第37回 浅川真次 氏 株式会社アーティマージュ 代表取締役社長
株式会社アーティマージュ 代表取締役社長
今回の「Musicman’s リレー」は、(株)有線ブロードネットワークス代表取締役社長、宇野康秀氏のご紹介で、(株)アーティマージュ代表取締役社長、浅川真次氏の登場です。
m-flo、DOUBLE、SOUL’dOUTなど多数のアーティストを擁するプロダクションの代表として、また自身もDJ、アーティストとして活動し、まさにクラブミュージックシーンの立役者である浅川氏。高校時代から音楽の仕事ををめざした浅川氏が 音楽業界に入るきっかけとなったのは、図らずも一軒のプールバーとの出会いでした。
プロフィール
浅川真次(Masaji ASAKAWA)
株式会社アーティマージュ 代表取締役社長
1966年 千葉県生まれ。高校卒業後、江東区南砂町のプールバー&レストラン「AMES」のプロデュース、運営に関わる。同時に新宿2丁目「ブギーボーイ」にてDJを始める。DJとして「芝浦GOLD」、西麻布「p.picasso」などでplay。
1992年9月 (株)アーティマージュを設立。MORE DEEP、Groovy Boyfriends、Favorite Blueなどのマネージメント&音楽制作を始める。
1995年 ハウス・ユニットGTSを結成し、自身が参加。1996年avex traxよりデビューし、以降現在までに12枚のアルバムを発表。1999年7月 m-floデビュー。現在 K.、LISA。DOUBLE、Retro G-Style、Heartsdales、SOUL’dOUT、three NATIONなどのマネージメントを中心に、多くのダンスミュージックの制作、プロデュースを手掛けている。
2002年 新木場「STUDIO COAST」完成に伴い、(株)ゲートレコーズ 代表取締役、(株)マザーエンタテインメント取締役に就任。
2003年 アーティマージュ関連出版会社、(株)エトワス・ミュージック代表取締役就任。
- 早実で甲子園をめざした野球少年は…急転直下でバンド少年へ
- エアチェックに燃え、バンド漬けの青春…音楽への道を模索した高校時代
- 服飾関係のバイトでクラブを知り、趣味のビリヤードからDJの道へ…
- GOLDでのブレイク、そしてMORE DEEPの知られざる真実!
- m-floとの出会い〜been so longの奇跡
- アーティマージュの躍進〜クラブミュージックのポップスを広めたい
- 文化としてクラブカルチャーを育てたい〜STUDIO COASTの挑戦
1. 早実で甲子園をめざした野球少年は…急転直下でバンド少年へ
--まずご自身のことを少し伺いますが、ご出身は。
浅川:千葉の流山市です。1966年4月9日生まれです。
--66年ということは37歳ですね。そんなにお若かったんですね。ではまず子どもの頃はどういうお子さんでしたか。
浅川:普通の子でしたよ。実家はお肉屋さんで、小学校は地元に通って、中学から早実(早稲田実業)を受験して入ったんですよ。何故かというと野球がやりたかったんです。野球が好きで、リトルリーグでやっていたので野球選手になりたくて、それで早実に入ったんです。音楽と言えばピンクレディーとかキャンディーズとか歌謡曲を聴いてたぐらいで…
--でも早実っていっても、そう簡単には入れないでしょ。勉強できたんですね。
浅川:できたかどうかわからないけど、一応塾は行ってましたね。流行ってたんで、四谷大塚行ってました(笑)。
--四谷大塚ですか!意外だなぁ(笑)。
浅川:自分ではとくに勉強好きとかはなかったですよ。どちらかと言えば野球とかスポーツのほうが好きでしたから。
--でも文武両道だったんですね。
浅川:子どもの頃って自分ではわからないじゃないですか。親がちょっとできるから塾行かせようとか、そんな感じで意識はしてなかったですね。塾は行かされた感じでしたけど、日曜日が塾だったんで、おかげで野球ができなくなって、イヤでしたね。受験はしたくない!って言ったんですけど、「あんた将来野球選手になりたいんでしょ。早実は強いのよ」って言われて。
--騙されたんですね(笑)。
浅川:そうですねぇ。当時は甲子園とか出てましたからね。
--荒木(元ヤクルトスワローズ・荒木大輔投手)とかの頃ですか。
浅川:荒木は僕が入学してから、中学2、3年のとき高校生で活躍してましたね。でも野球やるために入ったのに、周りで友達になったヤツがみんなけっこう音楽好きで、中学生でドラムやってたりギター持ってたりして、「やっぱり中学入ったらバンドだよ」とかいきなり言われたんですよ(笑)。「オマエなんかできないの?」「いや、全然できないよ。音楽は好きだけど…」「じゃあ簡単なところでベースいないからベースやれよ。コードとかないし、ドレミファソラシドできればいいから、ベース買えよ」って話になっちゃって(笑)。それも面白いかなと思って、いきなりベース始めちゃったんです。
--野球部には入らなかったんですか?
