第42回 豊島政実 氏 四日市大学 環境情報学部 メディア・コミュニケーション学科教授/音響設計家
四日市大学 環境情報学部 メディア・コミュニケーション学科教授/音響設計家
今回の「Musicman’sリレー」は、内沼映二氏からのご紹介で、国内外問わず数多くの有名スタジオを手がけられた四日市大学 環境情報学部 メディア・コミュニケーション学科教授 / 音響設計家 豊島政実氏のご登場です。手がけたスタジオ数は4大陸でのべ250室以上! 有名ミュージシャンのプライベート・スタジオや、あのアビーロード・スタジオの改修においてはその全てを設計された豊島氏。いかにして「豊島政実」は「世界のSAM TOYOSHIMA」になったのか? その鍵は内沼映二氏と共に手がけた日音スタジオにありました。
[2004年4月19日/港区元麻布(株)マグネットにて]
プロフィール
豊島政実(とよしま・まさみ)四日市大学 環境情報学部 メディア・コミュニケーション学科教授/音響設計家
1939年 3月15日生
1964年 3月 早稲田大学大学院 理工学研究科 音響工学専攻 修士課程修了
1964年 4月 日本ビクター(株) 入社
1971年 4月 同社 音響技術研究所 技師
1977年 4月 同研究所 音響設計事務所 所長
1999年 3月 同社 定年退職
2000年 11月 豊島総合研究所 設立
2001年 4月 四日市大学 環境情報学部 教授
<作品(スタジオ設計)リスト>(抜粋)
●日本…ビクタースタジオ、ワーナーミュージックスタジオ、ウェストサイドスタジオ、パラダイススタジオ、オンエア麻布スタジオ、テイチクスタジオ&マスタリング
●英国…アビーロードスタジオ、タウンハウススタジオ、オリンピックスタジオ、メトロポリススタジオ、サームウェスト
●アメリカ…JCCカッティングルーム、ルーカスフィルムスコアリングスタジオブース
●その他…イタリア、ドイツ、スペイン、スロベニア、ロシア、インド、オーストラリア、香港、台湾、韓国、中国、シンガポール、インドネシア、マレーシア、トリニダード・トバゴ
●プライベートスタジオ:フィル・コリンズ、スティング、ジョージ・マイケル、エンヤ、トレヴァー・ホーン、橋 幸夫、西郷輝彦、織田哲郎、林 哲司 他
<豊島総合研究所>
〒166-0004 東京都杉並区阿佐谷南1-7-10
E-mail:sam-toyoshima@jcom.home.ne.jp
- 「どうやったらいい音にできるか?」を考え続けた学生時代
- アメリカ視察の衝撃〜ADO設立
- 海を越えた日音スタジオ
- 世界を駆ける「SAM TOYOSHIMA」
- アビーロードの16年〜アビーロード改修秘話
- ポリシーがないのが、ポリシー
- 若者よ、もっと生音を聞け!
1.「どうやったらいい音にできるか?」を考え続けた学生時代
−−まず、前回の内沼映二さんとの出会いはいつ頃だったのですか?
豊島:内沼さんがテイチクからビクターのスタジオに移ってきた頃からの付き合いですから、もう30年くらいになります。当時ビクターは「CD4」という独立して4chが入るLPレコードを開発、発売していまして、そのソフト制作責任者が彼だったんです。彼は当時からサラウンドにもの凄く興味を持っていて、「CD4」用のかなりいい音源を作っていたし、作業のスピードもものすごく速かったですね。開発責任者の井上専務も「アイツは凄い」って舌を巻いていました。私はその当時、研究所(日本ビクター音響技術研究所)にいたんですけど、スタジオへ打ち合わせに行くうちに彼と知り合いになりました。それから内沼さんは、RCAに行ったんですよね。RCAというのはビクターから分離独立した会社だったんですが、そこで売れ筋の西城秀樹、クール・ファイブ(前川 清)、和田アキ子、桑名正博、藤 圭子、近藤真彦といった皆さんのレコーディングをやってましたね。
−−内沼さんはRCA所属のアーティスト全てを手がけられたそうですからね。
豊島:その頃、彼は日音の小栗(俊雄)さん(ソイツァーミュージック(現ブルーワンミュージック)前取締役会長)と組んで仕事をしていたのですが、日音がスタジオを作って、内沼さんが運営をするという計画があって、その話が私のところにきたわけです。
−−それはいつ頃の話ですか?
豊島:日音スタジオ(現 タワーサイドスタジオ)は今から25年くらい前かな? 内沼さんはその前に、独立してミキサーズ・ラボという会社を作って、それとほぼ同時にスタジオを計画したんですね。ですから彼が独立して1年から2年くらいで、スタジオはできたんじゃないかなと思います。意外と早かったですよ。
−−その時に組んだのが、豊島さんであったということですね。
豊島:それまではビクター社内での仕事ですから、業務上のお付き合いみたいなところもありましたが、彼が独立して「豊島さん、頼むよ」と話が来たこのときから、本格的な付き合いが始まりましたね。
−−その頃の内沼さんとの面白いエピソードはありますか?
豊島:そのころ内沼さん、小栗さんとは毎晩原宿の結城(料理番組「夕食バンザイ」の結城貢さんの店)で飲んだくれていましたから、いろいろありますが、言えないことが多いですからね(笑)。「今だから言える」と言えるようになるには、あと5年くらいかかります(笑)。テープを止めれば言えますけど(笑)。
−−(笑) やはり内沼さんは当時から秀でていたのですか?
豊島:そうですね。内沼さんがビクターにいた当時の話なんですけど、その頃、制作の数に対してエンジニアの数が足りなかったので、職内(注:社外でのアルバイトのこと)がはやっていたんです。一応ビクターは大手のレコード会社ですから、もちろん職内は禁止です。この話はまずいかな?
−−いや、それは前回のインタビューで内沼さんから伺いました。始末書を何度も書いたとか。
豊島:朝礼の話は聞きましたか?
−−いや、伺ってません。
豊島:内沼さんは始末書を何度も書いているんだけど、それを怒らないでどんどん外で勉強しなさいと黙認した奥村部長は偉かったですね。それで、内沼さんは懲りずに長谷川某と名前を変えて職内をしていたんですが、ある日の朝礼ですぐ上の主任が、内沼さんが職内で手がけたアルバムを手に、「みんなもこれぐらいの音を作るように努力しなきゃ駄目じゃないか!」って叱咤激励したらしいんですよ(笑)。
−−(爆笑)。
豊島:「長谷川君くらいいい音を作りなさい!」と、内沼さん達に向かって言ったらしいんです(笑)。
−−内沼さんはなんて応えたんでしょうかね?
豊島:「いい音してますね、その人は」とか言ったんじゃないかな?(笑)
−−内沼さんが関係しているスタジオはほとんど豊島さんですよね?
豊島:私のところに依頼が来て、内沼さんに運営を任せるというのもありますし、その逆もありますし、そういう意味では非常に上手く回っていますね。
−−そう考えると名パートナーですよね。
豊島:そうですね。日音スタジオがなければ、その後はなかったかもしれませんからね。
−−やはり日音スタジオが大きかったと。
豊島:大きかったです。内沼さんに足を向けて寝られないです。お尻は向けているんですけど(笑)。
−−ところで、ご出身はどちらですか?
豊島:東京の杉並です。
−−今も昔もずっと杉並にお住まいなんですね。
豊島:そうです。
−−どんなお子さんだったんですか?
