第41回 内沼映二 氏 (株)ミキサーズラボ 代表取締役社長/レコーディングエンジニア
(株)ミキサーズラボ 代表取締役社長/レコーディングエンジニア
今回の「Musicman’sリレー」は、松本晃彦さんからのご紹介で、日本のレコーディング・エンジニアの草分けであり、現在もポップミュージックの最前線で活躍する内沼映二さんのご登場です。まだ「エンジニア」という概念すらない黎明期から、歌謡曲全盛時代を駆け抜け、レコーディング・エンジニア集団「ミキサーズ・ラボ」を設立と、内沼さんの歴史はまさに日本のポップ・ミュージック&エンジニアの歴史といえるでしょう。そんな内沼さんを最初にスタジオへと導いたのは、一冊の電話帳でした。
プロフィール
内沼映二(うちぬま・えいじ)
(株)ミキサーズラボ 代表取締役社長/レコーディングエンジニア
1944年 10月10日生まれ。群馬県出身。
1965年 テイチク興業(株)に入社。(現:(株)テイチクエンタテインメント)
1968年 日本ビクター(株)入社。RVC録音部に所属。
1979年 8月15日 (株)ミキサーズ・ラボ設立。
1990年 自社運営スタジオ WESTSIDE設立。
1994年 CDマスタリングセクション DISC LABをON AIR麻布スタジオ内設立。
1997年 ワーナーミュージック・レコーディングスタジオ運営提携。
1998年 ワーナーミュージック・マスタリング運営提携。
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1994年 第一回日本プロ音楽録音賞「新日本紀行 冨田勲の音楽」から(新平家物語)で優秀賞を受賞。
2001年 第八回日本プロ音楽録音賞「ベイビーフィリックステーマソング゙集」(テーマソング:Vo大貫妙子)で
パッケージメディア・ポップスロック部門にて優秀賞を受賞。
2003年 第十回日本プロ音楽録音賞Stardust Revue「LOVESONGS」より(追憶)でニューパッケージメディア部門(DVDオーディオ作品)
にて最優秀賞を獲得。
◇◆主な作品(順不同)◆◇
[CDパッケージ]
角松敏生(デビュー〜現在ほぼ全作品)、富田勲「新日本紀行」、前川清、SPEED、西城秀樹、MAX、石川さゆり、キンモクセイ、天童よしみ、C-C-B、ANRI、ZOO、郷ひろみ、KinKi Kids、中西圭三、V6 他多数。
[サウンドトラック]
踊る大捜査線MOVIE1・MOVIE2、リターナー、ジャングル大帝、ドラえもん、王様のレストラン
- 電話帳を頼りに仕事探し〜エンジニア内沼映二の誕生
- スタジオに朝から朝まで〜テイチク・ビクター時代
- より自由な環境へ〜ミキサーズ・ラボ設立
- 「内沼サウンド」の秘密〜筒美京平との出会い
- いい音=感動させる音
- 好きだから苦にならなかった40年
- 大人が楽しめるような生演奏の音楽を!
1. 電話帳を頼りに仕事探し〜エンジニア内沼映二の誕生
--まず、前回ご登場いただいた松本晃彦さんとのご関係からお伺いしたいのですが。出会いはいつ頃ですか?
内沼:昔から仕事はしてたんですが、ここ最近は映画のサウンドトラック作品で一緒に仕事させていただいていて、その中でも昨年日本アカデミー賞優秀音楽賞を受賞した『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』の仕事が一番印象深いかな。
--松本さんに対して、どのような印象をお持ちですか?
内沼:映画のサウンドトラックに対して、彼は素晴らしいものを持っていると思います。『踊る〜』のサントラは音楽としても評価が高いんですよね。イントロを聴けば作品が思い浮かび、作品を見れば音楽が頭の中を駆け巡る。こんなにも人を惹きつけるサウンドトラックは松本さんの感性ならではじゃないでしょうか。
--意外と細かい方なんですか?
内沼:細かいというよりも繊細。良い意味での「こだわり」が作品を盛り上げる。僕は1曲1時間ぐらいでバランスをとっちゃうんだけど、最終的にOKが出るまで6,7時間ぐらいかかったりすることもありましたね。
--内沼さんの仕事は他のエンジニアに較べて早いという話をよく聞きますが。
内沼:早いのが唯一の取り柄ですから(笑)。
--7時間かけた成果はやはりあったな、という感じなんですか?
内沼:そうですね。OKでるまで大変なこともありましたが細かく微妙なバランスを再現していると思います。
--ご出身は群馬県だそうですが、どちらですか?
内沼:桐生です。静かで、非常にいい街だと思う。
--夏暑くて冬寒いんですよね。
内沼:冬は、「からっ風」が冷たいですね。
--お生まれになったご家庭はどのようなご家庭だったのですか?
内沼:桐生って繊維産業の街だったので、おふくろは自動織機の織工をやっていたんですよ。で、親父は僕の生まれる半年前に戦死しまして、母子家庭で育ったような感じですね。親父の実家というのが埼玉で、そこに「内沼」という名前があって、財産家なんですよ。でも、一銭も援助をしてくれなくて、おふくろがすごく苦労して育ててくれました。
--お父さんのお家とはあまり交流がなかったんですね。
内沼:親父が四男坊で、当然今の代は親父達の次の代になっているのですけど、全然行き来ないですよ。1、2回程埼玉の方に行った憶えはあるんですけど。
--内沼さんは子供の頃、どんな少年だったんですか?
内沼:いやぁ、箸にも棒にも掛からない子供だったんじゃないですかね(笑)。群馬県の桐生に居たのは小学校3年迄で。おふくろの姉が川崎で洋裁のお店をやってまして、その伯母が金の蓄えも出来て、川崎の方に家を建てたのを機に「川崎に来なさい」ということで、家族3人で上京したんです。以来、小学校の4年からずっと川崎なんですよ。
--その伯母さんは内沼さんにとって父親代わりの存在だったんですね。
内沼:本当に親父代わりですね。残念ですが、昨年92歳で亡くなりましたが。
--その伯母さんがいなければ、今の内沼さんはなかったということですね。
内沼:何やっているかね。野垂れ死んでいるかもしれない(笑)。
--お生まれが ’44年ということは少年時代は腹一杯食えない時代だったわけですよね?
