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第32回 堀 義貴 氏 株式会社ホリプロ 代表取締役社長

インタビュー リレーインタビュー

堀 義貴 氏
堀 義貴 氏

株式会社ホリプロ 代表取締役社長

2002年に36才という若さで代表取締役社長に就任した堀義貴氏。 ホリプロ創設者、堀威夫氏の次男として生まれ、ホリプロの創生期から見つめ続けてきた堀氏が、幼少時からのホリプロの思い出や、バブル全盛の青春時代、ニッポン放送で発揮された隠れた(?)才能や、ホリプロに入社するまでの思いなど、これまでの半生を持ち前の軽妙なトークでざっくばらんに語っていただきました。
 

[2002年11月26日/目黒・(株)ホリプロにて]

プロフィール
堀 義貴(Yoshitaka HORI)
株式会社ホリプロ 代表取締役社長


1966年6月20日、東京都生まれ。
1989年3月、成蹊大学法学部卒業。
1989年4月、(株)ニッポン放送入社、編成局勤務。
1993年4月、同社退社。
1993年6月、(株)ホリプロ入社。
1996年6月、同社取締役メディア事業本部制作四部部長。 1997年10月、同社取締役制作・宣伝事業担当。 1999年6月、同社取締役・プロダクション・制作・宣伝事業担当。 2000年6月、同社常務取締役・プロダクション・制作・宣伝事業担当。 2002年6月、同社代表取締役社長就任、現在に至る。
 


 

  1. 将来の夢はコメディアン!?タレントに囲まれた少年時代
  2. バブル絶頂の大学時代〜そしてニッポン放送へ
  3. 編成、企画、イベントからレギュラー出演まで…ニッポン放送では何でもやりました
  4. ニッポン放送のノリで「お堅い」ホリプロへ
  5. 人間的でチャーミングな会社をめざして
  6. エンターテイメント産業全体の活性化、そして新しい才能を育てるために
  7. 趣味は映画、ゲーム、ショッピング、商店街…?根っからのエンターテイナーのひそかな気遣い
  8. 事業の多様化をめざして…あらゆる分野へのチャレンジを!

 

1.将来の夢はコメディアン!?タレントに囲まれた少年時代

堀 義貴2

−−お生まれはどちらですか。

堀:東京ですね。広尾の日赤病院で生まれました。

−−お父様がホリプロ創設者の堀さん(堀 威夫 氏)ということですが、少年時代はどんな環境だったんでしょうか。

堀:たぶん小学校に入る頃ぐらいまでは、自分の家が何をやっているのかっていうのが全然わからなかったんですよ。

−−小さいときはそうでしょうね。

堀:ええ。ただね、どうして家にはこんなにしょっちゅうタレントが来るんだろうな、っていうのは思っていましたけど。当時だと守屋浩とか鈴木ヒロミツとかね。それが不思議だったな。「お父さんは何やってるの?」って聞かれても「サラリーマンだ」って答えてましたから。

−−サラリーマンだ、と説明されてたんですねぇ。

堀:ええ。あと「親父はどうしていつも家にいないのか」っていうのも不思議でした。夜中にゴソゴソっと帰ってきて明け方ゴソゴソっといなくなる感じだったんで。今のマンションのはしりなんでしょうけど、赤坂のど真ん中に住んでたんですよ。夜はキャバレーもあるし、今はなくなりましたけど人力車が行き交ってましたからね。「夕方過ぎたら表に出ちゃダメだ」って言われてました。

−−かなり特殊な環境ですね(笑)。

堀:夜中は酔っぱらいが大騒ぎしたりね。賑やかな家だなとは思ってましたけど、それが普通だと思ってたんですよ(笑)。それから家が狭かったんで、僕は小学校に入るまでベビーベッドに寝ていて、それも普通だと思ってたんです(笑)。それが僕の背が低い原因になったんだって親は言ってますけど(笑)。だって変な話、友達を家に呼ぼうとすると、母親が「こんな汚い所に呼ぶな」って言うようなところでしたから。

−−でも、もうそのころホリプロは成功なさっていて、お金はあったわけですよね。

堀:いえ、それが全然なかったんです。僕が生まれる頃ぐらいから、なんとか生活が人並みになったらしいんですよ。これは親父の本なんかにも書いてあるんですけど、赤坂の前の家の時は税務署が家財道具差し押さえに来たりとかあったらしいんです。ホリプロができたのはうちの兄貴が生まれた頃なんですが、一番最初のタレントは守屋浩さんと舟木一夫さんで、いきなりドーンと売れたものの、9ヶ月で舟木さんが独立しちゃってドーンと下がった。今度は守屋さんが飲酒運転で事故って謹慎、収入がゼロになったり…。グループサウンズのブームの時は、スパイダースをはじめ、GSの大半がホリプロにいたんで、またドーンと一本勝ちでしょ。当時は原盤なんて意識ないから、レコード会社からもらってバーッと使ってたらしいんですよ。だからGSが終わっちゃったら何も無くなっちゃう。僕が生まれたのはその頃なんです。

−−良い時もあったんだけど、たまたまお生まれになった頃がそういう時期だったと。

堀:伸び始めのきっかけの頃ですね。僕が生まれた翌年に和田アキ子が入りますから。でもお金はいつも使っちゃってるからなかったんですよ。

−−豪勢な話ですね(笑)。使っちゃってるって言っても、別に遊びに使っちゃってるわけじゃないでしょ?

堀:遊びにも使っちゃってるんですよ(笑)。飲みに行ったりしてたんでしょうね。

−−昔のバンドマンらしい使い方だったんですね。

堀:その中でも固い方だったみたいですけど。自分の暮らしが劇的に変わったのは、赤坂から引っ越して砧の一軒家に住んだときですね。その時が(山口)百恵さんの絶頂の時。(森)昌子さんがいて百恵さんがいてアッコさんがいて。本当に劇的に変わりましたね。

−−その頃は完全にお父さんの職業というか、家業が何であるかはわかってらっしゃったんですか。

堀:ええ。そのころにはわかってましたよ。

−−理解してから考え方は変わりましたか?例えば将来自分も同じような仕事をしようとか…。

堀:当時はそうは思ってないですけど、昔の小学校とかの文集を見ると「自分が第二ホリプロを創る」って書いてあるんですよ。会社なんて一回こっきりだと思ってたんですね。

−−一代限りで終わるものだと。

堀:そうそう(笑)。くだらないこと書いてるなと思いましたよ。僕はね、子供の頃から高校にあがるぐらいまで、萩本欽一さんの大ファンだったんです。お笑いが昔から大好きで、欽ちゃんの弟子になるんだと思ってました。小学校3年ぐらいの時にたまたま親父と欽ちゃんとで何か話があったんですよ。渋谷のパンテオンの横にフランセって喫茶店があって、夜の9時ぐらいに「欽ちゃんに会いに行くけど行くか?」って言われて一緒に行ったんです。僕は普段から落ち着きがなかったんで脇でいろいろやってたんですよね。帰り際に欽ちゃんが「この子はいいコメディアンになるね」って言ってくれたのをよく覚えていて、自分の中でもその後ずっとそう思ってましたよ。だからフジテレビの「欽ドンのよい子悪い子普通の子」で、長江健次が中三の時にフツオを辞めて、フツオのオーディションがあったときには、一回だけ親父に相談に行きました。「欽ちゃんの弟子になろうと思うんだけど」って。そうしたら「お前それだけはやめてくれ。タレントなんか大変なんだから。身ぐるみ剥がされちゃうんだぞ」って言われまして(笑)…それであきらめたんです。

−−お父さんはご自分ではそういうお仕事をなさっていたのにね(笑)。

堀:まあ親父は会社を始める前はギター弾きで、大スターだったわけですよ(堀威夫とスウィングウエストで一世を風靡)。自分でも言ってましたけど。昭和35年にホリプロを創る時にギターを捨てて、「楽器なんかやるとろくな奴にならない」って言ってたんですよ。自分の親父が楽器弾けるって知ったのは中学入ってからなんですから。

−−楽器を禁じられてたんですか。

堀:家に楽器がなかったんですよ。ある時、カラオケ代わりに親父が弾き語りをやってくれた事があって、「ギター弾けるんだ。うまいねぇ」みたいな話になって、それからやっと昔の写真が出てきたんです。

−−ずっと封印されていたわけですね。

堀:まあ知らないし、見せてくれとも言わなかったから、見せなかったんでしょうね。今でもとってあるけど、昔の「MUSIC LIFE」でね、投票があったんですよ。うちの親父はカントリーだったんですけど、カントリーもジャズもベースとかギターで楽器ごとに人気投票が毎月あって、その一番なんですよ。ずっと何年も。「俺はそのぐらいすごかったんだ」って。「じゃあギター教えてくれればよかったのに」「あんな事やったらろくな奴にならない」って(笑)。

−−音楽的な環境は全く与えてもらえなかったんですね。

堀:ないですね。周りがみんな毎晩バクチやってるような環境じゃないですか。だからあんな所に入ったらろくな奴にならないと思ってたんでしょうね。

−−当時のミュージシャンは本当にそうだったんですか?

