第31回 田代秀彦 氏 (株)BMGファンハウス 代表取締役社長
(株)BMGファンハウス 代表取締役社長
1998年の就任当初は異業種からのヘッドハンティングとして注目を集めた田代氏。ファンハウスとの合併後、新しいアダルト層の開拓やカタログの再ヒット、そして新人育成にも手腕を発揮し、つい先頃には自社内レーベルとして「オーガスタレコード」の立ち上げを発表、大きな話題となりました。BMGの社長に就任するまで、音楽業界とはまったく縁がなかったという田代氏。25年以上も世界的企業で商品開発や通販事業に携わってきた田代氏ですが、そのビジネスのルーツは一大学生としては考えられない多岐にわたる意外な体験にありました。
プロフィール
田代秀彦(Hidehiko TASHIRO)
株式会社BMGファンハウス 代表取締役社長
1943年3月25日 島根県松江市生まれ
1966年3月 明治大学政治経済学部卒業
1966年4月 (株)資生堂入社
1972年10月 (株)ジャーデン マセソン 入社
1974年5月 米国フランクリンミント 入社
1981年9月 インペリアルエンタプライズ創立
1993年5月 IEI CORP.社長就任(米法人)
1998年11月 (株)BMGジャパン代表取締役社長 就任
1999年7月 (株)BMGファンハウス 代表取締役社長就任[(株)BMGジャパンと(株)ファンハウスが合併]、同、日本レコード協会理事就任。
現在に至る。
- アメリカ留学、議員秘書…世界を体験した学生時代
- 資生堂入社、アメリカでのサクセス、そして独立へ 〜冴えわたるビジネス手腕を発揮!
- 「サラリーマンとしての自分を試したい」〜BMG社長就任へ
- 音楽業界は20年遅れている!過去のシステムはもう通用しない!?
- 過去の反省を生かした判断、そしていちばん重要なのはチームワーク
- 趣味は「仕事」…でも音楽はフルボリュームで!!
1. アメリカ留学、議員秘書…世界を体験した学生時代
--田代さんはずっと海外で活躍されてきたビジネスマンというイメージなんですが、子どもの頃はどんなお子さんだったんですか。ご両親のお仕事とか何かあったんですか?
田代:いいえ、ごく普通の家ですよ。
--子供の頃なりたかったものとか、夢とかは?
田代:あの頃は夢を見るとかそういうような時代じゃなかったですからね。
--1943年生まれというと終戦直前ですよね。じゃあ小さい頃は、戦後のどさくさの時期ですね。
田代:…だったんでしょうね。そう思いますよ。あまり覚えてないけどね。進駐軍がいたのは覚えていますが。
--進駐軍は松江にもたくさんいたんですか?
田代:いましたね。本部が小学校の真ん前だったので覚えています。でもだからと言ってそこで英語に興味持ったわけでもないのですが…
--じゃあごく普通の小学生、中学生ですね。将来外国関係の仕事をしたいとか、そういうのもなかったんですね。
田代:そうですねぇ。
--松江市の広報に書かれていますけど、武家屋敷のお生まれなんですか?
田代:そんなんじゃないですよ。住んでいた家はそういう作りでしたけどね。古い町だからね。松江に限らず山陰っていうのは、日本海側で「山の陰」って書いて、中国山脈に囲まれているでしょう。だから一番東京とか大阪の文化の影響を受けないんですよ。まったく関係ない。昔の松平藩で、お茶とか葡萄が有名で…昔からそうだったのでしょうね。それで石を投げれば必ず親戚にあたるような町だから、悪口は絶対に言えませんでした。十人集まれば必ず一人は親戚がいるんです。そんな町ですよ。
--東京近辺からみると静かで、確かにちょっと地味なところっていうイメージはありますよね(笑)。
田代:そうだね。地味かもしれないね。湖があって山があって日本海があって…でも逆に山陰っていうのは、山口県もそうだけど、政治的には強いですよね。竹下(登)さんもすごかったし、今の青木(幹雄 元官房長官)さんもそうだし。けっこう封建的だから反骨的な人が多いんじゃないかな。基本的には静かな人が多いんだけど。森英恵さんもそうだしね。アーティスト関係だと、竹内まりやさんとか、俳優の佐野史郎さんは同じ松江の出身だしね。あとは芦田伸介さんとか。そういうちょっと変わった人を輩出しているのかも知れませんね。
--では田代さんも実はちょっと変わってらっしゃるところがおありなんじゃないですか(笑)?
田代:それがねぇ…。どうなんでしょうね。でも子供の頃には残念ながらそういうところはありませんでしたね。だいたいね、人間なんて子供の時には変わらないと思いますよ。仕事をし出すと変わるんですよ。20代でも30代でも、40代であっても、仕事で変わる人はいるでしょう?僕もそうだったのだと思いますよ。
--では高校まではわりとごく普通に過ごされたと。
田代:そうですね。実はね、うちの母親は自分で言うのも何ですが、才媛だったそうですよ。僕が英語を勉強し始めたのも、あの母親だったからというのが大きく作用しています。僕は大学で上京したんだけど、明治大学に入ってさんざん泣かれたんですよ。「恥ずかしくて歩けない」って。母親の友達の息子はみんな東大ばっかりなんですよ(笑)。それで「じゃあ英語やるよ。英語をやってアメリカに行ってくればいいんだろ」ってことになって…当時は英語を誰もやってなかったからね。
--明治で泣かれちゃうんですか。
田代:そうですよ。「恥ずかしくて歩けない」って言われて。
--息子としてはすごいプレッシャーですね。
田代:それほどプレッシャーはなかったけどね。それで学生の時に政府の留学の試験を受けて、受かったのでアメリカに行ったんですよ。
--そうだったんですか。
田代:大学3年の時にアメリカに行ったんですよ。ニューヨークで世界博覧会があってね、ちょうどビートルズがニューヨークに進出した時、1964年ですよ。東京オリンピックの時、僕はアメリカで東京オリンピックを見ていた訳です。
--じゃあビートルズがアメリカ上陸したときの騒ぎはご存じなんですね。
田代:うん、知っていますよ。ビートルズの初めてのニューヨーク公演はシェアスタジアムっていう野球のスタジアムだったんですけど、そのすぐ隣が万博会場だったんです。なんかゴチャゴチャ人が騒いでいるなと思ったらジョンソン大統領とかみんな来ててね…いったい何事かと思ったらすごいイギリスのバンドが来てるらしいと。それから帰って次の年ぐらいかな、結局日本にも来ましたよね。1960…
--来日は1966年ですね。
田代:ああ、そうですか。じゃあやっぱり僕が日本に帰って次の年に来日したんですね。「あのときのバンドかぁ」って思いましたよ。
--あまり興味はなかったんですか?