内沼:もう、語るも涙っていう感じになっちゃいますよね(笑)。おふくろが煙草の紙巻きを内職でやっていて、小学校1年くらいの時かな? おふくろが「煙草買ってきて」って言ったのが、「卵買ってきて」に聞こえて、「今日は卵が食べられる!!」って卵買ってきちゃって、怒られたり(笑)。
--川崎に来られてからはどうでしたか?
内沼:川崎に来てからは生活がコロッと変わって。別に裕福ってわけじゃないですけど、普通に戻ったってことでしょうね。川崎に来てからの方が、思い出は一杯あります。
--音楽との出会いはいつだったんですか?
内沼:小学校6年くらいまでは、AMラジオの歌番組といったものを聴いていたので、ほとんど歌謡曲ですよね。洋楽はその頃聴けなかったし。洋楽との出会いは中学2年くらいかな? プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカなんかがラジオでかかるようになって、「これ、いいな」って思いはじめて。
--それは単にリスナーとしてですか?
内沼:もう単純に聴くだけですよ。
--どういう経緯でエンジニアを志すようになったのですか?
内沼:そうですよね(笑)。僕は小さいときから鉄道が大好きで、今でも好きですけど、小学校の時は完全に鉄道の運転手になりたくて、高校は鉄道高校に行こうと思っていたのですが、音楽の方にだんだん惹かれていってね。中学3年の頃は家電メーカーが大きなステレオを作り始めた時期で、ある日、川崎の大きなデパートに各メーカーのステレオを集めたオーディオ・フェアを聴きに行って、それで音というものにすごく興味を持っちゃって、音を扱ったり音楽ができる仕事ってないのかな? と自分なりにリサーチしたんです。その時聴いていたのがブラス・バンドの音楽で、「ブラス・バンドやろうかな?」と思って、高校入学後すぐにブラス・バンドに入って、クラリネットを始めて、高校2年の後半からドラム始めたんですけど、2年くらいやって「演奏する方は才能ないな」と自分で思って、音自体も好きだから「これを録音する仕事があるのではないか?」と考えたんです。
僕は中学の頃まで全然勉強しなかったんですけど、高校に入ってからすごく勉強するようになったんですよ。おかげさまで成績も良くなって、高校は法政大学の付属の工業高校だったのですけど、先生に「お前は成績がいいし、法政大学の工学部だったら無試験で入れるから、就職しないで工学部行け」って言われたんです。でも家も裕福ではないし、早く働くことを考えた方がいいなと思って、「就職します」と言って。それで先生が「お前何やりたいんだ」と言ったので、「こういう仕事があるはずなんですけど…」って相談したんです。でも先生もわからないので、職員室で電話帳を見ながら、片っ端から電話したんです。その時、一緒に電話しながら探してくれた同級生が、キャロルとかをエンジニアリングしていた日本フォノグラムの小林(敏夫)なんです。
--Musicmanもなかったですしね。
内沼:情報なんてなにもない(笑)。電話帳頼りだよ。
--その頃ミキサーという職業があったんですか?
内沼:ある、ってわかったんですよ。あるけどほとんど知られていない。学校の先生も知らないぐらいですから、就職だって来ないでしょ?
--でも、ついに見つけたんですね。
内沼:「録音」というのを見つけたんです。それでそこに電話をして「2人なんですけど」って言ったら、「2人かぁ・・・。でもまあ来てみなさい」って言われて、行ったんですよ。
--それがテイチクなんですか?
内沼:いや、テイチクではないんです。その前に2年弱、東京録音現像という会社にいたんです。映画のフィルムを現像して、録音スタジオも所有しているところですけど、そこで知り合ったのが現キュー・テックの社長の森本(義久)さんなんです。森本さんとか、その上に小山さんっていうTBS系のエンジニアがいて、その人たちには結構教えてもらったんですよ。
--では、すんなり入れたんですか?
内沼:みんな年を取っているから、若いのを入れましょうということになって入れてくれたんですよ。
--その時は何もわからないままですか?
内沼:何もわからないですよ。とりあえず来いと。
--小林さんとお2人で(笑)。
内沼:そう(笑)。それで2年弱過ぎてから、小山さんが「ちゃんとしたレコーディング・スタジオに行って、やったほうがいいんじゃないか?」ということでテイチクを紹介してくれたんですよ。で、すぐ来なさいということで、次の日から行ったんです。
--その最初の2年間でエンジニアの基礎を学ばれたんですね。
内沼:すごく教えてもらいました。森本さんとはたまに会うんですけど、非常に感謝しています。
--専門学校ではなく、プロのスタジオで直に学ばれたわけですね。
内沼:当時そのスタジオでやっていたのが「シャボン玉ホリデー」とか、結構いいものをやっていたので、色々なことを教わりましたね。ラッキーだった思う。
--高校の時点でそこを探し当てたっていうのがすごいですね。
内沼:今から考えると必死だったんでしょうね。
2. スタジオに朝から朝まで〜テイチク・ビクター時代
--テイチクには最初何で入ったんですか?
内沼:アシスタントですよ。アシスタントで入って、デモテープを担当していたんです。もう亡くなったのですが、榊原さんという石原裕次郎さんとかをやっていたテイチクの名物録音課長が、エンジニアにはすごく厳しい人でしたが、そのデモテープを聴いて「お前は良い素質を持っているな。今度ちゃんとした本番やれよ」と言ってくれて、それで本番をやらしてもらえるようになったんです。それが結構評判が良くて。
--右も左もわからずに、怒鳴られながらというような時代が内沼さんにもあったということですね。
内沼:もちろんそうですよ(笑)。
--そのスタジオはマルチとかあったのですか?
内沼:ないです。まだモノとステレオだけですね。テイチクに入っても4CHはあったのですけど、多数のマルチはなかったです。テイチクに入ってからマルチ・チャンネルの発展と共にエンジニアの仕事が増え。そこからですね、朝から朝まで(笑)。
--テイチク時代で一番思い出に残っていることは何ですか?