堀:そうでしょうね。遊びの話とか聞いてるとやっぱりハチャメチャですからねぇ。

−−タレントさんから遊んでもらったこともあるんでしょうね。

堀:ありますよ。和田アキ子や(榊原)郁恵もそうですし、片平なぎさとか…昔のホリプロ運動会で百恵さんとか郁恵さんと撮った写真とか、当時の写真はいろいろありますよ。でもね、もうとんでもないガキだったって言われますよ。偉そうにして、ちっちゃいのに「お前なんかクビだ」とか言って歩いたり(笑)。運転手の頭を後ろからひっぱたいたり。「よくお前更生したな」って言われます(笑)。

−−それは小さい子どもの頃のことですよね?

堀:けっこうずっとそうでしたね(笑)。社長の息子だからみんなおだてるでしょう。おだてられればいい気になっちゃいますから(笑)。和田アキ子に悪口言ったり…(笑)。僕がホリプロに最初に入った時には「あの憎たらしい奴が入ってきた、冗談じゃない」ってみんな思ってたそうで(笑)。

−−徐々に更生なさったんですか?(笑)。

堀:「昔はご迷惑をおかけしました」って言って回りました(笑)。

−−誠意を見せてご挨拶したと(笑)。

堀:いまだに昔のことは言われますけどね。

−−わんぱく小僧だったわけですね。お兄さんもですか?

堀:僕は無茶苦茶でしたね。兄貴は真面目なんですよ。同じ学校に通ってたんですけど、担任が同じだったから、親は「お兄さんは本当に大人しくて優等生で…それに比べて弟は…」っていつも言われてたそうですよ。札付きですよね(笑)。 でも人前に出るのは苦手だったんです。授業で指されると真っ赤になっちゃう、みたいなね。

−−それはコメディアンには向かないですね。

堀:モノマネとかは得意で、内輪の中でやるのはいいんだけどみんなの前で不特定多数に向けて何かやるっていうのは苦手だったんです。それが、高校一年の時に学園祭で屋外イベントの仕切りをやったんです。人にやらせるより自分でやった方が早かったからね。そうしたら病みつきになっちゃったんですよ、先生のモノマネとか。それからは人前で喋るの大好きなんですよ。取材大好きです。一対一の方が苦手ですよ。

−−ひっくり返ったわけですね。

堀:表に出るのはこんな気持ちいいのかって目覚めましたね。中3でコメディアンを諦めた時点では、歌は下手だし、芝居なんか出来ないし、学芸会とかでもクラス全員出演者なのに、僕は演出とかにまわっちゃうわけですよ。自分も出たいし、俺がやった方が絶対面白いっていまだに思ってるんですよ。でも、誰かがやってるのを後ろで「ふむふむ」って見てる方が面白いぞ、と思ったのは高校に入ってからですね。でも、まさかホリプロの社長になるとは思いませんでしたけど(笑)。

 

2. バブル絶頂の大学時代〜そしてニッポン放送へ

堀 義貴3

−−大学時代はどんな風に過ごされたんですか。

堀:そうですねぇ。大学の4年間はひたすら麻雀と飲み会ですね。何をやっていたんでしょうね(笑)。

−−飲み会っていうのは女の子と?

堀:いえ、仲間内で。男も女もいましたけど。当時はディスコブームでね、マハラジャとか。

−−バブル世代ですか?

堀:バブル世代です。15〜6年前ですからね。だから就職も売り手市場だしね。差し迫った危機感は何もなかったんですよ。

−−’86〜7年ぐらいというと…まさにバブル絶頂期ですね。

堀:青山のKING &QUEENとか、ああいう所に入り浸って…(笑)。

−−あのVIPルームに入り浸ってたんですか?

堀:VIPルームはドレスコードに引っかかる奴がいたりして入れてもらえなかったんで、そんなに行ってないですね。とにかく3〜4時間わーっと踊って…ウケないと面白くないから、変わった踊りをすると周りが円になって僕らを見る、それが気持ちいいっていう感じでしたね。

−−目立ちたがり屋だったってことですね。男でもお立ち台の上に乗ってた方ですか?

堀:そうですね。

−−じゃあ踊り狂ってるうちに学生時代が過ぎたと。

堀:終わっちゃいましたねぇ。まず学校行きませんでしたからね。朝は行くんですけど、校門入るとき誰かが声かけてきて「おー堀!麻雀やるぞ」って言ってそのまま門から出ちゃうとか…(笑)。それで気づいたらもう夜中になっちゃう。あと朝方の授業に出て、次が4限とか午後の授業だと3時間ぐらい空いちゃうでしょう。それで友達と有り金を数えて養老乃瀧に行って、1000円とか800円とかぐらいで「これで飲めるだけ下さい」って。昼間だからまたビールが冷えてるんですよ(笑)。

−−なるほど(笑)。それで昼間っから…。

堀:昼間から飲んじゃって、けっきょく授業行くのが面倒くさくなって、「俺の家で飲むか」とか…そういうことばっかりですよ。

−−大学生として、人生の不安とか将来への期待とかは…。

堀:まったくなかったですよ。今思うとすごい時代でしたね。

−−親もうるさく言わなかったんですか。

堀:うるさい親ではなかったですねぇ。何も言われなかった。

−−野放し状態ですか?

堀:野放しではないですけどね。でも他の家の子は小さいときに「あまりテレビばかり見るな」とか言われるでしょう?うちにはそういうことはなかったですね。子どもの頃から「11PM」まで見てましたから。僕らに見せてリサーチかけてるんですよ、親父が。どのタレントがいいとかね。だから全然怒られなかったし、学校で一日何時間勉強するとか、何分テレビ見るとか調査されたときに、「6時間テレビを見る」って書いたら親が呼び出されちゃったこともありましたよ(笑)。

−−今みたいに勉強時間やテレビについて真剣に論議されてなかった時代ですよね。

堀:僕らの周りはそうでしたね。今日が楽しければいいっていう感じで。

−−その頃のお友達とはいまだに付き合いがありますか?

堀:そうですね。幼稚園からずっと一緒とか、小学校や中学から一緒とかいろいろいますけど…社長になってる奴もいるし、普通にサラリーマンやってる奴もいるし、破産しちゃった奴とか。今思うと、自分も含めてよく更正したなぁと思いますよ。人件費がどうのとかビジネス的な話で盛り上がってるなんて、とても昔からは想像つかないですよ。昔はどこから金を引っ張り出して遊んでやるかってことばかり考えてましたから。だからよけいに今は無駄なお金を使わなくなりましたけど。

−−最近はあまりお金を使われないんですか。

堀:使わないですね。まぁ元々そんなに使う方ではないですけど。

−−スポーツとかのご趣味は?

堀:全然ないです。帰宅部でしたから。高校になると塾や予備校に行く人達もいたし…3年のときは学校の授業が少なかったから、代ゼミが始まるまで4時間位あるんですよ。それで代々木近辺の喫茶店にタバコをキープしとくんです。持って歩くと補導されちゃいますからね。喫茶店という喫茶店のあちこちにキープタバコがあって、吸いきった奴が買って置いておくんです。あとは麻雀やってました。共通一次試験の前の日まで麻雀やって…付き合って一緒に麻雀やった奴はみんな浪人しちゃって、僕だけ受かっちゃったんです(笑)。

−−勉強はやらなくても調子いいっていうタイプですか。

堀:そうですね。今でもそうですけど、無駄な事はやらないんですよ。数学は俺は苦手だって思った瞬間に、高校一年の時からいっさいやらない事に決めて、数学は学年ビリでした。1点とか2点とかね。そのかわり、世界史とか日本史なら覚えちゃえば点数上がるから、世界史は100点とかね。教科書まるまる一冊暗記しちゃったり…。

−−要領がいいって事は頭がいいって事ですよね。

堀:まあずる賢いんでしょうね(笑)。

−−楽しい学生生活を終えて、まさに1989年、まだバブルがはじける直前ですね。平成元年にニッポン放送に入社したと。これは親御さんのコネ入社だったんですか?