豊島:かなりのいたずら坊主でしたが、子供の頃から物理みたいなものや、鉱石ラジオ、蓄音機とかが好きでしたね。ちょうど、蓄音機は家にありましたし、鉱石ラジオを教えてくれる叔父さんもいたりして、小学校で鉱石ラジオを作って、昔はレシーバーって言ってたんですが、ヘッドホンを耳に付けて放送を聞いていました。今考えるとそれは韓国の放送ですね。あと、中国の放送もバンバン聞けました。
−−それは短波ですか?
豊島:中波ですね。そういう放送を聞いて色々空想していたのが、今の仕事をしている1つの要因じゃないですかね。基本的には音が好きだったんです。私が中学生の頃は「ハイファイ」という言葉が出始めた時期で、どうしたら生の音に近い音を出せるかという事を考えていました。
−−楽器を弾いたりはなさらなかったのですか?
豊島:楽器は、高校3年から大学1、2年までクラリネットをやっていました。ブラスバンドではなくて、有馬徹とノーチェ・クバーナのジュニアバンドでルナ・クバーナというバンドがあって、そこの小幡さんというバンマスにクラリネットを習っていたんです。子供の頃からラテンやタンゴ、ジャズといった音楽には興味がありましたね。
−−当時はラテンもポピュラーな音楽でしたね。
豊島:今はマニアックな音楽ですが、当時はそういうものも普通に聞いていましたから。
−−昔の方が文化的度量が広かったんでしょうかね。
豊島:音楽の幅が広かったですよね。今はロックだったらロック、J-POPならJ-POPと括られてしまいますから。私はクラシックからジャズ、ラテンでしょ、ハワイアンも好きだったしね。クラシックはよくコンサートを聞きに行きましたね。
−−お住まいが東京ですし、そういう環境にも恵まれていらっしゃったわけですね。
豊島:そうですね。当時は日比谷公会堂しかなかったんですけど、誰かが言っていたのですが、ラジオで聞いた方が音がいいんですよ。昔の日比谷公会堂はかなり響くホールでしたから、後ろの方で聞くと音がモコモコするんです。そういった経験から、レコードでいい音を出そうと思ったのかもしれません。
−−その後、早稲田大学理工学研究科に進まれるわけですが、最初からそこを目指していられたんですか?
豊島:そうです。先ほども言いましたが、スピーカの音をどうやったらいい音になるか? ということを考えていて、色々なアンプを作ったり、スピーカーをいじったりしていたんです。その頃、松下電器の「8PW1」という日本の歴史に残るいいスピーカーが出て、それで聞いていたんですが、やはり部屋が良くないといい音が出ないということに気がついて、大学に行くのならそういうことをやろうかなと思ったんです。
−−その「8PW1」というスピーカーはご自分でお持ちだったんですか?
豊島:ええ。でも安いんですよ。当時で3千円か4千円、今で言うと2、3万じゃないですかね。アマチュアのオーディオ好きが買えるようなユニットスピーカーの値段だったんです。そのへんで松下は良心的でしたね。今、松下は音響とかハイファイの方ではイニチアシブを取っていませんが、当時の松下電器のハイファイ部門はかなりレベルが高かったんです。
−−オーディオはすでに追求されていたんですね。
豊島:追求と言うとかっこいいですが、自分で追求しているとは特に思わなかったです。好きでやっているわけですから。
−−「もっといい音が出ないかな?」という感じですか。
豊島:そうですね。スピーカーユニットを取り替えたり、真空管アンプを作ったりしてね。それで、勉強するなら音を扱っているところに行こうと思ったんです。その当時、早稲田に伊藤毅先生といって、日本のオーディオ業界を引っ張ってきた人がいましてね。ISOのスピーカーの国際規格を、日本のスピーカーに有利なように持っていった先生なんです。ただその頃は詳しいことを知らなくて、名前だけしか知らないような状態で、伊藤先生のところに入りました。そこで勉強したのは電気なんです。弱電なんですね。でも、弱電だけでは部屋のことはわからないから、大学院で建築音響といって、建築と音響の狭間の学問を専攻したわけです。
−−その頃すでにスタジオやホールの設計をする仕事に就こうと。
豊島:いや、仕事のことは何も考えてなかったですね。就職も先生が「ビクターに欠員が出たから、お前行って来い」とおっしゃって、「行って『来い』ってことだから、戻って『来い』ということかな?」と思ってね(笑)。
−−就職するという考えではなくて、いずれ戻るのだろうという感じで行かれたのですね?(笑)
豊島:そうです(笑)。「研究室に戻ってこい」という話かなと思っていましたが、もう既に数十年たって研究室も無くなり、先生は数年前亡くなられました。
−−その研究室時代の同志というのはかなりおられるんですか?
豊島:いますよ。早稲田音響研究室の出身で、今でも業界・学会を牛耳っている人たちはかなりいますね。オーディオ・メーカーとかね。私の年代以上の方々はもうリタイヤしていますけど、後輩もいますから大学や学会、ソニー、松下、パイオニア、ビクターそういったところで活躍しています。今の日本音響学会会長の山崎早大教授も出身者です。
−−「音響工学」というのは当時、他の大学にはなかった学科なんですか?
豊島:いや、そんなことはありませんよ。東北大学、東大、東工大、神戸大学、名大、阪大、武蔵工大、などけっこうありました。伊藤先生は「こういう学問なんだから、東京でやらなきゃ駄目なんだよ」って言っていましたが、確かに当時は今と違って、東京にいち早く情報が入ってきましたからね。先生は他の大学にウマのあわない先生がいて(笑)、学会ではしょっちゅう議論していました。我々にはケンカとしか映りませんでしたけどね(笑)。
2.アメリカ視察の衝撃〜ADO設立
−−豊島さんが日本ビクターに入社されたときは、「日本ビクター音響技術研究所」というのはすでにあったのですか?
豊島:音響技術研究所は私が入ってからできたので、当初はその母体の「開発部」というところに所属していたんです。そこにたまたまいらしたのが、重役の富田義男さんという元ソニーの中島平太郎((社)日本オーディオ協会前会長、現 CDs21ソリューションズ会長)さんがNHKにいらした頃に音響部の次長だった方で、その富田さんと伊藤先生が仲が良くて、どうやらその口利きがあったらしいんですね。その富田さんは三菱ダイヤトーンの放送用モニタの16センチスピーカーを開発した有名な先生なんですが、あまりにも厳格で口うるさいんでNHKのOBの人たちからは敬遠されていました(笑)。私はその方の鞄持ちを15年くらいやったのですが、NHKの人たちから「表彰状をやる」って言われましたよ(笑)。
−−15年もやったのですか?
豊島:15年やりました(笑)。
−−それはウマがあったということですか?
豊島:富田さんは学問的に厳格で筋の通らない事に関してうるさい先生なんです。ですから、ウマが合うというよりも、話のお付き合いが出来たということですね。「爺様をおとなしくさせるのは、お前しかいないから」と私がその役に回されて、富田先生のお話聞き役といいますか、今で言う「爺殺し」ですかね(笑)。NHK出身の偉い方々は、富田さんとまともにやり合ってしまって、大議論、大喧嘩になっちゃうんです。私はそこをさっと避けて…(笑)。
−−その富田先生は今もご健在なのですか?
