第40回 松本 晃彦 氏 コンポーザー/アレンジャー/プロデューサー
コンポーザー/アレンジャー/プロデューサー
今回の「Musicman’sリレー」は、ロードランナー・ジャパン(株) 森田和幸氏のご紹介で、ミュージシャン・松本晃彦氏の登場です。
音楽一家に育った少年時代から、年に100曲を手がける売れっ子アレンジャー時代を経て、「踊る大捜査線」の音楽やゲーム音楽、ハウス・ミュージックなど幅広い活動で世界にはばたく松本氏。その後の人生を決定づけた大学時代の思い切った決断とは? 名サックス奏者であった叔父・松本英彦氏が残したものとは? じっくりお楽しみ下さい。
プロフィール
松本晃彦(まつもと・あきひこ) コンポーザー/アレンジャー/プロデューサー
早稲田大学第一文学部中退。叔父に勲三等、サックス奏者の故 松本英彦。
’84年大学在学中に、かの香織、元PINKの岡野ハジメ、渋谷ヒデヒロと「ショコラータ」を結成しデビュー。
’87年にプロデュースした吉川晃司「終わらないSUNSET」がオリコン1位を獲得したのをきっかけに、プロデューサーアレンジャー活動に入る。サザンオールスターズ、中森明菜、久宝留理子、KAN、ザ・イエローモンキー、RATS & STAR、福山雅治、CHAGE&ASKAなど、現在までに日本の音楽シーンに1500曲余りを提供。
ステージサポートとしてEPO、松任谷由実、ASKAなどのコンサートツアーにキーボード奏者として参加。
また 映画やドラマの音楽監督として『踊る大捜査線』『蘇える金狼』『サラリーマン金太郎3』等のサウンドトラックも手掛けている。
『踊る大捜査線』の映画版では第22回日本アカデミー賞映画音楽部門優秀賞を受賞。
最近では、渋谷WOMBのクラブDJ/YOSHIとのコラボレーションにより、最先端のハウスミュージックCDをリリース。
- 音楽一家に育った少年時代
- 内定もらって就職せず〜大学4年の決断
- 年間100曲を手掛ける売れっ子アレンジャー時代
- 自分のカタチになるような音楽を作りたい〜叔父・松本英彦の影響
- 飛躍の「踊る大捜査線」
- 音響システムの進化──5.1chシステムの未知なる可能性
- 日本人ミュージシャンの使命〜世界進出の3本柱
1. 音楽一家に育った少年時代
--ロードランナー・ジャパンの森田和幸さんとのご関係からお話ししていただきたいのですが。
松本:森田君とは、もう15年くらいの付き合いです。彼がまだ織田裕二さんのマネージャーをしていたときに、織田君のアルバムの制作で出会ったのが最初の出会いですね。それ以来、彼自身がプロデューサーで、その時に僕が編曲の仕事をしたり、サウンド・プロデューサーの仕事をしたり、必ず何年かに1回はご一緒させてもらっています。最近だと「踊る大捜査線2」は彼が音楽プロデューサーで、僕が音楽担当って感じで。彼は新しい音楽とかにもすごく敏感で、それでいて音楽ビジネスとして大事な要所要所はしっかり押さえているという部分もあって、刺激しあっているなという感じはありますね。
--どこかウマがあうという感じですか?
松本:彼の場合は、「将来こういう風になっていたい」という計画をわりと若い頃から持っていて、現状の音楽シーンに対する分析をしているようなタイプだったので、そういう話もしましたし、今も会ったりすると音楽シーンの将来像とか、現状の分析みたいな話をします。
--この間、森田さんにインタビューさせていただいたときも、通常の3倍くらい語っていただいて・・・(笑)。
松本:すごい情熱ですよね。彼は20歳くらいから変わりませんよ。
--情熱がほとばしってました(笑)。松本さんのご出身は東京で、誕生日が2月14日、バレンタインデーですね。東京のどちらですか?
松本:世田谷で生まれたんですけど、ヤマハに勤めていた父は転勤が多かったもので、子供の頃から引っ越しが多かったんです。父は音楽教室をやっていたり、財団にいたりとかしたんですけどね。ヤマハの音楽教室でカリキュラムみたいなものを作る仕事をしていたんです。
--お父さんも音楽に関わられていたんですね。
松本:そうです。ヤマハを定年退職になったあとで、音大の講師をやったりもしていました。一応そういう影響もあって、うちの姉も作曲家になりましたし。
--本当に音楽一家ですね。
松本:あと、父は「外国部」っていう部署にいるときもありましたね。今は、世界中でヤマハの楽器を売っていますよね。たぶん父はヤマハの教室を世界中に作って、そこのお客さんにヤマハの楽器を使ってもらうというようなシステムの中で、カリキュラムみたいなものを作る草分けだったと思うんですよ。僕や姉とかも、音楽教室の実験材料みたいな部分もあって、海外に出張しては現地の楽器、例えばペルーのケーナとかを買って帰ってきたりして、家には色々な楽器がありましたね。もちろんフルートやヴァイオリン、ピアノとか、普通の楽器もあるんですけど、それだけじゃなくてインデオ・ハープとか、沖縄の三線、あとギターに進化する前のナイロン弦四弦の楽器とか、雅楽の笙とか、マニアックな楽器がいっぱいあったんですよ。そういうのを子供ながらに遊びで弾いてました。
--意識する前から音楽的環境はバッチリ整っていたんですね。
松本:ピアノやフルートも習っていたんですけど、ヴァイオリンがあったり色々な楽器があって、なんとなくこの楽器はこんな風に演奏しているんだろうなっていうことを遊び弾きで覚えたのが、今サウンドを作る上では役立っているのかなとは思います。
--子供の頃からマルチプレイヤーですね。
松本:いや(笑)、正式に習った楽器とは違いますから・・・。
--現在何種類くらい楽器が弾けるのですか?
