きいですね。
恒川:それはやっぱりソウルメイツかなと思いますね。ただ仕事というだじゃなくて、彼らとの仕事はもっともっと深いところでお互いに関わり合えたと思いました。
−−今もそういった関係は続いていらっしゃるんですか?
恒川:いや、今はそういうつきあいはないんですけどね。ただ彼らのチーフマネージャーと現場マネージャーをやっていた二人を僕は引き受けました。現場にいた若いのが今でも僕の所にいますよ
−−でもほんとうにとてもいい時代を過ごされたわけですよね。
恒川:そうですね。ワーナーに行く時の挨拶状に「みなさんに教えて頂き育てて頂いた資産をレコード会社に行ってがんばってきます」と書いて出したような覚えがあります。自分で学んだとか努力したとかの記憶はないんですよ。ともかくまずそんな暇がない(笑)。一方的に実践で覚える、先輩や作家の方たちが言われることがすべて教科書だったっていうのがありますね。
6. 日音を離れてワーナーへ…骨を埋める覚悟でのぞんだ社長職
−−ではワーナーにはどういったいきさつで行かれたんですか。
恒川:あれは1995年ですか。当時、私は専務だったんですが、ちょうど50歳だったんですよ。そのころにワーナーの会長だった小杉さんから「ワーナーに来て社長やってくれないか」って言われたんです。もちろん冗談だと思ってたんですよ。レコード会社に行くなんていうイメージはまったくありませんでしたし、そんな野心もなかった。生涯日音だと頭の中は思ってましたから、「何言ってるんだよ(笑)」って、そういう会話を何回かしたんです。ご存じだと思うんですけど、小杉さんも日音出身で、日音では僕が先輩だし、僕がきっかけで日音に入ったという縁もあったから、「逆に僕が会長だから嫌なの?」「いや、そうじゃなくてレコード会社に行って仕事をするというイメージがないんだよ」とね。
小杉さんに誘われる1年前には石坂さん(石坂敬一氏:現ユニバーサル(株)代表取締役社長兼CEO)が東芝からポリグラムに行って、石坂さんにも「レコード会社で一回仕事したら」とか言われたり、新田さんともそんな話をして「いやー行きませんよ」なんて話をしてたんですよ(笑)。そうしたら折田(育造氏)さんがワーナーをやめてポリドールに行って、また小杉さんから強い誘いがあって、それでも固辞してたんだけども、ちょうどゴールデンウィークが明けた頃にTBSグループの役員の改選期、人事があったんです。それでTBSの役員さんで、プライベートでも一番親しい方が日音に来ることになって、それじゃ向こうもやりにくいだろうし、僕もやりにくいなと思ってたんですよ。
そしたらその人事が外に漏れたとたんに、すかさず小杉さんがすっ飛んできて「決心したろ」って言うわけですよ(笑)。さすがだよね。そこでピンっと考えが入れ変わったわけですよ。「今までやったことがレコード会社で生かせるのかな」とね。なにしろ根がいいかげんなんで、そういうふうに考えてみるようになって…それで小杉さんとも話をして「思い切ってやってみよう」ということで村上と相談したんです。
実はね、村上はそれからさかのぼること1年前に、私だけではなく役員と幹部十何人を前にして「これからは時代が激しく変わるから、日音とか村上にとらわれないで、自分の人生のシナリオを今からもう一回作り直しなさい」って言ったんですよ。暮れの忘年会が終わって、その後にみんな残されて。そういう風に言われたもんだから、みんなギクっとしたよね。みんなそれぞれが「クビかな」と思った。部長レベルまでいましたから。
−−はははは(笑)、それはコワイですね。
恒川:忘年会の後ですよ。酔いなんていっぺんに覚めましたよ。「例えば恒川だってそういうことがあるかもしれない。みんなにはあの恒川と村上が別れるっていうイメージはないだろう。だけども恒川の人生だから、もしこいつが外へ行きたいって言って、またそういう縁があるならば、俺は行かせるよ」って言ったんですよ。それまで僕にもそんな話したことなかったのに。それが8ヶ月経って現実になったんです。
−−予言者のようですね。
恒川:まあ折ちゃんのこともあるし、あるいは村上は知ってたのかもしれないなっていう想像はできるんですけどね。だけど僕なんかまったく知りませんでしたから。村上にうち明けたときはもう、「お前がそのつもりなら俺はいいと思う」と言ってもらえて…決心したのは、51歳になる直前か、なった直後ですね。7月末が誕生日ですから。
−−レコード会社に行かれてどうでした?
