第46回 鈴木 伸子氏 ユニバーサル ミュージック(株) 常務取締役 CFO
ユニバーサル ミュージック(株) 常務取締役 CFO
今回ご登場頂いたのはユニバーサル ミュージック(株) 常務取締役 CFO 鈴木伸子氏です。大学在学中に外務省へ入省され、その後MBAを取得。アメリカの製薬会社 イーライ・リリー&カンパニーでは財務のエキスパートとして活躍された鈴木氏。そんな輝かしい経歴をお持ちの鈴木氏が全く畑違いの音楽業界に移られる契機となったのは、あの阪神大震災でした。
プロフィール
鈴木伸子(すずき・のぶこ)
ユニバーサル ミュージック株式会社
常務取締役 CFO
東京都出身
1972年 津田塾大学在学中に外務省入省 (1985年まで外交官として勤務)
1977年 津田塾大学国際関係科卒業
1980年 トリニティ・カレッジ、ダブリン大学の特別聴講生(国際私法専攻)として留学
1987年 米国ミシガン大学MBA(財政学専攻)卒業
同年 イーライ・リリー&カンパニー入社
米国本社勤務を含め、アジア地域における財務戦略及び日本国内における
戦略企画・商品分析・財務企画・経理等 担当
1995年 ポリグラム株式会社(現ユニバーサル ミュージック株式会社)に
チーフ ファイナンシャル オフィサーとして入社
同年 取締役就任、管理本部長 総務本部長を委嘱
1997年 常務取締役就任、現在に至る
- 大学在学中に外務省入省
- 素晴らしいめぐり逢いからイーライ・リリー&カンパニー入社
- 転機となった阪神大震災
- 音楽業界と製薬業界の共通項
- 石坂敬一氏との二人三脚〜バックオフィスの改革
- ユニバーサル ミュージックが目指すもの
1. 大学在学中に外務省入省
--ご紹介頂いたグーフィー森さんが、「今話していて一番面白い音楽業界人」ということで、今回鈴木さんにご登場頂いたんです。
鈴木:私は業界の常識が全然わかりませんし、同時に「業界外の考え方」がこの業界内だと通用しない場合がありますが、そういうミスマッチがグーフィーさんには面白いのかもしれませんね。
--とても刺激的な業界人だとグーフィー森さんは仰っていましたよ。
鈴木:それは私が業界に慣れていないということですよ(笑)。
--そのグーフィー森さんとの出会いはどのような感じだったのですか?
鈴木:やはり’00年に福山(雅治)さんがユニバーサルのアーティストになったのが直接のきっかけですね。私は’95年にユニバーサルの前身であるポリグラムに入社以来、’00年までは社内を整理する仕事が中心で、’00年になってやっと外とのお付き合いや社外との会議に出るようになったんです。私は制作に限らずわからない部分が結構ありまして、制作費や宣伝費あるいはツアー・サポートにはこれだけ要るというような話から、「どうしてこれだけかかるのか?」「どうしてこういう風にやらなくてはならないのか?」という話を聞き始めた中で、「グーフィー森さんに会わせて欲しい」とご紹介して頂いたんですね。
--グーフィー森さんの第一印象はいかがでしたか?
鈴木:音楽業界には変わった人がいるので、ある程度慣れているつもりだったのですが、季節を問わず半ズボンの人は彼が初めてでしたね(笑)。ですから彼と食事をするときは「半ズボンでいいところ」という条件がありますね(笑)。
--さすがに半ズボンだと入れない店もありますからね(笑)。
鈴木:私もグーフィー森さんも食べることがすごく好きで、「何か食べに行きましょう」というのが最初でした。
--ところでご出身はどちらなんですか?
鈴木:東京です。新宿の花園神社のすぐそばで生まれたんですが、ある種恐ろしい環境ですよね(笑)。
--子供が育つような環境じゃないですよね(笑)。
鈴木:花園神社で七五三をして、新宿御苑で遊ぶような感じでしたね。家は商売をしていたんです。
--どのようなご商売をされていたんですか?
鈴木:乾物で魚、塩、味噌、醤油といったものを扱っていたんです。私は全然記憶がないのですが、お店が忙しくなると面倒を見てくれていたお手伝いさんが筋子とか魚が入っていた空の樽の中に私を入れていたそうですから、そういうところから非常に食い気が発達したのかもしれませんね(笑)。
--ずっと新宿にいらっしゃったんですか?
鈴木:いえ、新宿は幼稚園に上がるまでですね。だから私自身新宿の記憶はほとんどないです。
--でも、何かは残っているんでしょうね。
鈴木:凛々しくないところと言いますか、そういうところは多分新宿の環境が残っているのかもしれませんね。
--その後の経歴を拝見するとたいへんな才女でいらしたようですが、大学在学中に外交官の試験にパスされたわけですよね?
鈴木:私は割と飽きっぽいんですね。津田塾大学に入ったんですが高校まで共学だったので、女子大というものに新しい感じがしたんです。でも、女子大にも段々飽きてきて「何か他にないかな?」と考えていたんですね。それで大学2年以上の資格があれば受けられる試験が幾つかあることがわかりまして、それは外交官もそうですし弁護士もそうなんですが、弁護士は試験の内容を見たら「難しくて駄目だな」と思ったのに対して、外交官の試験はごく普通の試験だったんです。
--えっ…そうなんですか?
鈴木:数学や法律といった専門的な試験と違って一般的な試験で、しかも受かると1年間国内研修をして、その後海外に行けるということで「こんな楽勝はないな」と思ったんですよ。それで試験を受けて、ラッキーだったのか受かったんです。
--一回目であっさり合格されたんですか?
