第44回 井上 鑑 氏 キーボード奏者/アレンジャー/プロデューサー
キーボード奏者/アレンジャー/プロデューサー
今回の「Musicman’sリレー」は、梅津達男氏からのご紹介で、ミュージシャン・井上 鑑氏のご登場です。桐朋音大在学中にCM音楽作家としてデビュー以来、キーボード奏者・アレンジャー・プロデューサーとして、寺尾聰氏の「ルビーの指輪」を始めとして、数々のヒット曲を手がけられた井上氏。音楽が溢れる家庭環境で育ちながら、あえて音楽を志さなかった少年時代から、音楽に目覚め、日本のポップ・ミュージックに欠かすことのできない存在になるまでを、じっくり語っていただきました。
プロフィール
井上 鑑(いのうえ・あきら)
キーボード奏者/アレンジャー/プロデューサー
1953年 チェリスト井上頼豊の長男として東京に生まれる。
和光学園中学校、都立青山高校を経て桐朋学園大学音楽学部作曲家在学中よりCM音楽を初めとする作編曲家、キーボード奏者として活動を始める。以後、アレンジャー・プロデューサーとして多数のプロジェクト、ヒット作品に参加。特に大瀧詠一氏とは自称師弟関係を70年代後半から維持し「NIAGARA SONGBOOK I・II」「幸せな結末」などに参加、最近作に至る。
1981年、寺尾聰 single「ルビーの指輪」、album「REFLECTIONS」でレコード大賞編曲賞を受賞。同年、single「GRAVITATIONS」でソロ・アーティスト・デビュー。以降、先鋭的なサウンドと現代詩ともいえる歌詞を駆使して、13枚のオリジナルアルバムを発表。その過程で様々なアーティストとの交流が国際的に生まれ、ロンドンとの2拠点化が1985年頃から進むのと平行して、David Rhodes等との交友から多数の作品が生まれている。また、1996年より国立音楽大学音楽デザイン科にて、新しい音楽語法についてレクチャアを担当。
- ロックアウトの最中で音楽に目覚めた高校時代
- 音大入学前に仕事を確約〜ON・アソシエイツ 大森昭男氏との出会い
- 空前絶後のピンクレディー・ツアー
- 「ルビーの指輪」で得た確信
- 師匠 大滝詠一が与えた衝撃〜東京-ロンドンの2拠点化
- 人との出会いがチャンスを生んだ
- 求められるのは「深い理解力」
1. ロックアウトの最中で音楽に目覚めた高校時代
--前回ご登場いただいた梅津達男さんとの出会いは、いつ頃だったんですか?
井上:最初は梅津さんのビクター時代だと思うんですが、ちょっと出会いは覚えていないですね。最近は吉田兄弟を一緒にやっています。あと、ソニーの女子社員二人組がデビューするという「Ray of light」というちょっと変わったプロジェクトがあって、それを去年一緒にやってましたね。
--お仕事ではかなりご一緒されたんですか?
井上:そんなに数は多くないのですが、最近またいくつか仕事をさせていただいたという感じですね。
--梅津さんの音づくりに対するご印象は?
井上:ギタリストの今剛君を知ったのが、梅津さんがエンジニアをやったパンタ&HALの「マラッカ」というアルバムだったんですけど、音を聞いたときにもちろんギターにも感心したんですが、その時の音の印象が強くて、ロックぽい音を作る人だなと思いましたね。メーカーの人なのに、メーカーの人っぽくない風貌で、それも印象に残っています。
--梅津さんとの面白いエピソードはございますか?
井上:自転車が印象に残っていますね。どこのスタジオでやってても、彼は必ず自転車で来るんですよ。ちょっとだけそういうことをして、すぐ続かなくなる人というのは結構いるんですが、ここ(Pablo Workshop)にも自転車で来ますよ。
--梅津さんはエコな方なんですかね(笑)。
井上:どうなんですかね。でも、ナチュラルな人ですよね。トレンドを追わないし、音楽の話はしませんしね(笑)。「あれ知ってる?」「これ知ってる?」といったディレッタントっぽい感じの話とかしたことがないんですが、「ちょっと待ってね」と言いながら、マイクのセッティングとか細かく色々変えていくタイプですね。彼は自分のペースを持っている人だと思います。でも一番印象に残っているのは、やはり自転車ですかね(笑)。夜中に仕事が終わって帰るときに、梅津さんの自転車を車で追い越すのが、大変申し訳ない気がしてね(笑)。
--ここからは井上さんご自身のお話を伺いたいのですが、ご出身はどちらでしょうか?
井上:東京です。実はここ(Pablo Workshop)が実家なんです。
--お父様が大変著名なチェリスト(井上頼豊氏)でいらっしゃいますが、どんなご家庭だったんですか?
井上:「家庭」という感じではなかったですね。どこかに連れて行ってもらったりとか、そういう記憶は一個もないです。母親はマネージャー役みたいな感じで、父親がリサイタルをやるときには案内状を作ったり、それを配送したり、色々な人に声をかけたりしていましたね。いわゆる一家団らんみたいなものがなかった家で、小さい時はどこの家もそうだと思っていたんですけど、小学校に入って友達の家に行ったら、全然違うんでビックリしましたね。
--ご兄弟はいらっしゃるんですか?
井上:妹と弟がいるんですが、結構年が離れているんです。弟とは13才離れているので、実質一人っ子みたいな感じだったんですが、ほったらかされて育ちましたね。でも、親戚が多い家族で、そういう人たちとの交流が多かったので、昭和の家族というか、人が一杯いるところで育ちました。
--幼少の頃から音楽の英才教育は受けられていたんですか?
井上:父親は全然強制しなかったですね。生まれたのは目白で、幼稚園は自由学園の幼児生活団というところに通っていたんですが、そこは音楽を結構しっかりやっていたんです。でも、あまりにも周りの人たちに「チェロやるんでしょ?」とか「音楽やるんですよね?」とか言われるので、僕は「絶対にやりたくない」と思いましたね(笑)。だから、「やらないよ」と言っていて、別に強制もされなかったので、ずっとやらなかったんですね。
--でも、ご家庭には音楽が溢れていたんですよね。
井上:そうですね。ずっとレッスンを聞きながら育っちゃったんで、自分は弾いていないのに、チェロのエチュードとか歌えちゃうんですよね(笑)。音楽を聞きに行くという意味でも、招待状が来たものとかに連れて行かれたりしました。
--本格的に音楽を始められたのはいつ頃なんですか?
井上:それは高校2年くらいですね。
--えっ、そうなんですか? それまで何か楽器を練習されたとかなかったのですか?