松本:どうでしょう…。最近ってそんなに演奏能力が高くなくても、コンピューターでエディットできるので、音色が欲しいってときは僕でもできるんですよ。だけど、卓越したプレーが欲しいときは、スタジオ・ミュージシャンの皆さんがどうしても必要になります。「まあ、だいたいこんな感じ」というデモ的なものを自分で弾いて、それをスタジオ・ミュージシャンの方に聴いてもらって、ちゃんとした演奏をしてもらうというようなことですね。
--職業を意識する前から、音楽があるのがごく当たり前の生活であったということですね。
松本:そうですね。
--少年時代から音楽漬けだったんですか?
松本:いや、そんなことはないですよ。
--では、ごく普通の学生生活ですか。
松本:テニス部でしたしね(笑)。早稲田の付属高校だったんです。だから、大学受験もなかったものですから、その分ピアノを弾いたりするチャンスに恵まれたのだと思います。
--バンドは組まれていなかったのですか?
松本:中学生くらいからギターを弾いたりしてて、高校のときはフュージョン、クロスオーバー全盛。そのあとにニューウェーブとかパンクという流れがあって、すごく刺激的なことが多かったですよね。楽器奏者としてジャズに興味を持っていたり、練習したりしつつ、時代はシンセサイザーとかデジタル黎明期みたいなところもあって。普通は「この道一筋」みたいな感じになっちゃうんでしょうけど、僕の場合は面白そうなものがあると飛びついちゃったりするものですから(笑)。ある日、ジャズを弾いていたかと思うと、ニューウェーブみたいなものを聞いてみたり、そういうことが多かったです。
--じゃあ、1つのスタイルでバンドをずっと続けていたということではなくて、プロデューサー的な感じですか?
松本:そんなに深くは考えていなかったですけど(笑)、アメリカンTOP40みたいなものも好きでしたし、クラシックも聴いてましたし。
--ピアノはずっと続けられていたのですか?
松本:ピアノは、途中でやめちゃったのかな?クラシック系は途中でやめてしまったのですが、中学生くらいになると音楽にまた興味を持ち出すじゃないですか?そんなときにまたピアノを始めたりしましたね。
--ちなみに子供のときはどんなお子さんだったのですか?
松本:お調子者でした(笑)。転勤が多かったからでしょうね。ひどいときは2年に1回くらい転勤していた時期があって。
--今まで住んだ町というと?
松本:まず、世田谷でしょ、横浜、浜松、九州、横須賀、川崎だったり転々と。ほとんど旅のような(笑)。
--友達を作るの大変ですよね。
松本:初めのうちは大変なんですけど、慣れちゃうんですよね(笑)。それでその地方の方言とかを3ヶ月で覚えちゃったりとか、そういうことができるようになるんですよ(笑)。
--方言を覚えるのが溶け込む近道ですか?
松本:たぶんそうなんですよね。例えば、すごく方言があるところに横浜から引っ越していくと、最初はちやほやされるけど、本当の仲間意識みたいなものは持ってもらえなかったりするんです。やはり地元に溶け込まないと。
--「よそもん」っていう。
松本:そういう感じになりますよね。
--そうすると何カ国語かしゃべれる感じですよね。
松本:わからないですけどね(笑)。ただコンサート・ツアーでその地方に行くと友達に会えたりして、それはそれで楽しいです。
2. 内定もらって就職せず〜大学4年の決断
--大学に入られて、本格的に音楽活動を始められたのですか?
松本:学生のコンテストとかに出ると必ず賞をもらえたりして、「意外と俺いけるかな?」っていう感じがちょっとしたんですよね(笑)。その当時の早慶バンド合戦とか、マツダカレッジフェスティバルとかで、キーボード賞や優秀賞をもらったんです。もちろん、それとプロ・ミュージシャンとは全然違いますけどね(笑)。で、大学のサークルのバンドで、「ショコラータ」っていうのを始めたんです。
--「ショコラータ」は大学何年くらいで始められたんですか?
松本:大学3年かな?
--では、学生時代にデビューしたわけですね?
松本:実は、もう1つバンドをやっていたんです。ボーカルが崎谷健次郎で、ベースが有賀啓雄っていう渡辺美里とかをプロデュースしている人で、学生のときにポニーキャニオンからレコード・デビューしたんですよ。そのときにショコラータを辞めて、そっちでいったんです。だから、ショコラータは初期のメンバーではあるんですけど。
--崎谷さんのバンド・メンバーみたいな感じですか?
松本:そうですね。崎谷君がソロ・デビューする前にバンドでデビューしているんですよ。「VIZION」という。当時、リバースター・レコードというのがあってそこから。
--では、「ショコラータ」でデビューしたときは、メンバーでなかったのですか?
松本:デビューといっても、メジャー・デビューの前に「TRA」っていうカセットマガジンというか、今で言うインディーズ・マガジンみたいなところから出したときは、まだ参加していたんですけどね。
--創業メンバーではあったけど、メジャー・デビューのときにはいらっしゃらなかったと。
松本:そうそう。そのときは二者択一といった感じだったので(笑)。
--では、就職活動とかは関係なかったですか?
松本:就職活動は一応したんですよ(笑)。就職するんでも音楽の仕事の方がいいかな?と思っていて内定もいただいたんです。でも、このまま就職するよりも、やっぱりミュージシャンになりたいなと思ったんですけど、「やっぱりミュージシャンになりたいんで、就職しません」ってなかなか言えなくて、それで「留年してしまって卒業できなかった」って言おうと。僕、成績は良かったんですけど、テストさえ受ければ卒業できるっていう単位をわざわざ取らなかったんですよ。
--すごい!