堀:結論を言えばそうですね。もともと放送局志望だったわけじゃないんですよ。プロダクションは子どもの頃からずっと見てきてるので、そういうことがやりたいなと思っていて、違うプロダクションに行こうと思ってたんです。それで、とあるプロダクションの社長さんからも、うちにおいでって言ってくださっていたんですけど、親父にダメだって言われまして…。同じ頃に渡辺プロのパーティで渡辺晋さん(渡辺プロ創設者)にお会いしたんです。大社長ですから周りに人があまり近寄らないんですが、僕は性格的にOKなんで「どうも、こんにちは」って話しかけたんですよ。それで晋さんに言われたんです。「君は何やるの?」「何も決めてないんです」「なら親父さんの跡継がなきゃダメだよ」「いや、でも僕はその気ないんですよ」っていうような会話をして。結局のちにニッポン放送を辞めるのはその一言が原因になるんですけどね。

それでほかのプロダクションに行けないんだったら、もうどこでもいいやと思って、親とも話して、テレビ局を受けようかとも思ったんですが、なぜか僕には時間がないっていう意識があるんですよ。生き急いでるって言われますけど。テレビ局でアシスタントディレクターを3年も4年もやるのは嫌だなって思って、ラジオだったらすぐディレクターになれるなと思って、それでニッポン放送受けたんです。めでたくコネ入社です(笑)。当時の総務部長が言うには、筆記の試験は良かったらしいですけど(笑)。

 

3. 編成、企画、イベントからレギュラー出演まで…ニッポン放送では何でもやりました

堀 義貴4

−−めでたく編成に行かれたわけですよね。

堀:そうですね。でも当時はめでたくなかったんですよ。編成は社内中で嫌われてるセクションだったんで。

−−そうなんですか。

堀:制作より編成が強かったんですよ。制作部のディレクターからも嫌われてた。営業がスポンサーを色々持ってきても、自分のところでやろうとしてる番組とスポンサーが合わないと編成が断っちゃう時代だったんですよ。スポットなんか満杯で、売っても売っても足りない時代でしたから。その余った分をタイムで売っていて、いくら断ってもまたくるわけですよ。「おまえらは俺達が売ってるから番組作れるんだぞ」みたいな最も嫌われてるセクション(笑)。だから嫌だなぁと思いましたよ。ディレクターやりたかったのに、なんでそんな事務作業みたいなことやらなきゃいけないのって。 

−−編成では具体的にどんな仕事をなさってたんですか。

堀:番組の企画とフォーマット作りと営業調査ですね。ニッポン放送の編成は非常に仕事が多くて、イベントもやれば本の出版もやる。フジサンケイグループ全体のイベントもやれば、映画の担当もいる。一人で6種類くらいやるわけです。とりあえず誰もやる人がいない時は編成にくるんで、何でもやりましたよ。「誰か番組出る奴いないから、とりあえずお前出ろ」とかね。1年半くらいレギュラー出演していたこともあります(笑)。

−−表に出る事もあるんですか?どんな役だったんですか。

堀:最初に出たのは占い師です(笑)。アメリカの色占いの本があって、先輩が「面白いからこの本の日本語訳を出版しよう」ってことになって。だったら番組で盛り上げなきゃいけないから、占い師が必要だよな、って話になったんです。最初はその先輩がやってたんだけど、その人が海外研修に一年間行っちゃうから「お前代わりにやっといてな」と。だから最初に番組に出たのは、「レインボーホリ」っていう占い師でした(笑)。

−−レインボーホリ?(笑)

堀:「オールナイトフジ」とかも2回位出たことありますよ。人生相談みたいな事やってね。それを半年やって。その後しばらく間があいて、夜帯の番組を全部変えるときに若手の有志が集められて、「お前らのやりたい番組を実際に作って持ってこい」って言われたんですよ。放送する前のデモテープみたいなのを。で、先輩と2人で「尾行が面白いんじゃないか」って話になって、「尾行マン」っていうのをやったんです(笑)。今でいうストーカーですよね。

−−それはヤバイ企画ですね(笑)。

堀:で、とにかく作ったんですよ。アトランダムに街中で女の子を探して、後ろ姿で決めちゃって家に帰るまでをスポーツアナウンサーが実況中継するっていう。実況だけじゃつまんないから解説をつけたんですよ。尾行評論家の堀さんとして(笑)。それでデモテープ出したら、当時の編成局長でポニーキャニオンの前社長の稲葉さんが「これは面白い、コレで行こう」って言ってくれて。それで「伊集院光のOh!デカナイト」の中でレギュラーで5分ベルトでやったんですよ。

これが結構話題になっちゃったんですよ。当時NHKで「ミッドナイトジャーナル」を担当されてた山根一眞さんも聞いてくださっていて、「NHKが終わって車乗ってしばらくすると尾行マンが始まるんだよ。すごい面白いんだけど、途中でニッポン放送が聞き難い地域を通るから、結末がどうなったかいつも分からないんだ」って言われたりして(笑)。テープ送ったりしましたね。

−−結構大ヒット企画だったんですか?

堀:そうですね。3時間生放送のスペシャルやったりとかね。結果的にそれは終わるんですけど、それは通常業務に支障をきたしちゃったからなんです。夕方くらいから下校時間を見計らってスタートして、終わりがいつになるかわからないじゃないですか。どこまで行くかもわからないし。で、ちょっとさすがにもう無理だったね。それでコーナー自体終わっちゃった。

−−それはまずいことになったりしませんでしたか?女の子がヤバイ所に入って行っちゃったとか。

堀:ヤバイとこ入ったことはないですけど、不思議な行動をする子はいましたね。例えば女の子二人が九段下から東西線に乗って中野の方に向かっていって、片方は編み物していてもう片方の子は途中下車したんです。「友達が降りました。どちらを追いましょうか。とりあえず編み物してる方を追っかけましょう。」「じゃあ仮にこの名前をK子としましょう」みたいな感じで中継していると、K子が突然、泣き出すんですよ。電車の中でひとりでね。これは実況冥利に尽きますね(笑)。「どうやら泣いています。これはどういう事でしょう。大ハプニングです。「ひょっとすると編み物を送る相手が実はいないんでしょうか。」「別れてしまってるんでしょうか」「友達には彼氏に編んでるって言ってるんだけど実はあげられないんじゃないか。」とか…。あとは直線距離なら5分で帰れる所を、電車を乗り継いでぐるーっと回って2時間かけて帰る子とかね。

−−一応、可愛い子を追っかけてるわけですよね?

堀:いえ、わからないんですよ。後ろ姿で追っかけますから。「そろそろ前を見て顔を確認しましょうか、堀さん」って途中で確認するんです。先回りして走って前から見るんですけど、その時に絶句するか、おおっ!となるかですかね。それで「いわゆるバックシャンって奴でしたね(笑)」「残念でしたね」「やはり黒髪の少女に美人が多いって言うのはどうも俗説のようですね」みたいな解説を入れるんです(笑)。

−−それは面白いですね(笑)。すごい遊び心があるというか、学生の遊びみたいですね。

堀:やってる本人もけっこう面白いんですよね。自由が丘に住んでる女の子はすごくかわいかったなあ。

−−家に着くまで追いかけるんですか?

堀:最終的には追いかけられない事が多いですね。まぁ見失うというか…。バレる事は絶対ないです。真横通ったってバレません。やっぱり見失っちゃうことが多かったですね。あと、僕らは行き先がわからずに切符を買ってるから、あんまり遠い所に行かれると、精算に手間取っている間にいなくなっちゃったり…。そんな感じでした。

−−この企画はテレビだったらまずできませんよね。

堀:出来ないですね。カメラ担いで尾行できないですからね。ラジオだから、テープレコーダーは上着の中に掛けといて、アナウンサーマイクを上着のポケットから出しておくんです。

−−ニッポン放送時代の最大のヒット企画は「尾行マン」なんですか?