内沼:大映レコードというのが当時あって、大映の俳優さんを僕はほとんどやっていたんですよ。当時テイチクの基本給が2万7千円くらいだったと思うのですけど、勝(新太郎)さんが一日来て歌うと「心付け」をくれるんですけど2万円入っているんです(笑)。「こんなにもらっちゃっていいのかな」って感じですよね。しかも来る度にくれるんですよ。
--今でいうと27万円の給料の人が、20万の「心付け」をもらっているようなものですね。
内沼:ビックリしちゃってね。で、課長に「こういうの頂いたんですけど、いいんですか?」って訊いたら、「まあいいだろう。もらっておけよ」って。おいしかったですよ。俳優さんってみんなするんですね、撮影所の中でも。だから、レコーディングのスタッフにもくれるんです。
--今の人たちはないですよね?
内沼:ないですよ(笑)。
--それに加えて残業代があったわけですか?
内沼:残業代はありましたよ。
--そこが今のレコード会社と違うところでしょうね。
内沼:そう。今はもう全然。良き時代でしたね(笑)。
--テイチクには何才から何才までいらっしゃったんですか?
内沼:入ったのが21才で、ビクターに移ったのが25才ですね。
--テイチクからビクターという移籍はどのようないきさつだったのですか?
内沼:奥村さんというビクターの録音部長が是非来てくれというのでね。ビクターに外様で行ったのは僕だけだと思うんです。丁度RCAが事業部として発足するので、RCAをメインにやってくれないか? ということで入ったのがきっかけですね。
--スタジオは青山ですか?
内沼:いやいや、築地です。で、一番最初にやった仕事が内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」ですよ。全然使い方もわからない頃にやったんです。
--ビクタースタジオって築地にあったんですか?
内沼:日刊スポーツの真ん前ですよ。いま郵便局になっているところですね。もう平屋の汚いスタジオでね。築地のスタジオを知ってる人はなかなかいないかもしれないね(笑)。あの頃は森 進一さんとか青江三奈さんとか、みんなあそこで録音していましたからね。
--まだその頃は会社からの給料と残業代だけだったんですか?
内沼:もちろんそうですよ。
--たまに大スターからお小遣いをもらったりとかは?
内沼:それはもうなかったですね(笑)。
--「長崎〜」の頃のビクタースタジオは何CHだったんですか?
内沼:6CHです。ビクターだけなんですけどね。昔のビクターのジャケット見ると「パーフェクト6」というロゴが入ってましたね。
--それはビクター製なんですか?
内沼:いやいや、アメリカ製。AMPEXの300TYPEの6CH。ですから、8CH、16chに移行する前ですよね。
--RCA所属のアーティストは全部手がけられたということですか?
内沼:そうですね。当然RCAのアーティストは全部やりました。クールファイブ、和田アキ子、藤圭子とか。
--自動車レーサーでいえば「ファクトリー・ドライバー」ですね。
内沼:昔は1作品にかける時間が今よりも短かったからね。
--その当時、ミキサーと呼ばれる人は何人ぐらいいて、何人で仕事を分け合っていたのですか?
内沼:数えたことないけど、そんなに多くなかったのじゃないかな。でも、今より制作は数段多かったからね。
--ちなみにビクターにはエンジニアは何人いたのですか?
内沼:出来るエンジニアは6人くらいですね。
--今その中で現役の方は、内沼さん以外にいらっしゃいますか?
内沼:しいていえば、梅津(達男)君・高田(英男)君くらいですかねぇ。
--では、同年代の方で今もポップ・ミュージックを手がけられている方は?
内沼:そう考えるといないですよね(笑)。
--40年間常に第一線で活躍されているというのはすごいですね。 この記録はどこまで更新され続けるかと・・・。
内沼:(笑)でも、僕の好きなエンジニアだけどブルース(・スウェーデン)っていうマイケル・ジャクソンをやっているアメリカのエンジニアは65才ですからね。
--まだ5、6年は軽いなという感じですか?
内沼:いや、そんなにはできないでしょう、おそらく。
--当時は無我夢中でやっていたという感じですか? それとも仕事が楽しくて仕方なかったという感じですか?
内沼:その両方ですね。テイチクでも色々な仕事が出来たんですけど、ビクターに入ってもっと色々なジャンルが出来るようになったので、それが今すごい財産になっていますよ。あの頃のビクターは洋楽がすごかったから、日本に外国人アーティストが来ると必ず録音していたのですよ。ジャズ、ラテン、クラシック系ほとんどやりましたね。結構いい作品も残っていますよ。
--それが出来たっていうのは、運がいいですよね。
内沼:本当に運がいいですよ。
--内沼さんがあと10年遅く生まれていたら・・・。
内沼:おそらく無理ですね。高校の先生の言う通り、大学の工学部に行っていたら・・・まあそれもわからないんですけどね。やっているかもしれないし。
--内沼さん以前のミキサーというのは、歌謡曲とか演歌とか放送局の録音技師みたいな人しかいなかったわけですよね? そういった人たちは音楽をミキシングによって表現するみたいなことを要求されていなかったのですか?
内沼:うーん、されてなかったですね。「エンジニア」とかそういう名前が付いたのは、ずっと後ですからね。だから最初は録音技師とか、地方へ行くとみんな電機係ですからね。地方の公会堂とかホールだと音声ではなくて電機係の人が片手間でやっているという状況がずっとありましたからね。
--レコード会社に録音部というのが出来ていて、録音技師さんがエンジニアになっていったわけですよね? 内沼さんはそのハシリと言うことになるんでしょうか?
内沼:まあ、僕なんかより大勢先輩がいらっしゃるわけですから。ハシリというか・・・。
--今いらっしゃる方で内沼さんの先輩というと、どなたになるのですか?
内沼:行(行方洋一)さん、コロムビアの岡田(則男)さんでしょ、あと元ポリドールの前欣さん(前田欣一郎)とか、テイチクの時にいた伊豫部(富治)さんとか、先輩は一杯いますよ。
--皆さん少し系統が違いますよね?