井上:ギターをちょっと弾いて、サイモン&ガーファンクルの真似とかしたこともありましたけど、一生懸命やっていたわけじゃないですね。僕は高校が都立青山高校なんですけど、入学したときはちょうど学園紛争の真っ直中で、都立青山というのは日本で唯一機動隊が入った高校なんですが(笑)、入学した途端に騒然としていたんですね。僕は小学校の終わりから中学までは和光に通っていて、和光というのは自由な学校だったので、そこから普通の都立高校に入っただけでもカルチャーショックなのに、学園紛争とか全共闘運動みたいなものとぶつかって、目が回ったような状態でしたね。
--なぜ、自由な和光から、荒れ狂った都立青山に行かれたのですか?
井上:騒ぎになったのは、僕が入学してからなんですよ。和光も自分に合った環境だったんですけど、このまま行っちゃって「ぬるま湯」っぽくなるのはどうかなと思ったんですよね。
--つまり、自らのご意志で都立青山に行かれたわけですね。都立青山は、今も大変優秀な学校ですよね。
井上:そうですね。「何を」というわけではなかったんですが、インプットのレベルは高い方がいいかなと思いましたしね。その後も、ずっとそういう風に思ってポジション取りをしているようなところがありますね。
--ちなみに井上さんはヘルメットを被ったりされたんですか?
井上:しましたよ、なにもわかっていなかったようなものですが。非日常的な体験でしたからね(笑)。僕らは学園紛争の煽りを一番受けた学年で、ヒッピーみたいになっちゃった人と、東大に行っちゃう人みたいに二極分解したんです。実際に僕の学年って、東大に行った人がすごく多かったんですよ。なぜかといえば、学校が封鎖されてたからなんですよ。授業がなかったから、みんな自分で勉強するしかなかったんですね(笑)。
--高校が封鎖されてしまったんですか!
井上:学園祭の前日に機動隊が入って、学校をロックアウトしちゃいましたね。それで3ヶ月か4ヶ月くらい授業がなくて、学校に行かなくていいわけです(笑)。その時に家でチック・コリアの真似とかするうちに、ピアノを弾くのはすごく楽しいということに気がついたんですよ。
--「チック・コリアの真似」って、簡単に真似できるものなんですか?(笑)
井上:どうなんでしょうね(笑)。それまで漠然と建築家っていいなと思っていたんです。でも、今だったらCADとかもあるし、イメージだけでもできそうな気がしますけど、その当時は数学とか、ちゃんとできなくても建築家にはなれると知らなくて(笑)、そのまま一生懸命勉強をして普通の大学に行くという選択肢を消された気分になったんですよね。それで「ちゃんと音楽の勉強をしようかな」と思ったんです。
--それで音大を目指されたわけですね。
井上:そうですね。高校一年生だったので、一回ダブってもいいから芸高(東京芸術大学 音楽学部附属音楽高等学校)に入って、そこで勉強しようかな? と思ったんですね。それで、当時、芸大作曲科の重鎮だった池ノ内友次郎先生がまだお元気で、親の関係もあって相談しに行ったんですよ。そうしたら、音楽学校を受験するために必要な基礎的なことを、何も勉強していなかったんで、「芸高に行くのは無駄じゃないか?」と言われて、「高校の間に少しずつ勉強して、大学から専門的な学校に入った方がいいよ」とアドバイスしていただき、若手の先生を紹介していただいて勉強し始めたん です。その時、将来職業的な音楽家になろうと決めたというよりは、「音大に行って少し基礎を囓ってから考えようかな?」くらいの感じだったんですよね。勉強のつもりもあって色々な音楽を聴いていた中に、そのエスプリと非常に厳しい姿勢を当時から尊敬していた三善晃先生の作品があって、「凄いな、この人の近くに行きたい」と思ったんです。その三善さんは、芸大か桐朋でしか教えていなかったので、「どちらかに入らなきゃ」と思いましたね。
--小さいときからピアノやヴァイオリンを本格的にやっても、なかなか受からないのが、芸大や桐朋だったりするわけじゃないですか? そういう中で高校から勉強されて、受かってしまうのは凄いと思うんですが。
井上:でも、演奏科じゃないですからね。例えば、管楽器や打楽器だったら大丈夫でしょうけど、ピアノやヴァイオリンは高校くらいから始めたんでは、演奏科に入れないです。僕が入った作曲科で求められるのは、指の技術とはまた違う部分なので、そこまでのハンディはなかったですね。作曲家の人で慶応とか出ている方とか一杯いますし、理科系の人もいますよね。
--学生時代にロックを聴いて…といった話ではなくて、とてもアカデミックですよね。
井上:言葉だけ並べちゃうとそうなんですけど、別に難しいことを考えていたわけじゃなくて、単純に音を聞いて「かっこいいな」と思っただけなんですよね。
--でも、今までのお話でジャズは出てきましたが、あまりポップスやロックのお話は
井上:出てきませんよね。そうですね。でも、ビートルズとか好きで聞いてました。ただ、いわゆるバンドってやったことがないんですよ。ついに一回もないですね。
2. 音大入学前に仕事を確約〜ON・アソシエイツ 大森昭男氏との出会い
--音楽業界との接点は、桐朋時代だったのですか?
井上:僕は一年浪人したんですけど、最初の受験は「無理だ」と言われて受けもしなかったんですね。ですから、一年準備期間と思って勉強していたときに、西武関係のコピーライターをしていた叔母が、永六輔さんと仕事仲間で、永六輔さんの何歳かの誕生パーティーで、叔母とパルコのイラストで有名な山口はるみさんがジェームス・テイラーの「You’ve Got A Friend」を歌うためにカラオケを作るから、「あんたピアノ弾きに来なさい」と電話がかかってきまして、叔母様たちの命令なので「はいはい」と行ったんですよ(笑)。その時は「どっかでカセットとかに録るのかな?」と思っていたんですが、「ちゃんと録るから、ここに来なさい」と言われて行ったのが、「飛行館」というスタジオだったんです。そこに行ったら、ON・アソシエイツ音楽出版というCM制作会社の大森(昭男)さんがスタジオにいたんですね。どうやら、叔母やはるみさんのためにスタジオを空けて、お友達関係でちょっと録音してあげましょうみたいな話だったようなんです。それで、「You’ve Got A Friend」をピアノで弾いたんですよ。有名な曲だし、予告されていたので、譜面も見ずに弾いていたら、大森さんが「あなた誰ですか?」みたいな感じで話しかけてきて(笑)、叔母は小池一子と言うんですが「小池の甥です」と言ったら、「今度事務所に来ませんか?」と言ってくれたんです。でも、僕が受験生だということで、「受かったらお手伝いしていただくかもしれません。その時は宜しくお願いします」ということになったんですね。
--桐朋入学前に仕事の目処が立ってしまったんですね(笑)。
井上:そうですね(笑)。
--でも、井上さんの才能を見抜いた大森さんも凄いですね。
井上:大森さんに会っていなかったら、今の僕はないですね。音楽の仕事はしていたとは思いますけど。それで学校に入ってから、大森さんのところへ遊びに行って、CMの仕事をぼちぼちもらったんですよ。
--’74年のCM音楽作家デビューのきっかけは、ON・アソシエイツの大森さんだったわけですね。
井上:そうです。スケジュールを大森さんのところであずかってもらっていたこともありました。僕は専属でも何でもなかったんですけど、他のところからあまり仕事は来なかったですね。
--大学に入った時には、CM音楽とかそういった方向を目指そうという気持ちがおありだったのですか?