鈴木:そうですね。ただ、そんなに難しい試験ではないんですよ。
--…そうなんですか?(笑)
鈴木:だって、大学を卒業しなくてもできるくらいの試験ですからね。でも、後で大学は卒業したんです。大学を中退して外務省に入って、海外へ研修に行ったんですが、そうすると向こうの人から「何をしていたの?」と聞かれて「大学をドロップアウトした」と言うと、みんなビックリしちゃうんですよ。それで「これはちょっとまずいのかな?」と思いまして、日本に帰ってきたときに再入学の手続きをしたんです。
--おいくつで海外に行かれて、おいくつで日本に戻られたんですか?
鈴木:その研修は本当に短かったので22歳で行って、24歳で戻ってきました。それで津田塾に入り直したんですが、単位は3年までに取得していたので、あとは卒論だけだったんですね。その頃、外務省で若い外交官に国連を経験させるというプログラムがあって、そのポジションが空いてるというので、「ニューヨークに行かせて欲しい」と手を挙げたんです。国連は色々な会議に出て勉強してくださいというところなので、実は何の仕事もないんです(笑)。しかも国連の図書館には立派な本が一杯あったので、それを使って卒論を書いて、大学の先生がたまたま夏の間だけ西海岸で教えていらしたので、卒論のインタビュー(=面接)をして頂きました。
--同じ大学から同期で外交官になられた方はいらっしゃるんですか?
鈴木:先輩はいらっしゃいますし後輩もいますけど、同期はいませんでしたね。
--同期で入省された方は、何人くらいいらっしゃったんですか?
鈴木:全部で40何人ではないでしょうか。
--でも女性は少ないですよね?
鈴木:3、4名ですね。
--いくらラッキーといっても、それはやはり実力ですよ。
鈴木:私はツイている方だと思っているんです。大学に入るときも東京大学の入試がストでなかったときで、それで慶応に行こうか津田塾に行こうか考えていたら、親から「慶応は男がいて、ゲバ棒を持つからやめてくれ」と言われたので(笑)、女子大である津田塾にたまたま入って、その後外務省に入省しましたけど、外務省は女性が少ないじゃないですか? 男性がすごく多いのでチヤホヤされて遊び呆けてたら、「あいつは仕事をしない」と噂がたちそうになって、それこそドロップアウトしそうになったので「これはまずい」と思い海外へ行ったんです。外務省は割と進んでいるといいますか、手を挙げてそのポジションが空いていれば行かせてくれるので、それでイスラエルに行ったんですが、そこで日本人が奥さんのアメリカ大使館員と知り合いになって、色々な話をしているうちに「君は大学院に行くべきだ」とアドバイスされたんですね。
--それでミシガン大学の大学院にお入りになったわけですね。
鈴木:そうです。大学院にはいくつか受かったのですが、その中からミシガンを選んだのは安かったからなんです。外務省からお金を出してもらえず、自腹で行かなくてはならなかったので。
--大学院へは外務省に所属したまま通わせてくれるんですか?
鈴木:いえ、それは大変優秀な人たちだけで、私は優秀じゃなかったので(笑)、そういう対象にしてくれないんですね。ですから、自分から外務省を辞めて大学院に行ったんです。外務省の場合、いったん辞めて、何かをやった後に戻るという人が結構いるんです。そういう意味では「また戻ってくればいい」と気楽に考えてミシガン大学に行ったので、辞めることに対して悲壮感はなかったですね。
--先ほどアメリカ大使館のご友人とお話をしているうちに「大学院に行くべきだ」と言われたと仰いましたが、何を話されていたんですか?
鈴木:私がイスラエルに行ったときはイスラエルがレバノンに進攻したときで、イスラエルではインフレで毎日物価が上がるんですね。ドルはあまり変わらないんですが、イスラエルの通貨であるシェケルはどんどん上がるわけです。日本人の感覚からすると、インフレ時は人々が買い急ぐ印象があったのですが、イスラエルの人たちはそういう行動が皆無だったんですね。それで「何故この国は落ち着いてインフレを受け入れられるんだろう」と思って、アメリカ大使館の友人に聞いたんですね。
--何故イスラエルの人々は落ち着いていられたんですか?
鈴木:海外のユダヤ人から見ると、イスラエルに住んでいる人は海外の色々なものを捨ててイスラエルという国の建設に関与し、そこに住んでいるという感覚がすごくあって、海外のユダヤ人はイスラエルに住んでいる人々に対してある種の罪意識があるそうなんです。だから海外に住んでいるユダヤ人たちがイスラエルにお金をすごく送るそうなんです。しかもアメリカからの支援もあるので、基盤にドルの強い経済があり、表のシェケルに関してあまり気にしないんですね。では、どういった形でお金が入ってきて、どういう風に使われるのか? という話をする中で、もう少し基本的な仕組みを勉強するには理論を勉強するのではなくて、どういう風にお金が動いていて、流れていくのかという現実的な部分を知る必要があったので、だったら大学院に行くのが一番だという話になったんです。
--それでMBAをお取りになったと。
鈴木:そうですね。
--結局、外務省には何年在籍されたのですか?
鈴木:13年いました。
--音楽業界で外務省のことを知っているのは、おそらく鈴木さんだけだと思うんです。私もテリー伊藤さんの「お笑い外務省」でしか外務省を知らないのですが(笑)、外務省ってああいうところなんですか?(笑)
鈴木:私もその本を読んだのですが、あそこまで酷くないと思います。外務省は独自に決定できることが少ないんですよね。例えば、色々な国に対するODAも通産省やそれ以外の省庁との話し合いがありますし、経済交渉になると外務省は担当省じゃないので、それぞれの担当省と一緒に会議に出るわけです。
--色々な人をつなぐ役割が大きいわけですね。
鈴木:そうですね。そういう意味で外から見ると「ろくに仕事をしてないじゃないか」と思われるのかもしれません。
--私たちからすると、ペルーの青木大使のようなのイメージを持ってしまうんですよ(笑)。くわえタバコのインテリヤクザというような…。
鈴木:外務省は個性を殺さないので、皆さん個性豊かなんですね。それだからこそ成立するところがありますしね。
--他の省庁だとあり得ない?