内沼:でも、ビクターの後半なんですけど、行さんが「レコード会社のタテはあるけど、ヨコがないじゃない」って言って、「月に1回でいいから集まろうよ」ということになって、月1回話し合っていたんですけどね。
--そこでヨコの繋がりが出来たんですね。
内沼:そうですね。
--それは何年頃の話ですか?
内沼:行さんが東芝の後期の頃だから、’75年頃かな? 一番良き時代じゃないかな。エンジニアというか録音技術や機材が一番上昇カーブを描いていた頃なので。だから、僕なんかタイミング良く生まれて、いい時代に過ごしているんですよ。
3. より自由な環境へ〜ミキサーズ・ラボ設立
--ミキサーズ・ラボ設立の経緯についてお話ししていただきたいのですが。
内沼:仕事についてはビクターに対して何の不満もなかったんです。ただ、33才くらいの時に管理職にされたんですよ。それで管理職として上と下の狭間にいるのが、本当に嫌で嫌でね。僕は管理されるのが嫌だったから、同僚というか、若いエンジニアを管理したくないんだけど、上はガンガン言ってくるし、こんなのやってられないなと思ってね。
--その管理というのは、「朝遅刻するな」とかそういうものですか?
内沼:そうそう。1から10まで。加えてビクターに入ってからアルバイトをやり始めたというのもあった。その時代に、筒美京平さんと知り合ったのもすごくラッキーだったんですね。京平さんの後半の作品は、結構やらせて頂いたんです。それはソニーとかビクター以外の仕事が多かったから、ビクターの仕事が終わって、ソニーの仕事に行っての毎日でしたね。
--それは「合法」だったのですか?
内沼:いやいや「違法」ですよ(笑)。始末書3回くらい書いたもの(笑)。一時は外の時間の方が多かったんじゃないかな。奥村さんは見て見ぬ振りをしていたと思うんですけど、結構表沙汰になっちゃってね。それで、当時の本部長の長野さんに始末書を持って行ったりしてね(笑)。
--それでもう独立しかないと。
内沼:管理職をやるのが嫌だっていうのもあったし、当時アメリカのエンジニアがレコード会社を離れて、フリーになっていく状況だったんですよ。日本は5年か10年遅れでだいたいアメリカと同じようなシステムになるから、「日本も絶対そうなるな」と思って、当時ヤマハにいて僕と同じような状況だった清水(邦彦)と「5年ぐらいもてばいいか」ということで作ったのがミキサーズ・ラボなんです。そしてちょうど日音がスタジオを作ろうとしていることもあって、「こりゃタイミングがいい」と思ってね。日音がバックボーンとなれば、まあ仕事の量的には問題ないだろうし。
--その時代はまだ日本でフリーのエンジニアはいなかったのですか?
内沼:フリーはいなかったですね。クラシック系だと若林駿介さんみたいな方はおられましたけど、本当にフリーという形ではなかったですね。
--ということは、内沼さんと清水さんが、フリーとして名乗りを上げた草分けっていうことになるんですか?
内沼:そうなりますね。
--ちなみに清水さんとはどこで出会われたのですか?
内沼:テイチクですよ。僕がテイチクを辞めたあとに清水が入ったんです。僕はテイチクを辞めたあとも仕事で結構行っていたのでそこで会って、それから一緒に旅行へ行ったりしていたんですよ。
--ミキサーズ・ラボを作ったときは人をたくさん雇うとかは考えていなかったのですか?
内沼:全然。
--管理職が嫌だというのと、自分たちが自由に色々な仕事がしたいという理由で作ったのがミキサーズ・ラボ?
内沼:そうです。
--で、どうしてこうなっちゃったんですか?(笑) 率直に言って管理職よりももっと面倒臭いことをやってしまったのではないか? と思うのですが・・・。
内沼:僕もそう思いますよ。サラリーマンの方が良かったかなって。
--そのほうがエンジニアとしては気が楽だったのかなと思うんですが?
内沼:1つの要素としてはね、ビクターにいたとき、スタジオ設計をやっている豊島(政実)さんとの出会いがありますね。豊島さんは飲むのが好きだから、その頃渋谷のキャバクラじゃない・・・アルサロで一緒に飲んだりしてね。
--アルバイト・サロン(笑)。
内沼:そうそう(笑)。で、豊島さんと親しくなって。豊島さんが日本で最初に手掛けたスタジオは・・・テイク・ワンじゃないかな? テイク・ワンとか、名古屋の方の大きな電機屋さんの立派なスタジオを作ったりしてて、それで、日音スタジオを作る時「これは豊島さんに頼まなきゃ」ということで頼んで。そこからですね、豊島さんと色々作るようになったのは。
--ざっとあげると?
内沼:まず、日音スタジオのA、B、C作って。Cがすごく評判よかったんです。豊島さんは豊島さんでタウンハウスのエンジニアが日本に来て、日音スタジオが気に入っちゃって、「これと同じものを作ってくれ」ということで、海外で最初に作ったのがタウンハウス。そこがまたロンドンで受けちゃって、ロンドンの有名なスタジオはほとんど豊島さんがやっちゃった。日本ではね、日音スタジオのあとにすぐ作ったのがサウンドバレー、小杉理宇造氏のスマイル・ガレージ、ウエストサイド、パラダイスの駒沢と渋谷、ON AIR麻布、ワーナースタジオを作って・・・そんなもんかな?
--つまり、ご自分たちで作ったスタジオには責任を持ってエンジニアやアシスタントを送らなくちゃいけないということですか?
内沼:そう。結局それから人数が必要になってしまったということですよね。「作ったら、ちゃんとしてくれますよね?」という要望があったのでね。
--「技術的な面倒を見てくれるんだよね?」ということですね。
内沼:そういうことですね。当然ラボとしてもスタジオを独自に作ったし。面白い話があって、またここで小杉理宇造が出てくるのだけど、彼がワーナーの会長をやっていた頃、ワーナーのスタジオを作って欲しいって依頼が僕と豊島さんにあってね。当時、六本木にワーナーのスタジオがあったんだけど、外観がなかなかでしてね(笑)。小杉さんが下見に行ったとき、入り口見た途端、「俺はもういいや」って言って、Uターンして帰っちゃったらしいのですよ。(笑)。
--六本木のあそこですか?