田代:もちろん歌は聞いてましたけど、とくに思い入れはありませんでしたね。音楽やってる友人たちはすごく騒いでいたけど。
--万博にはお客さんとして見に行かれたんですか。
田代:いえ、それが一応関係スタッフだったんですよ。万博のホステスは美人ばっかりでね、当時のファッションモデルとかが300人ぐらいニューヨークへ送り込まれたんですよ。みんな着物きてね。それで女性だけっていうのはやっぱりおかしいから、日本人の学生が選ばれて彼女たちのボディガードになったんです。食事とかどこかに行くには必ずつきそってね、買い物とかにも連れて行って…。
--そういうお仕事があったんですか。うらやましいですねぇ〜(笑)。
田代:いや、これが結構きつかったんですよ(笑)。女だらけの世界ですからね…。
--ええと…アメリカに行かれたのは大学3年のときですよね。どのくらい留学してたんですか。
田代:1年ですね。
--アメリカのどちらにいらしたんですか?
田代:ニューヨークです。
--アメリカで何か大きな転機みたいなのはあったんですか?
田代:…とくにないですねぇ。帰ってきて、それから普通に資生堂に入りましたから。
--就職活動で資生堂を狙ってたんですか。
田代:いえ、狙っていた訳ではないのですが…
--就職活動はどんな感じでなさってたんですか。
田代:大学の3年生の時、国会議員の第二秘書をやっていたんですよ。それで隣の事務所が藤原あきさんだったんです。当時の有名な参議院議員で、元資生堂の美容学校の校長ですよ(編註:NHKの番組の司会なども務め、1962年に史上初の100万票以上を獲得して参議院議員に当選。タレント議員第一号と言われた)。その人が「就職するの?」って言うから「まだ決めてません」「資生堂に入ったらどう?」って言ってくれて。…それで入ったんです。
--要するに縁故ですね。
田代:まあそうだね。筆記試験はありましたけどね。
--その前に、大学3年で国会議員の秘書をおやりになったのはどういういきさつですか。
田代:それは親父の関係で紹介されたんですよ。アメリカに行った人を秘書として欲しいっていう話があったらしくて…当時はまだ若い人はあんまりアメリカに行ってなかったからね。学生だったし、アルバイトで秘書っていうのもおもしろいなと思って。
--やってみてどうでしたか。
田代:やっぱりおもしろかったですよ。当時の秘書ってなんか威張っていられたんですよ、今と違って(笑)。変な話、スピード違反しても秘書だってわかると「どうも」って通されちゃうくらいのね(笑)。
--いろいろ特権があったと(笑)。
田代:今はそんなことやったらえらいことになりますけどね。
--自民党の代議士ですか?お名前は?
田代:自民党ですね。山本さんっていって、政務次官になった方ですよ。
--じゃあ全然普通の大学生じゃないですよね(笑)。ニューヨークには留学するわ、帰ってきたら国会議員の秘書だわ…。
田代:実はね、大学の時の月給は20万越してたんですよ。初任給が2万ちょっとだった頃ね。
--ええ?初任給2万とか1万8千円とかの時代ですよね。国会議員の秘書ってそんなにもらえてたんですか?
田代:いや、違います。秘書はたぶん2〜3万ぐらいだったと思いますよ。あとはね、向こうに行っていたから英語ができるだろうということで、英会話学校の先生をやってたんです。これが大きかったですね。
--1年間だけでそこまでペラペラになるんですか?
田代:なりませんよ。でも周りはそう思っちゃう時代だから、逆に勉強しましたよ。教えるためにね。なにせ東大生の一番上級クラスを受け持ってましたから。
--東大生に英語を教えてたんですね。
田代:明治が東大教えるなんて、おかしな話だよね。
--でもまあ英会話能力は別ですからね。
田代:英会話能力というよりね、英会話学校がどうやったら儲かるかっていう宣伝方法を理事長とかに聞かれて…「こういう宣伝をして、人を集めたらどうですか」って提案したんです。そしたらどんどん人が集まってきて…そういうマーケティングのようなこともやっていたんですよ。
--学生だったのにいきなりビジネスの世界に入っちゃったんですね。
田代:そうですね。そのときにビジネスを覚えたのでしょうね。人の集め方とかね。それで給料が高かったんじゃないかな。
--20万ってすごいですよね…。
田代:それも全部合わせてですよ。親からも送金してもらっていたし、英会話学校の先生に国会議員の秘書やって…たしかあともう一つ何かやってたんですよ。
--貧乏な学生生活の苦労とか、そういうのは全然ないんですね(笑)。しかもそこまで稼げるのに親の仕送りも断りはしなかったという…(笑)もらえるものはもらわないと、ってことですか?
田代:そうそう。浅草の六区で毎晩飲んでいましたよ。六区に松竹演芸場があったでしょう?あの周辺で毎晩飲んでたんです。あの辺はよかったですよ。それで錦糸町まで歩いて帰るんです。
--どうして浅草なんですか?
田代:市川に住んでいたからね。銀座に出るってこともなかったしね。
--モテまくりだったんでしょうね…(笑)
田代:まあ稼ぎは全部、酒に使っちゃったんじゃないかな。
--そんなにお酒が好きでいらっしゃるんですか?
田代:すごく好きというわけじゃないけど、たぶん暇だったのでしょうね。
--でも秘書とか先生とか、いろいろお忙しかったでしょう。
田代:でも夜は暇ですよ。秘書は6時過ぎに終わっちゃうし、英会話の先生だって遅くても9時ぐらいで終わっちゃうから。
--学校は行ってたんですか?
田代:ふふふ………(笑)。
--行ってないんですね(笑)
田代:大学で試験があると、一番先に教授の名前を書く欄があるでしょう?まずこの先生の名前がわからなくてね…今も夢に見るんですよ(笑)。
--行ってないのにけっこう学生時代の夢見たりするんですよね(笑)
田代:授業は代返ですむしね、明治だから別に行かなくても卒業はできるだろうと思ってたんですよ(笑)。
--すごい学生時代じゃないですか。じゃあそういう優雅な学生生活を送って、卒業後は資生堂に入社したんですね。そのまま国会議員の秘書を続けていこうという気持ちはなかったんですか。
田代:うちの母親にね、国会議員にならないかっていう話が何回かあったんですよ。婦人会の会長とかいろいろやっていましたから、出馬したら通るかも、って話だったんだけど……母親は丁重にお断りして出なかったけれどね。もし母親が議員になっていたらずっと秘書をやっていたかも知れないね。
--やはりお母さんが国会議員になっちゃうかもしれないような名家というか…。
田代:まあ教育家だからね。若い頃から幼稚園の園長になって県の婦人会の会長になって、それから自民党の自民会の会長とかいろいろやっていたんで…。
--さすが息子が明治で泣くだけのことはありますね(笑)。
2. 資生堂入社、アメリカでのサクセス、そして独立へ 〜冴えわたるビジネス手腕を発揮!