松本:でも内定もらったのに「やっぱりミュージシャンになるので、やめます」って言えないですよ(笑)。今みたいに音楽家として活動できるとわかっていればいいんですけど(笑)、当時はわからなかったですから、自分自身も決めかねてましたし…。試験のときは、大学のそばまでは行ったんですよね。みんな会社の資料かなんかを持って歩いている姿を見て「俺とんでもないことをしてしまったのかもしれないな」と思いましたね(笑)。
--ということは、音楽家としての自分の未来に絶大な自信があったわけではないんですね?
松本:そのときはEPOのバックバンドをやっていたんですよ。
--もうミュージシャンとしてお金は稼げていたんですね。
松本:でもね、そのことを思い出すと「なんでそっちへ行っちゃったんだろう?」って理由がわからないんですよね(笑)。冷静に考えれば就職した方が、本当はいいんだろうなとは思いましたけどね。卒論を出した教授とかにも「就職した方がいいに決まってるじゃないか」って言われました(笑)。
--結局留年したんですね。
松本:大学は8年まで行きましたけど、6年から8年まで3回しか学校に行かなかった(笑)。でも、大学8年の頃にはわりとちゃんと音楽活動をしていたので、もうこのまんま…という感じでした。
--ご両親は何も言わなかったですか?
松本:学費も自分で払えるようになっていたので。親は10年くらい前まで、本当に留年したと思っていたみたいです(笑)。
--騙しきっていたんですね(笑)。
松本:実は違ったんだよねっていうのも、だいぶ経ってから話しましたけどね。
--お父様は音楽系の仕事をなさっていたので、ミュージシャンという職業に対してもご理解があったんですよね?
松本:でも、叔父のように必ずしも誰もが成功するとは限らないので、難しいですよね。自分が無理矢理選んでしまったということでしかない。例えば、今僕も同じ状況だったら「音楽家を目指してみろ」とは、たぶん言わないと思うんですよ(笑)。上手くいくかわからないし。
--でも、お父さんが公務員っていう人よりは理解があったでしょうね。
松本:でも、コンサート・ツアーの仕事を始めた最初の頃って年収が120万ぐらいだったんですよ。でも、プロミュージシャンとしてはキーボードやシンセサイザーを買わなければならなくて、当時オーバーハイムのシンセサイザーが150万くらいしたのかな?150万だけど、それを買わないと仕事にならないので、「男の60回払い」で買ったんですよ(笑)。そのとき父は保証人になってくれませんでしたね。それで、その当時EPOのバンドで一緒で、今もCHAGE&ASKAのバンドで一緒の鈴川(真樹)君のお父さんが保証人になってくれて(笑)。
--バンド仲間のお父さんが保証人(笑)!?
松本:そう(笑)。だから僕は彼の父上には足を向けて寝られないんです。鈴川君は僕と同い年で早稲田のダンモ(モダンジャズ研究会)にいたギター・プレイヤーなんですけど、一緒にEPOのバンドのオーディションを受けたら受かったんですよ。そのときのバンマスが清水信之さんで、その後清水さんの所属するハーフトーン・ミュージックっていう事務所に所属させてもらったところから、プロっぽい活動になってきたんです。
3. 年間100曲を手掛ける売れっ子アレンジャー時代
--今までの所属はどのような感じだったんですか?
松本:ハーフトーン・ミュージックから、ロックオン・カンパニーに行って、今ロックダムアーティスツですね。それで、清水さんとかと付き合うようになって、プロフェッショナルのやり方みたいなものを学ぶことができましたね。スタジオ・ミュージシャンとかミュージシャンって、たまたま同じ世代にかたまっている最後の世代なんですよね。僕と清水さんとギターの佐橋(佳幸)君。僕はアレンジの仕事をもう20代前半くらいで始めたんですけど、鈴川君とかドラムの江口(信夫)君とかギターの是永(巧一)君は、15、6年〜20年くらいの付き合いなんですよね。みんな20代の前半くらいからスタジオ・ミュージシャンとか、コンサートのサポートとかをやるような世代だったので。
--その世代は寿命が長いですよね。
松本:というか、その下の世代がきっとコンピューターを中心とした世代なんですよね。だからプレイヤーっていうところでは一番集まっているところですよね。
--層が厚いですよね。
松本:僕は同じ世代のスタジオ・ミュージシャンの人とやりたいと当時から思っていたので、その世代の人たちと20年間音楽を作ってきたなって感じはあるんです。
--強力な世代ですね。
松本:もう、20代の前半に友達になった人たちが、そのまま今も付き合っているし、その人たち以外に新しい人はあまり出てこなかったですよね。
--20代前半でアレンジャーになれる人っていうのは限られていると思うのですが。
松本:清水さんなんか10代からだし、いわゆるアレンジャーの最後の世代という感じだと思いますが、その前の世代の人は、例えば佐藤準さんとかみんなすごく若い頃からなさってましたよね。シンセサイザーの黎明期みたいな時期だったので、キーボード奏者がアレンジャーになるのは全然不思議じゃないことだったんでしょうね。
--それにしてもアレンジを手がけられた曲が1500曲以上ってすごいですね。
松本:そうですよね。一番すごいときは1日2曲とかやってましたね。今みたいに色々なことができない時代だったんですよね。テープレコーダーもデジタルじゃなくてアナログのマルチしかなかったし、だいたいCDじゃなかったし、アナログのレコードしかない時代。CDが出てきたときに「こんなのになっちゃうんだ」って思ったくらいですから(笑)。だから、ドンカマみたいなものを聞きながらみんなで一斉にリズムを録って、ストリングスを重ねたりとか、シンセサイザーのメロディをちょろんと弾いたくらいしかできない時代だったわけです。デジタル技術っていってもその程度で、レコーディングの手法もあまり多くなくて、オーソドックスなやり方だけでしたから。そこから3、4年でものすごく変わってしまったんですよね。ちょうど僕なんかも20代前半と若かったので、新しいことをやろうとしていましたけどね。
--スタジオ・ミュージシャンが1日でスタジオを何軒も駆け回るような時代から生き抜いてきたと(笑)。
松本:そうそう(笑)。
--’87年に吉川晃司を手がけられて以降は、まさに売れっ子状態ですね。
松本:90年代の前半くらいまでは、ものすごく働きましたね(笑)。当時はカメリア・ダイアモンドとか、ブティック・ジョイみたいなのとか、あの辺でかかっている曲はほとんどやりましたよ。久宝留理子とか鈴木雅之とか。80年代終わりくらいはアイドル歌手全盛時代だったので、小泉今日子さんとか。
--1年に何曲やったって感じなんですか?