恒川:似て非なる物だなって思いましたね。なんとなくお隣さんっていう感じがあったんだけど、とんでもない。音楽出版社とレコード会社がこれほど違うのかっていうのをつくづく感じました。
−−レコード会社の人間とつきあってはきたけど、入ってみたら全然違うと。
恒川:ぜんぜん違う。まずレコード会社は社会的に認知されてるパブリックだっていうことです。例えば、音楽出版社に新聞、雑誌の取材はまず来ないですから。音楽出版社に取材にくるのは業界誌だけで、一般の方には知られてないでしょう。ほんとの表舞台なんだなと思いましたね。社会に直接接してると感じました。表現としてはあまり好きじゃないんだけど、裏舞台からいきなり表舞台に出ていったっていうぐらいの違いを感じましたね。
−−居心地はよくなかったんですか?
恒川:いや、居心地がよくなかったってことではないです。今までになかったような新鮮な気持ちになれましたし、今までとはまったく違うテンションで辞めるまで毎日過ごしましたよ。とくにワーナーミュージック・ジャパンだったからかもしれませんね。何よりも株主であるインターナショナルとの関わり合い、いわゆる外資ですよね。それを1から教わりましたし、外資の良い所、悪い所などすごく勉強になりましたね。悪い所なんてもう忘れちゃったけど(笑)、この経験から教わった良い所はすごくあります。だから小杉さんとはね「我々は給料もらってそういった勉強をさせてもらった。本当に幸せだったね」と話すことがありますよ。正直に言って本当にそう思う。
−−何年間いらっしゃったんですか?
恒川:3年と7ヶ月です。一番辛かったし勉強になったのは、小杉さんが辞めてからですね。形の上では翌年の3月までいましたけど、実質的には健康的な問題もあって9月か10月くらいから出てこなくなりまして。僕と小杉さんの間に副会長がいて、その方は要するに向こうから来てる方だったんですね。顔が日本人でもまったく外人。その方も12月いっぱいで来なくなったんです。それは私との考え方の違いからで、彼はアメリカに戻ってしまって上が誰もいなくなっちゃったんです。インターナショナルの会長が2ヶ月に1回来てミーティングをするわけですよ。毎日のようにEメールがバンバンくるわけね。そのうちの8割は怒りのEメールなんです(笑)。
−−それは嫌ですね〜〜(笑)
恒川:ほとんど怒りなんですよ。最初のうちはカッカカッカしてましたけど、だんだん慣れてきたり向こうの考えが読めてきたりするといろいろわかってくるわけですね。ただ僕の場合はストレートに英語でこられてもわかりませんから、アシスタントの秘書が訳すわけですよね。だから大変ですよ。1日のうちに何通も来るから訳すのも大変だし、返事も自分で日本語で書いて、それを彼らが訳して送ると、すぐ返ってきたりするんですよ。「バカヤロー!」みたいな感じで(笑)。そんなことが連日だったので夢の中で返事を書いてるとかしばらくあったんですけども…それは勉強になりましたね。
−−嫌なこともいっぱいあったみたいですね。
恒川:でも嫌なことすぐ忘れちゃうんだよねぇ。
−−いい性格ですね(笑)
恒川:ほんと。小杉Jr.もそうじゃない?嫌なことみんな忘れちゃったですよ。
−−じゃあ、きっと後任の稲垣さんも嫌なことに直面してるんですかね。あの方もすぐに忘れるタイプなのかな?(笑)
恒川:そうなんでしょうねぇ(笑)。都合の悪いことはすぐ忘れちゃうし、やっぱりできが違うからね。ちょっとやそっとじゃ堪えないんじゃない?あまりのタフネスさに向こうも嫌になっちゃうんじゃないかな(笑)。「もういいやー」みたいに(笑)。
−−恒川さんはワーナーに行かれる前が専務で、日音に戻ってこられた時は副社長ですよね。
恒川:うん。副社長ですね。それは2年間。
−−ワーナーをお辞めになった理由は何だったんですか。