--資生堂には何年ぐらいいらっしゃったんですか?
田代:7年ぐらいいたんじゃないかな。
--所属はどちらだったんですか。
田代:大会社はみんなそうなんだけど、大卒で入ると販売会社に送られて、研修があるんですよ。それで2〜3年経ったら適性を見て、営業に向いていたら営業とかね。でもまず倉庫の担当ですよ。とりあえず会社を知るために倉庫で商品の名前を覚えなきゃいけない。口紅とか化粧品の名前って化粧品を知らない人は大変な作業だよね。倉庫だとお店に配送するためにピックアップするから覚えますよね。口紅の第何号とか4,000ぐらいあるものの中からピックアップして箱に入れてそれを配達して…そういう仕事を半年ぐらいやるんですよ。そうすると商品名も、店舗も覚えるし、流通もわかるんですよ。
--特に化粧品に興味があって入ったわけではないですよね。それで覚えられたんですか?
田代:当時マーケティングでは松下電器か資生堂かっていうぐらいマーケティングがすごかったんですよ。
--先ほどの英会話学校のお話にもありましたし、マーケティングに興味があったってことなんですね。ほかに資生堂時代のエピソードはなにかありますか。
田代:僕は大阪に配属になったんですけど、そのときの同期女性は平均年齢20歳ぐらいが200人ぐらいいて、男性の大卒が3人入ったのかな。それ以外に先輩もいたけれども、その中の独身なんて10人ぐらいしかいないんですよ。
--すばらしい構成ですね。
田代:アメリカの万博で女性ばっかりで嫌になって帰ってきて、資生堂に入ってまた女性ばっかりでしょ。これにはまいりましたよ。
--ほんとにまいったんですか(笑)?
田代:だって飲みに行くと言っても、女の子と飲みに行くと、しゃべることあまりないでしょう。また飲み屋さんに行くとホステスさんが唖然として見てるんだよね。彼女たち話はうまいし美人だし。
--美容部員の女の子たちだったんですか?
田代:そうです。やっぱりね、当時は美容部員はみんな容姿端麗だったんです。募集資格は容姿端麗な新卒。
--すばらしい環境ですね。そこでモテモテだったということですよね?
田代:モテモテというわけじゃないけど、女性が常に周りにいる環境ではありましたね。
--囲まれちゃってますよね。聞いててもうらやましいだけなんですけれど(笑)
田代:社員旅行で部屋割りするでしょ。女性は一部屋4人ずつ部屋割りして、男性だけはね、部屋割り発表後に必ず旅館の人に別な部屋に変えてもらうんですよ。そうしないと夜襲われちゃうんですよ。
--女性にですか(笑)?
田代:社員旅行の宴会ではみんな飲むでしょ。それで飲んだ勢いで女性が6人ぐらいで1人にかかってくると、さすがに男性でも負けちゃうんですよ。ぶん殴るわけにもいかないしね。男性が上も下も素っ裸にされちゃって追っかけ回されたりするんですよ(笑)。そんな話ばっかりですよ(笑)。
--それが資生堂の実体なんですね、うらやましい(笑)。
田代:それからね、すぐニューヨークに行ったんです。
--ニューヨークですか?
田代:普通は、資生堂に入社して販売会社に行って、倉庫やって、営業やって、いろんな職種を体験して、それから本社に戻るって決まってるんですよ。僕の場合は最初の赴任地の大阪から直接ニューヨークに転勤したんです。
--やっぱり語学力があったからですよね。
田代:たぶんそうだろうと思いますけどね。研修生試験があって、営業成績のいい人とかが支店長推薦で選ばれるんですけど、それで試験を受けたら運良く通っちゃったんですよ。それでニューヨークに行ったんですが…その研修でも、また美容部員がいるんですよ。今度は着物の美容部員。もうキャラバン隊ですよ。
--モデルクラブのマネージャーみたいな感じじゃないですか。
田代:それよりも威張っていたかも知れないですね(笑)。資生堂は女性じゃなくて男性の天下ですから。
--どこにいても女の子がいるという環境だったわけですね。何か若き日の楽しい思い出とかたくさんあるんでしょうね。
田代:まあそれなりにありますけどね…(笑)。
--やっぱりあるんですね。ハーレム状態ですもんねえ(笑)。アメリカには何年いらっしゃったんですか?
田代:アメリカには1年ちょっとぐらいいましたね。
--じゃあ戻ってこられてからは…
田代:今度は国際部です。国際部に何年かいて、それで辞めました。
--辞められたのはおいくつの時ですか?
田代:あれはね、28〜9ぐらいかな。辞めた時は。その頃にね、たまたま新聞社をやり始めちゃったんですよ。
--新聞社を、やり始めた?
田代:ええ、資生堂を辞める直前に、新聞社をやったんですよ。国際部で僕はグアムを担当していたんですけど、それでグアムに行った時にね、ここはこれから日本人の観光のメッカになるぞと思ったんですよ。当時日本のホテルはもういくつかあったんですよ、オークラとかね。でもまだタクシーがあまりなくてバスが主体だったから、貸し自転車屋さんをやろう、と思ったんです。それで出張のついでにグアム島中のホテル、ヒルトンからオークラから全部探して、全部独占権をとっちゃったんですよ。競争があると大変じゃない?だから全部のホテルを回って契約して権利をとったんです。
全部OKとって…それから今度は自転車を仕入れなくちゃいけない。でも全部普通に仕入れてもバカらしいし、そこまでやるんだったら、自転車の総代理店をやったほうがいいかなと思って、当時のミヤタ自転車の専務に会いに行って話したらやるって言ってくれて…それで販売網は確保されたので、次は広告ですね。どこに広告しようかなと思ったら、いい新聞がなかったんです。観光新聞がね。じゃあ自分で作っちゃえって…それで新聞を作ったんです。
--え、ほんとに作っちゃったですか?
田代:そうです。新聞っていうか広告誌みたいな、今の口コミ誌のようなもんですよ。でもそれにはいい広告主がいないとダメでしょう。 でも広告主は、新しいものに広告なんて載っけないでしょ。
--まあ最初はそうですよね。「Musicman」でもそうでしたよ。
田代:でも無料広告だったら、良い広告主も載せてくれるでしょう。だから当時有名なブランド、ホテル、レストランから無料広告を取って、1冊だけ見本誌を作ったんですよ。それから本格的に攻めて、ガーっとお店回ったんですよ。
--でも新聞社も自転車屋も一人で全部やれるわけないですよね?だれかスタッフにやらせてたんですか?