浅川:実は入らなかったんですよ(笑)。僕は単純に「みんな野球やりに入って来たんだろうな」と思って入学したんだけど、全然そうではなかったんです(笑)。当たり前ですけどね。で、仲良くなった奴らはみんな音楽好きで、バンドやろうとか言ってるし、部活とかやらないのかなと思って聞いたら、「オマエ早実の野球部がどんなところか知ってるのか。都内の有名なリトルリーグからの有名な奴らが集まってるんだぞ。オマエそんなにスゴイヤツなの?」「いや、そんなことないけど…」「レギュラーになんてなれるわけないし、だいたい高校で甲子園行けるような連中は、授業は午前中で終わりで、午後はずっと野球っていうスパルタ練習してるから甲子園行けるんだよ。そんなに簡単に行けるわけないじゃん」みたいなことを言われまして。半分嘘なんですけどね(笑)。そういうのを聞いて、「そりゃそうだよな…早実入ったからってそんな簡単に野球部で甲子園なんて行けるわけないよな。それならバンドのほうが面白そうかな」って思って、野球部入らないで、親にねだってベース買ってもらって、バンド始めたんです。それが最初の音楽体験ですね。
--そのとき誘ってくれたお友達は音楽業界にいらっしゃいますか。
浅川:いますね。今スカパラのマネージャーやってるSMAの小倉っていうのが、そのころからの友達で、一緒にバンドやってましたね。ちょうど僕が中学入った年に、小室さん(小室哲哉氏)が早実の高等部を卒業してるんです。早実はバンドやったりしてる音楽系も盛んで、小室さんはすでに伝説になってましたね。中高一貫なんで、高校生も先輩って感じで、「去年卒業した高3の先輩でスゴイ人がいたらしい」「バンドを6個くらい掛け持ちして、キーボードやって、すごいらしい」って。
--そのころから掛け持ちだったんですね(笑)
浅川:そうですね。それでもうすごい噂になってて。でも僕らは別にプロを目指してた訳じゃなくて、ただなんとなく音楽が好きでバンドやってただけなんだけど、バンドでカバーしてたのはディープ・パープルとかツェッペリンとかだったんで、そいつらが洋楽にふれさせてくれたんです。そこからかなりはまっていっちゃったんですね。
--音楽にはまったのはそのバンド仲間たちのおかげだったんですね。
浅川:そうですね。そのギターやってた小倉っていうのがすごい頭いいんですよ。僕は早稲田大学には入れなかったんですけど、彼は早稲田でもいちばんいい学部に入って、有名企業に就職したんだけど、やっぱり音楽を諦めきれなくて、ソニーに転職したんです。最近会ってもよくその話をしますよ。
--まさにクラスメイトだったんですね。
浅川:そうですね。最初にいっしょにバンドやったヤツですね。あとのメンバーはどうなってるか知りませんけど……そこから中高はとにかくバンド活動で、そこから洋楽に入っていきましたね。洋楽がカッコイイ!って。
2. エアチェックに燃え、バンド漬けの青春…音楽への道を模索した高校時代
--洋楽はどのへんを聴いてたんですか。
浅川:探究心が強かったんでいろんな洋楽を聴くようになりましたね。そのうちエアチェックオタクみたいになっちゃって、ラジオから流れる洋楽をエアチェックしまくってましたよ。リアルタイムで言うと1970年代の終わりから80年代にかけてですから、その前の音楽も気になりますよね。どんどん前倒しに聞いていって、トップ40オタクになったんですよ。昔の音楽はヒットチャートから探っていくしかないですからね。
--どんなジャンルが好きだったんですか。
浅川:ジャンル関係なくヒット曲が好きだったんです。どんどんさかのぼって聞いていって、ビートルズでも完全にあとから聞いていくわけですよ。まあ兄貴が聞いてたんで、知ってる曲も多かったですけど、でもストーンズのほうが格好いいな、とか(笑)。そう言う感じで洋楽にはまっていって……でもその時はソウルとかファンクとかブラック・ミュージックとか意識してなくて、どちらかといえばロック一辺倒でしたね。たまにヒットチャートにソウル系の曲が入ってくると、なんかほかの曲とは違うな、熱いものがあるなとは思いましたけど、どっちかというとロックのほうが好きで。 イーグルス、クリストファー・クロスとか、ドゥービー・ブラザーズとか、もろはまってましたよ。…行き着いたところがサザンロック系で、泥臭いの好きでしたね。ブルース・スプリングスティーンとジェームス・ブラウンが同じくらい好きなんですよ。マイ・フェイバリット・アーティスト。これは今でも大好きですね。
--そうやって振り返っていくと膨大な量があるでしょう。
浅川:僕らはリアルタイムだったからそのときその時々で聞いてたけど、振り返って聞くというのはすごい労力だと思いますけど。 もう70年代がうらやましくて仕方がなかったですよ。僕らは80年代以降がリアルタイムでしたけど、さかのぼって聞くと、70年代って、なんでこんないい曲がたくさんあって、アグレッシブでいろんなジャンルが出てきて…今でも70年代がいちばん好きですね。
--洋楽の黄金時代ですよね。
浅川:そうですよね。その時代をリアルタイムな人がすごくうらやましかったですよ。音は聞けても時代背景まで体験できませんからね。年表では「こんな事件があったのか」ってわかりますけど、やっぱりそういう事件と音楽がものすごい密接に関わってるものだし。
--その時代の雰囲気はリアルタイムの人じゃないとわからないかもしれませんね。
浅川:そうなんですよ、ほんとうらやましかったですね。 まあそれでバンドでベースをやるようになったんですが、ベースはとてもヘタクソで、全然上手になりませんでした(笑)。バンド活動は趣味として中学高校ずっと熱中していて全然勉強しませんでしたね…(笑)。
--音楽漬けですか。
浅川:そうです。音楽漬けでエアチェックしてバンドの練習して…
--野球部をやめようと思ってからは野球は全然やらなくなっちゃったんですか?
浅川:そうですね(笑)。ライブとかばっかりでしたね。1つ上の先輩たちがバンド活動がすごく盛んで…ビブラストーンにいた渡辺貴浩さん、今はプロデュースとかしてますけど、彼がキーボードやってたバンドも先輩で、そのバンドはすごく上手かったですね。けっこう可愛がってもらったりして…ほんとバンド漬けでしたね。
--大学には行かれたんですか。
浅川:いえいえ、あんまりバンドばっかりやってたんで勉強は当然できなくなり…早実は全員早稲田に行ける訳じゃないんですよ。当時は70%ぐらいの進学率だったのかな。当然残りの30%に入ってしまって…(笑)ほとんど大学行くつもりはなありませんでした。でも早稲田のTOP40研究会ってすごく有名だったんで、大学よりもTOP40研究会には入りたいな〜とは思ってましたね(笑)。湯川れい子さんとかが監修してましたから、いいなぁと。音楽の世界には行きたいと思ったんですよ。でもベースは下手だし、プレイヤーじゃないだろうな…どうしようって悩んでたんですよ。音楽の仕事って漠然としてるじゃないですか。聴くのは好きだし、知識的にはけっこう自信あったんで、音楽評論家もいいかなぁ、とか…ロッキング・オンに投稿したりね(笑)。
--ロッキング・オンに投稿してたんですか(笑)。
浅川:してましたね(笑)。高校になってから仲良くなったバンド仲間に宮子一眞がいたんですよ。今UK系で有名な音楽評論家やってますけど。彼が大貫憲章さんとかのTOP20番組とかによく出入りしていて、ロッキング・オンもよく読んでて、投稿してみたらって言われて投稿してたんです。でも全然採用されなくて(笑)。僕は高校時代は「ミュージック・マガジン」を読んでたんですよ。「中村とうようってすごいな…」って思いながら。でも「ミュージック・マガジン」って内容が濃いですよね、アフリカ音楽とか…だから音楽評論家ってこういうところまで行かないとダメなんだな、じゃあちょっと自分には無理なんじゃないかと。それでどうしようと漠然と悩んでるうちに高校卒業してしまったんです。