恒川:これもタイミングなんですよ。ここを辞めて行く時も、向こうを辞めてみんなに挨拶した時も、戻ってきた時も、言ってることはバカの一つ覚えで同じこと言ってるんです。「人生って縁とタイミングだ。僕の場合はありがたいことに素晴らしい縁とタイミングに恵まれてきました」と。本当に心からそう思ってるんです。
実は稲垣さんには水面下でワーナーの会長を何度もお願いして何度も断られたんです。やっと実現して一緒に働いて、大半の株主とのやりとりは稲垣さんに移ったので僕自身は楽になったんだけど…戻るなんていう気持ちはなかったんですよ。そんな気で行ってませんから。「最初からそうだったんじゃないの?」ってよくみんなに言われたんですけどね。「最初から戻る気はなかったんだ」って言っても信じてくれる人の方が少ないですよね。それはしょうがないんだけど、ほんとにそうなの。骨埋める気で行ったわけだし。
ところが、根っからのレコードカンパニーマンの稲垣さんが来て、そういう人と一緒にやっていくと、いろいろと考えさせられたんですよ。「なるほどな」と思ったし、どこか潜在的に「俺は音楽出版社の人間かな」という気持ちがあったんでしょうかね。蓋されてたのがどこかでちょろちょろ出てきて、年末から年明けぐらいに村上からも「レコード会社はもういいんじゃないか」みたいに言われるわけですよ(笑)。その時はその気はなかったんですけど、株主の方とお会いしても「君は戻らないんですか?」って言われる(笑)。でもまだその時も辞めるつもりはなかったんですよ。
それからしばらくして稲垣さんと話して「やっぱり日音に戻ってやった方がいいんじゃないの?」って言われて「その方がいいのかな」って…この時に一番考えたかな。とはいえそう言った本人にも「でも辞めちゃダメだよ、まだまだ働かなきゃ」って言われたりして。それから3ヶ月ぐらいしてからかな、「やっぱりどうする?」っていう話になって。タイミングとしては改選期の方がいいだろうということで、あっという間にそうなっちゃったっていうことなんですね。だから僕、6月30日まで勤め上げて、1日から勤務してますからね。
−−空白ゼロですか?
恒川:空白ゼロ。当時からずっと一緒に働いてる日音の連中が「何の違和感もないですね」って。
−−あははは(笑)
恒川:でもそう言ってくれて嬉しかったですよ。なんていいこと言ってくれるんだろうって思いました。
−−やっぱり「日音の方」なんでしょうね。
恒川:そうでしょうね。それから何よりも株主の方も異例なことを認めてくれたし。だって戻った奴なんていませんからね。
−−オリコンとかで発表される人事を外部から見ている限りでは、日音から出向で社長をお引き受けして、形ができたんで戻りましたみたいなイメージでしたよ。
恒川:そういう風に言われましたね。外部の方だけではなくて、株主の方達からも「あれ、出向終わったの?」って(笑)。「出向じゃないですよ」って言ったぐらいで。まあ日音がワーナーチャペルっていう世界一の音楽出版社のカタログを35年ずっと村上がやってることもあったので、行くならワーナーだっていうのはあったんですよ。戻ってきた時に一緒に働いていた仲間達がそう言ってくれたことと株主の役員の方達に挨拶に行った時に「おかえり」って拍手してくれたことは、とても有り難かったですね。
−−日音の専務がワーナーに社長になって行って、戻ってきて副社長、社長で。そういう段取りだったのかっていうイメージでした。
恒川:そうなんですよ。「そういうシナリオが最初からあったんじゃないの?」っていう人もいるわけですよね。
−−「社長修行にちょっと行って来ようかな」みたいな。村上さんは後継者としてはじめから考えられていた気はしますけどね。
恒川:ええ。ある時から「そういう勉強を日常意識しろ」と言われていたことはありますけどね。
−−結局収まるところに収まられたということですね。
7. 日音一の暴れん坊!?「バカヤロー」は愛のムチ
−−恒川さんにとって村上さんという存在はどういうものなんですか?