堀:まあこれは遊びでみたいなもんで、ヒットしたのはドラマですかね。ニッポン放送が何年かぶりにやった長編のラジオドラマだったんです。元々、僕の隣の先輩がやってたんですけど、人事異動で僕に回ってきて…なんかそういう事多いんですけどね、僕は(笑)。「沈黙の艦隊」っていう漫画をドラマ化したんです。そしたら放送間近になって湾岸戦争が始まって「やっぱり放送できないから」って一度は言われたんだけど、もう作っちゃったし、予算300万のはずだったのに、気がついたら1000万位掛かっちゃってて(笑)。そんだけ掛かってんだから放送しなきゃってことになってね。聴取率みたらダントツの一位なんですよ。あの時はすごかったですよ。放送前にインタビュー受けたりもしたんだけど、もう右から左から脅迫状や脅迫電話がバンバンくるんですから。

−−そんなに問題になってしまったんですか。

堀:その漫画の題材自体が日米安保を否定してることになっちゃうんです。潜水艦で戦争をする話だから、戦争反対側からも右翼系もくるんです。一方では原子力で、しかも戦争するとんでもない放送だし、一方でははアメリカに対するそういうのは何事だ、大和とは何だ、とか。

−−制作前に社内ではそういう問題にならなかったんですか。

堀:やってもいいのか、っていうのは問題にはなりましたよ。でもまあ漫画だしいいんじゃないかな、ってことで(笑)。

−−どんな脅迫が来るんですか。

堀:「ぶっ殺してやる」みたいのも来るんですよ。もちろん怖かったですけど、でも実際には来ませんでしたからね。

−−ニッポン放送にはどのくらいいらっしゃったんですか。

堀:まる4年ですね。

−−もしまだいたとしたらどんなことをなさってると思いますか。

堀:くだらない番組やってるんでしょうね。僕はニッポン放送にいた時もスターシステムが好きじゃなかったんすよ。無名な奴でくだらない事を真剣にやるっていうのが好きだったんで。尾行マンなんかもそうなんですけど、ほかにも匿名でレポーターにテープレコーダーを持たせて食事に行かせて、美味しくないときには「まずい」シールを貼ってくるっていうのもやりました。もちろん店の名前は明かさなんですけど、やっぱりクレームがきましたね(笑)。つかこうへいさんが作ったニッポン放送のCMもすごかったよ。あの人も無茶苦茶な人ですよね。ドラマ仕立てのCMで一流のキャスト、仲代達矢さんとか藤谷美和子さんとか使ってやったんだけど『「お父さん巨人が負けてるわよ」「そりゃお前、●●●とか×××聞いてるからだろ。ニッポン放送を聞いてみろ。ほらお前、巨人が勝ってる。」』とか、『「お父さん今日もニッポン放送ですか?」「当たり前だ。●●●だ、×××だの聞いてると頭悪くなるぞ」』とかね。途端にクレームがくるんです(笑)。そういうバカみたいな事ばっかりやってましたね。僕の同期が今、編成副部長やってるんですが、たぶんその位のポジションになってたら平気で同じようなことやってるでしょうね。

 

4.ニッポン放送のノリで「お堅い」ホリプロへ

堀 義貴5

−−お辞めになるきっかけというか理由というのはお父さんに?

堀:タイミングが良かったんでしょうね。ちょうどフジサンケイグループのいろいろな騒動(編註:1992年に当時のグループ議長、鹿内宏明氏が解任された)があったんですよ。羽佐間さんが記者会見で議長の解任を発表しているときにまだ会社にいたんですが、自分のデスクで「ついにやったな〜」とか言ってたんですよ。そうしたら上司が「お前ら何言ってんだ。まだニッポン放送の会長だぞ!」って怒っているのを見て、おかしいなと思ったんです。元ニッポン放送社長で、みんながお世話になった羽佐間さんが発表してるんだから、会長だからといってもういられるわけないし、そういうなりゆきなのに、この人は何言ってるんだろうって。僕みたいにいいかげんな事やってる人間を許してくれたこのニッポン放送っていう会社が、どんどん堅くなってるんだと思って、翌日バカバカしくなっちゃって会社休んだんです。そこで親父に食事に誘われたんですよ。これも面白い勧誘の仕方するんですよね(笑)。「何かゴタゴタしてるなら辞めてもいいんだぞ」みたいなことを言うんです。「でもまだやりたいこともあるし、(ホリプロには)兄貴もいるからいいじゃない」って断ったんだけど、半年間位で3、4回「来ないか」って誘われたんですよ。

−−やんわりと誘われ続けたと。

堀:ええ。僕はずっと絵のないラジオをやってたんで、映像をやってみたいとはずっと思ってたんですよ。ホリプロも番組制作やってるんで「ホリプロ来て番組制作やればいいじゃないか」って言われてグラッときたりして。でもホリプロは上場もしてるし自分には合わないだろうなぁって。

−−もう上場してたんですね。

堀:してました。僕みたいないいかげんなヤツはホリプロなんて堅い会社は向いてないと思ってたんですよ。だってバブル最末期でしょ。銀座のタクシー乗り場に200mくらい並んでも明け方までタクシーがつかまらない時代にね、裏電話使って車10台集めてはレコード会社からプロモーターから、みんなに配ったり…そんなことばっかりやってたんですから。

−−ホリプロの方が堅かったんですね(笑)。

堀:全然堅いですよ。それでも「ニッポン放送のノリをホリプロに持ってくればいい」とまで言われて、それで来ることにしたんです。

−−お父さんに頼まれたから来たということですね。

堀:自分を主人公にして、さらに親父の面目もたててホリプロに「戻った」のではなくて中途採用で「来た」っていう感じですよね(笑)。 自分の希望としては、映像制作がやりたかったからホリプロに来たかったっていう理由もあるし。ニッポン放送でできることはもうやっちゃったということもあったし。ほんとはね、もしかしたら僕が辞めるかもしれないという雰囲気があったから、最後にディレクターとかやらせてくれないかな、と思ってたんだけど、結局次の人事でもまた編成だったし。ディレクターになれないのなら、もう潮時かなぁと。

−−おいくつの時ですか?

堀:26才でしたね。

−−タイミングとしてはちょうどよかったかも知れませんね。

堀:そうですね。

−−お父さんからすれば「来てほしい」と思われていたのでしょうけど、いざ会長の息子さんが入社するとなれば、社内の人達はどう思われたんでしょうか。

堀:それぞれいろいろあったでしょうね。後から聞きましたけど、映像制作のセクションの人達が僕をなんて呼ぶかで悩んだらしいですよ。「堀さん」か「堀」かで。

−−来てみたらどうでしたか?

堀:来てみたら「義貴ちゃん」でした(笑)。

−−なるほど(笑)。業界っぽいですね。

堀:そうですね。でも親にも下の名前で呼ばれた事がなかったので、最初は違和感ありましたけど。照れるし、違う人のことみたいで。

−−ホリプロに入ってからは念願の映像のお仕事をなさったわけですよね。

堀:それがね、あんなに映像をやりたいと思っていたのに、いざやってみるとこんなに制約があるのかって思いましたね。自分の所でテレビ局持ってるわけじゃないですから。「これはダメだ」とか「この絵が足りない」とか。そんなに絵がないとできないのかなっていう疑問はいまだにあるんですよ。ラジオの方が全然自由だったし、制約はなかったと思います。 映像があることによってものすごく面倒な事が多いですね。

−−お金もかりますしね。でもプロフィールを拝見すると、ホリプロの業務をすべて一通り体験なさってるんですね。

堀:厳密に言うと現場のマネージャーだけはやってないんですけどね。

−−あとはファンクラブまで担当されていたんですね。

堀:ええ。どんな仕事も人付き合いにはかわりはないと思うんです。いわゆるマネージメントしてこのタレントをスターにしましょうっていう細かなことはやってないですけどね。隙間の部分は相当やったと思うんですよ。バーチャルアイドルとかもやりましたし、ゲーム業界の人と組んでオーディションをやったり…そこから出てきたのが妻夫木聡です。映画も何本かやって、映画は一勝三敗かな(笑)。