内沼:入り口がラーメン屋の(笑)。それを見て「いいよ、いいよ、俺はもう」って(笑)。ワーナーはかっこいいスタジオが欲しかったんだろうね。
--現在、ミキサーズ・ラボにエンジニアは何人いらっしゃるのですか?
内沼:54人くらいいるんじゃないかな。
--すごい人数ですね。内沼さんはミキサーズ・ラボの経営にはどの程度タッチされているのですか?
内沼:現場もやりながら、清水と二人三脚でなんとかやっていますよ。清水は主に総務経理関係の方をやってますね。
--清水さんが右腕としてそういうことをフォローしてくれていると。
内沼:そうですね。
--続いてディスク・ラボ創設のお話も伺いたいのですか。
内沼:ON AIRができた年だから…あの頃まだCDのマスタリングというのがレコード会社の編集室でやっていたような時代で、アメリカには独立したマスタリングのスタジオっていうのがすごく増えて、「日本もこうしないと駄目なんだな」と思って作ったのがディスク・ラボなんです。エンジニアもロスにいたボビー(・ハタ)を呼んで、ソニーから原田(光晴)さんを呼んで始めたんですけど、最初はすごくよかったんですよ。でもこれはウチの責任もあるんだけど、継続して力を入れていけなくて、他にも色々できてきて、仕事の取り合いになっちゃって、結局ON AIRの方に預けたんですよね。その後、ワーナーが録音部を廃止にしたいということで、それに伴い「ラボさんで全部受けてくれないか?」という要請があってね。あの頃はオーディオだけのマスタリングだったので、責任者の菊地(功)と話して「これからはDVDやっていこうよ」っていうんで、いち早くDVDにも取り組んだんですよ。それで、手狭な事もあり場所を代えようという話になって、無理して六本木から南青山の方に移ったんです。
--そこはオーサリングもやっているんですね。
内沼:やっています。それがなかったら結構今厳しいかもしれない。
--そこの名義はワーナーなんですか?
内沼:ラボの事業部の1つなんですが、ワーナーさんとの業務提携のなかで、契約条項にワーナーの名称を使用するというとなっているんですけどね。
--外部の仕事もなさっているのですか?
内沼:してますよ。今後、外部の仕事をどんどん取り込んでいきたいと思っているのですが。
--「e-Mastering」も業務提携されてますよね。
内沼:DDP(注)のワム・ネットというセキュリティのしっかりした単独のネットなんですけど、それがワーナーの洋楽はワム・ネットでやるようになっているんです。で、それを生かせることはないか? ということで「e-Mastering」に繋がったんです。
--「e-Mastering」とは、具体的にどのようになっているんですか?
内沼:スタジオで作ったものを海外に送って、マスタリングしたものをまた送り返してくるんです。
--専用回線でですか?
内沼:そう。でもその音の比較をこの前したんですけど、全然問題ないですよ。
--凄い時代ですね。
内沼:今のところ工場でそれがあるのはソニーだけなんですよ。だから、ワーナーのものでソニーの工場でプレスしているものは、洋楽の場合、向こうから送ってくるでしょ? それでワーナーで検聴し、DDPファイルを作って、そのままソニーに送って、ソニーはそのままプレス。
--物体移動がない!
内沼:そう。DVDも含めてその辺をこれから展開させていこうと思っています。
(注)DDP(ディスク ディスクリプション プロトコル)
光ディスクを製作する際に個々のエレメント(オーディオ、マルチメディア、ISRCおよびPQなど)がどのように組み込まれるかを正確に定義するための命令セット。
1996年にヴァージョンアップされたDDP2.0は、DVDマスターの標準配信フォーマットとなっている。
4.「内沼サウンド」の秘密〜筒美京平との出会い
--「どんなスタジオに行っても同じ音が出る」という伝説をお持ちの内沼さんですが、「内沼サウンド」はどのように生み出されていったのですか?
内沼:(笑)「内沼サウンド」というかね、やっぱり京平さんなんですよ。京平さんは機械の知識はないですけど、先進的なアレンジをしていたし、京平さんは洋楽を腐るほど聴いていましたよね。日本のポップミュージックと洋楽の融合が天才的にうまくて、「沼ちゃんこれ聴いた?」って持ってくるんですよ。それで「今度こういうサウンドを作りたいんだけど」、「このサウンドいいね」とか、試行錯誤しながらもだんだんとカタチが見えてきたんですよね。そのままソックリ真似ている事はないのですけど、研究というか探求する事が好きだったから独特な音って言われるのかなぁ。
--筒美京平さんとは年代的には同じですか?
内沼:京平さんが僕より5つ上です。
--お知り合いになったのは30代ですか?
内沼:もうビクターに入った時は仕事をし始めていたので、20代後半かな。
--アーティストでいうとどのあたりですか?
内沼:完璧にやり出したのは、ソニーの南沙織の全て、郷ひろみ「よろしく哀愁」まで全部。もちろんそれ以外にも単発で色々ありましたけど。
--まさに筒美京平さんの全盛時代ですね。
内沼:全盛。それだけじゃなくて大橋純子、庄野真代、近藤真彦とか、少年隊、まあいろいろよくやってましたよ。
--やはり筒美京平さんとの出会いが大きかったと。
内沼:大きいですね。出会う前まではサウンド作りというものに対して、あそこまで追求しなかったと思うんですよ。良い意味で言えば、昔の録音はそのまんま記録すればいい。だけど京平さんと知り合ってから、音を創らないといけないんだなと。音を創造していくということを京平さんには教わりましたね。
--筒美京平さんとウマがあったのは何か秘訣があったんですか?
内沼:いやー、なんとなくでしょうね。最初に京平さんとやったテープを京平さんが行方さんのところに持っていったんですよ、「このエンジニアどう?」って。そしたら行さんが絶賛してくれたんです。京平さんはエンジニア同士を競い合わせるのがうまかったですね。
--その当時内沼さんが自信があった部分というのはどういったところですか? 例えば「早さ」とか?