豊島:いや、残念ながら亡くなられました。
−−そこでは録音機器の研究と建築音響の研究の両方ともされていたんですか?
豊島:そうですね。ビクターに入って3年程してビクタースタジオが築地から青山に移って、新築されるという準備段階に入ったんです。私はビクターに25歳の時に入ったんですけど、28歳の時に当時としては非常に珍しいんですけど、「スタジオ視察にアメリカへ行ってこい」ということで、アメリカへ行って、当時のスタジオをあちこち見て回わりました。私は電気もやっていたし、建築音響もわかるということで、それで選ばれたんでしょうけど、運が良かったなと思います。昭和43年頃ですから羽田からハワイ経由で行くんですが、会社の人たちが課全員で見送りに来て「バンザイ」をやるわけです(笑)。1ドル360円の時代ですね。
−−それは新鮮な体験でしたでしょうね。
豊島:もう、カルチャーショックですね。
−−アメリカのどの辺をご覧になったのですか?
豊島:ニューヨーク、シカゴ、ロサンジェルスです。見学したのはシカゴのモータウン以外は全部RCAのスタジオでした。
−−日本のスタジオ状況とは大きな違いがあったんですか?
豊島:違いましたね。今でこそ日本のスタジオは世界的なレベルになりましたけど、当時は「どうしたらこういうスタジオができるのかな?」というくらい立派なスタジオでした。調整卓については、すでにその頃からモジュールという発想があって、チャンネルを1つ1つ独立して作ろうとしていましたからね。確か、RCAは試作機を作っていたと思います。本当にあれはカルチャーショックでした。今でも憶えていますが、RCAの中に日本人の顔の男性がいて、私も英語がろくに喋れない頃ですから、日本語で色々話しかけたけど、全然通じない。よく聞けば、その人は韓国系アメリカ人(笑)。そもそもそういう人種がいるという発想すらなかったですね。
−−お一人で行かれたのですか?
豊島:一人で、3週間くらい行ってました。
−−そのアメリカ視察は豊島さんの中で決定的な出来事だったんですか?
豊島:決定的でしたね。
−−帰国されてからは?
豊島:帰国して、ビクター青山スタジオの建設のお手伝いです。スタジオは鹿島建設が建築したんですが、一回注文を出してしまうと、これはできない、あれはできない、それをやるともっとお金がかかるといった具合に、作る方が強いですよね。向こうも専門家、こっちも専門家、そこにお金が絡む状況で、どうやったらこっちが思った通りにやってもらえるのかという、かなり高度なやりとりを通じて、スタジオを作るときのノウハウを学びました。
−−その時のビクター側の責任者は豊島さんだったのですか?
豊島:いやいや、責任者は取締役や部長で、藤本(正煕)さん(現 日本オーディオ協会理事、元 日本ビクター常務)が技師のときで、私はその下でした。藤本さんには大学では教えてくれない酒の飲み方から現業の音響についてまで随分教えてもらいましたよ。
−−豊島さんが最初にスタジオ設計の現場に居合わせたのがビクター青山スタジオということですか?
豊島:そうです。その前は築地にスタジオがあったんですよ。
−−今の日刊スポーツのあたりにあったとか。
豊島:そうそう、あの前です。そこにAMPEXのテープレコーダーの修理とかで、行ったり来たりしていましたからスタジオそのものは知っていましたけど、実際に図面を見たり書いたりして作るのに関わった最初が、ビクター青山スタジオです。
−−ビクター青山スタジオ建築時のエピソードは何かありますか?
豊島:その頃はEMTの鉄板式リバーブの「EMT-140」がかなり評価を受けだしたときなんです。反射があると音がかぶるといったややこしいことがあるので、Deadなところで録って、リバーブ・マシーンやエコールーム (残響室)で残響を付ければ何でも出来るじゃないかという風潮が一般的になりつつありました。その考えでスタジオをDeadに作ろうという案が出て、鹿島に設計依頼したんですね。6m角くらいの大きなエコールームも5個くらい作りました。床まで吸音しようとしてプレイヤーを吸音材の上に載せて収録する実験も手伝いました。私はホールで音を聞いてましたから、音楽というのは響くところでないと音にならないと考えて、音響担当重役の富田さんと議論になったのですが、結局私の方が負けまして…。
−−豊島さんが負けちゃったんですか?
豊島:負けちゃったんです。組織ですから、偉い人には負けちゃうんです(笑)。こっちも確証があって言っているわけではないし、音がかぶるというのがどういうことか、どうまずいのか具体的にわからなかったし、それよりこんな若造が言うことは相手にされませんでしたね。それで鹿島によりかなりデッドな100坪もあるスタジオが出来たんです。ところがしばらくして「あそこは演奏しづらい」という評判が出てきて、原因を色々調べてみると、スタジオがDeadすぎて音を吸っちゃって、プレイヤーが自分の音も相手の音も聞きずらく、演奏しにくいということがわかったんです。それで「どうしたらLiveに出来るか?」ということで、藤本さんが中心になって改修をやったのですが、ホールのステージにあるような大型の反射板を6つも持ち込んで、それで響きを付けたんです。結果的に、とても響きの良い日本のトップクラスのスタジオになりました。でも今から考えると遠回りしたなと思います。
−−そこで「ホラ、俺の方が正しかったじゃないか!」とは言われなかったのですか?
豊島:それは組織の中では言えないですよ(笑)。酒を飲めば言いますけど(笑)。
−−でも、そのことによって豊島さんは一目置かれるようになったんじゃないですか?
豊島:いやいや、大勢の中での議論ではなくて、たかだか4、5人の中での議論ですからね。中には「やっぱり、そうだったね」といってくれる人もいましたけど、そんなに大げさな話にはならなかったです。
−−逆転のカウンターパンチにはならなかったと。
豊島:まあ、この出来事が勉強にはなりましたね。
−−ビクター青山スタジオから日音スタジオまでにも、スタジオは作られているんですよね?
豊島:ありますよ。内沼さんが言っていた名古屋のサウンドオン、テイクワンとか、音響ハウスは日音の前ですね。
−−音響ハウスもそうなんですか!?
豊島:音響ハウスもやりましたよ。
−−頂いたプロフィールにはないですけど…。
豊島:音響ハウスはその後改装しましたから。私のデザインは壊されて(笑)。
−−前の音響ハウスですね。
豊島:私としては前の方が断然良かったと思っていますよ(笑)。
−−整理しますと、ビクター青山スタジオからテイクワン。それから?
豊島:小さいのがいくつかありまして、クラウンをやって、音響ハウスをやった後に日音スタジオですかね。
−−その過程で着実に「豊島」という名前が出ていったんですね。
豊島:豊島というか、ADO(Acoustic Design Office = 日本ビクター音響設計事務所)でやりましたからね。でもほとんど個人的なつながりでやった仕事ですから、会社対会社という気分ではないんです。内沼さんは僕に対してビクターというイメージはないですからね。
−−豊島さんと仕事をしているということですね。
豊島:そうです。
−−ビクター外の仕事をするということは、ADOという会社の仕事になるわけですよね?