田代:もちろんそうです。口コミの観光新聞だから、毎日書くこともないだろうと思って、芸大の学生を4〜5人アルバイトに採用して。
--まだ資生堂に在籍しているときですよね。
田代:そうです。だからほとんどアルバイト感覚ですね。元資生堂チェーンの人が一緒にやってくれてたんだけど、彼がメインでやって僕がバックアップしていたような感じかな。広告はね、300万ぐらいはとれました。当時、新聞を作るのにせいぜい60〜70万あると作れたんですよ。1回まわって、6ヶ月、1年間の契約で毎月取るでしょう。1年とかのスパンでとると割引になりますからね。そうしたらもう年間の経費が全部出るぐらいでした。
--広告だけでまかなえたんですね。
田代:そうです。それで準備が整って、直前に自転車が来てみたら、完成車が来ると思ったらぜんぜん違うんだよね。パーツで入ってきて全部自分で組み立てなくちゃいけないんですよ。そんなこと知らなかったので、日本へ飛んで帰ってミヤタの専務へ技術者を送ってくれるようにお願いしてね。参りましたよ。それでやっとオープン!っていう日にね、ちょうどニクソンショックだったんですよ。オイルショックでガソリンがストップになって、オープン初日に仕入れた200台が全部売れちゃったんです。
--売れたんですか?
田代:そう、売れちゃったんです。
--なるほど、ガソリンがなくてみんな自転車に殺到したんですね。
田代:そうなんですよ。また仕入れたら、また売れた。実際にレンタル始めるのは1ヶ月ぐらい遅れましたね。販売で追いつかなくて。それから今度は販売した自転車の修理。パンクとかで持ってくるんですよ。それでパンク修理代が1ドル。
--すごいタイミングですね。田代さんとしては全部自分で動いているわけではなくて、全部指示をしてやらせていたわけですよね、資生堂に居ながら(笑)。
田代:そうね、あとはみんな学生でね。
--まさに社長ですね。
田代:そんなもんですね。今でもグアムにありますよ。ビーチプレスっていう新聞です。
--今も存続してるんですね。すごいですね。実はそこからも収入があったりするんですか?
田代:いや、もうそんなことありませんよ(笑)。当時のグアムなんて人口10万人でね、そうやって事業をやるうちにね、僕が有名人みたいになっちゃったんですよ。どこで食事したとか、その日の僕の行動が新聞に出たりして…それぐらい周りがうるさくなってきて、忙しくなっちゃって。それで資生堂も辞めちゃったんです。グアムに移り住もうかと思ったこともありましたけど、顔が知られているからそれも面倒だなと思って…それで今度はハワイに行ったんです。
--今度はハワイですか。
田代:いろいろマーケティングしてレンタカーとかやってはみたんですけど、ハワイは相当競争が激しかったからやめて…それで(株)ジャーデンマセソンっていう会社に入ったんですよ。
--名前だけは聞いたことあるんですが、なにを扱う商社なんですか?
田代:英国の商社です。歴史的な、阿片戦争を起こした会社ですよ。
--あの東インド会社ですか?
田代:そうです。
--日本支社にいらっしゃったんですか?
田代:日本支社です。
--ハワイをやめたところで日本でベンチャー企業をやろうとはお思いにならなかったんですか。
田代:そうですねぇ。あの頃日本はニクソンショックの後で景気が悪かったんですよ。それでタイミング的にマズイなと思ったんです。
--その判断が素晴らしいですよね。20代後半の頃の話ですよね。
田代:20代から30前後ですよね。まあ(株)ジャーデンマセソンにはそんなに長期間いませんでしたけど。ちょうど在籍中、32歳の時に「アメリカで募集している会社があるんだけど、やってみる気ありませんか?」って、フランクリンミントに引き抜かれたんです。「1年終わったらフランクリンミントの日本支社に戻るのを条件でどうですか」ってね。1年ぐらいだったら勉強するのにもいいかなと思って、入社したら1年が2年、2年が3年ってなって、結局アメリカの本社に7〜8年いましたね。
--やりがいがあって面白かったから長引いたんですか。
田代:と言うよりね、僕は東洋担当で、コインとか扱っていたんだけど、当時アメリカと中国が国交を回復した時でね。田中角栄の頃ですよ。ちょうど東洋ブームが起きて、僕の売り上げだけで200億ぐらいになって、一気に売上が上がっちゃったんですよ。
--いきなりすごいですねぇ!東洋ブームだったんですか。
田代:陶磁器と絵だね。小さな壺とかさ。日本やアジアでそういうものを作家に頼んでオリジナルを作らせて、それをアメリカで売るんですよ。コレクションを作るわけです。これが売れましたねぇ。50億とか60億とか。3回連続で社長賞になりましたから。
--すごいですね。
田代:そのうちに「アメリカの居住権を取らないか」って言われまして。今のグリーンカード(永住権)ですよね。グリーンカードを取れば、日本に帰った時には駐在員として帰れるんですよ。家も車も付くし、子供の教育もタダだし。今でも東京にたくさんアメリカ人とかいますよね?あれは全部駐在員手当があるからなんですよ。アメリカと同じサイズか又は小さいサイズの家で、オフィスまで同じ時間で通えるんです。当時の僕は100坪ぐらいの所に住んで、会社まで20分ぐらいで行けたんだけど、同じ所を東京で探すと、どうしても家賃が100万とか200万になっちゃうでしょう。そういうのをみんな会社が出してくれるんですよ。
--そういう所に住んでらっしゃったんですか?
田代:帰国した当初は住んでました。
--それならグリーンカードを取らなきゃ損ですよね。
田代:そうなんですよ。実際ね、グリーンカードの取得って、けっこう審査が厳しいというか、大変なんですけど、フランクリンミントはコインを作っていて、ホワイトハウスやワシントンから来た人達が大勢勤めていたんですよ。だからグリーンカードが即日おりるわけ(笑)。移民局から電話がかかってきて行くと、普通面接とかあるでしょう。それがなくて、「はい、指紋とってください、はい、写真とります」って、それで終わりなんです。
--ラッキーですねぇ(笑)。
田代:それでフランクリンミントには7〜8年いました。一応、極東の総責任者でしたから。
--極東というと、日本だけじゃなくて?
田代:アジア、太平洋地区ですね。
--フランクリンミントはどのくらいの規模の会社なんですか?
田代:社員は5000人位いましたね。アメリカ本社の日本人は僕一人でした。
--それは30代半ばのことですよね。
田代:32〜38才でしたね。
--いやー、ほんとすごい話ですね。やっぱりすごいお給料だったんでしょうね(笑)。
田代:32〜3の時って、もう25年以上前でしょう。その当時で年収2000万以上ありましたから…サラリーマンで日本一だったかもね(笑)。
--今で言うといくらなんでしょうね(笑)…最低でも3倍になってるんでしょうね(編註:1975年の大卒初任給平均は83600円)。
3. 「サラリーマンとしての自分を試したい」〜BMG社長就任へ
--日本に帰られたのはいつ頃なんですか?