内沼:テイチクの時は同録が多く、早くまとめようというのは、その時鍛えられたんだろうけど。
--音自体に対してはどうですか?
内沼:よくわからないなぁ(笑)。丁度エンジニア始めた頃、レコードはよく聴いていたんですよ。「これ、格好いいね」とかね、ヒントになりそうなものがあったら聴きまくっちゃうんですよ。そうすると結構頭の中にインプットされていて、それっぽいアレンジされたものだと、「あれやってみようかな?」と。そうするとまた受けてしまうというね。
--別に音を作る上で苦労はしていないということですね?(笑)
内沼:苦労はしているんですけどね(笑)。どう言ったらいいのかな・・・仮に格好いいサウンドがあったとするでしょう? そうすると「どうやって作ったか?」ということが分かるようになってきたのかなぁ。「こうすれば絶対こうなるよ」っていう。それがだんだん分かってきた。
--分かる前というのは試行錯誤されていたんですね?
内沼:そう、試行錯誤ですよ。で、だんだん分かるようになってきた。
--でも、ずっと分からない人も一杯いるわけですよね?(笑)なんだか長嶋茂雄の話を聞いているみたいになってきましたね(笑)。スタジオの中ではありとあらゆることをやってきたんですか?
内沼:そりゃもう。ビクター時代はね、仕事が終わると今ラボにいる梅津君と「何かやろうか」ってマルチを引っ張り出して、朝までやったりとかしてましたよ、よく。
--仕事で忙しい上に・・・好きなんですねー(笑)。
内沼:ねえ(笑)。
--新しもの好きですか?
内沼:新しもの好きなんですよ(笑)。だから、角松(敏生)さんなんかとやり始めた時も、彼も結構新しもの好きだから、そのへんでウマがあって20年も一緒にやっているんですけどね。
--内沼さんは早い時期からリミックスも手掛けられていますよね?
内沼:リミックスは結構好きでね。早かったと思いますよ。リミックスはね、角松関係でマイケル・ブロアーというエンジニアを日本に呼んだんですよ。それで、「東京タワー」という曲のテープを刻んでリミックスをするというのを実際に見て。それがとんでもないセンセーショナルだったんです。「リミックスってこうやるんだ」ってね。それからリミックスは角松さんと数多くやりましたよ。
--その作品は持ってますよ(笑)。当時「格好いいなー」って聴いてました。
内沼:当時としては格好よかったよね、あのリミックスは。
5. いい音=感動させる音
--これは内沼さんじゃないと聞けないことだと思うんですが、「いい音」とはどういう音だと考えていますか?
内沼:簡単に言ってしまえば「感動する音」ですよ。その「いい音」が物理的なのかどうかというのは、ちょっと不明確でしょ? だけど人を感動させるものがあれば、それは「いい音」なんですよ。
--とても明解ですね。
内沼:そう。僕はいつもそう思っています。
--録音によって音楽を1にも出来るし、100にも出来るということは、比重はものすごく大きいですよね。
内沼:大きいと思いますよ。演奏して、アレンジして、歌ってそれをまとめるわけで、特に歌なんか気を遣うんだけど、「本物の歌よりも良く聴かせてあげたい」という思いが強いですね。
--聴かせ方で全然違ってきますよね。
内沼:違いますね。今ProToolsでピッチを直したりするのも、確かに良くさせる方法ではあるんだけど、そうじゃなくて音として訴えるものを出してあげる。曲によってやり方は変わってくると思うんだけど、そこを考えてあげればエンド・ユーザーは「感動する音」として捉えてくれるんじゃないかな? もちろん楽曲の善し悪しもあるんだけど。
--ミックスだけ依頼されることはあるんですか?
内沼:後半はその方が多いですね。
--ミックスする音源を最初に立ち上げたとき、内沼さんはまず何を中心に聴くのですか?
内沼:僕の場合はね、まずラフ・ミックスを送ってもらうんですよ。それを聴いてポイントを絞っちゃうんです。
--「僕は必ず歌からだ」といったような感じではないわけですか?
内沼:そういうわけではないですね。それは曲によって違う。最初に曲を聴いたときのイメージ。
--本当に面白い仕事ですよね(笑)
内沼:いや、入り込むとやめられない(笑)。
--70〜80年代にライバルと思われていたエンジニアは誰かいらっしゃいますか?
内沼:それは一杯居ますよ。70年代だと行方さんなんかもそうだし。行方さんに結構あこがれた時もあるんですよ。テイチクに入ったときに行方さんがたまに来ていて、「この人すごいな」と思って、「この人みたいになりたい!」と思ってやっていましたね。ビクター時代ではやはり梅津君かな。
--では、若手の中に「こいつはすごいな」と思われる方はいますか?
内沼:ラボの人間になってしまいますけど三浦(瑞生)とか、手塚(雅夫)なんていうのは「いいな」って思います。また我々とは全然違ってね。
--エンジニアも年代によって変わってきているとお感じですか?
内沼:「若い人って誰がいる?」って考えてみると、若い人って20代後半とかなんだけど、やっている人はいるんだけど、意外といないんですよね。「あいつまだ若手だよね」っていう人が、30代半ば〜後半とかね。「エンジニア全体の年齢が上がってるだけだ」と言った人がいたけど、確かにそうだよね。我々が早く辞めちゃえばいいんだけど(笑)、10年前も今も図式は変わっていないのかもね。ということは若手が出てきていないって事か・・・。
--あるいは上の世代が強力すぎてなかなか追い抜けない?