豊島:そうです。ADO設立の経緯をお話ししますと、企業の研究所、特に音響関係の研究所というのはステレオのような音響機器や部品の開発や改良を研究していて、必ず商品に研究成果が付加されるというか、結果が出てくる。だけど、私がやるのはホールを作ったり、スタジオを作ったりと音響の商品に関係ないわけです。そこで、私のビクター社内における恩人の一人でもある井上専務に言われたのは「研究所の中で独立して、独立採算でやりなさい」ということで、「じゃあ、設計事務所を作るから、私が所長になっていいですか?」と言ったら、「いいからやれ」と言われて、ビクターから突き放されたんです。
−−そういういきさつがあったんですか。
豊島:今で言う企業内企業(アントレプルナー)のハシリと言いますか、古い言葉ですがナウかったんです(笑)。
−−その事務所を立ち上げて手がけた最初のスタジオはどこになるんですか?
豊島:それがテイクワンです。
−−当時は吉野金次(レコーディング・エンジニア)さんと一緒にやられたわけですね。
豊島:そうです。当時吉野さんや内沼さん、行方(洋一)さんという一流のエンジニアと付き合えたのは幸運でした。それで音響ハウスをやった後に、内沼さんから日音スタジオの件を持ちかけられたんです。日音というのはTBS系の会社ですから、工事会社とか設計会社は自分たちの関連会社にあるわけですが、それを使わずに内沼さんに任せて、「豊島とやりなさい」と言った当時の日音の木下社長は偉かったですね。
−−社内に組織があるにもかかわらず、外部と仕事をしたわけですからね。
豊島:それをフォローしてくれたのが、村上 司(前(株)日音 取締役会長)さんや恒川光昭(現(株)日音 代表取締役社長)さんですね。
−−豊島さんはADOの所長と言うよりも、社長だったわけですね。
豊島:そう、社長です。当時事務所には7人くらいいたんですけど、彼らを食わせなきゃならないわけですよ。当初は設計とか図面は書けるが、仕事を取ってこれない連中ばっかりでしたから、必死でやりました。
3.海を越えた日音スタジオ
−−海外のスタジオを手がけるようになるきっかけは、何だったのですか?
豊島:それは日音スタジオがキーになったんです。当時、日音のCスタがSSLを導入したんですね。それでSSLのエンジニアのクリス・ジェンキンスがセッティングに来て、音を聞いて、デザインを見て「これは凄い」と気に入ってくれて、イギリスに帰ってしゃべったらしいんです。同時期にヴァージン・レコード所有のタウンハウスが、第4スタジオを作る計画があって、設計者としてそれまでのタウンハウスを全て手がけたトム・ヒドレーと、誰だか忘れてしまったけどもう何人か候補がいて、スタジオ側はその中で考えていたんだけど、クリス・ジェンキンスの話を聞いて、彼らが私に興味を持ちだしたんです。ちょうどその頃、‘84年にパリでAES(Audio Engineering Society=米国音響技術者協会)のショーがあって、ADOのバイク鈴木(鈴木宏明:DVDオーディオ ワーキンググループ チェアマン)とショーに参加していて、我々の設計した日本のスタジオの写真を展示してPRしていたんです。鈴木君は英検一級を持っていて英語ペラペラの秀才なので、海外進出の大きな力になりました。その会場にタウンハウスのエンジニアと責任者が来て、色々聞いてきたんです。今考えるとそれがインタビューだったんですが、その時は「なんだかしつこい連中だな」と思っていましたね(笑)。そうこうしているうちに、「一度スタジオに来てくれ」という連絡があって、たまたまパリからロンドンに行く予定があったので、その足でタウンハウスに行ったらスタジオ建設の話をされて、「トム・ヒドレーとお前が候補に残った。やる気はあるか?」と聞かれたので(笑)、「もちろんやる気はあるよ」と(笑)。
−−もちろんですよね(笑)。
豊島:それで、彼らは実際に私の設計したスタジオを見たいと言うんですよ。よく考えたら日本にはトム・ヒドレーが設計したソニー、セディック、私が作ったビクターや日音があるから、比較するのにちょうどいいじゃないかという話になって、彼らはマネージャーとアカウンタントとエンジニアの3人で来日したんです。そのエンジニアはのちにクラプトンを手がけて有名になったアラン・ダグラスで、自分で録音した24CHアナログテープを持参して、それを実際に2CHに落として聞いてチェックしていました。彼らが帰国するときにアランが「You won!」と言ってくれました。でも、それはあくまでも彼個人の意見で、残りの2人が気に入らないと話は決まらないんだけど、少なくともエンジニアは日音スタジオが気に入ったみたいでしたね。その後1週間くらいたってから、設計依頼のテレックス(注:この頃未だビクターにはFAXが無かった)が来ました。それで、その条件というのが、コントロールルームは日音のCスタをそのまま作ってくれと(笑)。部屋のサイズ、色、SSLの位置、全部同じで。モニタースピーカーは当時ウエストレイクTM-3だったんですけど、それも含めて全部持ってきてくれということでした(笑)。これならば図面もあるし簡単だな、ありがたいと思いましたね(笑)。その結果、日音スタジオと全く同じスタジオがロンドンに出来てしまったわけです。
−−中に入ったらどっちだかわからないですね(笑)。
豊島:わからないですね(笑)。
−−言ってしまえばコピーですか。
豊島:完全なコピーです。内沼さんがタウンハウスに行ってビックリして「へえ〜」って言ってましたよ(笑)。
−−でも、気持ちよかったんじゃないですか?
豊島:気持ちよかったですね。私の先生だと思って尊敬していたトム・ヒドレーと競って勝ったわけですから。
−−何か独自なものが豊島さんの手がけたスタジオにはあったんですか?
豊島:大げさなものではないと思うんですけどね。イギリス人とかアメリカ人で物理的な音響を勉強して音響設計するという人は皆無に等しいですよ。海外の雑誌とかでフェーズがどうのこうの難しい事を書いている人に会って実際に話をすると、この人何もベースがないんじゃないか?というようなのがほとんどなんですね。
−−独学ということですか?
豊島:独学というか、ハッタリですね(笑)。音響の分らないインテリアデザイナーが分った様な事を言ってスタジオを作ったりしています。ただトム・ヒドレーは、ある程度自分で消化して、サイン・コサインの世界じゃなくてわかっていたから、いいスピーカーもできたんでしょうね。彼はサックスを吹いていたから、自分で音楽をやる中で色々ノウハウを身につけ、そのノウハウがたまたま物理現象と一致していて、それでスタジオ設計で成功したという非常に珍しい例ですね。
−−まぐれですか。
豊島:そういってしまうと言い過ぎですが、近いものはあります。
−−タウンハウスは評判が良かったんですよね。
豊島:そうですね。半年先までブッキングされていたらしいですからね。タウンハウスでも面白い話があって、当時日本のエンジニアが海外に行ってレコーディングするのが1つのステータスで、タウンハウスにも結構来ていたんですよ。その中に私の知っているエンジニアが何人かいて、まさかタウンハウスを私が手がけたとは知らないから、「このスタジオは日音スタジオそっくりだな」って(笑)。
−−パクったなということですか?
豊島:いや、まだそれならいいんだけど、そのエンジニアは「東京にある日音スタジオの音は嫌いだけど、ここの音は好きだ」と言ったらしいんですよ(苦笑)。もちろんスタジオを同じに作ったって、音は同じにならないです。でも、タウンハウスのエンジニアは「日音スタジオそのままを作ってくれ」と言ったわけだから、できるだけ日音スタジオの音に近い音になるまでやりましたし、タウンハウスの音は日音スタジオにほぼ同じ音になっているとタウンハウスのエンジニアは思っているわけです。それに対して日本人がちょっと音を聞いただけで「さすがロンドンのスタジオはいい音していますよ」って(苦笑)。
−−もう、先入観だけですよね。嫌な話ですね(笑)。誰ですかそれは?