田代:帰ったのはね、39才かな。7年ちょっといたんですよね。
--略歴を見ますと、’74年5月にフランクリンミント入社となってます。ということは31歳ですね。それで1981年9月にインペリアルエンタプライズ(IEI)創立と。
田代:その前にね、フランクリンの日本支社副社長(一年後社長含み)として帰ってきたんですよ。僕ももうアメリカ長いからそろそろ日本に帰りたいと言ってね。まあ本当は自分で会社を起こすために辞めるつもりだったんですけどね(笑)。それで帰国してIEIっていう会社を起こしたんです。
--フランクリンミントってダイナースやアメックスカードの会報なんかに、「今回特別にお届けします」とかの謳い文句で紹介されている通販ですか。
田代:そう、それですよ。限定品とかね。元々はさっき言ったようにコインからはじまって、切手、陶磁器、彫刻ときて、最近ではビデオソフトなんかもやっていますね。
--通販のみの会社なんですか。
田代:全部通販ですよ。
--ああいうクレジット会社の会報などで主に宣伝してらっしゃるんですか?
田代:いえ、新聞や雑誌が多いですね。
--なるほど。ではフランクリンで戻られて、すぐにまた新しい会社を興されたんですね。IEIは何の会社なんですか?
田代:フランクリンミントとまったく同じですよ。通信販売で美術品を販売するんです。
--独立されたということですね。
田代:何故かというとね、アメリカの会社で日本人が社長になると、日本人とアメリカ人の真ん中に挟まれるでしょう。それは嫌だったから、だったら自分でやった方がいいやと思って。それで同時にアメリカの法人も作ったんです。
--フランクリンミントからは恨まれなかったんですか。米法人創るってことは、逆襲してるみたいじゃないですか。
田代:どうなんだろうね。10人ぐらい引き抜きましたけど…
--それでも妨害されたりとかはしないわけですよね(笑)。
田代:外国の企業だからね。外国って常にどこか変わるし、珍しいことじゃないでしょう。
--妙なしがらみとかはまったくないんですね。
田代:そうですね。元々インペリアルエンタプライズは最初アメリカに創ろうと思ってた会社なんですよ。僕はアメリカで200〜300億担当していたから、フランクリンを辞めて、そのままそれを全部やっちゃおうと思ってたんです。ところが日本での最初の商品がね、ものすごく売れちゃったんですよ。コーヒーカップを作ったんですけど、いくらだったかな…1セット9万円ぐらいで、500個ぐらい売れればいいかなと思って出したら…10万個売れちゃったの。
--ほんとですか!(笑)通販っていうのは、最初のロットっていうのはたいした数作ってないんですか?
田代:200〜300個しか作ってないですよ。それなのに注文が毎日何百何千と入るし…製造の方はまだいいですよ。顧客の注文を取るスタッフは2〜3人でいいだろうと思っていたのに、全然足りなくてね。伝票書いたり請求書を出したり、広告もいるでしょ。あれでもう一挙に日本でのビジネスが大きくなってしまって……。
--売れた品物はアジア系の商品ですか?
田代:いえ、完全な日本の、和風のモノですね。音楽と同じなんだけど、たまたまそういうコンセプトでNHKと一緒にやったら爆発的に受けたんですよ。
--笑いが止まらないですよね。500個の予定が10万個(笑)…5000枚売れると思ったCDが500万枚売れる感覚ですよね(笑)。
田代:そうですよ。だからIEI時代は年に1、2回は20億とか30億とかのヒット商品を作ってたんですよ。でも音楽業界での20億って言ったら100万枚でしょ。音楽の方が全然難しいですよね。
--音楽の方がなかなか人の心は読めないですよね。お話を伺っていると、田代さんはこれまでご自分で創立された会社がすべて成功されてるんですね。
田代:そうですね。今まで4社起こしましたけど、幸運にも全部成功しましたね。
--しかもそれを途中でいい時に辞められてますよね。
田代:そういうことになりますね。
--今回BMGに誘われて社長になられたわけですね。
田代:自分で創業して100〜200人の個人の会社を持つよりは、もっと大きな所でやってみようと思ったんですよ。自分で起こすのはまたいつでもできるから。
--自分の創立会社に特別な思いはないんですか?あっさりしてらっしゃいますよね。
田代:いや、また起こせばいいやと思ってますからね。 IEIでは日本で創業した後、アメリカでの責任者としてずっと向こうでやってたんです。アメリカにいると面白いんだけどね、ずっと自分で会社をやっていると、サラリーマンとして自分はどのくらいできるのかなって感じる時があるんですよ。サラリーマンだったらほんとに今でも価値があるのかなって。そういう風に思った時に、BMGから「どうですか」って話があったんです。
--そういう理由だったんですね。なるほど。やりたくなったらまた会社をおこせばいいや、ということでね。
田代:そうですね、おかげさまでこれまで失敗したことはないし、借金したこともありません。
--素晴らしいですね。IEIという会社は今もあるんですよね。
田代:ありますよ。
--では田代さんがオーナーでいらっしゃるんですか。
田代:いえ、BMGに入った時に株は全部売ってしまいました。
--そうなんですか。ではそのBMGに入社されるまでの経緯をもう少し詳しくお聞かせいただきたいのですが…アメリカでインペリアルエンタプライズをやっている時に誘われたんですか?
田代:日本に帰ってからですね。’98年11月に帰国したのですが。 ヘッドハンターから電話がかかってきて「今度は音楽を作るのをやってみませんか」って言われたんですよ。 最初はね、音楽はやったことないからどうかなぁ、って思ってたんですよ。でも話を聞いていくと、音楽もクリエイティブの世界でしょ。ミュージシャンがアーティストなわけだよね。僕はそれまで、彫刻家とか画家とかデザイナーとか、いわゆる先生と呼ばれる人達とずっと仕事やってきた訳です。だからアーティストと一緒に仕事してきたってことでは一緒だろうと。実際、僕自身クリエイティブなこともずっとやってきましたからね。コピーを書いたりグラフィックもやったりカメラも指導したり…。
--それは資生堂時代のお話しですか?
田代:資生堂の時ももちろんそうですが、新聞社もそうだし、フランクリンミント時代はディレクターだったし。すべての広告戦略からコピー戦略まで全部自分で作っていました。
--ご自分でやられていたんですね。
田代:商品企画も自分で最初からやっていましたよ。企画をたてて、作家に依頼するんですから。
--要はプロデューサー、ディレクターですね。
田代:画家にも絵の描き方から指示していましたね。木の枝振りの仕方をこういう風に描いて欲しいとか…。
--偉い画家先生にもそんな細かい指示までされてたんですね。
田代:彼らは展覧会で入選するモノはうまいけど、我々はそれを売る仕事だから。売れるモノを描いてもらわないとだめですからね。
--クリエイティブディレクターとしては経験豊富なわけですね。
田代:音楽と全部が一緒って言うことではないけれど共通している部分は多いだろうね。そういう環境に慣れているということで。
--それで、BMGに誘われて面白そうだなと思われたんですね。それまでに音楽業界に知り合いとか友達とかいらっしゃったんですか?