井上:もちろん作るのは面白いし、スタジオって面白いなと思っていたんで、そういう意味で意識はあったんですが、CM音楽をやっていこうと思ったことはあまりないんです。その頃、演奏ができて楽しい場というのが米軍キャンプとかディスコとかにあって、CM音楽の仕事とは別に、赤坂のムゲンとか、横田、座間に入っているファンクバンドみたいなののトラとかやったりしてましたね。
--ムゲンにも出られていたんですか?(笑)
井上:ムゲンにも出たことはありますよ(笑)。箱バンではないですけどね。
--結局、桐朋は卒業されたのですか?
井上:いや、僕は中退しました。
--やはり、お仕事の方が忙しくなってしまったのですか?
井上:そうですね。桐朋は6年で切るので、6年目までいました。専門の授業はそれなりに面白いと思ったんですけど、一般教養が物足りない感じもあって、民族音楽系の講座とか作曲のレッスンだけ行っていたんです。父親が桐朋の教員でしたから学費が半額免除になっていたという裏事情もありまして、三善先生にもプライベートで習うよりも、学籍があった方が安くついたという事もあります。
--でも、忙しくてやってらんないと言うくらいに売れちゃったんですよね?(笑)
井上:あんまり長いスパンで考える年代ではなかったので、「そっちの方が面白いや」という感じで、結局行かなくなっちゃったんですね。そんなにきちんと選択しようとしたわけではなくて。
--その頃は作曲家の仕事が多かったのですか? それともアレンジャー、プレイヤーとしての仕事が多かったのですか?
井上:大森さんのところでは曲を書いて、演奏してという形でやっていたんですけど、その中でインペグ屋さんと知り合いになるわけですよ。そうすると「演奏だけやってくれないか?」という依頼が来るようになって、それからスタジオ・ミュージシャン時代が始まって、だんだんアレンジの仕事が増えていったという感じですね。
--キーボード・プレイヤーとして演奏の練習は、結構されたのですか?
井上:練習はあまりしたことがないですね(笑)。その時代は譜面が読める人とか、初見で弾ける人が今より少なかったと思うんですよね。あと、それまでのスタジオ・ミュージシャンはジャズの人が多くて、その頃流行り始めていた音楽が、もう少し8ビート・オリエンテッドな音楽で、松岡(直也)さんみたいな方に8分音符の連打を弾いてもらっても、何か少し感じが違うみたいな時代で、ロックっぽい雰囲気みたいなものに対するニーズがあったんじゃないですかね。
--ちなみに同時代、同世代のスタジオ・ミュージシャンはどなたになるのですか?
井上:なんといってもドラムの山木秀夫君ですね。仕事を始めた頃にご一緒する機会が多かったのは、ギターの杉本喜代志さんやベースの江藤(勲)さん。渡嘉敷(祐一)君もそうですね。
--その世代の方々は未だ現役で、下が育っていませんよね?
井上:というか、スタジオミュージシャンという職業が無くなってしまって、僕たちはその最後の世代という感じですね。でも、大事な人達にはその頃に会っていることは会ってますね。ポンタ(村上”ポンタ”秀一)さんに会ったのも、その頃ですしね。
--日本の音楽が急激にかっこよくなった時期の最先端で活動されていたわけですよね。
井上:そうなんですかね。それまでのスタジオ・ミュージシャンの方々は、演奏したらおしまいっていうジャズの感覚なんですよね。だから、正しく録音できていれば、プレイバックを聞いて「違うんじゃないか?」という姿勢を持っている人はあまりいなかったと思うんです。スタジオに来たら、一刻も早く手際よく終わって、お金をもらって帰るみたいな雰囲気でしたね。それに較べると、僕らはずっと甘っちょろくて、「もっとこうやったらカッコよくなるんじゃない?」とかやってましたからね。また、ポジションは違うんだけど、スタッフ側にも、成長していくスピードとスタンスが似ている人たちが一杯いた世代なんですね。
--大変下世話な話ですが、当時のスタジオワークというのは、とっぱらいでギャラをもらえた時代ですよね。
井上:そうですね。
--1日に何本もスタジオを掛け持ちして、多いときにはどのくらい稼げたものなんですか?
井上:それはもう滅茶苦茶なお金だったと思いますよ(笑)。こんなにもらっていいのかな? と思いましたもんね。例えば、音響ハウスに最初に入ったときは、そのスタジオの中にあるものとその雰囲気に驚きましたけど、終わってインペグ屋さんから、「はい、1曲1万円」みたいな感じでお金をもらったときには、「こんな世界があるのか」と本当にビックリしましたね。ただ1つ良かったのは、父親が音楽人なので、言葉で言われたことはないんですけど、「そんなに甘くないんだ」ということを、父親のやっていることを見て感じていたんです。もちろん舞い上がっている部分もあったと思うんですが、「ここは一山当てて…」みたいな気持ちにはならなかったですね。ただ、そうなっている感じの人はたくさんいましたよね(笑)。
--そうなんでしょうね(笑)。
井上:何かすごかったですよね。スタジオの中でお札並べてポーカーやっている人とかいたじゃないですか? 「ヤクザな世界だな…」と思いましたよ。
3. 空前絶後のピンクレディー・ツアー
--ピンクレディーの作品に関わるきっかけは何だったのですか?
井上:都倉俊一さんのスタジオ仕事というのを、結構一杯やっていたんですね。それで気に入ってもらったんだと思うんですけど、都倉さんもクラシックぽいのが好きだったので、僕に近い部分を感じたのかもしれませんね。ピンクレディーだけじゃなくて、都倉さんの作・編曲の仕事というのは大体呼ばれるミュージシャンが決まってて、そこに混じっていたので、その流れでピンクレディーの一連の曲もやりました。
--それはスタジオミュージシャンの集まりだったのですか?
井上:そうですね。今でも同じだと思うんですが、人脈的に何となく固まるというか、アレンジャーと演奏者はある程度コミュニケーションが取れてくると、チームっぽく動くんですよね。そのチームで動いていると、スケジュール的に他の仕事が入り辛くなる状況がありましたね。それで、都倉チームみたいな集団の中でやっていた時期にピンクレディーがあって、その流れでライブにも参加しました。
--ツアーも回られたんですか?