--音楽への道を模索してたんですね。
浅川:それと平行して、高校2、3年のときからディスコとか行くようになって、DJとかダンスミュージックがかっこいいという感覚がおきてきて…当時はDJになりたいとは思ってませんでしたけどね。ハービー・ハンコックが流行ってて、スクラッチがDJみたいなイメージがあったんですよね。
--高校時代はどのへんのディスコに行かれてたんですか。
浅川:GBラビッツとか新宿のゼノンとか、渋谷のラスカラとか…六本木もたまに行ったんですけど、僕らはどっちかというと新宿・渋谷止まりだったんですよ。高校にも六本木派の奴らがいて、高校でも最先端の遊び人連中で、大学の先輩たちと仲良くなって連れてってもらったりしてたんですね。
--そういう奴らってちょっと金持ってたりするんですよね(笑)。
浅川:そうそう(笑)。そいつらはDJからもらったノンストップのテープとか持ってたりして、「いいな〜」とは思ってましたけどね(笑)。「俺たちは新宿・渋谷から脱せないな〜」って(笑)。だからクラブに行くようになったのは卒業して仕事をはじめてからですね。
3. 服飾関係のバイトでクラブを知り、趣味のビリヤードからDJの道へ…
--とりあえず高校を卒業して、まず就職されたんですか。
浅川:そうですね、音楽関係のツテもないし、大学も行けなくて親に啖呵切った手前、まず働かなくちゃだめだなと思いまして…ファッション関係の仕事もかっこいいなと思って、バイトを始めたんです。もちろん宮子とバンドは続けてたんですよ。いろいろ知り合いもできたし。そうそう、そのころ一緒にやってた連中が、今のスカパラのメンバーなんですよ。谷中とか、亡くなった青木とか、沖とか…その前身バンドで一緒にやってたんです。だから、ひょっとしたら僕もスカパラになってたかもしれないんですけどね(笑)。でもみんな痩せててナイスガイですからね、やめさせられたかも(笑)。
--ファッション関係のバイトっていうのはどんなお仕事だったんですか。
浅川:浅草橋のDCブランドを扱ってる付属屋さんでした。付属屋さんていうのは、スーツとかの中身を作ってるところですね。いろんな工場にパットとか発注して、それを集めてDCブランドのメーカーからの発注に持っていく仕事なんです。
--まさに裏方ですね。
浅川:そうですね。そこの社長は菊地武夫がメンズ・ビギのデザイナーとして始まった時協力していたメンバーで、裏方をやるスタッフもいないとだめだから、と、いうことで、その人が裏方を担当することになったんだそうです。だから当時の有名なDCブランドはほとんどそこで担当してたみたいで、裏方だけどつきあいが広くて、服飾関係者ともいろいろつながりがあって、いろんなパーティに連れて行ってもらいました。そのころちょうど西麻布のピカソとかとかトゥールズバーとか、クラブができはじめた頃で、それまでほとんどディスコしか行ったことなかったのに、クラブは大人の社交場って感じでかっこいいなと思って、それでクラブミュージックのほうに傾倒しはじめたんです。
--DJはいつごろやりはじめたんですか?
浅川:最初からDJになろうと思ってたわけじゃないんですよ。高校では学園祭バンドで、やりたい曲を持ちよってやったときに、「俺はスクラッチやる」とかいって、ターンテーブルじゃなくて普通のレコードプレイヤーとアンプのボリュームでスクラッチもどきをやりましたけどね…(笑)。あの経験がDJにつながっていったのかなぁ。 実際にはこれも偶然で、ミーハーな動機なんですけど、クラブに興味を持ちはじめたころにビリヤードブームが来て、プールバーが流行りだしたんですよ。仕事が浅草橋で、千葉の流山から車で通うのに毎日両国を通ってたんですけど、あるとき両国にプールバーを見つけて、帰り道だからここいいな、と思って入ったんですよ。ビリヤード台が1台しかない、小さなバーで。なんか格好いいな、と思って、それからはまっちゃって、そこにたまるようになったんです。仕事して帰りにそこに寄って、朝までビリヤードやって、帰るの面倒だからそこのソファーで寝ちゃって朝会社に行く、みたいな。そういう自堕落な生活を始めちゃって…(笑)。ビリヤードやってるかクラブ行くか、仕事してるか、っていう感じでしたね。
--その洋服関係のバイトはしばらく続けられたんですか。
浅川:服の仕事をやってはいたんだけど、でもやっぱり音楽関係がいいなあと思って悩んでたんですよ。それでそのプールバーには毎日のように入り浸ってたんですけど、ある日店長がやめちゃったんです。それでオーナーが、あまりにも僕が毎日いるもんだから、「昼間の仕事やめてウチやれば?」って言ってくれて。それでいきなりその店の店長になっちゃったんですよ。
--いきなり店長デビューですか(笑)。
浅川:そうですね(笑)、まあ小さい店なんですけど。それで酒作りながらビリヤードやって…
--おいくつのときですか。
浅川:19〜20歳ぐらいのときかなぁ。まあ店員もバイトの女の子がひとりいるくらいでしたからね。 そのころ原宿のクラブDによく行ってたんですけど、そこの店員が新宿で面白いクラブがあるって教えてくれて、新宿2丁目のブギーボーイに行くようになったんです。そこがすごい小さくてラフな店だったんですよ。それで、DJに興味があるって話をしたら、「じゃあやれば」って…(笑)。最初は「できないですよ〜」って言ってたんだけど、レコードいじってればなんとかなるんじゃないの、ってことで、最初は1枚1枚レコードをかけたりしてて遊ばせてもらって…そこで初めてターンテーブル触らせてもらったんです。 それからブギーボーイで知りあった洋服屋の店員と一緒に遊ぶようになって、一緒にDJやったりして「両国でプールバーやってるんだけどいっしょにやらない?」ってことでヤツもうちの店で働くようになって、毎日店が終わると車で新宿に行ってブギーボーイでDJやったりお客さんのいないときに練習させてもらったりしてたんです。そいつは今スクラッチとかで有名なDJ BEATっていうDJになってますよ。 それで彼とお金を出し合って両国の店にターンテーブルを入れたんです。DJのいるプールバーになったんですよ。それで毎晩のようにスクラッチを練習してね…それがDJを始めるようになったきっかけです。
--そのプールバーにはどのくらいいらっしゃったんですか。
浅川:1年ぐらいだったかな?そのうちにオーナーが南砂に新しいプールバーを作るから、そっちに移らないか?って言ってくれたんですよ。南砂に倉庫があって、そこを使えるから、もっと広いし、ビリヤード台もたくさん作るからどうだって。それでぜひ!ってことで、南砂のAMES(エームス)のたちあげには企画段階から参加したんです。そしたらね、そのオーナーは本業でサーフブランドをやってたんだけど、建設途中にその会社が飛んじゃって、いなくなっちゃったんですよ(笑)。残されたのは年配の倉庫会社の人達と、21歳の僕ですね。それで倉庫会社の人達はなにもわからないから、会場のプロデュースとか、あとは全部君がやってくれって言われて、プロデューサー的なことも突然やらざるをえなくなりました。レストランとバー、それにビリヤード台っていう配置だったんだけど、まだ建設途中だったんでこれ幸いと、DJブースを作って、バーもDJバーっぽく変えちゃったんです(笑)。
--ラッキーでしたね。AMESはすごいお客さんはたくさん入ってましたよね。
浅川:そうですね。まあプールバーブームの後半だったから、それほど大もうけはしなかったけど、まあまあ盛り上がったって感じですね。人はけっこう入ってましたかね。当時は1時間待ちとか…あの界隈にあんな店なかったし、レストランもあったからでしょうね。