−−映像がやりたいということでしたが、映画製作とかも興味はおありなんですね。

堀:本当はやりたくてしょうがないんですけどね。僕は一昨年大失敗したんで、自分では映画はやらない、って言い切っちゃったんですよ(笑)。

−−ホリプロは堅い会社だ、とさっきから仰ってますけど、実際入社されてどうでしたか。

堀:まず最初とまどったのは、伝票の切り方やお金の使い方ひとつとっても、すごいシビアな会社なんです。経費は3000円以上稟議とかね。昼飯も食えないですよ。給料半分ぐらい減っちゃいましたから。

−−大昔はお父さんが豪気にやってたのに、どこかでひっくり返ったちゃったんですね。

堀:やっぱりホリプロの初期には本当にお金がない時期があったんで、一人のタレントには売り上げ25%以上やらせちゃいけないとか、無借金でいこうとか、いろいろ決めたみたいですね。

−−そういうことを全部学ばれたんですね。

堀:そうですね。だからいまだに借金はないんですよ。セクションをたくさん作ってリスクを分散するっていうのは、そういう初期の経験を生かして培ってきたんです。百恵さんが辞める時も、ホリプロはつぶれるだろうって言われました。どの週刊誌にも書いてありましたから、子ども心にもそう思ってましたけど、当時の百恵さんの売上は全体の24%位だったんで、つぶれなかったんです。逆に百恵さんが辞めた翌年の方が売り上げが良かったですから。うちは誰かが引退すると神風が吹くんですよ。百恵さんの時もすぐに堀ちえみが出たり、(鈴木)保奈美が引退した時もすぐに深田恭子や優香が来たりね。そういう感じなんですよ。

−−運がいいというか、呼び込むんでしょうね。じゃあ現在はかなり堅い、厳しい会社なんですね。

堀:若干柔らかくなってると思いますが、未だに堅いです。お金の使い方もね。今でも3000円以上は稟議ですよ。でも無駄金は一切使いませんが、生き銭だと思ったときはガンガン使いますからね。

仕事が成立したら、どこの業者さんでもタレントでもそうですけど、ギャラが入金されなくても支払いを先にやっちゃうんですよ。現金で翌月払いなんです。手形は一切やりません。業者さんからすると金払いがいいですよね。そういう意味では信頼していただいているんでしょうね。これは自分たちが逆の立場で、手形でえらい苦労したっていう経験もありますし。

 

5. 人間的でチャーミングな会社をめざして

堀 義貴6

−−今回の社長就任は一応お父さんからそろそろお前に任せても大丈夫だということで今年就任されたわけですよね。お父さんからは何か免許皆伝みたいなものはあったんですか。

堀:何もないですよ。小田(小田信吾氏:ホリプロ前社長)を会長に、兄(堀一貴氏)を副会長、お前を社長にすると言われただけで。

−−お兄さんはずっとホリプロにいらっしゃったんですか。

堀:兄は電通からポリスターに行って、大洋音楽に行って、それからホリプロですね。兄はずっと著作権とか国際部門なので、いわゆるタレント周りはやったことがないんですよ。だからあまり表には出てこないので、兄の顔を知らないっていう人も多いんですが、JASRACやMPAの人達には知られてると思いますよ。

−−ではお父さんから人事を言い渡されて就任した、ということなんですね。

堀:そうですね。もちろん「今後これをやってほしい」というような話はありましたけど、「まず健康に気をつけろ」と言われましたね。

−−健康第一と言うことですね(笑)。では義貴さんとしてはこの先のホリプロをどういう方向に引っ張っていかれるおつもりなのかお聞かせ下さい。

堀:これはオリコンでも話したんですが、「チャーミングな会社」になってほしいんですよ。具体的な話じゃなくて、人柄のいい良い社員がいて、人柄のいいタレントがいて、外部の人から「ホリプロに行くと面白いから、とりあえず行って話をしてこよう」っていう風になりたい。要するに仕事がなくても雑談に来てくれればいいんです。雑談がたくさんあるとそのうちの一つぐらいは「面白いからやってみよう」って発展するかもしれない。僕のやり方は全部そうなんですよ。まず「いい人」だから会いたいと思われるような会社になって人が集まる。そうするともっとよくなるから「あの会社に入りたい」と思う。タレントとしても社員としても。和気あいあいと明るく楽しくね。そうなれば絶対に潰れないと思いますよ。

−−みんなに愛される存在になるってことは、たしかにエンタテインメント業の基本ですよね。

堀:僕らはエンタテインをさせる会社でしょ。喜ばせてなんぼっていうところで。喜んでもらってる人を見て初めて喜ぶわけで、自分たちが面白そうな顔してなかったら喜んではもらえない。つられて笑っちゃうっていうのが一番いいわけですよね。

−−そのためにはまずいい会社にしたいということですね。

堀:そのためには会社の人間力を高めるべきだと思うんです。うちの会社って特殊なんですよ。爆発的に大ブームを作る奴はいないけど、(鈴木)ヒロミツは37年いるし、アッコは35年。郁恵も25年いる。10年選手以上がこんなにたくさんいるプロダクションってないんです。それで全員食えてるでしょ。最近はタレントのサイクルがどんどん短くなっていてアーティストはかわいそうですよね。使い捨てじゃなくて、食ってくっていうことをもうちょっとロングスパンで考えないといけないと思います。そういう優しい気持ちとか、人を遣ってものをやっていく時の人間的な根本的なことが世の中からだんだん欠如してきてるように思うんですよ。モノと一緒だけど。それで外資系が出てきて外資系は冷たい冷たいってみんな言ってますけど、アメリカ人とか「コイツだ」と思った奴には、とことん最後まで付き合いますよ。一元的にはモノを見ないっていうか。だから感動するとか、怒るとか、泣くとか、ヒューマニズムをもっと増やしていくべきだなと。

−−たしかにそういうことまで教えていかないとダメな気はしますね。

堀:そう、そんなことまで教えなきゃいけない時代なんです。だってあと10年経ったら、円周率「3」で覚えてきた奴が入ってくるわけですから、絶対融通きかないんですよ。無駄なこともどんどん教えていかないと。

−−戦後の世代がそれを教えてないっていうのが大きいんでしょうね。誰かがそれをやっていかないと。

堀:僕らはテレビに教わったんです、親が家にいない分。僕らの世代って高度成長期の時の親じゃないですか。テレビは楽しかったし面白かった。いい話もやってたしドキュメンタリーもやってたし、アニメももっとこう…例えば「フランダースの犬」とかやってたわけじゃないですか。先週久々に中国に行く飛行機の中で映画の「フランダースの犬」見たんですけど、やっぱり泣けるわけですよ。ああいうので育った子じゃなくて、格闘技とかどっちが勝ち負けとかね、流血モノとか親殺しとか、そんなのテレビでバンバン見てるんですから。

−−テレビの悪影響の話はよく聞きますけど、テレビのいい影響というのもあるんですよね。

堀:僕らの世代はそうだったんですよ。

−−世代っていうよりは、感受性でそういうのを受け取る人と「なんだ人殺したり殴ってもいいのか」って思って悪い影響を受ける人もいるわけでしょう。

堀:そして、それを家族で見てるんですよ。僕らの時は家でドリフ見ちゃダメだって言われたわけですよ。でも学校ではドリフが話題になるし、やっぱりドリフは面白い。だから隠れて見てたし、プロレス見ると、母親に「そんなもの見たらショック死する」とか言われて、兄貴と一緒にシーツ被って隠れて見たりとかね。やっちゃいけないことをやる楽しさもあったし、見ちゃいけないモノも牧歌的だったんですよ。でも今やってるテレビの映像の中にはひどいものもあるでしょう。こんな残酷なシーンをやってるのは世界中で日本だけですから。さらにゲームではバカバカ撃ってボコボコ殴って、最後に苦しんで死ぬところまで見せるわけじゃないですか。そういう感覚が麻痺してるんですよ。

−−今の異常な格闘技の人気とかも、やっぱりそういう影響ってあるんでしょうか。

堀:あると思いますよ。僕もプロレスもう30年以上見てるんですね。昔のプロレスの客は「おーい。がんばれ、がんばれ」とか言ってビール飲んでたわけですよ。今はみんな真剣ですからね。「殺せぇ」とかやってるわけですよ。殺しちゃマズイだろうっていうのがわかんないかねみたいな。