恒川:僕は、父親は知らないに等しいぐらいなんです。かと言って村上さんが父親代わりっていうのも失礼な話ですよ。8つしか離れてませんので。でもね、僕にしてみれば父親以上の存在ですね。
−−育ての親みたいな感じですか。
恒川:そうそう。父親には何もしてもらってませんから。だから父親以上ですね。
−−もう一上司を通りこしてるんですね。二人の出会いから今までが長いですよね。
恒川:出会いが21歳の時だから、37年になりますね。
−−それがいい関係で続かれてるんだから並大抵の出会いじゃないですよね。そういう出会いが20代のそういうタイミングであったっていうことはすごいことですよね。
恒川:そうですよね。
少年時代悪ガキだった話もありましたけど、実は僕は日音に入ってからの方が悪ガキで暴れん坊だったんですよ。
−−はははは(笑)
恒川:日音の暴力の歴史っていうと、ほとんど僕でしょうね。
−−暴力?
恒川:うん。暴力事件の主人公はほとんど僕ですよ。僕以外いないですよ。入社して何日後かにやりました。
−−誰に対する暴力なんですか?
恒川:まず先輩をずいぶん殴ったし。
−−社内暴力ですか?
恒川:ええ。あ、社外にもあります(笑)。
−−そうなんですか(笑)。優しい方だと思ったら怖い方なんですね(笑)。手の早い感じですか?
恒川:いや、喧嘩強くもないし、好きでもないんだけど、今の言葉で言うと「キレちゃう」んですかね。
−−当時を知る方は恒川さんといえば、ちょと怖い方になるのかな?
恒川:嫌だったでしょうね。今その先輩達が副会長の木山(貢吉氏)と会長の村上ぐらいしかいませんけども、ひどかったと思いますよ。
−−警察ざたになる喧嘩だったんですか?
恒川:いや、なりません。当時の社長に殴られましたからね。それも半端じゃないと思うけど(笑)。
−−社長が社員を殴ったんですか?
恒川:僕があまりにも暴れん坊だったからね。石坂さんも知ってますよ(笑)。一緒に暴れてえらい目に合いましたから。村上にこてんぱに怒られて、二人で1ヶ月ぐらいシュンとしてましたもん。二人ともいいかげんな性格なんで、1ヶ月したらケロンとしてますよね。1年間近く一緒にやってましたから。
−−今の日音にもそういう元気のいい人は?
恒川:今はいないですねぇ。
−−さすがに村上さんに暴力を振るうことはないですよね?
恒川:いや、あったんですよ。
−−あったんですか?!(笑)。父親って言いながら…。
恒川:まあでも仕事上の議論で興奮してね…(笑)。
−−だって村上さんて紳士のイメージですよね。
恒川:たしかに紳士ですよ。紳士なんだけど、ものすごく熱い人だから。今でもそうだけど当時は若いから半端じゃないですよ。行くところまで行っちゃうと、僕は口だけじゃ理解できないから、最後は飛んできました。
−−愛のムチですね。
恒川:バーンと。そうすると「何をー!」ってやり返しちゃうから、またマズイんだよね。
−−日音っていう会社は、会長と社長が殴り合っちゃう会社なんですね(笑)。
恒川:さすがに今はやってないですよ。
−−取っ組み合いになっちゃうんですか?