--駐車場も広かったし。
浅川:まあ倉庫だったんで、死ぬほど停められましたね(笑)。今考えるとすごい便利な店でしたね。
4. GOLDでのブレイク、そしてMORE DEEPの知られざる真実!
--AMESは何年やってたんですか。
浅川:僕は4〜5年はやってたのかなぁ。2階にゴルフ練習場も作ったんですけど、最後のほうはそっちのほうが盛り上がってきて、最終的にはあそこは全部そういうスポーツ施設にしたはずですけど…そこでDJをやるようになって、その間にGOLDができたんですよ。意外と近いんで、僕も入り浸るようになって…
--AMESはGOLDより前なんですね。
浅川:前なんですよ。僕にとってはやっぱりAMESがきっかけになって、DJとして音楽の世界に入ったっていう感じですね。原点というか。GOLDでよく遊んでたのが、ニューワールドの後藤君で、そのときGOLDのスタッフやってたのが谷川さん(谷川寛人氏:(株)リズメディア代表取締役)なんです。みんなゴールドでつながってるという…谷川君は一時後藤君の会社にいたんですよ。
--そうなんですか。僕はあのAMESの浅川さんと、アーティマージュの浅川さんがどうやって結びつくんだろう?って思ってましたよ。
浅川:そうですよね、それは単純にGOLDで遊ぶようになって、GOLDでもDJやったりしてたんですよ。僕らは2人でDJチームを作ってたんだけど、そのころハウスとかが流行りだして音を作ってる奴らも出始めて、そういう奴らと知りあってオリジナルのハウスを作ろうっていって4人ぐらいで音作りをやってたんです。当時AMESにはヒップホップのDJが遊びに来てて、「今度クラブチッタでヒップホップのイベントやるんだけど、出ない?」って誘われたんですよ。それでライブやることにしたんですけど、マニュピレーターとDJだけじゃ、チッタのヒップホップのお客さんが引いちゃうんじゃないかと思って、それで当時AMESで踊っていた奴らをダンサーとして入れよう!ということになったんです。当時はマドンナのヴォーグが流行ってて、ヴォーギングやってるけっこう有名な3人組がいたんですね。それで彼らに声をかけて、ダンサーとしていっしょにライブに出てもらったんです。それがのちのMORE DEEPなんですよ。
--知ってますよMORE DEEP。そういう経緯だったんですか。
浅川:というかね、ほんとは僕らがMORE DEEPだったんですよ(笑)。MORE DEEPっていう4人組のサウンドチームだったんです。チッタのライブのときに彼らをダンサーとして迎えただけだったのに、それがやたら受けちゃって、クラブ界隈で名前が上がっていっちゃったんですよ。それでだんだんあの3人がMORE DEEPだと思われるようになっちゃったんでよ(笑)。
--そうなんですか!?すいません、僕らもそう思ってました(笑)。
浅川:ですよねぇ…今はみんなそうですよ。でもほんとは僕らがMORE DEEPで、彼らはただのダンサーだったんです。でもダンスだけじゃなんだから、軽いラップのようなものをやってもらったりしてるうちに、当然彼ら3人が目立つようになったんで、その時点ではMORE DEEPっていうのは彼らを含めた7人組だったんです。 そのうちにソニーから「東京アンダーハウスグラウンド」っていうコンピレーションに参加しないかと声をかけられて…91年だったと思いますけど、1曲参加して反応がよかったらデビューさせたいと。当時(現NWPの)後藤君がそのコンピのプロデュースをしてたんですよ。もちろん僕らはデビューできると思って大喜びしました。すげぇやった〜って(笑)。そしたらソニーのディレクターが「ところでMORE DEEPの3人なんだけど…」「え、3人?7人ですよ」「え、だって君たち裏方でしょ?ソニーとしては彼ら3人と契約したいんだけど」って話で…まあそうですよねぇ(笑)。その上「君たちが音を作ってくれるのはいいけど、メーカーとしては君たち以外のいろんなプロデューサーにも音を発注したい」と(笑)。
--つらいですねぇ〜(笑)。
浅川:それでまあ4人で話し合って、しょうがないから3人をMORE DEEPにしようと決めたんですよ。それで打ち込みやってたヤツは抜けたんです。曲は作るから仕事として発注してねって言って(笑)。そこで僕はどうしようかと思ってたら、今度は契約のときMORE DEEPの事務所が必要になったんです。それまでは僕らが個人的にやってただけでどこにも所属してなかったんですけど、ソニーとしては個人と契約することはできないと言われたんです。それで会社作るしかないなーということになったんですよ。
--アーティマージュはMORE DEEPのために作った会社だったんですか。
浅川:そうなんです。でも僕も会社の作り方とか全然知らなくて、当時よく出入りしていた広尾のバーの常連だった上田(上田浩良氏・現(株)アーティマージュ代表取締役会長)に相談したんです。彼はそのときは音楽じゃなくて舞踏系の仕事をしてたんですけど、昔山海塾のプロデュースをやったりしたことがあって、「音楽の仕事はしばらくしてないけど、相談のりがてら、じゃあいっしょにやってみるか」って立ち上げたのがアーティマージュなんです。
--そうだったんですか。そのときはおいくつだったんですか。
浅川:…たちあげたのは平成4年ですから、25歳だったかな…要するにソニーと契約するために作った会社で、自分ではノウハウが全くないから上田に相談して、じゃあ経営面はやるから、ダンスミュージックとかわからないから、現場はやれということになったんです。
--上田さんは今もいらっしゃるんですね。
浅川:ええ、います。会長ですね。経営面は上田がやってます。
--なんか依田さんと松浦さんの関係みたいですね。
浅川:そうかもしれないですね。それが92年、登記は92年になるのかな。MORE DEEPのデビューは91年です。
--MORE DEEPが最初のアーティストだったんですね。アーティマージュとしてのヒットはいつごろですか。
浅川:MORE DEEPは鳴り物入りでデビューした割にはあんまり売れなかったんですよ。当時は社員もデスクの子ぐらいしかいなくて、僕はマネージャー兼DJ兼社長兼プロモーター、全部ひとりでやってました。そのおかげでいろんな現場のプロモーションの仕方、アレンジの仕方を覚えましたね。MORE DEEPが売れなくて、そのあとgroovy boyfriendをやったんですが、なかなかブレイクには繋がらなくて、ヴォーカルはのちのK.になり、コンポーザーの木村貴志はFavorite Blueになったんですよ。
--そういうつながりなんですね。