鈴木:多分そうですね。役所としては極めて自由な組織だったんだろうと思います。
--居心地は良かったですか?
鈴木:良かったと思いますね(笑)。
--外務省は中庭も芝生でとても立派ですものね。
鈴木:そうですね。海外の大使や使節団はまずあそこに来ますからね。
--なるほど、「迎賓館」的役割も兼ねているわけですね。
鈴木:迎賓館はどちらかというと宴会といった方で使われますが、会議や着任の挨拶はまず最初に外務省へ来ていましたからね。
--結局、鈴木さんは何カ国回られたんですか?
鈴木:住んだという意味では、学生時代を含めるとアイルランド、アメリカ、イスラエル、シンガポールの4ヵ国です。ただ、業務上で行ったところはもっと多いですね。
--その4ヵ国に住まれた経験は、今日に大きな影響を与えていますか?
鈴木:多分そうだと思います。それぞれ違った文化があったので、そういったものと接触した経験は役に立っているんだろうと思いますね。
2. 素晴らしいめぐり逢いからイーライ・リリー&カンパニー入社
--ミシガン大学でMBAをお取りになってから、イーライ・リリー&カンパニーに入られるわけですが、外務省に戻るという考えはその時になかったんですか?
鈴木:戻ろうかなと思ったんですが、「給料は上がらない」と言われたものですから(笑)。私は外務省に入ったときに大学を卒業していなかったので、同期の中でも給料は低かったんですね。それをキャッチアップするのに何年もかかって、「大学院が終わったから給料上げてくれるんですか?」と聞いたら、「辞めたときの給料から開始する」というので、それではちょっと間尺があわないと思って(笑)、それで他の会社はないかなと考えていたんですね。
--民間への就職を選ばれたわけですね。
鈴木:私は財務を専攻しましたからインベストメントバンクに行く話があって、インタビューも終わって、そこに殆ど決めていたんです。MBAの時のインタビューは色々な会社が学校に来て、「こんな会社です。興味ありませんか?」と小さなパーティーみたいなものを開くんですが、そこに行くとフリードリンクにフリーフードなんですね。私は寮生活だったのでこんないいことはないと、就職は決めていたんですがあちこちに顔を出して、タダ酒・タダ飯を頂いていたんですね(笑)。その中の1つがイーライ・リリーでインディアナポリスに本社があるんですよ。当時「アメリカにいる間に州をできるだけ回ろう」と思っていたんですが、インディアナポリスは何にもないので、行ったことなかったんですね。
そもそもインタビューというのは「興味があります」と会社にレジュメを出して、それを向こうが見て「本社へどうぞ」という形で進められるんですが、会社側もいい印象で入社してもらおうと考えているので、その時はいいホテルに泊まらせてくれてくれるわけです。それで「これはいい! インディアナポリスに無料の旅行ができる!」と思って(笑)、イーライ・リリーにレジュメを出して、インディアナポリスに行って、インタビューで色々な方にお会いする中に、話をしていて「すごい人だな」と感じた財務担当の方がいて、「この人と一緒に働けるのなら、銀行は後でもいいかな」と思ったんですね。その後イーライ・リリーからオファーを頂いたときに、その人の下で働くことを条件にしたら「いい」と言われたので、銀行に行くはずだったのが薬屋になったわけです。
--まさに素晴らしいめぐり逢いだったわけですね。
鈴木:そうですね。そしたら入るはずだったインベストメントバンクが、ジャンク・ボンドを出して潰れたんですね。イーライ・リリーに入って、しばらくしてそれが起こったので「私もツイてるな」と思ったんですよね。もし銀行に入っていたら、今頃どこに行けばいいのかもわからず、ニューヨークでウロウロしていたかな…と思いますね。
--それは確かにツイていますね。そのイーライ・リリーの上司の方は、今でもイーライ・リリーにいらっしゃるんですか?
鈴木:彼の下で1年働いて、別のところに移って、それで日本に帰ってきたんですが、彼は他の何人かと別の会社を作って、イーライ・リリーを辞めたので今はいらっしゃらないです。
--頂いたプロフィールには「アジア地域における財務戦略及び日本国内における戦略企画・商品分析・財務企画・経理等担当」と滅茶苦茶難しそうなことが書かれているのですが、具体的にはどのようなことをされていたのですか?
鈴木:日本の場合、海外の製薬会社が100%のオペレーションをすることが’80年代の後半まで認められていなかったんですね。ですから、それまでは日本の企業を通じて物を売る形しか認められてなく、イーライ・リリーは長年シオノギさんから商品を売っていたんです。ですからシオノギさんの近くということで神戸にオフィスを構えていて、シオノギさんと本社の間に立って調整役をやっている、本当に人数の少ない会社だったんです。それが日本の法律が変わって、外資の製薬会社が100%の子会社を日本に設立できることになったので、それに伴って「子会社設立の資金をどうやって調達するのが一番いいのだろうか?」というようなことを私はやっていました。
具体的には為替レートが影響しないプランを考えたり、日本で営業マンを何人採用して、どういう風に全国に配置するか? どこに営業所を持つか? といったことも考えるんですね。日本で言えば企画部と呼ばれるものに近いかもしれません。そういうことをやった後に音楽もそうですけど急速に発展するためには日本の企業との提携や、場合によってはM&Aが必要ですし、特定の商品を別の会社にライセンスして作っていただくということも必要なので、日本の企業さんとの話し合いに参加したり、あとは通常のビジネス・プラン(=予算)を作ったり、経理をやったりと色々な仕事をしていました。
3. 転機となった阪神大震災
--そして’95年にポリグラムへ移られるわけですね。
鈴木:そうです。今に繋がってくるところですね。実は私は’95年1月17日の阪神大震災に遭っているんですよ。しかも、震災の丁度一年前にマンションを買ったんです。
--えっ! そうなんですか…。
鈴木:会社が神戸でしたからね。私は神戸がすごく好きなんですね。なぜかというと海と山がすごく近いので、日曜日の10時頃に起きて「よし、今日はエクササイズで山に行こう」と思ったら、六甲に行って有馬温泉に浸かって帰ってこれますし、海が近いですから魚は美味しいですしね。
--神戸は海と山のどちらにも恵まれているんですね。
鈴木:あと、お酒は灘のお酒ですから美味しいのがありますし、古い街なので、お菓子は和菓子も洋菓子も美味しいです。私の友達にも神戸生まれの神戸育ちの神戸っ子がたくさんいまして、「なるほど、これだけいいと出ていくのが嫌だろうな」と思うくらいに私も気に入ってました。
--それで身をもってあの地震を経験されたわけですね…。
鈴木:ええ。あの時は横に揺れるんじゃなくて、ドドドっと突き上げる感じだったんです。なので最初は「どこかに飛行機が落ちたのかな?」と思ったんですね。それで突き上げが終わったら、横揺れがきたんで「地震だ!」と思って飛び起きました。
--建物は無事だったんですか?