−−もうちょっと牧歌的なプロレスでしたよね。ちゃんとシナリオがあって。ここで卍固めで決まるとか。

堀:そうそう。「両者リングアウトだな」と思ったらその通りになるんですよね。
それからね、今の子たちって会話をしないでしょう。ウチの会社で今月の朝礼でも言ったんですけど、メールもあるし電話もあるからかもしれないけど、自分の隣の同僚ともしゃべらない奴もいるっていう。そういうことには非常に危機感を持ってるんです。それはたぶんうちだけじゃなくて他の会社でもそうだと思うんだけど、飲み会なんか誘われるの嫌だとか。「僕は今月一回行きましたから」とか、ノルマだと思ってるんですよ。

−−ありそうな話ですね(笑)。

堀:そんなのが増えてきちゃったらまずいぞって。うちの社員から言わせると僕のしゃべり方は二つ目の落語家のしゃべり方なんですって。名人じゃないからたくさんしゃべる(笑)。僕ら裏方の人間は名人じゃないんだから、しゃべってしゃべってしゃべり倒せってみたいなことを朝礼で言ったんですね。その人と次いつ会えるかどうかもわからないし、せっかくなんだから話した方がいいと思うんですよ。

−−ホリプロの社員採用は何万通もの応募から選ばれるわけですよね。それでもそういう社員が増えていますか。

堀:やっぱり学歴とかを重視している風潮があるみたいなんで、今日の会議でも「今までの採用の仕方を全部変える」っていう話をしました。ホリプロのオリジナルの採用の仕方を考えようって。特にこの業界は勉強なんてできなくてもいいんですよ。最低限の礼儀をわかっていて、目上の人に対しての礼儀がきちんとしていて、あとは空気が読める奴。ちゃんと考えて、まとめて、実行する力があれば、あとはピアスしてようが茶髪だろうがなんでもいいんですよ。最近はマニュアル君みたいなのが多いからね。

−−そうですね。何を望まれてるのかわからないっていうのが増えてますね。

 

6. エンターテイメント産業全体の活性化、そして新しい才能を育てるために

堀 義貴7

−−では今度は音楽業界に関してどういうご意見をおもちですか。

堀:そうですね。音楽業界に限らず、エンターテインメント業界全体に言えることだと思うんですが、氷川きよしが売れたってことをもう一回みんなで確認し合うべきだと思うんです。「タイアップがないと売れない」なんてことは本当はないんですよ。これはうちの会社でも言ってるんですけど、もうそんなことはないのに、「じゃあタイアップ以外の方法は何だ」って言ってること自体、根無しになっちゃったんだなって。うちの社員も、僕もたぶんそうかもしれません。じゃあ何だって、もう足で売っていくしかないんですよ。そこが僕を含めて便利な世の中に慣れすぎて面倒くさがってる節があると思うんです。音楽に限らずディーラーさんでもテレビ局でも、雑誌でも、どこも「売れてるモノを持ってきてくれ」になっちゃったわけですよ。「一緒に育てましょう」とか「俺が発掘してやる」とか「面白い奴がいるから観に行こう」っていう会話がほとんどない。それで「CD不況だ。困った困った」って言ってる。だったら違うことやればいいじゃない。困った困ったなんて言ってても始まらないし、売り上げが下がったら気持ちの中で余計バカバカしいことやって花火上げていかないと。マーケティング理論にすごく頼りすぎてるから、数字にならないモノを信用してないのかもしれませんね。それはそれで指標にはなるかもしれない。でもさっきも言いましたけど、雰囲気を読む力とか、感じる力とか、考える前に感じていかないと、たぶんダメになっちゃうと思うんですよ。そういうの僕らは昔よくセンスとか言ってましたけど。今の子は感じないから話せないんだと思う。そこら辺の根本的なものをまったく忘れちゃってるからマニュアルを渡さないと動かないんでしょうね。

−−そうですね。システムに乗っ取ってばかり動いてますよね。

堀:どこかでボンとうまくいったっていう話があると、みんなバーッとそっちいっちゃうでしょ。

−−レコードメーカーでもよくそういう話はありますね。

堀:テレビでもそうですよ。「ドラマが不調だ」って言いますけど、あんだけたくさんやってれば打率は下がるのが当たり前なんですよ。作り手の質が落ちてるって言っても、それしか見てないしそれがマニュアルだったわけでしょう。それに視聴率やスポンサーとかを気にして、斬新なことや冒険をしなくなったでしょう。これは古巣のニッポン放送でも行くたびに嫌味言ってるんだけど、昔はラジオでスターを作り上げて、テレビに売り出して、それで売れてからまたラジオに戻したんですよ。それなのに今はテレビで売れてる奴をラジオに持ってきてどうするのって。ベルトで曜日を1週間押さえられないから縦割りにしてる。ラジオの特性っていうのは瞬間性でね、昔はダイアルだから一回ズレると直すの面倒くさいから一回合っちゃったらずっと聞いてたんですよ。今デジタルデッキに変わってラジオのチューナーは便利になってるのに、テレビと同じことやってるわけですよ。僕らが売り込みに行っても「実際売れてるのは誰なの?」って、そんなこと僕に聞くなよって。自分で確かめればいいじゃない。「売れそうなの?」って売れそうなのわかってたら苦労しないよってね(笑)。自分で育てるっていう感覚がどの業界もエンターテインメント業界も麻痺してる。せっかくいい才能を持っている映画監督がいるのに結局そこにはお金が投下されなくて、売れてる人にばっかり投下してるんです。それで出がらしにしてから慌てて次を探しに行くんです。

−−たしかにそういう傾向はありますよね。

堀:僕ね、ある人から言われたことあるんですよ。「堀くん、業者を泣かしちゃだめだよ。」って。今どこの業界でも一番末端の所をみんなカットしたがるでしょう。でもその人たちが職を失っちゃうと、またお金を持ってない人が増えて、さらに安いモノの需要が増える。デフレスパイラルですよね。それを一番金を持ってる安泰なところからやっていってるから、まずうまくいかないんですよ。中国、韓国は、そういう一番やばいところを国がバックアップしてるでしょう。映画でも音楽でも。文化でも外貨を稼いでとにかく世界一になるんだっていう迫力を持ってますよ。だけど日本は世界一のブランドは欲しいんだけど、国はバックアップしてくれない。一番泣いてるのは末端ですよ。僕らもそういう意味では末端の部類に入りますからね。お金持ってた大きいところが潰れていくぶんには、僕は何も思わない。かわいそうだなとも思わないし。だけど末端の小さな、一人でやってるとか、10人でやってますとか、僕らみたいな多少大きくなってもいつ潰れるかわかんない会社、そこを泣かせていることが、今のエンタテインメント業界全体を冷まさせてる原因になってると思うんですよ。

−−泣かしまくりですよね(笑)。

堀:たしかにうちの現場もスタジオさんとかを泣かせてるのかもしれないけど…信頼関係があっていつか返すならわかるんですけど、どうもそれも無くなりつつあるしね。だから全体的にエンターテイメント産業を国全体でももっと重視すべきだと思うんです。

−−たしかにそうですね。

堀:テレビもね、考え方を変えるべきなのかも知れませんね。今まではお茶の間のみなさんをターゲットにしていたかもしれないけど、お茶の間ってもうないでしょう。みんなバラバラのテレビを見てる。

−−我が家もその通りです(笑)。

堀:お茶の間を意識した番組はグルメとか健康とか結局当たり障りのない番組ばっかりでしょう。そこから新しいモノは生まれてこない。だからどこかで地道なことからもう一回始めていくってことをやらないと、先行きは、香港、台湾、中国の下請けで仕事もらいに行かなきゃいけなくなりますよ。どう考えても日本には1億人しかいないんですから。海外の日本人もまったくターゲットにはならないし、中国語圏とか韓国語圏とかは、世界中の治安の悪い地域からスタートして一つ街作るぐらいワールドワイドになってるわけですから、そうやって攻めてる方がはるかに夢がありますよ。