内沼:あと制作本数も少なくなっているというのもあるのかなぁ。今、エンジニアになりたいと望んでくる人は少なくなっているんですよ。この仕事って魅力なく見えてしまっているのかな? とすごく感じるんです。まあ、他にやりたいことが増えているんだろうけど、若いエンジニアを育てていかないといけないと思っているんです。だから、「どうしたらいいのかな?」と言う事から、ミキサー協会というのを立ち上げて。金銭的に良くなればいいというだけではないと思うんですけど、ある部分では金銭的なものも必要だと思います、隣接権とかを取得できるようなことを考えたり。若い人が少しでも魅力を感じる職業になってもらえたらと思うのですけどね。
--内沼さんが隣接権を全部持っていたら、どのくらい稼ぐんでしょうね(笑)。
内沼:昔だったら別だけど、今はね(笑)。我々じゃなくて、若い人がエンジニアリングしたものに対しては必要だなと思いますね。
--エンジニアを目指す人にとって一番重要なポイントとはなんですか?
内沼:もちろん技術的なものも大事と思うのですけど、技術的なものは入ってからでも、覚えられるわけですよね。だから一番大事なことっていうのは、コミュニケーションを取れることですね。この業界、とくにスタジオはサービス業なので、クライアントとコミュニケーションが取れる人じゃないといけない。クライアントに「もうあいつ付けるの止めてよ」って言われるんじゃなくて、「あいつをまた付けてね」っていうような人。技術的なものは無論付随するんだけど、基本的には人付き合いです。
--技術的なことはそのあと勉強しなさいということですね。
内沼:そうそう。
6. 好きだから苦にならなかった40年
--内沼さんは、今まで延べ何時間スタジオにいらっしゃったんですかね?
内沼:何時間だろうねえ(笑)。僕はテイチクで残業時間の記録を作ったんですよ。あの頃月-土で月180時間が通常勤務時間なんだけど、僕の記録が残業だけで月283時間かな?
--えっ! 残業だけで283時間ということはそれプラス180時間ということですよね? ということは460時間くらいスタジオ・・・。
内沼:そう、ほとんどスタジオですよ(笑)。
--1ヶ月720時間ですから、寝てるかスタジオかという感じですね。
内沼:終わってスタジオでちょっと仮眠して、また10時から始めて。
--内沼さんはその生活を19才くらいから、今まで40年間ずっと続けられているわけですよね? 不規則な時間に働いて、不規則な時間に食事して、周りは煙草を吸っていて、音は大きくて、体にいいこと1つもないですよ(笑)。それを40年。
内沼:好きだったんだろうね。全然苦にならなかったから。
--最近ミキサーの中でも、自律神経失調症になったりとかしている人が多いじゃないですか? 内沼さんは40年間何もなしですか?
内沼:10年くらい前に、自律神経やりましたよ。ロンドンのヒースロー空港でひっくり返っちゃってね(笑)。「どうなっちゃうんだろう」と思って、病院に行ったら自律神経じゃないかって薬もらって飲んだら治っちゃった。
--嫌になったことはなかったんですか?
内沼:仕事ではありましたよ。ビクターに入ってからかな? ドラムの石川晶さんのグループを毎日の如くやっていたんですけど、最初の頃、結構石川さんにいじめられたんですよ。その時、エンジニアとして悩んじゃってね。「駄目なんじゃないかな?」と思った時代もありました。
--いじめるというのは?
内沼:単純に「俺の音じゃないよ」とか言われたりね。でも、その後は石川さんと仲良くなっちゃって、後半は和気あいあいとやっていたんですけどね。
--スタジオ以外の場所では、どこに多くいらっしゃったんですか?
内沼:飲み屋(笑)。飲み屋は結構すごいな。
--あまりストレスを溜めない性格なんですかね?
内沼:酒飲んで、馬鹿話して、それで終わっているかも知れないですね。だから、ストレスを溜めることはしないんですね。清水は全然飲めないでしょ? だから結構ストレスが溜まるじゃないかな。僕はそこら辺で飲んで、ワーッと発散しちゃって終わっちゃうから。
--自分としては完璧なミックスなのに、オーダーで変えざるを得ないみたいな状況でのストレスというのはありますか?
内沼:あー、それはあるかもしれませんね。
--自分の意見とお客さんの意見がぶつかったとき、内沼さんはどのように対処するのですか?
内沼:昔は結構仏頂面していたかもしれないけど、最近は大人になって、意見を聞きますよ(笑)。
--折れてあげる?
内沼:折れるというか、相手が言っていることを理解してあげるっていう風に変わったね。
--それはテクニックで説得できるものなんですか?
内沼:できますよ(笑)。
--「こいつトンチンカンなこと言ってるな」というときもあるわけですよね?
内沼:あります。でも、やっていると相手の癖が分かるんですよね。何をしておけば喜ぶかとか。なので、あくまでも影響のないところでやってあげていますけどね。
--つまり、いかなる状況でも自分のペースで自分の音を作っているということですね。
内沼:そういうことですね(笑)。平(哲夫)さんとSPEEDやMAXをまたやるようになって、昔は荻野目洋子とかやっていた時から平さんの癖は分かっているから、平さんのチェックで僕のミックスが引っ掛かったことないですよ。すぐOKを出してくれる。
--プロ中のプロですね。それにしてもSPEEDとやっているのはすごいですよ。へたすれば孫ですよ(笑)。
内沼:ですよね(笑)。孫か(笑)。
--ここで少しプライベートなことをお伺いしたいのですが、ご趣味は何ですか?
内沼:趣味はね、さっきも言ったように鉄道模型。
--未だにやっていらっしゃるのですか?
内沼:やってる。
--広い部屋を潰したりとかしているんですか?(笑)
内沼:それに近いかもしれない(笑)。でもね、意外と(鉄道模型が好きな人が)多いんでね。丁度ね、今4代目のレイアウトを作っているんですよ。といったって9�ゲージだから結構長い編成もできるんだけどね。本当はHOゲージをやりたいんだけど、これはもう6畳1間じゃとても足りないからね。今作っているのは1m×2m40か。
--作るというのは細かい線路とかを買ってきて、1つずつ作るんですか?
内沼:そうそう。その線路のプランニングしているのがすごく楽しいんですよ(笑)。
--それは小さいときからずっとやられているんですか?
内沼:いやいや、小さいときはお金がないからできない。
--結構高いんですか?