鈴木:いや、新築だったのに全壊扱いだったんですよ。あの辺でも割と高さのある建物だったんですが、それが何度か傾くと全壊認識なんですね。
--中は住める状態だったんですか?
鈴木:住める状態でしたけど、入り口のドアはひしゃげちゃって動かないですし、電気がないから真っ暗でしたね。
--それでは外にも出られないですね。
鈴木:地震だとわかった後に洋服を着て、外に出ようとしてもドアが開かなくて、ドアを叩きながら叫んだんです。それを周りの人が聞いて「ベランダに出て、隣のうちに行け」と言ってくれまして、ベランダの境を壊して隣の家から外に出たんですよ。
--鈴木さんも含めて住民の皆さんはそのマンションから避難されたのですか?
鈴木:近くに実家とか行くところがある方はマンションを出られたのですが、私のように他から来ていて、そこにいるしかない人たちが10世帯くらい残って、自衛隊の救援が来るまで一緒に水を探しに行ったり、食べ物を出し合ったりしていましたね。今までマンション内での付き合いはあまりなかったのですが、そのおかげでマンションの人たちと仲良くなれました。
--戦友になりますからね。
鈴木:そうですね。一緒に戦ったという気持ちがあって、今でもその方達とは交流があります。
--そういう生活はどのくらい続いたのですか?
鈴木:最初の1ヶ月はラジオが一個しかなく、情報が入ってこないような生活だったので、大阪の被害の方がもっと酷いと思っていたんです。あと自分の会社がどうなっているのかと心配していましたから、地震から一週間くらい経ってから会社へ行って、会社の人間がどうなっているのか調べて、とりあえずは大丈夫だということがわかりホッとしました。会社の建物自体も被害を受けたので、地震から一ヶ月経ってから事務所を大阪に移したんですが、社員には「それまでは会社に来なくていいから、自分の家を整理しなさい」という指示が会社から出ていました。
--水・食料以外に一番困ったことは何でしたか?
鈴木:冬だったのでどうしてもお風呂に入りたくなるんですね。
--災害時はお風呂とトイレが大変なんですよね。
鈴木:ええ。水洗トイレは完全に動かなかったですからね。山の方は被害が少なかったので、そっちの方へ行くとラブホテルが多くあるんですが、そこが親切にもお風呂を開放してくれたんですね。あとダイエーさんが食料品から着るものまで、ものすごく安い値段で放出してくれて助かりました。ですから、それ以来ダイエーさんを利用するようにしています(笑)。
--結局マンションは全壊扱いで取り壊しになってしまったんですか?
鈴木:いや、3年くらいかけて傾きを元に戻したんです。
--いまでもそのマンションはお持ちなんですか?
鈴木:東京に来てからしばらくは持っていたんですが、「もう少し東京にいるだろうな」と思って手放しました。
--そのマンションをお買いになってから、実質どのくらいで震災に遭われたんですか?
鈴木:半年です。
--半年ですか…。
鈴木:ですから、地震直後に「借金をどうしよう…」と思いましたね。その借金を返さなくてはならないということが、東京に戻ってきた理由の1つなんですが、あと神戸で地震はないと言われていたのにあって、次は東京だと当時言われていたので、親の近くにいないとまずいという気持ちがあったんですね。
--地震が会社を移られる引き金となったんですね。ポリグラムに入社されたのは、まさに’95年ですものね。
鈴木:そうですね。
--やはり住宅ローンは結構残っていらしたんですか?
鈴木:ええ。借金があるっていうのは強いです(笑)。「この借金をとにかく返さないと」と思いましたね。
--地震保険には入っていなかったのですか?
鈴木:「神戸は地震がなくていい」なんて言っていたくらいですから、一円もかけていなかったんです。火災保険には入っていましたけど、火災にはなっていないので下りないんです。
--見舞金みたいなものはもらったんですか?
鈴木:11万くらいもらいましたね。
--それ以外に修繕費とかそういった形ではなかったのですか?
鈴木:新聞を見ると皆さんすごくお金を送ってくれたでしょう? ですから最初に出た噂が「義援金が私たちの手元に送られてくるだろう」ということで、しばらくしたら「全壊だから特赦があって、ローンがなくなるだろう」と言われたんです(笑)。だから「そうか、日本も悪くはないな」と思ったら嘘八百で(笑)。
--でも、すごく辛い記憶ですよね。
鈴木:そうですね。でも、その当時は泣くという感覚じゃなかったです。とにかく水を探してとか、日々生活するので精一杯でしたからね。
4. 音楽業界と製薬業界の共通項
--先ほど「ツイている」と仰っていましたが、ある意味では怪我もなさらず、ご無事でよかったですよね。
鈴木:借金に関しては「どうやって返そう…」と思いましたけどね(笑)。直すのにもお金がかかりますし、ローンも残っていますしね。そうしたらユニバーサルのお話を頂いて、私としては親がいる東京に近くなるし、お給料も上げてくれると言うので「そうか、これはまたいい話だな」と思って移りました。
--どこを通して、ユニバーサル ミュージックからのお誘いがあったのですか?
