第39回 森田和幸 氏 ロードランナー・ジャパン株式会社 代表取締役CEO
ロードランナー・ジャパン株式会社 代表取締役CEO
今回の「Musicman’sリレー」は、昨年9月にロードランナー・ジャパン(株)の代表取締役CEOに就任した森田和幸氏です。織田裕二のマネージャーとして下積み時代から大ブレイクまでを見守り、その後ディレクターに転身。クラブミュージックシーン世代のヒットディレクターとしてTHE BIG BAND!!やsugar soulなどを手掛けてきた森田氏。次なる活躍のステージとしてレーベル運営に乗り出した森田氏の目標とは?
プロフィール
森田和幸(Kazuyuki MORITA)
ロードランナー・ジャパン株式会社 代表取締役 CEO
1965年9月16日 兵庫県生まれ。
1988年 北里大学水産学部卒業後、(株)ビー・エー・シー入社。織田裕二のマネージャー及び原盤ディレクターを担当。
1991年 (株)ワーナーミュージック・ジャパン入社。邦楽制作ディレクターとして多くのプロデュース作品を手掛ける。1996年にはHIP HOP、R&B専門レーベル“FLAVA records”を設立。
1997年 ワーナー退社後、(有)ボーダー・グランドを設立。「踊る大捜査線」等ドラマ、映画の音楽プロデュースをはじめ、高橋克典、THE BIG BAND!!、Sugar Soulなど多彩なプロデュース活動を展開。
2000年 韓国アーティストの専門レーベル“NUKES”を設立し、日韓の音楽シーンの交流につとめる。
2003年9月 ロードランナー・ジャパン(株) 代表取締役CEO就任。
- ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代
- 音楽生活を謳歌した大学時代 ロックの地位向上を目指してスタッフを志す
- ナベプロに入りたい!熱意が通じて…
- 織田裕二との出会い〜共に苦労した下積み時代
- ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い
- 初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
- FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
- 世界で通用するミュージックマンになりたい 〜アメリカで出会ったKOREAN MUSICの衝撃
- 単身渡米で得た価値観 〜世界を目指すならアジアのトップを目指せ!
- ロードランナーでの挑戦
- 世代交代の先陣を切って 〜パンクスあがりのCEOがめざすもの〜
1. ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代
−−NWP後藤さんからのご紹介ですが、どういうお知り合いですか。
森田:後藤さんとはもう7〜8年前になるかと思うんですけど、きっかけは僕がワーナーにいたときに、THE BIG BAND!!(DRAGON、いしだ壱成、武田真治らが参加)を紹介してくれたのが後藤さんだったんです。僕はロック、彼はクラブミュージック出身でずっと来ていて、それまでたどってきた流れやお互いの個性はまったく違うんですけど、目指すものは同じだったんですよ。後藤さんとは世代も近いし、僕もクラブミュージックはずっと聴いていたので、やってきた背景がお互い違っても、自分たちのジェネレーションで次の日本の音楽シーンとしてなにかを起こしたいっていう思いはずっとありましたから。
−−それで意気投合なさったんですね。では後藤さんとのお話は追々伺うとして…兵庫県のご出身と言うことですが、兵庫県のどこですか。
森田:加古川市です。姫路と神戸のあいだぐらいで、明石は隣町ですね。高校生まで地元にいて、大学で東京に出てきました。
−−子ども時代はどんな少年だったんですか。なにかエピソードがあれば。
森田:海が近くてよく遊びに行っていたせいかもしれないんですが、僕は小さいときから生き物にすごい興味があったんですよ。いつも須磨海水浴場や須磨水族館、姫路の動物園とかで遊んだりしていて、海や動物が好きでしたね。そういう意味ではまったく音楽的な生活ではなかったです。親も音楽的な人じゃないかったし。親父は観光バスの運転手だったんですが、新幹線とか飛行機がまだ高くて、観光のメインは観光バスという時代だったので、ほとんど家にいませんでした。3日とか4日とか家を空けて戻ってくるっていう家だったので、母親が育ててくれたようなものですね。 ただ親父はいろんなコレクターで、なにか思い立ってはいろんなものを集めてたんですよ。コインとか切手、レコードとか…だからうちには当時の映画スターが出してるレコードがけっこうあったんです。赤城圭一郎とか小林旭、石原裕次郎とかね。そういうのを見たり聞いたりするのは好きでしたね。それは少し影響を受けてるかも知れません。単純にジャケは面白いし、「嵐を呼ぶ男」とかカッコイイじゃないですか。ポップスとかロックは全然なかったんですけど(笑)。
−−典型的な日本の家庭のお子さんですね(笑)。
森田:そうですね。それで高校までは普通に進学して、進学校だったんですけど、大学を選ぶときに一か八か推薦をお願いして北里の水産学部を受けたんです。僕の高校から北里に入った人はそれまでいなかったんですけどね。魚の研究をして自分の好きなことを仕事にしたいと思ったんです。
−−ちゃんとした志望理由があって水産学部を受けたんですね。養殖とかを学びたかったんですか。
森田:養殖と言うより研究をしたかったんです。親父がバスの運転手だったこともあって、サラリーマンじゃなかったし、スーツ姿で仕事に行くっていう考えがうちの家庭にはなかったんですよ。スーツを着なくていい仕事で、サラリーマンじゃなくて、好きなことを仕事にしたいという思いがあって…魚の研究者になって、できれば水族館の研究員になるか、どこかの研究所で働きたいと思っていたんです。それでラッキーにも北里に推薦でなんとか通ってしまったんです。
−−推薦がとおるということは成績優秀だったんですね。
森田:成績というより、委員長とかキャプテンとか、野球が強い高校だったんで、私設応援団の団長とか、そういうのをいろいろやってたんで推薦がとおったんでしょうね。
−−部活はなにをなさってたんですか。
森田:バドミントンです。ほんとはバレー部に入りたかったんですけど、バレー部では背が高い人ばっかり重宝されますよね。中学の時にバレー部に入ったんですけどそれが嫌ですぐやめちゃって、身長が関係ないスポーツをやりたくて、高校までずっとバドミントンをやってたんですよ。県の強化選手でけっこう強かったんですよ。
−−リーダーシップをいろいろ発揮されてたんですね。
森田:結果的にそうだったんでしょうね。自分ですすんでやりたがったわけではないんですけど、周りからなんとなく頼られて…うちの両親は自主性を重んじてくれていたんで、そういう育て方をされた影響もあるかも知れません。僕がいつも勝手に自分の進路を決めてしまうんで怒られたりはしましたけど、結果的にそれを認めてくれましたし、自分でものごとを考えるっていうことが、早い時期から身に付いていたんでしょうね。
−−いいご両親ですね。
森田:音楽的な面では何も影響は受けてないですけどね(笑)。
−−思春期で最初にはまった音楽はどのへんだったんですか。
森田:日本の音楽で初めて衝撃を受けたのは…頭脳警察かなぁ。当時はエアチェックが唯一の音楽情報源でしたから、NHK-FM「渋谷陽一のサウンド・ストリート」をよく聞いていて…、(大貫)憲章さんもラジオやられてたと思います。そういう番組でピストルズやクラッシュがかかって、それでまず一番衝撃を受けました。海外の特にUKのパンク、ニューウェーブを聞くようになって…平行して日本のパンクにもはまっちゃったんです。頭脳警察や町田町蔵のINU、アナーキーがクラッシュのカバーやってたり、めんたいロックのTHE MODS、ルースターズやロッカーズとかが出てきて…究極はスターリンとかになっちゃうんですけど(笑)、そうやってどっぷりパンクにはまっちゃったんです。そんなのを聞いてるのは友達の中に誰もいませんでした(笑)。
−−最初からそのへんにひっかかるというのはとてもセンスがいいというか、始めから本物のロックをわかっていたんですね。
森田:偶然ラジオからリアルタイムで聞いた音楽にのめり込んで…英語がわからないぶん、ビジュアルからまず入って、なんだこれは!と思って、サウンドもかっこよくて……頭脳警察なんかは音楽性よりも言葉のほうが影響を受けましたね。セカンドアルバムとか発禁になったりしてたじゃないですか。ああいうメッセージ性のあるものにすごい惹かれてたんです。、子どもながらにそういう社会性のようなものに惹かれていて、政治とか労働組合に興味持ってたり…親父は学生運動とかに入っちゃうんじゃないかって心配してましたね(笑)。
−−ほんとにヤンキーとは180度違う学生だったんですね。
森田:キャロルとか矢沢とかがヒーローで、男はみんなツッパリ、ヤンキーに行くって言うのが自然な流れで…身近にやくざの組とかもある地域なんで、背中に入れ墨しょったおじさんが体操してたり…普通でしたからね。友達はヤンキーばっかりでしたけどね(笑)。
−−でも地元のヤンキー友達とはちゃんと遊べてたんですね。
森田:全然大丈夫です。ただみんな周りはリーゼントで、僕はパンクなのでひとりで髪の毛立ててましたね(笑)。
−−ちゃんとパンクロッカーの格好もしてたんですね(笑)。
森田:もうバリバリですよ(笑)。僕はヤンキーのファッションが嫌いだったんです(笑)。婦人物のサンダルを履くとか(笑)、学生服は長い学ランで太いズボンをはいて、内側に刺繍を入れたり…ファッション的にもノーだったんでですよね(笑)。高校時代の同級生で唯一音楽の趣味を理解してくれた友達がいたんですけど、その子の親がパタンナーをやっていて、僕は特注で裏地を他とは違うファッショナブルな感じにしてもらったりしてましたよ(笑)。彼女は最終的にデザイナーの道に進みましたけどね。音楽的な理解もあって、RCサクセションとかが好きで、日本のロックにそこから入って…僕らは典型的なパンク・ニューウェーブの時代だったんですが、とにかく情報がないんですよね。
−−地方は特に情報がないでしょうね。
森田:そうなんですよ。「ミュージックマガジン」とかでもほとんどパンクやニューウェーブは扱わない時代で、唯一の情報源は「DOLL」でした。しかも本屋にはおいてないから通販で郵便為替で購読してましたよ。
−−熱心な読者だったんですね。
森田:神戸に1軒だけ「ウッドストック」という店があって、そこには唯一パンク系の雑誌とかおいてありましたけど…
−−すごいマイナーな時代ですよね。
森田:パンクのコーナーなんてほとんどない時代ですよね。「DOLL」と「宝島」の自主制作コーナーが唯一日本のマニアックなものを扱ってるコーナーで…宝島がまだA5判だったころですよ。そういう少ない情報の中でパンク・ニューウェーブを聞いていて、高校生の時にイギリスのUKハードコアのムーブメントが始まったんですよ。1982年ごろかな。それはリアルタイムでガツンと来ましたね。いちばんいろんなものに興味を持ってるときだから。音楽やファッションだけでなくてメッセージも基本的に反体制、反戦や暴力に対するメッセージも響いたし…日本でもそういうUKハードコアに影響を受けたバンドがどんどん出てきたんですよ。「インディーズ」という呼び方もなくて「自主制作盤」でしたけど、ラフィンノーズとか東京ではギズムとかガーゼとか、「DOLL」が作っていたレーベルからいろんなハードコアが紹介され始めて…それで相当やられましたね。 うちには当時の「DOLL」とか捨てられずに全部ありますし、自主制作で作られた日本のパンク、ハードコアのテープとかソノシート、ほとんど持ってると思いますよ。今じゃ何万円もするようなものをね。生き字引状態で、本を書けといわれたら書けるくらいですね(笑)。ほとんどがソノシートかドーナツ盤でアルバム単位で出るものはほとんどなくて、出ても不定期で通販も平気で遅れるし、わざわざ大阪まで買いに行ったたこともありました。あとは「DOLL」の交換コーナーでライブテープを交換してもらって音源を収集したり…