今の日本人には中国や韓国と比べると生きる迫力自体が負けているから、そこを負けないようにしないとダメですね。そこで僕らはなんとしても生き残りたい。この前喫茶店のルノアールの社長がテレビで「生き残りをかけてスターバックスと戦ってると言われるけども、生き残るだけなら残飯を食ってでも生き残れるけど、自分たちは勝ち残るんだ」って言っていて、久々にいい言葉だなと思いましたよ。だから僕らも音楽でも勝ち残りたい。そういう非常にわかりやすい目標なんですよ。

 

7. 趣味は映画、ゲーム、ショッピング、商店街…?根っからのエンターテイナーのひそかな気遣い

堀 義貴8

−−じゃあ少しご自身のことを伺いたいんですが…プロフィールを拝見しますと、趣味は「映画鑑賞・音楽鑑賞・ショッピング・テレビゲーム・商店街ウォッチング…」

堀:それはね、趣味がないと思われるのが嫌だから書いてるだけなんですよ。経済誌とかのインタビューで「趣味はなんですか?」ってよく聞かれますけど、考えてみると趣味と呼べるモノはないんですよ。それで考えたんです。

−−えらい肩の力が抜けた答えだと思ったんですよ。いわゆる社長さんがなかなか答えない類のことですよね。テレビゲームとか。

堀:だってエンターテイメントの会社なんだし、そういうことが肌身でわからないとまずいと思うんですよね。すごい普通のことなんですよ。テレビゲームも僕にとっては生活の一部だから趣味でもなんでもないんです。もちろん普通に映画も観るし音楽も聴く。ロックも聴けばオペラも聴く。雑食性なんですよ。でも書くとみんなびっくりするわけ。「ゲームなんかやるんですか?」って。社長はゲームやっちゃいけないの?っていう(笑)。

−−普通はあえて書かないようなことを趣味にあげられてますよね。

堀:他にないんですよ。音楽鑑賞と言っても仕事で音楽聞きますし。ニッポン放送の時は好きじゃない曲でも毎日聞いてたんですから(笑)。それから解放されてこれからは好きな曲だけ聞けると思ったら、ホリプロに入って2年半ぐらい経ってまた音楽の担当やってくれって言われました(笑)。

−−今度は聞くだけじゃなくて作って宣伝して売らなきゃいけないんですからね。

堀:ビジュアル系のバンドが新しく所属した頃だったんですが、最初はGLAYが何人組なのか、L’Arc-en-Ciel が何人組なのかもわからなかった。でもやっぱりいろいろ聞かなくちゃいけないから聞きますけど、それを音楽鑑賞って言えるのかね(笑)。映画はうちの女房がまだニッポン放送で映画担当をしているので、好きで観てるのもあります。

−−奥さんはニッポン放送で映画の担当をしてらっしゃるんですか。

堀:そうです。東京ファンタスティック映画祭の事務局長とかやってましたから、公開前の作品とかを家で観てるわけですよ。嫌が追うにもそれを観なきゃいけないですから。夜中にホラー観せられてもねぇ、それも映画鑑賞と言うんでしょうかね(笑)。

−−失礼ですがご家族は奥さんだけですか。お子さんは?

堀:いません。まだ働いてますからね。映画祭やってる時は、妻は朝の10時ぐらいに帰ってきて、僕は10時に会社に行く。夕方の5時からあいつは出勤で、1週間ずっとオールナイトやってましたから。

−−ごく普通の共働き夫婦のすれ違い夫婦ですね。しかも普通よりハードな。

堀:まあそうですね。

−−趣味の「ショッピング」っていうのも女の子みたいですね(笑)。

堀:それもわざと書いたんですよ。自分がお金を使って残っているものはなんだろうと考えてね。ニッポン放送をやめたときに、一応退職金をいただいたんですけど、それまであまりに忙しかったんで、ホリプロに入る前に2ヶ月間何もやらないで休みを取ったんです。長期の休みだから本をたくさん読みたいなとか、いろいろ夢がわいてくるんですよ。本を読むんだったら春先だから外で読みたいな、それにはデッキチェアを買ってこなきゃとかね、形から入るわけです(笑)。なのに3日ぐらい経つと読みたかった本は全部読み終わってるし。ロードショー公開やってる映画も全部観終わっちゃうわけですよ。一ヶ月しない間にやることなくなっちゃうんです。そうするともう友達誘って「俺がご馳走するから飲みに行こう」みたいになっちゃって、結局その2ヶ月で退職金全部使っちゃったんですよ(笑)。だから何も残ってないんです。

−−飲み食いだけですか?

堀:そう(笑)。それを考えると物として残っているのは服だけだなあって。そこが残ってるならこれは半分趣味だなと。ストレス解消で一気にバーッと買う時があるんです。買っても着ないような服とかね。

−−ははは。女の子みたいですね(笑)。

堀:だから趣味に書いておこうかなって(笑)。

−−ほかに趣味というと…お酒とかたばことかはどうですか。

堀:体に悪いことばっかりやってますよ。寝ないし、休まないし、タバコばかばか吸うし、浴びるほど飲みますから。僕、野菜は食えないし、貝類ダメだし、ウニ、いくら、寿司も全部嫌い、鳥の臓物も嫌いなのに、酒だけで尿酸値があがっちゃうんですよ(笑)。

−−野菜も寿司もホルモンもダメなんですか?じゃあいつもどんなものを食べてるんですか?

堀:僕は3食ハンバーガーでも全然OKなんですよ。ジャンクフード大好きだし。スパゲッティとかカレーとか子どもが好きな物が好きなんですよ。だから医者には驚かれましたよ。「贅沢病って昔言われてたぐらいですから、レバーとかそういうの好きでしょ?モツとか軟骨とか」「全部嫌いです」「じゃあ寿司好きでしょ?」「寿司はカッパ巻きと中トロぐらい」「おかしいなぁ。酒飲みます?」「結構飲みます」「どのぐらい」「ビールだったら一日3リットルぐらいですね」「それがおかしいんだ!」って。

−−まあそれぐらいなら飲めるかもしれませんね(笑)。500ml缶6本ですから。でもビールってほんとに尿酸値上がっちゃうんですよね。

堀:だからは今家ではレギュラー缶3本ぐらいにとどめて、家でウーロンハイとか作って飲んでますよ。幸いにして痛風の発作はきてないんですけど、最初に尿酸値がドーンとあがったのは24才の時で、医務室で「フジサンケイグループ1万2000人の中で堀さん一番最年少ですよ」って脅かされて、酒控えたんだけど、一週間ともたなかったですね。

−−でもすごく痩せてらっしゃいますよね。

堀:16歳の時からサイズも体重も全然変わってないんですよ。数年前の仮装パーティで高校時代の制服着れましたから。

−−うらやましいですねぇ。普通はそろそろ腹とかきますよ。それだけ飲み食いしてたら。減量の必要ないですね。

堀:ダイエットしたことないですよ。うちの若いタレントの目標体重は僕なんですから。

−−何キロおありになるんですか?

堀:46キロです。

−−そんなに細いんですか!

堀:肉類ばっかり食べてるんだけどね。

−−それだけお酒飲んで肉食べて…運動とかは…

堀:まったくしないですね。スポーツは大っ嫌いですから。

−−ゴルフも大嫌い?

堀:大嫌いです。まず汗が落ちるのが嫌いですから。下手くそなんで打ったら走らなきゃいけないじゃないですか。僕にとったらゴルフじゃなくてマラソンなのよ。

−−ほんとにうらやましい限りですね(笑)。じゃあスポーツではないご趣味は?