田代:誰もいませんでした。
--音楽業界とはそれまで何の縁もなかったんですか?
田代:全くなかったですね。でもいざ入ってみたらね、デザイナーとか、それまでの仲間がけっこう関係していて、彼等の友達が音楽のプロデューサーだったり…そういうつながりはありましたね。不思議とクリエイティブな仕事をやっている人達は、音楽の友達が多いものですね。
--でも個人的には直接は誰も知らなかったわけですよね。そこにためらいとかはなかったんですか?世界のメジャーレーベル、BMGのトップですよね。
田代:いえ、ありませんでした。世界のメジャーって言うけど、そういう(世界を相手にしている)仕事は昔からやってきましたし外国で仕事していましたから、そういうことはあまり気にはなりませんでしたね。
--日本の外資系レコード会社のトップの方は、よく「海外の親会社からのプレッシャーがきつくて…」と言われることが多いと思うのですが…
田代:それは向こうのトップのサラリーマンが自分の身を守るために下に言ってくることでしょう。たぶん日本企業も一緒だろうけど、同じことですよね。
--そこに大変なものを感じてないんですね。
田代:自分の身の安全を守るために自分の下にプレッシャーをかけて利益を上げる…当たり前のことですからね。基本的には僕はその辺には慣れているんです。ずっとそういう中で仕事をやっていましたから。
--じゃあ初めての音楽業界だからどうこうっていう気負いもなければ、ビビリもなかったんですね。
田代:そうですねぇ、これは音楽業界に限らず外資系の日本の企業全体に言えるのかも知れないけど、中途半端に海外を知っている人が管理職にいすぎると思いますね。その結果、出世の仕方を中途半端に覚えているようなサラリーマン層が日本の外資系企業には多すぎると思うんです。
--それを言える方はなかなか少ないでしょうね(笑)。もっと普通にすればいいのにっていうことですか。
田代:そうだねぇ。なんか変にゴマすったりするでしょう。
--外資だっていうことに変な意識が強すぎるんでしょうか。
田代:一つはね、やっぱりアメリカとか外国から来て英語ができる人が重宝がられるから、情報が一本化しちゃうんでしょうね。うちの会社では役員はみんな英語ができるようになっているから、情報はいろんな方面からいくらでも入ってきますよ。IEIでは役員会も英語でやっていましたからね。
--今のBMGでもそうなんですか。
田代:BMGではそこまでやってないけれど、議事録は英語で記述しています。
--そうなんですね。では実際にBMGに来てみて予想してたのと違うことはありますか。
田代:あまり予想はしてなかったからね(笑)。だって日本での年商は300億ぐらいで、日本支社でしょ。別にとてつもない大企業っていうわけでもないからね。
--BMGファンハウスも田代さんから見ればわりと中小企業っていう感覚なんですか。
田代:中小企業だとは思わないけど、外資系企業としては小さいですよね。仕事もそれまで画家や作家の作品を扱っていたのが、音楽になっただけですしね。
--とくに違和感はなかったってことですね。
田代:そうですね。
4. 音楽業界は20年遅れている!過去のシステムはもう通用しない!?
--では逆に音楽業界に入ってみて、この業界の人達はなんかちょっと違うぞ、っていう違和感はありましたか?例えば自社の社員とかそういう人達に対して。
田代:……やっぱりね、ちょっと遅れていると思いますよ。
--僕らは逆に音楽業界の中しか知らないんですが、他の業界とはちょっと違うんだろうなっていうイメージはあります。
田代:多分ね、音楽業界はこれまでずっと上り調子で来てたでしょう。何があっても常にスターが出てきて、必ず業界が上向きになる。ある会社がダメなときでも、1年待てばスターが出てくるとかね。常にそういう形で回ってきたから、それでやって行けるんだというスタイルでずっと走ってきたと思うんです。テレビの広告にしたって、逆L型で、若者が見る時間帯は土日がこうで、9時から11時ぐらいの時間帯を押さえればいいとか。そういう時代だったと思うんです。若者っていうのは16歳から20歳ぐらいまでかな。これがすべてを握っていてヒットを作る、っていうのがずっと続いてきたのでしょうね。だから反省材料がなかったのだと思いますね。
--業界自体がそういう方向で来てしまったと。
田代:業界人の考え方がね。これまでは常に規模が大きくなってこれたでしょ。それが最近になってだんだん下降気味になってきた。ダメにはなってないんだけども、ちょっと縮んじゃってるでしょ。こういうときにどう解決したらいいのか…「音楽業界人」にはこの点の判断が難しいだろうと思うんですよ。というのは過去に失敗した経験がないからなんです。ほかの業界は常に失敗を体験しています。その積み重ねがあるからね。そう考えると、音楽業界はたぶん普通の業界よりもマーケティングでは20年ぐらい遅れてるんじゃないかな。
--20年ですか…!?厳しいですね。田代さんはレコードメーカーのトップとしては非常に珍しい経歴の持ち主だと思うんですが、他業界の経験者として、音楽業界全体にアドバイスできることがあればどんなことでしょうか。
田代:アドバイスするなんておこがましいけどね…なんだろう。よく音楽業界は小さくなっていってるって言うけど、でも本当に小さくなってるのかな。たしかに売り上げは下がってるけど、努力していながら小さくなっているならまだしも、ずっと過去のやり方を続けていて、それで小さくなっているわけでしょう。ということは過去のシステムがもう通用しなくなっていることは事実ですよね。
--過去のシステム、過去のやり方では通用しないって事ですね。
田代:そう。これまでのアーティスト開発の仕方とか、売り上げの予測の立て方とかね。たとえば昔は資生堂がコマーシャルにタイアップしたらヒットするとかあったけど、たぶん今はそうとは限らないでしょう。ドラマの主題歌になれば絶対ヒットするとか、5〜6年前まではあったと思うけど、今はないでしょう。視聴率が20%超すドラマならヒットするかも知れないけど、もうそんなドラマはめったに出てきませんよね。昔は結構あったけど、今は15%前後でよしとしないといけないぐらいで、将来的には10%ぐらいに落ちるでしょうね。だからもうドラマの主題歌だからヒットする、っていう時代じゃない。それから音楽番組にボンボン出たから売れるかっていうと、そうでもない。普通の業界でもそうだと思うけど、そういうところがどんどん変わってきているでしょうね。
--そうですね。
田代:あと思うのはね、プロデューサーっていうのは、みんな自分をプロと思っているでしょう?でも本当のプロだったら独立してやれると思うんです。レコード会社でサラリーマンしているのはプロじゃない。昔のようにやればヒットする時代ではなくなっているからね。何人かの知恵を出し合うか、一人の真のプロがいて、その人のやり方を徹底的にマネするか、または命令に従って忠実にやるか。独裁的にやるかまたは総合力でやるかどっちかだと思うんですよ。例えば、優秀なトップの人がいたとして、そんな人でも勘違いの音楽を作るかもしれない。勘違いでもとりあえず従ってやる。戦争みたいなもんですよ。そっちの方に進まないと負けるだろうし、トップがダメならみんなで決めていこうという。そのどちらかしかないですからね。
5. 過去の反省を生かした判断、そしていちばん重要なのはチームワーク
--社長になられてから、BMGが明らか変わってきたなと実感なさっている部分はおありになりますか?