−−マニアックだなぁ(笑)。
森田:ライブ盤とかありませんから、噂が噂を呼んで、そういうライブテープを入手したり交換したりしてましたよ。
−−バンドはやってなかったんですか。
森田:高校生になってからバンドもやりました。ただ部活をちゃんとやってたんで、バンドは部活を引退してからやってましたね。スラッシュとかデスメタル聞いてる友達とハードコアで共通点が少しあったんで…コピーバンドみたいなのを始めたのが最初ですね。
−−担当は何だったんですか。
森田:実は歌をやっていたんですよ(笑)。
−−おお〜(笑)。
森田:ほんとにただ暴れてるだけでしたけどね(笑)。スタイル的なことも憧れがあったし…とにかく少ない情報を自分で収集しながら、想像力をふくらませてましたね。
2. 音楽生活を謳歌した大学時代 ロックの地位向上を目指してスタッフを志す
−−バンドは大学時代も続けたんですか。
森田:やってましたね。大学受験は推薦だったんで、面接と簡単な試験があって上京したんですが、次の日受験だっていうのにまず下北沢にある「五番街」というレコードショップに行きました(笑)。東京でいちばん行きたかった場所なんですよ。のちに「フジヤマ(三軒茶屋のインディーズレコードショップ)」を作った渡辺正さんがやっていたお店なんですが、アンダーグラウンドのシーンにとても通じてた方で、いつもこのお店の通販を利用してたんです。そこに行けばなんでも置いてあるっていう憧れのお店だったんです。ためていたお金で通販で手に入れられなかったレコードを何枚か買って…高校生でお金がないから、アルバム1枚買うのにすごい勇気がいりますよ。お年玉ためて初めて3〜4枚買えるんです。さんざんどれにしようか悩んでほとんどジャケ買いです。情報なんてないから、名前とジャケで、ハードそうだからコレ買おう、とか(笑)。
−−そういうセンスが鍛えられますよね。
森田:鍛えられましたね、圧倒的に。それに当時のハードコアなんて日本盤は絶対出てませんから、ほんとに少ない情報の中で集めて聞いて…大学に入って上京してからは…どっぷりでしたね(笑)。大学でもバンドを組んでやってました。当時は僕もオリジナルの曲を始めてライブ活動をやったり、ツバキハウスのロンドンナイトに出入りしたり、とりあえず見たかったパンクのライブハウスに通い詰めました。ライブハウスに行くとコワイ人達がいっぱいいるんですよ。喧嘩なんてしょっちゅうだし、こっちも気合い入れて髪の毛立てたりモヒカンにしたり、錨やチェーンをつけていかないとやられるんですよ(笑)。
−−やられるんですか?(笑)。
森田:やられるっていうか、狙われるんです。ちゃんとした格好でいくと認めてもらえるというか、仲間だと思ってくれるんですが、中途半端だと狙われる、っていう世界だったんですよ。
−−それはいつごろですか。
森田:大学入った頃ですから、84年とかですね。そういうところにはいろんな人がいるんですよ。この人は普段何やって生きてるんだろう?っていうような、人種の人がいっぱいいるんです。女の人でも破れたストッキングをはいて、スージー&バンシーズのスージーみたいな格好した人とか、ニナ・ハーゲンみたいな人とか、すごい人達がいっぱいいるんですよ(笑)。そういう人達を間近で見るということにワクワクしてましたね(笑)。怖いんだけど、見たい(笑)。ライブを見るだけじゃなくて、そういう人達を見たり、どのバンドがカッコイイとか情報交換したり、テープを交換してもらったり、教えてもらったバンドをまた見に行ったり…そういう交流が面白くて、行きまくってましたね。ほんとにどっぷり浸かってました。
−−東京でのロック生活を謳歌してたんですね(笑)。バンドは順調だったんですか。
森田:ええ、それなりにお客さんもついてたし、オーディションとか出たこともあるんですが、自分でプロになろうとは思ってませんでした。何故かというと、まだ日本のロックは認められてない、ロックがビジネスになっていない現状だったんです。BOOWYとかも全然ブレイクしてなかったし。83〜84年当時はカッコイイバンドがたくさんあって、のちにその人たちがインディーズブームの大きな流れになっていったんです。
−−じゃあプロのミュージシャンを目指していたわけではないんですね。
森田:そもそもどうして僕が音楽業界を目指したかっていう話になるんですが…僕は小さいときの思いのまま水産学部に行って、研究や実験ですごく忙しくてバイトもろくにできないような生活でした。2年から4年は水産学部の研究室が岩手にあったので、ずっと岩手にいたんですよ。バンドはサークルのメンバーとやっていたので、他の学部のメンバーは東京にいて。だから毎月のライブのために僕は岩手から帰ってきてたんです(笑)。お金がないから15〜6時間かけて車で(笑)。
−−それもパンクですね〜(笑)。
森田:ライブがせめてもの表現の場だったんですよね。学校はきちっと行ってたし、お金も出してもらってたからサボったりするのは嫌で授業はちゃんと出てたんですよ。
−−ちゃんと授業受けてたんですか。真面目ですね。
森田:そうです。音楽サークルだったから学校に練習場があるんですよ。だから授業の合間とか、休講のときはとにかく練習してましたね。ひたすらバンドばっかりやっていて、曲も作ってましたし。そのころから自分たちのバンドのヴィジュアルとかイメージを考えるのが好きだったんですよ。服も高いから買えないし、あんまり売ってなかったから、ほとんど自分で作ってました(笑)。
−−作ってたんですか?
森田:そうです。原宿プラザ(現在のGAPの場所にあった)で錨買って、東急ハンズで皮を買ってきてジャケットを作ったり、ブーツも安全靴を加工して作ったり、Tシャツのデザインも自分たちでペインティングしたり。音楽が基盤にありながら、ビジュアルや映画音楽、ロックムービー的なものにすごく影響を受けていて、音楽から発するいろんなものに興味があったんですね。二十歳の時そろそろ進路を考える時期になって「日本のロックでこれだけカッコイイバンドがたくさんあるのに、ロックがビジネスになっていないのは音楽業界にロックがわかってるヤツがいないんじゃないか」と思ったんです(笑)。生意気にね。だから俺はスタッフになろうと思ったんです。そういういいアーティストやカッコイイバンドを世の中に出せるようにしようって。
−−志が芽ばえてしまったんですね。
森田:自分でバンドもやってはいましたけど、「Don’t trust over 30」っていう言葉どおり、30過ぎても自分がロックやって歌ってる姿っていうのは想像できなかったんです。でも裏方としてなら一生やっていけるんじゃないか、自分が表現者として、ボーカリストとしてやっていくよりはスタッフとしてやりたいっていう気持ちが芽ばえたんです。当時はレコード会社に入りたいのか、プロデューサーになりたいのかジャケットを作りたいのかコンサートをやりたいのか、それらが細分化された職業であるという認識さえもなかったけど、とにかく音楽業界に入りたいと思ったんです。マスコミ読本とか調べても音楽業界の事なんてほとんど載ってないし、
−−「Musicman」もないし(笑)。
森田:そうなんですよ。ほんとに情報がなくて、大学の教授に相談してもわかるわけがなく(笑)。そういう大学だから誰も音楽業界に入った人はいないんです。教授には「俺にはどうにもできないが大丈夫か」って言われて(笑)。「平気です、自分で調べますから」って言いましたけどね。 そのころの日本のロックでも衝撃的だったり気になっていたことはいくつかありました。吉川晃司さんのセカンドアルバムでアンダーグラウンドのミュージシャンが使われていたんですよ。布袋(寅泰)さんとか、のちのパーソンズの渡辺(貢)さんとか、そういうミュージシャンが参加してたんです。僕はBOOWYの布袋さんよりもAUTO-MODの布袋さんていうイメージがあって、パンク・ニューウェーブの流れをくむカッコイイギタリストだなと思っていたんですよ。吉川さんのアルバムを見て、「あれ?(すごいメンツだな〜)」って思ってたんですよ。
−−学生の時からそういうところに目を付けていらしたんですね。
森田:それから当時ナベプロでノンストップ・レーベルをやっていましたよね。ノンストップ・レーベルは言葉を大事にした音楽がけっこう多くて好きなレーベルでした。いろんな方がいらっしゃって…ノンストップのレコードを見るといつも木崎賢治さん(現・(株)ブリッジ代表取締役)の名前があるんですよ。その「プロデューサー・木崎賢治」という名前がとても気になっていたんです。木崎さんは日本の本当の意味でのプロデューサーの最初だと思うんですよ。それでノンストップ・レーベルをやってるナベプロに興味を持っちゃったんです。
−−木崎さんも当時はナベプロの方でしたよね。レコード会社ではなくて、そういうプロデューサーに目を付けるところが鋭いですね。
森田:もちろんレコード会社のディレクターとかも考えてはいましたよ。でも僕は木崎さんの仕事の仕方に興味を持ってしまったんですよ。吉川晃司さんのアルバム参加ミュージシャンもそうだし、コンサートでも吉川さんがBOOWYと一緒にやったコンサートがあるんですよ。そういう風にナベプロがメジャーとアンダーグラウンドの橋渡しをやり始めていて「こういうこともメジャーでできるんだ」って思って…大きなプロダクションとしてマネージメントもしながらトータルでプロデュースできて、しかもメジャーなのにカッティングエッジなこともできる。俺はここに行くんだ!って思いこんだんです(笑)。
3. ナベプロに入りたい!熱意が通じて…
−−ナベプロに行くと決めてしまったと(笑)。
森田:そうなんです(笑)。ここしかないと(笑)。なぜレコード会社がイヤだったかというと、当時は当然新卒採用で狭き門ですよね。募集要項見ると、学歴重視じゃないとは謳いつつ、「英語力必須」って書いてあったりして(笑)、「なんだ、全然ロックじゃねぇじゃん」って思ったんですよ。それで本命はナベプロにしておいて、試しに何社か受けてみたんです。当時は青田買いがありましたよね。事前のマスコミセミナーで論文を書いて出して、論文が通った人が面接に呼ばれるんです。それで某社のセミナーに参加して、面接に行きました。メーカーは「個性重視」っていうの謳い文句にしてますよね。僕はそれを真に受けて(笑)スーツを着ないでTシャツと友達に作ってもらったジャケットを着ていったんです。そういうヤツがいっぱいいるだろうと思ってたらそんなの誰もいない(笑)。みんなリクルートスーツで慶応とか青学とか早稲田とか、いい大学ばっかりなんです。俺だけ北里の水産学部で、全然違うんですよ。
−−笑っちゃいますね(笑)。
森田:最初は集団面接ですよね。ほかの人の受け答えは典型的な、就職面接の勉強してきたような模範解答なんですよ。ハキハキと答えるし(笑)。
−−質問もそういう質問なんですよね(笑)。
森田:そうなんですよ。俺なんて全然そんなこと考えてなかったから、「なにこれ〜」って思いましたね。「どうしてスーツ着てないの?」って聞かれても「自分の個性をアピールするためです」って答えればそれがアピールになると僕は信じてましたからね。結局は何次面接かで落ちたんですけど、そのときも「ダメだな、わかってないな〜」とか思ってて(笑)。
−−すごい強気ですね〜(笑)。
森田:ほんとに信じられないくらい強気だったんですよ。俺はナベプロに入るんだから関係ないやって(笑)。当時のプロダクションで新卒採用しているところはほとんどなかったんですけど、ナベプロは毎年やっていて、募集時期が少し遅かったんですね。前年度に渡辺晋さんが亡くなった直後で、今年はあまり(新卒を)とらない、って言われていたんですけど、新卒採用があったんで受験しまして…けっこうトントン拍子で選考に残ったんですよ。最終は合格者だけ参加して、会長と面接だったんですが、その手前で落っこちたんです。
−−落ちちゃったんですか!