鈴木:あるヘッドハンティング会社からお話を頂いたんです。
--そうなんですか。私はてっきり石坂敬一さん(石坂敬一氏:ユニバーサル ミュージック(株) 代表取締役社長兼CEO)と飲み友達だったとか、そういう話かと勝手に思っていました(笑)。
鈴木:全然違いますよ(笑)。一般的な印象としては外務省も製薬会社も堅いじゃないですか? それに私は超が付くくらいの音痴でして(笑)、カラオケが苦痛で苦痛で…。それこそソニーの盛田(昌夫)前社長とかビクターの澁谷(敏旦)社長は、本当にお上手なんですよ。
--盛田さんはそんなにお上手なんですか。
鈴木:上手いですね。この業界の人って本当に上手いですね。テイチクの飯田(久彦)社長もお上手ですし。
--飯田さんはもともとプロですからね(笑)。
鈴木:そうですね(笑)。今でも惚れ惚れするようなお声です。
--ヘッドハンティング会社からお話が来たときは、即決だったのですか?
鈴木:いや、他の会社からもお話を頂いていましたし、全然違う分野で自分が今までやってきたことが使えるのか? という不安もありましたからね。そういう不安な状態の中で石坂社長にもお会いしましたし、ロンドンや香港の方とか色々な方とお会いしてお話をしているうちに、投資金額が多くて成功率が低いという意味では、音楽も薬も似ていると思ったんですね。
--薬もそんなに博打っぽいんですか。
鈴木:ええ。そういった意味で「そんなに違わないのかな?」と思いましたね。
--どちらもリスクがあるビジネスなわけですね。確かに「売れた後はタダ同然」というところも似てますね。
鈴木:そうですね。その頃は気づかなかったんですけど、音楽も薬と同じく商品を出した後もそれで終わらないじゃないですか? コンピレーションしたり、もう一度レコーディングしてみたりとか2度目3度目の活用になるでしょう? イーライ・リリーは医科向けでしたから最初は注射なんですね。注射から最終的には錠剤になったり、子供向けのシロップがあったり、さらに行くと店頭といって普通の薬局で処方箋なしで買えるようなところまで行くんですよ。
--1つのネタで何回か商売をすると。
鈴木:そういう意味でも似てるなと思いましたけどね。
--似てるなと思って入られた音楽業界と製薬業界の一番の違いは何ですか?
鈴木:薬の場合、売り上げの中で7、8割がいわゆる“旧譜”に近いものなんですね。すでに開発されていた商品がたくさんあって、新薬はなかなか出ませんし、出ても最初から売れるわけではなくて、何年かしていくうちに売り上げが上がるんです。対して、うちの会社をしばらく眺めていると旧譜の売り上げはほんのちょっとで、7割近くを新譜で商売しているんですね。ですから入社当時にポリグラム・インターナショナルのトップと会ったときに、「こんなに新譜に頼っていていいのですか?」と伺ったんです。そうしたら「レコード会社はそれじゃなきゃ駄目だ」と言われたんですね。「もちろん旧譜は大事だけど、やはり新譜がキッチリ売れていかないと駄目なんだ」と言われて、それが薬と音楽との一番の違いだと思いましたね。
--ただ、音楽業界もベーシック・カタログを持っているところが不況にも強いという側面がありますよね。
鈴木:そうですね。でも、薬ほど旧譜に頼った商売でもないので、圧倒的に新譜を成功させることが重要なんですね。
--しかも新譜は出た瞬間が勝負ですものね。
鈴木:そうですね。
--製薬会社の同僚や外務省の同僚と較べて、音楽業界の中にいる人間に対してはどのような印象を受けましたか?
鈴木:外務省の方が近いかな? と思いましたね。例えば条約局にいる人たちは細かいと思うんですが、全員が条約局にいるわけではないですし、役所ですから2年のローテーションで仕事が回るので、割とアバウトなんですね。
--そういった意味では違和感がなかったですか?
鈴木:そうですね。私自身、極めてアバウトなところがあるんですね。ですから「極端に違う」とは感じませんでした。やはり同じ人間なので、基本的なところは一緒なんじゃないでしょうか。
--薬の業界の方がもっとキチッとした業界なんですか?
鈴木:先ほどもお話しましたが、薬の業界は性格的に博打みたいな側面があるので、割とアッケラカンとしているわけです。外務省は全体的にアバウトで、薬はあまり失敗にこだわらないところがあって、私の下地にそういう部分があったので音楽業界に入ったときに馴染みやすかった感じはしますね。
--先ほどご自身のことを「アバウトな性格」と仰っていましたが、普通財務系の人というと「細かい」イメージがあるのですが。
鈴木:私自身が職業的に経理マンで来た人間じゃないんですね。外務省にいたときはお金の計算なんか全然しませんでしたし、私の経理的・財務的な理解というのはビジネススクールで教わったところから始まっているんです。理論でやっていたことをイーライ・リリーで実践を積ませてもらったわけです。イーライ・リリーという会社は人をトレーニングして育てていこうというのが会社設立時からのモットーで、そういう意味ですごくいい会社なんですね。
--外資というともっとドライなイメージがありますけどね。
鈴木:アメリカの会社は業績が悪いとすぐに人を切っちゃうなんて嘘です。GEにしてもGMにしても会社のカルチャーや積み上がっていく知識をすごく大事にしているんですね。それがあって初めて、新しい人が入ってきても動いていくところがあるので、終身雇用じゃないんですが、長く勤めてもらうことを心掛けていますし、いい会社というのはみんなそうだと思います。日本でもアメリカでもヨーロッパでもそれは同じです。雇用は長ければ長いほどいい、ただし給与や昇給はパフォーマンスに従って、働いた人に多く働かない人にはそれなりにという形がハッキリしているんですね。
--確かに外資は「すぐに人を切る」と思われがちですね。
鈴木:イーライ・リリーにも30年、40年お勤めの人もたくさんいましたし、今もイーライ・リリーで働いている元同僚もたくさんいます。確かに銀行系は業績が悪いと縮小して、業績が良いと拡げてというようなことをしますが、少なくとも製造をやっているところや長く続けている小売店は、どうしても文化を継承する部分があるので、そういった極端なことはしないですね。
5. 石坂敬一氏との二人三脚〜バックオフィスの改革
--鈴木さんがユニバーサル ミュージックにもたらしたものは何だとお考えですか?