井上: 半年くらいやりましたね。三大都市だか五大都市で、スタジオミュージシャンのセットを使ってやるというプランを飯田(飯田久彦氏:(株)テイチクエンタテインメント 代表取締役社長)さんが思いついたらしく、スタジオで飯田さんに「こういうのをやるから宜しくお願いします」と言われて、それはもう「ハイ」と言うしかないですから(笑)。それで、凄い数のライブをやりましたね。超高級ホテルに泊まらせてくれるんですが、大阪に10日くらいいて、そこから九州と四国、北陸に行って大阪に帰るという(笑)、なんか凄いスケジュールなんですよね(笑)。
--大阪が本拠地(笑)。
井上:そうなんですよ(笑)。だから全然家にいれないというね。そのことが苦になる年代ではなかったんですけど、あまりに本数が多いし、その頃は自分でアレンジの仕事を始めていた時期なので、他のこともやりたいし、やらないとインプットが足りなくなるなと思って、お願いしてメンバーから外してもらったんです。おかしかったのは、他のメンバーの人たちも同じことを感じていたらしくて、僕が外れるとなった時に「鑑が辞めるんだったら…」みたいに、みんなが僕のせいにしてね(笑)。
--井上さんが口火を切ったわけですね(笑)。
井上:今でもあの本数はできないんじゃないか? と思うくらいやってましたからね。だって、地方を続けて回るときには、2番手のバンドの人たちがツアーをやったりしてましたから。
--バンドの控えがいたんですか! でも、ピンクレディー本人達は全部やるということですよね…。
井上:そうですよ(笑)。
--ピンクレディーのツアー中はどんな感じでしたか?
井上:うーん、普通に滅茶苦茶だったと思いますけどね(笑)。ピンクレディーのツアーで印象に残っているのは、ツアーバスが暴走族に囲まれて移動するんですよ。その光景はちょっと異様でしたね。あと、彼女たちを見てて「かわいそうだな」と思いましたよ。オーバーワークというのももちろんですが、ステージにどんどん客が上がってくるのを目の当たりにして、「もうちょっとちゃんと聞いてあげたらいいのにな」と思いましたね。ピンクレディーって、日本の音楽の売り方というか、在り方を変えたじゃないですか? 世代を越えたのは良かったんだけど、低年齢の人たちがイニチアシブを取り過ぎちゃったところがあると思うんです。例えば、ヒット曲の数々にも都倉さんなりのユーモアとかウィットがあって、上質なパロディだったりする部分が一杯あるんだけど、それが通じていない感じがするんです。本人達もそういうことをある程度理解してやっているのに、リスナーに伝わっていないのは残念だなと思いますね。
--あまりにもファンが低年齢化しすぎたが故に、そういう部分が顕著になってしまったんでしょうね。
井上:ブームっていうのは凄いなという感じですね。でも、その時に色々なことを見たのは、勉強になりましたね。
--それ以降ツアーはなさっていないのですか?
井上:長いツアーというのは、参加していないですね。寺尾(聰)さんの曲が売れたときにツアーをやったんですけど、その時も僕はお願いして、ツアーには出なかったですね。僕の場合、同じ曲を毎回同じように演奏するのがあまり楽しくないんです。アレンジャーにとっては必要なことなんですが、演奏しているとどんどんアイディアが思いついちゃうんで、その時の流れで変えたくなっちゃうんですよ。旅自体は好きなので、家を離れて旅行することは、全然苦痛じゃないんですけどね。
--毎回リハーサル通りの音を出すことに苦痛があると。
井上:辛い部分はありますね。ピンクレディーなんか一番そうで、変えられる部分に限りがあるし、きっかけをちゃんと出してあげないと、彼女たちはわからなくなっちゃいますからね。とにかく最初からプロ意識がないまま、ここまで来ちゃったんで(笑)、そういうところでは向いてないなと思う部分があったんですよね。
--’80年に「パラシュート」へ加入されますが、これは最初から参加されていたわけではないのですか?
井上:パラシュートのメンバーは、僕がアレンジャーとして、いつも仕事をお願いしていた人たちで、仲の良い仲間達だったんですね。それで小林泉美さんという優秀なキーボード・プレイヤーがいたんですが、彼女がバンドから離れてしまったので、「キーボードをサポートして欲しい」ということで何度かサポート・メンバーとしてライブを手伝ったりするうちに、「メンバーにならない?」と持ちかけられたんです。
--それにしても凄いメンバー(林立夫、斉藤ノブ、松原正樹、今剛、マイク・ダン、安藤芳彦)ですよね。
井上:バンドといってもスタジオ・ミュージシャンの集まりなので、全体のマネージメントはありましたけど、そこがずっとコントロールしている感じではなかったですね。そういう意味でも「バンドに入った」という経験にはならないかもしれませんね。
--パラシュートでの活動は楽しかったですか?
井上:楽しかったですよ。それと同時にすごく勉強になりました。最終作の3枚目はロスで作ったんですよ。1ヶ月以上ロスにいて、プロデューサーはアメリカ人だったんですね。もちろん演奏は自分たちでやりましたし、プロデューサーが立っているとはいえ、全部のイニチアシブを握られていたわけではないのですが、向こうのサウンドプロデューサーとやりとりしながら録音するというのは、その当時としてはなかなかできない経験でしたね。もう一つは他のメンバーとの信頼関係ですよね。最初はアレンジャーとプレイヤーという雇用する側とされる側という関係だったわけじゃないですか? 当然「それだけで繋がっているわけではないはず」という気持ちはあったんですが、それがイーブンでいられる本当の友人関係を築けたのは嬉しかったですね。「仲間に入れてもらえたんだ」みたいな感じでね。
4. 「ルビーの指輪」で得た確信
--先ほどもお話に出た寺尾聰さんの「ルビーの指輪」は、凄かったですが、寺尾さんのアルバム「REFLECTIONS」は全て井上さんのアレンジですよね。
井上:そうですね。
--東芝EMIのビルはその売り上げのおかげ、とか言われていましたよね(笑)。
井上:言われましたね(笑)。
--「ルビーの指輪」のインパクトはありましたよね。寺尾さんもいい曲を書いたなと思いましたし、リズムも不思議な感じがして、アレンジも高度なんだけど、ポピュラリティーもあるという。
井上:確か「ルビーの指輪」は何曲か録ったあとにやった曲なんですよ。
--デモテープを聞かされた時は、アルバムになるくらいの曲数をまとめて聞かされたんですか?