堀:そうそう、商店街をぐるぐる回るのが好きなんですよ。尾行マン癖がついちゃって、一軒一軒解説して回るのが好きなんです。だから僕は武蔵小山に引っ越したんです。

−−たしかに商店街ありますね。

堀:結婚した当時は中目黒だったんですけど、周りに何もないから寂しくてしょうがなかったんです。それで散歩してるときに2時間ぐらい歩いたら武蔵小山にぶつかって、ここに住みたいなと思って住んでるんです。あの近辺は戸越もあるし荏原もあるし、いいんですよ。

−−ああいう伝統的な商店街が好きなんですか。

堀:大好きです。妙なマネキンが立ってて「この服はいったいいつから置いてあるんだろう」「ここで買ってる人を見たことないな」とか。おでん種屋さんがあったりすると。「おでん種だけで1年間どうやって暮らしてるのかな」とか(笑)。

−−たしかに楽しいですね(笑)。

堀:ここは流行ってるお店、ここは面白いお店、ここはギリギリのお店、っていうのを女房を連れて「ここはギリだな。そのうち無くなるぜ」とかって見て回るのが好きなんです。

−−ここの年商っていくらなんだろう、どうやって飯食ってるんだろう、っていう不思議なお店がありますよね。

堀:そうなんですよ。

−−商店街の評論家になれますね。

堀:最近でも休みの日は…まぁ寒くなったんでそんなに距離は歩かないですけど、3〜4時間平気で歩きますね。新しい商店街の路地を探して、「ここのお店のラーメン食ってみよう」とか、そういうのが好きなんです。変な駅前の団子屋みたいな所の奥に「ラーメン」とか書いてあるでしょ。「なんで団子屋にラーメンがあるんだろうな」と思って入って食っちゃうとかね。「一人ぶらり途中下車の旅」ですよ。「ぶらり途中下車の旅」は毎週見てますから(笑)。

−−趣味は旅行、というわけでもないんですね。海外旅行はいかがですか。

堀:僕、外国嫌いなんですよ。外国人と話すのが苦手だし。外国人嫌いってことはないですけど、煩わしいんですよ。休みに行ってるのに気を遣って、しゃべれない言葉を必死になってしゃべってね。それに僕はヘビースモーカーなんで、ハワイが限界なんです。(飛行時間)6時間50分が。13時間なんて気が狂うんで行きたくないし。国内でも出張嫌いなんです。京都でも午前中だけ2時間で帰ってきちゃうとかね。そういうのばっかりです。福岡の出張、放送局の人と食事、っていう予定だったら、夕方の6時ぐらいに着いて7時から食事して、2時3時まで飲んで朝イチで帰っちゃうとかね。

−−無駄にはいないんですね。要するに旅行があまり好きじゃないんですね。

堀:まあ嫌いではないんでしょうけど、気を遣うのが嫌なんですよ。普段気を遣ってるのになんで金払ってまで気を遣わなくちゃいけないのって思うんです。

−−普段そんなに気を遣ってらっしゃるんですか?社内でですか?

堀:気は遣いますね。社内でも社外もそうですね。取材は大好きなんですけど、例えばこの「Musicman」はだいたいどういうインタビューかテイストがわかってるからいいんですが、テレビとかラジオの場合は最初に「今日は砕けた方がいいですか?真面目な方がいいですか?」って聞いちゃうんですよ。「堅く」って言われたら堅いしゃべり方に変えちゃうしね。「柔らかく」って言ったら「どうも〜」みたいな感じで話すし。喜んで帰ってもらわないとすごく不安なんです。

−−ものすごいサービス精神があるってことですよね。元々がエンターテイナーだと(笑)。

堀:ここのお客だけは掴んどかなきゃ、どうしてもここは笑わせて帰そうっていう風に思うんですよ。

−−僕もこのリレーインタビューでいろんな偉い方とお会いしましたけど、そういうところは皆さん持ってらっしゃいますよね。今日は何を聞きにきたんだろう、っていうのがわかった瞬間に、それに合わせて皆さん話してくださるんですよ。それはもう見事というか、やっぱりそういうことがわかる方々なんだなと。

堀:ああ、そうなんですか。

−−そう思いますね。そういうところがないと、やっぱり人をまとめていくとか、人の上に立つことはできないだろうと思います。

 

8. 事業の多様化をめざして…あらゆる分野へのチャレンジを!

堀 義貴9

−−じゃあ最後に、義貴さんが社長になった以上、おそらくしばらくの間は当分社長というポジションにいなきゃいけない運命にあると思うんですよ。

堀:そんなことないですよ。僕の一番の最大の仕事は次の社長を決めることだと思ってるんで。もうその時には「堀」って名前がいないわけですから。みんなの会社だからみんながやればいいわけでしょう。

−−もちろんそれは将来的にはそうですけども、ここ当面しばらくは。

堀:まぁ、しばらくはね。2〜3期は最低でもやらないとね。

−−そういう意味では、大変なプレッシャーがあると思うんですよ、実際に。羨む人もいるかもしれないけども。その辺はどうやって解消なさってるんですか?

堀:みんなが思ってる通りにやっときゃいいと思うんです。僕の業界の仲間でもジュニアがたくさんいますけど、ボクらジュニアは周りからバカだと思われてるんですよ。どうせロクなことできない、何もできないんだと思われてるんだから、何もできないスタートラインでいいんだから、こんなに楽なことはないですよ。それで何か一つでもやったら「あれ、あいつ違うな」と思ってくれますしね。元々ハードルが低いんで気楽ですよ。

−−低く設定してるわけですね。

堀:周りはね。どうせ何もできやしないんだと思ってるから、これは非常にありがたい話で。まあ普通にやってますけどね。

−−じゃあ特別、力を入れることもなく。

堀:特別ないです。緊張感が足りないって言われるんですけどね。

−−ニッポン放送のお話しを伺っても大変なアイディアマンでいらっしゃるから、今までのホリプロになかった世界をこれから作っていこうとされてるんですよね。

堀:そりゃそうです。僕が社長になった時に経済誌の人達から「まだお若いでしょう」ってよく言われたんですけど、僕らはエンタテインメントなんですよ。工場でモノを作って売ってる訳じゃないからその雰囲気がわかんないと何もわかんない人になっちゃう。さっきも言ったけど、そういう意味でいくと僕はファミコンがはじまったギリギリの一番上の世代なんです。ドラゴンクエストなんかリアルタイムでやってるし。RPGを何日も徹夜でやってた時代ですからね。メモリーなんかないから呪文は全部書いて覚えたり…あれに比べて今は楽になったな、とかね、そういうことが実感としてわかるじゃないですか。いくら親父がすごいこと言っても携帯電話は持ったことないし、ゲームもやったことがない。雰囲気でしかモノが言えないんです。僕より一つ下の世代はコンピュータが当たり前ですよね。僕はバーチャルアイドルやってたのに、コンピュータなんか触ったことなかったし、電源の入れ方もわかりませんでしたから。そういうことを考えるとエンタテインメントの新しく社長になるんだったらギリギリの一番年上だと思うんですよ。そういう話を経済誌でしたことがありますね。

−−「あいつが来たらやっぱり違ったな」っていう風にならないと来た意味がないっていうか。

堀:そうですね。だから変えるべき事を気がついてるのに変えないのは「悪」だと思ってるんですよね。だけど現場に行くと気が付いてる奴もいるんです。変えるのは俺じゃなくてお前らだっていうのがずっとテーマなんですよ。ホリプロは良い会社だと思いますよ。知らないけどいつの間にか一部上場の会社になっちゃったわけですよ。こんなラッキーなことはないわけですよ。ただ、ホリプロは堅い、古いってイメージに成りつつあると思う。「ホリプロはアイドルの会社だ」とかね。誰もそんなこと決めてないのに、それをみんなが得意だって自分たちでも言ってたらどうしようもない。それもやるけど、これもやってるっていう風に見せないと、ホリプロの文字を見た時に、みんな「プッ」て笑っちゃうよって。ブランドイメージを変えるとは言わないけども、多様化させるっていうのは一つのテーマですよね。そういう意味で一番先端いってるのは、舞台制作部署ですね。蜷川幸雄さんの作品をやったり、劇団☆新感線と共同制作やったりしてますから。ある程度アカデミックなモノが好きな人には、ホリプロの作品は面白いと思ってもらってるし。だけど本業のところでまだ多様化してないんじゃないかなと思う。それをチャレンジするってことが今後の課題ですよ。

−−日本のエンターテイメント産業を活性化させるためにも、さらなるご活躍を期待しております。今日はどうも長い間ありがとうございました。

(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)

「若いと言われますけど、エンターテイメントの社長としてはギリギリだと思うんですよ」と冷静に語り、日本のエンターテイメント業界全体の活性化を訴え、ヒューマニズムの欠落を憂える堀氏。老舗プロダクションとしての地位に安住することなく、新しいホリプロのあるべき姿を模索する堀氏の力強い姿勢に勇気づけられる思いがしました。

さて、次回ご紹介いただいたのは、元エフエム東京取締役で、現ジャパンエフエムネットワーク専務の佐藤勝也氏です。ベテラン編集者から放送局へ、異例の転身を果たした佐藤氏の次なるビジョンとは?ご期待下さい。

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