松本:一番すごいときは100曲以上はやったんじゃないですかね。
--それって簡単にできることなんですか?
松本:できないですよ(笑)。今みたいにプリプロ・スタジオみたいなところである程度できたものをバーンといけるわけじゃなくて、いちいちマルチに全部録らなくちゃならなくて、それもアナログのシーケンサーとかMC-4みたいな時代。1個ずつ全部録んなきゃいけなかったり、録りながらタイミングも合わせなければならなかったりとか、すごく時間がかかりましたね。何でこんな時間がかかるんだろう?ってくらいに。
--体力的にも大変な作業ですよね。
松本:若いからできたんでしょうね。
--その頃はコンサートの仕事もなさっていたのですか?
松本:やってましたね。ツアーの移動日に僕だけ東京帰ってレコーディングしたり。ツアー終わってホテルでみんなが打ち上げしているところを、俺だけ1人譜面書いていたりとか、そういうことが多かったですね。
--何で断らなかったんですか?
松本:うーん、何かね仕事したかったんでしょうね。やっぱり大学を卒業しなかったんで、その分仕事を一杯していないと絶えず不安な時期っていうのがあったんじゃないですかね。
--そんな時期があったんですか・・・。
松本:そうですね。今もフリーの仕事だと思えば、危機感はあるんですけどね。まあ学生も長かったですから、26まで学生でした(笑)。
4. 自分のカタチになるような音楽を作りたい〜叔父・松本英彦の影響
--そういったヒット曲系の音楽から映画・ドラマの音楽を手がけるようになるきっかけはあったんですか?
松本:僕の叔父は70歳でまだお客さんを集めてコンサートをしていたんです。しかも、今は亡くなっているにもかかわらずメモリアル・コンサートをやると、スイート・ベイジルが一杯になるわけですよ。その70歳くらいまで音楽家をやっている人生って素晴らしいなと思いまして。たくさんヒット曲はあっても結局消費されていってしまうだけじゃないですか?一番すごいときはオリコンを見ると僕がやった曲が片側だけで6曲載っていたことがあるんですよ。だけど、結局消費されていくだけだし、アレンジャーっていうスタンスって職人の最たるもので、そういうところで10年さらに10年ってやっていくよりも、インストゥルメンタルの音楽だけれども、自分のカタチになるようなものをやっていくほうがいいんじゃないのかな、と思い始めたのが90年代の途中くらいからなんですよね。
--人のためというよりも、自分の音楽を考え出すわけですね。
松本:ヒット曲を狙うとすると、例えばイントロは短く派手な感じにして、Bメロはちょっと落としてリズムを薄くして、サビの前にキメがあってドッカーン、みたいな時代だったんですよ。そういう形にアレンジャーとしては囚われている部分というのもあったので。
--ヒットを期待されて仕事をしている以上しょうがないですよね。逃れられないというか。
松本:時代的にそのあとプロデューサー時代があったじゃないですか?その後、インディーズや、R&Bだったり、今だと自分がやりたい音楽をカルチャーを持ってやっていて、そのカルチャーの代表みたいな人が人気があって、ムーブメントの村社会みたいなところで成り立っている音楽シーンに変わりましたよね?その中で乗り遅れた人は、仕事がなくなってしまったというのが多いんですよね。僕がやり始めた80年代に仕事をいっぱいやっていても、「今どうしているのかな?、あの人」っていう人のほうがたぶん多かったりして…。その中で70歳くらいまで叔父が音楽家としてやっている。僕もそこを目指さなくちゃいけないのかなと思ったんですよね。そんなところから、映画の仕事とかを始めたんです。80年代は、ロック・バンドの人もあれば、女の子のポップスの曲があったり、いきなりボサノヴァやったりと、何でもできるし逆にどんな仕事でもひとりのところに集まるような時代だったんですけど、今みたいな形に音楽シーンが変わっていく中では、自分のやりたいことをもっと明確にしないといけない。あと森田君もそうですけど、今この時代のこのタイミングで一番新しくてかっこいい音楽というのは何なのか、と日々考えたりする中で、やりたいことが少しずつ変わってきたんですね。アーティストともアルバムで1曲だけといった形で今までやっていたことを、1年とか時間をかけてプロデュースしたりね。例えば、ASKAとはアルバム1枚で曲を作るところから、マスタリング、そしてコンサートを回るところまでプロデューサーとしてがっぷり付き合うというような仕事のやり方に変えたり。その中でASKAとは気が合って、それまで作曲家のプロダクションにずっといた人間が、「松本、一緒にやろうよ」ということで現在の事務所に移ったんです。だから、これからはもうちょっと「松本晃彦」っていうものを全面に押し出していきたいなと思っています。
--先ほどもお話に出ましたが、叔父様の松本英彦さんの影響は大きいですか?