井上:最初は東芝サイドも、寺尾さんは俳優として知名度があるから、ある程度行くんじゃないか? という感じだったんです。「ヨーロッパぽい大人のロックをやっている俳優さんがいるんだけど、アレンジしてくれないか?」という話を武藤(敏史)さんから頂いて、それを聞いたら少し不思議な感じだったんですよね。それで1曲目(「SHADOW CITY」)が評判良かったから、アルバムという話だったと思うんですよね。
--最初に「ルビーの指輪」のデモを聞かされたときは、どうお感じになりましたか?
井上:最初にデモテープを聞かされた時には、「おしゃれだな」と思いましたね。あと、「跳ねているな」とも思いました。最近は違いますけど、その当時は跳ねている曲が少なくて、シャッフル系の曲は日本ではあまりヒットしないじゃないですか? ただ、最初からシングルと言われていたかどうか、覚えていないんですよね。結構その頃って忙しかったんで、大急ぎでやって間に合わせて…。
--もしかして、「やっつけ仕事」…。
井上:そんなことはないですよ(笑)。言葉にしたことは全然ないんですけど、その頃ギターの今剛君と僕の間には何か「スティーリー・ダンのような音楽を売ってやろう」という気持ちがあって、ギターとキーボードでどういう風に組み立てていくとスティーリー・ダンの「ガウチョ」みたいになるか? という一種ゲームっぽい感覚でチャレンジしていた時期なんですね。寺尾さん自身もそういうことを喜んでくれる人だったので、いい意味でトライできる環境でした。その当時フレーズを考えては音にして、ということをしていたんですが、それが上手いこと寺尾さんの感性と時代にぴったり合ったんですよね。あと、松本(隆)さんの詞も大きいと思います。街でルビーの指輪を見かけることなんかありえないんだけど(笑)、それにリアリティーを感じてしまうのは、松本さんの才能だと思います。売れたのはもちろん音楽も大きいですけど、49パーセントは確実に松本さんの力ですよ。
--「ルビーの指輪」がドーンと売れたときは、どんな感じだったんですか?
井上:その頃は祖師谷大蔵に住んでいたんですが、マンションの周りの人たちの態度が変わったんで、過ごしやすくなりましたね(笑)。それまでは胡散臭いというか、「バンドマン?」みたいな感じだったんですよ(笑)。それが「井上さん!」と言ってくれるようになって(笑)。まぁ、それは半分冗談なんですが、ある程度スタイルを認知されたと感じたので、嬉しかったですね。アレンジャーを始めた時から「鑑君のアレンジはかっこいいけど、小難しい」とか言われていたんです。「“スティーリー・ダンみたいだ!”と喜ぶのはスタッフとスタジオの中にいる人たちだけで、マーケットは関係ないんだし、あんまり思い上がんない方がいいよ」とか言われながら仕事してきたわけです。そんな中で寺尾さんの曲が売れて、「何だ売れるじゃん」って思いましたね(笑)。また、売れたことで、雑誌の取材とか、TVの仕事はもう少し前からしていたんですけど、昔の編曲家とは違うトータルに音楽を作る立場というのが形に成りうるんだということを、寺尾さんとの仕事で実感しましたね。
--寺尾さんとのお仕事が大きなきっかけをあたえてくれたんですね。
井上:そうですね。自信を持ったと思います。
--結果的に寺尾さんのアルバムは、井上さんにとって会心の作となったわけですか?
井上:今でも寺尾さんの作品は、聞いて不満がないですね。いつも思うんですが、半年に一曲くらいすごく納得できるレベルに辿り着ける時があって、寺尾さんの時はそういう曲が多かったですよね。特にアレンジは原石の魅力あってこそのもので、その原石の魅力はやっていくうちにわかる場合と、最初から感じる場合の2パターンあるんですが、寺尾さんの場合は前者で、演奏していくうちにどんどん良くなっていきましたね。
--寺尾さんとまた一緒にやろうという話はないんですか?
井上:折に触れて、寺尾さんを誘っているんですが、寺尾さん自身がボヘミアンな方なので、なかなかやる気になってくれないですね(笑)。続けていって、ジャンルとして定着してくれたら、みたいな気分はあるんです。でも、今の寺尾さんは俳優としてのアイデンティティが強いのかもしれませんね。
--三十年周期くらいですかね?(笑)
井上:もともと、寺尾さんの場合は「当ててやろう」という気がなかったわけです。ご自身はグループ・サウンズをやっていたとはいえ、純粋に音楽ファンで、歌って弾いてというのが楽しいというところの延長で、「鼻歌を歌っていたら、できちゃったよ」というような成り立ちだったので。
5. 師匠 大滝詠一が与えた衝撃〜東京-ロンドンの2拠点化
--頂いたプロフィールに「自称師弟関係」ということで、大滝詠一さんのお名前がありますが、どのようなご関係なのですか?
井上:大滝さんも、きっかけは大森さんなんですよ。大森さんが大滝さんを使って、「三ツ矢サイダー」とか有名なCMを作っていらっしゃって、そのCMの面子も、はっぴいえんど〜キャラメル・ママみたいな贅沢な人たちでやっていたんですけど、教授(坂本龍一氏)が偉くなっちゃったんで、代わりといっては何ですが、「こんなのがいるんだけど」ということで連れて行かれたんだと思うんですよね。
--教授の後釜ですか?
井上:うーん、教授か佐藤博さんのどちらかですよね(笑)。
--大滝さんとのお仕事はやはり刺激がありましたか?
井上:そうですね。大滝さんはホームスタジオのハシリと言いますか、福生のご自宅でレコーディングをしていたんですね。それで初めて福生に行ったときに、僕は徹夜明けで大森さんの車に乗って行ったんですけど、紹介されてすぐアップライト・ピアノの下で寝たと、大滝さんはいつも言うんですよ(笑)。僕はそれを覚えていなくて、大滝さんが話を大きくしているんじゃないかな? と思うんですけどね(笑)。それで大滝さんは「こいつは」と思ったらしいんです(笑)。まあ、その話はともかく、僕はルーツにアメリカン・ポップスとかがないんですよね。ビートルズは知っているけど、ストーンズは知らなかったりとか、ビートルズ周辺の音楽は、一般の人と同じようにヒットチャートに上った曲をおぼろげに覚えているくらいなので、大滝さんと丁々発止で渡り合えるわけもなく、大滝さんが言うミュージシャンに「何それ? 知らない」みたいな感じだったんですよ(笑)。
--あまりポップスには興味がなかったんですか?