森田:そうなんです。興味を持ってくださる面接官の方もいらっしゃったんですけどね。格好も格好だったし、「そのジャケットどこで作ったの?」「友達に作ってもらいました」とか、そういう会話をしたり…逆にカタイ面接官の方もいて、結局落ちてしまいまして。落選の通知が来てびっくりししましたよ(笑)。どうしようかと思って悩みました、岩手の海を見ながらね(笑)。
−−絶対受かると思っていて落ちてしまったと。
森田:二十歳の時に音楽業界に就職すると決めて、当然親に大反対されたんですよ。母親には「縁切る」って言われて…やっぱり親は地元に帰ってきて欲しかったんだろうし、せっかく大学入れたのにちゃんとした職業についてほしいと思ってたんでしょうね。音楽業界が職業として認められてなかったし、東京にいればまだしも、地方にいたらわからないですよ。それで大反対されたんですが、「音楽業界で骨を埋めたいからやらせてほしい。絶対逃げて帰らないから」って啖呵切ったんですよ。父親にもそうやって説明して、「成功するまで帰ってくるな」って言われて。だからなにがなんでも受からなきゃダメだったんです。絶対通ると思ってたし(笑)。それでナベプロの人事部長さん宛に手紙を書いたんです。なぜ落ちたか知りたい、っていうのと、こういうすればナベプロは変われる、っていう提案をレポート形式で書いたんですよ(笑)。
−−提案ですか(笑)。生意気ですね〜(笑)。
森田:これからは日本のロックがもっといいバンドが出てくるし、ビジネスモデルとしてもどんどん出てくるだろうから、そういうジャンルに強い人間がいないといけない。そうすればナベプロはメジャーとアンダーグラウンドのバランスがよくなる、というようなことを延々と書いたんです(笑)。えらそうにね、たかがド素人が(笑)。「だからバイトでもビル掃除でも警備でもいいから入れてください」って。そうしたらありがたいことに当時の人事部長からお返事をいただいて…「君の言ってることはよくわかるし、提案ももっともだと思う。ただ、一度決まったことは覆せないし、どうすることもできない。君の個性はとても面白いと思うけど、今年は新卒採用しかしないし、申し訳ないが今回は無理です」ってご丁寧にお返事をくださったんです。
−−それだけでもありがたいですね。
森田:その手紙を見ながらまた海に行ってボーっと考えて…それで次の日、東京まで行ったんです。ナベプロの近くの麻布郵便局の公衆電話から「今年受験した森田と申しますが、人事部長さんお願いします」って電話したんです。向こうも覚えていてくださって、「近くまで来ているので会っていただけませんか」って。強引だなぁと言われましたけど、ちょうど時間が空いてるからいいよと言ってくださって、ナベプロのビルの下の喫茶店でお会いしていろいろ話したんですよ。
−−すごい度胸ですね。
森田:もうほかになにも受けていなくて後がないこと、掃除夫でもいいから入れてくださいと。そしたら「それを面接で言えばよかったんだよ。君に対してはとても評価が割れたんだ。たしかに面白いし熱意も知識もあるけれど、かなり偏っているし、メジャーな渡辺としてはマニアックすぎる。当社としてはやはりバランスのいい人間を採用したかったし、だから君は次点落ちだったんだ。他の年だったらもしかしたら採用したかもしれないけど、今年は人数も少なかったからね」って言われました。少なかったと言っても、当時も7〜8000人くらいは受けてたとは思いますけどね。それで2、3人の採用ですから。
−−ほんとうに狭き門だったんですね。
森田:それで「ほかにアテはあるのか」って聞いてくださったんです。「いえ、なにもないんです。僕にとっても最後の賭だったし、業界に知りあいもコネもないし、どうしようもないんです」「そうか…実はいい人がいたら教えてくれと頼まれてるところがあるんだ。仕事の内容は一緒だから、紹介してあげよう。これから連絡しておくから、君はそこへあとで連絡して行って来なさい」と。それで紹介してもらったのが、(株)ビー・エー・シーだったんです。
−−紹介してもらえたんですか。熱意が通じたんですね。
森田:そうなんです。それで僕の人生は変わったんですよ。
−−わざわざ東京まで出かけていって、会ってもらわなかったらそうはなりませんでしたよね。
森田:そうですね。あのとき普通に面接で不合格になって、ハイそうですかと引き下がっていたら、今の僕はココにいないですよ。
−−並々ならぬ努力と熱意が通じたと。
森田:親に対して啖呵切った手前、意地もありましたね。
−−このサイトは音楽業界に入りたくて悩んでる若い人達もたくさん見ていると思うので、そういう人達にとってホントに勇気づけられる話ですね。
森田:僕は何の実績もなかったし、音大や芸大を出たわけでもない。音楽とは全く関係ない畑違いの所から思いだけで突入していったんですよね。
−−運も実力のうちですよね。
森田:それで(株)ビー・エー・シーの永田洋子社長に拾ってもらえたんですが、ここで永田社長に出会っていなかったら、やっぱり今の僕はいないと思います。永田社長に出会えたことも、僕にはいい巡り会いだったんですよ。永田社長は元々渡辺プロにいた方で、独立してからはパーカッションのツトム・ヤマシタさんのマネージメント、海外公演なども含めた全てを担当していたんです。ほかには映画音楽やクラシックのイベントなんかもやっていたんですが、僕は当時何の予備知識もなく、ただ人事部長さんに紹介してもらって、電話して会いに行ったんです。ツトム・ヤマシタがすごい世界的なパーカッショニストだっていうのはわかりましたけど、聴いたことはなかったし、その会社がどんなところなのかなにも知らずに行きました。何でもいいからとりあえず藁をもつかむ気持ちで入り込んで、そこからまたはい上がっていけばいいと思って。そこで当時駆け出しの役者で芽が出ていなかった織田裕二さんのマネージャー兼付き人になったんです。「織田君はこれから歌でもやっていくし、レコードを作ったら原盤はウチで持つから、基本的にはナベプロとやることは変わらないから、やってみる?」って永田社長に言われて…「やります、何でもやります」って。
−−経験もないのによくやらせてもらえましたね。それは会いに行ってすぐ決まったんですか?
森田:そうです、すぐ決まりでしたね。「もうすぐ冬休みだから、そのころ一度見に来なさい」って言われて、休みの間に手伝いに行ったり…まあ大学四年の10月くらいのことだったんで、大学と言っても論文書いてしまえば暇でしたし。卒業前にはもう手伝っていました。
−−ビー・エー・シーは当時何人ぐらい社員がいたんですか。
森田:まず永田社長と先輩のプロデューサーの方がひとりいて、それにデスク兼経理の方、それからもともと織田君についてた現場マネージャーがいたんですけど、その人がやめることになっていたんで、人を捜してたんですよね。だから4人です。
−−少人数だったんですね。それは鍛えられましたね。
森田:そうなんですよ。それまで僕はアンダーグラウンドのサブカルチャーで生きてきた人間だったから、歌謡曲とか芸能界とかいちばんバカにしてた典型的な人種だったんです。ダサイって思ってたのに、まさか自分がその芸能界で現場マネージャーをやるなんて、自分の中ではすごいギャップがありました。でもとにかくなんでもやってやろう、と思ってたし、結果的にこの仕事をやったことが、後の自分にとって非常にバランスがとれたというか、いい結果になりました。
4. 織田裕二との出会い〜共に苦労した下積み時代
−−織田裕二さんはまだブレイク前だったんですか。
森田:当時の織田君はデビューしてまだ数ヶ月でまったく芽が出てない状態で、僕と年も近かったんです。永田社長は社長でありチーフマネージャーでもあって、基本的なことは社長が決めて、現場は僕がやるっていう形で…永田社長は僕と織田君を同じように育ててくださったんです。だから織田君とはほんとに同期みたいな感じでしたね。僕は芸能界も初めてでさっぱりわからないし、ドラマの仕事ももちろん初めてで、朝、駅で待ち合わせしていっしょに現場に行くっていう日々でした。タクシーなんて使えない頃ですから。
−−そういう時代もあったんですよね。
森田:はっきり言って売れてない新人タレントのマネージャーって言うのはすごい仕打ちを受けるわけですよ。いじめられますし、箸にも棒にもかけてもらえなくて…当然毎日忙しい訳じゃなく、結構暇だったので会社で座ってると、「あなたタダで給料出してるわけじゃないのよ、なにか考えなさい。この業界は自分でやらなくちゃダメなの。待っていても仕事はやって来ないし、自分で取りに行かなくちゃ。人をよく見て、良いものは人から盗みなさい」と怒られました。それまではなにか教えてもらえるものだと思っていたんです。とても口惜しかったんですね。畜生!って思いました。もちろん私生活は音楽漬けで、もらったお給料は全部レコードやライブにつぎ込んではいましたけど、仕事は音楽からまったく離れていたので、自分が目指していた音楽中心の生活と、現在自分の置かれている状況のギャップがあって、それが歯がゆく思っていた時期でもありました。
−−確かにそういう意味でもつらい時期だったんでしょうね。
森田:もちろん社長には「いずれは音楽に専念した仕事したいです」とは言ってありましたし、社長もその点は理解してくれてました。「いずれはそうすればいいんじゃないの」って言ってくれてたんですが…仕事上僕も煮詰まってたんでしょうね。それから半年〜1年くらいたったころかな…仕事でたまに音楽業界の人に会うとことがあったんですが、若かったしわりと音楽はわかってるほうだったから先輩たちに飲みに連れてってもらったりしてたんです。それである音楽事務所の先輩に言われたんです。「オマエが今やってることをちゃんとやらないと、オマエの存在価値はないんだよ。オマエがどんなにロックを知ってようが、いろんなアイデアがあろうが、関係ないんだよ。だから今担当してる子をちゃんとやれ。それが仕事なんだよ」って。「そりゃそうだよな」って、そこで目が覚めたんですよね(笑)。
−−とてもいいアドバイスをもらえましたね。
森田:そうですね。それまでは煮え切らない毎日で、役者のマネージャーがやりたい訳じゃないとか、期待されて入った割には自分が担当してる役者は誰も知らないし、当然親も知らない。自分は何やってるんだろう。いよいよ日本のロックもビジネスになってきて、BOOWYに始まりレベッカとか…俺がホントにやりたかったことが形になってきてるのに、俺はまだこんな事をしている…そういう歯がゆい思いもありました。でも社長に言われたこと、その先輩に言われたことで初めて「じゃあ織田君のことをもっとちゃんと、自分で考えよう」と思って、企画書を作って、コンセプトを作ったんです。企画書の書き方なんて全然知らないんですけど、自分で「キーワード」「キャッチフレーズ」「売り文句」みたいなのを作って…今では別にどこのプロダクションでも普通にやってることなんでしょうけど。
−−自分がすべき事に気が付いたんですね。
森田:赤城圭一郎さんとか小林旭さん、石原裕次郎さんも、スターと言えば役者も歌もやっていましたよね。ハリウッドスターもそうでしたし。でも当時の芸能界にはそういう「スター」がいなかったんですよ。それで役者で歌もやっている、昔のスターをコンセプトにしようと思ったんです。小林旭さんだったら「マイトガイ」とか石原裕次郎さんなら「太陽族」とかキャッチフレーズがありましたよね。だからそういうキャッチフレーズを考えて、ビジュアルはこういうファッションで、音楽はこういうサウンドで、歌詞はこんな感じ…ってかなり細かく考えて具体的に書いたんです。
−−ずいぶん具体的だったんですね。
森田:けっこう細かく作りましたね。雑誌社はこういう雑誌にアプローチしたい、テレビはこういう番組に出したいって…それで会社でひとりでワープロで企画書を作って、社長の机の上に置いておいたんですよ。社長がそれを見て「コレは貴方が自分で書いたの?それなら自分の思うようにやってみなさい」って言ってくれたんです。それまではスケジュールとか上の先輩の指示を待ってやっていたんですけど、そこから自分で動くようになったんです。
−−森田さんの企画が認められたんですね。
森田:嬉しかったですね。それで自分でいろんな雑誌社に持ち込んで話したり、テレビ局もあたってみました。もちろんアポすら取ってくれないところもたくさんありましたけど、そのなかでも時間を割いて話を聞いてくれたり、取り上げてくれたところにはとても感謝してますし、今でも長い付き合いになっていますね。でもほとんどが売れない役者なんかには時間をくれないし、ヒドイ扱いを受けていたんで、「ちくしょう、いつかあいつら土下座させてやる」って当時は思ってました(笑)。 そのうちに織田君にチャンスが回ってきたんですよ。当時はワーナーに所属していてレコードが出せることになったんです。まだレコードメーカーのディレクターが強い時代で、ディレクターが中心になって仕切っていました。歌謡曲の作り方として作詞家・作曲家・編曲家それぞれに発注しますよね。僕はレコーディング自体僕は初めてだったし、どうやって曲を集めるのかっていうことも知りませんでしたから、先輩に教わりながらやっていたんですが、ちょっと不満もありましたね(笑)。「俺ならこんな風にしないのに」とか、「こんな歌詞はイヤだな」という思いはあって…でもビジュアルにはこだわりがあったんで、このカメラマンでこういうイメージでやりたいということはお願いしました。 売れない頃はスタイリストとかもつけられないので、全部僕が自分でスタイリングしてました。お金をもらってお店へ行って服を買ってきて…ジーンズに白いTシャツっていうイメージを作ったんですよ。