田代:そうですね、これは業界の人達からもここ1、2年言われてるんですけど、うちは社員同士が仲いいですよ。レコード会社の洋楽と邦楽は仲悪いとか、いろいろ言われることあるでしょう?そういう壁はもう何もないですよ。同じ会社なんだから。
--それはやはり田代さんのご指導でそういう方向になったんでしょうか。
田代:別に指示した訳じゃないけど、それが当たり前と思い出したんじゃないのかな。みんなわかったんじゃないですか。一応チームワークが重要だ、と言うことは言ってますけどね。
--仲良くするように、という指示も出されているんですか。
田代:邦楽のコンサートの時には洋楽が行けとか、洋楽の時には邦楽が行けとか、そういうことは言いますね。あとは時々一緒に酒飲んだり社内ゴルフ大会をやったり。だから普通の会社ですよね。それでいいと思ってるんですよ。
--レコード会社を普通の会社にしていると(笑)。考えてみると音楽業界はいびつな所がいっぱいあるかもしれないですね。
田代:いっぱいあるでしょ。例えば「今度どういうアーティストを出すのかちょっと言ってみろよ」「そんなの言えませんよ」「じゃあ自分の金使ってやる気があるのか?」「いや、自分の金は使いません」とか。
--(笑)そういう話ありそうですね。
田代:そういうのあるでしょう?音楽業界ってそういうことが多いじゃないですか。
--たしかに多いですね。
田代:ヒットっていうクセモノがあるからね。いくらダメでも1年に1回ぐらいヒットするから、それまでの失敗が帳消しになっちゃうんだと思うんですよ。
--ヒットして盛り上がって、細かいこと反省しないで、とりあえず次行こうぜみたいな。
田代:失敗の連続なんだから、なぜ失敗したのかをもう一回勉強しなきゃいけないよね。音楽業界は同じ失敗ばっかりやってるでしょう。
--よそで一発売れると同じようなアーティストがいっぱい出てきたり…
田代:そうそう。例えばね、うちでは今回「Kiss」っていう邦楽のコンピレーションが100万枚近く売れているんですよ。でも最初は邦楽のコンピレーションは絶対売れないって言われたんです。でもとりあえずやってみろって言ってやったら、一挙に売れちゃったでしょ。そしたら突然各社から邦楽のコンピレーションが相次いで出る。そういうところがあるんですよね。
--どうして田代さんのようなタイプの経営者がいなかったんですかね。これまで異業種から来られた方っていうのは、ほかにエイベックスの依田さん(エイベックス(株)代表取締役会長兼社長 依田巽氏)ぐらいですよね。
田代:依田さんはサンスイから来てるんですよね。ハードとはいえ、大きく言えば音楽業界だしね。だからまあ珍しいのかもしれないね。僕は自分で事業を起こしてきた人間だから、幅広くはやりたくないんです。手を広げるとそのための人員を採用しなくちゃいけないでしょう?音楽の会社だったら音楽だけでいいと思うんですよ。アーティストの開発、制作とカタログの制作。これ以外はやる気ないんです。本業以外のことをやると、経営者の頭がそっちに移っちゃうから、やめた方がいいだろうと思っています。もし違うことをやりたいなら、どこかその道の会社を買収してやればいいでしょう。そこに任せちゃったほうが楽だからね。そういう意味では広げる気はないですね。音楽専業でトップをいった方がいいじゃないですか。
--まず基本に忠実にということですよね。音楽の本業というと、制作から始まって、宣伝、マーケティングですよね。
田代:マーケティングと制作しかないでしょうね。あとはカタログ活用でしょうね。
--会社の事業としてはどの点に比重を置いてらっしゃるんですか?
田代:やっぱりアーティストは人間だし、その人の体調とかいろんな問題があるから、会社の事業計画通りに動かない時もありますよね。そこがレコード会社の辛いところです。だからアーティストだけに売上を押し付けるのは難しいと思っています。良い時と悪い時が必ずありますから。いいサイクルで行けばいいですけど、サイクルに合わない時は、やっぱりカタログの活性化しかないと思うんです。企画モノを作るとか、マーケティングでカバーしていかないと。その辺をうまい具合に歯車を回していければいいと思う。全面的にアーティストだけを頼りにしたらマズイなという気はしているんです。そういう目で見るとうちはカタログは強いですよ。カタログ300万枚売るって事は、50万アーティスト6人分ということだし、仮に300万のアーティストがすっ飛んでもカバーできるということだよね。そういう風にしておいたら会社もアーティストも楽だろうなと。ですから今本格的にカタログの活性化に取り組んでいます。
--カタログがない会社はできませんけど、こちらはありますもんね。
田代:そうそう。それからマーケティングの重要性ね。いろんな形で未だトライしていないマーケットがいっぱいあるんですよ。そういうマーケティングもきちんとやっていかなきゃいけないだろうし。例えば資生堂なんかもそうだけど、小売店のマーケティングにはもの凄いものがありますよ。女性ならわかると思うけど、化粧品のコーナーに行くと素晴らしい装飾があって美容部員がいて、店頭陳列とかとっても工夫しているでしょう。音楽はそこまでやってないですからね。
--たしかにそこまでやってないかもしれませんね。
田代:でしょう?お店に行ったって誰がこのお店の主かもわからない。その辺がまだまだ遅れていると思います。もっとお店を中心にマーケティングをやってもいいと思いますよ。買いたい物があるから店に行くんだろうけど、見て回って、「これも良さそうだからもう一枚買ってみようかな」ってなるわけでしょう。化粧品も同じ。口紅が足りないから見に行くと「こっちの美容液も買ってみようかな」ってなるわけ。
--それは店頭販売のマーケティングということですね。このCDを買った人は、ついこれも買っちゃいそうなラインナップっていうことですよね。
田代:そういうのはあると思いますよ。陳列一つで他のCDも聞いてみようかなって思うわけだから。
--今後はもっとマーケティングを強化してカタログを活かしていくってことですよね。
田代:マーケティングをね、絶対に強化しないとね。今、マーケティング自体変わってるでしょ、メディアが。例えばフリーペーパーが盛んで、逆に新聞は以前に比べて余り効力なくなってきましたし。それからテレビだって全体的に視聴率は落ちてきてるし。CSは出るわケーブルもどんどん広まってきているし。
--その変化を正確に読んでおかないとだめなんですね。
田代:そうですね。でもね、これは強調しておきたいんですが、音楽ってやっぱりいいものなんですよ。このところ世間的にも音楽に関する良いニュースってあんまりないと思うんです。音楽ビジネスは将来性ないとか、違法コピーが売れる、海外から逆輸入品が大量に入ってくるとかそんな話題ばっかり。でもそんな風に報道されちゃうと、銀行は「音楽は最悪の業種だ。音楽関係には金を貸さない。小売店にも絶対貸さない」っていう風潮になってしまうでしょ?どんどん小売店が潰れるてしまうし、若い人は夢を持て無くなっちゃう。お父さんがレコード会社にいたり、CDショップをやってたら、跡継ぎなんて絶対やりたくないですよ。でも音楽ってもっとすごいもんなんです。やればもっともっと面白いものだと思う。だからもうちょっと悲観的じゃなくて楽観的になってもいいと思いますね。
6. 趣味は「仕事」…でも音楽はフルボリュームで!!