井上:興味があれば遡って追っかけたと思うんですよ。でも、そういう感じでもなかったですね。ですから、何にも知らないんだけど、大滝さんの要求には応えていたんでしょうね。「何も知らないのに、よく弾くやつじゃん」みたいな感じで面白がられたのか、大滝さんも理屈っぽいし、斜めなギャグばっかり言う人なんですけど、その辺では僕も負けないので(笑)、気があったのかもしれませんね。でも、本当に大滝さんの影響は大きいですね。大滝さんがいてこそ「プレスリーってすごい変革者だったんだ」と思いましたし、大滝さんが福生でやっていたときの周りの人たち、例えばムーンライダースの鈴木慶一君とか白井良明君とか、作品を聞いたことはあったんだけど、その時点での自分の尺度が、キース・ジャレットやチック・コリアだったので、あまり引っかからなかったんですが、そういった人達の力を理解することが出来て、接点ができたというのも大滝さんを通じてなので、非常に感謝しています。
--本当に大きな出会いだったんですね。
井上:ええ。先生ですね。まさに師弟関係なんですよね。直接細かいことを教えてくれたわけではないんですよ。ただ「面白い」ということを教えてくれて、「面白い」となれば自然とそこに目が行くんですね。あと録音の仕方とか、録音の機微というか良いところをつかまえる術を教えてもらったような気がします。大滝さんのやり方は一見エキセントリックなんですが、徹底的にロジックなんです。すべてに理由があって、「気分」ということが一切ないんです。そういう人がいるんだということ自体驚きだったし、日本にこういう人がいるっていいなと思って、自分のやり方も変わりましたね。色々ありましたよ。「河原の石川五右衛門」という曲を作って、「名作だ!!」とか言って大滝さんと大喜びしたんですけど、怒られちゃって発売できなかったんですよね。
--何故発売できなかったんですか?
井上:「渚のシンドバット」のパロディなんですけど、詞が引っかかったんですよね。
--「ふざけるな!」ということですか?(笑)
井上:そうですね(笑)。もちろん、ふざけているんですけどね(笑)。
僕としては自分の結婚式の時に大滝さんに「『河原の石川五右衛門』を歌ってください」と頼んだりするくらい、気に入っている作品なんですけどね。
--今その歌は聴けるんですよね?
井上:今は大丈夫ですよ。その当時だけですね。
--’85年からはロンドンにも拠点を置いて活動されていますが、きっかけは何だったのですか?
井上:そもそもは2枚目のオリジナルアルバムをロンドンで作らせてもらえた経験からです。その体験で受けた印象の強さがとても大きかったわけです。大滝さんとの出会いの中で、みんな方法論をちゃんと持ってやっているんだということを教えられたんですよね。考えてみたら、クラシックを勉強する場合には大抵留学して勉強するわけじゃないですか? 日本のポップスも、方法論としてはオリジナルじゃないわけです。録音の方法なんかも、外国へ行って録音すると、全然アプローチが違って、音も違う。でも「そっちがいいから、そっちへ行きたい」というほど単純ではなかったのですが、もう少しじっくり体験したいと思うことが何度もあったんです。ちょうどその頃、ピーター・ガブリエルやXTC、キング・クリムゾンやイギリスのバンドでただ単にポピュラリティだけを狙っているんじゃない感じのグループが好きで、ロンドンは弟が住んでいたり、子供の時から兄弟みたいに育った友達がたまたま住んでいたりと、身近な感じがする街だったので、そこで実習しながら活動したいなと思っていたんです。その前に杏里のアルバムプロデュースをした時に、ピーター・ガブリエルのバンドで今もギターを弾いてるデヴィッド・ローズと初めてスタジオワークを一緒にして、仲良くなったんです。それでポニーキャニオンのディレクターだった坪野(隆)さんと、朝妻さん(朝妻一郎氏:(株)フジパシフィック音楽出版 代表取締役社長)に「デヴィッドとデュオアルバムを作りたい」と相談をして、ファイナンスをしてもらえることになって、だったら腰を落ち着けて1年くらいは、向こうを中心にしようと思ったんですね。それで打ち合わせから、曲作り、プリプロをやって、デモテープを作って、レコーディング、ミックスというのを全部向こうでやったんです。別に移住とかは考えていなかったですし、今もそれはないんですが、向こうに家は持っているんです。ただ、絶対に甘くないですよね。そう簡単に同化できたり、混ぜてもらえるような環境じゃないということは、見聞きしているとすごくよくわかるんですけど、東京にいると曲がってしか伝わってこないことも一杯あるなとも感じましたし、本当に勉強しに行くというか、インプットしに行くという感じで行ったり来たりしていますね。
--当時、井上さんがイギリスに行かれたときは「移住かな?」と思ったんですけどね。
井上:みんなそういう風に思っているなと感じたんですが、別に否定するようなことでもないしね(笑)。移住してもよかったんですが、子供が小学校に入ったりとか日本での時間も増えていましたし、視点をデュアルに持つという事が主眼だったんです。
--日本とイギリスのインターバルはどのくらいなのですか?
井上:長くて1年近く行っていました。ただ、ビザとか取っていたわけではないので、出たり入ったりしていましたけどね。その後も多いときは1/3がロンドン、2/3は日本という感じですね。
--現在もロンドンと日本を行き来されているんですか?
井上:ペースは落ちてきていますが、今も続いています。
6. 人との出会いがチャンスを生んだ
-- 寺尾さんとのお仕事時が28才で、それ以降絶えず第一線でご活躍ですよね。
井上: そうですねえ(笑)。しばらくは第一線じゃなかったんですけどね(笑)。福山(雅治)君が呼び寄せてくれて、またオリコンにも近づけて感謝してます。
--でも、流行り廃りの激しい音楽業界で、これだけ長くご活躍できるというのは、本当に凄いことだと思います。
井上: やはり、人との出会いに恵まれたんだと思いますね。内沼さんのインタビュー(Musicman’s リレー第41回)を読んでいて、「やはり同じなんだな」と思いました。人を捕まえるのは、もちろん自分の努力も必要ですが、出会いのタイミングを逃しちゃ駄目なんですね。寺尾さんの時も、寺尾さん自身に会う前に、新田(和長)さん、武藤さんとの出会いがあって、さらにその前には坪野さんとの出会いがあって、坪野さんに初めてフルアルバムの仕事をさせていただいたんですよ。それは冒険だったと思うんですよね。僕はちゃんとエスタブリッシュされていない若手という状況だったので。
--それはおいくつの時のお話ですか?