恒川:取っ組み合いじゃないけど、引っ掻きあい程度ですよ!(笑)
−−正直言って大人げない話ですよね(笑)。でもそれができる間柄っていうのはものすごく深い絆ですよね。ほかの部下もそうやってしごかれてきたんですか。
恒川:そうですね。私に殴られた奴はいますよ。やっぱり言葉で殴ることもあるじゃないですか。同じなんですよ。実際に殴られた奴も、言葉で殴られた奴も同じですよ。やっぱり辞めちゃうんです、それは。それ以来、僕は「バカヤロー」って言わなくなりました。
−−それだけで辞めちゃうんですかね。
恒川:「バカヤロー」だけで、泣いて家にまで来た子いますよ。
−−男ですか?
恒川:もちろん男ですよ。「バカヤローっていうのはどういうことでしょうか?」って泣いてるんですよ。「何言ってんだ、そんなの俺の決まり文句だろうが」ってね。「親にも言われたことありません」って。そういう子いっぱいいるから。
−−そういう時代なんですねぇ。
恒川:昔は一つ挨拶みたいなもんじゃないですか。放送局なんかでも当たり前のように飛び交ってたでしょう。みんな言わなくなちゃったんですよ。
−−そういう時代になりましたねぇ。日音の社員もエリート化してひ弱になりつつあるんでしょうか?
恒川:どうなんでしょうね。どの業界も同じでしょうね。だからもう一回「バカヤローは愛の言葉なんだ」って言いたいんだけどね。言われない奴の方がよくないわけでしょう。
−−社長としては、社内で正々堂々とファイトができるような会社にしたいと。
恒川:そうですね。議論はとことんしなきゃいけないと思いますよ。最後の判断、結論は責任のあるものがするんでしょうけど、それに至るまではやらないとダメだと思ってますね。
8. 気分転換の楽しみはお洒落とゴルフ、そしてなにより世界一の愛犬レオン
−−ところで犬が大好きだとお伺いしましたが…
恒川:そうなんです。 (にっこりと微笑んで社長室に並べられた写真を指さす) 見てくださいよ。 あの一番大きい写真がウチの子で…その写真は僕が撮ったんですよ。それから真ん中の写真は右側がウチの子で、伏せしてるのが母親なんですよ。 左にいるのが一緒に生まれた妹なんです。
−−家族写真なんですね。
恒川:そうなんですよ。一緒によく遊んだりするので。左の写真は僕と僕の左隣にいるがウチの子で、あとは妹、弟、叔母さん、みんな親戚です。
−−もう何年も犬を飼われているわけですか。
恒川:そうですね。やっぱり飼ってる時の方が長いですね。30年ぐらいの間、ほとんど犬がいましたね。ちょうどワーナーに行ってる時にやっぱりゴールデンレトリバーを飼ってたんだけど、ガンにかかっちゃってまだ2歳と11ヶ月で死んじゃったんですよ。
−−悲しいですね。
恒川:子供を亡くすのとは違うけど、それに近いものはありましたね。それで、今飼ってるこの子は4歳半です。
−−ご自分で散歩に連れて行かれるんですか?
恒川:行きますよ。夏は暑いから長時間行くと僕よりもこいつがバテるんですよ。暑いのが苦手なんで。それでもやっぱり土曜日とか日曜日は、涼しい朝と夕方に一時間半ずつ歩いています。平日も毎朝7時半ぐらいから4〜50分もう汗びっしょりになって歩いてます。雨の日でも台風でもなんだろうがやってますから、ゴルフやってもぜんぜん足は疲れませんよ。
−−お名前は?
恒川:レオンって言うんです。オスです。 レオンは映画と同じスペリングで「LEON」です。 フランス語で言うと「レオン」で、英語で言うと「ライオン」ですよね。 これの親元が付けてた名前で、毛が立っていて本当にライオンみたいだったんですよ。 もう一番の子ですよ。 こんな子に巡り会えたっていうのは本当にうれしいですよね。 人間と違って血統がすごく大事だということがよくわかりましたよ。
−−血統がいいんですか?