内沼:高いですよ。HOゲージなんかやったら、お金がいくらあっても足りない。HOゲージで機関車一両買うとしたらだいたい20万くらいするもの。9�ゲージは1万円くらいですけどね。
--いつかはHOゲージに挑戦したいと。
内沼:HOも買えるときに少しずつ買っているんですけど、場所がなくて広げられない(笑)。
--会社のどこかを潰して展示するとか(笑)。
内沼:屋上に何か作ろうかな?と思ったこともありますけど。
--お子さんはいらっしゃいますか?
内沼:娘が1人います。
--確か内沼さんの娘さんも、エンジニアをなさっているんでしたっけ?
内沼:それは吉田保ですよ(笑)。3年前までかな? 娘がワーナー・スタジオの営業をやっていてそのときに吉田保の娘と一緒だったんです。
--内沼さんは家ではどんなお父さんなんですか?
内沼:どうなんですかね。娘が大学に入るくらいまでは、ほとんど顔も見ないくらいでしたね。だって僕が家に帰ってくる時は当然寝ているでしょ? 起きたときは学校へ行っているの繰り返しだから、ほとんど会話がなかったね。悪いことしたなぁとは思うんだけどね。
7. 大人が楽しめるような生演奏の音楽を!
--現在の現場は、ProToolsの登場以後すごく変わったと思うのですが、ProToolsによる功罪についてどのようなご意見をお持ちですか?
内沼:僕はProToolsに関しては何の拒否反応もないんです。逆にすごく便利だなって思っている方なんですよ。ただ1つね、ProToolsの中でミックスをしてしまうのが、僕は駄目なんです。まず音的に平べったいというのかな、全部、前に並んじゃっていて、奥行きがないのが駄目なんです。ProToolsでやるとどうしてもそういう風になってしまって。当然レコーダーとして、エディットその他ProToolsで行って、コンソールに立ち上げて新たにミックスするっていうのだったら一番OKです。だからヨンパチ代わりというか、まあヨンパチよりもっと機能的だしね。
--ProToolsで全部やったものは聴いて一発で分かりますか?
内沼:だいたい分かりますよ。まずベタッとしている。
--それがProToolsという機械の限界ですか?
内沼:そうだと思うね。だから、レコーダーとして使う分には絶対良いと思うんだけどね。
--でも、ProToolsでミックスしたベタッとした音が、間違って世の中のメインになってしまったら危険ですよね?
内沼:そうそう。今の若いリスナーは、そのベタッとしたものがいい音だと思っていると思うんです。将来を考えるとゾッとしますね。
--反面、DVDオーディオやSACDのような新しい媒体も出てきていますよね?
内沼:僕はもうCDは終わらせた方がいいと思うんですよ。今CD売れていないでしょ? 僕は2つ要因があると思うんです。1つは30代・40代・50代の人が買うものがメインとして売っていない。あと、再販制度ですよ。これはなくした方がいいと思う。自民党なんか「文化のものに値段を付けるのは」どうのこうのって言っているけど、おかしいよね。逆輸入CDが駄目だって言っているでしょ? でも逆輸入CDと同じ値段でも(国内盤を)出せると思うの。仮に2500円か3000円で売っているCDを1500円で売ったとするでしょ? それを倍売れば同じなわけだから。で、1500円だったらコピーをしないで買ってくれる可能性があるんですよ。
--でも、そうなる前に音楽配信といった流れになるのでは?
内沼:そう思うんだけどね。選択は一杯あっていいと思うんです。音楽配信で聴く人はそれでもいい。だけど、もっといい音で聴きたかったらパッケージも買ってくれと。それが何千円ではなくて1500円で買えればということです。
--パッケージを買うのは、音楽配信よりもずっと音が良いとか、何かがないと買わないですよね。
内沼:そうなんです。あと付加価値でジャケットとかが入っていれば、「じゃあコピーじゃなくて1500円出して買おう」という人が増えると思うんだけどね。
--では、コピーコントロールCDに対しては反対ですか?
内沼:うん。反対ですね。
--となると次のメディアは何がいいとお考えですか?
内沼:それは、やはりDVDですよ。DVD-AUDIOのいいところは、DVD-VIDEOの圧縮した音源も平行して入っているんです。だからプレイヤーによってどっちでも選択できるので、そこがいいなと思うんです。DVD-AUDIOっていうとみんなマルチCHと思うんだけど、2CHでもいいわけで、そうなるとハイスペックなリニアPCMで入るわけだから、音はCDなんかより数段いい。しかも、DVDのコピーコントロールは完璧にできている。あんなに無理をしてCDにコピーガードを付けるなんてね。
--5.1CHになることはないですかね?
内沼:DVD-VIDEOのプレイヤーはすごい台数出てるでしょう? 意外と5.1CHのシステムって売れているんですよ。だから、音楽としても5.1CHとしてやってもらいたいね。僕サラウンドって大好きだからね(笑)。だから、サウンドトラックやるの非常に好きなんですよ。
--最後にレコーディング・スタジオの経営者としてお伺いしたいのですが、今後レコーディング・スタジオはどうなるのでしょうか?(笑)
内沼:1つ言えるのはね、今の低年齢をターゲットにした音楽じゃなくて、大人が楽しめるような音楽っていうのは、打ち込みから生演奏に移行しないとできないと思うんです。そうなるとスタジオが必要になってくる。今の音楽を作るのにスタジオいらないんだもん。自宅でできちゃうしね。生演奏を収録して、それなりの音楽を作らないと、レコード会社もちょっとまずいんじゃないかな? と僕は思いますね。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
今回のインタビューで一番印象的だったのは「好きだから苦にならなかった」という内沼さんの言葉と、ハツラツとした笑顔でした。内沼さんの輝かしい経歴は、むろん類いまれな才能の賜物だと思いますが、日々の研鑽と若き日からの音に対する変わらぬ情熱があるからこそ築きあげられたのだと強く感じました。技術革新が進む音楽業界で、内沼さんの経験と技術に裏打ちされた発言は、今後さらに重みを増していくのではないかと思います。
さて、内沼さんにご紹介いただいたのは、アビーロード・スタジオをはじめ世界中のスタジオを数多く手がけられたスタジオ設計の第一人者 豊島政実さんです。お楽しみに!