−−そうだったんですね。
森田:プロモーションも画期的なことをやろうとがんばりました。小さなミニ看板の前を通ると曲が流れるようにしたり、役者で音楽もやるっていうのを利用して、ビデオとCDを同じパッケージにして商品として売りたかったんです。ミュージックビデオとかまだそれほど売られてなかったんですよね。ビジュアルと音楽を一致させることによって総合的にブレイクさせたかったんです。当時はワーナーに寺林さんがいらしたんですけど、(寺林晁氏:現ユニバーサルミュージック(株)執行役員)がいらっしゃって、そういう企画を出したら「これ森田君が考えたの?この企画くれない?少年隊でやりたいんだけど(笑)」って興味持ってくださったこともありました(笑)。「僕は織田君のために一生懸命考えたので…」って言いましたけど(笑)、でも僕のことを評価してくださって、冗談まじりに「君は面白いね。いつかワーナーに来ないか」って誘ってくださったんですよ。あれは嬉しかったです。そのときはまだ織田君がブレイクしてなかったから、今は無理ですけど、織田君がうまくいったらお願いに上がるかも知れません、って言いましたけど。
−−やっと認めてもらえたんですね。
5. ドラマと歌が同時にヒット!織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い
森田:織田君もだんだん知名度が出てきて、映画「彼女が水着に着替えたら」(1989年公開)でピックアップされて、それで僕らもさらに頑張ろうって気持ちになりました。それからはあれよあれよという間に役者として注目されるようになって、そして「東京ラブストーリー」(1991年)ですよ。この時期にナベプロでは吉田栄作くんを売り出していたんです。だから僕らは吉田栄作くんには絶対負けたくなかったですね(笑)。あと、「湘南爆走族」で一緒だった江口洋介くんもブレイクしてて、この3人で役者もやるけど歌もやる、っていうような役者ブームができましたね。
−−それでトレンディドラマ・ブームになったんですよね。
森田:そうですね。それで「東京ラブストーリー」のときに、僕はこのドラマにぴったり合った曲をつくりたいと思ったんです。ちょうど東芝EMIに移籍になったので、それを機に最初から発注も含めて全部しきらせてもらったんです。このときにも木崎賢治さんのことを思い出して、安藤秀樹さんに飛び込みで曲をお願いしました。まだ「東京ラブストーリー」の撮影が始まった頃ですから放映されていませんでしたけど、そのイメージにとにかく近づけたかったんですよ。とにかく飛び込みでいろんな作家にアタックしましたね。吉川晃司さんのアレンジをしていた松本晃彦さんのアレンジがすごく好きで、松本さんに編曲をお願いしたり…彼とはのちに「踊る大捜査線」でもいっしょに仕事することになるんです。僕が初めてディレクターまで務めたのが東芝への移籍第一弾、「歌えなかったラヴ・ソング(作詞:真名杏樹、作曲:都志見隆、編曲:松本晃彦/CW「永遠の灯」(作詞・作曲:安藤秀樹、編曲:松本晃彦)なんです。
−−あの曲がそうだったんですか。
森田:ちょうどCMもやることになって、CMでもあの曲を口笛で使ってもらえるようになったんです。最初クライアント側は別の曲を使おうとしてたんだけど、「今制作中の曲があるから、それでトライさせてください」ってお願いしたんです。社長もとても協力してくれて、口笛を使うことにおちついて……スズキセルボのコマーシャルだったんですけど、セルボのイメージ、東京ラブストーリーのカンチのイメージ、それと織田君の歌が重なって、結果的には70〜80万枚の大ブレイクになりました。
−−いきなり大ヒットでしたよね。
森田:役者としても大ブレイクしてすごいタイミングでしたね。でもそれまで嫌な思いもいっぱいして、門前払いも食らってきてましたから、妙に冷静ではありました。「歌えなかったラヴ・ソング」を作ったときも、もう1曲アップテンポな候補曲があって、東芝サイドではそちらを押していたんですよ。僕としては「歌えなかったラヴ・ソング」しかありえないと思っていて…社長と相談して、「この曲で3万売れなかったら僕は才能がないと思ってこの業界諦めます。だからやらせてください」って言ったんですよ。そしたら社長が「あなたがそこまで言うなら、こっちでやりなさい。東芝には言っておくから」って後押ししてくれて。自分自身の思い入れを信じて成功したので、曲でヒットを出せたのが嬉しかったです。
−−でも急に大ブレイクして、環境が変わったりしませんでしたか。
森田:ええ、あれで急に世の中変わっちゃいましたね(笑)。それまで見向きもしなかった人達から急に頭を下げてきて…40代50代の編集長やプロデューサーが手のひら返すようにやってきて「今度ぜひお仕事を…」って来るんですよ。だからすごく冷静にそれを見ることができて、その冷静な自分もがもう一人いたおかげでヘンに調子に乗ることもなかったと思います。
−−それまで苦労した甲斐がありましたね。
森田:そうですね。ただほんとに忙しかったんですね。ドラマを3本くらい掛け持ちして、平行して取材もこなしてレコーディングもやって…僕はマネージャーでもあり原盤ディレクターでもあったから、曲や歌詞の発注をし、打ち合わせをしてスタジオに行って…ようやく車も使えるようになったんで、朝会社の車で運転して織田君を迎えに行って現場に入れて、僕は都内に戻って音楽の打ち合わせをして夜終わる頃に戻ってきて送り迎えをして…そういう生活を送ってましたね。
−−自分の寝る時間なんてないですよね。
森田:ドラマなんて夜遅いし朝は早いし…ほんとうに寝る暇もないですよ。マネージャーはほんとにキツイですね。スケジュール合戦になるし、携帯電話もまだ普及してない時代ですから。ほとんど公衆電話か、あとは肩掛けのボックスみたいな携帯ありましたよね?あれを持たされて使ってたんですけど、相当ストレスがありました。後半はさすがに忙しすぎて現場にもう一人マネージャーをつけてもらいましたけど、僕も現場にはずっと顔出してました。売れたからといって現場をおろそかにしてはいけないっていう永田社長の方針だったんです。永田社長自身、必ず現場に顔を出してましたからね。そういう基本的なことがやれない人は、いつまでたってもダメなんだよ、って言われました。
−−それもとてもいい教えですね。
森田:そうですね。ほんとうに基本的なことをたくさん教えていただきました。それで織田君がブレイクして役者としても音楽としても順調に進んで、僕も3年目ぐらいになったころに、アフリカに行く仕事があったんですよ。織田君が連載コラムをやって最終回はパリ・ダカール・ラリーをおっかけるレポートにする、っていうのを女性誌「Ray」に持ち込んだらOKが出てほんとうに行けることになったんです。スタートのパリから追いかけていって、全部追いかけるとちょっと時間も長いので、途中からアフリカに飛んでセネガル行って…それで精神的にもちょっと考える時間がとれたんです。息抜きになったというか…それまで馬車馬のように働いていて考える余裕もなかったのに、急にそれらから解き放たれて…しかもアフリカの人達は、太陽が出たら起きて、働いて、太陽が沈んだら寝るわけでしょう。その姿を見たときに、「やっぱり人間らしい生活をしなきゃいけないよなぁ」って(笑)。僕は何のためにこの業界に入ったんだろう、何のために仕事してるんだろう、って考えたら、やっぱり音楽をやりたいためにこの世界に入ったんですよね。もうなんとかここまでやってきたんだから、これからは音楽に専念してもいいんじゃないだろうか?って決心したんです。
−−アフリカで本来の自分を取り戻したんですね。
森田:そうですね。それで帰ってきてから社長と話しました。「あなたは入るときからそう言っていたし、いずれそう言うだろうと思っていたから」と言ってくださって…ただ条件として「織田裕二の音楽ディレクターは続けて欲しい」って言ってくれたんです。織田君は音楽でも軌道に乗ってきていたところだったんで、仕事として続けてくれないか、と。僕としてもやりたかったので、「ぜひやらせてください」と。
−−すばらしい円満退社だったんですね。
6. 初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
−−ビーエーシーをやめられてワーナーに転職されるんですね。
森田:そうですね。転職にあたって声をかけていただいた会社は他にもあったんですけど、そこで寺林さんの言葉を思い出したんです。やっぱり最初に音楽業界で僕を認めてくださって声をかけていただいたのは寺林さんだったので…ちょうど寺林さんがワーナーで独立した別レーベルを作られるときだったので、「じゃあこっちに来るか」って言っていただけて、織田裕二君の音楽は続けるという条件ものんでいただいて、その新しいスペッキオというレーベルに入りました。 自分で見つけてきたバンドを担当しながらレコーディングやビジュアルのプロデュース、ライブのブッキングからフライヤー作りまで自分たちでやりました。1年ぐらいやってたんですが、結局そのレーベルは解散になり、寺林さんも辞められて新たなレコード会社を作られることになったので、僕も連れて行ってくれるのかと思ったら、「お前は一度メーカーのシステムの中で勉強した方がいい。だから会社に残れ」って言われて、僕はワーナーの邦楽本部に改めて入ったんです。レコード会社のディレクターとしての実質的なスタートはそこからですね。
−−念願のディレクター業務はいかがでしたか。
森田:ワーナーで自分で見つけてきたアーティストはけっこう失敗続きでしたね…ワーナーではその時期、邦楽のロックを全くやっていなかったので、僕はロックをやろうとしてたんですけど…。まだ自分の思い入れだけでメーカー側のシステムをわかっていなかったんですね。音楽が良ければ売れると思ってたんです。メーカーのシステムで勝ち抜かないと、どんなにいい音楽を作っても押してもらえない、売ってもらえない現実を知ったんです。2年ぐらい全くヒットを出せなかった。僕はアシスタントからプロデューサーになったタイプではなかったので、誰かの下についたりはしなかったんですけど、熱いタイプだったからか、年齢的に下だったからか、先輩のプロデューサーやアレンジャーさん、ミュージシャンの方々にもけっこう可愛がってもらったんですよ。その点では恵まれていたんですが、先輩たちに「いいものは作ってるんだけどね」って言われながらもヒットが出せなくて…コレではダメだ!と思いました。
−−具体的にはどんなバンドを手掛けられていたんですか。
森田:たくさんあるんですけど…当時はイカ天のバンドブームで、あまりにもテクニックのないバンドがどんどんデビューする現状に対するアンチテーゼのようなものをやりたくて…。エレガントパンクっていうジャズ畑出身のバンドを偶然見つけたんです。ミッシング・パーソンズの日本版のようなバンドで、ボーカルが女の子だったんですが、テクニックもあるしうまくてキャッチーなものができると思ってデビューさせたんですけど、売れなかったですね。ジャズ的なアプローチをする若いバンドも少なかったし、「Guitar Magazine」とか「Player」とか、音楽専門誌ではすごい高い評価をしてもらってたんですが、まだバンドブームだったのでなかなかうまくいかなかったですね。 それからDEEPっていうバンドも担当しました。最初に持ってきたディレクターが異動になったので、僕がやることになったんです。かっこよかったし、僕もやりたかったですし。けっこう鳴り物入りでデビューしたんですけど大きなブレイクまではいきませんでした。渋公を目標にがんばろうってやってたんですが、結果的にパワステ2DAYSまででした。 それから高橋克典君も担当しました。彼はすでにデビューしていて、ファーストが期待ほどはブレイクしなかったんですよ。それで1枚目がうまくいかなかったので、事務所サイドの意向もあって、メーカー側からも若いディレクターを用意することになって、僕がやることになったんです。平行してずっと織田君をやっていたし、役者も音楽もやるっていう場合のノウハウを持っていましたから。それで音楽制作からしきらせてもらうという条件で、CMのタイアップ曲をやらせてもらえることになったんです。それで伊秩弘将さんの曲を松本晃彦さんにアレンジしてもらって、詞は康珍化さんにお願いしました。康さんの歌詞が好きで、飛び込みで書いてもらって…。そのときもドラマのイメージと本人のイメージとリンクさせたんですが、そのドラマで彼が大ブレイクしたのでCMもうまくイメージが重なって、曲もヒットしました。
−−何のドラマですか。