恒川:血統がね、えらく良いんですよ。本当のイギリスゴールデンの血を100%継いでるゴールデンっていうのは日本にはあまりいないんですよ。アメリカから入ってきてる方が多いから。イギリスは動物愛護が厳しいでしょ。だけど日本は動物を虐待してるとか商売にしてるイメージが広まってますから、イギリスは日本に対して犬を出さないんですよね。この親元は通い詰めて子供をもらってきて繁殖させたんですよ。ブラッドラインでいうとすごいですよ。僕は「ロイヤルブラッドライン」って言ってるんだけどね(笑)
−−ははは(笑)。すごいですね。
恒川:ほんとに病気もしないんですよ。前のはアメリカンゴールデンで、普通のペットショップのブリーダーから買ったんです。もちろんインチキでもなんでもないんでしょうけど、どういう親だとかわからないし、一緒に生まれた兄弟も見てないですから。犬はね、その子よりも先に生まれた子供達を見るのが大事なんですよ。
−−そうなんですか。
恒川:そう。慎重な人っていうのは、そうやって親を見て、先に生まれた子供達を見て決めたりしてますよ。
−−競馬の馬を買うみたいですね。
恒川:そうそう。同じですよ。ガンで亡くして初めてそれがわかりましたね。
−−レオン君は性格もいいですか?
恒川:性格も。何から何までいいですよ。
−−もうほんとにベタベタですね(笑)
恒川:唯一の悩みは、お嫁さんがいないことなんだよね。4歳半なのにお嫁さんがいないんですよ。こっちの理想が高いわけじゃないんだけど、やっぱり犬の世界ってほとんどメスの方が決めるんですよ。メスが占める割合っていうのが、子供に対してもすごく影響が出るのね。だからオスの方は、例えば10頭生まれたら1頭だけわけてもらえる。あとは全部メス側なんですよ。だからなかなか選んでくれないんですよ。
−−お見合いとかあるんですか?
恒川:お見合いやったんだけど、うまくいかなかったりとかね。やっぱりあるんですよ。
−−モテないってことですか?
恒川:モテないってことなんでしょうね。こいつは女の子と会ったら喜んでヘラヘラ行くのに、向こうは「何こいつ」みたいな顔してうなったりするのね。
−−ちょっと気取り屋なんですかね?
恒川:気取り屋じゃないんだけどね、あまりにも天真爛漫で誰でもお友達気分でいるから。まあそこは僕に似てるかもしれないんだけど…。ここはちょっと僕と違うんだけど相手がどうであろうとワンワン行っちゃうんですよ。オスだろうとメスだろうと「俺と友達にならない?」って行っちゃうから、「ずうずうしい」って顔されちゃうわけですよ。
−−人間でもいますけどね。
恒川:興奮しちゃうからクールダウンさせて一緒に遊ばせたりしてるんですよね。でもしつけはきちっとトレーナーの所に月1回一緒に通って、団体でトレーニングしました。
−−そこまでやってるんですか。
恒川:4時間一緒にトレーニングするんですよ。親も兄弟もいるから一生懸命やるんです。犬って面白いんですよ。まわりがやってるとちゃんと真似してやるんですよ。日常的には僕が教えてやったんで、一応オフィシャルに資格を持ってるんです。20種類の科目が全部クリアできましたっていうJKCの血統書にCD-III(高校卒の資格)と記されています。試験は僕と一緒にやるんです。僕の方が緊張して失敗しちゃったりとかあるんですよ。
−−息が合わなくて?
恒川:そう。僕の方が緊張して忘れちゃうんです。だけど犬は覚えてて僕と犬が逆になって怒られるの。「お父さんなんで覚えてないんですか?この子はちゃんとやってるでしょ!」って減点されちゃって。
−−佐久間さん(佐久間正英氏)も犬の調教されてるのご存じですか?自分のスタジオも「ドッグハウススタジオ」っていう名前を付けてるぐらいなんですよ。
恒川:へえー。そうなんですか。いやぁ、犬は面白いですよ。けっこうハマってる奴いますけどね。
−−ご自分のお子さんにもやっぱりそのぐらい厳しくしつけてらっしゃるんですか?