鈴木:私は音楽業界の外から来たので音楽業界の在り方やレコード会社の在り方に対して、「どうしてこうやるのか?」という部分があるんですね。人そのものはたいして変わらないんですが、「何でこんな風にやっているのか?」という部分がバックオフィス的にすごくあったので、そういった部分を意図的に変えていったのと、あとはIT化ですね。ユニバーサル はIT化がすごく遅れていたと思いますね。
--それはレコード・メーカー全体ですよね。
鈴木:ユニバーサルもすごく遅れていて、ITの人間もほとんどいなかったような状態でしたから、IT化をしてIT専門の人間を採用しました。それから権利関係をしっかり文書にして、みんなにわかるようにしなくてはならないんですが、独立した法務がなかったので、法務を作って制作や宣伝が相談できる形を作りました。つまりバックオフィスを整えて、それぞれの役割を明らかにして、そこにプロの人間を雇うというのが、最初にやらせてもらったことだと思います。
--一番理解できなかった「音楽業界の慣習」は何でしたか?
鈴木:アーティストさんに銀行業務のようなことをやってましたよね。
--それはアーティストに対して「お金を貸し付けている」ということですか?
鈴木:貸し付けるといいますか、アーティストにアドバンスをして、回収できなくて、次のアドバンスをするとか。
--不良債権だらけじゃないかと。
鈴木:ええ、そういう感じはありましたね。あと外資なんですが日本の商法に則って月次を締めて、それを海外の形に合わせるというようなことをしていて、仕事の進め方がこういう順番では本社への報告が遅れて文句言われるなと思いましたね。
--アーティストにアドバンスするという形は今減ってしまったんですか?
鈴木:そんなことはありません。ただ、我々もリクープできないと困るので、リクープはどのくらいできて、アドバンスの絶対額はどのくらいなのか? ということを考えるということですね。必ずしも売り上げに応じてしかアドバンスを出さないということではなくて、少なくとも制作の人はそういうことをまず考えると。
--考える習慣が今までなかった?(笑)
鈴木:習慣がなかったのかどうかはわからないんですが、そういう発想になっていただけたのは、トレーニング・セミナーを設けたり色々なことをやってきた結果だと思います。
--鈴木さんがいらっしゃるまでは、それぞれの担当のいわゆる「勘」と言われるもので、全てが動いていた感じなんですかね?
鈴木:そう思いますね。
--鈴木さんが行った改革によって、社内の人との摩擦は多少なりともおありでしたか?
鈴木:私は今も大変評判が悪いんだと思います(笑)。私はすごく言葉を端折って喋るので、それをよく石坂社長が通訳してくれていますね。石坂社長とは最初の4年くらいは毎朝1時間くらいミーティングしていたんですよ。
--石坂さんは朝がお早いと伺っています。
鈴木:そうなんですよ。対して私は朝が全然駄目なんです(笑)。それが「朝8:30に会社に来い」と言われて、朝1時間から1時間半のミーティングを毎日ですからね。石坂社長は7:30くらいには会社に来てて…。
--それで石坂さんは何時まで会社にいられるんですか?
鈴木:石坂社長は遅いでしょうね。でも会社の中にいるんじゃなくて、外で仕事をやっていますからね。
--猛烈な働き方をされ続けているわけですか。
鈴木:そうですね。仕事一筋だと思います(笑)。
--そのエネルギーはどこから来るんでしょうかね?
鈴木:「NO.1になるんだ!」という執念でしょうね(笑)。
--石坂さんとはすぐに理解し合えましたか?
鈴木:すぐに理解し合えたとかじゃなくて、まず相手が何をやっているかを理解しないとしょうがない、というところから付き合いが始まりましたね。バックオフィスとしては経理面やキャッシュフローを石坂社長に理解していただかなくてはいけませんし、石坂社長にしてみれば、制作と宣伝とアーティストとの関係がどうなっているかをわからずしてバックをやられるとどうにもならないわけです。したがって彼は早くそういった部分を私が認識するようにしなくてはならなかったですし、こっちはこっちで理解して頂かないといけないので、方向性は違えどニーズが一緒だったんですね。業務上の必要性からお互いを認識しなくてはならないというところから始まっていると思います。でも石坂社長と私は会社の目標としては同じ方向性なんですけど、アプローチの仕方が全然違うんですね。
--どの辺で一番食い違うんですか?
鈴木:私は基本的に直線的なんです。とにかく一番近い道で行くのに対して、石坂社長は回りつつ行くんですよ。
--意外ですね。
鈴木:彼は割と直線的なことを言っているんですが、実際にそれが行動として現れるときは回ってから中に入っていく傾向があって、今でも石坂社長からは「お前はそれが足りない」と言われますね。
--でも、パートナーとしていい関係なんですよね。
鈴木:そうですね。話し合いとお互いの理解の結果として、バックオフィスについてはほとんどこちらに任せてもらっています。
--衝突する場面はあるのですか?