--プライベートなことをお聞きしてもよろしいですか?まず好きな音楽のジャンルはありますか?
田代:好きなのはありますよ。もちろん邦楽も好きだけど。邦楽はどちらかというとレコード会社に入ってから聞き出したんですよね。それまではやっぱりアメリカが長いから洋楽が主体だし、単純にクラシックは好きですね。ただ日本の家は音を大きく出せないでしょ。
--ボリュームをですか?
田代:そう。あまり大きくできないでしょう。
--大きな音が好きなんですか?
田代:僕は大きな音で聞きますね。熱海に家を持ってるんだけど、そこは周りに家があまりないから、ほとんどフルボリュームで聞きますよ。
--熱海に別荘があるんですか。
田代:別荘ではないんです。以前は二つ家があって使い分けてたんですよ。5月から10月まで熱海にいて、10月の中旬ぐらいからゴールデンウィーク前まで東京に住む。今は音楽の仕事だとさすがに熱海にいるわけに行かないから、ずっとこっちだけど。
--海が好きだから熱海なんですか?他にはどんなご趣味を?
田代:海は好きですよ。あと趣味って何だろうな。魚釣ったり。あとは庭…庭と言っても、土木だけどね。
--ガーデニングじゃなくて?
田代:土木ですね。木を植え替えたりね。それは運動代わりにやっているけどね(笑)。
--家族構成は?
田代:うちは妻と二人です。
--結婚話が出てきませんでしたけど、いつごろ結婚なさったんですか。
田代:結婚したのは何年前かな…?僕はね、別れてるんですよ。
--バツイチで二回目だったんですか?
田代:バツイチじゃないバツニ。一回目はね、資生堂の時に結婚したんだけど、単身赴任したら単身に慣れちゃって、やっぱり単身がいいやって言って。2回目はね、アメリカで一緒になっていたんだけど、日本に帰ったらやっぱり別れようかということになって。でも今でも引っ越しの手伝いとかして、みんな友達だけどね(笑)。
--それはみんな日本人ですか?
田代:そうですね、みんな日本人。
--外国でも外人の奥さんをもらったわけじゃないんですね(笑)。
田代:それも山陰のせいかな(笑)。日本人の人の方が良かったですよね。
--お子さんは?
田代:二人いますよ。一人は今度結婚式だから出ないとダメなんですよ。
--男女どちらですか?
田代:一人ずつですね。
--音楽業界とは関係ないんでしょうか?
田代:関係ないですね。娘はファッションデザイナーをやっていますし、息子はコンピュータ関係だからね。
--では最後に、まだまだお若くて、これからだと思いますが、最終的な目標とかはおありでしょうか。
田代:うーん、なんだろうなぁ。
--例えば極端な話、BMGもそろそろいいかなと思ってまたご自分で何かはじめるってこともあり得るんですか?
田代:あり得るでしょう。音楽関係かどうかは別としてもね。何かあるでしょう。たぶん、仕事が趣味なんだと思いますよ。
--しかもそのお仕事がすべて成功されるわけですからね。
田代:成功って言っても、もっと成功している人は世の中に沢山いるわけですから。今後も音楽をやるのか、音楽に関連したことをやるのかわからないけどね。以前やっていたようなダイレクトマーケティングと音楽を結びつける方法もあるだろうし。
--ダイレクトマーケティングで音楽を売るっていうことは…。
田代:それはもう今やってますよ。もっともっと強化していこうとしているところですね。
--それは大得意分野ですよね。
田代:たぶん業界の中では一番伸びているジャンルでしょうね。 あと今考えているのはアーティストの関連商品ですね。ファンクラブ対象のもっとイメージの上がる商品を考えたいですね。
--それも田代さんが一番ノウハウのある部分ですね。
田代:そうですね。ライセンス業には僕はずっと関わってきていますから。
--それは面白いかもしれませんね。ところで研音の児玉さんとは、仕事のつながりはないそうですが、飲み友達なんですか?
田代:そうですね。児玉さんの名前はうちの社員から聞いてはいたんですよ。「プロダクションの中でもすごく大変な人がいるんで一度食事をしませんか」って言うんで。それがきっかけで一度飲みに行ったら、児玉さんの行きつけのクラブと僕の行きつけが同じだったんですよ。それで次に行ったらそこも行きつけの所で。
--ひょっとしたら会ってたかもしれないんですね。
田代:すれ違っていたかも知れないですよね。食べ方もよく似てるし、飲み方もよく似てるんですよ。それでゴルフしたり食事会したり。仕事の話は逆にあんまり出ないから一緒に飲めるっていうのはあるかも知れないですけどね。でも「何か一緒に仕事やりましょうよ」っていう話はお互いにしていますよ。まだ実現はしてないですけど。
--児玉さんもジェントルマンな方ですよね。いつか実現するといいですね。今日はお忙しい中ありがとうございました。−−(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
「音楽業界はマーケティングで20年は遅れている」と、これまでの音楽業界のあり方に疑問を投げかけながらも、「音楽は素晴らしいものだから、もっと夢のある業界にしたい」と語る田代氏。BMGから音楽業界のシステムに変革をもたらそうとする氏の姿勢には、自らの経験に対する自信と、現状を打破しようとする意気込みが感じられました。
さて、田代氏にご紹介いただいたのは、(株)ホリプロの代表取締役社長・堀義貴氏です。2002年社長に就任したばかりの堀氏。新しい次代を担う新リーダーにお話しを伺いました。お楽しみに!