松本:若い頃はもう恐れ多くて、一緒にセッションしたりしませんでしたが、数年前にサントリーホールで一緒にリサイタルを開いたんです。やっぱりあの世代の人は楽器の技術が卓越してますよね。僕はスタジオでアレンジャーをやっているので、この譜面はどれくらいの難易度で、何テイクくらい録ると時間内で収まるかっていうことを日々わかっているんです。でも、叔父はリハーサルでも1回演奏するぐらいで、もうほとんどパーフェクトなんです。ジャズってそれが当たり前の世界で、びっくりしたこともありましたね。
--叔父さんの凄さを大人になって改めて思い知らされたと。
松本:そうですね。あとインタビューでもよく話すことなんですけど、叔父はサックスを持たないと無頼の人というか、普通のおじさんなんですよ。たぶん音楽のこととか、サックスを吹くときにいいプレイができるかどうかってことしか考えてなくて、他のことは奥さんがやっているような(笑)。今から10年くらい前なんですけど、一曲に対して努力はしているんだけど、締切に追い込まれたりして、自分の中でいい演奏とか、いい楽曲を作る暇を与えられない状態になってしまったときに、叔父さんと一緒に演奏をしてみると、僕に比べて70歳の叔父の方が音楽に対して自由で、僕の方が若いのに背負っているものが多いような気がしちゃって…。その時期から「叔父みたいな音楽家の人生を送るには、どうしたらいいのだろう?」ってことを考え始めて、今ちょっと自由になってきたかなって感じはあるんですよ。
--本当に大きな影響を受けてらっしゃるんですね。
松本:実を言うと、どんな考えで、どんな風に暮らしているのかよくわからない人だったんですよ(笑)。
--普通の人が興味を持つようなことには興味がない?
松本:本当に音楽だけ。どちらかというと無口なタイプで、自分で感情とかを表すようなタイプじゃなかったんですよね。で、いつも寝ているようなので、「スリーピー」ってあだ名が付いてて(笑)。たぶん米軍キャンプを回っているときに、外国人がそのあだ名を付けたのだと思うんですけど。もう亡くなってしまいましたが、もし生きていたらもっとセッションをしたかったですね。
--直接音楽を教わったことはないんですか?
松本:スケールがどうのとか、教わったことはないですね。ただ、たまに音楽の話をすると叔父はチャーリー・パーカーの世代なのに、「マイケル・ブレッカーと同じリードを買ってみたんだよ」とか、数年前には「ケニーGのフレーズをちょっと真似してみたんだけどさ、今まで自分がやってきたパッセージの捉え方とは、どこか違うような気がするんだよね」といった話になったりとか(笑)、若いんですよね。新しいものを吸収しようとしてたそのスタイルが。僕もそういうところを目指しているので、森田君とかもたぶんそうだと思うんですけど、何か新しいこととか、今までに人がやっていないようなことってなんだろう?って考えたりするので、70歳になってもまだ新しいものを取り入れてっていう叔父は、素晴らしいなって思います。
5. 飛躍の「踊る大捜査線」
--やはり「踊る大捜査線」に代表されるテレビや映画の仕事が飛躍のきっかけということになるのでしょうか?
松本:インストの仕事は、CMの仕事とか昔からやっていたんですよ。そういう意味では映画の仕事もある程度はありましたが、「踊る大捜査線」っていうものがいわゆる劇伴音楽とは違うようなアプローチをさせてもらえたので、そこがきっかけとなって、僕自身もやりやすくなったというのはありますね。劇伴だとある程度、予定調和的な楽曲をいくつか作れば、その責任は果たせるんですけど、「踊る大捜査線」に出会ったおかげで、例えばダンス・ミュージックを取り入れたりとか、ロックみたいなものを取り入れたりとかできるようになったし、その辺の部分をわかって僕に仕事を頼んでくれるようになったので、それは良かったですね。実は「踊る大捜査線」の最初のテレビ・シリーズは6年前なんですよね。その当時はまだ、劇伴音楽というものはオーソドックスな生のオーケストラとかを使うのが主流だったんですよ。「太陽にほえろ」とかはバンド・スタイルでしてたのかもしれませんが。
--サントラCDで売れるっていうのは今までなかったところで、「踊る大捜査線」は80万枚を売ったわけですよね。
松本:今回シリーズ全体で100万枚越えましたね(笑)。まあ、あのテーマ曲がテレビであれだけOAしてもらえたので、そのおかげなんじゃないかなぁ(笑)。
--日本では異例というか、初めてですからね。
松本:昔から「太陽にほえろ」のテーマとか、「ルパン3世」とかあるにはあるんですけど。
--「宇宙戦艦ヤマト」みたいなアニメとか、テーマ曲が売れたというのはあるんでしょうけど、映画のサントラがそこまで売れたってことはすごいですね。
松本:うれしいことですけどね。やっぱり、視聴者の人も若いわけですよ。年齢層も変わってきてるわけです。その人たちのライフスタイルに合うようなビート感とか、テンポ感みたいなものがドラマについているほうが、違和感なくドラマの中に視聴者の人が入っていけるんだと思うんですよ。
--「踊る大捜査線」の音楽は、脚本を読んだ段階でイメージしているメロディがあったわけですか?それとも映像を見てなんですか?
松本:テレビ・シリーズのときと、映画のときとは作り方が違うんですよ。テレビ・シリーズの場合はお話は毎回変わっているんだけど、使う楽曲は同じですよね。悲しいときはこの曲とか、日常はこの曲とかって。なので、テレビ・シリーズのときは脚本を見て、プロデューサーとかディレクターに先に曲を渡すんですよ。それで合う曲を当てはめてもらう。だからそのためには、本当に使われるかはわからないけど、とりあえず「日常1」とかお約束のやつを作って、後はお任せするんですけど、映画の場合は尺が決まっているのでそれに合わせて作曲するんです。普通はあるシーンに必要な音楽が7分だと、テンポがいくつで割ると小節数がいくつでって計算して作るんでしょうけど、僕の場合は映像をパソコンに取り込んで音楽のソフトと同期させて作曲するという感じなんです。そうすると音楽だけのことを考えられるので。まあ、デジタル技術が音楽家を助けてくれたというひとつの例になりますよね。アメリカ映画とかだと、例えば爆発するシーンの頭にぴったり曲が合ったりするじゃないですか?そういう作曲の方法をアメリカの人はとっくにやっていたはずです。たぶん、日本では僕がやりはじめてからみんなやるようになったんじゃないですかね。それは映画音楽家の前にプロデューサーをやっていて、ミュージック・クリップとかをどういう風にするかっていうようなことを、あれは映像と完全にシンクロしていきますよね?そのテクニックが自分なりにあったので、すんなり映像とリンクできたのは自然な流れだったんじゃないかなと思います。
--映画音楽家として誰か目標にしている存在とかいらっしゃいますか?