鈴木:しょっちゅうあります。
--鈴木さんは石坂さんとやり合える唯一の方なんですか(笑)。
鈴木:そんなことないですけどね(笑)。でも私が「お言葉を返すようですが…」とか言うと、「そんなことを言わなくても、お前はしょっちゅう言葉を返している!」と言われます(笑)。
--石坂さんの「ここだけは許せない!」という部分はおありですか?(笑)
鈴木:仕事的に彼はずっとA&Rをやってきて、それでずっと来ている人ですから、どうしても制作寄りなんですよね。
--ちなみにプライベートで石坂さんとお会いすることはあるんですか?
鈴木:いえ、全くないです。彼は基本的に仕事マンなんです。週末に朝早くから会社へ来ても平気ですし、会議へは30分早く来ます。対して私はどうしても1、2分遅れる(笑)。それで「今日は早かったな」と思うと、それでも石坂社長からは「遅い」と言われて、「いや、私の時計では2分前ですけど」と言って、また怒られて(笑)。ですから、一番困るのは朝早いのと時間が早いことですね。
--石坂さんは「たまには家でゆっくりしたいな」とか思われないんですかね?(笑)
鈴木:彼は本当に仕事が好きなんだろうと思いますね。この業界に来て思ったんですけど、本当にそういう方が多いと思います。
--プライベートと仕事の境目がよくわからない?
鈴木:ある意味、好きなことを仕事にしているという部分があって、普通好きなことを仕事にすると嫌いになる場合が多いじゃないですか?
--そうですね。でも音楽業界は音楽好きで一杯ですからね。
鈴木:ここ数年バックオフィスから外に出始めて、色々な方にお会いするじゃないですか? そうすると皆さんとてもお若いですし、「趣味は仕事」というTOPの方が多いなという印象ですね。音楽業界って非常にラッキーなところなんですよね。音楽業界のほとんどの人たちは、音楽が好きで好きでしょうがない人たちが集まっているわけじゃないですか? だから本当に幸せなんだと思います。
--石坂さんの他に業界内で影響を受けた方はどなたですか?
鈴木:ビクターエンタテインメント現社長の澁谷さん、ソニーではすごく厳しかった五藤さんや丸山(茂雄)さんですね。丸山さんには「君、若いのが(会議に)遅れてきてどうするんだ」と怒られましたし、「遅れてきたくせに文句ばっか言うな」とも言われました(笑)。東芝EMIだと今専務をされている塩谷(誠)さんにはお世話になりました。あと石坂社長が紹介してくれたのですが日音の村上(司)さん、フジパシフィックの朝妻(一郎)さんもそうですね。石坂社長は内からの説明だったんですが、他のレコード会社の方々が「何を理解しなければならないか?」ということを外から教えて頂いて、音楽出版の方からはレコード会社とはまた違った音楽出版というビジネスについて教えて頂きました。私がストレスを感じずに音楽業界に入っていけたというのは、そういう方々がすごく親身になって教えてくださったからだと思います。あと、外から来たんだけど、初めから内側の人間として扱って頂けたのも大きいですね。
--製薬会社時代によその会社との交流はあったのですか?
鈴木:業務上色々な会社と交渉する事はあったのでお会いしてはいましたが、音楽業界の場合のような楽しい交流というのはなかったと思います。
--この業界は割と皆さん仲良しで、まさに「音楽村」ですよね(笑)。
鈴木:良きにつけ悪きにつけ、そういうところがあるんでしょうけど(笑)、私はそれに助けて頂いた感じがしますね。
--でも、それは鈴木さんの人柄も大きいと思いますよ。
鈴木:いや、そんなことないです。本当に評判が悪くて(笑)。
--今まで音楽の話がほとんど出てこなかったんですが、鈴木さんご自身は日常的に音楽を聴く習慣はございますか?
鈴木:音楽は人並みに聴きます。ちなみに私はKinKi Kidsの大ファンなんです(笑)。毎年年末のコンサートは色々コネを使って必ず行ってます。ですから、そういう意味では聞きますけど、知識として折田さん(折田育三氏:元ポリドール(株)代表取締役)や石坂社長のように競い合う気など全然ないですし、ただ生活の中にあったというだけですね。
--ちなみにKinKi Kidsのどっちのファンなんですか?
鈴木:剛君です(笑)。
--彼はジャニーズ史上でも指折りの歌の上手さですよね。
鈴木:そうですね(笑)。
--どうしてもライブを見たいというのはKinKi Kidsだけですか?
鈴木:結構ミーハーですから色々なコネを使って、平井堅さんに行かせてもらったり、ポルノグラフティも好きですし、サザンオールスターズはなんといっても青春の思い出という部分もあるので行かせてもらったりしますね。あと、仕事上でうちのアーティストさんは名前と曲と売り上げ枚数が一致しないといけないですし、その記憶の中に入らないといけないのでライブも行かせてもらっていますが、趣味で行くときは最大限この業界に入った恩恵を使って、あちこちからチケットを頂いております(笑)。その部分に関しては「この業界に入って本当に良かったな」と思いますね。
--新しい薬をもらってもしょうがないですものね(笑)。
鈴木:そうですね(笑)。
6. ユニバーサル ミュージックが目指すもの
--CDが売れなくなって、世界的にレコード会社の利益は減っていますが、そのことに対する危機感はありますか?
鈴木:私は配信によってマーケットは上がると考えています。人間が物を所有したいというのは変わらないじゃないですか? ですから配信がパッケージに取って代わるということはあり得ないので、配信によってお客様が音楽を聴く手段が増えるということは決してマイナスではないと考えています。最終的にはアーティストさんが思いを込めて作ったパッケージを集めておきたいという気持ちは誰もが持っていると思いますし、そういう感覚を持ってもらうための切り口はいっぱいあった方がいいので、その一つが配信と考えています。
--配信はプロモーションの手段ということですか?