井上: 今君と初めて会ったときの話ですから、25才くらいかな? いや、ピンクレディーよりも前かもしれないですね。結局、坪野さんが、新田さんや武藤さんに「こんな奴がいるよ」と言ってくださったんだと思うんですよ。僕らが今プレイヤーとかエンジニアをチョイスする時には、自分が信頼できる耳を持っている人の言うことが、一番の財産じゃないですか? 僕の場合は最初、大森さんに出会えたということが一番大きくて、大森さんの耳を信じる人が周りにいて、その中に入ることによって、また広がって行くというね。そういう人たちに、僕は勉強のチャンスをもらったんです。また、今みたいにトータルでコーディネートして、戦術がハッキリしていないとお金を動かせない時代と違って、チャレンジが許される時代でしたしね。「こう思ってやったんだけど、上手くいかなかったな」という仕事は一杯あったし、クライアントの方から見てもあったと思うんです。ただ、待てる時代だったというのがあって、アイドルの人たちも年に2枚、3枚と平気でアルバムを出していたじゃないですか? そうするとシングル曲以外は、プレイヤーなりアレンジャーのカラーでも良かったんです。例えば、松田聖子さんにしてもアルバム曲では、割と趣味っぽいことができた時代だったんですね。そして、売り上げ的には中堅くらいの人たちが、一杯アルバムを作れていたので、仕事の中で今までやってなかったことを要求されたり、色々トライできる時代にいたのはラッキーだったと思いますね。シンセサイザーのダビングなんて、よくあんなの許されていましたよね(笑)。フィルターをちょっといじるのに4、5時間かけたり(笑)、そんなに変わらないですよ(笑)。
--スタジオとしては嬉しい時代でしたよね(笑)。
井上: ええ。「なんで毎日徹夜しているのかな?」と思いながら、やってましたからね。
--音決めに1週間、みたいな感じでしたよね。
井上: そうですね(笑)。ビジネス的には甘かったかもしれませんが、そういうのがないと、メッセージとしては強いものができないので、必要だったと思うし、今足りないことだと感じますね。
--井上さんの経歴は日本のポップミュージックの歴史とでも言えるような幅広さですね。大変失礼な言い方かもしれませんが、井上さんは「使い減りしないミュージシャン」なんでしょうかね?(笑)
井上: 何なんでしょうね(笑)。僕は本当に「プロ意識」がないんですよね。面白くてやっているということに尽きてしまうんです。1つ言えるのは、その時代その時代のものを全面に出していないので、「またか」と思われないで済んでいるのかな? と思っていますけどね。
--でも、この安定感、浮き沈みのなさは驚異的だと思います(笑)。
井上: 何となく色々な人が現れて、その出会いの中でやってきていますよね。やはりミュージシャン同士のネットワークとか、意識して助け合っているわけではないんですが、深いところでサポートし合っている部分はあると思います。あと、エンジニアですよね。エンジニアの人たちのレベルが、最近凄く上がったので、昔やりたくてもできなかったことができるようになっているんですよね。やっていることは昔と同じでも、出来上がりが昔より良くなっている。そういうこともあるんじゃないですかね。
--それは、例えばハードディスク・レコーディングとかですか?
井上: いや、それ以前に耳が良くなっているということですね。
--海外と日本との差がなくなってきた感じですか?
井上: 仕事の仕方で差は大分あるんですけど、純粋に技術的なことだけを言えば、かなり無くなってきているかもしれません。でも、もともと差なんかなかったのかもしれないんですよ。場と素材が与えられなかっただけかもしれない。例えば、ボブ・クリアマウンテンと比べたとしても時間制限を与えてミックスしたら、絶対内沼さんの方がいいです。それは200%の確証を持って言えます。だって、ボブ・クリアマウンテンはハイハットの音決めに、2日くらいかけているわけでしょう? それと日本のエンジニアの人を較べてもしょうがないんだということは、1年イギリスで仕事をしていたときに、つくづく思いました。向こうのエンジニアと仕事をすると、最初は「これで平気かな?」という感じなんですよね。でも、3、4日すると「これしかない」と思うようなものができてくるんです。また、違う方向に行ってしまったときに、「そうじゃなくてこうなんだよね」と話をすると、「あぁ、そうなんだ」とか言って、いきなりフェーダーを全部下げちゃったりして、ビックリしちゃいますよ(笑)。「ほんのちょっと変えればいいんじゃないの?」とか言うと、「いや、君が言ったことは、僕の考えていたことと全然違うんだ」って、また一からやり直しますからね(笑)。「えっー」って思うんだけど、2日くらいすると「ちゃんと話は通じてたんだ」とわかるんですね。
--イギリスでは皆さんがそういった余裕を持って仕事をされているんですか?
井上: そうだと思いますよ。余裕を持ってというか、彼らはそういうやり方しかできないんですよ。
--そうなんですか。文化の違いなんですかね。
井上: そういう仕事の仕方なんだと思います。よく「譜面を読めない」という言い方をしちゃいますけど、僕が見ている限りでは、「譜面を読めない」んじゃなくて、「譜面を使わない」やり方をしているだけなんですよね。例えば、デヴィッドと曲を作ったりするときは、お互いに座って「キーは何にしようか?」って始まるんですが、そんなやり方したことがないし(笑)、日本のバンドの人たちだって、大抵誰かが自宅で作ってきたデモ・テープを聞いて、「この曲いいね」とかやるわけじゃないですか(笑)。曲を作ることを「スクラッチ」と言うんですけど、本当にスクラッチしていく感じで、最初は何を尺度にしているのかわからなかったですね。「じゃあ最初はD」とか言いながら、二人でギターを弾いて、「次は何にする?」「じゃあ、Em」とか(笑)、「何だよ! これは」という感じなんですけど、そうやっていくうちに曲はできていくんですよね。それで、ある程度作ったものを「次、会うまでに考えておこう」とそれぞれが持ち帰るんですが、最初の頃は僕も油断していて、日本で仕事をしていた雰囲気そのままに「またスタジオに行ってから考えればいいや」と思っていたんです。ところがデヴィッドの家に行ったら、もうコーラスとか入っていて、コードの進行も変わっていたんですね。日本では「これを持ち帰って、お互いに考えて」と言っても、進んでいく先を予測してバランスを取るというか、極力摩擦を減らす方向に考えていくじゃないですか? でも、デヴィッドは、まだどんな曲になるのかもわからないのに「こういうことを思いついたから」って、どんどん音を重ねているわけです。つまり、彼らはただ時間をかけているだけじゃなくて、色々な方向から煮詰めているから、結果としていいものができるんですね。
7. 求められるのは「深い理解力」
-- 同業者で井上さんが一目置かれている方は誰ですか?
井上: 一番近いところで凄いなと思うのは、塩谷哲君ですね。哲君を見ていると「早くから勉強していれば良かったな」と思いますね。あんなにピアノが弾けたらいいなと。彼は本当に素晴らしいですね。
--塩谷さんはとてもお若いですよね。
井上: 若いですよ。世代的にいえば、2、3世代若いです。彼は僕がコンサートをしていたときに、お客として聞きに来てくれていたんですよ。
--では、歌手の方では?