森田:…なんだったかなぁ…中山美穂ちゃんが出ていたんですけど…(1995年フジテレビ系ドラマ「For You」)。そのときに出した曲(「君のKissしか欲しくない」)が売れて、初めてメーカー内でも評価が出たんです。ヒットが出ればメーカー内でもいろいろ条件出せるようになりますよね。予算も使えるようになるし。そのときにこれが「メーカーのシステム内で制作する」っていう術なんだなと初めてわかりました。自分がヒットを出さなければ自分が抱えているアーティストも幸せにできないなと。
−−寺林さんはそれを経験しろと言っていたわけですね。
森田:そうですね。「音楽バカ」になるなということだったんでしょうね。それで高橋克典君が当時のワーナーの邦楽売上の一部を担うところまで来てくれたんで、僕もある程度いいポジションで仕事ができるようになって、そろそろ次のシーンの音楽をやりたいと思っていたときにニューワールドの後藤さんと出会って、THE BIG BAND!!をやることになったんです。いしだ壱成君は当時は名前も売れていたし、ソロでレコードも売れてましたよね。でも役者のいしだ壱成よりTHE BIG BAND!!に興味を持ったんです。最初ビデオを見せてもらったのかな?すごいかっこよくて、クラブミュージック以降のロックっていうのを考えていた時期だったから、僕がやりたいと思っていたニュアンスにすごく近くて、ライブを見に行ったらやっぱりすごくよかったんです。後藤さんはそのときにライブのブッキングとか彼らのサポートをしていて…デビューにあたって何社か争奪になってたときに、メンバー自身が僕とやりたいって言ってくれて、それでワーナーから出すことになったんです。
−−THE BIG BAND!!はいしだ壱成がメンバーというだけではなくて、音楽的にも話題でしたよね。
森田:そうですね、かなり鳴り物入りのデビューだったので、いろいろやれましたね。目玉のステッカーをいっぱい貼って、渋谷でストリート・プロモーションもやりました。当時はストリート・マガジンみたいなもができはじめたころなんですよ。「Warp」が創刊された頃ですね。だからストリート・プロモーションもほとんど行われてなかったんだけど、海外の状況とかを見ていて、僕はずっとそういうことをやりたかったんです。それまではテレビ局と雑誌社だけ行けばプロモーションになってたんですが、MTVやスペースシャワー等音楽チャンネル、ストリート雑誌とか、それまでだれもプロモーションしてなかったところに声をかけたり、ユーザーに近い感覚でプロモーションを展開していきました。THE BIG BAND!!は大ブレイクはさせられなかったけど、ここでやってみたプロモーションのノウハウはSugar SoulやDJ HASEBEのときに生かせました。
7. FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
−−たしかにプロモーションの方法もここ数年でずいぶん変わりましたよね。後藤さんとはその後もいろいろなプロジェクトをいっしょにやられてますよね。
森田:そうです。僕自身、次のシーンとして日本でのヒップホップ、R&Bというジャンルを考えていて…海外ではレーベル単位でプロデューサーがきちっとしていて、きちんとサウンドを作っていくっていう動きがありましたよね。そういうことに興味があったし、一時J-RAPブームみたいなのがありましたけど、もっと本格的な日本語のヒップホップが来そうな波を感じていて、今後はそこがメインストリームになるだろうなと感じていたんです。後藤さんともそういう話をたくさんして、意見が一致したので、じゃあそういうレーベルをやろう、ということになって、ワーナーのなかにFLAVA RECORDSっていうレーベルを設立したんです。
−−FLAVA RECORDSはワーナー内のレーベルだったんですね。
森田:そうです。ただ実験的にメジャー内のインディーレーベルのような形で予算管理から全部自分たち管理してやるという条件だったので、予算はほんとになかったです。最初の作品は100枚くらいからのスタートだったと思います。それでも1年ちょっとで1万枚近くになりましたけどね。…バンドが小さい地方のライブハウスを回るのと同じように、DJと歌で全国のいろんなクラブを回っていると、メディアでは全然取り上げられていないのに、どこのクラブもいっぱいで、みんな一緒に歌ってくれるんです。いつのまにかこんな風になってるんだ、とクラブカルチャーの浸透度に驚きました。
−−いつのまにか浸透していたんですね。
森田:そういうトラック優先の曲作り自体は日本ではなかったですし、カラオケ全盛でわかりやすい楽曲が流行っていたころは、R&Bはサビがないし、絶対に日本では売れるわけがないと言われていたんですよ。僕もそれまでロックを手掛けてきたけどヒットにはめぐまれてなかったし、ロックも型にはまっていて面白くなかったんです。それよりはプロデューサーのあり方も含めてR&Bのほうにロックスピリットを感じちゃったんです。絶対に日本でもR&Bやヒップホップがメインストリームに来るよね、と後藤さんと話していて…今日本にそういうものがないなら自分たちでやろうということで、sugar soulをやりはじめたんです。
−−そういう流れだったんですね。ワーナーにはいつまでいらしたんですか。
森田:ワーナーはsugar soulのブレイクの手前でやめました。それまでもずっと1年更新の契約社員としてやっていたんですよ。 社員にならないか、とは毎年言われていたんですけど、ずっと契約でしたね。それまで大ヒットを飛ばした先輩達が管理職になって現場を離れたり、ヒットを作れなくなって追い込まれて営業に飛ばされたり…そういうのを見てきたんで、イヤだったんですよ。それから僕らの仕事はある種の特殊技能ですよね。ディレクターは全てを仕切ってやらなければいけない。それも才能なのに、アーティストがいくら売れてもディレクターになにも還元されないというのがすごく不満だったんです。売れてない、ヒットを出してないディレクターとどうして同じ給料なんだろうって。だから毎年契約条件を交渉できる立場にいようと思ったんです。
−−それはたしかに言えますね。
森田:それで早く印税をもらえるようになりたかったですね。なかなか認めてもらえませんでしたけど、やめる前にはほぼディレクター印税のようなものをもらえてましたね。
−−そこまでいくとディレクターというよりもうプロデューサーですよね。
森田:結果的にはそうですね。それに35歳くらいには現場からは引退しようとも思ってたんです。
−−早いですね。どうしてですか。
森田:音楽的な感性には限界があると思ったんですよ。自分たちが20代のときに、「30過ぎたオッサンにガタガタ言われたくない」って思ってやってきたんで(笑)…売れる売れないとか、ジャケットや歌詞がどうのとか、ダサイオッサンにわかるのかって思ってましたからね(笑)。買うユーザーはもっと若いんだし。でも自分がそうなったら、やっぱりそのときの20代とは感性が違ってきてしまうだろうし、自分の現場としてのピークは36、37でいい、そのときにはスパッと引退しようと決めていたんです。
−−潔いですね。
森田:だからそれまでに自分ができることは、若い才能を引き上げること、後進を育てることですよね。そのためにプロデューサーとしての地位、権威をもっと上げたいということだったんです。印税のこともそうですね。売れたときにはみんなでシェアできる状態にしておかないと、いい才能が入ってこないでしょう。僕がそう思っていたタイミングで、高橋克典君がコロムビアに移籍することになって、移籍して担当してもらえないか、って言われたんです。本人からもマネージメントサイドからも。僕としても高橋君を完成させていなかったし、ぜひやりたいと思ってました。それでワーナーを辞めることにしたんです。
−−それで独立なさったんですね。
森田:そうです。でも最初ワーナーを辞めると決めたときは、フリーのディレクターになるつもりはまったくなかったんですよ。フリーでやることはそれなりにリスクも負いますし、対会社という信頼もないですからね。…いろんなプロダクションとかから声をかけていただいたりして、どうしようか考えていたときに、ビーエーシーの永田社長に報告したんです。「ワーナー辞めることになりました」って。そしたら「協力してあげるから会社作っちゃいなさいよ」って言ってくださったんです。僕は会社の作り方なんてまったくわからなかったし、そのつもりもなかったんですけど、個人でやるより、会社にしたほうがいろいろ便利なことが多いから、会社にしちゃいなさいって。それで作ったのが(有)ボーダー・グランドなんです(笑)。
−−そういう経緯だったんですね。
森田:ワーナーを辞めるときも、いろんなアーティストさんから続けてやってくださいと言われてたんで、それぞれのアーティストごとにプロデューサーとしての契約をすることになって…ちょうどsugar soulもメジャーに上がるときでしたしね。そのかわり、僕がやる場合はビジュアルからライブ、レコーディングまでトータルプランニングで担当させてください、全部やりますからっていうプロデューススタイルでやってました。
−−プロフィールを見ると、(有)ボーダー・グランドを設立した年にドラマ「踊る大捜査線」の音楽プロデュースがあったんですね。独立してからも順調に仕事をなさって…
森田:そうですね。仕事をバンバンやりつつ、独立して2年目ぐらいですかね…sugar soulがブレイクして、やっとクラブミュージックっていう自分たちの世代のカルチャーをメインストリームに持って来られた、という感慨はありました。でも自分の中でひとつ達成してしまうと、次のことをやりたくなるんです。精神的に余裕があるときにそうなるんでしょうけどね。ある程度sugar soulをブレイクさせることができて、次に僕は何をやればいいんだろうと考えてしまって…
−−次なる目標に向かっていったわけですね。
森田:今は自分の名前で仕事も来るようになったし、ある程度の評価もしてもらえるようになった。でもこのまま2、3年ぐらいしたら、いずれ自分にとっては目標を失うときが来るだろう。自分がほんとにプロデューサーとして確立できているのかどうか、確かめたくなったんです。それで一度日本を離れよう、と思ったんです。
8.世界で通用するミュージックマンになりたい 〜アメリカで出会ったKOREAN MUSICの衝撃
−− 一度外から見てみようと思われたわけですね。
森田:そうですね。20代の時に考えてたんですよ。オリコンで1位をとれたらアメリカに行こう、アメリカで頑張ってみようって。でも結局2位までは何度もいってるんですけど、1位にはならなかったんです(笑)。
−−1位にはなれなかったんですか。
森田:そうなんです。いつも偶然すごく売れてるものと当たっちゃったりして…2位は何度もとってるんですけどね(笑)。口惜しかったですね(笑)。それを思い出したんですよ。自分が世界に通用できるプロデューサーかどうか確かめたかったんです。オリコンでも言いましたけど、僕はずっと「ミュージックマン」という言葉にこだわってるんですよ。僕が憧れていたレーベルのトップはみんな世界に通用するミュージックマンとして君臨してるわけですよね。
−−そうですね。僕らもこの「Musicman」っていうタイトルには思い入れがあるんですが、最近ミュージックマンという言葉を使う人が増えたみたいで嬉しいですね(笑)。
森田:自分は世界に通用するミュージックマンになれているのか、なれるのか、知りたくなったんです。日本では通用しているけど、自分のことを知らないところに一度身を置いてやってみたいと思ったんです。結果的にそれは他の国に行くこと、客観的な立場で自分を見ることだったんですね。 このころには仕事でけっこうニューヨークに行くようになっていたので、ニューヨークだ!と思って単身ニューヨークに行こうと決めたんです。
−−どうしていきなりニューヨーク!だったんですか。
森田:日本のマスタリング技術に対する疑問が長年あったんですよ。ミックスまでは日本でもけっこういい音になるんですけど、マスタリングが全然違う。それで一度向こうの人達と全部やってみようと思って、クレジットを見ながら自分たちのやりたい人をピックアップしてやったことがあるんですよ。そうしたらほんとに音が全然違うんです。なんであんなに違うんだろうってくらい圧倒的に音が違うんです。マスタリングの重要性に気がついてからは、自分が手掛ける作品はニューヨークでマスタリングするようになりました。ヒップホップやR&Bのジャンルは特に「featuring〜」という形で海外のアーティストやDJとコラボレートしますよね。だからよけいに海外でやろうという気持ちが強くなりました。
−−たしかに最近は日本のアーティストが海外のミュージシャンとコラボレーションすることが珍しくなくなりましたよね。
森田:それも僕らの先輩たちがやりたくてもできなかったことだと思うんです。僕らの世代ではそういうことが普通に行われるように、スタッフもそうならないといけないですよね。だからやっぱり向こうに住んでみるべきだ!と思ったんです。生活してそのマーケットを感じで、生活の中で生まれる音楽を体験しなければダメだって。それで日本での生活を1回すべてリセットして向こうに行く決意をしたんです。
−−仕事も生活も全てリセットされたんですか?