浅川:そういう意味で売れ出したのは、ジュリアナが流行ったときですね。木村貴志とジュリアナナイトに行ったらあのイケイケのテクノがかかっていて、木村貴志は打ち込みの達人だから、このサウンドなら自分たちで作れるよな、っていう話になったんですよ。それでジュリアナでかかりそうなデモを作ってエイベックスに持ち込んだんです。エイベックスはジュリアナのCD作ってましたから、人づてで松浦さんを紹介してもらって会いに行ったんですよ。そしたら聞いた途端に「コレはスゴイよ!日本人が作ってるの?」「自分たちで作ってるんです」「すぐ契約したいんだけど」って話が進んだんです。
--その場でですか。
浅川:そうです。聞いた瞬間に。ちょうど近くに依田さんがいらっしゃったんですよね。エイベックスはそれまでジュリアナでかけてるような曲は輸入してたんですよ。それを日本で低予算で作れるならそのほうがいいし、原盤も持てますからね。
--ジュリアナの曲がきっかけだったんですね。
浅川:それで契約することになったんです。僕らもどんどん曲を量産しますし、あんまり売れてないけどMORE DEEPっていうのをやっていて、クラブには強いので、1曲単位ではなくで年間契約にしてくださいって交渉して…当時年間7〜800万で10曲とかだったと思いますよ(笑)。でもこっちにしてはオイシイ話で、1年間で800万っていう収入が見えるわけですからね。結局2年契約にしてもらいましたよ(笑)。それがエイベックスとの出会いですね。僕らで和製のテクノを作り出して、どういうのがジュリアナでウケるか、っていうのも研究して、そういう曲を提供していきました。
--エイベックスとのつきあいはそこからなんですね。
浅川:そうこうするうちにエイベックスのtrfがヒットして、アーティマージュでもクラブミュージックやってるなら、いっしょになにかやろうという話になったんです。当時のMORE DEEPはソニーとの契約は切れてたんですが、リーダーのMOTSUはラップも上手いし、いいセンスを持ってる。プロデューサーの木村貴志もいろんな曲を作れるし、エイベックス側には女の子ヴォーカルがいるから、やってみましょうということになって、木村貴志がポップスを狙ってやったのがFavorite Blueで、ダンスミュージックのポップ版として作ったのがMOVEだったんです。それでFavorite Blueが当たったんですね。ラッキーなことにアルバムもオリコン1位になって…
--最初のヒットはFavorite Blueなんですね。
浅川:そうですね。それでMOVEもまあいい感じに売れて…それが最初のブレイクアーティストですね。ただ、自分ではずっとDJをやってきてクラブミュージックを仕掛けてきた割にはポップス系で当たっちゃったなとは思いましたね。
--ご自分のなかでジレンマがあったんでしょうか。
浅川:僕はDJもロックも好きだったから自分ではべつによかったんだけど、周りから見るとそれまでアーティマージュがやってきたイベントや仕事とは全然違うようなのがヒットしてるよねって見られることがありましたね。 それに、Favorite Blueのボーカルの女の子はアクシヴ所属でしたからマネジメントも分割された部分がありました。だから完全な自社アーティストをやりたいという思いもあったし、周りの声もあって、純粋なダンスミュージックのヒットを作りたいなとも思ってました。結局それがm-floになるんです。
5. m-floとの出会い〜been so longの奇跡
--m-floのメンバーとはどこで出会われたんですか。
浅川:まず音を作ってるタカハシタク☆と紹介で会ったんです。そのとき彼は別の女の子とユニット組んでいて、歌がものすごく上手いというわけじゃないし、トラックも拙いトラックだったんだけど、なんかタカハシタク☆の作るトラックにはいいグルーヴ感があったんですよ。はっきり言って打ち込みはヘタクソだったんですけど、そのグルーヴ感が気になって…それでうちのスタジオで曲作ったりしていいよってやらせるようになって…1年ぐらいするうちにタクもそこそこのトラックを作るようになりましたね。
それから、僕自身もずっとDJをやってきて、なにかそれを形に残したいからオリジナルを作ろうということになって、GTSを作ったんです。チャカ・カーンの「THROUGH THE FIRE」をハウスカバーしてアナログを作ったらクラブヒットしちゃって…エイベックスからアルバム出すことになって、結局今まで7年も続いちゃってるんですよ(笑)。 それで、MISIAとかが流行りだしたんで、GTSでR&Bのカバーアルバムを作りたいと思って外人ヴォーカルで録っておいた素材があったんです。それをタクに「これをいじってみない?」って渡したら、上がってきた曲にVERBALのラップが入っていたんですよ。英語だったから完全に黒人だと思いましたよ。でも「ハイスクールの友達で、ボストンに留学してるんだけど今夏休みで日本に帰ってきてたんで入れてもらったんです」って言うんですよね。コレかっこいいから、タクとふたりでユニット作ったら絶対イケルよって言ったんですけど、「でも大学院行ってるからなぁ、どうかな…」って感じで。とにかくまだ日本にいるんで、あと何曲か作ってみます、ということになって…次に何曲か作ってきたときには女の子のヴォーカルが入ってたんです。それがLISAで、曲は「been so long」でした。
--浅川さんがセッティングしたのではなくて、もう最初からできあがってたんですね。
浅川:そうなんですよ。僕はLISAのことは知ってて、ちょっと面識はありました。とにかくその「been so long」のデモが上がってきたときには驚きましたよ。「コレはヤバイんじゃないの?お前らもしかして…実は天才?」って(笑)。最初に聴いたときに鳥肌たちましたね。今の時代のチューンとラップ、それにハーフとはいえ日本人ヴォーカルでこんな曲はなかったからね。それでLISAとも会って、専属でやりましょうってことになったんですよ。 ただ問題はVERBALだったんです。ボストン大学でもう大学院に行ってて、将来は牧師になるって決めていて、ラップは確かに好きだけど、ラップだけで食っていくのは無理だってわかってるから、って思ってたんですね。本人も両親も。ものすごい頭の切れるヤツですから。そこを切々と説得して、「たしかに何十年も食えるかわからないけど、君ならラッパーとして日本の音楽シーンを変えることができるし、それだけの頭脳があれば10年後20年後、プロデューサーとしてもやっていけるだろう。少なくともアーティマージュがあるうちは君の将来は約束するから」って言ったんです。それで説得してm-floをやることになったんです。
--そうだったんですか。なんかすごい偶然が重なってる感じですね。