井上: 歌手で最近凄いと思ったのは、吉田美奈子さんですね。アリナミンのTVCMの仕事をしたんですが、その時歌っていただいた歌は凄かったです。でも、凄いと思う歌手は一杯いますよ。大滝さんや井上陽水さんもそうですし、福山君も凄いと思います。あと、本田美奈子さんも素晴らしいですね。彼女は本当に天性の歌手だと思いますし、彼女と仕事をするのは楽しいですね。
--本田美奈子さんはミュージカルでもご活躍ですよね。どうしても「1986年のマリリン」のイメージが強いのですが。
井上: いや、最近の彼女の作品も是非聞いて欲しいですね。クラシックの曲を歌っているんですけど、これがまた素晴らしいんです。コロムビアのクラシックのセクションで作っているんですけどね。
--サラ・ブライトマンみたいですね。
井上: サラ・ブライトマンよりも、もうちょっと仕掛けを少なく作っている感じですね。彼女は最近詞を書くようになりましたが、曲を書くわけではないので、シンガーソングライターっぽい説得力ではなくて、純粋に歌い手としての説得力が凄いんですよ。ここ(Pablo Workshop)でキー合わせとかするんですけど、「この曲のキーをどうしようか?」なんてやっているうちに、彼女のスイッチが入って、ステージで歌っているのと変わらない感じになってしまいますね。
--新人の中で耳にとまった方はいらっしゃいますか?
井上: BUMP OF CHICKINですかね。でも、もう彼らは新人じゃないですね(笑)。
--若い人たちの音楽は結構チェックされているんですか?
井上: いや、全然していないです。耳に自然に聞こえてきたものと、自分が信頼している耳を持った人がいいと言ったものは聞きますけどね。
--’96年から国立音楽大学でレクチャアをされていますが、これはどのようなことを教えていらっしゃるんですか?
井上: これは音楽デザインという学科の講義なので、コンピューターを使って音を作る勉強をしている生徒達を相手に教えています。そこで教えている莱(孝之)君というコンピュータ音楽の作曲家が、大学の同級生なんです。莱君とは大学の時に、ヨーロッパを貧乏旅行した仲で、各地の現代音楽のフェスティバルを見て回りました。音楽デザイン学科は、その莱君が中心になっている学科で、僕がクラシックじゃない音楽のことを教えるというのと、シーケンスとかProToolsそのものを教えるわけではないですけど、新しいデバイスを使った音楽の作り方を教えているんです。
--これは週一回くらいのペースで教えているんですか?
井上: そうです。アンサンブルみたいなものをみんなでやって発表したり、アーティストを一人決めてその人について調べたりしています。そこではジョニ・ミッチェルとかを取り上げましたね。
--そこから音楽業界に進まれた方は結構いらっしゃるんですか?
井上: 技術系では結構いますね。ヤマハやコルグで働いている子もいるし、VJソフトとかを作って小金を儲けた子とかいますよ(笑)。長続きするのかどうかわかりませんけどね(笑)。この学科は、純粋に音楽家になりたいという人たちばかりではないので、コンピュータ・オタクみたいな子もいるんですよ。一応教えていることになっているんですけど、実質クラブの顧問みたいな感じで、教育者としての意識はあまりないので、「役立つことは提示しましょう」という感じですね。逆に毎年1年生の子に、自分が一番認める音楽と認めない音楽を持ってきてもらって、ディベートする授業を最初にやるんですが、それが面白くて、すごく勉強になります。僕がまるで知らないものを持ってくるし、感覚的にも「そういう風に音楽を捉えるの!」と認める場合と、「それは変じゃない?」と思う場合と両方ありますね。面白いですよー、最高も最低もクラフトワークとかそんな子がいるんですよ。クラスのみんなで聞くんですが、全然違いがわからないんですよね(笑)。それで「何が違うんだ?」って聞くと、その子が認めない方の曲に関して「これは悪魔に身を売った」とか言って(笑)。
--面白いですね(笑)。教えているのか、教えてもらっているのかわからない感じですね(笑)。
井上: いや、教えてもらっているんですよ。
--最後にアーティストを目指している若い人達に何かメッセージを頂きたいのですが。
井上: 癪ですけど、英語を勉強しなさいということですかね。
--「癪」というのは何故ですか?
井上: やはり、日本語だけでやっていけたらいいなと思いますよね。日本人だし、日本語の美しさというのも感じますしね。ただ、ある程度のレベル以上になりたかったら英語は必須だと思うんです。特にこれからの世代の人たちはそうだと思います。
--それは「海外のシーンにもっと積極的に出て行って欲しい」という意味でもあるわけですか?
井上: それもなくはないんですけど、例えば理解する幅の問題で、戦前の日本の音楽家ってドイツ語を読めたりして、ゲーテとかスラスラ読んではいなかったでしょうが、原典で知ってたりしたわけです。英語で、と言ったのはビジネス的に英語でないと、という意味で、それがフランス語であろうとドイツ語であろうとかまわないのですが、ただ日本の中の尺度だけで、誰かが咀嚼したものを受け取るんじゃなくて、例え間違っていてもいいから、自分の感覚で受け取ることが大切だと思うんです。よく学生に「キース・リチャードは“俺”って言っていないかもしれないよ」と言うんですよね。「どうして、ポール・マッカートニーの“I”が“僕”や“私”で、ミック・ジャガーの“I”は“俺”なの?」ってね(笑)。ビートルズが売れてしまったから、ストーンズは不良でいこうとなっただけで、家柄でいったら、ミックの方が全然良い家柄なわけですからね。言っていることというのは、そういった部分で曲がる可能性があるわけで、曲がる前のものを受け取る力というのが大事だと思うんです。音楽そのものに関しては、耳さえよければ何に関してもピュアに受け取れるはずなので、それ以外の文字情報は自分の理解力が全てじゃないですか? だから深い理解力を持っている人の方が、長い間活躍できると思います。短期間でいいんだったら、いくらでもチャンスはあると思うんですけど、5年10年自分の好きな仕事を続けていくには、それなりの覚悟と努力が必要だと思いますね。
--本日はお忙しい中、ありがとうございました。益々のご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
インタビュー中の井上氏は、何度も「インプット」という言葉を口にされました。現状に満足せずに、絶えず新たな「インプット」を求める姿にこそ、これほどまでに長い間、井上氏が第一線でご活躍できる秘密があるような気がします。「僕は本当にプロ意識がない」とおっしゃる井上氏ですが、知的好奇心を働かせ、時流に流されることなく、自然体で活動される井上氏こそ、プロ・ミュージシャンの1つの理想型なのかもしれません。
さて、井上氏にご紹介いただいたのは、デビュー直後の福山雅治氏をトータル・プロデュースし、今日の成功へと導いたグーフィー森氏です。お楽しみに!