森田:アーティストのプロデュースは続けてくれと言われていたので、いくつか削りながら続けて、もちろん自分の会社もアパートも東京に残したまま、ニューヨークにもアパートを借りて、東京で仕事のあるときは戻ってきて、行ったり来たりするようになったんです。
−−なにかツテを頼って渡米したんですか。ほんとうに新天地でゼロからのスタートだったんですか。
森田:ええ、コネとかはなにもなかったんですけど、住んでるうちにだんだん知り合いができて…久々に情報を自分で探して自分でコンサート・チケットをとったりしましたね。日本にいるとコンサート・チケットはだれかにとってもらったり、情報も自然と入ってきますけど、向こうでは自分で情報を収集しないとなにも入ってこないんですよ。いろんな人種といろんなジャンルが普通にごちゃまぜになってる、独特の自由さがありますよね。そういうフラットな生活の感じが自分にすごく合ってたんです。
−−渡米されていたのはいつごろの話なんですか?
森田:「WHITE OUT」(織田裕二主演映画/2000年・森田氏は音楽プロデュースを担当)のあとだから…2000年ぐらいですかね。
−−けっこう最近なんですね。
森田:そのときはロードランナーに来る事なんて決まってませんでしたから、ある程度人脈もできて、仕事もできていたので、本気でグリーンカードを取ろうと思ってました。ニューヨークでいちばん衝撃を受けたのは、韓国の音楽に出会ったことなんです。自分の中でこれに気が付いたのは大きかったですね。タワーレコードとかアメリカの普通のCDショップだと日本のCDは個別に扱ってなくて、「WORLD」のコーナーの「ASIA」のなかに入ってるんです。どんなに日本の音楽がすすんでいようが、ヒップホップをやっていようが、日本でどんな音楽が流行っているかなんてほとんどのアメリカ人は知らないし、音楽業界人だって一部の人しか日本の現状はつかんでないのが現状なんですよ。でもあるときコリアンタウンで「KOREAN & J-POP」という看板を見かけてレコードショップに入ったら、僕がそれまで手掛けたDJ HASEBEやsugar soulとかが面出しして置いてあったんですよ。だからカタコトの英語で、これは僕がプロデュースしたんですよって店のオーナーに話しかけたんです。オーナーはコリアンなんですけど、韓国ではR&Bとかヒップホップ、日本の音楽もけっこう好まれていて、sugar soulとかみんな好きでよく知っていますよって教えてくれて…韓国の音楽はそれまであんまり知らなかったんですけど驚きましたよ。それで彼と友達になっていろんな話をしましたね。
−−意外なところでJ-POPが支持されていることを知ったんですね。
森田:それから、(株)ロボット(踊る大捜査線などを手掛ける制作会社)のスタッフが韓国の音楽が面白いからなにかできないか、って日本に持ち帰って来たんです。聞いてみたらすごい格好良くて衝撃を受けましたね。「紫雨林(JAURIM)」をはじめ、韓国にはいいアーティストやバンドがたくさんいることがわかって、どうせやるなら韓国音楽のレーベルを作ろうと言うことになったんです。それで当時ソイツァーミュージックに在籍していた藪下さんと一緒に、「NUKES」というレーベルを立ち上げたんです。
−−それは日本国内のレーベルなんですか。
森田:そうです。アンティノスレコード内のレーベルです。藪下君とは年も同じだし、ずっと一緒に仕事したかったんですけどなかなかチャンスがなくて、「NUKES」でやっと実現したんですよ。ちょうどワールドカップの1年前で、韓国と日本の交流が盛り上がっているころで、「NUKES」の制作プロデューサーとしてニューヨーク、日本、ソウルを行ったり来たりする生活が始まりました。けっこういろんな作品を出すことができましたよ。アーティストごとに全部レーベル違うんですが、韓国のトップアーティストと全部直接交渉して、韓国では成立しない豪華なメンツのコンピレーションなんかも作りましたね。レーベルを超えた作品でしたから、韓国では発売できませんでしたけど。
−−その直接交渉はうまくいったんですか。
森田:うまくいきました。月に1回か2回ソウルに行って1〜2週間滞在するんです。それでレコードショップでジャケ買いでいろんなアーティストを聞いたり、ハングル読めないんですけど店頭のポップやフリーペーパー等のレコ評を雰囲気で読んで、情報収集して…気になるものはピックアップしてクレジットを見て直接オファーしていきましたね。アーティストがアーティストを紹介してくれたこともありました。
−−直接交渉してもけっこう大丈夫なんですね。
森田:最初は身構えられるんですけど、僕がそれまでsugar soulやDJ HASEBEを手掛けていたことがすごくよかったですね。みんな知ってたんですよ。あとはいろんなジャンルの音楽の話で盛り上がって信用してもらえましたね。日本人の悪い所は、海外に日本のやり方を持ち込むところだと思うんですよ。僕はまずその国のやり方でやってみて、そのなかで日本のやり方を提案してみるんです。彼らの意見を尊重しながらでもこうやったほうがいいよって説得すると納得してくれるし、情熱でぶつかっていって、結果的にみんなが理解してくれて形になったというのは、僕にとってはすごい財産になりました。今でも韓国のアーティストとは仲よくしてますし、日本に来たら必ず連絡してくれますよ。
−−とてもいい形で交流が続いてるんですね。
森田:僕は代わりにDJ HASEBEにトラック作ってもらったり、KEN ISHIIや小西(康陽)さんにリミックスしてもらったり、日本のミュージシャンとコラボレーションさせて日本でもジョイントイベントをやったりして、日本のアーティストも韓国の音楽に興味を持ってくれるし、韓国の音楽カッコイイじゃん、って新しい交流も生まれるんですよ。
−−素晴らしいですね。
森田:韓国は日本の技術のすばらしさを知ってるんですよ。日本のいいエンジニアを紹介したり日本でレコーディングしたり、そういう技術の交流が今後はもっとあるべきなんですよ。いいエンジニア、いいスタジオがあればロンドンやニューヨークでレコーディングするでしょう。日本はほんとに技術が優れてるし、エンターテイメントの分野はすごくすすんでるから、技術の輸出はできると思うんです。韓国はパフォーマンスや歌、ラップでは、とてもレベルが高いんですよ。だからそれらをミックスすれば全然世界に通用すると思うんです。そういうこともビジネスチャンスとしては日本にとっていいチャンスだと思うんですよ。
−−日本の技術と韓国のパフォーマンスがあれば世界に通用するということなんですね。
9.単身渡米で得た価値観 〜世界を目指すならアジアのトップを目指せ!
森田:ニューヨークで、「僕らはアジア人なんだ」っていうことに気が付いたんです。ブラック、ラテン、ジャズ、ヒップホップ、ロック…いろんなジャンルのライブを見ると、人種ごとにコンサートが成り立っているのがアメリカのマーケットなんです。ラテンのライブに行ったらアジア人は僕だけ、とか、よくありましたよ。テレビのチャンネルもそうです。日本チャンネルはなくて、インターナショナルチャンネルのなかに、中国、韓国、日本がいっしょになってるんです。だから、アジア人の僕たちが作ってる音楽を世界に通用させようと思ったら、アジアで一番になるしかないんです。アジア人はアメリカでも3番目の移民数になってるんですよ。それが世界のカテゴリーに置ける僕らのポジションなんです。よく日本人がニューヨークでライブをやったら日本人しか来てなかったって言いますけど、それは正しいんですよ。どの国のアーティストもそうなんです。ロックのコンサートには白人しかいないし、ブラックのコンサートに行けばほとんどブラックだし、ヒップホップでも人種が違えば客層も違うんですよ。そういう意味でジャンルと人種とカテゴリーのあり方、マーケティングのっていうのがはっきりわかったんです。僕らは「日本人」ではなくて、「アジア人」なんですよ。アジア全体をアメリカだと思えば、東が東京、西が韓国、中部が中国、という風に思えますよね。アメリカでも東西で人気のあるものが違うし、チャートも地域ごとに違いますよね。各地域ごとにトップのアーティストが最終的にビルボードチャートに入ってくるわけで、その地域ごとのトップに入っている人達が、世界のトップアーティストになるんです。そういう意味で言えば、アジアのトータルチャートの1位になることを目指すのが、今後の音楽ビジネスのポイントになると思うんです。
−−なるほど、仰るとおりですね。
森田:数年前に日本国内でミリオンが連発した時期がありましたよね。そんなことは絶対長くは続かないと僕は思ってたんですよ。こんなに少ない国民数でこれだけCDが売れる国なんてありえない、これはおかしな状況だって。今はレコード業界が悪い悪いと言われてますけど、普通になっただけだと思うんですよ。昔はこんなもんでしたよね?あと10年、20年先の、今後のビジネスモデルを考えたときに、日本のアーティストがアジアの1位になっていれば、それでアメリカでもどこでも行けるんです。そこにアジアの移民がいますから、ビジネスになるんです。アジアの1位になることが、世界に通用するアーティストになるためにやらなくちゃいけないことだって気づいたんですよ。今はすぐ日本でトップとったらアメリカとか行っちゃうじゃないですか。それは大間違いなんですよ。アメリカの誰をターゲットにしてるんですか、って。黒人や白人が買いますか?って。アメリカで日本人の音楽をだれが聴くのかって?
−−隣の国の人間に認められていないのにいきなりアメリカに行ってもね。
森田:アメリカ、ヨーロッパを相手にする前に、アジア人をターゲットにしたらそれだけで何千万人といるわけでしょう。ここにビジネスのポイントがあるんです。在米のアジア人と話をすると、みんなそう考えてますよ。向こうに住んでるアジア人はそう思ってます。
−−そもそも昔の日本人は韓国や中国をバカにしていた部分がありますよね。
森田:そうなんですよ。それがもう歴史的に非常に大きな間違いですね。
−−それが今気が付いたら韓国に追い抜かれそうになってあせってるわけですよね。しかも今の若い人達はボーダレスな感覚になっていて…
森田:そうなんですよね、僕らはこれだけアメリカやヨーロッパのことを色々知っているのに、こんなに近くにある韓国のことを何も知らないんです。行って初めてそのことに気が付きました。こんなにいろんなポップやロックがあって多様化しているのに、韓国はアイドルだけだと思っていた自分がほんとに恥ずかしかった。でも逆に彼らが僕らの、日本のことを知っていてくれたのがとても嬉しかったですね。インターネット以降時代が変わってるんですよ。どんどん在日の韓国人や留学生の人達が持ち帰って自分の仲間に聞かせてくれたり、文化的にはやっと解放されたというか、情報を知っていてくれたことが嬉しいですね。
−−今の時代だからこそ、やっとそうなってきたんでしょうね。
森田:だから日本で韓国の音楽レーベルを作った意味があるんですよ。アジア人としてなにをやるべきか、いろんな形で音楽の仕事をしていくなかで、ハード形式がいくら変わっていっても、音楽という共通言語の元にアジア全体で、世界レベルで仕事をしていくべきなんです。僕らも日本人だからって、日本のアーティストだけをやる必要はないし、レコーディングで日本のエンジニアが呼ばれるようになるべきだし、そういうことがやれるようになってくれば、自然と世界が見えてくるし、遠くないなって思います。
−−ひとつ前の世代だと、そうやって海外で新しいことをやろうとすると試行錯誤した上に失敗しちゃうっていうことも多々あったと思うんですが、すんなりやれてますよね。すごいですね。
森田:プライドとかそれまでやってきた実績を捨ててるからでしょうね。アメリカに行ったときにそれは実感しました。日本でヒット出してようが、そんなこと関係ないし、だれも知らないんですよ。まったくゼロになるんだって言うことをわかっていたんで、なにも怖くないんです。アメリカに行くと、「どうしてニューヨークに来たんだ。何をしに来た?」って必ず聞かれますよ。日本でやってきた事なんて関係なくて、何をやりたいのかっていうことだけが問われる。僕はいろんな音楽が好きだし、人が好きだし、そういういろんな音楽をいろんな人と仕事したいから来たんだっていうと認めてもらえるし、紹介してもらえてたりしたので、韓国でもそうでした。音楽は世界共通なんだっていうのが実感できましたね。自分の会社を「ボーダー・グランド」という名前にしたのは、音楽は国境とかジャンルとかを越えるものだし、今後はもっとメジャーやインディーの垣根がなくなってボーダレスな時代になるだろうという思いからなんです。
−−先見の明がおありですね。
森田:その為には自分自身もグローバルなものの考え方をしなければならないからアメリカに行くべきだ、これが最後のチャンスだ、と33歳の時に思ったんです。今、行かないと俺は一生行かないだろう、裸一貫で挑戦するべきだって。それでアメリカに行ったんです。でもおかげで音楽に対する自分の初期衝動を確認することができました。 日本にいるとある意味手癖足癖で仕事がこなせるようになっていた自分自身に嫌気がさしていたんですよ。だからその点をリセットして、純粋に初期衝動のまま音楽をやりたいと思っていたんで。
−−人をプロデュースするだけじゃなくて、自分をプロデュースするのも得意なんですね。
森田:いえいえ(笑)、そのために家庭捨てましたからね(笑)。
−−え?どういうことですか。
森田:離婚したんですよ。ニューヨークに行くにあたって、どうしてもすべてゼロにした状態で行きたかったんです。妻も音楽業界の人間だったんで、一緒に行くと言ってくれたんですけど、向こうにいったらどうなるかわからないし、僕自身も何も背負うものがない状態で一人で行きたくて…
−−それで離婚されたんですか。お子さんは?