浅川:もうね、あの曲「been so long」があったんで、これでもういけると思ってまずエイベックスに持っていったんです。でもエイベックスのそれまでのアーティストとはまったく違うものだったから、「エイベックスの新人」として同じようには見られたくはなかったんですね。もしかしたら新たなエイベックスのジャンルを切り開くかもしれないし。だからなにか違う形でデビューさせましょうと(松浦)専務とも話し合って、エイベックスの中にあるインディーズレーベル「rhythm REPUBLIC」から出すことになったんです。
外資系(レコードショップ)だけ受注とって、初回は500枚ぐらいだったかな。そのかわりプロモーションにはいろいろと僕も動いて、J-WAVEのリコメンドに入れてもらったり…そうやって地道にやっていったらちょこちょこラジオでかかるようになったんです。そうしたらかかったあとの反応がすごいんです。問い合わせがどんどん相次いで、リクエストがあるからまたラジオでかかって…目に見えて反応があったんです。J-WAVEとか名古屋のZIP FMとか…。けっこう話題になってきたんで、もう一度受注をかけてみたんです。そうしたら今度は2000枚。J-WAVEでもインディーズながらウィークリーリコメンドに選ばれたりして毎日かかるようになって、さらに反応がよかったんで、また受注をかけたら今度は3000枚ついたんです。インディーで5000枚ってすごいですよね。そのあと最後に6000枚の受注が入って、10000枚超えちゃったんで、そこでやめて、メジャーデビューさせることにしたんです。
--インディーズで10000枚っていうのはスゴイですね。やっぱり曲がよかったんですよね。
浅川:そうですね。タクは日本になかった曲を書いてましたからね。反応がダイレクトに返ってくるっていうのがすごかったですね。
6. アーティマージュの躍進〜クラブミュージックのポップスを広めたい
--ところでアーティマージュってどういう意味なんですか。
浅川:単純に「ART」と「IMAGE」を合わせたんです。
--なるほど。いい名前ですね。
浅川:アートとかイメージとかそれっぽい言葉をいろいろ考えていて、なおかつ造語にしたかったんですよね。「アートイメージ」じゃそのまんまなんで、直球すぎるから、じゃあ英語読みにして「アーティマージュ」かな、と。
--かっこいいですね。じゃあアーティマージュはやっぱりm-floのヒットからドカンと行ったわけですよね。
浅川:どかんというわけじゃないですけどね。紆余曲折しつつ、いろいろやって、DOUBLEが移籍してきたり…やっぱりm-floがヒットしたおかげでアーティマージュのブランドイメージというか、クラブ系なんだけどポップスというか、決してコアじゃないと言うイメージがついたのがよかったんでしょうね。そういうアーティストを目指している人達のデモテープがすごい送られてくるようになったんです。
--デモはご自身で聞くんですか。
浅川:全部聞きますね。デモテープ聞くの大好きなんですよ。「アーティマージュ」は「あ行」だから、「Musicman」とか、そういう本に載ってる場合は、わりと上のほうなんですよ。だからけっこうみんな送ってくれるんですよね。それでクラブ系のデモが集まるようになりました。
--「Musicman」も多少貢献してるんでしょうか。
浅川:いや、それはもうかなりですよ(笑)。でも逃すこともありますけどね。アーティマージュの近くに「アクシヴ」がありますから(笑)。長尾大もね、最初にウチにデモ持ってきたんですよ。そのデモはもう天才的でしたね。
--やっぱりそう思われましたか。
浅川:いやもうすごかったですよ。今のヒットの原型が全部そのテープにありましたから。これはすごいからすぐに契約しよう、って言ったんですけど、けっこう消極的なんですよね、彼は。「そんなことないですよ…」みたいなね(笑)。それで、「ほかにもどこかに送ったの?」「来週アクシヴに呼ばれてて会うんです」って言うから、決まりだなと思いましたね。「アクシヴに行けば絶対すぐ契約になると思うよ。hitomiとかあゆの曲をやってくれっていう話になるだろうね。でも君の場合はそのほうがいいかもしれない。ウチでは作家を抱えてやっていくつもりはないし、ウチにいても結局持っていくのはエイベックスだし、だったらアクシヴのほうがいいんじゃないかな」って言ったんですよ。
--そういう経緯があったんですね。
浅川:けっこう律儀なヤツで、あとから電話がありましたよ。「アクシヴに行ったら、すぐ1曲hitomiに書いてくれ、って言われました」って。「やっぱりそうでしょ。うまくいくと思うからやったほうがいいよ」って。
--長尾大の才能は浅川さんも見抜いてたんですね。
浅川:…いや、だってすごいですから。逆に、彼の才能は見抜けないほうがヤバイでしょ(笑)。わかりやすいですよ。コレはスゴイって。
--何十カ所も送って、7割くらいから声かけられたそうですね。
浅川:そうでしょうね。
--そんな才能があるのに、どうして29歳まで埋もれてたんですかね(笑)。
浅川:性格でしょうね。自分の曲がすごいとは思えないって言ってましたからね。送ってもバカにされるんじゃないかって思ってたって。もったいないですよね。
--デモテープ以外にはどうやってアーティストを発掘なさってるんですか。
浅川:やっぱり紹介が多いですね。SOUL’d OUTはもともとVERBALの紹介だったんだけど、本人たちもライブ会場で僕を待ち伏せしてデモテープ渡してきたりしたんで…
--Retro G-Styleもかっこいいですね。
浅川:Retroも紹介ですよ。Groovy Boyfriendsだったギターの高橋圭一氏の紹介なんです。彼にはギタリスト、プロデューサーとしてその後もいろいろ手伝ってもらったりしたんですけど、彼が、面白いグループがいるからってデモテープ持ってきてくれたんです。事務所作探してるみたいなんだけど、きっと気に入るからって。デモテープを聴いたときにラッパーがいてヒップホップっぽいわりに、メロディーがフォーキーというか、これは新しいなと思って。すぐに会って、やることにしました。
--ほかにないサウンドですよね。
浅川:それが、一応やることは決まってたんだけど、ヴォーカルのMASAYAがプライベートでいろいろあって、一時北海道の親類の家に籠もっちゃったんです。「音楽やってく自信ない」って。だから「それは残念だけど、もしまたやりたくなったら、待ってるから」って言って。そしたら1年後に戻ってきたんですよ。北海道で曲もたくさん作ってたみたいで、さらによくなっていて…それですぐレコーディングして、デモを作ってエイベックスに持っていって、デビューに至ったんです。Retroは松浦さんだけじゃなくて林さん(エイベックス(株)取締役 林真司氏)も特に気に入ってくれたんで。
--アーティマージュのアーティストと言えばエイベックス、というイメージがありますけど…?