松本:一杯ありすぎてわからないくらいたくさんいますよね。どっちかっていうと僕は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」のエンニオ・モリコーネの曲が好きなんですよ。何回聞いても飽きないんですよね。すごくシンプルなアレンジだったりするんだけど、メロディーがすごく良くて、「モリコーネは天才だな」って思います。ごちゃごちゃした細かい装飾物みたいなものもあまりなくて、本当に良くできてて。いい曲だと映画の中で何回かかってもいいんですよね。
--映画の内容は忘れても、音楽だけはずっと憶えているっていうことはよくありますものね。
松本:あと「ひまわり」とか良かったですね。いい映画って必ず印象的な曲がありますもの。
--松本さんご自身は元々映画をたくさんご覧になっていたんですか?
松本:うーん、忙しかったんでそんなに滅茶苦茶見る暇はなかったんですけど、でも映画音楽のレコードとかって家に一杯ありましたしね。ヘンリー・マンシーニとか。あと話題作は一応見てましたし。映画ファンってめちゃくちゃマニアックによく知ってるでしょ。その域だったかわからないけど、音楽を中心に見ていましたね。今は自宅に映画ルームがあってですね(笑)、100インチのスクリーンで、THXっていうジョージ・ルーカスが認定した音響システムがあるんですよ。関東だと海老名と国立とかしかないのかな?そのシステムを自宅に入れちゃったんですよ(笑)。7.1chっていってスピーカーがサブウーハーを入れると8つあるんですよ。それで映画を見ると楽しいんです。それは映画音楽の仕事をしているっていうことじゃなくて、趣味として(笑)。またマニアックな話をすると、「ホームシアター」という雑誌があるんですよ。そこに僕の部屋が取材されて記事になっちゃったり…(笑)。ワールドカップのときも我が家の100インチ・スクリーンで事務所の人とかみんな集まって見たんです(笑)。
--いいですね〜。スポーツ観戦もお好きなんですね。
松本:メジャー・リーグとかヨーロッパのサッカーとかはほとんど見てますね。セリエAやスペイン・リーグのマニアックな選手とかの名前も全部言える感じです(笑)。インターネットで情報を見てるし、中田英寿の日記見てたりとか(笑)。 東アジア選手権の日本戦とかも埼玉スタジアムへ見に行きましたし、巨人戦とかも見に行きますし。
--ご自身はスポーツはなさるんですか?
松本:最近は年で辛いですよね(笑)。テニスはやっていたんですけど、この間5分くらいやったら「うぇー」ってなって(笑)。サッカーなんかよくやってるなと思いますけどね。
6. 音響システムの進化──5.1chシステムの未知なる可能性
--自宅でホームシアターっていうのも、DVDがここまで普及したからこそって感じですね。
松本:今後は絶対アーティストもCDと映像セットで売られると思います。今はコンサートのビデオみたいなものが多いですけど、たぶんそのうちDVDが中心になると思います。なぜかというと、今電気製品を買いに行くとDVDってCDも聞けるから、CDだけのステレオを家庭用オーディオとして買う人口ってすごく少なくなる。これが3年とか4年とか経つと自宅に普通のオーディオがある人と、DVDでCDとか聞いたりする人の人口が逆転すると思うんですよ。アナログのレコード盤からCDに移ったときのように、ある日あっという間に。そうするとCD作ってもDVDの市場の方が広くなるんじゃないかと。だから、今のレコード業界がCDに囚われちゃったりすると、生き残れないんじゃないかと思います。今5.1chのシステムでどういうサウンドの構築をするかっていうことについては、まだ誰もわからないわけですよ。
--まだ確立されていないと?
松本:そう。それがアメリカ人の誰かがやり出すと、ってやり出しているんですけど、そういう方向に進んでいくんだと思うんですけどね。だから、「日本で5.1chに関するテクニックの最前線は俺だろう」という風になりたいですよね。
--ここの下のスタジオはそうなんですか?
松本:作業のときはそのシステムを持ってくるという感じですね。僕の場合自宅にあるので、そこで研究ができるんですけどね。前にスピーカーが3つあって、横に2つあるじゃないですか。じゃあ、センターの位置にどういう風に楽器を定位させるかという問題があったりと、映画音楽をやっていたおかげで、だんだんと見えてくるものがありますね。そうするとスクリーンを下ろさなくても、音楽だけでもそのシステムで聞くと楽しいですよ。
--面白いものを見つけたって感じですかね?
松本:そうですね。TAKE6のDVDとかは、センターのスピーカーにもコーラスが定位されていますよ。
--ハウス・ミュージックとの関わりもある松本さんですが、クラブに5.1chを導入すると面白いという話にはならないんですか?