森田:子どもはいなかったんですよ。僕自身ちょっと混乱してたんでしょうね。もちろん自分が不条理なことを言ってるっていうのはわかってましたけど、今行かなければ自分は生きている意味がないぐらいの勢いだったんです。どうにか説得して、理解してもらって彼女にも向こうのご両親にもわかってもらって…「その代わりがんばってください」って言ってもらえて…それでニューヨークに行ったんです。
−−そこまでの覚悟というか、決心で行かれたんですね。
森田:でも就職活動したときもそうですけど、そういうことがあると人間は強くなるんでしょうね。
−−たしかに単身アメリカに行って人脈を作って韓国の音楽に目覚めてレーベルを作って…それをすべて1年足らずでやられたっていうのは、とっても密度の濃い1年というか、早いですね。
森田:僕はやりはじめると早いみたいなんですよ。やっぱり永田社長に「とにかくものごとは自分で動きなさい」と育てられたんですよ。永田社長も全部自分でやる人だったので…
−−全部自分でやっていけばそのくらいの早さですすめられるんですね。
森田:やる前に悩むよりはやってから考えようと思うんです。びびってやらなくて後悔するよりも、やってから、なぜ失敗したかって考察するほうがいいでしょう?それができたら2回目失敗しないですよね。同じ事を2回やって失敗したらプロとして失格、っていうのも永田社長にたたき込まれましたから。ただ何かに挑戦するのに冒険心は必要ですけどね。
−−度胸は必要ですよね。
森田:ですよね。そういう冒険心に対して自分でびびることはあんまりないんですよ。とりあえずやってみようって。今までも自分で飛び込んでいくことばかりだったから、逆に自分のプライドやつまんない自尊心はないんです。今後どこまで自分が突き進めるかわからないんですけど、とにかくやれるだけのことはやって、ダメだったらいいや、って踏ん切れる、腹を決めることはできるようになりました。それは会社作ったときもそうだし、海外行ったことも大きかったし、離婚も大きな転機でしたけど、そこに脈絡はなくて、思いついてそう考えたときにしてきただけで、何の保証もなかったんですけど、それは自分の信念だけで何とかなるだろうって言う、根拠のない自信みたいなものがあったんでしょうね。それは今も持ち続けられてるって言うのは自分でもいいことだと思うし、僕の特性かもしれません。
−−決断が早いですよね。
森田:失敗してもいいやって思ってるからでしょうね。何もしないよりはずっといいって。
−−後藤さん(NWP代表、後藤貴之氏)も仰ってましたよ。みんなどうして若いときにチャレンジしないんだろうって。
森田:彼もそうですね。学生の時からクラブミュージックの仕事をして社長になって、一度も他の人の会社で働いたことのない人ですからね。僕らの世代に共通しているのはそういう形式にはまってないところかもしれないですね。世界の音楽も日本の音楽も同時に聴いて、音楽以外の文化も同時に体験してきて、海外コンプレックスがあまりない世代の最初なんでしょうね。僕が幸運だったのは、昔からの日本の音楽業界の流れも体験できたことです。レコーディングの方法、マネージメントの原点、アナログからデジタルへの移行も、インターネットができてからの流れも、全部体験できてるんです。音楽業界が切り替わるちょうどいいタイミングでした。
−−その前の世代は、ウッドストックとかビートルズが最高!っていう世代ですよね。
森田:そうですね。洋楽至上主義で逆にアジアを卑下してましたよね。ここ20年ぐらい業界にいる方々ってあんまり変わってないですから。レコード会社のトップも横に動いてることが多くて、どうしてもっと若い人がトップに来ないんだろうってずっと思ってきたし、早く誰かが行かなきゃいけないって思ってましたよ。
10.ロードランナーでの挑戦
−−では、今回ロードランナーへはどういう経緯で移られることになったのかお聞かせ下さい。
森田:結果的にアメリカに行ったことが大きな節目となってロードランナーに繋がっていくんですけど、ロードランナーは本社がオランダで、基本的にはニューヨークオフィスがメインになってるんです。アメリカを行き来するようになって3年目かな、去年の秋日本に戻ってきたときに、ある人に言われたんです。「ロードランナー本国の会社が君に興味を持っている。日本のオフィスを建て直してくれる人間を捜しているから会ってみないか」と。それで次の月にニューヨークに帰ってから会いましょうということになったんです。それでニューヨークに戻ったらロードランナー会長のケース・ウェッセルズ氏から直接お電話をいただきまして。僕は英語ペラペラな訳じゃないし、いきなりエライ人と会うのかな?とびっくりしましたけど、まあカタコトでもいいか、と思ってお会いしたんです。
−−直接トップの方とお会いしたんですね。
森田:といってもそのときに具体的な交渉をしたわけじゃなくて、まず僕の音楽に対する考え方、アジアでのあり方みたいな話をつたない英語でしたんです。日本での僕の経歴や今まで手掛けた音源は事前に渡していたんですけど、僕が今考えていることや音楽に対するビジョンみたいなもをお話ししたら、ケース会長と同じだったんですよ。非常にフランクな方で、ケース会長の部屋でCDを聞かせてもらったり音楽の話をして盛り上がったり、とてもいい出会いでした。60代の年配の方なのに、音楽の話がたくさんできたのがとてもよかったですね。レコード会社のトップで音楽の話が合う方って、実はなかなかいないんですよ(笑)。売上の話とかばっかりでね。ケース会長とは音楽の話で盛り上がれたのがよかったんです。
−−そういう人のことをMusicmanっていうんですよね。
森田:そうなんですよ。やっぱりインディペンデントから立ち上げてやってきた人ですから、
−−創業者なんですか。
森田:そうなんです。彼が創業してインディペンデントからメジャーインディーみたいな位置まで持ってきたんです。それでそのときの僕にとっては、ああいい出会いだったな、っていうだけだったんですけど(笑)、そのあともう一度会いたいって言われて、今度はケース会長が日本に来たときに会って、そのあとニューヨークでもまたお会いして…何度か話をして、最後に、「ぜひ君と一緒に仕事をしたい」と言ってくださって…それで僕もぜひ、とお受けしたんです。
−−この会社では自分のやりたいことができる、と思われたんですか。
森田:そうですね。もちろんロードランナーという会社のことはよく知っていたし、好きなアーティストもたくさんいました。でも結果的には「人」なんですよ。ケース会長に誘っていただいたからと言うのも大きいですね。
−−ロードランナーに誘われなかったら、ずっとアメリカにいらっしゃる予定だったんですか。
森田:いえ、アメリカでアジア的なものの見方に気づいてから、もう1回日本で仕事をしようと思ってたんです。そういう考えで新人のプロデュースを日本でしてみようと。それでゾンバレコーズの新人を手掛けたんです。日本人が好きなポップスを若い日本人が英語で歌って、しかも海外のプロデューサーと仕事をするというのがやりたくて。ヒップホップ、R&Bの先、次世代のもの、ポップスのクラブミュージックのあり方を示したかったし、英語の作品だったらどこにでも出せますしね。それで韓国のプロデューサーに曲をお願いしたり、すべて海外のスタッフと手掛けたんですよ。それからJUICEとB@by Soulという2アーティストを手掛けて、クラブミュージックから生まれるポップスをきちんとやって、それで引退しようと思ってたんです。そして、僕自身がこれまでたくさんチャンスをもらってきたように、引退するならみんなにチャンスを与える場所を手に入れなければならないと考えてたんですよ。そのためには社長になって自分が決済できる立場にならなくちゃ意味がないから、現場は引退して自分でレコード会社を作ろうかなと思っていたんですよ。小規模で全部のことを自分で把握できて、10〜15人くらいの会社を作ろうかなと。そんなときに、ロードランナーの話をいただいたんです。
−−作ろうかな、と思っていた会社があった、ということですね(笑)。
森田:ほんとにそうなんですよ!サイズも良かったし、メジャーインディーっていう両方の感覚でやれることも良かったし、外資系っていうのもよかったんです。いずれ世界に対していきたいと思っていたし、自分でやるときは韓国や中国の資本が入ってもいいから外資でやろうと思っていたんですよ。
−−まさにドンピシャだったんですね。すごいですね。
森田:そうですね。海外と直結してやりたいという夢がありましたから。そういう自分のイメージとロードランナーという会社が近かったこと、ケース会長が僕に望んでくれたことと、僕がやろうとしていたことも近かったので、今回の就任に至ったわけです。
−−どういった点を望まれて白羽の矢が立ったんでしょうか。
森田:邦楽部門を立て直してほしいとうことでしたね。でも引き受けるにあたって大きなポイントだったのは、洋楽がベースにあったことなんです。ロードランナーは少ない人数で、洋楽だけである程度うまくまわっていた、とても優良な会社だったんです。
−−それってすごいことですよね。
森田:非常に偏った、ロックのなかでも特にマニアックな洋楽レーベルとして確立されていたんですよ。それがアメリカでニッケル・バックやスリップノットが売れたり、日本でもKEMURIが売れたりして大きな会社になってしまったから、幅広いロックをやるなら邦楽もきちんと整備しないと、ということになったんです。偶然にも今年から来年にかけて、ロードランナーグループ全体で柱となるアーティストのアルバムが出ることが決まっていたんですよ。今年はJunkie XLとニッケルバック、来年春にはスリップノットが出すことが決まっていたんです。これは勝負できるタイミングだなと思ったんですよ。洋楽のアーティストって3年に1枚くらいしかアルバム出さないんですよ。そういうメインの売上を出してくれるアーティストが作品を出してくれるときにやらないと、いくら邦楽をやったって、すぐには売れないし、時間もお金もかかりますよね。だからそういう意味でもベーシックなものとして洋楽があるっていうのは大きかったですね。そのメインのアーティストがリリースしてくれる時期なんだから最高ですよ。やる以上は勝たなきゃだめだし、こういうチャンスと場所をもらってみんな期待してくれてるんだから、結果を残さないと意味がないですから。
−−あらゆるタイミングが整ってたんですね。
森田:あとはどれだけ結果を残せるかっていうのが今後のテーマですね。スタッフを育てて次世代に橋渡しをしていきたいし、僕が音楽業界でやってきたことをどれだけ残せるのかなと。先輩たちがやれなかったような新しいやり方を、僕らが線引きしてあげることで、僕がホントに音楽業界を引退するときに、笑って辞められるかなと言う気がしてるんです。
−−ロードランナーにとっても森田さんにとってもいい形での就任だったということですね。
森田:音楽業界に入りたくて一念発起して何とかして入り込んでいろんなことをやってきましたけど、レコードカンパニーのトップになるということは、ミュージックマンとしての自分の理想的な最終形なんです。僕は自分でなにかをやりたくなったら、動かないと気が済まないんでしょうね(笑)。動いてみて考えて、そこでまた学習して、次の結果に結びつける。だからロードランナーに来たことは、こういう会社のトップになることは僕にとっては経験のないことだし、まったくゼロからやっていけるので、とても自分にとって新鮮です。ずっと邦楽畑でやってきたから、洋楽のアーティストを扱うということも、自分のグローバル化にとって為になりますし。インターナショナル化、アジアのトップを目指す自分のビジョンにとても近いポジションをもらえたと思っています。ありがたいですね。だからこそ、ある程度の結果を残さないと、また夢がなくなっちゃいますから。
−−そうですね。