鈴木:プロモーションだけではなくて、配信で買うお客様もいていいと思っているんですね。そういう形で音楽を所有したいという方もいらっしゃるでしょうけど、配信から入ったとしても最終的に行き着くところはパッケージだと思っているので、そういう意味では配信はプラスになるだろうし、それが全体の売り上げを上げていくと思います。一番配信が進んだアメリカ市場の動きを見ていると、やはりパッケージは上がってきているんですよね。
--配信はアメリカにおいてAppleが中心ですが、ヨーロッパではユニバーサル ミュージックがかなり先頭を走っていますよね。
鈴木:そうですね。
--では、日本におけるユニバーサル ミュージックの配信の進め方はどのようになるのでしょうか?
鈴木:それはいいとこ取りですね。幸いにしてユニバーサルはアメリカでの経験があり、ヨーロッパでの経験がありますので、その経験から一番いいところを取っていきたいと思っています。その「いいところ」というのはアーティストさんにとっていいというのもありますし、一番大事なのはお客様にとってもいいところであって、ユニバーサルの持つ欧米での経験をできる限り日本のテレコム・カンパニーやサービス・プロバイダーに伝えていくことが我々の役割だと考えています。
--日本がアメリカやヨーロッパと状況が違うのが貸レコードの存在で、貸レコードが普及した日本で果たしてどの程度配信が普及するかという問題もあると思うのですが。
鈴木:貸レコードもいいと思っているんです。貸レコードも存在するし、配信も存在する。ただ今の日本の配信は使い勝手が悪いんですよ。
--例えばアナログ時代に交わされた貸レコードの取り決めに対して、「見直そう」という話はないんですか?
鈴木:見直しについてはないんですけど、3年前に日本コンパクトディスク・ビデオレンタル商業組合(CDV-JAPAN)の方と色々お話をさせて頂きました。現状はその楽曲が何回貸し出されたかに関係なく、1枚幾らという形なんですね。
--1枚分しかもらえていないということですよね。
鈴木:そうですね。少なくとも貸レコードをやり始めた当初というのは、1つの楽曲が何回貸し出されたかを計るシステム的な準備もなく、それをマニュアルでやるのはすごく大変なのでしょうがない部分があったと思うんですが、今はシステム的にできるはずなんです。CDV-JAPANからもそのことに前向きなお返事を頂いていて、「一緒にやりましょう」という話をしていたんですが、ただ1社だけでやっても仕方がないですし、お店の協力がないとできませんので、話をしているうちに別の話が出てきてしまって、現在は止まってしまっている状態なんです。ただ、貸レコードがなくなっていいかといったら、貸レコードにはお客様のニーズがあるので共存する形になると思いますが、配信に関しては今よりダウンロードするのが楽にならなければ全然伸びないと思いますね。
--i-Tunesは便利だから伸びているわけですからね。
鈴木:ただし、配信が日本で全く育たないかといったら、これも時間の問題で、配信をすでにやっているところと、これからやろうとしているところは、お客様の利便性をどうやって確保するかという部分を一番に考えているんですね。ただ、お客様の中でも、例えば同じ旅行するにしても「旅館がいい」と考える人もいれば、「そんなところに行くんだったら国民宿舎に泊まって、その分美味しいものを食べた方がいい」と考える人もいるわけで、色々な形があるじゃないですか? 音楽も楽しみ方が色々あって当たり前で、どういうところでも、どういう形でも音楽が手に入る環境を作る方が遙かに意味があると思っています。
--これからユニバーサル ミュージックが目指すものは何なんでしょうか?
鈴木:ユニバーサルは世界でいくとNo.1なんですね。フランスもイギリスもドイツも、もちろんアメリカもそうですから、日本でも1度はNo.1になりたいと会社として強く思っていますし、そこへ向かって努力していきたいと思っています。
--ちなみに今ユニバーサル ミュージックは順位的に何番なんですか?
鈴木:もちろんその時々で違いますが、2003年度は2位です。
--今週のオリコン(2004年11月8日付)ではユニバーサル ミュージックのマーケット・シェアは1位になっていましたね。
鈴木:ウィークリーでTOPを獲ったことはあるんですが、年間を通すと去年は2位だったんですね。
--では、1位は目の前にあるわけですね。
鈴木:いや、ソニーさんという巨大な存在がありますからね。ただそれは会社の目標だと思うんですが、バックオフィスとしてはやはり「人に投資する会社」ということを、名実ともにわかるような会社にしたいと思っています。
--その「人」というのはアーティストに対しても、社員に対してもということですか?
鈴木:そうですね。男か女か、それから結婚している、していないは会社にとって興味のないことです。また契約社員であるとか、正社員であるとかも関係のない会社にしたいですね。
--そういうものがない方が正しいですよね。
鈴木:ええ。来年がそのための計画の元年になると思っているのですが、その方針を積極的に押し進め、人にたくさん投資して、それが返ってくればいいなと思っています。
--本日はお忙しい中ありがとうございました。ユニバーサル ミュージックの益々のご発展と鈴木さんのご活躍をお祈りしております。
(インタビュアー:Musicman発行人 屋代卓也/山浦正彦)
全く別の業界から移ってこられた鈴木氏は音楽業界の慣習に疑問を投げかけ、ご自身の経験を生かしながらバックオフィスの改革に取り組まれています。先行きが見えない音楽業界には今後鈴木氏のような「外部からの視点」が必要なのではないか? と強く感じました。鈴木氏の目指す「人に投資する会社」へとユニバーサル ミュージックが成長することができれば、おのずと会社の目標である「国内マーケット・シェア NO.1」への道が開けてくるかもしれません。今後もユニバーサル ミュージックに注目です。
さて、次回はQUEENの初来日公演を始め、数多くのコンサートを手掛けてこられた(株)H.I.P(ハヤシインターナショナルプロモーション) 代表取締役社長 林 博通 氏です。お楽しみに!