松本:むしろカーオーディオじゃないですかね。
-- 一番簡単に体験できる場所として車の中だと。
松本:今は単に差せばいいような3万円くらいのとか出てますよね。ああいうのも持っていて、リビングに置いてあるんですけど意外と楽しめるんですよね。まあ、カーオーディオも狭い空間でできるんですけど、自宅のリビングにポンと置いちゃうようなことができるんじゃないですかね。
--でも日本の住宅事情が発展を妨げているとも思うんですが・・・。
松本:いや、みんな持ってますよ。その認識は古いと思います。ちっちゃいスピーカーで、安くもなっているから。でも、スタジオは今後5.1chのシステムがないと辛いと思います。絶対みんな5.1chに向かいますからね。勝ち組・負け組じゃないですけど、お金のある組は絶対5.1作るので。僕、プリプロスタジオみたいなものを池尻に持っているんですけど、ProToolsがあって、一応その中を防音してもらって(笑)。で、「自宅でできるじゃん」みたいな感じになっているんですよね。
--スタジオの存在意義にかかわってきますね。
松本:それとか、プロフェッショナルとアマチュアの人との垣根はどこにあるのか?みたいなこととか。デジタル技術の進歩ですっごく変わってきたじゃないですか。この(プロ・アマの)違いを今もう一回はっきりしないと、ヤバイよっていう感じがしますけどね。
--でも、自宅で5.1chをやられたら、かなわないわけじゃないですか(笑)。
松本:でも、5.1chのミックスとかができるようになってた方がいいと思いますけどね。宇多田ヒカルみたいなあのクラスの人たちは、絶対そういうことをこれからもやっていくだろうし。そうじゃなければインディーズの人みたいに、それこそ自宅録音みたいになってしまうので。パソコンの1台や2台アマチュアの人でも買えば、僕らと同じことをできるんですよ、たぶん。
--「サウンド&レコーディング」を買えば、何でも書いてありますしね(笑)。ここの下(スタジオ)を使うまでもないですか?
松本:そうですね。ロック・バンドみたいな人とか、フル・オーケストラとかを呼ぶとき以外は、もう自宅でProToolsのデータになっているので、あとミックスだけしてもらえばそれでOKという感じなんですよ。だいたい今、レコーディングスタジオでマルチって使ってます?ヨンパチ(MTR:SONY DCM-3348)を使う仕事とか?
--3ヶ月に1回くらいはあるんじゃないんですかって感じですね(笑)。
松本:やっぱりProToolsですよね。楽ですものね。
--そうですね。よっぽど変わった人が「回してみようか」という感じで。値段も悲しいですよ。YAHOOオークションに20万円でヨンパチが出てたっていう(笑)。ただしヘッドはヤバイよと。
松本:あれって、SONYとかメンテする契約とかあるんじゃないですか?
--いや、秒読みという感じじゃないですか。生産は1年前に打ち切りになっていますし。
松本:たまにマルチ使うと、テープレコーダー巻き戻るのが待ちきれないですよね(笑)。
--「テープが回っていないと録った気がしない」って世代の人以外はもうマルチはいらないんですかね?
松本:いや、音質的にはマルチを使った方が全然音はいいと思うんですけどね。ProToolsの簡便性とか、便利なところがあるでしょう?あと予算とかを考えちゃうと、そっちへ流れちゃうと思いますけどね。
--そこまでの差はない?
松本:いや、音的には(ProToolsは)ものすごく下がると思います。出来上がった作品を聞き比べると。ハウス・ミュージックみたいな音楽はそんなに差があるとは思えないし、かえってProToolsみたいなものの方がいいのかもしれないですけどね。
--松本さんは音楽的には恵まれた環境で育ったと思うんですが、やっぱり絶対音感をお持ちなんですか。
松本:そうですね。子どものときに身につきましたね。
--絶対音感って、一度ついたら二度と忘れないものなんですか?
松本:6歳までの間に絶対音感がつくんですよ。何かの曲がテレビで流れていると、その場でパッと同じ曲を弾けちゃったりとか。例えば「エアコンの音が“ミ”に聞こえるな」とか。わかるんです
--わかっちゃうんですか!?
松本:というか、カタカナで聞こえてくるんですよ。
--ある本で「絶対音感があるときつい面もある」ということを読んだことがあります。全部が音として認識されちゃうんですよね。
松本:そうですねぇ。例えば、こうやって日本語でしゃべっているときに、って言っているときに「日本語でしゃべっているときに」って頭の中に浮かんでいるじゃないですか?あれと同じようなものなんですよ。でも僕なんか絶対音感といってもいい加減なもんだと思うんですけど、ものすごく厳しい耳を持っている人とかは、きついこともあるのかもしれませんけどね。あと「A」って時代ごとに変わってきているんで。「ラ」の音程は僕が子供の頃はもっと低かったんです。今は上がってきているんです。クラシックなんか「4-4-3」とかになっているんですよね。で、ポップスとかレコーディングの世界では「4-4-1」ですけど、クラシックはもっと高いし、子供の頃はたぶんね「4-3-9」とかそういう風だったと思いますよ。だから子供の頃に思いっきり「ラ」の音を覚えさせられて音程を今聞いたらすごく上がっちゃってるわけだから、そこまで厳しいものではないと思うんですよね。
--サウンド・プロデューサーはピッチに厳しい人なんでしょうね?
松本:そこがわからないとサウンド・プロデューサーっていう仕事自体できないんじゃないでしょうか。ただ、歌っていうのは階段みたいに直線でできあがっているものじゃなくて、曲線のようなものだと思うので。楽器の演奏も全部そういうものなんですよね。だから、基準値に対してかっこよくカーブが描けていれば、そこまでこだわる必要はないんじゃないかな?フレーズを歌う歌心みたいなものの方が大事だったりするので、「音程をきっちりしなきゃ」とか「リズムをきっちり合わせなきゃ」っていうことは、サウンド・プロデューサーとしては初歩的なことだと思います。
7. 日本人ミュージシャンの使命〜世界進出の3本柱
--最近は、クラブ・ミュージックも手がけられていらっしゃいますね。
松本:ええ。渋谷にWOMBってクラブがありまして、そこのDJ/YOSHI君と一緒にハウス・ミュージックの楽曲を作ったりとか、そのクラブでレーベルを持っているんですけど、そこでCDを出したりとかしてるんです。
--ユニット名は?