豊島:名前は知っていますが、言いません(笑)。
−−身に覚えのある人はこれを読んで恥じてくださいと(笑)
豊島:豊島さんは誰だか知っているようですよ、とね(笑)。
4.世界を駆ける「SAM TOYOSHIMA」
--タウンハウス以後は?
豊島:そのころ、たまたまタウンハウスでフィル・コリンズがレコーディングしてたんですが、フィルが4スタを気に入ってくれて、プライベート・スタジオの設計依頼をしてきたんです。それは牧場の中にある牛小屋を改装してスタジオにする、という話で、当時ジェネシスのエンジニアをしていたヒュー・パジャムから夜中の3時に電話があったのですが、僕はそれをてっきりフィル・コリンズだと思って話していたんですよ(笑)。
--名前は聞かなかったんですか?(笑) 確かに”フィル”と”ヒュー”は響きが似てますが…。
豊島:いや、彼はフィル・コリンズのレコーディング・スタジオと言ったわけです。それで「本人かな?」と思っちゃったわけです。イギリス人は日本と時差があるという感覚がない人が多いですから、日本も昼間だと思って電話してきたんですね(笑)。夜中の3時に起こされて、英語でしゃべられて、普通わけわからないと思うんですけど、「頼むよ」ということはわかったんです。その後、この話を小林克也さんにしたんですね。そうしたら克也さんがフィル・コリンズにインタビューをするTV番組で、「豊島に時差を考えずに、真夜中に電話したんだって?」みたいなことを聞いていて(笑)。
--(笑)。
豊島:それで「ロンドンに変な日本人が来てスタジオを作っている」という話になってですね、それから…数としては結構ありますね。
--資料によりますとオリンピック、メトロポリス、サームウェスト、アビーロードと。
豊島:それは全部イギリスだけの話ですけどね。オリンピックスタジオもヴァージン・レコードのものだったんです。次のメトロポリスというのは、今でも一番売れているスタジオの一つで、日本人のアーティストもかなり行ってますね。ドリカムとかチャゲアスとか。
--豊島さんは世界中でスタジオを作られていますが、国によってスタジオに対する考え方が違うということはあるのですか?
豊島:国での違いというのはそんなにないですよ。どの国でも一流のスタジオはそれなりのコンソールやスピーカーを入れますから、そんなに差はないですね。まあ、お国柄というのはありますけど、スタジオそのものに関して差はないです。
--ちなみに豊島さんは英語の方はお得意なんですか?
豊島:英語は28歳の時にアメリカに行って苦労したので、バッチリではないですけど話せます。図面を見ながら話すというのは、割と簡単なんですけど、お酒を飲みながら話すというのは難しいですね。でも、酔っぱらってくるとペラペラになりますけどね(笑)。まあ、仕事をする分には不自由をしませんが、ペラペラじゃないです。でも英語ってペラペラにならない方がいいですよ。よくネイティブと同じ発音で喋る人がいますが、本当に喋れればいいですが、生半可にそういうことをしますと、向こうの人が「こいつは喋れるな」と勘違いしますから。そうなるとペラペラ話されて、大変なことになります(笑)。だから、我々が喋る英語は「日本人が喋る英語」でいいんです。意志の疎通ができればいいんです。私はネイティブみたいに喋りたいなと思って、挫折をしちゃったから、こういうことを言うのかもしれませんが(笑)、小林克也さんもまったく同じことを言っていますよ。
--この「SAM TOYOSHIMA」という名前の由来は?
豊島:この「SAM」というのはもちろん「政実」から来ているんですが、「豊島」も「政実」も外国人には憶えづらいらしいんですよ。ビクター時代最初のアメリカ視察以降も、何度かアメリカに行ったんですが、その時にクオードエイトという調整卓の副社長の、ビル・ウィンザーと友達になって、「何かアメリカ人が覚えやすい、いい名前はないかな?」と聞いたら、彼が「MASAMIの頭と最後を切って”SAM”がいいじゃないか」と言ってつけてくれたんです。そうしたら外国の人は「TOYOSHIMA」まで覚えてくれるようになりましたね。
--(豊島さんの作品リストを見て)トリニダード・トバゴというのもすごいですね。
豊島:ああ、これが一番遠いところですね。日本の反対側ですから。トリニダード・トバゴはキューバの下にあるカリビアンの国ですけど、体育館のようなスタジオを作りました。向こうにトヨタの工場があって、そこの社長がトリニダード・トバゴの国会議員なんですが、音楽が好きでスタジオを作りたいということで、呼ばれて作ったんです。
--あっちこっちからお呼びがかかっていますね。フィル・コリンズ以外のプライベート・スタジオについても伺いたいのですが、スティングのスタジオはどんな感じなんでしょうか?
豊島:場所は言えないんですよ。
--イタリアのやつですか?
豊島:いや、あれはお城を借りて録音したという話で、その時も「毛布をどこに置けばいいか?」とか色々聞かれましたが、本人とは直接会っていないです。僕がやったのはこれもイギリスのお城みたいな建物の中にあるスタジオで、プライベート・スタジオなのでそんなに大きくないです。まあ、彼が気が向いたときにレコーディングできるということですね。本格的なレコーディングはちゃんとしたスタジオでやるんじゃないかと思います。これもヒュー・パジャムがスティングのエンジニアをやっていたから、その関係でやったスタジオです。ジョージ・マイケルのスタジオはテムズ川の上流にある、これもお城みたいな建物にスタジオを作ったのですが、この前の洪水で流れちゃったみたいです(笑)。
--エンヤのスタジオも手がけられていますが、スタジオの場所はどこですか?
豊島:アイルランドのダブリンです。なんで土地がこんなに広いのかと思うくらい広大な敷地で(笑)。その庭園みたいな敷地の中に洒落た一軒家が建っていて、それがスタジオ。その隣にやっぱり豪華な邸宅があって、それはエンジニアの邸宅なんです(笑)。つまり、その土地は全部エンジニアの土地(笑)。それで「エンヤはどこにいるんだ」と聞いたら、「あの上だ」って、山の上にお城を買って住んでいるらしい。
--それはお金持ちだからですか? それとも土地が安いからですか?
豊島:両方ですよ。エンヤは売れましたからね。9.11以降はまた売れましたしね。
--あとトレヴァー・ホーンのスタジオもありますね。
豊島:トレヴァー・ホーンはイギリスのサームウェストのオーナーでもあり、自宅にもスタジオを持っているんです。自宅のスタジオをアドバイスしたこともありますし、お城を買ってその中にスタジオを作ろうかという話もありました。彼とはあちこちで付き合っていますね。なかなか楽しい人ですが、お金には非常に厳しい。話しているときはニコニコしているけれど、お金の話になると急に難しい顔になります(笑)。
--それにしても凄い数ですね。一個一個についてお話を伺っていくと時間がいくらあっても足りないと思うんですが、今まで手がけられたスタジオの中で会心の作というのは、どのスタジオになりますか?
豊島:やはり日音、ビクター、タウンハウスとアビーロード、メトロポリス、オリンピックもいいですね(笑)。1つと言われると難しいですけど、ネームバリューでいくとやはりアビーロードになりますね。
--こんなにたくさんスタジオを作った方って他にいらっしゃるんですか?