浅川:うちもよくエイベックスの資本が入ってるんじゃないかとか言われるんですけど(笑)、全然そういうことはないんですよ。 仲はいいですけどね。まずきっかけはジュリアナでのヒット曲作ったことですし、松浦さんや林さんは年も近くて仲良くしてもらってるだけです…。 会社を作ったのはソニーと契約するためでしたし、ずっとソニーの第3制作といっしょにやってたんで、スタッフがイーストウエストにまとめて移っちゃったことがあって、それでワーナーにお世話になったりしてますしね。最近はエイベックスがかなり多いですけど、DOUBLEはフォーライフですし、他にもいろんなメーカーさんとおつきあいしてるんですよ。SOUL’d OUTはSMEだし、ワーナーで新人やったりしてますから。
--さっきからお話し聞いてると、すごくいい感じで人間関係とか人脈がつながって、自然に今の形になったんだなという気がしますね。
浅川:僕は人が好きなんですよ。人と接するのが好きだから、飲みに行ったりもするし、ゴルフも自分では行かないけど、行こうって言われたら行きますしね。
--考えてみると、ビリヤードにはまらなかったら、今日はないですよね。運も実力のウチって言いますけど…
浅川:いや、でもラッキーだった部分は大きいでしょうね。それはほんと思いますよ。ビリヤードなんてただの遊びですからね。洋服屋ではメーカーの人にクラブとか連れてってもらえたし、ビリヤードではオーナーがジェームズ・ブラウン・フリークだったんですよ。だからあそこでソウルとかファンクを教えてもらったんですよね。なんかうまく繋がってるんですよ。
--やっぱり浅川さんに、人に好かれる人間的な魅力があったってことですよね。じゃあご自分でこれは苦労したとか、大失敗だったとか、そういうことはありますか。
浅川:苦労ですか…まあその都度苦労はいろいろありますけど…僕はこのとおり話好きなんで、アーティストから悩み相談受けたりとかすることが多いんですよね。でもそれほど年も離れてないし、人生経験も豊富ってわけじゃないから、相談されると一緒になって悩まないといけないし。もちろんそういう人の世話とかは好きでやってるんだけど、ハタと気が付くと「じゃあ自分自身の悩みはだれが聞いてくれるんだろう」って思うことはありますね。自分の悩みとかを何処で発散させたらいいんだろうっいうのが悩みですかね(笑) 人の悩みを聞くばっかりで言う場がない。それはたいしたストレスじゃないと思ってたんですが、案外ストレスになってたんだなと思います(笑)。
--つらいところですね。具体的にはどういう悩みですか。
浅川:アーティストが悩んでいること自体が悩みの時もありますし、プロモーションがうまくいかないとかそういう悩みもありますし、ちょっとした失敗とかね…まあ大失敗はないですけど、すべてがうまくいってたわけじゃないし、しかけて当たらなかったアーティストもありますからね。
--シーンの先駆者としてはたしかに苦労はありますよね。
浅川:でも僕らがやっているクラブミュージックっていうのは、ジャンル的に新しいものですよね。今でもまだ少ないでしょ。だからそういう意味では。ビジネスとしての大先輩がいないっていうのはやりやすかったところかもしれませんね。ロックやポップスっていうのは、大先輩の方々がたくさんいるし、しがらみもありますよね。でもクラブミュージックでは僕らの世代が第一号なわけで、やりやすかったですね。
7. 文化としてクラブカルチャーを育てたい〜STUDIO COASTの挑戦
--ところで今回は有線ブロードネットワークスの宇野さんのご紹介ですが、宇野さんとはどういうおつきあいでしょうか。
浅川:そうですね。いちばん深いつながりとしては、まさに今、新木場のSTUDIO COASTが去年12月にできあがりまして、毎週末agehaというクラブイベントをやっているんですが、宇野さんにはこの企画に僕らスタッフが個人的に相談にのっていただいていますね。
--もともとお知り合いだったんですか。
浅川:いえ、そうではなくて、今有線で働いている山崎さんからユーズミュージック社長の稲葉さんを紹介していただいて、稲葉さんも僕もロックが大好きなので、単純に音楽の話で盛り上がっちゃったんですよ。それで「実はこういうことを考えてるんです」ってお話ししたら、宇野さんもニューヨークのクラブは行くし、昔からGOLDとかは好きだったから、じゃあ話してみましょう、と宇野さんにかけあってくれて…だから宇野さんとは今回のプロジェクトからのおつき合いですね。まあでも構想2年ぐらいかかりましたけどね。
--宇野さんは二つ返事でご快諾いただいたんですか。
浅川:そうですね。最初僕らのビジョンをお話ししたら、「確かにそれは面白い。商売と言うよりも、音楽、文化を創り上げていくっていうことは非常に大事だから、ぜひやってください」と言ってくださって……いろいろお世話になりました。
--STUDIO COASTはクラブスペースとしては大きなハコとして話題になってますよね。
浅川:STUDIO COASTは基本的にはクラブだけじゃなくて多目的ホールとして作ってるんですよ。これは山崎さんとGOLDのプロデューサーだった高橋征爾君と、僕と、ニューワールドの後藤君と4人で発案してプロデュースしてるんです。GOLD以降、今の日本ではクラブ文化がなくなりつつあるでしょう。ニューヨークやマイアミ、ほかにも海外に行くと、普通に大きいハコがあって、クラブミュージックがかかっていて、それが普通にポップスや音楽に影響を与えている。音楽として、文化としてクラブミュージックがなりたっていて、クラブが文化の発信地、社交場として認識されているんです。
--欧米のダンスミュージックシーンとはまだすべてにおいて一桁違うんですよね。売上も人数も。向こうでは若者がカラオケとか行くみたいにクラブに行くと聞いていますが?