松本:A.Matsumoto & DJ Yoshiってそのまま(笑)。で、アナログ盤を作ったんですけど、ちょっと評判が良くて、ロンドンのベン・ロストっていう人が主宰するロスト・ランゲージ系の新レーベルPRECINCTというレーベルからリリースすることになったんです。で、そこで僕の曲をオーストラリアのルーク・シャペルっていう人にリミックスしてもらったものとか、僕の作ったヴァージョン、あと他の方にもリミックスしてもらっているんですけど、2004年にリリースするんです。
--そうなんですか。クラブ・ミュージックは一番世界に出て行きやすい音楽でもありますよね。
松本:そうですね。例えばロック・バンドとかだとヴォーカルがあったりしてなかなか難しいじゃないですか。ハウス人口って世界中でも狭いマニアックな世界なので、僕がよく言うのは「中央線沿線の畳4畳半からいきなりニューヨーク」みたいな(笑)。だから全世界で1万枚しか売れないような世界なんですけど、その人がいきなりマドンナをプロデュースしちゃうみたいな、そういう世界なんですよ。で、アナログ盤なので世界中のDJが購買層で(笑)。ロスト・ランゲージというレーベルは、アナログ盤8000枚というレベルで出すと、1万枚弱ぐらい売れるんですって。つまり1万人のDJが曲をかけてくれるわけで、世間的な影響力は高いんですよ。ただ購買層がアナログ盤を買うっていう人たちなので、DJをお客さんに持つバイヤーみたいな人を通さないといけないんですよ。
--CDでは出ないんですか?
松本:もっとメジャーになってくると、CDで出るんですけどね。
--業務用商品(笑)。
松本:それはそれでマニアックな人たちがいらっしゃって、ラジオでリクエストしてくれたりして。僕のこのアルバム(『Lights』)の最後に入っている曲が、A.Matsumoto & DJ Yoshiの曲なんですけど、あるUKのラジオ・チャートで6位かなんかに入ったんですよ。
--「Ai-shu」って曲ですね。
松本:今、「Japan cool」っていう流れが世界的にあって、意外と取り入れられているんですよね。僕が一昨年やった「リターナー」っていう映画が今ニューヨークとロサンゼルスで公開されているんですよ。でも単館上映でマニアックな人たちが見るっていう感じじゃなくて、西海岸の何館かでやっているらしいんです。今ちょうど手がけている「バイオハザード」はアメリカの子供たちの中では知らない人はいないって感じですし。
--その「バイオハザード」は新作ですか?
松本:そうですね。今月発売(2003年12月)のプレイステーション2のゲームソフトですね。
--どのくらい売れるんですか?
松本:たぶん1000万セットとか売れるんじゃないでしょうかね。
--うわ! 市場が世界ですから大きいですねー。
松本:サッカーのセリエAとかスペイン・リーグとか見ていると、スタジアムにも「PlayStation2」とかって書いてありますよね。ヨーロッパとかですごく人気なんですよね。プレステ2は世界規模のヒット商品ですね。
--「バイオハザード」って怖いやつですよね。
松本:そうですね(笑)。結構ゲームやるんですよ。夜中、レコーディング作業の途中とかで(笑)。意外と面白いんです。これは通信ゲームになっていてですね、誰かわからないけど接続している者同士で助け合ってゾンビを倒すようなゲーム(笑)。まあ、そんなこともあって、世界進出したいなと思っていますね。
--テレビ・映画音楽にハウス・ミュージックにゲーム音楽と本当に活動が幅広いですよね。
松本:今まではアーティストをプロデュースするポジションで、連続して仕事をやってという感じだったんですが、今はもうちょっと音楽の裾野みたいなものができたんで。
--世界進出の柱が3本もありますしね。
松本:そうたやすいことではないと思うんですけどね。ハウス・ミュージックの方は本当に趣味で、ビジネスにはなり得ないですけど、やっていること自体は楽しいですし。あと、使っている楽器、例えばヤオヤ(TR-808)とかが日本製という部分で、世界に対して「何でこの音楽をやっているんだ」っていう自分の中での理由付けのひとつということもあると思うしね。例えば、日本に東南アジアのロック・バンドみたいな人が来て、英語がすごく上手くても、何でそういう音楽をやっているんだっていう風に日本人として見たら思うわけじゃないですか?それと同じで、アメリカ人としてみたら東洋人で日本にいるのにアメリカのスタイルでロック・バンドをやってるの?って思われると思うんですよね。そういうところで僕たちがやっている音楽って、どっかで輸入品を自分たちで取り入れている気持ちでいても、本国の人から見たらちょっと変わったものに見えてしまうんじゃないか?と思うんですけど、多分それがテレビ・ゲームであったり、ハウス・ミュージックであったりが「これは日本のものでもあるんだよ」っていう必然になると思うし、世界で僕が活動をする意味というものをわかりやすい形で示すことができると思うんですよね。僕というよりも日本人の音楽家が。映画も黒澤明さんとかのおかげで「日本のものでもあるんだよ」っていうことを示していると思うし、その辺が僕たちの使命なんじゃないですかね。
--今日はどうもありがとうございました。世界進出も含めて、今後のご活躍も期待しております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音楽的才能と拮抗するビジネス感覚、そして先見性を併せ持った松本氏は、日本において希なミュージシャンなのかもしれません。しかし、その土台にある音楽に対する純粋な情熱と、現状に満足せず絶えず新しいことにチャレンジしていく姿勢が、今日の松本氏を作り上げたのだと実感させられるお話でした。前回ご登場いただいた森田和幸氏も仰られたように、「世界に通用するミュージシャン」になられる日も近いかもしれません。
さて、松本氏にご紹介いただいたのは、ジャンルを問わず数多くのアーティストを手掛け、日本では当時先駆的であったリミックス(12インチ・シングル)の制作を始めるなど、キャリア30年を数えるレコーディングエンジニアの内沼映二氏です。お楽しみに!