豊島:日本にはいないでしょうね(笑)。リストの中には私がマンガを書いただけのものもありますし、実際に図面を書いたり詳細設計はADOの連中がやるんですが、何らかの形で関わったスタジオということになると、これだけの数になります。
--日音Cスタ、タウンハウス以降は、仕事は向こうからどんどん舞い込んできたという感じですか?
豊島:それもタイミング良く、1つの仕事が終わってから次が来るという感じでしたね。ですから、非常に理想的な形で続きました。今じゃ考えられないですね(笑)。いま「スタジオをやる」と言ったら、「馬鹿か」って言われますよ(笑)。
--(笑) 豊島さんは設計家として脂がのっているときに、世界中にスタジオができていったということですよね?
豊島:本当に運がいいと思いますよ。
5.アビーロードの16年〜アビーロード改修秘話
--次はいよいよアビーロードについてお話を伺いたいのですが。
豊島:アビーロード・スタジオはソーンEMIの傘下で、日本で言うと東芝みたいな大きい会社のスタジオ部門です。ですから、現場サイドがOKしても、会社がなかなか動かないといった風に、意志決定をするまでの時間がものすごくかかるわけです。こちらがアプローチしてから実現するまでに5年かかりました。やはりコンペティションでしたから、向こうも何人かの設計家をセレクトしていましたしね。我々は当時のスタジオマネージャーで昔ビートルズのエンジニアをやっていたケン・タウンゼント、若くして亡くなってしまったエンジニアのマイク・ジャレット、それから、アビーロード出身でその頃フリーだったアラン・パーソンズと話しながら進めていたんです。のちにアラン・パーソンズはケン・タウンゼントがリタイアしたあとにスタジオマネージャーになるんですけどね。
--アラン・パーソンズ・プロジェクトのアラン・パーソンズですよね? その彼がスタジオマネージャーですか?
豊島:もつはずないと思っていたら、半年くらいで辞めましたね(笑)。スタジオ設計コンペには、イギリスの中で名前の売れている音響設計家や、アビーロード自身が今までずっと頼んでいた設計屋さん、それと我々のグループが参加していました。
--そして、そのコンペに見事勝ち抜かれたわけですね?
豊島:そうです。最初5社、最終的には3社になったんですが、コンペに勝ちました。以前フィル・コリンズのスタジオをやるときに、イギリスの建築家ジョン・フリンとチームを組んで、ADG(Acoustic Design Group)という会社をロンドンに作ったんです。ちなみに先ほど話に出たヒュー・パジャムと、ビクターのバイク鈴木もメンバーなのですが、私はビクターの社員でありながらADGの責任者をやっていまして、アビーロードに対してはそこを拠点にアプローチしていたんです。アビーロード・スタジオは、レンガを1つ抜いたらスタジオが崩れそうな、かなり老朽化している建物ですから、建築関係のノウハウなしでは建て直しできませんでした。そういう意味では、建築屋さんと手を組んだというのが非常に良かったと思います。アビーロードで最初にやったスタジオが第3スタジオで、ロック専用のスタジオだったんですが、床のパーケットが剥がれて、歩くたびにカタカタ音がするようなスタジオでした。有名な第1スタジオはクラシック音楽も録るスコアリング・スタジオで、これは 100坪近くあるんですが、その2階部分に接して第3スタジオがあります。第3スタジオのコントロール・ルームをレイアウトの関係上第1スタジオ側に動かさなくてはならなかったのですが、コントロール・ルームでロックの音をバンバン出すと壁がスケスケのレンガなものですから音が漏れる。その壁面の遮音設計が大変でしたね。このあたりの話は「アビーロードスタジオ」という本(日本では音楽之友社)に書いてありますがその中に、ケン・タウンゼントがえらく心配して「音漏れしたら裁判沙汰だよ」と言ったら、SAMは「心配ないよ、絶対大丈夫」と言った、というくだりがありますが本当はかなり心配でした。(笑) 1987年に始まった工事では、天井裏を全部解体して、2階層分のスタジオを中に作り、天窓を付けてスタジオの中に自然光をとり入れました。その結果、アビーロードは古い建物の中に近代的なスタジオができたんです。その新生第3スタジオのこけら落しはピンクフロイドで、彼らも気に入ってくれたようです。記念にそのCDを貰いました。この新しい第3スタジオは多くのアビーロードの人達も気に入ってくれまして、それから16年かけて、ペントハウスという最上階のスタジオ、第2スタジオ、第1スタジオ、この4つの大きいスタジオと、マスタリングルームもいくつかあるんですが、全部改修しました。
--つまり現在のアビーロード・スタジオは、全て豊島さんが手がけられたものになっているわけですね?
豊島:そうですね。個々のスタジオについて話しますと、第1スタジオは大きいから、これを全面改修したらそれだけで数億とかかる。それはやめておいて、コントロール・ルームだけかっこいいものを作ろうという結論になりました。それから第2スタジオというのは、ビートルズがレコーディングしたことで有名なスタジオなんですが、2階にあるコントロールルームをやめて、中庭に突き出す形でコントロール・ルームを作ってワン・フロアーのスタジオにする計画を提案したところ、アビーロード側も大乗り気になりました。しかし予定のバジェットを大幅にオーバーしてしまい、資金難を回避するためにどうやってお金を集めようかという話になったんです。そこで出てきた案というのが、壁を取り壊して出たレンガは、全てビートルズの音を聞いているレンガだから、それにケン・タウンゼントが「ケン・タウンゼント/アビーロード・スタジオ」とサインすれば、1個5万円で売れるよと(笑)。まぁ半分冗談なんですが(笑)、3億円くらい集まるという計算になって、「やろうか?」というところまで行ったんですよ。ところが壁に穴を開けること自体に対して、ファンから「ビートルズスタジオは触らないで、そのままにしてくれ」とものすごくクレームが来ましてね。EMIのトップもファンの声には弱いから、「触るな」と言ってきて、「2階にあるコントロール・ルームだけ改良すればいいじゃないか」ということで終わってしまったんです。当初の計画は壁に穴を開けて、緑の美しい中庭に突き出したコントロール・ルームの背面を全部ガラスにして、音の反射がないように階段状のガラスで斜めに天井までもっていくという、ものすごくかっこいいデザインでしたから、それができていたらと思うとね(笑)。残念ですね。
--お話を聞いただけでも、素晴らしいデザインですね。
豊島:スタジオの人も気に入っていたんですよ。でも、お偉いさんの一言で変更せざる得なかったですね。
--ビートルズももはや公共のものですね。まるで教会みたいです。
豊島:そうですね。アビーロード通りに面してスタジオの白い塀があるんですけど、バスでツアーに来た人たちが中に入れないからその塀にサインをして帰るんですね。それで一ヶ月したら真っ黒になってしまうんですよ。そうなるとアビーロードの人がまた真っ白に塗り直して、その繰り返し(笑)。アビーロードの塀には何万人という人の“想い”が埋まっていますね。
6.ポリシーがないのが、ポリシー
--豊島さんのスタジオ設計に対するポリシーは何ですか?