森田:今は若いですし、諸先輩方にも期待していただいて、これからはお前たちの時代だって言ってくださいますけど、だからこそ、ここで結果を残さないとダメなんです。だから今はいろんな方にお会いして僕のことを理解してもらうところから始めてるんです。自分をもう一度プロモーションすることでロードランナーを知ってもらえるし、それがなにかにつながっていくでしょうから。僕が好きなミュージックマンって、レーベルの前に、その人がいるんですよね。今は顔が見えないレコード会社が多すぎると思うんです。もちろん今でもすごいと思うミュージックマンの方はいらっしゃいますけど…
−−今はそういう方が少なくなってしまったんですよね。
森田:だからミュージックマンっていう言葉にこだわりたかったし、顔が見えるレーベルにしたいんです。あのレーベルはアイツがやってる、アイツがやってるから間違いない、いっしょにやってみたいって言われるようになりたいんです。 それから、僕だって入ったときはまったくのノンキャリアで、なんの実績もなかったのに、ここまで来れた、というのをこういうインタビューで話せば、「俺だってなれるかもしれない」って夢を与えられますよね。
−−そこはほんとうに、「Musicman」や「Musicman-NET」が目指すところなんですよ。
森田:やっぱりスタッフもスターにならないといけないと思うんです。僕自身もこの業界に入ったときになにも調べるものがなくて苦労しましたから、「Musicman」ができて初めて音楽業界のことがわかりましたし。エンジニアにまでスポットがあてられた最初だったと思います。音楽業界は夢がある商売じゃないといけないですよね。だから次世代のためにいろいろがんばりたいし、ここに来たからには、ここでまた何かを生み出さないと意味がないんです。だから今は、これからのロードランナーに興味を持ってくれる人を増やしたいですね。
11.世代交代の先陣を切って 〜パンクスあがりのCEOがめざすもの〜
−−ロードランナー社内でのお仕事はいつから始められてるんですか。
森田:ほんとうは2003年の最初からやってくれと言われてたんですが、いきなり全てのやり方を変えるわけにもいかないし、移行させるためには時間が必要ですよね。僕が抱えていたプロデュースや仕事などがたくさんあって「踊る大捜査線2」も決まっていたので、ある程度そういうプロデュースワークが落ち着いてからやらせてほしいということ、ロードランナー自体8年間やってきてる会社ですから、僕が知らなければならないこともたくさんありますよね。社員のこと、会社内部のこと、問題点、改善点…就任したからといってすぐに仕事に入れないので、準備期間を設けてもらったんです。2003年の3月から契約して社内の会議などに参加するようになって、新しいアーティストやスタッフを捜したりして、2003年9月に就任しました。半年準備させてもらってほんとに助かりました。
−−そういう経緯だったんですね。
森田:僕としては2003年いっぱいは準備期間だと思っています。2004年のアタマから勝負するための体勢を作るのに、これだけの準備期間は必要でした。9月からフルタイムで来てますけど、まだまだ問題点、改善点はあるし、やらなければならないこともたくさんあります。来年以降闘える体勢を整えるために今年は使おうと思ってます。
−−プレッシャーはありますか。
森田:プレッシャーはあまり感じない方ですね。多少のプレッシャーがないと僕はダメなんですよ。自由だと逆にダメで、適度なプレッシャーが必要なんです。安定を求めないというとかというか、これから先は後がないぞ、っていうほうが力を発揮するような気がします。実はロードランナーの8年の歴史の中で、今年がいちばんよくない年なんですよ。まあ日本の音楽業界全体が良くないわけですけど、そのいちばんよくない年に来たってことが、僕にとっては最大のチャンスだと思ってます。これ以上落ちるところないですからね。世代のチェンジに頼らざるを得ない状況に追い込まれてますからね。
−−音楽業界でもここへ来てバタバタっと最近やっと世代交代の時期が来てるかな、って感じがしますね。
森田:やっぱり同世代の人がいると力強いですよね。プロダクションではもうけっこう若い人がバンバンいますからね。今は大きな会社になってますけど、僕の好きなミュージックマンのみなさんも30代のうちにレーベルを作ったわけだし、僕が決して若いんじゃなくて普通だと思うんです。そうなっていかないと次世代に夢がなくなっていくし、いい人材が入ってこないですよね。
−−今でもなかにはサラリーマンっぽいというか、社内のことだけに目が向いてるようなレコード会社もありますよね。
森田:そうですね。だからこそ僕らは僕らなりの新しい世代の感覚があるはずなので、そこからなにかを起こせるんじゃないかと思ってますね。このジェネレーションがなにかを動かす権限を持つ地位になってきたので、大きく物事が動く瞬間が来ているんでしょうね。
−−最近の「Musicman’s リレー」をやっていて、ひしひしとそういう波が来ていることを感じますよ。
森田:今までの音楽業界は、あまりにもその世代の人達が強かったんですよ。洋楽至上主義のハシリの、日本のミュージックマンと呼ばれる名物の方々があまりにも強くて、続いてきたわけですよね。ここへ来て初めてその影響を受けずに育った世代が出てきたんでしょう。
−−パンクに影響を受けた人がトップになったっていうのはほんとに衝撃的ですよ(笑)。新世代と言うしかないですね。
森田:DO IT YOURSELFの精神はパンクに教えてもらいました。パンクの話ができる人がトップにいるっていうのも、アーティストやユーザーにとって楽しいと思いますよ。新しいものも何でも聴きますし、アーティストと同じように音楽の話ができるのは僕の特性だと思うし、今の業界のトップの方たちもそうやってきたんでしょうね。あいだの世代は上にすごい人達がいすぎて抜けきれなかったのに対して、上の世代からはもうわからないジェネレーションとして僕らが登場したんだと思います。だって上の人達にヒップホップやR&Bのことを語れるわけないですからね。クラブミュージックの体験がないのに、それを事業としてやろうとしてることに僕はギャップを感じるんです。パンクがわからない人が、「今青春パンクが流行ってるからやろう」なんて、大間違いなんですよ。
−−「Musicman」を作っていても、今までの作り方だとヒップホップだけのジャンルとかDJとかを扱う場がないんですよね。難しいですね。
森田:そうですね。いずれそういう人達が前面に出てくるようになると思いますよ。だって日本では昔は作詞家・作曲家・編曲家って分かれてましたけど、今はそういう区分けはなくなってきましたよね。プロデューサーがトラックを作ったり、アーティストと一緒にメロディを作ったり…しかもProToolsのおかげで誰でもある程度のレベルが作れるようになって、スタジオミュージシャンが譜面を見ながらせーの、でレコーディングすることが少なくなってしまった。もちろん今でもスタジオ・セッションが必要とされることもありますけど、メインストリームではなくなってきていますよね。アナログなやり方も当然残っていくもので、なくなるものではないですけど、ミックスしていくことによってまた次のものが生まれるんだと思います。僕らは両方の文化を体験して、両方に対応できる世代なんですよ。
−−世代としてできないことっていうのはありますからね。
森田:そうですよね。だからそこを武器にしたいんです。
−−それで負かしていくことが恩返しですよね(笑)。
森田:そうですね。もちろん前の世代をとてもリスペクトしているし、否定するつもりは全然ないんですよ。ただ、その人達ができなかったことがあるだろうし、やれないことを僕らがやれば、次世代の波がくるだろうってことなんです。僕を呼んでくれたケース会長に対する義理もあるし、ここで結果を出すことが最大の恩返しだと僕も思っています。
−−長年代表を務められていた川原さん(川原正克氏)は今はどういうお立場なんでしょうか。
森田:代表取締役COOとして一緒にやっていただいてます。長年築かれてるものもありますからね。川原さんがやってこられたことと、僕なりのやり方をうまくミックスしてやってほしいとケース会長は言われています。
−−では最後に、社長としての今後のスローガンなどはありますか。
森田:…明確なものはないんですけど、やっぱり初期衝動を大切にしたいんですよ。これはスタッフ全員そう思ってると思います。自分の感覚をすごく大切にしたいんです。いろんな物事に興味を持つことで、次のカルチャーが生まれるし音楽も生まれる。でも年を取ると生活に追われてどんどんそういう興味を失っていきがちですよね。昔はロック少年でいつもギター弾いてたのに、仕事に追われて弾かなくなって今は押入に飾ってるだけ、とか、最近はCDとかレコードを買わなくなってしまったとか…。そうではなくて、新しい、いい音楽に出会えることの喜びを僕は持ち続けたいし、だから今でもこの仕事をしてるんですよね。まずやってみよう、アクションしてみようということなんです。興味があれば動けますよね。どんなアーティストも実績や過去は関係なく、ライブを見て本人達に会ってから決めることにしているし、とにかく自分の目と耳と感性を大事にしたいんです。それは社員全員そうしてほしいですね。だからその人が魅力的になれるんだろうし、魅力的な人間なら仕事をしたいと思われますよね。「森田と仕事したい」「ロードランナーのスタッフと仕事したい」って思ってもらいたいし、そうなれば自然ともっといいレーベルになれると思います。 僕らはいい音楽をやってくれるアーティストが来なければ始まらないですよね。でも僕らが魅力的にならないといいアーティストは来てくれないですよね。
−−3月からロードランナーに来るようになって、半年以上たって会社の雰囲気とか変わりましたか?
森田:みんなもとまどいがあるでしょうし、今はまだ過渡期でしょうね。こうやっていろんな媒体に出たり、スタッフといろんな話をすることによって僕自身をわかってもらう時期だと思います。スタッフにもアーティストにもアピールしてるんですよ。結果がついてきたときにみんな自信を持てると思うので、そのための過渡期という感じです。でもとまどいながらもみんなが新しい流れに向かっていこう、変えていこうとしてくれている手応えはありますよ。本当にに新たな動きが始まるのは、邦楽が動き始めたときかもしれないですね。今は準備期間です。
−−初期衝動を失わなければいい結果が出るんじゃないでしょうか。
森田:そうですね。それを失ってしまったらもう終わりですからね。それがなくなったらやめたほうがいいですよ。生きてるロックっていうのが初期衝動ですからね。
−−簡単に「ロックは死んだ」とか言うなってことですね。
森田:そうなんですよ。マネージャーをやってもクラブミュージックをやっても映画音楽をやってもミュージカルをやっても、何をやってもロックスピリットが常に自分のなかにありました。だから人がやってないことをやりたいし、やられたことを真似するのはすごくイヤなんですよ。とにかく自分自身で作って、残していくって言うのがやりたかったんで、そういう精神性は僕にとってはとても重要ですね。
−−さすがパンクス育ちですね。
森田:パンクス上がりのCEOとでも書いておいてくださいよ(笑)。
−−ロック少年にはまたとないインタビューとなりました。これからますますの御活躍を期待しています。
−−(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
自らのキャリアを高めるだけではなく、常に未来のことを考え、「後進のためにも30代後半で現場を離れようと思っていた」という言葉通り、レコードメーカーのトップとして新たな道を歩み始めた森田氏。2004年がロードランナー勝負の年だと断言する森田氏の今後の手腕に大きな期待が寄せられます。
さて、森田氏にご紹介いただいたのは、「踊る大捜査線」の大ブレイクでもおなじみ、ミュージシャンの松本晃彦氏です。お楽しみに!