恒川:いや、別に全然やってません。全部女房まかせですよ。だから息子はびっくりしてますよ。俺たちにこれの何分の一でもやってくれた覚えないよなぁって。
−−息子さんたちは音楽業界とはぜんぜん関係ないんですか?
恒川:実は関係なくはなくて、長男は1996年に大学卒業して、あるレコード会社に入ったんですよ。営業やってました。5年間お世話になって、今はある広告会社に中途採用で入って必死になってやってますよ。次男は卒業したんですけど「もう一回勉強させてくれ」とか言って、今はアメリカの大学に入って勉強してますね。この前、夏休みを取って初めて女房と行ってきたんだけど「何勉強してるんだ?」って聞いたら、僕には解らない教科書を見せてくれましたよ。
−−将来のジュニアって感じがしますね。
恒川:わかりませんけどね。やっぱり好きなのは音楽に限らずエンタテインメント系なんでしょうね。
−−プライベートなことでご趣味はおありですか。
恒川:今はゴルフになっちゃいましたね。テニスもスキーもサッカーも野球もやめちゃったし。どうしてもお付き合いではゴルフが不可欠だし、お勉強よりも一生懸命きちんとやってるんじゃないかと思いますよ。
−−かなりお上手なんですよね。
恒川:今はね、恥ずかしくない程度ですよ。還暦までの間は距離を伸ばすというテーマでやってます。あと2年あるんだけどね。
−−どのくらい飛ぶんですか?
恒川:飛びますよ。そうですね、先週は270飛んだ。
−−え?!270?
恒川:うん。いい転がり方をしたと思うんだけど。まあ、いつもやってる所だからだいたいわかるんですよ。
−−すごいですねぇ!仲間うちでは一番飛ぶんですね。
恒川:けっこうみんなね、年に関係なく飛ばす奴いっぱいいますんでね。へたな若い奴より飛びますよね。それはやっぱり打ち方なんですよね。自分のフォームをきちんと身につけてれば飛ぶんですよ。そうじゃないと、がたいがいいとか若いとか力があるとかね、プロゴルファーは飛ぶとかそういうことはありますけども、理にかなった自分の体に合うフォームを身につければ飛ぶようになるんですよ。人間の体って不思議ですよね。
−−たいがいのスポーツはやられてるんですか。
恒川:そうですね。やってないのはボクシングとか格闘技はやってないですけどね。
−−恒川さんはとてもお洒落だという話ですが……
恒川:そうねぇ、あまりにも日替わりメニューみたいに、毎日してくる格好が極端なんで社員がびっくりしますね。今日はインタビューがあるので渋い方がいいかなと思ったんですが、昨日は昔のアメリカの青春映画みたいな格好をしてきたりとかね。まあオシャレというか楽しみの一つですよね。
−−いろんなパターンを演じ分けてるんですか。
恒川:そうですね。その日どういう格好したら自分が気持ちいいかっていうことですよね。それにはその日どういう人とお会いするかってこともありますよね。その人とお会いした時に「なんだこれ」と思われたらそれはよくないわけですよ。そういう中で「今日はどういう格好したら頑張って1日を過ごせるかな」っていうことだと思うんですよ。だんだん年と共に自分でテンションを上げていくっていうか、興奮していくことがなくなっていきますよね。だからいろいろ考えたり工夫したりする、そのうちの一つかなと思ってます。
−−そうかもしれませんね。勉強になりました。
9.いい作品、いいアーティスト作りが最大のテーマ
−−今社長として一番大きく変えたいと思われていることはありますか?