豊島:ポリシーがないことじゃないですかね。はっきり言ってお客さん第一というか、誰にでも合わせられる。先ほども言いましたが、ベーシックなことがわかっていれば、「ここまではやってもいいや」とか「これは駄目だ」とか言えるわけです。だから、理論的なことがある程度わかってスタジオを設計していると、かなり大胆なことが出来るということです。理論がないと「それは絶対に出来ませんよ」とか簡単に言うでしょ? そういうのでなくてエンジニアやクライアントのどのような要望にも可能な限り合わせられるというのがプロじゃないですかね。ポリシーがないのがポリシー、です(笑)。
--理論に裏打ちされているから柔軟であるし、その分引き出しもいっぱいあるということですね。
豊島:かっこよく言うとそういうことになります(笑)。大切なのは「ここまではいいだろう」の「ここまで」がわかることです。昔は、覗き窓のガラスを反射が怖いから小さいものにして、あとは遮音をしっかりしていたんですが、だんだん様子がわかってくると覗き窓のガラスは大きくなっていくわけです。私はアビーロードの第1スタジオで、天井から床まで全部ガラスのコントロール・ルームというのを作ったんです。モニタスピーカーは B&Wのノーチュラスという大型のスピーカーを床置きにして映画用ですからサラウンドです。いい音がしていますね。
--やはり理論がないとできない?
豊島:必ずしもそうとは言い切れないですが、見極めができます。第1スタジオは映画音楽も録るスコアリングスタジオですから、コントロール・ルームから音を聞きながら、ブラウン管ではなくてスタジオ内の映画のスクリーンを見たいという要望があったので、じゃあ天井までガラスにしようということになったんですね。
--理論の他にスタジオを設計するのに大事なものは何だとお考えですか?
豊島:この仕事をやるには音が好きで、かつエンジニアが言っていることがわからなくては駄目なんですよね。ある程度音を聞き込んで、音がわからなくては駄目だということが途中からわかり出しまして、やはり耳が大事だなということで、今は耳を大事にしています。それからエンジニアが言っているエンジニア語を物理語に変換できなくては駄目です。例えば内沼さんと話をしても、彼が言っていることがわからないと設計できませんから。特に海外のエンジニアというのは、「音響設計家にはわかるだろう」という先入観で話しますから、話についていかないと駄目なんです。アビーロードの第2スタジオを作ったときの話ですけど、クラシックの有名なエンジニアでカレンダーという人がいるんですよ。我々はその人のことを陰で「暦さん」と呼んでいたんだけど(笑)、彼はクラシックのエンジニアだから「このビオラの…」とか言うのを全部周波数帯域に換算してフォローしないといけないんですが、完成後、日本に帰ってすぐに「音が左に流れる」と電話がかかってきました。そして「左のガラスの反射じゃないか」「すぐにロンドンへ来い」と言うんです。設計ではガラスから反射音が絶対に来ないようになっていますから「建築音響の問題じゃないよ」と言ったんですけど、それでも来いと言うんで行ったんです。それで、彼が録音したテープを聞きながらチェックしたのですが、この場所だっていうところに来ると、確かにセンター定位していたある音が左に流れるんです。「これは変だな…」と思って、ガラスを全部調べたけど、原因がわからない。色々なチェックで最終的にわかった原因は、建築音響じゃなくて、どこの機械とは言わないけれど、テープレコーダーからアンプまでの、ある機器の片チャンネルのコンデンサーの容量抜けで、ほんの少しの周波数特性をもってしまったんです。
--うーん、それを聞き分けるんですか…。
豊島:彼はそれを聞き分けていたんですね。そういう人たちと付き合わなければならないから、大変ですよ(笑)。
--部屋と機械と色々な要素がありますから、原因を突き止めるのも大変ですよね。
豊島:そうですね。エンジニアは「原因は何か?」というチェックの仕方がわからないわけです。例えば、私はスピーカーを入れ替えても音が左に流れたから、原因はその前だろうという具合に、どんどん絞り込んでいって、ある機械のLRを入れ替えたら音が右に流れたんで原因がわかったわけですよ。昔のエンジニアは機械をいじれたけど、今のエンジニアはいじれないから、そこまでフォローしないといけない。
--豊島さんは音響設計だけでなく、エンジニアの知識もあるわけですよね?
豊島:それがわからないとね。たとえばケーブルがどこに何本入るのかわからないとスタジオの設計はできませんから、そういうプロセスはビクタースタジオを作るときに色々勉強しました。
--新しい技術が次々と出てきますから、大変ですね。
豊島:SSLを日本で最初に導入したのが、表向きには音響ハウス、その前に赤坂スタジオにあったんですが、その時にオックスフォードに行って、SSLを見せてもらってかなり勉強しましたしね。ただ、ProToolsはもう勉強しないですね、私は。SSLは構造がわかっていないとスタジオ設計ができませんから勉強しましたけど、ProToolsはそういう意味で勉強しなくてもいい機械ですから。ProToolsを私が使えるようになっても、何の意味もないですしね。
--豊島さんが考える「理想のスタジオ」というのは、どのようなものですか?
豊島:お客さんの要望が100%満たされるのが理想なんですけど、私が考えているのは音だけじゃなくて、人間が生活をする場だから、居住性がものすごく必要じゃないか? ということで、デイライトを取り入れたり、窓が大きくて外が見えるとか、音響とは相反するところを取り入れてきたのが評価されたんじゃないかなと思っています。
--大変失礼な質問ですが、あそこは失敗作だな? というのはありますか?
豊島:1つだけありますね(笑)。それは大田区にあるソナタ・スタジオの前身のリハーサル・スタジオで、そこは集合ビルで上がマンションだったんですよ。それである部屋でタイコを叩くとマンションの一番遠いところで寝ている人のベッドに音が聞こえてくるというクレームがついて (笑)。この人はすごく神経質な人で、実際に音を聞いてみても私は全然聞こえないんですが、床に耳を付けると「うーん、聞こえるかな?」という感じで、結局ビクターがお金を出して改修しました。
--リハーサル・スタジオもやられるんですね。
豊島:いや、何でもやらせていただいています。リハーサル・スタジオはかなりやりましたよ。
--ライブハウスとかもですか?
豊島:ライブハウスもやりましたね。
--スタジオ設計をされている方の中で、豊島さんが一目置かれている方とかはいらっしゃいますか?
豊島:スタジオ設計ではないですけど、建築音響ではNHKから独立された永田(穂)さんですね。日本のホールのほとんどを永田事務所がやったんですよ。永田先生と伊藤先生は私の尊敬している先生であり、恩師ですね。外国ではやはりトム・ヒドレーですね。
--世界中の有名なスタジオを日本人である豊島さんが設計しているという事実は、知っている人は知っているのでしょうけども、知らない人も一杯いるわけですよね?
豊島:そうですね。
--スタジオ設計の第一人者が日本人であるということをもっと多くの人に知ってもらいたいですよね。
豊島:ありがとうございます。忙しくてPRする時間がなかったですしね。
7.若者よ、もっと生音を聞け!
--99年に退職となっていますが、これは第一線を退いたというわけではもちろんないですよね?
豊島:60歳になってビクターを定年になったというだけです。
--今もスタジオを作られているわけですよね?
豊島:やってます。
--ちなみにそれは海外ですか?
豊島:海外ですね。韓国で一つとロシアのモスクワで2千人ホールにスタジオが幾つも付いた大きいコンプレックスをやっています。
--では、今はフリーということなんですか?
豊島:フリーですね。
--経営という立場からは一線を退かれて、精神的には楽になりましたか?