浅川:そうですね。それに普通の街鳴りの音がクラブミュージックですからね。ブティック行っても本屋行ってもそういう音楽が流れてる。まあ規模も違いますけどね。STUDIO COASTみたいな大きなハコがごろごろあるし、スペインのイビザって、レイヴの発祥の地と言われてるんですけど、毎年夏に島をあげてイベントが行われるんですよ。島のなかに5000人とか10000人とか入るクラブがあって、世界中からミュージシャンやお客さんがやってきて、「クラブ島」状態になるんです。ここ数年行ってるんですけど、ああいうのを見ると、「やっぱり全然(日本とは)違うな」と思いますね。
--日本で言えばお台場の温泉のところにクラブがあるようなもんですね。
浅川:ほんとそうですね。お台場もうまくいけばそうなる要素はありますよね。将来ほんとにカジノができれば、その周りにクラブとか作ったりできるし、アジアから間違いなくお客さんが来るでしょうし。アジアにはまだそういうところはないんですよね。もっとファッションや食文化、いろんな文化と微妙に結びついて、当たり前のようにあるようになってほしいんです。日本でも何度もそういう流れはあったんですけど、やっぱり今の時代は音楽自体はヒップホップを始めR&B等クラブミュージックが当たり前になっているのに、逆にクラブが文化として成り立っていなくて、元気がないと思うんですよ。そういう音楽を仕掛けてきたのに、僕らもずっとそこらが悩みどころで……。それで、じゃあ僕らがやるしかないなと思ったんです。
--STUDIO COASTは予定通り順調にいってるんですか。
浅川:そうですね。やっぱり浸透するのに時間がかかりますし、最初からデカイハコを作りたかったんですけど、ああいう大きなハコっていうのが、ヴェルファーレ以降なかったんで、お客さんもとまどう部分もあるんでしょうね。完成したのが12月、冬って事で、年末は盛り上がりましたけど、1月〜3月っていうのは一番飲食業が冷え込む時期なんで、そこにイベントを入れつつ…やっと暖かくなってきたんで、GWぐらいから徐々にね、盛り上がってきてますよ。夏ぐらいにはかなりいい感じになってると思います。クラブイベントを目的とはしてるんですけど、あくまで多目的ホールと言うことで、いろんな音楽を発信していきたいですね。ageHaはDJイベントであって、週末以外の平日はきちんとライブハウスとして機能してくれれば。新木場って一見遠そうな気がするんですけど、電車乗っちゃうと意外と近いんですよ。逆に言うとプチトリップ感というか、都内近郊に足を伸ばして遊びに行ってもらう感覚で来て欲しいんですよね。
--非日常感覚ですね。
浅川:そうですね。そう言う意味でも面白い場所と思いますんで。
--では今後の抱負としては、クラブミュージック、ダンスミュージックをもっともっと拡げていきたいということですね。
浅川:そうですね。今の日本のミュージック・シーンでは、まだまだクラブミュージックは元年に近い感じだと思うんですよ。海外ではRUN DMCとかが出てからヒップホップが普通にビルボードの上位を占めるようになってきてますよね。それはここ15年くらいでやっとそういう風になってきたんだと思うんですよ。イギリスでもデュランデュランとかカルチャークラブとか、ああいう打ち込みの音が出始めて、やっと15年とかたって、アンダーワールドとかがチャートに入るようになったわけでしょう。
--じゃあ日本はまだまだこれからですか。
浅川:そうですね。まだこれからだと思います。あと10年とか、普通に浸透していくようにならないと。その為にはどんどん続けてやって行かなくちゃ行けないという思いはありますね。
--第一人者として、もりあげていかないとだめですよね。
浅川:そうですね。でも僕らのやってることは、そう簡単にできるものじゃない、っていう自負もありますよ。似たようなものはたくさん出てきてますし、ポップスとしてダンスミュージックが流行るのは全然いいんですけどね。 もちろん今m-floやDOUBLE、ヒップホップの曲が普通にヒットチャートに入るようになったのは、小室哲哉さんが打ち込みの音楽を流行らせたっていう功績はすごい大きいと思います。そのことについてはとてもリスペクトしてますけど、僕自身としては、やっぱりDJとして音楽にふれて、それでやってきたのがこういう形になったわけですから、普通にDJミュージックを自分たちで作ってきたっていう自覚があるし、それがリアリティ、本物感につながってるのかなとも思います。だから自分もDJをやめてないし、GTSとしてCDを出してるのが、ひとつの証拠になるのかなと思いますしね。 アーティストたちにとっても、僕がただのマネジメントスタッフ、社長としてではなく、「社長」だけど「アーティスト」だっていうところで、信頼感や信用が生まれるんだと思うんですよ。だから続けられる限り続けていこうと思います。
--今後も御活躍を期待しております。今日はどうもありがとうございました。
−−(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
社長業と平行して自身もDJ、アーティストとして活動することがアーティストたちとの信頼関係に繋がり、先頭を切ってクラブカルチャーを根付かせようとする氏の心意気が、クラブシーンに関わる人々の原動力になっているような気がしました。
また、ファッション関係の仕事をしながら自らのセンスに従って次々とをチャンスをものし、音楽業界の仕事へ行き着いた浅川氏の半生は、「音楽業界で仕事をしたいけど、どうやって就職したらいいかわからない」という人達にとって大きな目標となることでしょう。
さて、次にご紹介いただいたのは、浅川氏にとってはGOLD時代からの仲間であり、ともにクラブシーンの発展に貢献してきた(株)エヌ・ダブル・ピー代表取締役・後藤貴之氏です。お楽しみに。