恒川:実は今それに向かって毎日いろいろとやってるんですよ。僕が辞めたのが1995年、戻ってきたのが1999年なんですが、この間アーティストが作れてないんですよね。ほとんどいなかったってことかな。もちろんやってたんでしょうけど、なかなか実績が作れなかったんでしょうね。それ以前までは、僕もみんなと一緒にやってましたから。C-C-Bもそうだし、最後の方では広瀬香美ちゃんとか槇原敬之くんとか、デビューからやってますからね。そういうビッグアーティストが作れてない。5年先10年先を見たらそういうアーティストを作っていかないと絶対良くないということで、みんなで一緒にやってるんです。一緒になってやってますから社長業っていう意識はないですね。うちの会社はCEO(Chief Executive Officer:最高経営責任者)、CFO(Chief Financial Officer:最高財務責任者)、COO(Chief Operating Officer:最高執行責任者)というスタイルにしてますから、経営責任者はCEOの会長なんです。会長は会長でちゃんと担務がありますから。日本の会社のようじゃなくて、全体があると同時に担務があってっていう。僕はCOOですから、COOとしての担務は一番のプライオリティになってるんです。
今まで制作は日音の中でやってたんですが、2002年7月1日から分社したんです。(株)日音アーティストという子会社があったので、作家とかエンジニアとかプロデューサーとか、そういったマネージメントをやってる会社なんですね。10名ちょいのスタッフを出向させて日音アーティストがA&R部とマネージメント部ということで、A&R部がアーティストの開発、育成、制作ということをやろうと思います。自分的にはあまり変わらないと思うんだけど、会社の経営的には大きな改革なんですけどね。日音アーティストの社長は前々から徳田(裕彦氏)がやってますから、私が兼務で会長になっているんです。
−−では最後に日音の社長として今後の大きな目標を簡潔にお願いします。
恒川:やはり「良いアーティスト」「良い作品」を作っていくというのが、一番のテーマだと思いますね。
−−もう一度、あの黄金時代を、ってことですか。
恒川:夢をもう一度っていうことではないんですが、やっぱりそれが仕事にとっては不可欠だってことですよね。この仕事にとってはね。
−−ほかの音楽出版社にライバル意識はお持ちですか?例えばフジパシフィックとか…
恒川:それはね、実はあまりないんですねぇ。うらやましく思ったことはいっぱいあるんだけど(笑)。朝妻さん(朝妻一郎氏)の所は、昔からグループ意識が強かったでしょ。ニッポン放送でありフジテレビでありフジサンケイグループとしてのシナジー効果がすごくあったし、トップ経営者がそれをドーンと打ち出しましたからね。だけどウチの方は伝統的に表立って社内外に打ち出すことはなかったんですよね。昔、尾崎紀世彦なんかをやってる頃は、グループとして日音や村上、尾崎を応援しようとか、そういうことではなかったんです。それは非常にパーソンtoパーソンの関係で、この人とこの人とこの人と…っていう風に作っていったっていう。ずっと僕の代までそうでしたね。ドラマの「赤い風船」にしても、C-C-Bにしても、パーソナルな部分での関係でやれてきた仕事だと思いますね。今は十分グループとして徹底しているところがありますけども、当時はTBSで「日音?日音って何だ?」って言われたこともありますからね。それじゃ困るから「名刺にTBSのマークを入れさせてくれ」って言ったこともありますもん。一時入れてましたよ。そういったことではライバル意識じゃないですね。お互いに放送系列の共通の悩みもあるでしょうし、一緒に手を組んでやっていくっていうことも。どっちかっていうとそういう方が多いですよね。
−−業界はわりと横に流れますからね。意外に仲いいですよね。
恒川:そうですよね。良いアーティストで良い音楽を作れば、買ってくれる人は日本中にいるんですよ。こっちを買ったからこっちは買わない、というようなものではありませんから。
−−そうですね。じゃあ今後ともよい作品作りを期待しております。今日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
—「自分はすばらしい縁とタイミングに恵まれていた」と語る恒川氏ですが、その縁をどう活かすかは、やはり本人の努力と才能次第。「ありがたいことになんでも自分でやらなければならなかった」ということは、やはりそのなかでの苦労や経験がすべて今日の成功へとつながっているのでしょう。次回のMusicman’sリレーは、日音とも深いつながりのある(株)研音代表取締役・児玉英毅氏の登場です。お楽しみに。