豊島:リラックスしていますよ。でも、昔からリラックスしていますけどね(笑)。
--豊島さんの経歴を拝見しますと、スランプといいますか調子の悪かった時期というのは一度もなかったんですかね?
豊島:なかったですね(笑)。夢中でやっていましたから、考える暇もなかったです。
--ビクターの人は優秀な人でも「独立」という選択をあまりしないですよね? その方が儲かるんじゃないか? と思うんですが。
豊島:実力はあるのに踏み切れない人もいるし、中には逆に実力はないのに勘違いして独立しちゃったという人もいますよ。バックにビクターがあるからチヤホヤされてるのに、自分の実力だと勘違いしてしまうんですね。
--豊島さんは独立を考えませんでしたか?
豊島:内沼さんには何回も「独立してやったら?」と言われました。彼はあとで計算するんですよ(笑)。あのとき独立していれば何億儲かったとか(笑)。
--傍から見れば、そう思いますよね(笑)。
豊島:確かに会社に入る分が、殆ど自分のものになるということを考えれば、それは大変なことですけど、当時としては大きな冒険ですし、そこまでリスクを背負ってやることでもないだろうと思っていましたしね。それに井上専務とADOを軌道に乗せるという約束がありましたしね。
--やはりお金ではなくて、大きな仕事をやるということが面白かったんですね。
豊島:まあ、お金も大事ですけど(笑)、それだけじゃないですよね。だから、アビーロードが決まったときが一番うれしかったですね。
--そして、現在は四日市大学で教鞭もとられているわけですが、今年で何年目ですか?
豊島:今年で4年目ですね。
--週何日、四日市の方におられるんですか?
豊島:月、火、水と大学にいますね。
--むこうはいかがですか? 東京とはまた違いますか?
豊島:全然違いますね。教えていることは、音響に関することや音楽業界のこと、そしてスタジオワークのことなんですが、地方なので、実際に学生が本物のスタジオを見たり触ったりといった経験が出来ませんから、そういう意味もあって8年前にSSL、ジェネレックを設備した80坪の本格的レコーディング・スタジオを作ったんですよ。そのスタジオを設計したのが大学との縁でした。
--80坪ですか。立派なスタジオですね。
豊島:照明や映像のメディア関連の授業もここでやるので、ステージ兼スタジオになっています。
--その四日市大学では音響設計者を養成するといった授業をされているんですか?
豊島:スキルを身に付けるということではなくて、かっこよく言えば「音を通して人間形成をする」と言いますか、音楽が好きな学生が集まって、大学生としての人間形成をするのが目的であって、必ずしもエンジニアになるとか、設計者になるということではないのです。また、大橋先生(元筑波大教授、芸能山城組主宰、四日市大顧問)の提唱しているハイパーソニック理論(楽音、自然音に含まれる高周波が脳を活性化する事を発見、ニューヨーク AES で発表後センセーションを巻き起こしDVDオーディオやSACDの開発を促した。)もゼミで研究しています。
--では、アカデミックな授業をなされているのですね?
豊島:いや、そうでもないんですけどね(笑)。でも、業界に入った卒業生も結構いるんですよ。NHKとか、ポスプロとかレコーディング・スタジオとかに就職している卒業生はいます。でも、全員が音楽業界に就職することを目的としているわけではないので、専門学校とは性格が違いますね。
--豊島さんの半生は、スタジオをひたすら作り続けた半生だと思うんですが、今後ご自分のような人間が出てくると思われますか?
豊島:スタジオだけに関していうと、もうそういう時代じゃないですね。
--目指さない方がいいぞと。
豊島:いいえ、大きなスタジオを作ってどうのこうのという話は今までみたいにはないと思いますが、ホールのような「音の入れ物」と、音をコントロールする仕事は無くならないですから、建築音響という分野は絶対必要です。これから各住宅の中でホームシアターに代表されるような「プライベートな劇場」というのができてくるし、映画館にしても小さい映画館が集まったシネマ・コンプレックスができてくる。日本の映画は音に今まで以上のクオリティーを求めてきますので、そのほうの施設も重要になります。それから、交通騒音にしても何にしてもノイズ・コントロールというのは必要になってくるし、そういう意味で音響そのものはとても重要だと思います。
--レコーディング・スタジオの未来について、どのようなお考えをお持ちですか?
豊島:簡単に言うと、2極化していくと思います。アコースティックな音というのは、音の基本ですから、これは無くならない。デジタルをいくら駆使しても生音と同じ条件を作るということは、理論的には出来ないわけじゃないけど、大変だしお金がかかってしまいますから、響きのいいスタジオで生音を録るということは絶対に無くならないです。ロックにしてもクラシックにしても。ただ、ProToolsに代表されるような機材で、ミュージシャンなりアレンジャーが自分でベーシックな音を作れる時代になっちゃったから、スタジオは今までみたいには必要が無くなったというのもまた事実です。いわゆるユーザーの耳がこれからどういう方向に育っていくかということが1つありますが、少なくともアコースティックはなくならない、でもデジタルを駆使した、簡単に言えば人工的な音もかなりの部分を占めるだろうから、中間がなくて両極端になっていくんじゃないかと思います。
--世界的なエンジニアやミュージシャンと仕事をされている豊島さんですが、日本の若いエンジニアやミュージシャンに言いたいことはございますか?
豊島:色々あるんですが(笑)、まず生音をもっと聞いて欲しいですね。生音を使わないで自分で音を作るというのもありますけど、エンジニアは、アレンジャーなり、コンポーザーなり、アーティストの考えていることを具現化する作業をするわけですから、その大元の音はどういう音か? ということをわかって欲しいですね。昔のエンジニアというのは徒弟制度だったわけですよ。親分がいて、その下に子分がいて、尻や頭をひっぱたかれながら勉強して、その中から耳のいい人だけが残るわけで、例えば、行方洋一、内沼映二、吉野金治みたいなエンジニアはそうやって一流になったわけです。今の若い人たちはある意味じゃ非常に楽、というかチャンスがあればそれに乗って、自分で自分の音を作れるような時代になってきている。その音に責任を持たなくてはならないのだから、コンサートでも何でもいいから、その雰囲気も含めた実際の音楽というものを聞いて欲しい。私が歳だからかもしれませんが、今の音を聞くとコンプをあんなにバッチリかけて、ベタっとした音にして本当にいいのか? 全然奥行きというか厚みがないじゃないか、と思うんです。昔のワビサビのある深みの音を今の人たちに聞いてもらいたいです。だから自分の音を作るのはちょっと置いて、本質は何かということをもう少し考えて欲しいですね。
--基本に立ち返れということですね。
豊島:基本に戻る。いい言葉ですね(笑)。もっと言うとアコースティックな音をたくさん聞いて欲しいなと思います。2極化した上の方、ハイエンドな方に行って欲しいですね。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。今後の益々のご活躍をお祈り致します。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
音だけでなく、居住性や視覚的美しさを取り込んだ豊島氏のスタジオ設計は、お話を伺っているだけでイメージが浮かぶような創造性に溢れるものです。顧客の要望に応えつつも、それ以上のものを提供できる才能と、どんな人ともすぐに打ち解けてしまうそのフランクな人柄が、世界中からのオファーを生んでいるのではないでしょうか。
COMING SOON! さて、豊島氏にご紹介いただいたのは、現在日本ミキサー協会(JAREC)の理事長を務められているレコーディング・エンジニアの梅津達男氏です。お楽しみに!